新しく結成された社会主義労働者党(SAP)(1)の機関紙が、社会民主党と共産党の「党エゴイズム」に反対するとき、またザイデヴィッツ(2)が、自分にとっては「階級的利益が党の利益の上にある」と言うとき、実は彼らは、政治的感傷主義か、もっと悪質なものに陥っているのである。それは、感傷的文章によって、自分自身の党の利益を隠蔽しようとするものである。それは不適切な方策だ。反動が「国民」の利益を階級の利益の上に置くよう要求するとき、われわれマルクス主義者は、反動は、「全体の」利益という外観のもとで搾取階級の利益を守っていると説明する。国民の利益は、支配階級、ないしは支配をめざす階級の観点からしか、具体化することはできない。そして階級の利益は、綱領という形でしか具体化することはできない。綱領を実現するには、政党を結成する以外にはない。
それ自体としての階級は、搾取のための材料でしかない。プロレタリアートの独立した役割は、プロレタリアートが即自的な社会的階級から対自的な政治的階級に転化した地点から始まる。それは、党を通じてしか起こりえない。党とは、それを媒介にして階級が自己意識を獲得するところの歴史的機関である。「階級は党の上にある」と言うことは、生(なま)のままの階級が自己意識を獲得しつつある階級より上にあると主張することである。これは誤りであるだけでなく、反動的でもある。統一戦線の必要を正当化するために、このような俗悪な理論を援用する必要はいささかもない。
自己意識へと至る階級の運動、すなわち、プロレタリアートを率いている革命党の建設は、複雑で矛盾した過程である。階級は均質ではない。階級の各部分は、異なった道を通り、異なった期間を経て、自己意識に到達する。ブルジョアジーは、この過程に積極的に関与する。労働者階級の中にブルジョア的機関を作ったり、すでに存在している機関を利用して労働者のある層を別の層に対立させようとする。プロレタリアートの内部では、さまざまな政党が同時に行動している。それゆえプロレタリアートは、その歴史的道程のかなりの部分を、分断されたままで過ごす。そこから――ある時期には、きわめて先鋭な形で――統一戦線の問題が生じてくるのである。
共産党は――政策が正しい場合には――プロレタリアートの歴史的利益を表現する。共産党の任務は、プロレタリアートの多数派を獲得することである。この場合のみ社会主義革命は可能になる。共産党がその使命を果たしうるのは、労働者階級内外における他のすべての政党や組織から、完全かつ無条件的な政治的および組織的独立を保持する場合のみである。マルクス主義政治のこの根本的要件を踏みはずすことは、階級としてのプロレタリアートの利益に対する最も重大な犯罪の一つである。
1925年〜1927年の中国革命が粉砕されたのはまさに、スターリンとブハーリンによって指導されたコミンテルンが、中国共産党を、中国ブルジョアジーの党である国民党に加入させ、その規律に服させたからである。国民党に対してスターリンがとった政策の経験は、革命の指導者による革命の破滅的なサボタージュの例として、永久に歴史に記されるであろう。東方向けの「労働者と農民の二階級政党」というスターリンの理論は、国民党をめぐる実践を一般化し法則化したものにほかならない。この理論を日本、インド、インドネシア、朝鮮に適用したことは、共産主義の権威を失墜せしめ、プロレタリアートの革命的発展を何年にもわたって遅らせることになった。これと同種の――本質的に背信的な――政策は、これほど破廉恥なものではないとはいえ、1928年にいたるまで、アメリカ合衆国および、イギリスをはじめとするヨーロッパのすべての国々で実施された。
共産党の完全かつ無条件の独立――どんな歴史的条件のもとであれ、プロレタリアートの発展水準がどのようなものであれ――をめざす左翼反対派の闘争は、スターリンが、蒋介石(3)、汪精衛(4)、パーセル(5)、ラディッチ(6)、ラフォレット(7)などと同盟していた時期、左翼反対派とスターリン派との関係を極度に先鋭化させた。指摘するまでもないことだが、この闘争において、ブランドラー(8)とタールハイマーは、テールマンやレンメレと同様、ボリシェヴィキ=レーニン主義者に反対して全面的にスターリン派の側に与していた。それゆえわれわれには、共産党の独立した政策の必要性に関してスターリンやテールマンの学校から学ぶべきものは何もない!
