【解説】この演説は、1921年11月に行なわれた、軍事理論をめぐる討論会での冒頭発言と結語である。トロツキーは、当時、赤軍の一部で流布しつつあった「プロレタリア統一軍事理論」を手厳しく批判している。「プロレタリア統一軍事理論」として語られている中身が、何か意味がある場合には、それはとくにプロレタリア的なものではないこと、軍事のある種、普遍的で技術的な側面であることを明らかにしている。「プロレタリア軍事理論」の名のもとに振りまわされた教条は、実際には、1918〜20年の攻勢期の軍事的残響であり、コミンテルンの戦術転換を理解しない極左主義的誤りであった。トロツキーは、1921〜22年において、そうした軍事的教条主義ないし軍事的冒険主義と精力的に闘うことで、いわば軍事理論の分野において、統一戦線政策をはじめとする新しい柔軟な政策を確立するために奮闘していたのである。
Л.Троцкий, Вступительное и заключительное слово на дискуссии о военной доктрине, Как вооружалась революция, Том.3, кн.2, Мос., 1924.
Translated by Trotsky Institute of Japan
1、冒頭発言
同志諸君、われわれは現在、これまでの総括をし、われわれの隊列を再点検し、準備を整えているところである。軍隊内のわれわれの活動は今や、骨の折れる入り組んだ細かなものである。しかし、木を見て森を見ないなら革命の軍隊に値しないだろう。軍事の領域におけるわれわれの努力が今や細かなことや具体的なことに関するものであり、全体を構成する部分的諸問題に自らの関心を向けているというまさにその理由のために、われわれは時には、現在のこの活動から思い切って離れて赤軍全体の構造を見てみなければならない。この点で、われわれは軍事理論の問題あるいは統一軍事理論の問題――ときとしてこの2つは同一のものとして扱われている――に直面するのである。軍事理論の概念は、目下のところ、明確な形では現れていないし、何ら正確な科学的内容によって満たされてもいない。統一軍事理論の概念はたいてい神秘的で形而上学的な内容を与えられ、民族精神のある種の発揚としてみなされていた。
現在、歴史の急激な転換のために、ごく自然なことであるが、革命的階級闘争のレベルに立って軍事理論の概念に階級的内容を付与しようとする試みがなされている。この点について、われわれが何らかの神秘的、形而上学的な落とし穴――たとえそれが革命的用語で隠ぺいされていたとしても――に落ちないように最大限に警戒をしなければならない。なぜなら、われわれに必要なのが正確な歴史的内容で満たされた具体的な概念であるのに、階級的軍事理論からは神秘論と形而上学を作り上げることもできるからである。したがって、われわれはまず第一に次のように自問しなければならない。軍事理論は軍事的方法の総和を意味するのか、そしてこれは理論なのか、それとも軍事理論は技術なのか、すなわち、戦闘方法をひとまとめにして教えている、これまでに適用された一連の方法の総和なのか?
いかに存在しているかに関する客観的認識としての科学と、いかに行動すべきかを教えてくれる技術とを区別することが必要である。
『赤軍』1921年第7/8号
2、結語
問題の核心に入る前にまず、対極に立っているように見える同志ヴェルホフスキーと同志スヴェーチンが互いにきわめて近い立場に立っているという点を述べておきたい。同志ヴェルホフスキーは、ある種の恐怖を感じて次のように述べている。われわれの間には何という不一致が存在することか、われわれは何についても統一されていない、そうした状況のもとでは勝利を得ることはもちろんのこと、何かを建設することなどどうしてできようか、と。
それでも、結局のところ、われわれは何らかのものをすでに築き上げているのであり、われわれの闘い方はそれほどひどくなかったのである。私は他の誰にもまして赤軍を理想化したくない方であるが、われわれが自衛しなければならなかったとき、われわれの間に不一致があったにもかかわらず、われわれの敵に対して何とか打撃を加えることができたのだ。
私の意見では、同志ヴェルホフスキーは問題への主観的なアプローチを行なっている。彼は、労働者階級によって実践の中で建設された、議論の余地のない誰もが異議を唱えることのない赤軍の基盤を見逃している。赤軍はその古い上層部を保持していた。この古い将校の中には良心的で真面目な分子が存在していたが、彼らは溶解してきたし、溶解しつつある。赤軍は新しい原理を宣言し、新しい社会的出自の指揮官団を創設しつつある――これはことによると不器用な一団であり能力も不十分であるかもしれないが、偉大な歴史的意志をもっている。われわれは誰もが理論の面で間違いを犯す。だが、その本質、すなわちその揺るぎない基盤を見ないなどということがどうしてできるのだろうか? どうして誰もこのことを指摘しないのだろうか? 同志ヴェルホフスキーは何を恐れていいるのだろうか? そのすばらしい軍事的資質をもってすれば、彼には恐れるべきものはないのだ。
