東方における展望と課題

(東方勤労者共産主義大学創立3周年記念式典での演説)
トロツキー/訳 西島栄

【解説】この演説は、東方勤労者共産主義大学の創立3周年記念式典でトロツキーが行なった演説である。この演説の中でトロツキーは、西方に比しての東方の革命的可能性について語っており、当時のトロツキーの東方革命論としてきわめて重要なものである。またトロツキーは、最も抑圧された階層としての東方の女性が果たすであろう巨大な革命的役割についても力説している。

 この演説は英訳からの翻訳がすでに『永久革命の時代――トロツキー・アンソロジー』(河出書房新社)に収録されているが、もともとの英訳が非常にぞんざいな訳であり、しかも、部分的にはしょった訳であった。今回は、『西方と東方』に収録されているロシア語原文から翻訳した。また、原文には小見出しはなかったが、読者の便宜を考えて、適当に小見出しをいれておいた。

Л.Троцкий, Перспективы и задачи на Востоке, Запад и Восток, Мос., 1924.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 同志諸君、私は諸君の細胞ビューローから、諸君の大学の3年間にわたる活動を記した資料を受けとった。その際、私の頼みで、同志たちは、あらゆる最重要点に赤ペンで印をつけてくれた。おかげで資料を理解するのが著しく容易になった。なぜなら、どう言ってよいかわからないが、恥ずかしくもあり悲しむべきことでもあるが、諸君の大学の活動――それは、式典向けのお世辞ではけっしてなく、並はずれた世界史的意義を有している――を注意深くフォローすることが、日々どころか月々の単位でさえ私にはできなかったからである。

 同志諸君、記念集会において理論的な議論で時間をとることは、おそらく一般のならわしではないが、それにもかかわらず、諸君の大学は普通の教育施設――たとえ革命的なそれであっても――ではなくて、世界史的意義をもったテコであるという、私の先の発言を裏づけるために、一般的性格を持った議論を少々展開することを許していただきたい。

 

   資本主義の2つのタイプ

 現在のすべての政治的・文化的運動は、資本主義を基礎にしている。それは資本主義から生まれ、その中で成長し、ついにそれを乗り越えてしまった。たが、資本主義といっても、図式的に言って、2つのタイプの資本主義がある――宗主国の資本主義と、植民地の資本主義である。宗主国資本主義の古典的な実例はイギリスである。現在、それはラムゼイ・マクドナルドのいわゆる「労働者」政府を頂点にいただいている。植民地については…、それらの諸国のうちどれがより典型的であるのかを言うのは難しい。それは、形式的な意味での植民地としてはインドかもしれないし、独立の外観を持ってはいるがその世界的な位置とその発展過程からすれば植民地のタイプに属している中国かもしれない。

 資本主義の古典的タイプはイギリスに見られる。マルクスは、最も先進的な国の発展を直接観察する機会のあったロンドンで、『資本論』を書いた。このことは諸君も知っている。もっとも、どの講義でそのことを学んだのかは私は知らないが…。さて、植民地では、資本主義はその土着の条件にもとづいてではなくて、外国資本の侵入にもとづいて発展する。まさにこのことが資本主義の2つのタイプを作り出すのである。あまり科学的な言い方ではないが、それでもまったく正確な言い方をすれば、マクドナルドはなぜあんなに保守的で、あんなに偏狭で、あんなに愚鈍なのか? それは、イギリスが資本主義の古典的国だからであり、この国では資本主義の発展が有機的で、手工業からマニュファクチュアを経て近代産業に至るまで、一歩一歩、「進化的」な道を通じて進んだからである。もしマクドナルドの頭を開けてみたら、昨日や一咋日の偏見ばかりでなく、遠い遠い昔からの偏見と数世紀にわたるあらゆる思想的なガラクタが見つかるだろう(拍手)。

