レーニンの思い出から

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、1924年4月23日に行なわれたソ連鉱山労働者組合第4回大会「レーニンの思い出の夕べ」における演説である。レーニンが死去して数ヵ月後のレーニンの誕生日に行なわれた追悼の演説である。この演説の中でトロツキーは、在りし日のレーニンの生き生きとした像を再現している。翻訳は同名のパンフレットから。

Л.Троцкий, Из воспоминаний о В.И.Ленине, Закнига, Тифлис, 1924.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 諸君の集会には、ソヴィエト連邦全土から鉱夫の代表者が出席しており、このような非常に重要な労働者集会において、ウラジーミル・イリイチの思い出について演説することは、非常にたいへんで責任重大なことである。

 現在、われわれの集会、われわれの新聞雑誌はすべて、現在イリイチの旗の下にある。どの労働者集会であれ求められるのは、何ごとかを聞き、何ごとを知ることであり、われわれから消えていくイメージを何とかして心にとどめることである。それをすることは難しい。なぜなら、それは大急ぎで行なわれるからである。われわれは大急ぎで政治的テーマで演説を行ない、大急ぎで末端における日常的な扇動向けの政治的スローガンを投げかける。しかし、ウラジーミル・イリイチについて大急ぎで語ることはできない。巨大なスケールを持った政治活動家、革命家、人間のイメージを部分的であれ再現することは、大急ぎでできることではない。過去の思い出を集めるために、そして、自然の力がこれ以上長くその生命力を支えなかった人物のイメージに心のまなざしを向けるために、思考は何らかの特徴、何らかの手がかりを探し求める。そのために必要なのは、ある種の、例外的に巨大なスケールを持った芸術家、骨の髄まで革命家である芸術家である。だが、ゴーリキー(1)によって書かれた論文は、私をけっして満足させるものではない。ゴーリキーはイリイチを理解していないし、インテリゲンツィア的感傷にもとづいて彼を扱っている。そのような姿勢は、この数年間におけるゴーリキーに特有のものであり、レーニンの人柄、その人物像、その精神と深刻に対立している。

 私がいま思い出すのは、10月革命に先立つ数ヶ月間、すなわち5月から11月7日までの時期のウラジーミル・イリイチである。彼は、その直前に、15年近く亡命生活を送っていた国外から帰ったところだった。それはすでに、その精神的成長が完成の域に達していたイリイチだった。それは、彼が果たすことになる例外的で、およそ並ぶもののない歴史的な役割に対する準備が完全に整った政治家、革命家、人間だった。

 彼は、明確な構想、はっきりとした革命的綱領をたずさえて帰ってきた。彼はその綱領を、スポットライトの照明を浴びながら、装甲車の上からピーテルの労働者に大声で訴えた。ロシアとの接触、交流、すなわち、ロシアの労働者大衆、塹壕からの兵士代表、当時ペトログラードにたくさんいた農民代表たちとの接触、交流は、彼の定式を生き生きとした中身で満たしたにちがいない。そしてそれは、きわめて説得力にあふれ、きわめて内容豊かなものであったがゆえに、彼の言葉は絶対的とも言える意義を獲得した。彼はまるで、革命の今後の歩みやわれわれの前に立ちはだかる危険性を、物理的な触覚として感じ理解している人間という印象を与えた。彼がたずさえてきた定式は、血と肉によって確証され満たされた。そして彼は革命の焦燥感に身を焦がしていた。この巨人のような人物の内部では、意志と意識によって抑えられていた革命的焦燥が煮えたぎっていた。彼は、労働者の水準、意識を飛び越えることができないことを明確に理解していたが、同時に、この水準が成長すること、その全本質からしてこの時期を速めることも理解していた。

 第1回全ロシア・ソヴィエト大会の席上で、チヘイゼ(2)が、同志レーニンに挨拶をいただきたいと言ったときのレーニンの姿を思い出す。

 レーニンは、自分にとって疎遠な聴衆の中で演説するのが嫌いだった。彼は、フランス的な意味での演説家ではなかった。彼は自分の考えをもっていたし、それを語る必要のある人々に対して語り、誰にも真似できないようなやり方で語ることができた。とくにウラジーミル・イリイチが嫌悪したのは、第1回大会のような、メンシェヴィキとエスエルの有力者の集会で演説することだった。

