第12章 ブランドラー派(ドイツ共産党反対派)と

スターリン官僚制

 ソヴィエト国家の利益と国際プロレタリアートの利益とのあいだに矛盾はないし、ありえない。しかし、この法則をスターリン官僚制にまで拡大するのは、根本的に誤っている。この体制は、ますます、ソヴィエト連邦の利益のみならず、世界革命の利益と矛盾してきている。

 フーゴ・ウルバーンスは、ソヴィエト官僚制に目を奪われて、プロレタリア国家の社会的土台を見失っている。オットー・バウアーと同様、ウルバーンスもまた、国家の概念を階級の外に置いている。しかし、オットー・バウアーとは違って、ウルバーンスは、この実例を、オーストリアにではなく、現在のソヴィエト共和国に見出している。

 他方、タールハイマーは次のように主張している。「ソヴィエト連邦に対するトロツキストの態度は、ソヴィエト国家のプロレタリア的(?)性格と経済建設の社会主義的性格に疑問を付しており(?)」(『アルバイター・ポリティーク』1932年1月10日)、「中間主義的」性質を持っている、と。この一文によってタールハイマーは、自分が労働者国家とソヴィエト官僚との同一視をどこまで深化させているかを暴露しているにすぎない。タールハイマーは、ソヴィエト連邦を国際プロレタリアートの目で見るのではなく、スターリン派の眼鏡を通して見るよう要求している。言いかえれば、彼は、プロレタリア革命の理論家としてではなく、スターリン官僚制の従僕として物事を判断しているのだ。この人物は腹を立てているし、不興を買いもしたが、やはり、恩赦を切望している従僕である。それだからこそ、「反対派」にいながらも、タールハイマーはあえて声に出して官僚を名指しすることができないのだ。エホバと同様、そんなことを官僚が許すはずがない。「みだりにわが名を引き合いに出すべからず」。

 共産主義グループの両極はこのようなものである。一方では、木を見て森を見ていないし、もう一方は、森のせいで木々を見分けることができないでいる。とはいえ、タールハイマーとウルバーンスが、ソヴィエト国家のマルクス主義的評価に反対して、官僚制の問題をめぐってお互いに心を一つにしたことは、何ら驚くべきことではない。

 この数年、「ロシアの経験」を脇から十把一絡げ的に――いかなる義務も負うことなしに――「支持」することは、広く普及したきわめて安っぽい商品となっている。世界のいたる所に、ソ連とスターリンに対して、ブランドラー派と同じく無制限の賛意を示す急進主義的、半急進主義的、人道主義的、平和主義的で、しかも「社会主義的」なジャーナリスト、旅行者、芸術家がたくさんいる。かつてレーニンと本書の筆者を猛烈に非難したバーナード・ショー(1)は、現在、スターリンがとっている政策を全面的に承認している。レーニン時代には共産党に反対していたマクシム・ゴーリキーは、今や完全にスターリンの側に立っている。フランスの社会民主主義者と手に手をとりあっているバルビュス(2)は、スターリンを支持している。二流の急進主義的プチブルが発行しているアメリカの週刊紙『ニュー・マッセーズ』は、ラコフスキー(3)に反対してスターリンを擁護している。ドイツには、私が書いたファシズムに関する論文を共感をもって引用したオシエツキー(4)がいるが、そのオシエツキーも、スターリンに対する批判においては私の方が不当であると指摘することが必要だとみなした。老レーデブールは次のように言っている。「スターリンとトロツキーのあいだで争われている主要な問題、すなわち、一国だけで社会主義化に着手し、それを最後まで成功裡に遂行することができるかという問題に関しては、私は、全面的にスターリンの側に立つものである」。

 このような例は、いくらでも挙げることができる。これらすべての「ソ連の友」たちは、脇から、観察者として、シンパとして、時には単なる傍観者として、ソヴィエト国家の問題にアプローチしている。もちろん、5ヵ年計画の友人である方が、ニューヨークの株式取引所の友人であるよりは立派なことである。しかし、それでもやはり、受動的・左翼小ブルジョア的共感は、ボリシェヴィズムからはほど遠い。モスクワが何か重大な失敗を一つ犯せば、これらの連中の大多数は、風に吹かれた塵のように雲散霧消してしまうだろう。