 この点で、一見したところ歴史的な矛盾に見えることがある。つまり、どうしてマルクスが後進的なドイツに現われたのかということである。ドイツは、19世紀の前半においてはヨーロッパの諸大国のうちで(もちろん、ロシアを除いて)最も後進的な国であった。どうしてマルクスはドイツで現われたのか? そして、どうしてレーニンは、19世紀から20世紀の変わり目にロシアに現われたのか? これは明らかに矛盾ではないか! だが、それはいわゆる歴史発展の弁証法で説明されることなのである。

 イギリスの機械とイギリスの紡績を通じて、歴史は最も革命的な発展要因をつくりだした。しかし、この機械と紡績は、イギリスでは、長期にわたる緩慢な形で、一段一段と歴史的に移行する中で、形成され形づくられていった。他方、総じて人間の意識ははなはだしく保守的なものである。経済的発展が緩慢で系統的である場合、人間の頭に穴をうがつのは困難である。

 主観主義者は、そして一般に観念論者たちは、人間の意識と批判的思考等々が、あたかも曳き船がはしけを引っぱるように、歴史を前方に引っぱるのだ、と言う。だがこれは正しくない。ここにいるわれわれはマルクス主義者であり、歴史の推進要因が生産力であり、それが今まで人々の背後で発展してきたことを知っている。そして、人間の保守的な頭をたたきわって、そこに新しい政治的理念の火花に点火することが、非常に困難であること、そして、繰り返すが、発展が緩慢で有機的で目立たない場合には、とりわけそうであることを知っている。たが、宗主国、つまり、イギリスのような古典的な資本主義国の生産力が、19世紀前半のドイツや、19世紀から20世紀の変り目におけるわが国や、今日のアジアのような、より後進的な国々に侵入するとき、経済的要因が革命的な形で侵入し、古い秩序を粉砕するとき、そして発展が段階的でも「有機的」でもなくて、恐るべき激変と旧来の社会的諸階層の激しい移動を通じて起こるときには、批判的思考が革命的表現を見いだすことは――それにとって必要な理論的前提条件がその国に存在するなら――はるかに容易で急速なものとなる。マルクスが19世紀前半のドイツに現われたのはそのためであり、レーニンがこのロシアに現われたのはそのためであり、最も古く、最も発展し、最も実績のあるヨーロッパ資本主義国の一つであるイギリスに、最も保守的な「労働」党が存在するという、一見したところ逆説的な事実が見られるのも、そのためなのである。他方、経済的にも文化的にも非常に後進的な国であるわがソヴィエト連邦に、(われわれは遠慮することなく言うが、というのはこれは事実だからだ)世界で最もすぐれた共産党が存在するのである(拍手)。

 ロシアは、その経済的発展水準からすれば、イギリスのような古典的宗主国と、インドや中国のような植民地諸国の中間にある、と言わねばならない。そして、発展の手段と形態に関してわがソ連をイギリスから区別している特徴は、東方諸国の発展のうちにいっそうはっきりとした形で現われている。資本主義は、それらの国々に、外国の金融資本という形で侵入する。それはそこに出来合いの機械をもちこみ、これらの国を揺るがし、その古い経済的基礎を掘りくずし、その残骸の上に資本主義経済のバビロンの塔を打ち立てる。東方諸国における資本主義の作用は、段階的でも緩慢でもなければ、「進化的」でもなく、先鋭で、破局的であり、多くの場合、わが国よりも、すなわちかつての帝政ロシアの時よりもはるかに破局的である。

 

   東方諸国の革命的可能性

 同志諸君、われわれはこうした基本的観点から、今後数年の、いや数十年の、東方の運命を研究しなければならない。諸君が1921〜22〜23年のイギリスとアメリカの銀行報告書のような、散文的な本をとりあげるなら、諸君はロンドンとニューヨークにおける銀行の貸借対照表の数字のうちに、東方における将来の革命的運命を読みとることができるだろう。イギリスは再び世界的高利貸しとしての地位を確立した。アメリカ合衆国は、信じられないような量の金貨を蓄積した。アメリカの中央銀行の地下に眠っている金は30億ドル、すなわち60億金ルーブルにのぼる。これは合衆国の経済を溺れさせている。いったいイギリスとアメリカは誰に借款を与えているのだろうか。諸君もたぶん知っているように、彼らはわれわれソ連には与えない。ドイツにも与えない。フランスはフランを救う程度のほんのおこぼれを受け取ったにすぎない。

