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――医療と文化建設活動家の課題
(地区担当医全国大会における演説)
トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、地区担当医と呼ばれる末端の医者の全国大会で行なわれた演説であり、医療活動家、およびそれを含む文化建設活動家の新しい課題について語られている。この幕間の時期に、トロツキーは、台頭する官僚主義との闘争の一貫として、文化革命の問題、大衆の文化性の向上の問題に熱心に取り組んだが、この演説もその一つに位置づけることができるだろう。この中でトロツキーは、大衆の健康や生活や教育を向上させているかどうかこそが、社会主義建設の最高の基準であると述べている。また、自分自身に対して誠実でない体制、大衆を欺き自己の欠陥を隠すような体制は滅亡する運命にあるとも述べている。これらの言葉は、名指しこそしていないが、台頭しつつあったスターリニスト官僚制に対して放たれた批判の矢でもあったと言えるだろう。

 なお、この演説は、『トロツキー研究』第19号に掲載したときには「文化建設従事者の課題」としたが、これが最初に掲載された『プラウダ』と『イズベスチヤ』では「新しいページ」という題名であったことを考慮し、また、この演説の内容からして、医療の問題を中心に取り上げているので、副題に「医療と文化建設活動家の課題」としておいた。

Л.Троцкий, Новая страница: задачи работников культурного строительства,Сочинения, Том21, Культула переходного период, Мос-Лен., 1927.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 同志諸君、現在、どの大会も、とくに諸君の大会のように大規模で、一般的な意義を有しているような大会は、わが国の社会的・文化的発展の新しい時期を画する転換点となる。諸君の大会――末端の保健医療活動従事者の大会――は、およそ20年前に諸君の世界の知性を揺るがした著作を思い起させる。私が念頭に置いているのは医師で作家でもある同志ヴェレサーエフの著作である。彼は作家活動40周年をむかえ、最近新聞でも報道された。

 同志諸君、たとえば、若い世代の才能豊かな医師が、1904年から現在までを対象にした新しい『ある医師の手記』を書いたならば、それは非常に教訓的で、非常に意義深く、はなはだ啓発的な著作となるだろう。この20年間、実生活が医師にとって鈍い時も鋭い時も、そして、つらく困難な時もあった…。私は内戦期に、たまたま医師の活動を近くで観察する機会に恵まれた。おそらくこの時期は、医師の肩にかつてなく大きな責任がのしかかっていた最も困難な時期であったろう。この時期、古いロシア・インテリゲンツィアの間に激しく鋭い分裂が起きた。医師の一部は旧支配階級の一般的な流れに交じって国外に脱出した。残った者はおそらく当時はまだ判断や総括をする時間を持たなかった。なぜなら、わが国は内戦による飢饉と災厄の袋小路の中であえいでいたからである。彼らは、医師として、チフスの蔓延した県を通って若い赤軍兵士を運ぶチフス列車に乗って赤軍と行動をともにした。各列車ごとに数十人の赤軍兵士が、いやそれ以上が、行軍中に凍死体に変わりはてることもしばしばであった。そして、医師たちは、破壊と混乱がつくりだす無力さに足枷をはめられながらも、できることを行ない、多くのことをなしとげた。労働者と農民はこの時期に敵を撃退することができ、軍事干渉とその後に続いた経済封鎖の炎の包囲から脱出することができたが、その際少なからぬ貢献をしたのは、わが国の末端の医師たちである。

 同志諸君、諸君の大会はわが国の社会発展における新しい転換を画する時期に招集された。わが国ではすでに、復興期という、これまでの数年間におけるわが国の経済的・文化的仕事を規定していた用語が一般的に使われるようになっていた。だが、この用語は不正確である。この言葉の意味をよく考えるならば、それが正しくないことがわかる。なぜなら、過去にあったものをまったく復興してはいないからである。もちろん、この規定には条件的な真理がある。経済の分野において、わが国の工業生産と農業生産の水準は現在、わが国が1914年直前に到達していた水準に近づきつつある。その後わが国の経済は急速に転がり落ちていった。この意味でこれまでの数年間、とりわけ内戦終了後の4年間は復興の年月であった。

