ドイツ共産党の党員労働者への手紙

ドイツ共産党の今日の政策の誤りはどこにあるか?
トロツキー/訳 志田昇

【解説】本論文は、反ファシズム統一戦線の結成を訴えるトロツキーの一連の一つである。この中でトロツキーは、ドイツ共産党(KPD)の労働者党員に宛てて、できるだけわかりやすい語り口でドイツ共産党指導部の政策の誤りを説明し、反ファシズム統一戦線の必要性を訴えている。

 この論文の最初の日本語訳は、山西英一氏の『次は何か』(1953年)の中に収録されたが、それは英語からの重訳で、さらに数箇所割愛したものだった。日に現代思潮社から『社会ファシズム批判』が出版され、トロツキーのファシズム論が集大成されたが、そこにはなぜか、この論文は収録されていなかった。今回、『反対派ブレティン』のロシア語原文から訳しなおされている。

 この翻訳は『トロツキー研究』第34号にはじめて発表されたが、本サイトにアップするにあたって、訳注を若干充実させておいた。なおロシア語原文の原題は「ドイツ共産党の今日の政策の誤りはどこにあるか?――ドイツの共産主義労働者、ドイツ共産党員への手紙」である。

Л.Троцкий, В чем состоит ошибочность сегодняшней политики германской компартии? (Письмо немецкому рабочему−коммунисту, члену ГКП), Бюллетень Оппозиции, No.27, Март 1932.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 ドイツは今や、今後数十年間のドイツ人民の運命、ヨーロッパの運命、そして、かなりの程度まで全人類の運命が左右される大きな歴史的時期の一つに入った。ボールがピラミッドの頂上にあるとき、それはわずかな衝撃で左か右にすべり落ちるであろう。ドイツは今や刻々とまさにこのような状態に近づきつつある。ボールが右にすべり落ち、労働者階級の背中を押しつぶすことを望む勢力がいる。他方で、ボールが頂上にとどまることを望む勢力もある。これはユートピアである。ボールは急傾斜のピラミッドの上で止まっていることはできない。共産党員はボールが左にすべり落ちて資本主義の背中を押しつぶすことを望んでいる。しかし、望むだけではだめであり、そうすることができなけれならない。もう一度、冷静に考えてみよう。現在、ドイツ共産党中央委員会が進めている政策は正しいのか正しくないのか?

 

   ヒトラーは何を望んでいるか?

 ファシストは非常に急速に増大している。共産党も増大してはいるが、しかし、はるかに緩慢にである。両極の増大が示しているのは、ボールはピラミッドの頂上で停止していることはできないということである。ファシストがいっそう急速に増大することは、ボールが右にすべり落ちるかもしれないという危険を意味している。それは巨大な危険である。自分はクーデターに反対であると、ヒトラーは保証している。民主主義を永久に絞め殺すために、他でもなく民主主義の道によって権力を握りたいというわけである。そんなことを本気で信ずることができるであろうか?

 もちろん、もしファシストが近いうちに選挙で、平和的なやり方で絶対多数の得票を得ることをあてにすることができるなら、彼らもおそらくはこの道を選びさえするだろう。だが、実際には、彼らにとってこの道は考えられない。ナチスがいつまでも今日のように絶えず増大するだろうと信ずることは、愚の骨頂である。早晩、彼らは彼らの社会的貯水池を枯渇させてしまうであろう。ファシズムは自分自身の隊列の中へ恐るべき矛盾を導きいれたので、流出が流入を上回る瞬間が来ざるをえない。この瞬間は、ファシストが投票の過半数を自己の周囲に結集させるよりずっと以前に、到来するかもしれない。彼らは停止することはできない。なぜなら、彼らはもはや猶予することができないからである。彼らはクーデターに訴えざるをえないであろう。

 だが、以上のことをおいたとしても、ファシストはやはり民主主義の道を断ち切られている。この国における政治的矛盾のすさまじい増大と、ファシストたちの強盗的扇動は、ファシストが多数党に近づけば近づくほど、雰囲気はいよいよ緊迫し、小競り合いと衝突がますます広範に展開される情勢を不可避的にもたらすだろう。こうした展望からして、内乱は絶対に避けられない。したがって、ファシストの政権獲得の問題は、投票によって決まるのではなく、ファシストが現に準備し挑発しつつある内乱によって決せられるであろう。