 では、彼らはいったい誰に借款を与えるのか? 彼らは、主として植民地諸国に与え、アジア、南アメリカ、南アフリカの工業的発展に融資する。数字は引用しないでおこう。私はここにその数字を持ってきているが、それをいちいち引用していると、私の報告をあまりにもとってしまう。次のことを言っておけば十分だろう。先の帝国主義戦争以前には、植民地諸国と半植民地諸国は、アメリカ合衆国とイギリスから、発達した資本主義諸国のおそらく半分ほどの信用しか供与されていなかったが、今では植民地諸国への金融投資は、資本主義諸国への投資を超過している、しかも大幅に超過している。なぜか? これには多くの理由があるが、主な理由は2つである。一つは、破壊され血の気を失った古いヨーロッパに対する不信である。しかも、ヨーロッパの中心部には、狂暴なフランス軍国主義――繰り返し新しい大変動を引き起こしかねない軍国主義が存在している。もう一つは、原料の供給者として、イギリスと合衆国の機械をはじめとする工業製品の消費者として、植民地諸国が必要なことである。

 大戦中および現在も、われわれが目撃しているように、植民地諸国と半植民地諸国、そして一般にすべての後進国はすさまじい工業化をとげつつある。日本、インド、南アメリカ、南アフリカ…などである。もし中国の国民党が民族民主主義的体制のもとに中国を統一することができるなら、中国の資本主義的発展は長足の進歩を遂げるだろう。そして、これは、無数のプロレタリア大衆の動員を準備し、彼らはたちまち前史的・半野蛮的状態からぬけだし、産業化のるつぼの中に投げこまれるだろう。したがって、これらの国々では、勤労大衆の意識の中に、何世紀ものガラクタが温存され蓄積されるような時間はないだろう。いやそれどころか、彼らの意識の中では、いわば、過去と未来とを一気に断ち切るギロチンが動きだして、新しい思想、新しい形態、新しい生活様式、新しい闘争手段を探し求めることを余儀なくさせるだろう。そして、まさにそれゆえ、東方のマルクス・レーニン主義の党は、ある国々でははじめて舞台に姿を現わし、別の国々では広範かつ大胆な発展をとげるだろう。日本、中国、トルコ、インド、等々の共産党のことである。

 東方諸国の勤労者の同志諸君! 1883年に、スイスでロシアの「労働解放団」が生まれた。それはそんなに遠い昔のことだろうか? 1883年から1900年まで17年、1900年から1917年までもまた17年、あわせて34年、たった3分1世紀、すなわち一世代である。アレクサンドル3世の治世にマルクス主義思想を持った最初の理論的宣伝グループが組織されてから、プロレタリアートが帝政ロシアを征服するまで、わずかに3分の1世紀かかっただけである! それを経験した人々にとっては、それが長く困難な時期であったことを知っている。だが、歴史的スケールから見れば、これは前代未聞の猛烈ですさまじいテンポである。東方の国々では、発展テンポは、あらゆることが物語るように、なおいっそう急速だろう。以上の展望に照らしてみるなら、諸君の東方勤労者共産主義大学の役割はいったい何だろうか? それは、東方諸国にとっての「労働解放団」の苗床になることである(嵐のような拍手)。

 

   東方における危険性と優位性

 たしかに、東方の若いマルクス主義者が直面する危険は大きい。このことに目を閉じてはならない。われわれは知っているし、諸君もまた知っているが、ボリシェヴィキ党は外部との困難な闘争のみならず、激しい党内闘争を通じても形成された。諸君は、1890年代のわが国において、去勢され偽造されたマルクス主義が、ブルジョア・インテリゲンツィアの政治教育にとっての格好の手段になっていたことを知っている。ストルーヴェ主義者がそれである。彼らは、その後ブルジョアジーの政治的下僕であるカデットになり、その多くはやがてオクチャブリストに鞍替えし、その後ますます右傾化していった。