 しかしながら、戦前の経済的水準は新しい社会的形態で、したがってまた新しい文化的形態で復興しつつある。そして、過去あったものと現在あるものを思慮深く見ようと思うのなら、そしてわれわれがどこに行きつつあるのかを理解しようと思うのなら、われわれは常に、わが国の技術の発展、わが国の生産力の問題、すなわちわが国の物質的富の水準の問題を、この富の社会的利用形態の問題から区別して考えなければならない。一方は他方に依存しているが、同時に、両者はいわば社会的建造物の2つの階なのである。

 自分の考えを先鋭かつ鮮明に表現するために、私は次のように言おう。もしわれわれに先進資本主義諸国で蓄積された富が与えられたなら、われわれの社会体制はこの富を異なったように適用し、異なったように分配し、文化と日常生活において異なったように利用するだろう、と。労農ソヴィエトにおける労働の社会形態は、より高度な経済発展水準のもとでは、もちろんのこと、保健医療の分野を含むすべての分野において(保健医療は他の分野に優るとも劣らない重要性を持っており、今後ますます前景に押し出されることになるだろう)、比較にならないほど高度な成果を大衆にもたらすだろう。しかし、現在――そして、この点は誰もがきっちり理解しなければならないのだが――、われわれは去年よりも豊かになっており、2年前と比べればかなり豊かになっており、3年前と比べればはるかに豊かになっていると言うことができるが、それでもこのことは、われわれが今なおとてつもなく貧しいことを認識することを妨げはしないのである…。

 こうしたことは、言うまでもなく、事実の確認にすぎない。だが私がこのことについてるる述べてきたのは、ちょうど今日、2〜3の亡命白衛派新聞を目にする機会があったからである。私はそれらの新聞の熱心な読者ではないが、しかし、実生活においては、たまたま何かを目にするということがあり、それは必ずしも愉快なものとはかぎらない。ベルリンの新聞『ルーリ』を読んでいると、教訓的と思われる主張に出くわした。

 『ルーリ』は諸君もご存じのように非常に教養ある新聞で、そこにはカデット、技師、弁護士、それに、おそらくは医師も参加している(笑い)。そして、この新聞の11月22日付け社説は、次のように述べている。

「ソヴィエト権力の手に落ちた巨大な資本(つまり、彼らが持ちだすことに失敗した資本)は、一貫して赤字を出しており、しだいに資本そのものを食いつぶしつつある」。

 これはまったく空想的な主張であり、教養と教育のある人々の面目を直接失墜させるものである。たしかにわれわれは残された資本を消費したし、内戦時には貪欲に消費したが、しかし、もしその資本の残りがもっぱら赤字しか出していないとすれば、どのようにしてわが国の国家予算は増大したのかと問わなければならないだろう。わが国の国家予算は3年間で2倍に増大した。それは40億ルーブルに近づいた。輸出入は10億ルーブルにまで成長した。工業生産高は3年間で3倍に増大した。農業は戦前の水準に近づいた。それにもかかわらず、われわれは、自分たちに残された資本を、内戦時に完全に使い果したわけではない資本を、消費し続けているというわけだ。これでは、辻褄が合わないではないか。

 これは状況の客観的な評価ではなく、われわれに対する闘争の一環なのである、同志諸君。彼らは自分たちの憎悪する体制を転覆したがっている。われわれもかつてはこのような境遇にあった。われわれもブルジョア体制と闘争し、その転覆を切望した。そして、われわれはこの方面ではそれなりの成果を収めたということができるだろう(笑いと拍手)。しかし同志諸君、われわれが彼らと闘争していたとき、真摯かつ誠実に闘争していた。ただし、敵に対してではない。敵に対する誠実さとはいったい何のことかわからないだろう。そうではなく、自分自身の目的に対する誠実さである。われわれは理解していた。自らを欺いてはならないことを、敵のあるがままをすべて考慮しなければならないことを、そして、彼らがより強くなっているのか、より弱くなっているのかを考慮しなければならないことを。われわれは本を書いた。ウラジーミル・イリイチが当時「ウラジーミル・イリイン」というペンネームで書いた、ロシアにおける資本主義の発展についての本もある。彼はツァーリズムとブルジョアジーの貸借対照表をつけた。そして彼はどの数字に対しても――マルクス主義学派が義務づけているように――最高度に真摯で誠実で注意深い態度で接した。そして、われわれが各国の経済発展の実際の歩みを、われわれの敵の富裕化の過程を注意深くフォローしていたからこそ、われわれは敵を転覆することができたのである。