 ソヴィエト国家に対するブランドラー派の立場は、これらすべての「友人たち」の立場といったいどう違うのか? たぶん、もう少し不真面目であるというだけのことであろう。このような支持は、ソヴィエト共和国にとって毒にも薬にもならない。そしてタールハイマーが、われわれ左翼反対派、ロシアのボリシェヴィキ=レーニン主義者に、ソヴィエト連邦に対してどのような態度をとるべきかを教えてくれるとき、われわれは嫌悪の情しか感じない。

 ラコフスキーは、直接にソヴィエト革命の国境防衛を指導し、ソヴィエト経済の最初期からそれに参加し、農民層に対する政策の作成に関与し、ウクライナにおける貧農委員会の創立者となり、ネップの政策をウクライナの特殊条件に適用した。彼は、この政策のすべての紆余曲折を知っている。そして今でも、流刑地のバルナウル[ロシア共和国中南部のアルタイ地方の都市]において、この政策の動きを張りつめた気持ちで日々注視し、種々の誤りに対して警告を発し、正しい道を提示している。流刑地で死んだ古い闘士コート・ツィンツァーゼ(5)、ムラロフ(6)、カール・グリュンシュテイン(7)、カスパローヴァ(8)、ソスノフスキー(9)、コシオール(10)、エリツィン父子(11)、ディンゲルシュテット(12)、シュムスカヤ、ソルンツェフ(13)、ストパロフ(14)、ポズナンスキー(15)、セルムクス(16)、獄中でスターリンに銃殺されたブリュムキン(17)、獄中でスターリンによって虐殺されたブートフ(18)などなど、監獄や流刑地に分散させられた何十、何百、何千という人々はみな、10月革命と内戦の闘士であり、社会主義建設の参加者である。いかなる困難もこれらの人々を恐れさせることはないし、彼らは、最初の危険信号が発せられるやいなやいつでも戦闘配置に就く用意がある。これらの人々が、どうしてタールハイマーから労働者国家に対する忠誠を学ばなければならないのか? 

 スターリンの政策のうちにある進歩的なものはすべて、左翼反対派によって定式化され、官僚の側から迫害の対象とされた。左翼反対派は、計画原理の推進、工業化の高いテンポ、クラークとの闘争、より広範な集団化などを主張したために、何年にもわたる監獄と流刑という犠牲を払わされたし、今も払っている。それでは、ブランドラー派を含めたこれらの無条件的な支持者、シンパ、友人たちは、ソ連の経済政策にいったい何をもたらしたのか? 何ももたらしてはいない! ソ連で起こるあらゆることに対して、これらの連中が行なう十把一絡げの無批判的な支持の背後には、まったくどんな国際主義的情熱も潜んではおらず、あるのはただ生ぬるい同情だけである。何といっても、問題になっているのは、彼らの祖国の外で起こっている事柄だからである。ブランドラーとタールハイマーは、次のように考えているし、ときには口に出しさえする。「われわれドイツ人にとってはもちろん、スターリンの体制は不適当である。しかし、ロシア人にとってはこれで十分だ!」。

 改良主義者は、国際情勢を各国の情勢の総和とみなしている。それに対してマルクス主義者は、国内政治を国際政治の関数とみなす。この根本的問題においてドイツ共産党反対派(ブランドラー派)は、一国的改良主義の立場をとっている。すなわち、ドイツ共産党反対派は、言葉の上ではないにせよ、実践の上では、国内政治における国際的な原理と基準を否定しているのだ。

 タールハイマーの最も近しい同意見者にして協力者は、ロイ(19)であった。インドと中国に関するロイの政治綱領は、東方における「労働者・農民」政党というスターリンの思想に立脚していた。何年にもわたってロイは、インドにおける民族民主主義政党のための宣伝家として振舞ってきた。言いかえるなら、ロイは、プロレタリア革命家としてではなく、小ブルジョア民族民主主義者として振舞ってきた。しかし、このことは、ロイがブランドラー派の参謀本部に積極的に参加する妨げにはならなかった