 経済的に立ち遅れていたロシアは、政治的な意味でも階層分化が遅れ、成熟が遅れていた。マルクス主義は資本主義の不可避性を説いていた。社会主義のためではなく、資本主義のために資本主義を望むブルジョア進歩分子は、あらかじめ革命的な刺を取り去った「マルクス主義」を受けいれた。同じことはルーマニアでも起きた。ルーマニアの現在の支配的無頼漢たちの多数派はかつて、マルクス主義の偽りの学校を卒業した連中である。彼らの一部はフランスでゲード主義[フランス社会党の一潮流で、改良派のジョレス主義に対抗する左派のマルクス主義派]に加わった。セルビアでは、現在保守政治家および反動政治家となっている連中のかなりの部分は、若い頃、マルクス主義ないしバクーニン主義の学校に通っていた。ブルガリアでは、こうしたことは、より少ない程度でしか認められない。しかし、総じて、ブルジョア進歩的政策のためにマルクス主義を一時的に利用することは、われわれ自身の国と同様、東南バルカン諸国でも特徴的であった。

 東方のマルクス主義はこれと同じような危険性に直面しているだろうか? ある程度までは、そうだ。なぜか? 東方における民族運動が歴史における進歩的要因だからである。インドの独立闘争は、すぐれて進歩的な運動である。だが、われわれはみな、それと同時に、この闘争が民族ブルジョア的課題によって制限されたものであることを知っている。中国の解放闘争、孫晩仙のイデオロギー、これは民主主義的闘争であり、進歩的なイデオロギーであるが、それにもかかわらずブルジョア的である。われわれは、共産党員が中国の国民党を支持し、それを前に駆り立てることに賛成である。これは必要であるが、ここでもまた民族民主主義的変質の危険がある。そして、このことは、植民地的奴隷状態からの解放のための民族闘争が行なわれている東方のすべての国々にあてはまる。東方の若いプロレタリアートは、この進歩的運動に依拠しなければならない。だが、東方の若いマルクス主義者たちにとって、近い将来、「労働解放団」から引き離されて民族主義的イデオロギーに融解してしまう危険性が存在していることは、まったく明らかである。

 だが、諸君の優位性はどの点にあるだろうか? ロシア、ルーマニア等々の古いマルクス主義者の世代に対する諸君の優位性は、諸君がマルクス後の時代ばかりでなく、レーニン後の時代に生き活動しているという点にある。諸君の優位性は、諸君が歴史上レーニン時代として知られることになる時代から直接生まれたことである。

 

   マルクスとレーニン

 私は、諸君の新聞――それは、諸君の細胞ビューローから、ご丁寧にもわざわざ印を付けて私に送られてきた――の中で繰り広げられているマルクスとレーニンに関する熱心な論争を読ませていただいた。諸君は、お互いきわめて辛辣に論争しあっている。ただしこれは非難のつもりで言っているのではない。そこでは、問題は次のような形で立てられている。「ある意見によればマルクスは単なる理論家にすぎないと言われているようだ」――反対の立場に立つ人はこのようにこの意見を描きだし、そしてそれに異議を唱えている、「マルクスはレーニンと同じく革命的政治家であった。マルクスもレーニンも、ともに理論と実践とがともに手をたずさえていた」と。抽象的な一般的定式としては、これは無条件に正しくて、争う余地がない。だが、この2人の歴史的人物のあいだには重大な相違があった。それは、個性の違いばかりでなく、時代の違いからも生まれた相違である。