同志スヴェーチンは次のように言う。すなわち、もしある理論が作り出されれば、私スヴェーチンは何かと干渉されることになる。なぜなら検閲が行なわれることになるからである、と。スヴォローフ(1)とその伝統を大いに崇拝する古い軍人の同志スヴェーチンは、検閲を恐れている。彼は、軍事理論が思想の発展を妨げるのではないかと恐れている――これは、同時ヴェルホフスキーが表明した考えとある程度同じである。
もし統一軍事理論の意味するのが、軍を支配する一つの階級が存在するということだと理解されるならば、誰もその理論に抗議しなかっただろう。われわれのテーゼやソヴィエト大会の報告の中で1917年と1918年に書かれたことを思い起こしてみよう。その基本的考えは、わが国の軍隊に、新しい政権と新しい国家を樹立した労働者階級の意識と意志を注入することであった。これは、それに反対する人々によってさえもはや文句のつけようがない揺るぎない事実であるし、他方、武器を手にしてそれと闘った勢力も敗北を喫し、その試みをやめてしまった。
たとえば、『道標の転換 (スメーナ・ヴェーヒ)』という本を取り上げてみよう。かつてコルチャーク(2)に大臣を供給した人々は今や、赤軍が亡命者や盗賊集団によって作られたものではなく、発展の現局面におけるロシア人民の国民的意志の表現であることを理解している。そして、これらの人々は絶対に正しい。労働者人民の願望を満たしつつある指揮官の新しい一団が出現しつつあることは誰も否定しようとしないだろう。たとえ軍建設に当たってロシア語と軍事の能力の面でたとえ間違いを犯すとしてもそうなのである。残念なことに、わが国の住民の多くは読み書きができないし、もちろん、そうした状態が克服されロシアの労働者人民が文化を身につけるまでには長い年月が必要であろう。
この場では、とりわけ非常に内容豊かで有益であった同志ヴァツェティス(3)の発言の中で、理論についての拡張された概念が提起された。彼が言ったのは、軍事理論が戦争に必要なすべてのものを包含するということであった。戦争は、兵士が健康であることを要求する。兵士を健康状態に保つためには、食糧と軍服に加えて、一定の衛生学が必要であり、医学が要求される。ここに思想的逸脱の核心がある。クラウゼヴィッツは、戦争は別の手段をもってする政治の継続であると言ったが、一部の軍人はこの考えをひっくり返して、政治は戦争のための補助的手段であり、人間の知識のあらゆる分野は軍事知識の補助的源泉であると言って、軍事知識と人間の知識全般とを同一視する。これは絶対に間違っている。
次にわれわれは、戦闘意欲をもつ必要がある、勝利への意志を持たなければならないと告げられる。しかし、ロシア人民がこの「勝利への意欲」をもつのを見たことがないだろうか、旧貴族の意志が人民に押しつけられたときに、かつて存在しなかった自分たちのブジョンヌイ部隊、自分たちの騎兵隊を作り出したドンとクバンの農民の間にそうした意志がわき起こってくるのを見なかっただろうか? 勝利へのこの意志は、労働者は言うまでもなく、数世紀にわたって抑圧されてきたロシアの農民の間にさえ、急に活発になった。しかし、戦闘のためにわれわれが必要としているのは、勝利への意志・戦闘意欲だけでなく、偉大な歴史的目的もである。
ツァーリズムは、それ自身の目的をもっていたし、以前の諸条件のもとでは、この目的は国民の一部をとらえて、彼らの中に勝利への一定の意志を発展させた。それでは、今日、戦争を鼓舞する歴史的目的は存在するだろうか? そうした目的はあるのだろうか、ないのだろうか? そのような目的が存在するからこそ現政府は農民を率いる労働者の先進的隊列を有しているということに疑問を呈することが誰かできるだろうか? われわれが勝利を勝ちとったのは、けっして偶然ではなかった。だから、勝利への意志はあったのである。それは軍事理論によってではなく、現代全体の意味をなす明確な歴史的責務によって生み出されたのである。
われわれはまた、いつなぜ闘うべきかを知る必要があるとも言われている。国際情勢における方向性を定める必要がある、と。おや、おや、われわれの方向性はいまだ定まっていないのだろうか? 同志スヴェーチンはまた、革命期は経験主義の時期でもあるとも語った。何と言ったらいいものか。他のどの国にも、われわれの政権ほど理論武装された政権はこれまでなかった。われわれがまだ地下の亡命者グループであったとき、資本主義の戦争が結局のところ不可避的に革命になるとわれわれは述べていた。革命が起こる前、われわれはそれを理論的に予測した。理論的予測でないとしたら、それは何であったのだろうか?
