レーニンにおける民族的なもの

――レーニン50歳の誕生日によせて
トロツキー/訳 西島栄

【解説】この論文は、レーニンの50歳の誕生日を記念して書かれた論文である。この論文の中でトロツキーは、レーニンが国際的であるとともに「深く民族的」であると特徴づけ、マルクスとレーニンとの関係を、理論の創始者とその実践者としてとらえている。こうしたレーニン観、あるいは、マルクスとレーニンとの関係の捉え方は、当時にあっては特異なものであり、主流的な見方は、レーニンを理論的にもマルクス主義を新しい段階に引き上げた天才として描き出すものであった。そうした中で、レーニンをマルクス主義の実践者として理解したトロツキーのレーニン論は、レーニンを過少評価するものとして、スターリニスト分派から攻撃された。

 ちなみに、この時から十数年後、ムッソリーニの獄中にいたグラムシは、トロツキーと同じく、レーニンを、国際主義的であるとともに「深く民族的」と規定し、マルクスとレーニンとの関係を、イエスとパウロとの関係に、すなわち、預言者とその預言の実行者との関係とみなしており、これは、完全にトロツキーのレーニン論と同じである。

 本サイトにアップするにあたって、訳注を追加しておいた。

Л.Троцкий, О пятидесятилетнем (Национальное в Ленине), Правда, 23.апрель1920..

Translated by Trotsky Institute of Japan


 レーニンの国際主義については今さら紹介する必要はない。レーニンが、第2インターナショナルを支配していた国際主義のまがい物と――世界大戦勃発の最初の日から――非妥協的に決裂したことは、彼の国際主義を何よりもよく特徴づけている。「社会主義」の公式の指導者たちは、議会の演壇から、昔のコスモポリタンの精神にもとづいて、抽象的な議論で祖国の利益を人類の利益と調和させた。実践において、これは、われわれがすでに知っているように、強盗的祖国をプロレタリアートの力によって支えることに行き着いた。

 レーニンの国際主義は、民族的なものと国際的なものとの、言葉上での和解の定式ではけっしてなく、国際的革命行動の定式である。いわゆる文明人によって占められている世界の全領域は、さまざまな諸民族とさまざまな諸階級とを構成要素とする一個の巨大な闘争舞台であるとみなすことができる。重要な間題は一つとして一国民の枠の中に押し込めことはできない。可視ないし不可視の糸が、現実の連関を通じてこの国内問題を世界の隅々の何十という現象と結びつけている。国際的な要因と力の評価においてレーニンは、誰にもまして民族的偏見から解放されている。

 哲学者たちは十分に世界を解釈してきたが、真の課題は世界を変革することだ、とマルクスは考えた。しかし、彼自身はそれを目にするまで長生きしなかった。彼は天才的な予言者にとどまった。今では、旧世界の変革は全速力で進んでおり、その最初の遂行者がレーニンであった。レーニンの国際主義は、歴史的諸事件を、世界的な規模で、そして世界的な目標をもって、実践的に評価することであり、それに実践的に介入することである。ロシアとその運命は、この壮大な歴史的闘争を構成する要素の一つにすぎず、人類の運命はその闘争の結果にかかっている。

 レーニンの国際主義は今さら紹介する必要はない。しかし、それと同時に、レーニン自身は深く民族的である。彼は新しいロシアの歴史に根を張り、それを自己自身のうちに凝縮し、それに最も高度な表現を与え、まさにそのようにして、国際的行動と世界的影響の頂点に達する。

 レーニンを「民族的」と特徴づけるのは、一見したところ、まったく思いがけないことのようであるが、実際には当然のことである。いまロシアで起こっているような、人類史上、前代未聞の革命を指導するためには、人民の実生活にある根本的な力とわかちがたく有機的に結びつく必要があるのは、明らかである。この結びつきは最も深いところに根ざしたものである。

