◇経済危機と労働の軍隊化
「労働義務委員会の諸課題」(1920年1月1日)
「ボンチ・ブルエヴィチへの手紙」(1920年1月1日)
「労働英雄――パーヴェル・スピリドノヴィチ・ヴァシーリエフの思い出」(1920年1月3日)
「経済建設の根本課題と諸困難」(1920年1月6日)
「共和国の経済情勢と経済復興の根本課題」(1920年1月12日)
「工業プロレタリアートの軍隊化、労働義務、経済の軍隊化、経済的必要への軍隊の利用」(1920年1月22日)
「労働の動員」(1920年1月24日)
「食糧政策と土地政策の根本問題」(1920年2月)
「農民は何をしなければならないか」(1920年2月12日)
「エカテリンブルクにおける青年インターナショナル祝賀演説」(1920年2月21日)
「第一労働軍の課題」(1920年2月26日)
「経済建設の当面する課題(ロシア共産党第9回大会での報告)」(1920年3月30日)
「労働の組織化(ロシア共産党第9回大会での報告)」(1920年4月4日)
「労働の組織化について」(1920年4月9日)
「指令第1042号」(1920年5月22日)
「労働規律について」(1920年6月21日)
◇ポーランド戦争
「ポーランド・ブルジョアジーに死を!」(1920年4月29日)
「ポーランド戦線とわれわれの課題」(1920年4月30日)
「メーデーに寄せて」(1920年5月1日)
「ポーランドとの戦争」(1920年5月5日)
「革命とポーランド戦争におけるプロレタリアートと農民」(1920年8月)
◇コミンテルン第2回大会
「コミンテルンの来るべき大会について」(1920年7月22日)
「フランス社会党について」(1920年7月22日)
「党の役割に関する同志ジノヴィエフの報告についての演説」(1920年7月23日)
「共産党に関するフランス・サンディカリストへの手紙」(1920年7月31日)
「コミンテルン第2回世界大会の宣言」(1920年8月7日)
「コミンテルンの宣言に関する報告」(同)
「フランス帝国主義の挑発」(1920年8月12日)
「ドイツ共産主義労働党の政策について」(1920年11月24日)
◇赤軍の再編成と民兵制度への移行
「民兵制度への移行に関するテーゼ」(1920年2月28日)
「民兵制度への移行に関する報告」(1920年4月4日)
◇ウランゲリ戦線とポーランドの和平
「ウランゲリ戦線について」(1920年8月17日)
「ポーランドとの和平が達成された」(1920年10月13日)
「マフノとウランゲリ」(1920年10月14日)
「もっと平等を!」(1920年10月31日)
「これが最後になるだろう!」(1920年10月27日)
◇内戦の終了と赤軍縮小の課題
「闘争と学習の3年」(1920年11月6日)
「内戦終了後のソヴィエト共和国の立場と課題」(1920年11月20日)
「前線はもうない!」(1920年11月26日)
「赤色軍事力の建設」(1920年11月28日)
「赤軍の縮小についてソヴィエト第8回大会への連絡」(1920年12月29日)
「ザモスクヴォレツク地区におけるロシア共産党総会での演説」(1921年1月4日)
「エカテリンブルクにおける軍事活動家会議での演説」(1921年2月17日)
◇単一計画経済と経済復興の課題
「生産組合への道」(1920年7月)
「単一計画経済への道」(1920年11月8日)
「社会主義建設の道へ!」(1920年12月8日)
「ドンバスのために!」(1920年12月9日)
「ウラルの経済状況と全権委員会の課題」(1921年2月12日)
「燃料のために」(1921年2月12日)
◇労働組合論争
「労働組合とその将来の役割(最初のテーゼ案)」(1920年11月9日)
「ツェクトラン拡大総会での演説と結語」(1920年12月2日)
「第2モスクワ地区ソヴィエト大会での演説」(1920年12月15日)
「新しい時代、新しい課題」(1920年12月19日)
「輸送に関する活動の総括――報告、結語、決議」(1920年12月22日)
「産業組合の任務について」(1920年12月24日)
「第8回ソヴィエト大会での演説と結語」(1920年12月27日、29日)
「生産における労働組合の役割について」(1920年12月30日)
『生産の道へ!』(1921年1月)
「経済建設の課題に関する第8回ソヴィエト大会」(1921年1月4日)
「産業民主主義」(1921年1月11日)