しかし、プロレタリアートが革命的自己意識に至るのは、学校的な諸段階を踏むことによってでなく、中断を許さない階級闘争を通じてである。闘争するうえでプロレタリアートに必要なのは、自らの隊列を統一することである。それは、一企業の中で起こる部分的経済争議においても、また、ファシズムの撃退のような「国民的」政治闘争においても、同じように真実である。統一戦線の戦術はしたがって、偶然的なものでも人為的なものでもなければ、狡猾なマヌーバーでもない。否、それは完全かつ全面的に、プロレタリアートの発展の客観的諸条件から生じてくる。『共産党宣言』は、共産主義者がプロレタリアートに対立するものではなく、プロレタリアートの目的や任務以外の目的や任務を持たないと述べている。これが表現しているのは、階級の多数派を獲得しようとする党の闘争は、戦列を統一しようとする労働者の要求といかなる場合でも矛盾してはならないという思想である。
『ローテ・ファーネ』は、「階級の利益を党の利益の上に置く」という美辞麗句をまったく正当にも非難している。実際には、正しく理解された階級の利益は、正しく定式化された党の課題と一致する。問題がこの歴史哲学的な議論にとどまっているかぎりは、『ローテ・ファーネ』の立場は非のうちどころがない。しかし、この主張から同紙が引き出している政治的結論は、マルクス主義をあからさまに愚弄するものである。
プロレタリアートの利益と共産党の任務とが原則的に一致しているからといって、それはプロレタリアートが全体として今日すでに自らの利益を自覚していることを意味しないし、党がいついかなる場合でもプロレタリアートの利益を正しく定式化していることを意味するわけでもない。党の必要性そのものはまさに、プロレタリアートが、自らの歴史的利益についての出来合いの理解をもって生まれくるのではないという事実から生じている。党の任務は、闘争の経験を通じて党の指導性をプロレタリアートに証明することを学ぶことである。ところがスターリニスト官僚は、コミンテルンの認印の捺された党のパスポートさえあれば、プロレタリアートから服従を要求することがいとも簡単にできると考えている。
『ローテ・ファーネ』はこう繰り返している。あらかじめ共産党の指導下にない統一戦線はすべて、プロレタリアートの利益に反している。共産党の指導を認めない者は誰でも、そのことによって「反革命的」である、と。こうして労働者は、前もって共産党組織への信頼を誓うことを強制されている。官僚は、党の任務と階級の原則的一致ということから、階級に指令を出す権利を引き出す。共産党がこれから解決しなければならない歴史的任務、すなわち労働者の圧倒的多数を自らの旗のもとに統一するという課題を、官僚は一個の最後通牒に変えてしまう。それは労働者階級のこめかみにつきつけられた拳銃となる。弁証法的思考は、形式主義的、行政的、官僚的思考に取って代わられる。
これから解決しなければならない歴史的任務は、すでに解決されたものとみなされている。獲得しなければならない信頼も、すでに獲得されたと認識されている。もちろん、それはこの上なく簡単なことだ。しかし、だからといって、物事が一歩でも前進するわけではない。政治においては、現在あるがままの状態から出発するべきであって、望ましいことや将来の状態から出発すべきではない。スターリニスト官僚の態度は、それを徹底するなら、実のところ、党の否定に行き着く。プロレタリアートが前もってテールマンやレンメレの指導を認めなければならないのなら、党の歴史的仕事のいっさいはいったいどうなるのか?