※原注 ロイは現在、マクドナルド政府によって長期刑に処せられている。コミンテルンの新聞は、このことに抗議すべきだとは思っていない。蒋介石との密接な同盟を結ぶことはできても、インドのブランドラー主義者ロイを、帝国主義的死刑執行人の手から守ることはできないようだ。

 しかしながら、ブランドラー派の一国的日和見主義は、ソヴィエト連邦に対する態度のうちに最も粗野な形で現われる。彼らの言うことを信じるなら、スターリン官僚制は、自分の国ではいかなる誤りも犯していない。ところが、何ゆえか、この同じスターリン派の指導は、ドイツにあっては致命的なのだそうだ。どうしてまたそんなことが? だが実際には、問題になっているのは、スターリンが他の国々をよく知らないために起こる部分的な誤りではなく、誤謬の一定の路線、一つのまとまった方向性なのである。スターリンがロシアを知っているように、また、カシャン、セマール、トレーズ(20)がフランスを知っているように、テールマンとレンメレはドイツを知っている。これらの人々全員がいっしょになって一つの国際的分派を形成し、各国の政策を作成している。ところが、ロシアにあっては非難の余地のない政策が、他のすべての国にあっては革命を挫折させるのだそうだ。

 ブランドラーの立場は、それをソ連内部に移すならば、とりわけ不幸なものになる。ソ連では、ブランドラー主義者は、スターリンを無条件に支持することを余儀なくされている。基本的に左翼反対派よりもつねにブランドラーに近かったラデックは、スターリンの前に降伏した。ブランドラーは、この行動を是認するしかなすすべがなかった。ところが、スターリンは、降伏したラデックに対し、ただちにブランドラーとタールハイマーを「社会ファシスト」として非難するよう強いた。しかし、ベルリンにいる、スターリン体制のプラトニックな崇拝者たちは、この屈辱的な矛盾から抜け出そうとさえしていない。しかしながら、彼らの実践的目的は明白であり、解説するまでもない。ブランドラーはスターリンにこう言っているのである――「君が私をドイツ党のトップに就けてくれたら、ドイツ問題で私の政策を適用することを許してくれるという条件で、私は、ロシア問題における君の無謬性を認めることを約束しよう」。このような「革命家」に敬意を表することができるだろうか? 

 しかし、スターリン官僚制のコミンテルン政策についても、ブランドラー派は、はなはだ一面的に、また理論的に不誠実な形で批判している。彼らにとって、この政策の唯一の欠陥は「極左主義」である。しかし、4年間にわたるスターリンと蒋介石とのブロックを極左主義だと非難することができるだろうか? クレスティンテルン(農民インターナショナル)の創立は極左主義か? スト破りのイギリス総評議会とのブロックを一揆主義と呼ぶことができるか? または、アジアにおける労働者・農民政党の創立、アメリカ合衆国における労働者・農場主政党の創立はどうか? 

 さらに。スターリンの極左主義の社会的本質はいかなるものか? それはいったい何か? 一時的な気分? 病的な状態? この問いに対する答えを、理論家タールハイマーの論理の中に探そうとしても無駄であろう。

 しかし、この謎は、とっくに左翼反対派によって解かれている。すなわち、問題になっているのは、中間主義の極左主義的ジグザグなのである。しかし、この9年間における発展によって確認されたこの規定こそ、まさに、ブランドラー派にとって承認できないものなのだ。なぜならこの規定は、ブランドラー派自身にとって致命的となるからである。彼らは、スターリン派とともに、その右へのジグザグをことどとく遂行したが、左へのジグザグには抵抗した。このことによって、ブランドラー派は、自分たちが中間主義の右翼であることを証明した。ブランドラー派が、枯れ枝のように主要な幹から離れていったことは、まったく事物の成りゆきにしたがっている。中間主義が急激な転換をするたびに、右や左に種々のグループや集団が離れていくのは、必然的である。