 レーニンはロシア・プロレタリアートを自己のうちに人格化している。ロシア・プロレタリアートは若い階級であり、政治的にはおそらく、レーニンとさして年齢は違わないが、同時に、この階級は深く民族的である。なぜなら、ロシアのこれまでのすべての発展過程がこのプロレタリアートのうちに総括され、ロシアのすべての未来がプロレタリアートの双肩にかかり、このプロレタリアートとともに、ロシアの国民は生きかつ死ぬからである。旧習墨守や紋切り型から自由で、ごまかしや無意味な形式とは無縁で、思想は断固としており、行動は大胆で、しかも大胆とはいえ、けっして無分別に堕落しない、これがロシア・プロレタリアートの特徴であり、同時にレーニンの特徴でもある。

 このロシア・プロレタリアートの特質こそが今日、ロシア・プロレタリアートを国際革命における最も重要な勢力たらしめているのだが、この特質は、ロシア国民の歴史の全過程によって準備されたものである。すなわち、専制国家の野蛮な残酷さ、特権階級の無能さ、世界の証券取引所の酵母によって熱病的に発展したロシア資本主義、ロシア・ブルジョアジーの不毛さ、そのイデオロギーの退廃ぶり、そしてその政策のくだらなさ、によって準備されたのである。わが国の「第3身分」は、自らの宗教改革も自らのフランス大革命も持たなかったし、持つことができなかった。それだけにいっそう、ロシア・プロレタリアートの革命的課題は、包括的性格を帯びることになった。わが国の歴史はこれまで、ルター(1)も、トマス・ミュンツァー(2)も、ミラボー(3)も、ダントン(4)も、ロベスピエール(4)も与えなかった。まさにそれゆえに、ロシア・プロレタリアートはレーニンを持ったのである。伝統におけるマイナスを、革命のスケールにおけるプラスで取り返したのだ。

 レーニンはロシアの労働者階級を自己のうちに反映している。そのプロレタリア的現在ばかりではなく、まだあまり遠くないその農民的過去をも反映している。いかなる議論の余地もなくプロレタリアートの指導者であるこの人物には、農民(ムジーク)的な外貌があるだけでなく、その内奥にも確固とした農民(ムジーク)的なものがある。スモーリヌィの前に、世界プロレタリアートのもう一人の偉大な人物の像が立っている。黒いフロックコートを着たマルクスが石の土台にそびえ立っている。もちろんどうでもいいことであるが、黒いフロックコートを着たレーニンというものは想像することさえできない。ある肖像画では、糊の利いた襟飾りつきの広い開襟シャツを着て、その上に片眼鏡のようなものがぶらぶらしているマルクスが描かれている。マルクスに華美にめかしこむ傾向などなかったことは、マルクスの精神を知っているすべての者にとってあまりにも明白なことである。しかしマルクスはまったく異なる民族的文化の土壌の上に生まれ育ち、異なった雰囲気を呼吸した。それは、ドイツ労働者階級の上層がムジーク的農村に根ざしているのではなく、都市のギルド的手工業や、中世の複雑な都市文化に根ざしているのと同じである。

 マルクスの文体そのものが豊かで美しく、力としなやかさ、怒りと皮肉、厳格さと優雅さが結合している。それは、宗教改革以前からはじまるドイツの社会的・政治的文献が経てきた全行程の文学的・倫理的な蓄積を体現している。レーニンの文章や演説のスタイルは、彼の生活様式全般にわたってそうであるように、きわめてシンプルで実用的である。しかし、この強い禁欲主義のうちには、道徳主義のかけらもない。それは原理ではなく、人為的に作られた体系でもなければ、もちろんのこと、気取りでもなかった。それはただ、行動のための、力の内的集中の外的表現にすぎなかった。それは、農民家長の実務性――ただし、壮大の規模でのそれであった。

 マルクスのすべては、『共産党宣言』の中に、『経済学批判』序言や『資本論』の中に存在する。マルクスが第1インターナショナルの創設者でなかったとしても、彼は今と変わらぬ評価のまま永遠に残るだろう。それとは反対に、レーニンのすべてはその革命的行動の中に存在する。彼の学問的労作は行動への準備にすぎない。たとえ彼が過去において一冊の学問的著作も出版しなかったとしても、彼は今と変わらぬ姿で歴史に位置づけられるであろう。すなわち、プロレタリア革命の指導者であり、第3インターナショナルの創設者として。