共産党の隊列に加わりたいと望んでいる労働者に対しては、党は次のように要求する権利がある。「君は、われわれの綱領、われわれの規約、われわれの選出された機関の指導を承認しなければならない」。しかし、問題が一定の闘争課題における共同行動であるときに、労働者大衆または労働者組織に向かって、前記のようなアプリオリな要求をたとえその一部でも持ち出すことは、ナンセンスであり犯罪的である。それは、党の土台そのものを掘りくずす。なぜなら党は、階級との正しい相互関係がある場合のみその使命を実現することができるからである。なすべきは、労働者の神経を逆なでし彼らを侮辱するような一方的最後通牒をつきつけることではなく、共同行動についての明確な綱領を提起することである。それが、実際の指導権を獲得するための最も確実な道なのだ。
最後通牒主義とは、労働者階級を説得できないときに彼らに無理強いしようとすることである。「君たち労働者が、テールマン=レンメレ=ノイマン(9)の指導を認めないなら、われわれは、諸君に統一戦線の結成を許さない」というわけだ。共産党の指導者たちが自ら招いている状況よりも不利な状況は、悪らつな敵でさえ思いつくことのできないものである。それは、破滅への確実な道である。
ドイツ共産党の指導部が、その呼びかけの中で、「われわれは、諸君に、前もってわれわれの共産主義的観点を承認せよと求めているのではない」という留保を詭弁的につけているのは、その最後通牒主義をよりはっきりと強調するものでしかない。これは、言いわけのできない政策に関して言いわけしているように聞こえる。「わが党は他の組織とのいかなる交渉を行なうことも拒否するが、社会民主党労働者が自分自身の組織と手を切るなら、共産主義者を自称しなくても共産党の指揮下に入ることを許可するだろう」と党が宣言することは、まさに最も純粋な最後通牒主義である。「共産主義的観点」についての留保は、滑稽きわまりない。現在すでに自らの党と手を切り、共産党の指導下に闘争に参加する用意がある労働者は、自らを共産主義者と呼ぶことに何の躊躇もしないであろう。外交的な策略やレッテル貼りは労働者には無縁である。労働者は、政治や組織をその本質に即して取り上げる。労働者は、共産党の指導部を信頼できないあいだは、社会民主党にとどまっている。確信をもって言うことができるが、大多数の社会民主党労働者が今日まだ自分の党にとどまっているのは、何も彼らが、その改良主義的指導部を信頼しているからではなく、彼らがまだ共産党指導部を信頼していないからにすぎない。しかし、彼らは今日すでにファシズムと闘いたいと思っている。共同闘争の最も当面する段階が指し示されれば、これら労働者は、自分たちの組織がこの道をとることを求めるだろう。そして、組織がその要求を拒み続けるならば、労働者は組織と分裂する地点にまで行くかもしれない。
ドイツ共産党の中央委員会は、経験を通じて社会民主党労働者がしかるべき道を見出すのを助ける代わりに、労働者に対立して社会民主党の指導者を助けている。ウェルス(10)やヒルファーディングのような連中は現在、共産党が共同闘争への参加を忌避している事実を持ち出すことで、闘争に対する自分たちの忌避や、闘争を前にしての自分たちの恐怖、闘争における自分たちの無能力を隠蔽することに完全に成功している。統一戦線政策に対する共産党の頑迷で愚鈍でナンセンスな拒否は、現在の状況においては、社会民主主義の最も重要な政治的道具になっている。それゆえにこそ社会民主党は、それ自身の寄生主義でもって、スターリン=テールマンの最後通牒主義的政策に対するわれわれの批判にすがりついているのだ。