 以上に述べたことは、あらゆる問題においてブランドラー派が誤っていたということではない。いや、テールマンやレンメレに対して、彼らは多くの点で正しかったし、今も正しい。これは何も驚くべきことではない。日和見主義者が冒険主義に対する闘争において正しい立場に立つこともありうる。反対に、極左主義的潮流が、大衆獲得のための闘争から権力のための闘争に移行する時期を正確につかむこともありうる。1923年末、極左主義者たちはブランドラーに対する批判において正しい考えを少なからず主張した。しかし、そのことは、極左主義者たちが1924〜25年に最もはなはだしい誤りを犯す妨げにはならなかった。「第三期」の跳ね上がりに対する批判の中で、ブランドラー派が、一連の新しくはないが正しい主張を繰り返したということは、彼らの一般的立場の正しさを証明するものではまったくない。どんなグループの政策も、いくつかの段階をふまえて分析しなければならない。すなわち、防衛的闘争と攻勢的闘争、上げ潮の時期と引き潮の時期、大衆獲得闘争の情勢と直接的な権力闘争の情勢などである。

 防衛ないし攻勢、統一戦線ないしゼネストの問題にそれぞれ特化したマルクス主義的指導部など存在しえない。これらすべての方法を正しく適用することができるのは、ただ、情勢全体を体系的に評価することができる場合のみであり、そこにおける原動力を分析し、もろもろの段階と転換を見定め、その分析をふまえた上でしかるべき行動の体系――今日の情勢に適合し、次の段階を準備するような体系――を打ち立てる能力がある場合のみである。

 ブランドラーとタールハイマーは、自分たちが「大衆獲得闘争」のほとんど専売特許の専門家だとみなしている。これらの人々は、統一戦線政策を擁護する左翼反対派の論拠が彼らブランドラー派からの…剽窃であると、大まじめに主張している。誰であれ功名心を持つ権利はある! 想像してみてほしい。ハインツ・ノイマンに掛算の誤りを説明しているときに、どこかの勇敢な算数教師がやってきて、君は私から剽窃をしている、なぜなら自分も計算の神秘を説明するのに、ずっと以前からまったく同じ方法を使ってきたのだから、と言い放つ光景を。

 いずれにせよ、ブランドラー派の自慢話は、現在の楽しくない情勢にあって、私に楽しいひとときを与えてくれた。これらの紳士諸君の戦略的知恵は、コミンテルン第3回大会に紀元を有している。この大会において、私は、当時の「左」翼に対して、大衆獲得のための闘争のイロハを擁護した。当時コミンテルンによって数ヶ国語で出版された私の著作『新段階』(21)は、統一戦線政策を一般向けに解説することを目的としたものであるが、同書において私は、3回大会で擁護された思想が初歩的な性格を持つものであることを再三にわたって強調している。たとえば、ドイツ語版70頁では次のように書かれている。「まじめな革命的経験の観点からすれば、これらはすべて初歩的な真理である。しかし、大会の幾人かの『左翼』分子は、この戦術を右への逸脱であるとみなした」(22)…。この幾人かの中には、ジノヴィエフ、ブハーリン、ラデック、マスロフ(23)、テールマンと並んで、タールハイマーもいた。

 剽窃という非難は、われわれに加えられた唯一の非難ではない。左翼反対派は、タールハイマーの知的特産物を横取りしたうえに、それに日和見主義的解釈を与えているそうである。この珍妙な言い分は、ことのついでに、ファシズムの政策に関する問題によりいっそうの光を当てる可能性をわれわれに与えてくれるかぎりで、注目に値する。

 これまでに発表した論文の一つで私は、ヒトラーには、議会的な道を通って権力に到達する可能性はないという考えを表明した(24)。ヒトラーが51パーセントの投票を獲得することができると仮定したとしても、そのときが訪れるずっと以前に、経済的・政治的矛盾の増大と先鋭化が公然たる爆発をもたらすにちがいない。この問題との関連で、ブランドラー派は、次のような考えを私に帰している。すなわち、国家社会主義者を一掃するのに、「議会外における労働者の大衆的行動の必要はないだろう」という思想である。これは『ローテ・ファーネ』の作り話よりもましであろうか?

