次は何か
ドイツ革命とスターリン官僚制
トロツキー/訳 西島栄
【解説】本書は、「次は何か」という名称で一般に流布しているトロツキーのファシズム論のパンフレットである(原題は「ドイツ革命とスターリン官僚制」)。このパンフレットでトロツキーは、ドイツで台頭しつつあったファシズムの危険性その本質を明らかにし、コミンテルンとドイツ共産党の政策上の誤りを詳細に暴露している。これは、1930年末に書かれた「コミンテルンの転換とドイツの情勢」以来、トロツキーが精力的に論じてきたファシズム論、コミンテルンの政策(社会ファシズム論)批判、反ファシズム統一戦線論を集大成したものである。
当時、ドイツは、第1次世界大戦による国土荒廃と経済の崩壊、戦後の巨額な賠償の重み、によって、断続的な経済的危機の状況にあった。インフレが昂進し、大量の失業者があふれ、多くの小ブルジョアジーが没落し、大資本家もワイマール共和制の中途半端な体制に不満を募らせていた。また、巨額の戦時賠償や略奪的ベルサイユ条約は、ドイツ国民の中に強烈な復讐心と国家主義的意識を蔓延させた。
経済状況が比較的安定的であった1928年の総選挙で、社会民主党が大勝し、ヘルマン・ミュラーを首相とする社会民主党中心の連合政府が成立したが(いわゆる「大連合」)、この政府は、こうした問題のどれ一つに対しても有効な解決を与えることができず、誰も満足させることはできなかった。1929年の世界恐慌は、ミュラー政権をいっそう危機に陥れ、結局、政府は右派の攻勢のもと退陣を余儀なくされた。ミュラーに代わって首相に任命されたカトリック中央党のブリューニングは、国会(ライヒシュターク)の中では少数派であったが、ヒンデンブルク大統領の大統領特別権限(ワイマール憲法第48条)にもとづく「大統領緊急令」を乱発し、繰り返し国会を解散することによって統治しようとした。この政権は明らかに衰退的ボナパルティズムの特徴を帯びており、その後に続くパーペン、シュライヒャーの政府の原型となるものであった。
そうした中で実施された1930年9月の総選挙は、共産党の躍進とともにナチス党の驚異的な大躍進をもたらした。社会民主党は得票をかなり減らした。左右の急速な成長に恐れをなした社会民主党は、ブリューニング政府とヒンデンブルク大統領を「より小さな悪」とする、いわゆる「寛容」政策をとりはじめ、ブリューニングの緊急令を事実上是認する態度をとった。さらに社会民主党は、ブルジョア政府への妥協政策をますます強め、1931年9月には、党内の左派をまとめて除名するという強硬手段に出た。このとき除名されたのが、マックス・ザイデヴィッツとクルト・ローゼンフェルトであり、この両名および共産党反対派(ブランドラー派)の一部が結びついて、社会主義労働者政党(SAP)が結成された。
社会民主党はその一方で、共産党ではなくブルジョア・リベラル派と手を結んでファシズムと対抗しようとした。こうした志向から生まれたのが、1931年12月に結成された「ファシズムに対する抵抗のための鉄の戦線」である。この「鉄の戦線」は、社会民主党指導部にとっては単なるアリバイ作りでしかなかったが、下部党員にとっては真剣にファシズムと闘うための機関であると認識された。「鉄の戦線」に結集した下部党員たちは、街頭でファシズムと衝突し、時には武装抵抗にまで至った。
こうした状況を利用して、反ファシズム統一戦線のイニシアチブをとるべきであったドイツ共産党は、コミンテルンの指導部のもと、社会ファシズム論に固執しつづけた。とくに、悲惨な結果をもたらしたのは、テールマン指導部が、1931年7月に、当時社会民主党の牙城であったプロイセン政府に反対するナチス党の「人民投票」に参加する立場に転換したことであった。これは、社会民主主義と闘うためにファシストと統一戦線を組んだことを意味しており、共産党の権威を失墜させるとともに、ナチス党の政治的影響力を強化することになった。
こうして、社会民主党の右翼日和見主義的な「寛容」政策と共産党の極左的な「社会ファシズム」政策とが相互に補い合って、ナチスの台頭をますます促進する結果をもたらした。トロツキーのこのパンフレットは、こうした状況の中で書かれたものである。
トロツキーはこの小冊子の 序文の中で、ファシズムについて次のように述べている。
「……ファシズムは、プロレタリアートのすぐ上にあってその一員に転落することを恐れている階級を立ち上がらせ、公式の国家に庇護されながら、金融資本の資金を用いて彼らを組織し、戦闘部隊に仕立て上げる。そして、これらの階層を、最も革命的なものから最も穏健なものまでを含むプロレタリア組織の全体を破壊することへと駆り立てるのである。