 彼は、しなやかで生き生きとした確固たる足どりで演壇に向かった。会場は何かを待ち受けるように固唾を飲んだ。演壇には、あまり背の高くない、がっしりとした人物が現われ、集まっている面々に少し不機嫌そうな顔を向けて、こう説明した。革命の原理を真に実行するためには大資本家を50人から100人ほど逮捕する必要がある、と。これはまさに、末端のプロレタリア的で平民的な真の問題設定だった。あたかも彼はこう言っているようだった。資本家に対する労働者の恐れを打倒せよ、そして、本当に革命が行なわれていること、これによって大衆的革命行動の真の原則を実行に移すのだということを資本家にわからせよ、と。レーニンのこの演説は嘲笑を買った。

 第2の場面。同じ大会の場で、どの政党も単独で権力をとることのできないような状況にあると言われた。だがレーニンは断言した、そのような政党はある、それがわれわれの党だ、と。彼の声は落ち着き払っていた。だがわれわれは少数の集団だった。大会の10分の9はメンシェヴィキとエスエルで構成されていた。軍隊は彼らに従っているとみなされていた。それゆえ、同志レーニンがそのような発言をしたとき、会場は、「ハハハ」というエスエルとメンシェヴィキの笑いで包まれた。しかし、この笑いにはすでに不安の影が混じっていた。権力を自己の手中に握る用意のある党が存在している、と落ち着き払って宣言する壇上の人間、これこそまさに言葉では言い表せない稀有な人物像であった。

 彼の後に話したのがケレンスキー(3)だった。ケレンスキーは、別世界から来た人間という印象を与えた。彼は集まった人々に不安の感情を呼び起こした。それはまだ漠然としていたが、後にはっきりとしたものになった。

 レーニンに深く浸透していた思想は、シンプルなものであったが、彼らにとって恐るべき思想であり、エスエルとメンシェヴィキの世界に不安を呼び起こした。レーニンは、その演説の中でこう述べた。諸君は、メンシェヴィキとエスエルが自分たちの計画のあれこれの章句について論じているこの会議の場において歴史がつくられていると思っている。いや、歴史は、現在、最も深い深部で、底辺で、塹壕で、装甲車で、農村でつくられているのだ。歴史は社会の深部で勤労大衆によってつくられつつある。彼らは、過去のすべての屈辱を清算しようとはじめて立ち上がりつつある、と。

 そして、10月革命前の時期における大衆の圧力、革命的高揚について思い出すとき、当時におけるレーニンのさまざまな姿の中でも、とくにこのときのことが思い浮かんでくる。

 ブレスト講和のときを思い出す。レーニンの功績はこの講和を結んだことにあるのではない。彼の功績は、10月革命からブレストへと革命の列車が全速力で進んでいるときに、この偉大な革命家が大胆にもこの転換をやってのけたという点にある。全体として同一の目的に一貫して従いながらも、彼は、この目的を実現する手段の選択に関して、最大級の政治的巧みさと柔軟性を発揮した。彼の目的は、人類の全面的な解放とその改造である。この目的は骨の髄までレーニンに浸透していた。哲学的世界観における唯物論者であるレーニンは、労働者大衆が自己解放のために立ち上がるという信念に関しては最も偉大な道徳的理想主義者であった。禁欲的で厳格で控えめであった彼は、けっしてこのことについてくどくど語らなかったが、時おり、一言で深い確信を表明した。それについて語るとき、手短に話したものだった。

 ツェレテリ(4)が労働者の武装解除について演説したときのことを思い出す。この発言は、ウラジーミル・イリイチに衝撃を与えたように思われる。イリイチの顔の表情、その頭の動きは、あたかも深い人間的憐れみと羞恥心を表わしているように見えた。社会主義者が労働者の武装解除について語ることは、自らの過去すべてを葬り去ることを意味したからである。

 レーニンがブルジョア・ジャーナリストと打ち解けて話し合う姿を想像することは、とてもできない。レーニンは深遠な心理学者であり、相手の人間をその所属政党にかかわりなく評価し、あたかも相手が自分の手の平にあるかのごとく、相手の力量を推しはかることができた。しかし、けっして、尊大ぶった寛容さや道徳的無関心と呼ばれるようなものを示すことはなかった。彼にはそんなことはできなかった。なぜなら、彼自身、固く巻かれた螺旋状のスプリングのようだったからである。