 ヒトラーと彼の助言者たちがこのことを理解も予見もしていないと一瞬でも仮定することができるであろうか? そう仮定することは、彼らを愚か者とみなすことを意味するだろう。政治においては、強力な敵の愚かさに期待することほど大きな犯罪はない。だが、権力への道がきわめて苛酷な内乱を通過するということを、ヒトラーが理解しないわけにはいかないとすれば、平和的で民主主義的な道に関する彼の言葉は隠れ簑、すなわち軍事的策略である。それだけになおさら両目をしっかり見開く必要がある。

 

   ヒトラーの戦略の背後に何が隠されているか

 ヒトラーの計算はきわめて簡単明瞭である。自分の敵が眠っているところを、都合のいい時に致命的な一撃を加えるために、ナチスが今後も議会的発展を続けるであろうという見通しで敵を眠りこませたいと彼は、考えているのである。そればかりではなく、民主主義的議会主義へのヒトラーのいんぎんな態度は、近い将来において、ファシストが最も重要なポストを握り、それを利用して、自分たちのクーデターを遂行することができるような、一種の連立政府を樹立する助けとなるかもしれない。なぜなら、たとえば中央党とファシストとの連立政府が、問題の民主主義的解決の一段階とはならないで、ファシストにとって最も有利な条件のもとでクーデターに一歩接近することになるということはまったく明らかだからである。

 

   近距離に照準を合わせることが必要である

 以上のことは、ファシストの司令部の意志とは無関係に、次の数週間でないとしても、数ヵ月のうちに、決着がつくかもしれないということを意味する。この事情は正しい政策を作成するうえで、巨大な重要性を有している。ここ2、3ヵ月のうちに、もしわれわれがファシストに政権獲得を許すならば、来年における彼らとの闘争は、今年における闘争よりも、はるかに困難となるであろう。もしも労働者階級が、ここ2、3ヵ月のうちにファシストの政権獲得を許すならば、2年ないし3年ないし5年先を目標として立てられたいっさいの革命的計画は、みじめな、恥ずべき無駄話となるであろう。革命的危機の政治において、時間の計算は、作戦行動におけると同様に、決定的に重要である。

 われわれの考えを説明するために、やや遠回しの例を挙げよう。フーゴ・ウルバーンス(1)は自らを「左翼共産主義者」とみなし、ドイツ共産党が破綻し政治的に破滅したと宣言している。もしウルバーンスが正しいとしたら、このことはファシストの勝利が保証されているということを意味するだろう。なぜならば、新しい党をつくりだすためには、数年が必要だからである(しかも、ウルバーンスの党がなぜかテールマン(2)の党よりもましなものになるということは、まったく証明されていない。ウルバーンスが党を指導していたときに、誤りは今よりもけっして小さくはなかったからである)。

 しかり、もしもファシストが本当に権力を奪取したら、それこそ共産党の暴力的破壊を意味するばかりでなく、共産党にとって、真の政治的破産を意味するであろう。もしも人間のくずに対する闘争において不名誉きわまる敗北を喫するとしたら、数百万のドイツ・プロレタリアートは、共産主義インターナショナルとドイツ共産党をけっして許さないであろう。したがって、もしもファシストが政権に就いたら、新しい革命的政党と、おそらくはまた新しいインターナショナルを樹立することが必要となるであろう。それこそ、恐ろしい歴史的破局であろう。だが、今日それを不可避的であると考えることができるのは、空虚な文句の陰に隠れて、実際には戦闘を前にして、戦闘を交えることなしに、臆病にも降伏しようとする正真正銘の解党主義者だけである。スターリニストから「トロツキスト」と呼ばれているわれわれボリシェヴィキ=レーニン主義者は、こういう考えとは何の共通点も持っていない。

 われわれは、ファシストに対する勝利は――彼らが政権を獲得した後でなく、5年、10年、20年にわたる彼らの支配の後にでなく――いま、現在の条件のもとで、次の数ヵ月、数週間のうちに、可能であるという、確固不動の信念をもっている。

 