 国家社会主義者が「平和的」に権力を獲得することは不可能だということから、私は、権力獲得への他の道が不可避であるという結論を出した。それは、公然たるクーデターの道か、あるいは、不可避的なクーデターに先行する連立政府的段階を通る道であろう。ファシズムが無痛のうちに自壊しうるとすれば、それは、ブランドラーが1923年に採用した政策をヒトラーが1932年に適用する場合のみである。私は、国家社会主義者の戦略をいささかも過大評価するものではないが、それでも彼らの方がブランドラー一派よりも先見の明があり堅実であると思っている。

 これよりもずっと思慮深いのは、タールハイマーの第二の主張である。曰く、ヒトラーが権力に到達するのに、議会の道によるか他の道によるかという問題は、ファシズムの「本質」を変えるものではないから、まったく何の重要性も持たない。ファシズムはいずれにせよ、労働者組織の残骸の上にしか自らの支配を打ち立てることはできない――「ヒトラーが立憲的に権力を握る場合と非立憲的に権力を握る場合との違いに関して研究する作業を、労働者は安んじて『フォアヴェルツ』の編集者にゆだねることができる」(『アルバイター・ポリティーク』1月10日号)。

 先進的労働者がタールハイマーの言うことを聞いていたら、ヒトラーは、疑いもなく、これら労働者の首を切り落としてしまうだろう。われわれのお利口な学校教師にとって重要なのはファシズムの「本質」だけであり、この本質がどのように実現されるのかという問題を解決することを、彼らは『フォアヴェルツ』の編集者にゆだねてしまうのだ。問題は、ファシズムのポグロム的「本質」が完全に発揮されるのはファシズムが権力を握った後のみだということである。ところが、課題はまさに、ファシズムを権力に就けさせないことにあるのだ。そのためには、敵の戦略をしっかり理解して、それを労働者に説明することができなければならない。ヒトラーは、表面的には憲法のレールに沿って運動を進めるべく並々ならぬ努力をしている。このような手法が大衆の政治意識に影響を与えないでいられると信じることができるのは、自分のことを「唯物論者」と思い込んでいる衒学者だけである。

 ヒトラーの立憲主義は、中間派とのブロックに扉を開けておくためだけではなく、社会民主党をだますため、より正確に言えば、社会民主党指導者が大衆をだますのを容易にするためのものである。ヒトラーが、立憲的道によってしか権力を握らないと誓っているとすれば、ファシズムの危険が現在まだそれほど大きなものではないということは明らかである。いずれにしても、各種選挙の機会に、力関係を検証に付す時間はまだ多少ともあるだろう。敵を眠りこませてしまう立憲的展望を隠れ蓑にして、ヒトラーはしかるべきときに打撃を与える可能性を確保しておこうと望んでいる。この軍事的計略は、それ自体としては単純なものではあるが、しかしそれのうちに巨大な力を秘めている。というのは、この計略は、問題を平和的、合法的に解決しようと望んでいる中間政党の心理にだけではなく、はるかに危険なことには、人民大衆の信じやすさにも立脚しているからである。

 なおつけ加えておかなければならないが、ヒトラーのマヌーバーは両刃の剣である。それは、敵をだますだけでなく、味方もだましている。ところで、闘争のためには、とくに攻撃的闘争のためには、戦闘的精神が必要である。その精神を維持するためには、自らの軍隊を教育して公然たる闘争の不可避性を理解させなければならない。この点からしても、ヒトラーは、自分の隊列の士気を低下させないためには、ワイマール憲法とのはかないロマンスをあまり長引かせるわけにはいかない。ヒトラーは、時機を失せず懐からナイフをとり出さなければならない。