 左翼エスエルの反乱とミルバッハ伯(5)暗殺の時のことを思い出す。ウラジーミル・イリイチは電話をかけてきた(今でも彼の言葉が聞こえてくるようだ)。

 「何が起こったか聞いたかね!」。

 彼は興奮すると、声は低く、早口になり、語尾がつまった。声だけで、何か重大なことが起こったことがわかった。続けて彼は言った――「左翼エスエルがミルバッハを暗殺した。こっちに来てくれ、相談したい」。彼のところに行くと、彼は耳に受話器をあてたまま、あらゆることについて私と意見を交換し合った。「たいへんなことだ」と彼は言った――「まったく予期しない事態だ。小ブルジョアジーのぐらつきだよ」。

 「ぐらつき」というこの特徴的な言葉をよく覚えている。これは、左翼エスエルの歴史的意義を的確にとらえていた。そしてすぐにウラジーミル・イリイチは電話をかけて言った。

 「ボリショイ劇場の出入りをすべてチェックできるかね?」。

 諸君、ここにレーニンの生きた断片がある。そこには、平行して進行する2つの過程が見られる。一つは理論的なものであり、事件の意義、そこから生じる結果を見定め、活路を追求することである。もう一つは実践的なもので、テンポを失うことなく、一瞬の時間も無駄にすることなく、ただちに蜂起鎮圧のテコ、手段を探し求めることである。

 私が同志レーニンに対して「しかし、左翼エスエルは、われわれがつまづきをやらかすよう運命づけられたサクランボの種ではありませんよ」(こういった比喩がディケンズ(6)の小説にあった)と指摘すると、彼は少し考えてこう言った。

 「これこそが彼らの運命なんだ。白衛派を利するサクランボの種になることがそれだ」。

 そのとき彼はエンゲルスの言葉をドイツ語で引用した。ちなみに彼はそのとき実に巧みな表現を用いたことを思い出す。「小ブルジョアに轡(くつわ)をきつく噛ます」と。

 まもなくして、同志スヴェルドロフ(7)がやってきた。同じく電話でレーニンに呼び出されたのだ。スヴェルドロフの顔にはいささかの動揺もなかった。

 「もしかしたら人民委員会から革命軍事委員会に再び移ることになるかもしれませんな」と彼は言った。しかし、その口ぶりは、何もたいしたことが起こっていないかのようだった。イリイチは、ただちにこれこれをしなければならないとスヴェルドロフに指示した。スヴェルドロフは答えた――「とっくに」。これは彼のお気に入りのセリフだった。後に、ウラジーミル・イリイチはよく私に言ったものだ。われわれがこれこれをしなければならないと判断しても、たぶんスヴェルドロフはこう言うよ、「とっくに」ってね。

 ウラジーミル・イリイチが哀悼の意を表するためにドイツ大使館に行ったときのことを今でも覚えている。これは彼の人生において最もつらい瞬間であった。彼の心境がいかばかりであったかは、彼が、近い意味のドイツ語をごっちゃにして語ったことから察することができる。彼は「同情する」と言うべきところを「憐れむ」と言った。もちろん、これは、偽善的なヴィルヘルム(8)外交にとって屈辱的なことだったろう。

 ウラジーミル・イリイチは、プロレタリア革命の前に立ちはだかる困難が巨大なものであることを明確に理解し、感じ、気づいていた。自分の周囲にいる温厚な人々に対して、またプロレタリア独裁を強化する途上に存在する困難の理解が不十分な人々に対して、苦い気持ちを抱いていた。彼はよく繰り返していた。

 「ああ、これが独裁だって! これはおかゆだよ!」

 「彼はとんまであって、革命家ではない!」

 彼はこうしたセリフを日に10回も口にしていた。そして、左翼エスエルが革命の「パトス」について語ることを好んでいたのに対し、レーニンは、こんなものはすべてセンチメンタリズムであり、平和主義であり、おしゃべりであり、無駄口たたきであり、おかゆであると絶え間なく断言していた。これは教育の体系だった。それは、最上層においては人民委員会議に始まり、最下層においては大衆にまでいたる、教育の体系であった。これは、党を鍛える日常の学校であった。そしてボリシェヴィキの革命家は、この新しい学校を卒業したのである。