   テールマンは、ファシズムの勝利が不可避だとみなしている

 勝利を獲得するためには、正しい政策が必要である。つまり、われわれは、1年ないし2年ないし3年後にやってくる情勢、すなわち、政権の問題がとっくに解決されている情勢にではなく、現在の情勢、現在の力関係にもとづいた政策が必要である。

 不幸にも、ドイツ共産党中央委員会の政策は、半ば意識的に、半ば無意識的に、ファシストの勝利は不可避的であるということの承認から出発している。事実、1931年11月29日に発表された「赤色統一戦線」のアピールの中で、ドイツ共産党中央委員会は、あらかじめ社会民主主義に勝利することなしには、ファシズムに勝利することは不可能であるという考えから出発している。同じ考えは、テールマンの論文の中で、さまざまな形で繰り返されている。この考えは正しいだろうか? 歴史的規模においては、無条件に正しい。だが、そのことは、その考えによって、すなわち、ただそれを繰り返すだけで、今日の問題を解決することができるということを、けっして意味しない。全体としての革命的戦略の見地からは正しい考えでも、もし戦術の言葉に翻訳されなかったら、嘘に、それも反動的な嘘に変わってしまう。失業と貧困をなくすためには、あらかじめ資本主義を廃絶する必要があるということは、正しいだろうか? 正しい。だが、このことから、労働者の貧困をひどくする資本主義的措置に反対して、現在、全力をつくして闘う必要はないなどと結論することができるのは、最悪の愚か者だけであろう。

 共産党は、次の数ヵ月の間に社会民主党とファシズムの両方を倒すことができるなどと考えることができるだろうか? 読み書きのできる、あたりまえの思考力をもった人間だったら、そんなことを主張したりしないだろう。政治的には、問題はこうなる。今日われわれは、次の数ヵ月の間に、つまり、非常に弱体化してはいるが、まだ不幸にしてきわめて強力な社会民主党が存在しているままで、ファシズムの攻勢を撃退することができるだろうか? 中央委員会は否定的に答える。換言すれば、テールマンはファシズムの勝利は不可避であると考えているのである。

 

   ロシアの経験について再論

 私は自分の考えをできるかぎり明瞭に、かつ具体的に述べるために、もう一度コルニーロフ(3)の反乱の経験に戻ってみたい。1917年8月26日(旧暦)、コルニーロフ将軍はコサック軍団と[カフカース]山岳兵師団を率いて、ペトログラードに進撃した。政権には、ブルジョアジーの番頭で、4分の3までコルニーロフの同盟者であったケレンスキー(4)が就いていた。レーニンは、ホーエンツォレルン家に奉仕していると告発されていたため、まだ身を隠していた。私も同様の告発を受けて、当時クレストゥイ監獄の独房に監禁されていた。この問題において、ボリシェヴィキはどういう態度をとっただろうか? 彼らもまた「コルニーロフの反乱に勝利するためには、ケレンスキー体制に勝利しなければならない」と言う権利を持っていた。彼らは、一再ならずそう言った。なぜなら、それは正しくて、その後の宣伝のために必要だったからである。だが、それは、8月26日とその後の数日にコルニーロフに対抗し、彼がペトログラードのプロレタリアートを虐殺するのを阻止するうえでは、まったく不十分であった。ボリシェヴィキが協調主義者と絶縁して、ボリシェヴィキの赤色統一戦線を支持せよという、労働者と兵士に対する一般的なアピールで満足しなかったのは、そのためである。反対に、ボリシェヴィキは、メンシェヴィキと社会革命党に向かって戦闘上の統一戦線を提唱し、彼らといっしょに共同闘争組織を結成した。これは正しかったか、それとも正しくなかったか? テールマンよ、答えてくれたまえ。統一戦線がどんな様子であったかを、もっと生き生きと示すために、私は次のような出来事を挙げよう。労働組合が保釈金を払ってくれて、釈放されるやいなや、私はそのまま人民防衛委員会の会議へ直行して、私を投獄しておいたケレンスキーの同盟者であるメンシェヴィキのダン(5)および社会革命党のゴーツ(6)と、対コルニーロフ闘争を討議し決定した。これは正しかったのか、間違っていたのか? レンメレ(7)よ、答えてくれたまえ。

 

   ブリューニングは「より小さな悪」か?