もちろん、この分野への科学の適用は、天文学ほど正確であることはできない。われわれは間違いを犯す。われわれの計算は、ことによると5年か10年だけはずれるかもしれない。われわれは、革命が西ヨーロッパに波及するだろうと期待した。これは起こらなかったが、それでも、われわれは発展の基本性格を予測したのだ。
不幸なブレスト=リトフスク講和とは何であったのか? それもまた一つの方向設定であり、理論的計算であった。われわれの敵は、自分たちの存在が不動の事実であり、他方でわれわれの存在がある種の誤解であるとみなしたが、われわれの方はあくまでも理論的予測の観点を堅持し、彼らの余命はいくばくもなく、他方でわれわれが不動の事実であるとみなした。必要な軍事的資質を欠いているという理由だけからしても私は軍事理論の専門家にはなれないが、他の同志たちとともに次のような予測を行なった。ドイツ軍と闘うことは不可能である、だからわれわれはひとまず譲歩し、後でドイツを粉砕しなければならない、と。もしそれが方向設定でないとすれば、何だったのか? いつ闘うべきかについての知識は、マルクス主義の基本原則によって与えられ、実際の情勢に適用された。しかし、戦闘意欲ならびにいつ闘うべきかの知識は依然として、戦闘能力に必要なすべてのものを提供してくれるわけではない。そして、ここに、軍事技術または軍事科学が本領を発揮する場があるのである。
しかし、なぜ何でもかんでも軍事科学の中にほうりこもうとするのか? 世の中には軍事科学の他にも多くのことが存在しているのだ。共産主義があり、労働者階級が自らのものとして設定している世界的任務があり、労働者階級によって用いられる方法の一つとして戦争がある。
この点で、新しい軍事理論を支持する発言をした同志たちは私をまったく納得させることができなかったと言わなければならない。私はそれを非常に危険なものとみなしている。これは、帽子で投げとばす [「ひとひねりだ」という意味]というロシアの古い格言の赤色版である。実際のところ一部の同志たちは何と言ったのか? それらの同志たちは、われわれの理論の本質は命令することにあるのではなく、道徳的権威を行使することによって説得し、納得させ、感服させることにあると言った。すばらしい考えだ、これ以上の考えがあろうか?
同志リャーミンにタムボフ州からの3000人の脱走兵を与え、彼の方法でこれらの兵隊たちを一つの連隊に組織させてみようではないか。その結果を見たいものである。しかし、文化水準の相違と無知があるもとで、一振りで何ごとかをやり遂げることができるだろうか? われわれの政権は独裁政権と呼ばれており、われわれはこの点を隠さないが、この点で一部の人々が、われわれに必要なのは最高指揮官ではなく、ケレンスキー時代の時のような説得長官であると言っている。道徳的権威はよいことであるが、それは現実的ではない。道徳的権威によってだけ感服させることができるのであれば、なぜわれわれはチェカや特別局を持っているのだろうか?
さらに、もしわれわれがタムボフの農民を道徳的権威だけで感服させることができるなら、なぜドイツやフランスの農民に対しても同じことができないのだろうか?