 だが、過去の科学の成果を手中にしている支配階級は、その指導機関を通じてわが国の発展を評価し、次のように述べている。われわれが赤字を出しており、資本の残りを消費しつづけており、資本そのものを食いつぶしつつある、と。しかし、統計が示すところによれば、資本主義は戦前に毎年7%づつ発展していた。すなわち、その発展の動態係数は7%であった。それに対し、わが国は現在、旧資本にもとづいて経済を復興しているとはいえ(もちろん、この留保条件は必要である)、発展の動態係数は40〜50%である。荒っぽく言えば、――これが医学用語かどうかは知らないが――白衛派の新聞の主張には、早老病の気がある(笑いと拍手)。

 諸君の時間を無駄に奪ってもいいなら、さらに2、3の例を挙げることもできる…。(「どうぞ、どうぞ!」の声)。いや、同志諸君、やっぱりやめておこう。『デーニ』という新聞のことを言いたかったのだが、――もちろん諸君はこの新聞のことを知らなかったので、引用することを求めた――この新聞はエスエルの新聞で、われわれの誤りと欠点の評価に関してさらに俗悪な冷笑を行なっている。もちろん、わが国には、成功とともに一連の大きな誤りや欠点もあるが、われわれはそれを訂正し、前進しつつある。そしてわれわれが前進しつつあることを論駁することはできない。われわれは復興過程の終りに近づきつつあるが、それは新しい社会形態においてであり、全問題は史上初めて次のように立てられたのである。この新しい社会的ソヴィエト形態は、所与の技術によって生み出されたものを取得し分配し利用するこの新しい組織形態は、どのように都市と農村の大衆の生活、大衆の教育、大衆の健康に反映しているか、と。これこそが最高で最後の基準である。

 こうした観点から、私は一つのささやかな表に大きな注意を――おそらく単に私が以前知らなかったからにすぎないだろうが――向けた。それは、母親と子供を守る全国会議における同志レベデヴァのテーゼの中で私が初めて見たものである。この表の数値は1歳未満の乳児死亡率に関するものである。たぶん、諸君の多くは知っているだろうが、改めて少々紹介したい。この表によれば、ウラジーミル県の1913年における1才未満の乳児死亡率は29%であったが、1923年には17・5%である。モスクワ県では1913年に27・5%であったが、1923年には13・5%に減っている。ニジニ・ノヴゴロド県では1913年に34%であったのが、1923年には17・3%になっている。したがって、この表から、まったく異なった地域にある多くの県で1歳未満の乳児死亡率が2分の1近く減っているということがわかる。私個人としては、単に事情に通じていないというただそれだけの理由でだが、この数字がまったく議論の余地のないものだと主張するつもりはない。権威ある同志が言うには、この数字は検証されており、まったく真面目なものだということである。いずれにせよ、これらの数字は、最も大きな社会的関心を向けられるべきであるし、万人にとって議論の余地のないものとなるよう、最も慎重な――専門的のみならず社会的な――検証に付すべきであろう。

 これらの数字は何を意味しているだろうか? これが意味しているのは、現在よりもかなり貧しく、戦前の1913年と比べればはるかに貧しかった1923年に(私の記憶するかぎり、1913年は特別に伝染病や病気その他が流行した年ではなかった)、社会の新しい組織形態、大衆の文化性の顕著な向上、そしてこれらと結びついた諸結果のおかげで、乳児の死亡率が著しく減少しえたということである。

