1920年代中期
(1923〜26)
第10期 左翼反対派の闘争(1923〜24)
◇レーニン最後の闘争とトロツキー最初の闘争
「外国貿易の独占に関するレーニンへの手紙」(1922年12月12日)
【資料】レーニンの最後の手紙(1922年12月〜1923年3月)
【資料】ユーリー・ブラノフ『偽造され隠蔽されたレーニンの遺書』
「計画化についての一連の手紙」(1922年12月〜1923年1月)
「固定資本の更新について」(1923年2月12日)
「党の機構の再編成案」(1923年2月22日)
「工業に関するテーゼ案」(1923年3月6日)
「党に関する思想」(1923年3月13日)
「
民族問題と青年党員の教育」(1923年3月20日)「ブハーリンへの手紙」(1923年4月1日)
『
ロシア共産党第12回大会の課題』(1923年4月5日)「スターリンへの手紙」(1923年4月18日)
「工業に関する報告(ロシア共産党第12回大会)」(1923年4月20日)
【資料】「工業に関するテーゼ」
【資料】第12回大会におけるラコフスキーの演説
【資料】第12回党大会民族部会における発言(1923年4月25日)
「青年教育と民族問題」(1923年5月1日)
◇日常生活・文化・経済
「A・L・ストロングの著書への序文」(1923年1月27日)
「日常生活における必要な潤滑油としての気配りと礼儀正しさ」(1923年4月3日)
「言葉の文化性のための闘争」(1923年5月15日)
『日常生活の諸問題』(1923年夏)
「
資本主義の発展曲線」(1923年6月21日)(English)「啓蒙的官僚主義反対(非啓蒙的官僚主義にも)」(1923年8月6日)
「モスクワ婦人労働者祝賀集会への手紙」(1923年11月28日)
「軍および他のあらゆる場での官僚主義について」(1923年12月3日)
◇労働者通信員とソヴィエト・メディア
「
新聞とその読者」(1923年6月29日)「
いかなる観点からアプローチするべきか」(1923年8月8日)「軍事メディアの課題」(1924年5月10日)
「
労働者通信員とその文化的役割」(1924年7月23日)
◇青年と共産主義教育の課題
「何よりも共産主義教育を」(1923年2月21日)
「10月の世代――非党員代議員への回答」(1923年4月5日)
「『革命の根本問題』への序文」(1923年5月4日)
「一度に多くのことをしようとするな!」(1923年5月29日)
「青年は老人よりもうまく書かなければならない――『若き親衛隊』編集部への手紙」(1923年6月1日)
「党と後進民族の青年」(1923年6月12日)
「共産主義教育の課題――スヴェルドロフ大学創立5周年」(1923年6月18日)
「赤軍は教育の苗床である」(1923年5月26日)
◇赤軍建設の新しい課題と空軍建設
「赤軍の第2の5ヵ年を前にして」(1923年2月10日)
「軍事建設の課題について再び」(1923年2月18日)
「空軍は今日の課題」(1923年3月4日)
「『空軍同志会』の式典演説」(1923年4月26日)
「『経済生活』紙への手紙」(1923年5月2日)
「軍事建設の展望と課題」(1923年5月18日)
「未来の武器」(1923年5月30日)
◇カーゾンの最後通牒
「赤の広場におけるメーデー演説」(1923年5月1日)
「モスクワ・ソヴィエト緊急総会での演説」(1923年5月12日)
「モスクワ州金属労働者協議会での演説」(1923年6月5日)
「金属労働者全国大会への報告」(1923年6月16日)
「クラスニャ・プレスニャ地区党・労働組合・青年同盟・その他の組織の合同会議演説」(1923年6月25日)
◇ルール占領とドイツの革命的危機
「
『ヨーロッパ合衆国』のスローガンを出すべき時」(1923年6月30日)「反革命ないし革命の時期を設定することはできるか」(1923年9月23日)
「上院議員キングとの対話」(1923年9月30日)
「第3回金属労働者モスクワ県大会への報告」(1923年10月19日)
「輸送労働者組合第8回全ロシア大会への報告」(1923年10月20日)
「現在の情勢と軍事建設の課題」(1923年10月21日)