ファシズムは、単なる弾圧や暴力や警察的テロルの制度ではない。それは、ブルジョア社会の中にあるすべてのプロレタリア民主主義の要素を根絶することにもとづいた特殊な国家体制である。ファシズムの任務は、プロレタリア前衛を粉砕することにあるだけではなく、すべての階級を、強制された細分状態にとどめておくことでもある。そのためには、最も革命的な労働者層を肉体的に絶滅させるだけでは不十分である。すべての独立した自発的な組織を破壊し、プロレタリアートのあらゆる勢力基盤を破壊し、社会民主主義と労働組合の、4分の3世紀にわたる活動の成果を根こそぎにしなくてはならない。なぜなら、究極的には、共産党もまた、社会民主党および労働組合のなし遂げた仕事に依拠しているからである」。
トロツキーは、こうしたファシズム認識にもとづいて、社会民主主義とファシズムとを「双生児」とみなすスターリンの社会ファシズム論を批判するとともに、社共の反ファシズム統一戦線を唱えたのであった。
また、トロツキーは、この小冊子の 第7章において、グラムシの名を挙げて、次のように述べている。
「イタリア共産党は、ファシズムを「資本主義的反動」としか考えなかった。小ブルジョアジーをプロレタリアートに対して動員するというファシズム独自の特徴を、共産党は見わけられなかった。イタリアの友人たちからの情報によれば、共産党は、グラムシただ一人を除いて、ファシストによる政権獲得の可能性さえ認めていなかった」。
ここで挙げられている「イタリアの友人たち」とは、アルフォンソ・レオネッティやピエトロ・トレッソたちの「イタリア新反対派」のことを指している。トロツキーは、1932年2月8日付の新反対派への手紙の中で、次のように感謝の念を述べている。
「イタリアの新反対派へ
親愛なる同志諸君。
お許しいただきたいことがあります。私はドイツ情勢に関するパンフレットの作成に没頭していますが、それは100ページにもなりそうです。このパンフレットの一つの章にあなたたちからいただいた貴重な文書と情報を使用しました。このきわめて初歩的な章は、あなたたちにとって相対的な関心事にしかすぎないかもしれませんが、この機会にあなたたちの資料がけっして無駄にならなかったという客観的証拠として送ります(残念なことに、これはロシア語で書かれています)。すでに同志モリニエからお聞きのはずですが、次に出すおよそ16ページから20ページのパンフレットはボルディガ主義者の問題にあてるつもりです。この仕事にはあなたたちの助力が必要になります」(「2冊のパンフレット」、『トロツキー著作集 1932』上、柘植書房新社、52頁)。
ちなみに、ここで触れられている2冊目のパンフレットは結局、執筆されなかったようである。
トロツキーのこの『次は何か』は、遠いトルコの孤島に隔離された一個人がなしえた反ファシズムの最大の貢献であり、同時に、歴史において、最も優れた同時代的政治分析の一つとして残っている。また、同時代人のファシズム分析としては、ドイツ共産党反対派のタールハイマーのファシズム論と並んで、後世のファシズム研究の基礎となるものであった。
『次は何か』は、戦後、英語版からの山西英一訳のものと、フランス語版からの現代思潮社訳とがあった。ここでアップしたのは、ロシア語原文からの初の翻訳であり、インターネットにアップされたものを底本にしている。後に、ニューヨーク公立図書館所蔵の原書を確認した。
この翻訳はもともと『トロツキー研究』第34号に掲載されたものだが、当サイトにアップするにあたって、若干、訳注を充実させておいた。
Л.Троцкий, Немецкая революция и сталинская бюрократия, Издательство Бюллетеня Оппозиции, Берлин, 1932.
1、 社会民主主義2、 民主主義とファシズム3、 官僚的最後通牒主義4、 統一戦線問題におけるスターリン派のジグザグ5、 統一戦線の歴史的検証6、 ロシアの経験の教訓7、 イタリアの経験の教訓8、 統一戦線を通じて、統一戦線の最高機関としてのソヴィエトへ9、 社会主義労働者党(SAP)10、 中間主義「一般」とスターリン官僚制の中間主義11、 ソ連における経済的成功と官僚体制との矛盾12、 ブランドラー派(ドイツ共産党反対派)とスターリン官僚制13、 ストライキ戦略14、 労働者統制とソ連との協力15、 情勢は絶望的か? |
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