 社会民主党は――ブリューニング(8)政府は「より小さな悪」であるという理由で――ブリューニングを支持し、彼に投票し、大衆の面前で彼に対する責任を引き受けている。『ローテ・ファーネ』紙は――共産党が愚かで恥知らずにもヒトラーの国民投票に参加したことに、私が反対したという理由で――私にこの立場[ブリューニングが「より小さな悪」だとする立場]を押しつけようとする。だが、ドイツの左翼反対派と、とくに私は、共産党がブリューニングに投票し、彼を支持することを要求しただろうか? われわれマルクス主義者は、ブリューニングとヒトラーを、ブラウン(9)をひっくるめて、同じシステムの構成分子であると見ている。彼らのうち、誰が「より小さな悪」であるかという問題は、まったく無意味である。なぜなら、われわれが闘っているシステムは、これらの構成分子を全部必要とするからである。だが、これらの構成分子は、現在たがいに衝突している。そして、プロレタリアートの党は、これらの衝突を革命のために利用しなければならない。

 音階は7つある。これらの音階のうちどれが「よりまし」か、つまりドかレかソかという問題は無意味な問題である。しかしながら、音楽家はいつどの鍵盤を打てばいいか知っていなければならない。誰がより小さな悪か、ブリューニングかヒトラーかという抽象的な問題は同様に無意味である。しかし、これらの鍵盤のどれを打ったらよいかを知らなければならない。これでわかっただろうか。まだわからない人のために、もう一つ例を挙げよう。

 私の敵の一人が、私の前に小さな毒薬の包みを置き、一方もう一人の敵は即座に私を射殺しようとしているとしたら、私はまず最初に第2の敵の手からピストルをたたき落とすだろう。そうすれば、最初の敵と決着をつけるチャンスも生じるからである。だからといって、毒薬はピストルに比べて、「より小さな悪」であるということにはけっしてならない。

 不幸にしてドイツ共産党は、社会民主党と同じ立場に立っている。ただ反対記号がついているだけである。社会民主党はブリューニングを「より小さな悪」と認め、彼に投票する。一方、ブラウンをもブリューニングをも、どんな仕方であれ信頼することを拒否する(これは完全に正しい態度だ)共産党は、ヒトラーの人民投票、つまり、ブリューニングを打倒しようとするファシストの企図を支持するために、街頭に出た。だが、それによって共産党自身、ヒトラーを「より小さな悪」とみなしているのである。なぜなら、人民投票の勝利はプロレタリアートを政権に就けないで、ヒトラーを政権に就けるだろうからだ。このような初歩的なことを説明するのはまったくきまりが悪い! レンメレのような音楽家が、音符を区別する代わりに鍵盤を長靴で踏みつけるときには、事態はきわめてひどいことになる。

 

   問題は社会民主主義を捨てた労働者ではなく、

    社会民主党にとどまっている労働者である

 何千何万のノスケ(10)、ウェルス(11)、ヒルファーディング(12)のような連中は、結局は共産主義よりもファシズムを選ぶ。だが、そうするためには、彼らは労働者と完全に手を切らなければならない。今日、これはまだ問題にはならない。今日、全体としての社会民主党は、いっさいの内部対立を抱えたまま、ファシズムと鋭く衝突しつつある。われわれの任務は、この衝突を利用することであって、緊迫した時期にわれわれに対し、われわれの敵に合同させることではない。

 いま、戦線はファシズムに対して向けられなければならない。そして、全プロレタリアートを包含するところの、ファシズムに対する直接闘争のこの共同戦線を、社会民主党に対する側面闘争に利用しなければならない。それは側面闘争であることでなおさら効果的なものになるだろう。

 社会民主党が受け入れるあらゆる場合に、ファシストに対して社会民主党とブロックを結ぶ完全な用意があることを、行動によって示す必要がある。社会民主党の労働者に向かって、「諸君の指導者を投げ出して、われわれの『非党派的』統一戦線に加われ」と言うことは、一千の空文句にもう一つの空文句をつけたすことである。われわれは、労働者を彼らの指導者から実際に引き離す能力を持たなければならない。だが、今日の課題は反ファシズム闘争である。