 マルクス主義はもちろんのこと、アカデミックな教義ではなく、革命的実践のテコである。マルクスが「哲学者たちはこれまで世界を十分に解釈してきたが、必要なのはそれを変革することである」と言ったのは、理由があってのことである。しかし、マルクスの生存中に、第1インターナショナルの時代と、その後の第2インターナンョナルの時代に、労働者階級の運動によってマルクス主義を十分かつ徹底して活用することができたろうか? あの当時、マルクス主義を実践のうちに真に実現することができたろうか? いや、実現できなかった。マルクスは、自らの革命理論を、プロレタリアートによる権力獲得という決定的な歴史的行動の中に適用しそれを指導するという可能性と幸福を持ったろうか? いや持たなかった。

 マルクスは自らの教義を、もちろんのこと、アカデミックなものとしてつくったのではない。何といっても、その教義そのものが、完全に革命の中から生まれ、ブルジョア民主主義の崩壊に対する評価と批判との所産だからである。マルクスは『共産党宣言』を1847年に書き、ブルジョア民主主義の左翼として1848年の革命を経験し、この革命のあらゆる事件をマルクス主義的に、あるいはマルクス流に評価した。彼は、『資本論』をロンドンで書き、同じころ、万国の労働者階級の先進グループを政治的に鼓舞した第1インターナンョナルを創設した。だが、彼は世界の運命を決する、あるいは少なくとも一国の運命を決する政党の指導者ではなかった。

 マルクスとは誰か、という問いに簡潔な答えを与えようとする場合、われわれはいつも、「マルクスは『資本論』の著者である」と言う。そして、われわれは、レーニンとは誰かと自問するとき、こう言う、「レーニンは10月革命の著者である」と(拍手)。

 レーニンは、他の誰よりも力をこめて、自分はマルクスの教えを修正したり、つくりなおしたり、変更したりするつもりはない、と強調した。レーニンは、古い聖書の言葉を借りて言えば、マルクスの教えを変えるためにではなくて、それを遂行するためにやってきたのである。レーニン自身、他の誰にもましてこのことを強調した。だが、それと同時に彼は、マルクスとレーニンとの間に挟まれた世代の堆積物――カウツキー主義やマクドナルド主義、労働者上層や改良主義的・民族主義的官僚の保守主義――の下からマルクスを救い出し、この堆積物と不純物と偽造物から解放された真のマルクス主義の武器を、最も偉大な歴史的行動に全面的に適用したのである。

 そしてまさに、若い世代たる諸君の最大の優位性は、諸君が直接ないし間接にこの事業に参加したということ、諸君がそれを実地に観察したということ、レーニン主義の政治的・思想的環境の中で生きているということ、この理論と実践との一致を東方勤労者大学の中でわがものとしているということにある。これこそ、諸君の巨大な比類なき優位性であり、諸君はこのことを理解しなければならない。

 マルクス自身はその理論の中で数十年いや数百年の発展の歩みを包括することができたが、彼の教えはその後、日常の闘争の中で個々の要素に分解され、ばらばらにされ、歪曲された。そこへレーニンがやってきて、マルクス主義を改めて全体にまとめ上げ、新しい条件のもとで、この教えを、最大の歴史的規模を持った行動の中で実証した。諸君はこの行動を実際に目にし、そこに参加した。これは諸君に義務を負わせる。そして、この義務の上に、東方勤労者共産主義大学が建設されているのである。

 だからこそ同志諸君、民族民主主義的変質の危険性はもちろん存在するし、一部の者ををとらえ連れ去っていくし、それは避けられないが、しかしそれでもこの危険性は、ソヴィエト連邦と第3インターナショナルが存在しているおかげで、著しく軽減されているのである。東方勤労者共産主義大学出身の中核部分が、東方諸国のプロレタリア運動において、階級的酵母として、マルクス主義的酵母として、レーニン主義的酵母として、しかるべき位置を占めるだろうと期待するあらゆる根拠がある。同志諸君、諸君に対する需要は巨大である。そしてその需要は、私がすでに述べたように、段階的にではなく、一気に、ある意味で「破局的」な勢いで発展するだろう。

 