「ツェクトランへ」(1921年1月14日)
「ペトログラードの同志への回答」(1920年1月15日)
「労働組合の役割と任務(第2のテーゼ案)」(1921年1月16日)
【資料】「労働者反対派の政綱」
【資料】「10人の政綱」
「旧習墨守に対立する現実」(1921年1月19日)
「第2回全ロシア鉱山労働者大会での演説と結語」(1921年1月24日、26日)
「意見の相違は存在するが、混乱はどうしてか」(1921年1月29日)
「疲れた旅人とミルクの配給」(1921年2月1日)
「融合の諸問題」(1921年2月13日)
「10人の政綱について」(1921年2月17日)
◇クロンシュタットの反乱
「最後の警告」(1921年3月5日)
「クロンシュタット事件について」(1921年3月13日)
「クロンシュタットと証券取引所」(1921年3月23日)
【資料】クロンシュタット事件をめぐるソヴィエト指導者の通信
第9期 ネップと統一戦線(1921〜22)
◇ネップの最初の段階
「第10回党大会における演説」(1921年3月10、14日)
「ロシア社会主義共和国連邦の農民へ」(1921年3月23日)
「ネップに関する手紙」(1921年8月7日)
「工場委員会・労働組合拡大協議会における演説」(1921年10月28日)
「経済建設の根本問題(第9回ソヴィエト大会への報告)」(1921年12月27日)
◇ドイツの3月事件
「ドイツの3月運動」(1921年4月18日)
「ドイツの3月革命運動(自分のための覚書)」(1921年4月)
「レーニン宛ての電報」(1921年7月3日)
◇コミンテルン第3回世界大会
「コミンテルン執行委員会のメーデー・アピール」(1921年4月21日)
「左翼ブロックに対する党の戦術」(1921年6月16日)
【資料】コミンテルン執行委員会会議におけるレーニンの演説
「世界経済恐慌とコミンテルンの新しい任務(コミンテルン第3回世界大会報告)」(1921年6月23日)
「結語」(1921年6月24日)
「イタリア問題についての演説」(1921年6月29日)
「同志ラデックの報告に関する演説」(1921年7月2日)
「国際情勢とコミンテルンの任務に関する第3回世界大会テーゼ」(1921年7月4日)
「同志レーニンの報告に関する演説」(1921年7月5日)
◇第3回世界大会の教訓
「革命的戦略の学校」(1921年7月)
「第3回大会の主要な教訓」(1921年7月12日)
「同志モナットへの手紙」(1921年7月13日)
「コミンテルン第3回大会のバランスシート――青年インターナショナル第2回大会報告」(1921年7月14日)
「青年インターナショナル第2回大会結語」(同)
◇コムソモールと若き赤軍兵士と政治教育
「モスクワ・ソヴィエト第2回年総会における演説」(1921年9月20日)
「コムソモール第4回大会における演説」(1921年9月21日)
「ささいなことに注意を!」(1921年10月1日)
「政治教育に関する演説」(1921年10月20日)
「統一軍学校の士官候補生会議での演説」(1921年11月2日)
「書き方を学ばなければならない!」(1921年12月10日)
「最高軍学校における共産党細胞第2回協議会での結語」(1921年12月10日)
「モスクワ軍官区軍学校協議会への報告」(1921年12月12日)
「ああ、われわれには正確さが少なすぎる!」(1921年12月17日)
◇平時編成の赤軍と飢饉、匪賊行為、国際関係
「飢饉と世界情勢」(1921年8月30日)
「ジトミール市ソヴィエト会議での演説」(1921年9月5日)
「株式共和国とそのヌーラン」(1921年9月7日)
「総括演説」(1921年9月12日)
「やめさせなければならない」(1921年9月16日)
「モスクワ・ソヴィエト総会での演説」(1921年9月20日)
「赤軍の課題」(1921年10月25日)
「トゥーラは今なお赤軍の鍛冶場」(1921年11月18日)
「前線はないが危険はある」(1921年12月26日)
◇第3回世界大会以後のコミンテルン
「4周年記念の祝賀」(1921年11月7日)
「フランス・サンディカリズムとソヴィエト・ロシア」(1921年11月9日)
「上げ潮」(1921年12月21日)
「パウル・レヴィと若干の『左翼』」(1922年1月6日)
◇軍事的冒険主義との闘争
「軍事理論をめぐる討論での冒頭発言と結語」(1921年11月1日)