 たしかに、社会民主党組織の希望とは無関係に、それに反してさえ、共産党の労働者と手をたずさえてファシストと闘う用意のある社会民主党労働者が、現に存在するし、また今後も生まれるであろう。これらの進歩分子と最も緊密な関係を確立することは、明らかに必要である。だが、今のところ、彼らの数は多くはない。ドイツの労働者は組織と規律の精神の中で育っている。これは、強みであると同時に弱みでもある。社会民主党労働者の圧倒的多数は、ファシストと闘うであろう。だが――差し当たっては――ただ彼らの組織といっしょにのみ闘うだろう。労働者階級の生死が問題になっているときに自分たちの組織と指導者がいかなる立場をとるのか、このことを社会民主党労働者が行動を通じて――新しい例外的な状況下で――試験にかけるのを、われわれは援助しなければならない。

 

   ファシズムに反対するブロックを

     社会民主党に押しつけなければならない

 不幸なことに、共産党中央委員会の中には、胆をつぶした日和見主義者がたくさんいる。彼らは日和見主義とはブロックを愛することだということを聞いていたので、ブロックに反対しているのである。彼らは、たとえばファシスト徒党からの労働者印刷所の防衛やストライキに関する協定――それがいかにささやかなものであれ――と、議会内の取引との相違を理解しない。

 革命政党と社会民主党との間に結ばれる選挙協定や議会内の取引は、一般に社会民主党の利益になるのが通例である。大衆行動や闘争目的のための実際的な協定は、つねに革命的政党にとって有利である。英露委員会は、不明確で欺瞞的な、どんな行動も義務づけないブロックであり、1つの共同の政治綱領にもとづいて2つの指導部の間で結ばれた許すべからざるブロックであった。総評議会がストライキ破りの役割を果たしたゼネストのときに、このブロックを持続することは、スターリニストの裏切り政策であった。

 社会民主党ないしドイツ労働組合指導者との共同綱領反対! 共同の出版物、旗、プラカード反対!

 別個に進みともに撃て!

 いかに撃ち、誰を撃ち、いつ撃つかだけについて、協定せよ!

 このような協定は、悪魔自身とも、悪魔の祖母とも、それどころか、ノスケやグルツェジンスキー(13)とさえ、結ぶことができる。自分自身の手を縛らないという、ただ一つの条件のもとで。

 共産党員の面前で社会民主党をただ「暴露する」というだけの目的ではなく、ファシズムに対して実際に闘争する目的をもって実際的な措置の体系をただちに作成することが必要である。この計画の中では、工場防衛、工場委員会の活動の自由、労働者の組織や機関の防衛の問題、ファシストが占領するかもしれない武器庫の問題、緊急の場合の方策、すなわち、戦闘行動における共産党部隊と社会民主党部隊との調整の問題等々を取り扱わなくてはならない。

 ファシズムとの闘争においては、工場委員会は非常に重要な地位を占める。ここでは、ことに緻密な行動計画が必要である。すべての工場は、自分自身の指揮官と自分自身の部隊をもった、反ファシズムの要塞とならなければならない。あらゆる都市とあらゆる地域のファシスト兵舎と他のいっさいのファシスト拠点の地図をもつ必要がある。ファシストは革命的拠点を包囲しようと企てている。包囲者を包囲しなければならない。これにもとづいて社会民主主義組織および労働組合組織と協定を結ぶことは、許されるばかりでなく、義務でさえある。「原則」を理由にして(実際には、官僚的な愚劣さゆえに、もしくはいっそう悪いことに、臆病ゆえに)、これを拒否することは、ファシズムに直接の援助を与えることである。

 われわれはすでに1930年9月に、つまり1年前に、社会民主党労働者との協定の実践的綱領を提唱した(14)。この方向において、何がなされたろうか? ほとんど皆無だ。共産党中央委員会はあらゆることに取り組んだが、ただ一つ自分の直接の任務にだけは取り組んでいない。いかに多くの貴重な取り返しのつかぬ時間が失われたことだろう! 実際、今や多くの時間は残されていない。普通の社会民主党労働者なら誰でも、「共産党の提唱していることは、反ファシスト闘争にとって、絶対に必要なものである」と言うことできるように、行動綱領は、いかなる人為的な「要求」も、いかなる底意もない、厳に実際的で、厳に実務的でなければならない。これを基礎にして、われわれは実例の力によって社会民主党労働者を前にひっぱっていき、必然的に抵抗しブレーキとなる彼らの指導者を批判しなければならない。このようにしてはじめて勝利は可能となるのだ。