コミンテルンの公式指導者たちは、現在、いかにも思慮深げに、党の理論的水準の向上や「ボリシェヴィズムの歴史」の研究について多言を費やしている。実際には、「水準」はますます下落し、ボリシェヴィズムの教訓は忘れられ、歪曲され、蹂躙されている。ところで、ロシアの党史を振り返れば、現在のドイツ共産党中央委員会がとっている政策の先駆者を見つけ出すのは、実にたやすいことである。故ボグダーノフ(11)がそれだ。彼は、最後通牒主義(ないし召還主義)の創始者である。1905年にすでに、ボグダーノフは、ペテルブルク・ソヴィエトが前もって社会民主党の指導を認めないなら、ボリシェヴィキがソヴィエトに参加することは許されない、と考えていた。ボリシェヴィキ中央委員会ペテルブルク・ビューローが、ボグダーノフの影響下に1905年10月に採択した決議は、ペテルブルク・ソヴィエトに党の指導を認めるよう求めること、それが認められない場合は、ソヴィエトから離脱することをうたっていた。当時ボリシェヴィのキ中央委員であった青年弁護士クラシコフ(12)は、ソヴィエトの総会にこの最後通牒をつきつけた。労働者代表たちは、ボリシェヴィキも含めて、驚いて顔を見あわせた。そして、議事に移ったが、誰一人としてソヴィエトから離脱しなかった。それからまもなくして、レーニンが外国から到着し、最後通牒主義者たちに厳しい矯正をほどこした。最後通牒によっては、大衆に対しそれ自身の政治的発展に不可欠な諸段階を飛びこえるよう強制することはできない、と教えたのである。
しかしながらボグダーノフは自らの方法論を放棄しようとはせず、その後、「最後通牒主義者」ないし「召還主義者」の一大分派を結成した。この「召還主義者」という呼称は、彼らが、「あらかじめわれわれの指導を認めよ」という上からの最後通牒を認めようとしないすべての組織から、ボリシェヴィキを召還させようとしたところからきている。最後通牒主義者たちは、その政策を、ソヴィエトのみならず、議会の領域や労働組合にも、そして労働者階級のありとあらゆる合法的ないし半合法的な組織にも適用しようとした。
最後通牒主義に対するレーニンの闘争は、党と階級とのあいだに正当な関係を打ちたてるための闘いであった。最後通牒主義者は、当時のボリシェヴィキ党の中で、いくらかでも重要な役割を果たしたことはない。さもなければ、ボリシェヴィズムの勝利は不可能であっただろう。階級に対する注意深く敏感な態度は、ボリシェヴィズムの力となっていた。レーニンは、権力の座についてからも、最後通牒主義に対する闘争を継続した。それは、とくに、労働組合に関する問題において顕著である。
「ロシアと協商国のブルジョアジーに対する未曽有の勝利の2年半後に、いまロシアにおいて、われわれが、労働組合加入の条件として、『独裁の承認』を挙げたりすれば、われわれは、実に馬鹿げたことをしでかし、大衆への影響力をそこない、メンシェヴィズムを助けることになるだろう。なぜなら、共産主義者の任務はあげて、遅れた人々を説得し、彼らのあいだで活動するすべを知ることであって、頭の中で考えだされた子供じみた『左翼的』スローガンで彼らとのあいだに仕切りを設けることではないからである」(レーニン『共産主義における左翼小児病』)(13)。このことは、西方の共産党のように、労働者階級の少数しか代表していない党にとっては、なおさら重要な義務である。
しかし、この間、ソ連における状況は根本的に変わった。権力によって武装された共産党はすでに、前衛と階級とのあいだの別の関係を意味している。この関係には強制の要素が入り込んでいる。党とソヴィエトの官僚主義に対するレーニンの闘争は基本的に、官僚機構の劣悪な構造や事務の遅滞や仕事のいいかげんさなどに対する闘争を意味するものではなく、階級に対する機構の指令体制や、党官僚が新しい「支配」階層に変貌しつつあることに対する闘争を意味した。レーニンが死の前に与えた勧告――中央委員会とは独立したプロレタリア的な統制委員会を創設すること、スターリンおよびその一派を党機構から取り除くこと――は、党の官僚的堕落にその矛先を向けていた。今ここで詳しく述べることはできないが、多くの理由から、党はこの勧告を無視した。党の官僚主義的堕落は、この数年間に行き着くところまで行っている。スターリンの機構はただ命令するだけである。しかも、命令の言葉は最後通牒の言葉である。どの労働者も、中央委員会の過去、現在、未来のあらゆる決定は無謬のものであると前もって認めなければならない。無謬性の押しつけは、政策の誤りがひどくなればなるほど増進する。