 ファシズムの「本質」を理解するだけでは十分ではない。ファシズムを生きた政治現象として、自覚的でずる賢い敵として評価することができなければならない。わが学校教師は、革命家であるには、あまりに「社会学者」でありすぎた。タールハイマーの思慮深さもまた、ささやかながらヒトラーの帳簿にプラスの資産として入っていることは明らかではないか? なぜなら、立憲主義的幻想を振りまいている『フォアヴェルツ』の行為と、これらの幻想の上に立てられている敵の計略を暴露することとをいっしょくたにするのは、敵に手を貸すことを意味するからである。

※  ※  ※

 何らかの組織が重要でありうるのは、それが結集している大衆によるか、あるいは、その組織が労働運動にもたらしうる思想の内容による。ブランドラー派には、このどちらも欠けている。それにもかかわらず、社会主義労働者党の中間主義的泥沼について語るブランドラーとタールハイマーの口調は何と軽蔑に満ちていることか! 実際には、この2つの組織――社会主義労働者党とドイツ共産党反対派(KPO)――を比べれば、あらゆる優位性は前者にある。社会主義労働者党は泥沼ではなく、生きた流れである。その方向性は、右から左へ、共産主義の方へ向かっている。この流れはまだ清浄化されていないし、そこには、多くのごみ屑や泥が混じっている。しかし、それは泥沼ではない。泥沼という呼び方は、完全な思想的停滞を特徴とするブランドラーとタールハイマーの組織の方に、ずっとよくあてはまる。

 だいぶ以前からKPOのグループ内部に、それ自身の反対派が存在していた。この反対派の不満の種は主に、KPO指導部がその政策を客観的情勢よりもモスクワのスターリン参謀本部の気分に適応させていることにあった。

 ヴァルヒャー(25)やフレーリヒ(26)らの反対派は、長年にわたってブランドラーとタールハイマーの政策、とりわけソ連に対する政策――それは単に誤っているだけでなく、意識的に偽善をまとい、政治的に不誠実なものであった――を黙認してきたこと、このことを、この分裂した組織の積極面とみなす者は、もちろんのこと誰もいない。しかし、確かなのは、ヴァルヒャーとフレーリヒがついには、モスクワの好意を得ることに汲々としているような指導部を戴いた組織がまったく絶望的であることを認めたということである。この少数派は、不幸なレンメレではなくソ連とコミンテルンにおけるスターリン官僚制の路線と体制に対抗する独立した積極的政策を持つことが必要であると考えている。今のところまだきわめて不十分な資料にもとづいてであるが、ヴァルヒャーとフレーリヒの立場を正しく解釈するならば、それは、この問題において一歩前進を示している。しかし、明白に死んでしまったグループと決別したこの少数派は現在、新しい方向性――国内の方向性のみならず、とりわけ国際的なそれをも――を見出すという課題の前に立たされている。

 遠くから判断できるかぎりでは、この分裂した少数派が当面する時期の主要な課題としているのは、社会主義労働者党の左翼に接近すること、そしてこの新しい党を共産主義の側に獲得し、次にその助けを借りて、ドイツ共産党の官僚主義的保守主義を粉砕することである。このような一般的で無定形な計画に関しては、何か意見を述べることは不可能である。というのは、この少数派自身が立脚する原則的基盤も、またその少数派が原則実現のための闘争に適用しようと考えている方法も、ともに不明確のままだからである。政綱が必要だ! われわれが念頭に置いているのは、共産主義の教理問答の決まり文句を書き写した文書のことではなく、この9年間に共産主義の隊列を分裂させ、現在もまだその切実な意味を保持しているプロレタリア革命の諸問題に対する、明確で具体的な解答のことである。これなしには、社会主義労働者党の中で溶解してしまい、共産主義への同党の発展を促進するのではなく、逆に遅らせてしまうだけであろう。

 左翼反対派は、この少数派の発展を、いかなる予断もなしに注意深く追ってゆく。生存能力のない組織の分裂が、生存可能な一部分の進歩的発展のきっかけとなったことは、歴史において一再ならずある。今度もまた、この法則がこの少数派の運命において確認されたとしたら、われわれとしては喜ばしいかぎりだ。しかし、その回答を与えるのは、未来のみである。