 

   レーニンからの適切な引用

 今日のエピゴーネン、つまり、レーニンのできそこないの弟子たちは、しばしば見当ちがいの引用をもって、自分たちの欠点を覆い隠すことが好きだ。マルクス主義者にとっては、問題は引用によって決定されるのではなくて、正しい方法によって決定されるのである。だが、正しい方法によって導かれるなら、適切な引用を見つけることも困難ではない。前述したような、コルニーロフの反乱と対比したあとで、私はこう自分に言った。たぶんわれわれは、反コルニーロフ闘争におけるわれわれと協調主義者とのブロックに対する理論的解明を、レーニンのうちに見出すことができるだろう、と。そして実際に、私はロシア版の第14巻の第2部に掲載されている、レーニンが1917年9月始めに中央委員会に宛てて書いた手紙の中に、次のような言葉を見つけた。

「われわれは今でさえ、ケレンスキーの政権を支持するべきではない。それは無原則である。『コルニーロフに反対して闘うべきではないか』と聞く人がいる。もちろん、そのとおりである。しかし、コルニーロフに反対することとケレンスキーを支持することとは同じことではない。そこには境界がある。若干のボリシェヴィキは境界を越えて、『協調主義』に陥って情勢の流れに振り回されている」。

「われわれはコルニーロフと闘うであろう。いな、現に闘っている。だが、われわれはケレンスキーを支持しはしない。われわれは彼の弱点を暴露しつつある。区別はいささかデリケートではあるが、非常に重要であって、忘れてはならない」。

「コルニーロフの反乱の後、われわれの戦術の変化は何か?」

われわれがケレンスキーに対する闘争の形態を変えつつある、ということである。彼に対するわれわれの敵意を少しもやわらげることなく、彼に反対したわれわれの言葉を一言も取り消すことなく、ケレンスキーを打倒するという任務を放棄することなしに、われわれはこう言う。われわれは現在の瞬間を計算しなければならない。われわれは今すぐケレンスキーを打倒はしないだろう。われわれは彼に対する闘争の課題に違った仕方で、すなわち(コルニーロフと闘っている)人々に、ケレンスキーの弱みと動揺を説明することによって取りくむ(15)

 われわれは、何かこれと違ったことを提唱しているわけではない。共産党の組織と新聞の完全な独立、共産党による批判の完全な自由、社会民主党と労働組合にとっても、同様である。ただ軽蔑すべき日和見主義者だけが、共産党の自由を制限すること(たとえば、中国国民党への入党によって)を許すことができる。われわれは、そういう部類の人間ではない。

 社会民主党に対するわれわれの批判は、絶対に取り消さない。過去のこともけっして忘れない。ちょうどロシアのボリシェヴィキが、労働者、兵士、農民に対する迫害、誹謗、投獄、殺害に関する総決算を、ついにメンシェヴィキと社会革命党につきつけたように、いつかカール・リープクネヒト(16)とローザ・ルクセンブルグ(17)の暗殺に関する決算をはじめとする全歴史的な総決算が彼らにつきつけられるだろう。

 だが、われわれは、ケレンスキーとコルニーロフ、「民主主義者」とファシストとの間の部分的決算を利用し、それによってファシストをいっそう確実に撃退してから、その2ヵ月後になって、われわれの総決算をメンシェヴィキと社会革命党につきつけたのであった。このおかげではじめてわれわれは勝利したのである。