スターリン派はコミンテルンの機構を手中におさめると、当然ながら、その手法を外国の支部、すなわち、資本主義国の党の上にまでおよぼした。ドイツの党指導部の政策は、モスクワの党指導部の政策を反映している。テールマンは、自らの無謬性を認めない者はみな反革命だと宣言することで、スターリニスト官僚の命令方式を見習っているにすぎない。テールマンはスターリンよりも悪であろうか? 労働者階級がおとなしくテールマンの指揮下に入らないのは、労働者階級が反革命的であるからだ。テールマンに、最後通牒主義の致命的誤りを指摘する者は、二重に反革命的である。最も反革命的書物の一つは『レーニン全集』である。スターリンが『レーニン全集』を――とくに、その外国語版を出版する際に――あのように厳しい検閲に付しているのも、無理はない。
いかなる状況であれ最後通牒主義が有害であるとすれば、またソ連においては、最後通牒主義が党の道徳的資産を食いつぶす結果になっているとすれば、これから道徳的資産を蓄積しなければならない西欧の共産党にとっては、最後通牒主義は二重に無力である。ソ連においては少なくとも、勝利した革命が、機構の抑圧という形で、官僚的最後通牒主義の物質的前提を作り出している。しかし、ドイツをはじめとする資本主義諸国では、最後通牒主義は無力な戯画と化しており、権力に向けた共産党の発展を妨げている。テールマン=レンメレの最後通牒主義はただ滑稽なだけである。そして、滑稽であるということは、革命政党が問題になっているときには、致命的である。
この問題をいっときイギリスという舞台に移しかえてみよう。イギリスでは、共産党は、スターリニスト官僚の致命的な誤りの結果、つねにプロレタリアートの取るに足りない小部分をしか占めていない。共産主義的なものを除くあらゆる統一戦線の形態が「反革命的」であるとみなすなら、イギリスのプロレタリアートは明らかに、共産党がプロレタリアートの指導的地位に就くまで、革命闘争を延期しなければならないことになるであろう。しかし、共産党は、自分自身の革命的経験を通じる以外に階級の先頭に立つことはできない。ところが、経験が革命的性格を帯びることができるのは、何百万という大衆を闘争に引き込むことによってのみである。そして、共産主義者ではない大衆、それでいて組織された大衆を闘争に引き入れることができるのは、統一戦線政策にもとづく以外にはない。こうしてわれわれは悪循環に落ちこみ、官僚的最後通牒主義にしたがうかぎり、出口は見つからない。しかし、革命の弁証法はとっくに出口を指し示していたし、しかも、実にさまざまな分野における無数の実例を通じて指し示していた。すなわち、権力のための闘争と改良のための闘争とを結合すること。労働組合の統一を堅持しつつ、党の完全な独立を保つこと。ブルジョア体制の諸機関を利用しつつ、ブルジョア体制と闘争すること。議会の演壇を利用しつつ、議会主義に対する非和解的批判を行なうこと。部分的課題に関して改良主義者と実践的協定を結びつつ、改良主義者に対する仮借なき闘争を遂行すること、である。
イギリスでは、最後通牒主義の無力さは、共産党の極端な脆弱さのせいで、はっきりと目に見える。ドイツでは、最後通牒主義の災厄は、党の規模の大きさとその数的成長によって多少なりとも隠蔽されている。しかし、ドイツ共産党の成長は、情勢の圧力のせいであって、指導部の政策のおかげではない。それは、最後通牒主義のおかげではなく、最後通牒主義にもかかわらずなのだ。しかも、党の数的発展は決定的なものではない。決定的なのは、党と階級とのあいだの政治的な相互関係である。この根本的な領域では、状況はよくなっていない。なぜならドイツ共産党は、自分自身と階級とのあいだに、最後通牒主義という鉄条網を設けているからである。
訳注
(1)社会主義労働者党(SAP)……社会民主党がマックス・ザイデヴィッツと弁護士のクルト・ローゼンフェルトを指導者とする多くの左派代議士を追放した後、1931年10月に結成された。トロツキーはこの党の発展に期待を寄せたが、労働者階級の中に定着することはできなかった。結成当時、ドイツ国会に6人の議員を有していたが、1932年7月の選挙では7万2000票強しか獲得できず、全議員を失った。1932年春、ドイツ共産党反対派(KPO)の中で分裂が起こり、ヤーコブ・ヴァルヒャーに率いられた一派が社会主義労働者党に合流した。ザイデヴィッツとローゼンフェルトがSAPから離れた後、旧ブランドラー派が党の指導権を握った。1933年、SAPは新しいインターナショナルの結成をめぐって左翼反対派との協力に合意したが、その後態度を翻して、第4インターナショナルの反対者となった。