同志ヴァツェティスは、法は力に優ると指摘した。そうではない。正しいのは次の点にすぎない。すなわち、自分たちが加えた暴力を恥じ入った抑圧者は常にそれを偽善で覆い隠した、と。法が力に優るわけでない。それは砲撃に持ちこたえることはできない。銃に対しては銃だけが有効である。もし君たちが農民とムジークの文化的水準を高めなければならないと言っているのであれば、それはわれわれにとって古くからの真理であり、われわれは皆そうしようと努めており、われわれの国家機関、とりわけわれわれの軍の活動はこの路線に従っている。しかし、この任務が明日にも達成できると考えるとすれば、それは無邪気というものだろう。
赤軍の理論は敵後方でのゲリラ戦と敵陣深くへの強襲とから成り立っているのだ、とわれわれは聞かされる。しかし、最初の大規模な強襲はマーモントフ(4)によってなされ、ペトリューラ(5)はゲリラ戦の指導者であった。これは何を意味するか? 赤軍の理論がマーモントフやペトリューラの理論と一致するなどということがどうして起こるのか?
一部の同志たちはまた、赤軍の理論の中にタチャンカ [機関銃を搭載した四輪馬車]での部隊輸送を盛り込もうと試みてきた。舗装道路や装甲車がない時にはもちろん、われわれはタチャンカを使って移動するだろう。その方が、マシンガンを背負って運ぶよりもましである。しかし、これは軍事理論とどのような関係があるのか? それはまったく信じがたい問題提起の仕方である。われわれの後進性と技術的準備の不足を軍事理論のための材料にすることはできない。
機動戦について言えば、われわれがこれを発明したのではないと言っておこう。われわれの敵もまた機動戦をかなり用いた。そして、それは比較的規模の小さい部隊がきわめて広大な国土の地域に配備されたという事実のせいであったし、またひどく惨めな交通手段のせいでもあった。この会議の場で町や陣地の攻略、等々について語られた。マーモントフはわれわれから町や陣地を奪取したし、われわれも彼から奪取した。それこそ内戦の特徴である。まったく同一の領土内で、われわれはマーモントフの側に同盟者を持っていたし、マーモントフもわれわれの側に同盟者を持っていた。マーモントフはわれわれのスパイを処刑し、われわれは彼のスパイを処刑した。こうしたことにもとづいて理論を作り上げようとする試みがなされている。そんなことはナンセンスである。
部分的に同志トゥハチェフスキー(6)は、性急な一般化という罪を犯している。それは、陣地戦が終わったという彼の発言に見られる。それはまったく誤っている。もしこれからあと5年か10年の間、平和が続くならば――これは考えられないことではない――、新しい世代が育ってきて、戦争によって引き起こされた苦難は消え去るだろう。西方における革命の遅延はブルジョアジーにとって息継ぎを意味する。技術は西方とわが国の両方で回復しつつある。われわれは、より大規模なより優れた装備の大量の部隊を投入できるようになり、より大量でより優れた装備の軍隊の登場によってより強固な戦線が形成されることになるだろう。われわれは100ヴェルスタ [1ヴェルスタは約1キロメートル]前進したかと思えば、150ヴェルスタ退却することもちょっちゅうだったが、このようなしていたときにわれわれが過度の機動戦を行なった理由は、領土の広大さに比べて部隊が小規模で脆弱で、装備も不十分であり、戦闘の結果が副次的な諸要素によって決せられていたという事実の中に見出されるべきである。どうしてわれわれが今もこれに固執する必要があるのだろうか? われわれに必要なのは機動戦のこの局面を克服することである。それは、パルチザン主義のもう一つの面にすぎない。われわれの軍隊建設の最初の時期に、一部の同志たちが大規模な編成はもはや必要でないと語っていたことを、私はしばしば思い出す。最良なのは、砲兵隊と騎兵部隊を備えた2、3の大隊から成る連隊であろうし、これが一つの独立した単位を構成するだろう、というのである。これは、幼稚な機動戦の考えを表わしていた。今やわれわれはそうした段階を卒業したのであって、今さら機動戦を理想化するのは危険きわまりないことだろう。