 レーニンの肩にかかってきたような歴史的規模で行動を行なうためには、明確な科学的体系――唯物弁証法――が必要である。だがそれは必要だが十分な条件ではなかった。ここで必要なのは、われわれが直観と呼ぶところの隠れた創造力である。現象をすばやく評価する能力、本質的で重要なものを偶然的でくだらないものから区別する能力、眼前の構図に欠けている部分を想像で埋める能力、他者、とくに敵の力量を推し測る能力、そしてこれらすべてを結合して、打撃の「定式」が頭に形成されると同時に打撃を与える能力。これが行動の直観である。他方それは、ロシア語で「したたかさ」と呼ばれるものと結びついている。

 レーニンが左目をつぶって、無線電信に耳を傾け、帝国主義的支配者の国会演説やありきたりの外交通牒――血に飢えた陰謀と洗練された偽善との絡み合い――を聞いているとき、彼は、言葉に動かされず美辞麗句にだまされない賢い堅実なムジークのようだった。これは、ムジークのしたたかさである。ただそれが、天才の域にまで発展した高度な潜在能力をともない、科学的思考の最新の成果で武装しているだけである。

 若いロシア・プロレタリアートは、自分の根元である農民の重い石塊ごと引きずっていくことなしには、何ごともなしえなかった。われわれの民族的過去のすべてがこの事実を準備した。しかし、まさにプロレタリアートが事態の成り行きによって権力に到達したがゆえに、われわれの革命は、これまでのロシア史に特徴的であった民族的な視野の狭さと地方的な辺鄙さを、ただちにそして根本的に突破したのである。ソヴィエト・ロシアは共産主義インターナショナルの避難所となったばかりでなく、その綱領と方法の生きた体現者となった。

 人間の個性を形成する何らかの不可思議な――まだ科学によって説明されていない――経路を通じて、レーニンは、その民族的な環境から、人類史上最大の革命的行動にとって必要なすべてのものを吸収した。はるか以前に国際的な理論的表現を得ていた社会主義革命は、レーニンを通じてはじめてその国民的体現者を見出した。まさにそれゆえ、レーニンは、言葉の最も直接的な意味において、世界プロレタリアートの革命的指導者となったのである。かくして彼は50歳の誕生日を迎えた。

『プラウダ』1920年4月23日

『トロツキー研究』第32/33合併号より

  訳注

(1)ルター(ルーテル)、マルティン(1483-1546)……ドイツの宗教改革者。1517年、教皇の免罪符を激しく糾弾する「95ヶ条の意見書」を発表し、宗教改革の口火を切る。1920年、『キリスト者の自由』を公刊。教会の支配に対する抵抗を呼びかけたが、農民戦争に対しては敵対的態度をとった。

(2)ミュンツァー、トマス(1490?-1525)……ドイツの宗教改革者、ドイツ農民戦争の指導者。キリスト教の「千年王国」説を社会変革と結びつけ、全国を流浪して下層の民衆の心をつかみ、中・西南ドイツに急進主義的な秘密結社を創設して、農民戦争の最も激しい闘争を指導。最後に捕らえられて斬首。

(3)ミラボー、オノルエ・ガブリエル(1749-1791)……フランス革命の立憲王政派の指導者の一人。1789年に第3身分から3部会に選出され、雄弁で国民議会の英雄となる。しかし晩年、王政との裏取引を積み重ね、人気を落とす。

(4)ダントン、ジョルジュ(1759-1794)……フランス革命の指導者。ジャコバン派。1793年に公安委員長となり、反革命派の弾圧に尽力。その後、ジャコバン右派を率いてロベスピエールと対立、逮捕され処刑。

(5)ロベスピエール、マクシミリアン(1758-1794)……フランスの急進革命家、ジャコバン派指導者。弁護士出身で、ジャコバン派の左派として頭角をあらわし、1793年に公安委員会に入り、恐怖政治を実行。左派のエーベル派と右派のダントン派を粛清。1794年のテルミドールのクーデターで失脚し、処刑される。


  

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