 絶え間ない要求、催促、せき立て――こうした点に関してレーニンは容赦がなく、疲れを知らなかった。私はつい先ほど、自分の保管文書を探して、そこに保存されていたイリイチのメモ類に目を通した。これはきわめて「イリイチ的」なメモである。それぞれ2〜3行づつの文章で構成されている。どの問題も単刀直入に提起されている。彼が何らかの点で疑問がある場合、さっとこう書きつける。「これこれの連中を追っ払ってはどうか?」「2ヵ月ほど奴をぶちこんでおいてはどうか?」。

 人民委員会での会議のやり方は厳格だった。彼は集中された正確な仕事を好み、その際、節約に並々ならぬ気を配った。彼は一枚の紙の端っこに小さな字で発言者の名前を書きつけ、時間をきっちり測った(後に彼はストップウォッチを持ち込んだ。これは当時の技術水準にあっては偉大な成果であった)。彼は、すべての弁士の発言から最も主要なもの、最も重要な核心を取り出し、それを一つか2つのフレーズで書き記した。彼の活動領域のすべてには常に、この種のメモがついて回る。さまざまな問題、回答、論拠、何らかの要請の催促、等々、等々を書き記したメモが。これらのメモを集めれば、それは、この巨人のような人物の体の中で行なわれていた巨人のような仕事の一端を示す貴重な資料となろう。

 軍事問題に関するレーニンのメモは、私にとり驚嘆すべきものであった。そこには彼の断固たる決意が示されていた。いっさいが徹底してしかも核心を突く形で提起され、そしてまさに状況がそれを要求している瞬間に提起されていた。クレムリンにいながら、前線の最も詳細な具体的状況を理解し、どのように行動するべきかの認識に到達するためには、巨大な創造的想像力が必要である。前線の単に一般的ないし部分的な情報を知ることによって、労働者と軍隊の気分を知ることによって、レーニンは、その想像の中で、個々の部分から全体の構図をその最も細部にいたるまで再現し、何をなすべきかについての実践的な結論をただちに引き出すのであった。彼の想像力における鎖の最新の環である彼の提案は、前線にいるわれわれの度肝を抜いた。彼からあれこれの提案を受けるたびに、私は、前線にいる誰かがこのような考えをレーニンに伝えたのかと考えたものだ。なぜなら、前線のどこかの部署にいて、具体的な状況が展開されるのを目の前にして初めて、このような提案をすることが可能になるし、また、そのような見事な考えを思いつくことができるからである。しかし、レーニンは、クレムリンにいたままでそのような観点にいたったのである。

 1918年8月のときのことを思い出す。そのとき私は、スヴェルドロフから、イリイチが負傷して危険な状態にあるという電報を受けとった。この時期、前線においても状況は困難であった。まもなく、前線の状況は好転し、幸運にも、それと軌を一にして、ウラジーミル・イリイチの容態も好転した。われわれはその後カザンを奪還した。われわれはモスクワに向かい、ゴールキ市にいるウラジーミル・イリイチをスヴェルドロフとともに見舞った。彼がとても快活で、並はずれて楽天的で、意気揚々たる気分でいたのを覚えている。総じて彼の気分にはいつもむらがなく、凛として落ち着いていた。これだけ陽気な気分にあるレーニンは、覚えているかぎりでは、2回ぐらいしかない。

 1度目は、われわれが冬宮を包囲した1917年10月25日のときである。中央郵便局と電信局はすでに占領されていた。パブロフスク連隊は印刷所を占領し、前日に閉鎖された『プラウダ』を印刷して、『プラウダ』の最新号を出した。ウラジーミル・イリイチは、手をこすりながらスモーリヌィの一室に姿をあらわし、深い満足感をもって何度も繰り返した、「よしよし、それでいい」。

 イリイチには、党が事態の成り行きから立ち遅れるのではないかという懸念がずっとつきまとっていた。彼自身、直接の指導を行なうことができなかった。もし自分がいま逮捕されたら? そのときには、プロレタリア革命の危機は十倍にも増大するだろう。彼はずっと気が気でならず、絶え間なく手紙やメモを出し、党を前にせきたて、行動を促していた。そしてわれわれが彼をスモーリヌィで迎えたとき、彼ははじめて、自分の主張が理解されていたこと、自分の提案がきちんと実行されていたこと、もはや後退がありえないことを初めて見てとったのである。