 もう一度言うが、これらの数字は、それにふさわしい社会的比重を持つことができるよう最も慎重な検証に付すべきである。もし乳児死亡率の低下というこの事実が議論の余地のないものだとしたら――私はそうであることを望むが――、これは、文化活動従事者の今後の成功と成果にとって例外的に有利な徴候を内包しているし、ここに来られている保健医療活動従事者にとって重要な位置を持つことになるだろう。なぜなら、明らかに、技術の発展、生産力の発展は、ますます文化的蓄積を高めていく特定の社会的労働組織に引き渡され、勤労大衆の利益のために利用されることになるからである。つまり、保健医療の分野においては、時がたつにつれてますます、われわれの前にまったく果てしなく大きな展望が開かれるだろう、ということである。

 以上の点にもとづいて、われわれは次のように問題を立てることができる。どこで、どのような分野で、どのような線にそって、現在、保健医療と文化の分野におけるわれわれの成功を制限している境界線が引かれているのか、社会的な枠組みの線にそってか、物質的資源の線にそってか。

 私が個人的に考えるところでは――そして、諸君の多くも経験から納得していただけると思うが――、われわれの限界は社会的形態の分野にではなく、手持ちの物質的資源の分野にある。わが国の社会的形態は柔軟性があり、勤労大衆の利益に奉仕することに100%向けられている。この点でも誤りや誤算はありえるが、これらの大衆に敵対する階級的意志はここにはない。この社会的形態は大衆の明確な意志、自分自身に、自分の利益に向けられた意志を表現している。全問題は、この社会的形態がどれぐらいの資源を有しているか、ないしは、現在のネップ期の言葉に翻訳すれば、それがどれだけの資金を有しているのか、ということにある。これが第1の主要な限界である。

 しかし、別の限界もあり、これもまた過去の時期から受け継いだきわめて本質的なものである。それは、わが国の社会体制における内的諸矛盾であり、われわれはまだそれを一掃していない。その主要なものは、生活水準と文化水準における都市と農村との矛盾である。この矛盾を一掃し永遠に葬り去ることは、社会主義の発展における最も困難な課題である。都市と農村との矛盾は何世紀にもわたって蓄積され形成されてきた。資本主義の最後の段階は、この矛盾を最高水準にまで持っていった。

 わが国は革命以前にすでに、その工業と冶金業におけるヨーロッパ的(部分的にはアメリカ的)諸特徴と、中世的・アジア的野蛮の諸特徴とを結びつけていた。わが国ほどこの矛盾が先鋭になったところはどこにもない。この矛盾は――われわれは現在その除去に向けて最初の一歩を踏み出したにすぎない――、たとえばモスクワとモスクワ近郊の農村とを対比させるならば、最も明白に現われる。モスクワは文化的な大都市であり、夜になると天まで照らす光の丸屋根にかこまれている。だが、そこから10〜15ヴェルスタ[1ヴェルスタは約1キロメートル]離れると、古い箱を組み合わせて作ったも同然の丸太小屋の農村がある。無知、雪のふきだまり、数世紀にわたる偏見…。都市と農村の矛盾を克服すること、農村を都市における最高の水準にまで引き上げることは、社会主義の基本的任務である。農村で活動している諸君は、その一歩ごとに農村の後進性、非文化性、貧困、分散性、道路の不足と遭遇する。しかし、この第2の限界は絶対的なものではなく、経済と文化の発展に応じてしだいに取りのぞいていくことのできるものである。

 この会場で代議員に配られている冊子を見ると、諸君の活動区域についての数字があった。モスクワの担当地域の半径が7ヴェルスタ、工業諸県が12ヴェルスタ、農業諸県が22ヴェルスタ、北カフカースが14・5ヴェルスタ、ウラル地方が46ヴェルスタ、自治区と自治共和国が22ヴェルスタ、シベリアが48・5ヴェルスタである。これほどのロシア的規模を走破するのは、道路が不足し、田舎道しかないもとでは、数ヵ月ではとても無理である。この半径はわれわれの貧しさ、われわれの文化的後進性を測る単位である。そして、それとともに、この半径は、国の一般経済的・文化的課題の観点から保健医療の問題にアプローチする必要性を、医師である諸君に提起している。