   西方の革命と東方の革命

 私は、レーニンが書いた最後の論文の一つ「量は少なくても質のよいものを」を読みなおすことを勧めたい。それは、あたかも特殊な組織問題を扱っているように見えるが、その論文は同時に、ヨーロッパの発展と結びついた東方諸国の発展の展望をも含んでいる。

 この論文の中心思想は何であろうか? その基本思想は、西方における革命の発展が遅延しうるということである。何が原因で遅延するのであろうか? マクドナルド主義のせいで、である。なぜなら、ヨーロッパにおける最も保守的な勢力、それがマクドナルド主義だからである。

 われわれは、トルコがカリフ[トルコ国王]を廃止し、マクドナルドがそれを復活させるという光景を目にしている。これは、西方の反革命的メンシェヴィズムと東方の進歩的ブルジョア民族的民主主義とを実地にはっきりと対照させている雄弁な実例ではないだろうか? アフガニスタンでは現在、真に劇的な事件が進行中である。マクドナルドのイギリスはその地において、独立アフガニスタンのヨーロッパ化をめざす民族ブルジョア派左翼を打倒して、汎イスラム主義やカリフ体制の最悪の偏見に毒された最も蒙昧で反動的な分子を権力の座に返り咲かせようとしている。激しく衝突しあっているこの2つの勢力をとりあげるなら、なぜ東方がますます、われわれに、ソヴィエト連邦と第3インターナショナルに引きつけられているのか、たちまち明らかとなるだろう。

 われわれが目にしているように、過去の発展が労働者階級上層の途方もない保守主義をつくり出したヨーロッパにおいて、ますます経済的衰退と分解が進行しつつある。ヨーロッパに出口はない。そしてこのことは、とりわけ、アメリカが、ヨーロッパの経済的生存能力を正しくも信じていないがゆえに、ヨーロッパに借款を与えようとしないことに示されている。他方では、すでに述べたように、アメリカもイギリスも植民地諸国の経済的発展に融資することを余儀なくされており、それらの国をすさまじいテンポで革命の道へと駆り立てている。

 そして、もしヨーロッパが、労働者階級のこの愚鈍で同業組合主義的で貴族的で特権的なマクドナルド主義的上層によって、現在の腐敗状況にとどめおかれるなら、革命運動の重心は完全に東方に移動するだろう。そしてその時には、ちょうどイギリスにおける数十年にわたる資本主義的発展が、この革命的要因によってわれわれの旧ロシアと古い東方を奮い立たせるために必要であったように、今度は、東方における革命が、イギリスに跳ね返って――必要とあらば――その少々ぶ厚い頭蓋骨をぶち破るか叩き割ってヨーロッパ・プロレタリアートの革命に刺激を与えるために必要になるだろう(拍手)。これは歴史的可能性の一つである。それをしっかりと念頭において置かなければならない。

 

   東方における女性の役割

 私は諸君が送ってくださった資料を読んだが、その中に、諸君の大学の聴講生であるトルコ人の女性が、カザンにおいて、年寄りや字の読めない者を含む女性たちに向かって演説したとき、いかに巨大な感銘を与えたかということが書いてあった。これはささやかなエピソードであるが、しかしそれでもやはりそれは、一つの徴候としてきわめて歴史的な意義を有している。

 ボリシェヴィズムの意義と力と本質は、それが労働者階級の上層ではなく、一般大衆に、下層に、無数の大衆に、被抑圧者の中の被抑圧者に訴えかけている、という点にある。だからこそボリシェヴィズムは、その理論的内容のゆえではなく――それは十分に摂取され理解されたとはとうてい言えない――、その解放的精神ゆえに、東方諸国にとって魅力ある教義になったのである。

 レーニンの名前がカフカース地方の農村で知られているばかりでなく、インドの辺ぴな地方でさえ知られていることは、諸君の新聞が日々新たに伝えてくれているところである。諸君も知っているように、中国では、おそらくこれまでレーニンの論文をただの一つも読んだことがない勤労者たちが、熱烈にボリシェヴィズムに引きつけられている。なぜなら、これこそが強力な歴史の流れだからだ! 彼らは、ボリシェヴィズムこそが、貧民に、抑圧された者に、迫害された者、数百万大衆に、いや数千万、数億大衆に訴えかけていることを、それ以外に歴史的活路がないことを、それ以外に救いがないことを感じとった。そして、それゆえにこそレーニン主義は、女性労働者たちのあいだで、情熱的な共感をもって迎えられているのである。なぜなら、女性労働者ほど、この地球上で抑圧されている階層は存在しないからである!