 もしドイツ共産党中央委員会が、前述したレーニンからの引用に表明されている立場を採用するなら、社会民主党の大衆と労働組合への接近の仕方の全体がただちに変更されるであろう。今さらそんなものがなくともすでに納得している人にしか説得力がない論文や演説の代わりに、扇動者は数十万、数百万の新しい労働者たちとの共通の言葉を見出すであろう。社会民主党の内部の分化は、いっそう急激に進行するであろう。ファシストは、彼らの任務がブリューニング、ブラウン、ウェルスをだますことではなくて、労働者階級全体に対して公然たる闘争を開始することだということを、すぐさま感ずるにいたるであろう。その結果、ファシズムの内部に深刻な分化が生じるであろう。ただこの道によってのみ、勝利は可能となるのである。

 だが、そのためには、この勝利を望むことが必要である。ところが、悲しいかな、共産党の官僚の中には、自分のポスト、自分の収入、それ以上にわが身の安全を気づかう臆病な出世主義者と尊大な連中が少なくない。こういう連中は、ウルトラ急進主義の空文句をまくしたてて、その下に惨めな軽蔑すべき運命論を隠すのが大好きである。「社会民主党に勝利することなしに、ファシズムと闘うことはできない!」と、これらの恐るべき革命家たちは言う。そして、そのために……彼らはちゃんと自分のパスポートを用意しておくのだ。

 共産党の労働者党員諸君、諸君は数十万、数百万人もいる。諸君はどこへも逃げることはできない。諸君にゆきわたるほどのパスポートはない。もしファシズムが政権を握ったら、ファシズムは恐るべき戦車のように、諸君の頭蓋と背骨を踏みつぶすであろう。諸君の救いは仮借なき闘争の中にしかない。そして、ただ闘争を通じて社会民主党労働者と共同することのみが、勝利をもたらすことができる。急げ、労働者党員諸君、諸君には時間がわずかしか残されていないのだ!

  1931年12月8日

『反対派ブレティン』第27号

『トロツキー研究』第34号より

 

  訳注

(1)ウルバーンス、フーゴ(1892-1947)……ドイツの革命家。1924年以降、ドイツ共産党の指導者。1927年にマスロフ、フィッシャーらとともに除名され、レーニンブントを結成。後にこの組織は左翼反対派と合同。1933年、スウェーデンに亡命し、同地で死去。

(2)テールマン、エルネスト(1886-1944)……ドイツのスターリニスト、1920年代半ば以降、ドイツ共産党の最高指導者。1932年にヒンデンブルク、ヒトラーと対抗して大統領選挙に立候補。1933年にナチスに逮捕され、1944年に強制収容所で銃殺。

(3)コルニーロフ、ラブル(1870-1918)……帝政ロシアの軍人、陸軍大将。1917年の2月革命後、ペトログラードの軍管区司令官、ついでロシア軍最高司令官。8月に臨時政府に対する軍事クーデターを企てるが、ボリシェヴィキの前に瓦解。この反乱は「コルニーロフの反乱」あるいは「コルニーロフの軍事クーデター」として有名で、7月事件後に弾圧され押さえ込まれていたボリシェヴィキの勢いを再び強め、10月革命への序曲となった。10月革命後、白軍を組織し抵抗するが、敗北し、戦死。

(4)ケレンスキー、アレクサンドル(1881-1970)……ロシアの政治家、弁護士。1912年、第4国会でトルドヴィキ(勤労者党)の指導者。2月革命後、エスエルに。最初の臨時政府に司法大臣として入閣。第1次連立政府で陸海相、7月事件後に首相を兼務。第2次連立政府、第3次連立政府の首相。8月30日、コルニーロフに代わって全ロシア最高総司令官に。10月革命直後に、クラスノフとともにボリシェヴィキ政府に対する武力半短を企てるが、失敗して亡命。アメリカで『回想録』を執筆。

(5)ダン、フョードル(1871-1947)……ロシアの革命家、メンシェヴィキの指導者。1894年からロシア社会民主主義運動に参加。1903年の分裂後はメンシェヴィキ。第1次世界大戦中は社会愛国主義者。1917年の2月革命後、ペトログラード・ソヴィエト執行委員。6月、全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会幹部会のメンバー。10月革命後、ボリシェヴィキ政府と敵対するも、武力闘争は行なわず、マルトフとともにソヴィエトでメンシェヴィキを代表。1922年にレーニンの命令でソ連から追放。1923年にソヴィエト公民権を喪失。同年、社会主義インターナショナルの再建に参加。『ノーヴィ・プーチ(新しい道)』を編集。その後アメリカに亡命し、そこで死去。