 たぶんバルザックだったと思うが、残りの生涯をフランスのどこかの地域の道路建設に費やした理想主義者の老齢の医者について書いた小説がある。この問題において、医師たちは、医師でありつづけ保健医療の必要と利益にもとづこうとするなら、頭を高くあげ、地方のイニシアチブを喚起し、このイニシアチブを中央のイニシアチブと結合させなければならない、と私は思う。当面する時期におけるスローガンの一つは、「橋と道路を」だろう。われわれは、都市と農村のスムィチカ[提携]について、工業と農業のスムィチカについて語っているが、都市の文化・文明と農民の日常生活とのスムィチカなしには、われわれはこれらのスムィチカに到達することはないだろう。なぜなら、スムィチカとは抽象的な理念ではなく、具体的で生きた事実であり、都市と農村とをつなぐ道路こそがスムィチカにいたる基本的な道だからである。

 道路のための闘争は文化のための闘争である。文化のための闘争はよりよい保健医療事業のための闘争である。

 さらに、末端の医師の文化的な創造的努力にとってある程度まで障害となりうる第3の客観的条件が存在する。それは、わが国の農民の階層分化という事実である。われわれは社会主義への途上において、各市民が自己の義務を自覚することにもっぱらもとづいて建設を進めることがまだ問題となりえないような経済発展段階、人民大衆の文化の発展段階にいる。個人的な利害関心がまだ必要である。個人的な利害関心は一般的貧困という事実を反映している。義務感と個人的な責任感にのみもとづいて社会主義を建設することは、貧困が過去のものとなり、文化が現在よりもはるかに高度なものとなっている場合にのみ可能となるだろう。都市労働者の賃金の分野においては、工業は、最初の即興的な純均等配分制から出来高賃金制に、すなわち、労働に対する支払いが労働生産性(労働密度を含む)によって直接規定されるシステムに移行することを余儀なくされた。2000万の個々バラバラの農家によって構成されている細分化した農村においては、各農家の個人的利害関心は市場を通じて表現される。だが市場は自動的に機能し、ある農家を向上させ、別の農家を零落させる。農村において階層分化が進行していることは一つの事実であり、この階層分化のテンポは将来の問題である。ここで必要なのは、考慮、慎重な分析、慎重な記録である。

 言うまでもなく、末端の医師(地区担当医、農村医)はその仕事において多かれ少なかれ一歩ごとに農民の分解と階層分化に出くわすだろう。もちろん、クラークは医師の助けをより手に入れやすい。なぜなら、彼らには大きな自由時間があるし、総じてさまざまな手段があるのに対し、貧農は全体として馬なし経営者――彼らがそもそも経営者であるとすればの話だが――だからである。それゆえ、農村医の仕事の特殊性は、農村の経済過程のすべての裏側を観察して、その最も切実な側面からその経済過程にアプローチすることである。末端の地区担当医は疑いもなく、現代の農村の全経済過程に社会的な医学的評価を与え、ソヴィエト権力が農村に至る道を見いだすのを助けるだろう。その道とは、真の農民大衆、すなわち圧倒的多数を占めている中農と、病気に最も苦しみ医学の助けが最も不足している貧農に医学の助けを保障する道である。

 われわれの欠陥はあらゆる分野にある。そして、この点では、今日来られている方の中にも、なにがしかの懐疑主義の傾向をもって考えている医師も1人ならずいることだろう。

「たしかに、いま言われたことはすべて結構なことだ。広範な社会的・文化的課題に社会主義的展望。だが、半径40ヴェルスタもある私の担当地区に来て、雪だまりを飛び越え、農民がぬかるみとあらゆる重い病気と無学と無知の中にいるのを見たまえ」。