 

  訳注

(1)ショー、バーナード(1856-1950)……イギリスの劇作家・批評家。社会主義的傾向をもち、1884年にフェビアン協会に参加。第1次大戦中は非戦論。1925年にノーベル文学賞受賞。

(2)バルビュス、アンリ(1873-1935)……フランスの詩人・作家。人道主義的立場からしだいに社会主義的立場に移行し、共産党に入党。雑誌『クラルテ』を創刊。1930年代にはスターリニズムの主要な文学的弁護者となった。1935年に訪ソ中に死去。

(3)ラコフスキー、フリスチャン(1873-1941)……ブルガリア出身のロシアの革命家、外交官、左翼反対派の指導者。1889年から社会民主主義運動に従事。ブルガリア、ルーマニア、ロシアなど多くの国で活動。1917年にボリシェヴィキに入党。1918〜1923年、ウクライナの人民委員会議長。1919年から党中央委員。1923年からの左翼反対派。ロンドンおよびパリの駐在大使を歴任。1927年に多くの反対派とともに除名。1928年に流刑。流刑地でなお反対派活動を継続するが、1934年にスターリンに屈服。1938年の第3次モスクワ裁判の被告。死後名誉回復。

(4)オシエツキー、カール・フォン(1889-1938)……ドイツの平和主義的知識人。ヒトラーの権力掌握後に逮捕。投獄中の1936年にノーベル平和賞を受賞。

(5)ツィンツァーゼ、コート(1887-1930)……グルジアの古参革命家。グルジア反対派の一人。1928年に逮捕・流刑されるが、流刑地に行く途中で結核にかかって死亡。

(6)ムラロフ、ニコライ(1877-1937)……1903年以来の古参ボリシェヴィキ。10月革命後、モスクワ軍管区司令官。内戦中は、各戦線の軍事革命会議で活躍。左翼反対派の指導者の一人として1928年に逮捕・流刑。1937年に第2次モスクワ裁判の被告の一人として銃殺。

(7)グリュンシュテイン、カール(1888-1937?)……ラトビア人。1904年以来の古参ボリシェヴィキ。内戦中は赤軍のコミッサール。左翼反対派の一員として逮捕・流刑。1932年に屈服するも、1937年に粛清。

(8)カスパローヴァ、ヴァルセニカ(1875-1937)……女性革命家で、1904年以来の古参ボリシェヴィキ。コミンテルンにおいて東方の女性問題を担当。1926年の合同反対派に参加。1928年に逮捕・流刑。1935年に屈服するも、1937年に粛清。

(9)ソスノフスキー、レフ(1886-1937)……1904年以来の古参ボリシェヴィキ。1912〜1913年、『プラウダ』で活動。1918年から『貧農』紙を編集。合同反対派の一員として1928年に逮捕・流刑。1934年に屈服するも、1937年に第2次モスクワ裁判の被告の一人として銃殺。

(10)コシオール、V(1891-1938)……1907年入党。1928年に左翼反対派の一員として逮捕・流刑。1938年にヴォルクタ収容所で銃殺。

(11)エリツィン父子(父1879-1937、息子?)……父のB・M・エリツィンは1899年からの党員。ウラル地方の指導者の一人。1923年からの左翼反対派。1928〜29年の時点でモスクワの反対派センターを維持。その後、逮捕・流刑。1937年に粛清。息子のV・B・エリツィンは、1917年に入党。トロツキーの秘書。1928年に左翼反対派の一員として逮捕・流刑。1936年以降の消息は不明。

(12)ディンゲルシュテット、F・N(1890-1938)……1917年にクロンシュタットで革命運動に従事。インドの農業問題に関する論文あり。左翼反対派の若手のリーダー。1928年に逮捕・流刑。流刑地で何度もハンストを組織。1938年にヴォルクタ収容所で銃殺。