「ドイツ革命の敵と同盟者」(1923年10月23日)
「コムソモールの5年」(1923年10月29日)
「7年目――ロシア革命6周年」(1923年11月5日)
◇新路線論争
「中央委員会および中央統制委員会への第1の手紙」(1923年10月8日)
【資料】「46人の声明」(1923年10月15日)
【資料】「政治局員の回答」(1923年10月19日)
「中央委員会および中央統制委員会への第2の手紙」(1923年10月23日)
「中央委員会・中央統制委員会合同総会における演説」(1923年10月26日)
『新路線』(1924年初頭)
【資料】第13回党協議会での諸演説
「第13回党大会における演説」(1924年5月26日)
◇レーニンの死
「レーニンは死んだ!」(1924年1月22日)(
English)【資料】「
レーニンにおける民族的なもの」(1920年4月23日)「
レーニンの思い出から」(1924年4月23日)『レーニン論』(1924年夏)
「レーニンについての真実と嘘」(1924年9月28日)
「大きい人と小さな人」(1924年9月30日)
「行き過ぎた熱意」(1924年10月)
◇青年問題と文化教育の諸問題
「グルジア・コムソモールへの手紙」(1924年4月17日)
『
農村青年の任務と新しい日常生活』(1924年4月28日)「青年よ政治を学べ!」(1924年4月29日)
「赤軍と教育」(1924年4月30日)
「人間教育について若干」(1924年6月24日)
「レーニン主義と図書館活動」(1924年7月10日)
「レーニン主義と労働者クラブ」(1924年7月17日)
「再び労働者クラブについて」(1924年8月27日)
◇軍事理論の諸問題
「フリードリヒ・エンゲルスの新しい著作――エンゲルスの普仏戦争論」(1924年3月19日)
「内戦の諸問題」(1924年7月29日)
◇世界情勢と世界革命の展望――西方と東方
「ヨーロッパ革命への道」(1924年4月11日)
「第7回鉄道労働者大会における演説」(1924年4月19日)
「
東方における展望と課題」(1924年4月21日)「
ソ連邦と日本――『大阪毎日』特派員・布施勝治氏との対話」(1924年4月24日)「西方と東方におけるメーデー」(1924年4月29日)
「『コミンテルンの5ヵ年』の序文」(1924年5月20日)
「アムステルダム・インターナショナルと戦争」(1924年6月7日)
「
ソヴィエと・ロシアと日本」(1924年6月18日)「われわれはいかなる段階を通過しつつあるか」(1924年6月21日)
「コミンテルン第5回世界大会の宣言」(1924年7月5日)
「世界発展の展望の問題によせて」(1924年7月28日)
「ソ連は抑圧された中国の立場に立つ」(1924年8月18日)
「カバルディノ・バルカルスク自治区とその課題」(1924年9月22日)
「
世界軍国主義の成長とわれわれの軍事的課題」(1924年10月25日)「彼らは敗北する運命にある」(1924年10月29日)
◇文献論争
「10月の教訓」(1924年9月)(
English)「10月革命は生きている!」(1924年11月7日)
「われわれの意見の相違」(1924年11月)
第11期 幕間(1925〜26)
◇軍事人民委員の辞職とイーストマン事件
「軍事人民委員辞職の手紙」(1925年1月15日)
「『サンデー・ワーカー』紙への回答」
「イーストマンの著作『レーニン死後』について」(1925年7月1日)
◇利権政策、世界市場、農民
「ソ連の利権政策について」(1925年7月29日)
「チェンバレンとのインタビュー」(1925年7月30日)
『
社会主義へか資本主義へか』(1925年9月)「われわれの新しい課題」(1925年9月1日)
「イギリスの議員代表団のモスクワ訪問」(1925年9月12日)
「世界市場に向けた方向設定」(1925年9月25日)
「来るフランスとの交渉から何を期待することができるか」(1926年1月17日)
◇電化のための闘争
「電気設備の諸問題」(1925年6月12日)
「送電線を守ろう!」(1925年7月16日)