 もちろん、現実を糊塗するために展望を語ることも可能である。しかし、事実を糊塗するような体制は滅亡を運命づけられた体制である。だがわれわれは新しい体制を「真剣かつ長期にわたって」建設しており、何事についても沈黙するべきではない。疑いもなく、わが国には医学の分野においても、その他のあらゆる分野と同じく、要求が――必要については言うまでもなく――能力と供給をはるかに上回っている。モスクワでは現在、繊維製品を売る店の前に行列ができている。地方ではその行列はさらに長い。40度のウオッカを売る店の前に並んでいる行列についてはもはや言わないでおこう。したがって、同志スミドヴィッチが歓迎演説の中で、この分野ではなすべき大きな仕事が医師にはあると指摘したのも偶然ではない。だが、私としてはこの問題に話をそらしたくない。たしかに、行列は存在する。それはその通りだ。確信をもって予想できることだが、何らかの白衛派の新聞、たとえば同じ『ルーリ』に、現在におけるわが国の行列を、帝国主義戦争の終りの時期と革命の最初の数年に見られた行列になぞらえようとする社説が掲載されることだろう。

 転じて、医学の分野、医師の助けを必要とする分野でも、「行列」について語ることができるだろう。諸君に配られた論文集の中のある論文に、医学の助けを求める農民の要求が増大しているが、それを満たす可能性は以前と同様ほとんどないと指摘しているものがあった。まったく同様に、女性と子供の保護に関するテーゼの中にも、農村における夏期託児所に対する農民の要求が増大しているが、それを満たす可能性は今のところまだほとんどない、と指摘されている。

 しかし、同志諸君、現在において7〜8年前の時と同じく行列が見られるということは(もちろん、これは重大な問題である)、必要と能力との間に、需要と供給との間に何らかの不一致があるということを示している。だが、そうだとしても、この類似性の背後に本質的な相違があることを看過するべきではないだろう。7〜8年前においては、わが国の行列は国の経済的瓦解の中で起こっていた。当時、誰もが今日あるものなら何でも手に入れようと欲し、要求を最低限に切りちぢめ、その最低限ですら明日には手に入らない最大限になるというありさまだった。当時の行列は、経済的・文化的瓦解による行列であった。だが現在はどうか。統計と数字を取り上げてみたまえ。農民の家族と労働者の家族を取り上げてみたまえ。繊維製品に関しても、皮革や釘やその他すべての分野に関しても、われわれは5〜6年前よりもずっと豊かに、比べものにならないほど豊かになった。しかし、要求は、それを満たす可能性よりもはるかに大きく増大している。こうした要求の増大はあらゆる分野に示されており、あらゆる分野に圧力をかけている。医学や薬や医師について老農夫がどのように考えていたか諸君は知っているだろう。私としてはこの考えを示す例を挙げようとは思わない。興味のある人はダーリの辞書をのぞいてみればよい。そこには、これに関する実に教訓的な格言が集められている。だがわれわれが現在目にしている状況はどうであろうか? 現在、農民は医学や医師に対して十把一からげ的な不信を向けているだろうか? 否、否だ。もちろん、旧来の地方自治医もこの点では多くのことをなした。このことを否定することは愚かしく馬鹿げたことだろう。だが、新しいソヴィエト医学と一般の農民の文化的向上によって、多くのことが、非常に多くのことがなされたのである。

 6年前の保育所の場合をとりあげよう。当時、農婦は保育所に対して、まるで異教徒のデマゴギーに対するがごとく接し、そこから子供を連れ出そうとした。だが今では、農婦は反対に、保育所に自分の子供が入れるよう要求している。1人、2人、3人と要求していくようになり、行列ができている。そしてこの行列は、わが国の経済的・文化的発展の行列である。

 一昨日、ある電気技術トラストの議長が別のトラスト――同じ電気技術関係であったが――の議長に、とても注文に追いつかないと愚痴をこぼした。まったくその通りである。注文書類に目を通せば、注文が生産能力以上に来ていることがわかるだろう。私は彼にこう述べた。「親愛なる君よ。君は、モスクワやサラトフの繊維製品の店で財布をもって並んでいる主婦と同じように、行列の中に立っているのだ」。目に見える行列もあれば、目に見えない行列もある。医療の行列も存在する。その中には、農民向けの医療分野も含まれている。