(13)ソルンツェフ、E・B(1900-1936)……1917年にボリシェヴィキ入党。歴史と経済学を研究。1928年に左翼反対派の一員として逮捕。1936年に抗議のハンスト中に虐殺される。

(14)ストパロフ、グリゴリー(生没年不明)……1917年にボリシェヴィキに入党。内戦中はウクライナで軍事活動。経済学者。左翼反対派の一員としてトロツキーに身近に協力。1928年に逮捕・流刑。

(15)ポスナンスキー、I・M(1898-1938)……数学の学生。1917年にボリシェヴィキ入党。トロツキーの最も近しい秘書の一人。内戦中は赤色騎兵隊を組織。1928年に逮捕・流刑。1938年にヴォルクタ収容所で銃殺。

(16)セルムクス、N・M(生没年不明)……ポズナンスキーと並ぶトロツキーの最も近しい秘書の一人。左翼反対派の積極的なメンバー。1928年に逮捕・流刑されたトロツキーを追ってアルマ・アタまで行くも、そこで逮捕され、シベリアに流刑。1936〜38年に粛清されたものと思われる。

(17)ブリュムキン、ヤーコフ(1899-1929)……左翼エスエルのメンバー。1918年の左翼エスエル蜂起の一貫としてドイツ大使ミルバッハを暗殺。トロツキーに説得されボリシェヴィキに。プリンキポに追放されたトロツキーと連絡を取り、そのメッセージをもってソ連に帰国するも、逮捕され、1929年11月に銃殺。

(18)ブートフ、ゲオルギー(?-1928)……技師。内戦時は、トロツキーの書記局主任。1928年に左翼反対派の一員として逮捕・流刑。ブルティカ刑務所でハンスト中に死亡。

(19)ロイ、マナベンドラ(1893-1953)……インドの指導的共産主義者。コミンテルン第2回世界大会で民族問題テーゼをめぐってレーニンと論争。1920年代はコミンテルンの指導的人物の一人として、アジア諸国でスターリン=ブハーリン路線を推進。後に、右翼反対派となり、ブランドラー派となる。さらにその数年後、社会主義と決別。

(20)トレーズ、モーリス(1900-1964)……1924年にフランス共産党の指導者に。一時期、左翼反対派へのシンパシーを表明していたが、すぐにスターリニズムに与する。1930年からフランス共産党の書記長。第2次大戦中はモスクワで過ごす。戦後、ドゴール内閣に入閣。その一員として、インドネシアへのフランス軍の派遣に賛成した。

(21)『新段階』……コミンテルン第3回大会の報告のもとになった1921年6月15日の演説と「革命的戦略の学校」という講演を収めたパンフレット。1921年に発行され、各国語で出版された。

(22)トロツキー「革命的戦略の学校」、前掲『コミンテルン最初の5ヵ年』下、24頁。

(23)マスロフ、アルカディ(1886-1944)……1924年以降、ブランドラー派に代わってドイツ共産党を指導したグループ(マスロフ、フィッシャー、ウルバーンス)の一人。当初、ジノヴィエフに追随してトロツキーに反対したが、1926年に合同反対派を支持して、1927年に除名。1928年にジノヴィエフとともに屈服。しかし、再入党はせずに、フィッシャーやウルバーンスとともにレーニンブントを結成。

(24)1931年12月8日の論文「 ドイツ共産党の労働者党員への手紙」を指している。

(25)ヴァルヒャー、ヤーコブ(1887-1970)……ドイツ共産党の創始者の一人で、その後ブランドラー派に。1931年にブランドラー派と分裂し、社会主義労働者党に。第2次世界大戦後、再びスターリニスト政党に再加入。

(26)フレーリヒ、パウル(1884-1953)……ドイツ共産党の創始者の一人。後にブランドラー派となり、1931年にヴァルヒャーとともにブランドラー派と分裂し、社会主義労働者党に。ローザ・ルクセンブルクに関する著作をはじめ、多くの著作を残す。

 

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8章9章10章11章12章13章14章15章結論


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