(2)ザイデヴィッツ、マックス(1892-?)……ドイツ社会民主党の左派で、1931年10月に社会民主党から追放され、社会主義労働者党(SAP)を創設。その後、SAPから離れ、1933年にスウェーデンに亡命。第2次大戦後、東ドイツの党および政府の中でいくつかの重要なポストに就いた。
(3)ブランドラー、ハインリヒ(1881-1967)……ドイツ共産党の創始者の一人。1921年3月事件から1923年の敗北まで党を指導。1924年に指導部からはずされる。共産党内に右翼反対派、ドイツ共産党反対派(KPO)を結成。1929年に除名。
(4)蒋介石(1887-1975)……中国の軍閥指導者、国民党の右派指導者。日本とソ連に留学。辛亥革命に参加し、孫文の信任を得る。1920年代にコミンテルンは共産主義者の国民党への入党を指示し、国民党を中国革命の指導党として称揚していた。1926年3月、広東クーデターで指導権を握り、北伐開始。コミンテルンはこのクーデターを隠蔽し、蒋介石を擁護。同年5月の国民党中央委員会総会で蒋介石は共産党員の絶対服従と名簿提出を命令し、コミンテルンはそれに従う。1927年4月12日、蒋介石は上海で国民党内の共産主義者の弾圧に乗り出し、多くの共産主義者を殺戮(4・12上海クーデター)。その後、中国共産党と対立しつつ国内の独裁権を強化。日中戦争勃発後、国共合作を行なうが、第2次大戦後、アメリカの援助のもと共産党との内戦を遂行。1949年に敗北して台湾へ。総統として台湾で独裁政権を樹立。
(5)汪精衛(1884-1944)……中国の国民党左派指導者。武漢政府の首班。コミンテルンは、蒋介石の1927年4月のクーデター後、この武漢政府をたよりにしたが、汪精衛はこのクーデターからわずか6週間後に労働者弾圧を開始した。1929年から31年まで反蒋運動に従事。対日妥協政策を主張し、抗戦派と対立。1940年、日本の傀儡政権を南京に樹立し、その主席となる。日本の名古屋で病死。
(6)パーセル、アルバート(1872-1935)……イギリスの労働組合活動家で、イギリス総評議会の指導者。英露委員会の中心的人物。1926年に起こったゼネストを裏切る。
(7)ラディッチ、ステファン(1871-1928)……クロアチアの民族主義者。1924年に農民インターナショナル(クレスティンテルン)に参加。
(8)ラフォレット、ロバート(1855-1925)……アメリカのブルジョア政治家で、1924年に進歩党の候補者として大統領選に立候補。
(9)ノイマン、ハインツ(1902-1938)……テールマン、レンメレと並ぶドイツ共産党の指導者で、「第三期」の理論家。1927年にはコミンテルンの中国責任者。1933年にモスクワ亡命。1937年にゲ・ペ・ウに逮捕され粛清。
(10)ウエルス、オットー(1873-1939)……ドイツ社会民主党の右派指導者。1919年のスパルタクス団弾圧の際、ベルリンの軍司令官として活躍。1933年まで、ドイツ社会民主党国会議員団の指導者。共産党との反ファシズム統一戦線を拒否し、ファシズムに対する妥協政策をとりつづける。
(11)ボグダーノフ、アレクサンドル(1873-1928)……ロシアの革命家、医師、哲学者、経済学者。第2回党大会における分裂でボリシェヴィキに。第1次ロシア革命後の反動期に『プペリョート(前進)』派としてボリシェヴィキ極左派の指導者となり、レーニンが『唯物論と経験批判論』でその哲学を痛烈に批判。10月革命後、プロレタリア文化運動の指導者に。晩年に輸血研究所の所長となり、自ら生体実験を行なって死亡。
(12)クラシコフ、ピョートル(1870-1939)……ロシアの革命家。1892年から社会民主主義運動に従事。『イスクラ』の受任者。1905年革命当時はペテルブルク・ソヴィエト執行委員。1918年から司法人民委員代理。
(13)邦訳『レーニン全集』第31巻、40頁。
|目次
|序文
|1章
|2章
|3章
|4章
|5章
|6章
|7章
|
|8章
|9章
|10章
|11章
|12章
|13章
|14章
|15章
|結論
|
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