 この要求の高まりは何から生じているか? これは一般的な衰退からではなく、反対に上昇から生じている。それはわれわれの能力を追い越しているため、大きな矛盾を生み出している。このことから自然に不平や不満が生じているが、それとともに、この高まりはわが国のさらなる発展を促す最も重要な推進力でもある。偉大な革命家フェルディナンド・ラサールはかつてドイツ労働者についてこう言ったことがある。彼らは物質的に貧しいだけでなく、自分たちの貧しさの認識の点でも貧しい、と。すなわち、彼らにはよりよい生活への要求がない、と。そして10月革命の基本的な成果はまさに、勤労大衆が貧困、無知、無権利に甘んじることを永遠にやめさせ、それによって、次々と新しい、ますます増大する要求の圧力を引き起こしたことにある。今後も長きにわたって、要求と能力との間の不一致が、そしてそれから生じるところの行列が見られることだろう。だがこの行列は、わが国の文化的発展の行列なのだ。

 私がこのような一般的考察を行なったのは、医者の良心を意識的になだめるためではなく、医師たちの仕事に批判的に向き合うためである。医者は住民の最も身近にいて、プラスとマイナスを目にし、社会の裏側を目にしているので、公的で半官的な宣伝が描きだすような「豊かな暮らし」像でもって医者の目をくらますことはできない。しかし、医師たちは、他のすべての意識的・社会的・文化的働き手と同じく、わが国の現在における矛盾を見るだけでなく、その過去の原因と未来の克服の可能性についても理解しなければならない。われわれは、わが国のプラスとマイナスがすべての市民にとってますます明瞭になる状態へと日々ますます接近しつつある。何といっても、わが国の社会体制の全核心は、すべての社会関係の完全な明瞭さと透明さを実現しようと努力し、それを少しづつ実現しつつあるという点にこそあるのだから。

 資本主義体制――古い封建体制や君主制は言うまでもなく――は、完全に欺瞞にもとづいている。それに対してわれわれは、われわれの社会体制の全体を――そして、われわれはそこに向けて足を踏み出し、かなりの前進を遂げたのだが(この点に関し、私はすべての人々に、いわゆるゴスプランの目標数値を参照してくださるようお願いする)――、われわれの社会関係を、われわれの長所も短所も、すべての男女労働者、すべての男女農民、すべての文化活動活動家の前に開かれた本とすることを望んでいる。

 われわれが蓄積を必要としているのは、戦前の水準を復興するためではなく、国の全固定資本[基礎的資本]を更新するためであり、新しい原理にもとづいてそれを更新し拡張するためである。われわれには蓄積が必要である。そして、人民の労働のこの蓄積から、われわれは、時がたつにつれてますます多くの価値を文化的必要と、とりわけ保健医療に回すだろう。

 われわれは人民の、国の物的生産手段を更新しなければならない。これは、工場とその機械設備の更新を意味する。これは、農民にソハー[鉄製のすき]、砕土機、トラクターを供給することを意味する。だが、物的生産手段とは何よりも労働者自身と農民自身を意味する。国民の資本、人民の資本、国の資本を更新することによって、われわれは、人民の健康の基礎的資本をも更新しなければならない。なぜなら、わが国ほど人民の運命がその健康にかかっている国はないからである。というのも、われわれが後進的な国民だからである。わが国においては、機械じかけの労働者、すなわち機械が、生きた労働者に比べて、他の国よりもはるかに小さな役割しか果たしていない。アメリカでは赤ん坊も含めて市民1人あたり40の機械じかけの労働者がいるのに対し、わが国では、ソヴィエトの市民1人あたりようやく一つの機械じかけの労働者がいるにすぎない。

 このように、今のところ、わが国の物質的資源は狭く限界づけられている。わが国はある程度まで、生きた労働者の肉体的力にもとづいて向上していくことになるだろう。この肉体的力を保護し、高め、発展させ、強化しなければならない。われわれはソヴィエト共和国連邦の基礎的な人的資源を更新しなければならない(拍手)。