この会議の場で、歩兵に対して砲兵が果たす役割の問題を決定する必要があるということが指摘された。砲兵と歩兵との相互関係についての白熱した論争が展開されていた間、私はキエフ軍管区にいた。そうした問題はどの部隊の中にも何百とある。これは、内戦の経験にもとづいて注意深くわれわれの操典を再読し、その最も重要な点を戦場での条件に従わせなければならない、ということを意味する。操典は見直されなければならない。それはわれわれの実践的経験との関係で熟考されなければならない。
さらに攻撃か防衛かの問題が議論された。われわれの軍隊は攻撃に出なければならないと聞かされる。この問題については多くの混乱があり、この点で、われわれの軍隊は攻撃的でなければならないと主張する混乱した人々を同志トゥハチェフスキーが支持しているのではないかと私は懸念している。なぜ攻撃的でなければならないのか? 戦争は別の手段を通じた政治の継続であるのだから、われわれの政策は攻勢でなければならないということか? だがブレスト=リトフスクについてはどうなのか? 戦前の債務を認める用意があるというわれわれの最近の宣言についてはどうか? それは駆け引きである。突進する騎兵だけがわれわれは常に攻撃しなければならないと考える。愚か者だけが退却は死を意味すると考える。
攻撃と退却はともに機動戦の構成要素であり、等しく勝利をもたらすことができる。第3インターナショナル第3回大会では、革命期には攻撃だけを行なわなければならないと主張する一つの大きな潮流が存在していた。これはきわめて重大で犯罪的なたわごとであり、ドイツ・プロレタリアートに無益な流血の犠牲を負わせ、勝利をもたらさなかったのであり、もし将来においてもこの戦術に従うならばドイツ革命運動の破産をもたらすことになろう。内戦では、機動戦を展開しなければならないとか、戦争が別の手段を通じた政治の継続であるのだから、軍事理論は常に攻撃を要求する、などとどうして言えようか?
『ジュルナール・デ・デバ』紙は、あるフランスの将軍の論文を掲載しているが、その中では次のように述べられている。
「ここロレーヌでは、われわれフランス軍は攻撃を行なった。われわれの攻撃の結果、ドイツ軍は退却した。しかし、ドイツ軍の退却は計算されたものだった。ドイツ軍は前衛部隊を引き揚げ、マシンガンと砲台をカムフラージュして残しておいた。これらの武器がその後、わが軍の兵力に甚大な損害を与えた。それは破滅的な打撃だった。他方、1918年6月のわれわれの勝利はどのようにして始まったのか? ドイツ軍の攻勢は決定的なものになりかねないものだったが、われわれは1914年の戦闘から学んでいたので、弾力性ある防衛を採用した。ドイツ軍がその力を消耗させたときに反撃に移り、せん滅した」※。
※英訳注
1921年10月5日付けの『ジュルナール・デ・デバ』から引用したこの論文は、ドゥ・クニャック将軍によるもの。諸君はフランス大革命とその軍隊を引き合いに出す。しかし、フランス国民がその当時、ヨーロッパで最も文化的な国民であったこと――最も革命的であっただけでなく、最も文化的であったし、大陸に手出しできなかったイギリスを考慮から除くならば、技術の点でも最も強力であったこと――を忘れてはならない。フランスは、攻撃政策というぜいたくを自らに許すことができた。それでもやはりフランスは長期にわたって実際にヨーロッパ全土で勝利の前進を続けたとはいえ、結局挫折し、ワーテルローとブルボン王朝の復活という結果に終わっただけである。しかし、われわれはヨーロッパで最も文化的に立ち遅れた最も後進的な国民の一つである。歴史の運命によって、われわれはまだプロレタリア革命が実現されていない諸国民に取り囲まれた中でプロレタリア革命を遂行せざるをえなかった。今後起こりうる戦争にそなえて、われわれは自らの参謀本部に情勢を評価するすべを教えなければならない。われわれは攻撃すべきか退却すべきか? まさにこの点では最も柔軟で弾力的な科学が必要であり、われわれが参謀本部の将校に「攻撃せよ!」という理論を押しつけるのはとんでもない間違いであろう。これは、冒険主義の戦略であって、革命的戦略ではない。