 2度目は、先ほど述べたゴールキ市でのレーニンである。前線では転換が始まっていた。若い赤軍は強力な部隊になりつつあった。これは革命がより高い段階に移行しつつあることを示すものだとイリイチは再び感じていた。そして私が彼と別れを告げて自動車に乗り込んだとき、彼が、実に快活で陽気でにこにこしながらバルコニーに立っていたのを覚えている。

 ウラジーミル・イリイチ死去の知らせを聞いたのは、チフリスの駅でだった。それは、スヴィヤシスクでレーニン負傷の電報を受け取ったときと似ている。私は今度はチフリスで、イリイチ倒れるの暗号電報をスターリンから受けとったのである。だが巨大な違いがあった。この電報はすでに、レーニンが死んだことを伝えていたのである。

 今日、レーニンは54歳の誕生日を迎えるはずであった。われわれは彼の姿を思い出そうとしている。個々の断片や諸部分を思い出し、それを一つの全体像にまとめようとしている。だが、それをすることはかなり難しい。たとえ近似的であれこの全体像を再現するには、そしてその姿を人類の記憶の中にしっかりととどめるには、明らかに、多少なりとも距離を置くこと、一定の時間が過ぎることが必要である。現在、最も重要なこと、われわれのしなければならないことは、生きていたころのイリイチの個々のエピソードを思い出すことである。彼については一般的なことばかりが言われている。これでは、未来の世代にとって、ウラジーミル・イリイチの生き生きとした姿を思い浮かべることはできない。もちろん、われわれは今こそ、彼の著作を注意深く真剣に学ばなければならない。しかし、それとともに、われわれがしなければならないのは、人々がじかに見たことや思い出せることを集めて、彼の個人生活、彼の生涯における個々のエピソードをしっかりと定着させることである。イリイチと結びついたささやかなエピソードも、まさにそれが彼と結びついているという理由で意味があるのである。

 この数年間は諸事件の凝縮した月日だった。これらの諸事件は、一種の重いハンマーによって記憶の中に突き固められており、個々のエピソードを記憶から引き出すことは容易なことではない。この数年間の個々の瞬間よりも20年前のことのほうが思い出しやすいぐらいである。諸事件は恐ろしく巨大であった。そして、どの月も、どの年も、凝縮した諸事件がぎっしりと詰まっている。ここで必要なのは、記憶の大がかりな共同作業である。一般に革命と結びついた、そしてその機軸たるイリイチと結びついたすべてを、われわれは、ただ集団的にのみ再現することができる。

 われわれには古い文学がある。ルネサンス時代の古典的ギリシャ文学がある。シェークスピアやその他のブルジョア的天才は、虚構の英雄を描き出した。こうしたものをわれわれは読んだし、高く評価している。しかし、未来の世代にとっては、イリイチに関する著作以上に、身近で、堅固で、わくわくさせるような本はないだろう。諸君を含むわれわれがそれを部分的に書くのでないかぎり、誰もそれを書きはしないだろう。今後形成されるであろう新しい社会は、人と人とが激しく衝突しあう内戦のような状況とはほど遠いし、その時代の人々にとって、われわれの時代の心理、われわれの指導者の心理を、後から想像することははなはだしく困難であろう。そしてわれわれのエピソードはまったくの新発見になるだろう。彼らは少しずつ、われわれの時代のエピソードを理解していくだろう。

 イリイチについては「イリイチ式」に語らなければならない。すなわち、彼にふさわしい内的な厳しい高潔さをもって語らなければならない。

 イリイチが負傷して床についていたとき、あらゆるところから彼への親愛の情が表明され、新聞は彼についての論文であふれ、社説が彼に捧げられた。もちろん、ウラジーミル・イリイチは、こうした感情が心からのものであることを理解していたし、労働者からの手紙には深く胸を打たれた。しかし彼は、回復して新聞に目を通した翌日には、われわれの新聞はあまりにも無駄口が多すぎると言ったのである。彼は、その内的な目的意識性ゆえに、自分を誉めたたえるレトリックや単純さにがまんできなかったのであり、ベッドから起き上がるやいなや、われわれの新聞は無駄口が多すぎると言ったのである。彼のイメージを再現するには、彼のニュアンス、彼の表現、彼の言葉が必要である。