 諸君の大学の女子聴講生がカザンで演説し、字の読めないタタール人女性を周囲に結集することができた話を読んだとき、私は、最近バクーにしばらく滞在していたときのことを思いだした。このとき、私ははじめてトルコ人の女性共産党員が演説しているところを目にし、耳にした。その会場で、私は数十の、いやおそらく数百人のトルコ人の女性共産党員を目撃した。そして、昨日まで奴隷の中の奴隷であった彼女らの熱狂、彼女らの情熱を目にし、耳にした。彼女らは解放の新しい言葉に耳を傾け、新しい生活に引きつけられている。そのとき、私ははじめて、東方人民の運動において女性たちがヨーロッパやわがロシアにおけるよりも大きな役割を果たすだろうと十分はっきりと理解し、自らにそう言い聞かせたのであった(拍手)。

 なぜだろうか? それはまさに、東方の女性たちが、男たちよりもはるかに隷属させられ、抑圧され、偏見に囲まれているからである。そして、新しい経済関係、新しい歴史的思潮が、男性の場合よりもはるかに大きな力をもって、はるかにきっぱりとした形で、女性たちを古い停滞した諸関係から引き出しつつあるからである。

 われわれが現在まだ目にしているように、東方ではいまだにイスラム教やさまざまな古い偏見や信仰や習俗が支配しているが、それはますます衰退しつつある。われわれは現在の東方を擦り切れた着物にたとえることができるだろう。遠くから見ると、あたかも無傷で模様がすべて揃っていて、ひだも以前と同じようであるが、手を大きく動かしたり、突風が吹くと、この織物全体がばらばらに崩れ去ってしまう。このように、東方には、深く根づいているように見える古い信仰があるが、実際にはそれは過去の影法師でしかない。たとえば、トルコでカリフが廃止されたが、カリフ制度に手をかけた人々の頭からは髪の毛一つ落ちはしなかった。このことは、東方の古い信仰が腐り落ちつつあること、革命的勤労者大衆の当面する歴史的運動において、こうした古い信仰が重大な障害にはならない、ということを意味している。

 だが、このことはまた、同時に次のことをも意味している。すなわち、実生活において、日常生活において、生産活動において、最も手足を縛られている東方の女性たち、奴隷の中の奴隷である彼女らは、新しい経済的諸関係に駆り立てられて、自らのベールをはぎとり、何らかの精神的支柱が必要なことをたちまちのうちに感じとるだろう。彼女たちは、社会における新しい正当な地位を自分たちに認める新しい思想と新しい意識を渇望するだろう。したがって、東方には、目覚めた女性労働者以上にすぐれた同志はなく、彼女たちほどすぐれた、革命思想の闘士、共産主義思想の闘士はいないだろう。

 

   東方共産主義大学の世界史的意義

 まさにそれゆえにこそ、同志諸君、諸君の大学は世界史的な意義を持っているのである。諸君の大学は西方におけるイデオロギー的・政治的経験を利用しながら、東方にとっての偉大な革命的酵母を準備しつつある。諸君の出番はもうまもなくである。イギリスとアメリカの金融資本は、東方の経済的基盤を破壊し、地層をつぎつぎと掘り崩し、古いものを粉砕し、新しいものへの要求を生み出している。諸君は、共産主義思想の種をもった播種者として登場しているが、諸君の革命的労働生産性は、ヨーロッパの古いマルクス主義世代の労働生産性よりもはるかに高いものになるだろう。