私はまた同志トゥハチェフスキーが提起した第2の命題にも同意しない。彼は民兵タイプの軍隊に移行するのは間違いであるとみなしている。この移行の実施には困難を伴う。それでもわれわれは民兵形態に移行するつもりである。1億以上の人口をもつわが国で、われわれは100万人の軍隊を維持している。これは民兵に近い形態である。フランスは70万人の兵士を保有しているが、われわれは約100万人である。これを同じ方向に沿ってもう一歩進めれば、われわれは真の民兵へと到達するだろう。
われわれは慎重に進むだろう。なぜなら、労働者と農民との相互関係の点で困難が存在するからである。しかし、われわれの新しい政策は、農民をわれわれから疎外するのではなく、われわれにいっそう近づけるだろう。いずれかの村へ入ってムジークと話しをしてみたまえ。ムジークは、ソヴィエト政権に対する自分たちの態度が昨日に比べて今日の方が改善されていることを語ってくれるだろう。もしわれわれが一年後に豊かになるならば、そして当然にも少しだけ豊かになり、2年後にさらに豊かになるならば、このらせんは拡大し始めるだろう。
しかし、その場合でさえ、われわれは一部の若い参謀将校が想定しているような全面的な説得手段だけで農民に働きかけるようなことはしないだろう。いずれにしても、説得と抱擁だけでなく、以前に比べればより少ない程度ではあるが強制も存在するだろう。同時に、労働者と農民の間に、民兵を組織するためのより有利な諸条件が生まれるだろう。したがって、兵営タイプの軍隊に比べて強制的要素の度合いがより少なくなるにすぎない。しかし、民兵は不必要であり、必要なのは兵営に駐留する軍隊であるという原理にもとづいて軍事理論を打ち立てるならば、われわれはあらゆる種類の間違った形而上学的命題に到達することになる。
それでは、同志諸君、簡単にまとめてみよう。勝利への意志に関して、指揮官の中で部分的勝利や部分的成功を完全な勝利にまで発展させる能力が常に認められるわけではないというのは、正しい。これは、われわれの新しい指揮官の労働者・農民的構成に由来するものである。これらの指揮官たちは達成された最初の成功にあっさりと満足してしまう。しかし、われわれが論じているのは、勝利への意志一般である。私は次の例を挙げなければならない。すべての共産党員が知っているように、トルキスタンは、ドゥートフ(7)の部隊やその他の白衛軍に包囲されて、他の地域から分断されたが、それでも外部からの援助なしに1年半にわたって耐え抜いた。それが勝利への巨大な意志の表われでないとすれば、何か? 諸君の理論の基礎としてこれ以上によい実例を見出すことはできないだろう。
マルクス主義以外のどのような理論によって諸君はある状況の中で自らの方向性を定めることができるのだろうか? チチェーリン(8)の覚え書きや『プラウダ』や『イズヴェスチャ』の諸論文を読みたまえ――それらは国際情勢における正しい方向性を提供している。イギリスの『タイムズ』やフランスの『ル・タン』をとってみたまえ。それらの文体はわれわれの文体よりもずっと洗練されている。しかしわれわれの方が国際情勢においては100倍も正しく自らの方向性を定めている。そしてそのおかげで、われわれは包囲状態のもとで4年間も持ちこたえることができたし、今後も持ちこたえ続けるのである。われわれの理論はマルクス主義と呼ばれている。なぜそれをもう一度改めて作り出そうというのか?