 われわれのところにはまだ、イリイチの本格的な肖像画が一つも存在しない。多くの都市で見かける胸像は、満足に足る水準にはない。未来の芸術家が、写真と天才的な理解力にもとづいて、真のレーニン像を再現することができるかどうか、私は知らない。しかし、われわれが自分の見たもの、成し遂げたものを誠心誠意、後世に伝えることによって、未来の偉大な芸術家は、イリイチの精神的イメージを、彼の人物像を再現することができるだろう。これこそが現在のわれわれの偉大な義務であり、運命がわれわれに与えてくれた幸運、すなわちウラジーミル・イリイチの指導のもとで生き闘うことができた幸運に対する当然の責務である。

1924年4月23日

同名のパンフレット

『トロツキー研究』第32/33合併号

  訳注

(1)ゴーリキー、マクシム(1868-1936)……ロシアの革命作家。ボリシェヴィキに接近したり離れたりしており、2月革命後は『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』紙を発行して、ボリシェヴィキと対立。10月革命後レーニンと和解し、スターリン時代には代表的なソ連作家として名を馳せるが、その死には疑惑が取りざたされている。『母』『どん底』など。

(2)チヘイゼ、ニコライ(1864-1926)……ロシアの革命家、メンシェヴィキの指導者。第3国会、第4国会の議員。第1次大戦中は左翼中間主義的立場。1917年2月革命直後、ペトログラード・ソヴィエト議長。ソヴィエト政権と闘争。1921年に亡命。26年自殺。

(3)ケレンスキー、アレクサンドル(1881-1970)……ロシアの政治家、弁護士。1912年、第4国会でトルドヴィキ(勤労者党)の指導者。2月革命後、エスエルに。最初の臨時政府に司法大臣として入閣。第1次連立政府で陸海相、7月事件後に首相を兼務。第2次連立政府、第3次連立政府の首相。8月30日、コルニーロフに代わって全ロシア最高総司令官に。10月革命直後に、クラスノフとともにボリシェヴィキ政府に対する武力半短を企てるが、失敗して亡命。アメリカで『回想録』を執筆。

(4)ツェレテリ、イラクリー(1881-1959)……ロシアの革命家、メンシェヴィキの指導者。第2国会の議員。1912年に流刑。1917年2月革命後、流刑地から戻ってきてペトログラード・ソヴィエト議長。5月に、郵便・電信相として第1次臨時政府に入閣。6月、第1回全ロシア・ソヴィエト大会で中央執行委員会議長に。7月事件後、第1次臨時政府の内相に就任。1918年にグルジアのメンシェヴィキ政府の首班。1921年に亡命。

(5)ミルバッハ、ヴィルヘルム(1871-1918)……ドイツの外交官。1918年4月、 ドイツ大使としてロシアに赴任。1918年7月6日に左翼エスエルによって殺害。ボリシェヴィキと左翼エスエルとの分裂、左翼エスエルの弾圧のきっかけとなる。

(6)ディケンズ、チャールズ(1812-70)……イギリスの作家。社会悪に対する怒りを作品に表現した。『オリヴァー・トウィスト』『クリスマス・キャロル』『二都物語』など。

(7)スヴェルドロフ、ヤーコフ(1885-1919)……ロシアの革命家、古参ボリシェヴィキ。1905年革命ではウラルで活躍。反動期には、逮捕・流刑・逃亡を繰り返す。1912年、ボリシェヴィキ党中央委員。10月革命後、ボリシェヴィキの中央書記長、ソヴィエト中央執行委員会議長。

(8)ヴィルヘルム2世(1859-1941)……ドイツの皇帝、在位1859-1941。労働者との融和策を打ち出して、ビスマルクと対立し、1890年に彼を辞任させる。最初は労働者保護政策をとったが、すぐには激しい弾圧政策に転向。攻撃的なユンカー帝国主義的拡張政策を推進し、第1次世界大戦を引き起こした。1918年のドイツ革命により退位し、オランダに亡命。


  

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