 同志諸君、この仕事において医師たちが自らの役割を果たし、自らの義務を果たすだろうことを、私は疑わない。もちろん、医師たちの中にあたかも懐疑主義者がいないとか、疑いを抱いている者がいないかのような幻想を私はまったく持っていない。そのような者は当然いるだろうし、かなり長い間そうであるだろう。しかし、勤労大衆と苦労をともにしたこの8年間は、この8年間の仕事と闘争は、ここに来られている医師のカードルを勤労大衆の建設事業に永遠に結びつけたのである。

 ところで、私は最初に亡命派の新聞を引用したが、その亡命派の新聞の中に、パリで出されているミリュコーフの新聞がある。その11月21日付けに、わが国のインテリゲンツィア、とくに医師について論じた社説があるのをたまたま見つけた(同じ日のことだ)。「ロシア国内のインテリゲンツィアの相貌」、これが社説の表題である。ロシア国内のインテリゲンツィアがロシア国外のインテリゲンツィアと区別されている。「ロシア国内の」というのは、単にロシアにいるということなのか、このインテリゲンツィアがロシアの人民と一体になって生活しているという意味なのか、この筆者は説明していない。ここでは、ロシア国内のインテリゲンツィアがきわめて微妙で複雑な形で線引きされている。その社説が言うところによると、このインテリゲンツィアの中には、時代遅れの支配グループもあれば、神経質に反応するグループもいる。労働組合活動家のような熱狂主義者のグループもいるし、共産主義の側に進化しつつあるグループもいるし、宗教問題に心を奪われているグループもいる。このように一連のカテゴリーに分けられている(この社説では「これらのカテゴリーに選別すれば」と書かれている)。個々の細かい髪の毛に至るまでがこの社説では4つの部分に分けられ、顕微鏡的・化学的分析にかけられている。そして次のような慰め的結論が導きだされる。

「このような吟味から明らかに、ロシア国内のインテリゲンツィアとロシア国外のインテリゲンツィアとの間には乗り越えがたい決定的な壁など存在しないという適切な結論を引き出さなければならない」。

 つまり、ロシア国外のインテリゲンツィアにも、時代遅れになった者や、支配している者や、進化しつつある者等々のグループがいるということである。したがって、筆者は向こうのインテリゲンツィアとわが国のインテリゲンツィアとの間に乗り越えがたい壁はないと結論づけるわけである。だがわれわれには、このような精緻な心理学的分析を、このような政治的・心理学的駄弁を、より正確に言えば、この新聞の嘘を退けて、次のように言う完全な権利があると私は思う。親愛なるロシア国外のインテリゲンツィアよ、君たちはそこで何をしているのか? 君たちは、国が最も苛酷な闘争の中で、戦争と封鎖の中で、自己の生存を防衛している時に国を出ていった。君たちは、あらゆるブルジョア諸国の中で資本と地主の施しを受けて新聞を発行している。そして、乗り越えがたい心理的壁などないとのたまっている。だが、わが国の、モスクワ県やサラトフ県の農村にいる人々、アゼルバイジャンやトルクメニスタンにいる人々、労働者と農民の間にいる人々は――そして「無知」な農民だけでなく、歴史家が、おしゃべり屋ではない未来の真摯な歴史家が――こう尋ねるだろう。ロシアの医師にいったいどんな心理的カテゴリーがあてはまるというのか? いや、こう尋ねるだろう。この年月に彼らはどこにいて、何をしていたのか、と。

 われわれは言う。壁はあるし、この壁は乗り越えがたい、と。ロシア国外のインテリゲンツィアがヨーロッパ資本の居候としてとどまり、ヨーロッパ・ブルジョアジーのおべっか使い、乞食としての役割を演じ、その施しを受けて新聞を出している時に、この時にロシア国内のインテリゲンツィアは、ニュアンスや共感や過去の思い出にそれぞれ違いがあるとはいえ、わが国、わがソヴィエト連邦の人民のもとに、労働者と農民のもとにとどまったのだ。あちらにいるのは、おべっか使い、居候、ねたみ屋、ヒモ。だが、こちらにいるのは建設者であり、英雄であり、文化建設活動家である(嵐のような拍手)。

『プラウダ』第281号

1925年12月9日付

ロシア語版『トロツキー著作集』第21巻『過渡期の文化』所収

『トロツキー研究』第19号より


  

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