(6)ゴーツ、アブラム(1882-1937)……ペトログラード・ソヴィエトにおける社会革命党の指導者。十月革命後、ボリシェヴィキ政権に激しく武力抵抗し、1920年に死刑を宣告されたが、その後釈放。1937年に粛清。

(7)レンメレ、ヘルマン(1880-1937)……ドイツのスターリニスト。1920年に独立社会民主党から共産党へ。コミンテルンの執行委員。1926年以降、テールマンとともにドイツ共産党の指導者。1933年にロシアに亡命し、1937年に逮捕され銃殺。

(8)ブリューニング、ハインリヒ(1885-1970)……ドイツのカトリック中央党の指導者。1930年3月にヒンデンブルク大統領によってドイツの首相に任命。1930年7月から、解任される1932年5月までドイツを統治。ブリューニングは、憲法48条の大統領特権行使を条件に組閣を引き受け、議会の多数派を無視して、繰り返し大統領緊急令(特例法)を発布して政治を行なった。ブリューニング統治時代にナチスは大躍進を遂げ、政治的・経済的危機はいちじるしく深刻化。政治的力関係の右傾化によって、ブリューニングは必要とされなくなり、1932年5月末に辞任。

(9)ブラウン、オットー(1872-1955)……ドイツ社会民主党の指導者の一人。1920〜21年、1922年、1925〜1932年にプロイセン政府の首相。1932年7月、帝国宰相パーペンのクーデターによりブラウン内閣は解散させられる。1933年、ヒトラーの政権掌握後に亡命。

(10)ノスケ、グスタフ(1868-1946)……ドイツ社会民主党の右派指導者。1919年に国防大臣として、スパルタクス団を弾圧。カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルク暗殺の責任者。

(11)ウェルス、オットー(1873-1939)……ドイツ社会民主党右派。第1次大戦中は排外主義者。ベルリンの軍事責任者としてドイツ革命を弾圧。1933年まで、ドイツ社会民主党国会議員団の指導者。共産党との反ファシズム統一戦線を拒否し、ファシズムに対する妥協政策をとりつづける。

(12)ヒルファーディング、ルドルフ(1877-1941)……ドイツ社会民主党指導者、オーストリア・マルクス主義の代表的理論家。ヘルマン・ミュラー内閣の蔵相。1929年の世界恐慌の中で財政赤字が深刻になったとき、ヒルファーディングは蔵相として財政改革案を提案し、営業税の引き下げと消費税の増税という産業界の意向に沿った案を出したが、ドイツ工業全国連盟を中心とする産業界に満足を与えることができず、辞任を余儀なくされた。『金融資本論』など。

(13)グルツェジンスキー、アルベルト(1879-1919)……ドイツ社会民主党の幹部で、ベルリンの警視総監。

(14)これは、「コミンテルンの転換とドイツの情勢」を指している。

(15)レーニン「ロシア社会民主労働党中央委員会へ」、邦訳『レーニン全集』第25巻、311〜312頁。

(16)リープクネヒト、カール(1871-1919)……ドイツの革命家、ヴィルヘルム・リープクネヒトの息子。ドイツ社会民主党の左派。第1次大戦において、帝国議会で軍事公債にただ一人反対。ローザ・ルクセンブルクとともにスパルタクス団を結成。第1次大戦後、ドイツ共産党を結成。1919年にローザ・ルクセンブルクとともに社会民主党政府によって虐殺される。

(17)ルクセンブルク、ローザ(1870/71-1919)……ポーランド出身の革命的マルクス主義者。1894年にポーランド社会民主党を結成。98年にドイツに移り、ドイツ社会民主党の左派として活躍。1905年革命に参加。その経験をふまえてゼネラル・ストライキの理論を展開。右派のみならずカウツキーらの中央派に対しても厳しい批判を展開。第1次大戦中は国際主義者。1916年にカール・リープクネヒトらととともにスパルタクス団を結成(彼女は当時獄中)。1918年にドイツ共産党を結成。1919年にリープクネヒトとともに虐殺される。『資本蓄積論』『社会民主党の危機』など。

 


  

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