「軍事理論かエセ軍事教条主義か」(1921年11月22日〜12月5日)
「第11回党大会軍代議員会議における報告と結語」(1922年4月1日)
「軍事知識とマルクス主義」(1922年5月8日)
◇統一戦線戦術の具体化とフランス共産党
「統一戦線――第1回コミンテルン拡大執行委員会総会での演説」(1922年2月26日)
「統一戦線について」(1922年3月2日)
「危機の始まり――第1回コミンテルン拡大執行委員会総会での演説」(1922年3月2日)
「同志モリゼへの手紙」(1922年3月3日)
「ローマ・テーゼについて」(1922年3月)
「フランスにおける共産主義者と農民」(1922年4月29日)
「メーデーの教訓」(1922年5月8日)
「コミンテルン執行委員会からフランス共産党中央委員会への手紙」(1922年5月12日)
「フランス共産党の危機――コミンテルン執行委員会会議での演説」(1922年5月19日)
「ロスメルへの手紙」(1922年5月22日)
「フランス共産主義と同志ラポポールの地位」(1922年5月23日)
「統一戦線と左翼ブロック――第2回コミンテルン拡大執行委員会総会」(1922年6月8日)
「フランス共産党大会への手紙」(1922年9月13日)
「フランスにおける労働者政府」(1922年11月30日)
◇ジェノヴァとハーグ
「モスクワ・ソヴィエト式典演説」(1922年1月16日)
「赤軍4周年記念演説」(1923年2月18日)
「準備せよ、赤軍!」(1922年2月23日)
「ジェノヴァとウラジオストクにおける日本」(1922年4月11日)
「ジェノヴァ会議について」(1922年5月4日)
「インタビューから」(1922年5月7日)
「インタビューから」(1922年5月18日)
◇市場から計画へ
「第11回党大会における演説――労働組合について」(1922年3月29日)
「経済の組織化についての手紙」(1922年4月19日)
「計画化に関する手紙」(1922年8月23日)
「コムソモール第5回大会における演説」(1922年10月11日)
◇理論、歴史、文化、赤軍
「軍に配慮を」(1922年1月13日)
「5年目は学習の年」(1922年2月23日)
「理論に注意を」(1922年2月27日)
「われわれの敵による春季の策動」(192年3月12日)
「第11回党大会における演説――赤軍について」(1922年3月29日)
「われわれは過去を知らなければならない」(1922年4月24日)
「プレハーノフについての概観」(1922年4月25日)
「リトケンスの思い出」(1922年4月26日)
「ロシアの歴史的発展の特殊性」(1922年6月28日)
「汽船は汽船ではなく、艀――ポクロスキーへの回答」(1922年7月7日)
「赤軍における『お前』と『あなた』」(1922年7月18日)
「ソヴィエト民主主義の一角」(1922年10月12日)
「軍務についている農村青年へ」(1922年12月19、20日)
◇コミンテルン第4回世界大会
「10月革命5周年記念およびコミンテルン第4回大会に関する報告」(1922年10月20日)
「ソヴィエト・ロシアの新経済政策と世界革命の展望(コミンテルン第4回大会報告)」(1922年11月14日)
「第4回大会戦術決議への修正案」(1922年11月15日)
「イタリア共産党の綱領草案について」(1922年11月)
「イタリア委員会における発言」(1922年11、12月)
「共産主義と…フリーメーソン」(1922年11月25日)
「政治的展望」(1922年11月30日)
「社会主義革命の視点から見たソヴィエト・ロシアの経済状態(テーゼ)」(1922年12月1日)
「フランス共産党の諸問題(コミンテルン第4回大会報告)」(1922年12月1日)
「フランス共産党の諸問題(結語)」(1922年12月1日)
「フランス問題に関する第4回世界大会の決議」(1922年12月2日)
「フランス共産党のための戦闘的行動綱領」(1922年12月5日)
◇第4回世界大会の教訓
「政治的展望」(1922年12月)
「第4回世界大会に関する報告」(1922年12月28日)
◇伏線――レーニンとの関係
「オリミンスキーへの手紙」(1921年12月6日)
「人民委員会副議長をめぐるやり取り」(1922年4月)
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