 しかし、同志諸君、私の言ったことから、何らかの東方的うぬぼれの精神を帯びた結論を引き出してほしくはない(笑い)。諸君のうちの誰一人として、私の話をそのように理解しなかったと思う。なぜなら、もしも西方に対するそのようなメシア的うぬぼれと尊大さに染まるなら、それは民族民主主義的イデオロギーに融解してしまう最短の近道となってしまうからである。

 いや、同志諸君、この大学にいる東方の共産主義革命家は、世界の運動を全体として検討し、単一の偉大な目的の観点から東方と西方を比較し、両者の勢力を結びつけることを学ばなければならない。インド農民の反乱、中国の港での運搬夫のストライキ、国民党のブルジョア民主派の政治的プロパガンダ、朝鮮人の独立闘争、トルコのブルジョ民主主義的再生、ソヴィエト・ザカフカス共和国の教育的・文化的活動を結びつけることを学ばなくてはならない。これはすべてを、ヨーロッパにおける、とりわけイギリスにおける共産主義インターナショナルの活動と闘争に思想的・実践的に結びつけることを学ばなければならない。イギリスでは、ゆっくりと、諸君の多くが望むよりゆっくりと、だが抗いがたい力で、イギリス共産主義のもぐらがマクドナルドの保守的要塞の足元を掘り崩しつつある(拍手)。

 諸君の3周年記念そのものが、もちろんのこと、非常にささやかな記念である。諸君の多くはまだマルクス主義の入り口にさしかかったばかりである。しかし、繰り返すが、古い世代に対する諸君の優位性は、諸君が、資本主義の支配している国々の亡命家サークルの中で、実生活から切り離されてマルクス主義のイロハを学んでいるのではなく――これがわれわれの運命であった――、レーニン主義によって獲得された土壌の上で、レーニン主義の浸透した土壌の上で、レーニン主義の思想的雰囲気につつまれた土壌の上で、マルクス主義のイロハを学んでいるということにある。諸君はマルクス主義を本から学んでいるだけでなく、この国の政治的雰囲気の中でそれを空気のように吸い込むことができる。このことは、ソヴィエト連邦に加盟している東方の諸共和国からここに来ている同志たちにあてはまるだけでなく、抑圧された植民地諸国からここに来ている同志たちにも――そして、その意義は、言うまでもなく、前者に優るとも劣らない!――あてはまる。 

 帝国主義との革命的闘争の最終章が、1年後に繰り広げられるのか、あるいは2年後ないし3年後ないし5年後に繰り広げられるのか、われわれは知らない。だが、われわれは、毎年、新しい卒業生の一団が東方共産主義大学を卒業していくことを知っている。毎年毎年、レーニン主義のイロハを学んだ、そしてこのイロハがどのように実地に適用されるのかを自分の目で見た、共産主義者の新しい核が生みだされる。

 もし1年後に決定的な事件が起こるなら、われわれは卒業生の一団を1つ持つことになる。もし2年後に起こるなら、卒業生の一団を2つ持つことになる。決定的事件が起こるまでに3年かかるとしたら、3つ持つことになる。そして、この決定的事件が到来した時には、東方勤労者共産主義大学の学生たちはこう言うだろう、「われわれはここにいる。われわれは何事かを学んだ。われわれは、マルクス主義とレーニン主義の思想を、中国、インド、トルコ、朝鮮の言語に翻訳することができるだけではない。われわれはまた、東方の勤労者大衆の苦悩と熱情と要求と希望をマルクス主義の言語に翻訳することも学んだ」と。

 「いったい誰が教えたのか」とこれらの大衆がたずねるなら、諸君はこう答える、「われわれにそれを教えたのは東方勤労者共産主義大学だ」と。そして、これらの大衆は、諸君の3周年記念日に私が今から言う言葉を口にするだろう、「東方共産主義大学に栄光あれ」と!(割れるような拍手と「インターナショナル」の合唱)。

1924年4月21日

『西方と東方』所収

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