「モスクワ・ソヴィエト幹部会への手紙」(1925年7月18日)
「ドニエプル総合開発事業(ドニエプロストロイ)案の検討」(1925年7月24日)
「ドニエプロストロイ」(1925年9月3日)
「ドニエプロストロイについて」(1925年9月13日)
◇品質のための闘争
「生産物の品質と社会主義経済」(1925年7月6日)
「生産における秘伝について」(1925年7月21日)
「品質のための闘争」(1925年7月25日)
「商品の品質」(1925年7月30日)
「わが国の生産する大鎌はオーストリア製の大鎌にひけをとらないか?」(1925年8月4日)
「品質のための闘争」(1925年8月17日)
「質的指標の問題」(1925年9月11日)
「農業機械と農具を注意の中心に」(1925年9月26日)
「製革工業製品の品質改善について」(1925年10月5日)
「品質のための闘争への労働組合の参加」(1925年10月5日)
「品質のため、文化のため」(1925年11月7日)
「輸入品と加工品の品質」(1926年1月9日)
『品質のための闘争と労働者通信員』(1926年初頭)
「質的指標の確立について」(1926年2月2日)
「協同組合と品質」(1926年2月8日)
◇死者の思い出
「スヴェルドロフの思い出」(1925年3月13日)
「ミャスニコフ、モギレフスキー、アタルベコフの思い出」(1925年3月23日)
「スクリャンスキーは死んだ!」(1925年8月28日)
「スクリャンスキーとフルギンの思い出」(1925年9月11日)
「フルンゼの思い出」(1925年11月2日)
「セルゲイ・エセーニンの思い出」(1926年1月19日)
◇社会主義と女性・母親
「母性の保護と文化のための闘争」(1925年12月7日)
「社会主義を建設することは女性を解放し母親を守ることである」(1925年12月)
◇社会主義と文化・科学技術
「科学技術知識とマルクス主義」(1925年5月31日)
「技術と科学との結合」(1925年7月18日)
「D・I・メンデレーエフとマルクス主義」(1925年9月17日)
「
新しいページ――医療と文化建設活動家の課題」(1925年12月8日)「労働者通信員の当面する任務」(1926年1月13日)
「文化と社会主義」(1926年2月3日)
「ラジオ、科学、技術、社会」(1926年3月1日)
◇世界資本主義の相対的安定化と英米帝国主義
「
ヨーロッパ資本主義の安定化の問題によせて」(1925年5月25日)『イギリスはどこへ行く』(1925年半ば)(
English)「
世界経済の発展傾向の諸問題」(1926年1月18日)「
ヨーロッパとアメリカ」(1926年2月15日)『イギリスはどこへ行く』第2巻(1926年初め)
◇中国問題
「モスクワ『精神』」(1925年6月6日)
「孫晩仙死去1周年」(1926年3月12日)
「われわれの対中国・日本政策の諸問題」(1926年3月25日)
◇その他の諸問題
「農業コミューンの諸問題」(1925年12月5日)
「1905年革命20周年」(1925年12月26日)
「ソヴィエト・グルジア5周年記念」(1926年2月25日)
◇過渡期
「8年――総括と展望」(1925年11月8日)
【資料】スターリン、ブハーリン、ジノヴィエフ、カーメネフ「第14回党大会における諸演説」
「ジノヴィエフとのブロック」(1925年12月9日)
「経済的敗北主義という非難」(1925年12月12日)
「スローガンの分析と意見の相違」(1925年12月14日)
「青年労働者の集会における演説」(1925年12月14日)
「レニングラード反対派について」(1925年12月22日)
「経済問題に関するテーゼ」(1925年12月)
「
経済問題に関する覚書」(1926年1月15日)「第6回繊維労働者モスクワ県大会での報告」(1926年1月29日)
「安定化とスローガンに関するテーゼ」(1926年2月13日)
「ボルディーガへの手紙」(1926年3月2日)
「ブハーリンへの手紙」(1926年3月4日)
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