しかし、ひとたびわれわれが自らの方向性を定める能力と勝利への意志を持つようになった以上、タチャンカよりも優れた何かを発明するためには、ブルジョアジーから学ぶ必要がある。中隊、大隊、連隊の各指揮官に、勝利への意志をもつだけでなく、報告のやり方、連絡の意義、警備、諜報の重要性をも同時に理解しなければならないということを教えなければならない。そして、そのためには、旧来の実践の経験が活用されなければならない。ABCを学ばなければならず、もし軍事理論が「そんなものはひとひねりだ」などと述べているなら、そんな軍事理論は必要ないだろう。われわれはそのような尊大さと革命的浅薄さを投げ捨てなければならない。戦略が革命的青年の観点から発展させられるなら、得られるのは混乱でしかないだろう。なぜか? 操典が習得されていないからである。われわれはツァーリの操典を軽蔑をもって見ていた。そのため、それらを学ばなかった。それでも古い操典は新しい操典を準備するのである。マルクス主義者は常に、古くからの科学を経由してきたのであり、フォイエルバッハとエンゲルス ※を、フランスの百科全書派と唯物論者を、経済学を学び、それらをものにしてきたのである。マルクスは、老齢になってさえ、高等数学を学んだ。エンゲルスは軍事問題と自然科学を学んだ。もしわれわれが軍隊内の青年に、古い理論が無価値であり、グレープ・ウスペンスキー(9)が主張しているように、すべてを「鳥瞰図」から見下ろせる新しい時代に入ったと教え込むとすれば、それは非常に大きな害をもたらすだろう。
※英訳注
ここの「エンゲルス」は、たぶん「ヘーゲル」の間違いであろう。もちろん、若い世代の間には日常的実務に対する反感が存在する。これは不可避である。しかし、われわれの参謀本部付属軍学校および革命軍事会議はそれを抑制するために全力を尽くすだろうし、そうすることは正しいのである。私はわれわれのこの討論が最終的なものであるとはみなしていない。それは速記録として書き留められ、検討に付され、印刷され、おそらくこれと同じような別の集会が開かれることだろう。
一方、決定的な必要物である食糧と長靴を無視しないようにしようではないか。よい食糧は悪い軍事理論よりも優ると思うし、長靴について言うと、軍事理論は、赤軍の兵士に自分の長靴を手入れし自分のライフル銃を掃除することを学ぶよう語ることから始まる、と私は主張したい。われわれの勝利への意志および自己犠牲の精神に加えて、われわれが長靴を手入れすることを学ぶならば、まさに最良の軍事理論を持つことになるだろう。だからこそ、われわれはこれらの実務的な細部に注意を払わなければならないのである。
ここで、技術について一言。われわれの技術はもちろん貧弱であるが、ヨーロッパは今日われわれを攻撃することができない。そこの労働者階級がそれを許さないだろう。このことから出てくる結論は、ヨーロッパはわれわれを大目に見ているということである。われわれとの間で経済関係を結んでいる。利権がやって来つつある。困難だが、利権が到来しつつある。その利権と貿易関係を通じて、ヨーロッパ帝国主義はわれわれの産業を発展させて、自分たちに対立するわれわれの武装を自分たちの手で技術的に助けざるをえない。これは不可避である。帝国主義はそうする運命にあり、そうしなければならない。そして、もし私がこのことを声を大にして、ロイド=ジョージ(10)やブリアン(11)やミルラン(12)が加わっている聴衆の前で語るとすれば、彼らは驚いてあとずさりするだろうが、にもかかわらず彼らはやむをえずそうするだろう。それ以外にとるべき道がないからである。ヨーロッパと世界の危機および労働者階級の圧力によって彼らはわれわれとの関係を樹立せざるをえないのである。結局、これは国家によってではなく、何よりも自分自身の利益のことを考えている資本家によってなされるのである。
そこから導き出されるべき結論は、先走りするな、である。同志スヴェーチンはこの場で、時間がわれわれに有利に働くと言ったが、それは正しかった。時間は歴史において非常に重要な要素である。5分だけ早すぎて発せられた一言がときとして軍事行動の失敗を意味することがある。5分遅すぎてもよくない。タイミングが適切でなければならない。現在、われわれは技術的・経済的脂肪をある程度増やす必要がある。われわれの経済は混乱状態にあり、非常にゆっくりと回復しつつある。われわれは今後、軍事理論について討論し、われわれの概念を明確化し、それをより正確なものにする機会を持たなければならないだろうし、論争は赤軍建設の事業に利益をもたらすだろう。赤軍を称えて「万歳」を唱えるよう提案する。
アルヒーフより
1921年11月1日
『革命はいかに武装されたか』第3巻、第2分冊
『トロツキー研究』第28号より
訳注
(1)スヴォローフ、アレクサンドル(1729/30-1800)……帝政ロシアの軍人、近衛大将。露土戦争に従軍し多くの戦功を上げる。「ロシア的戦法」の創始者で、兵器では特に銃剣を重視した。
(2)コルチャーク、アレクサンドル(1874-1920)……帝政ロシアの提督。白軍指導者。1918年にシベリアでイギリスの支持を受けて反革命政府(オムスク政府)を樹立し、その陸海相に。クーデターで独裁権を握り、「ロシアの最高統治者」を自称。列強の「シベリア出兵」と呼応して、対ソ干渉戦争を主導。1919年の夏季攻勢で赤軍に敗北し、逮捕され銃殺。
(3)ヴァツェティス、ヨアキム(1873-1938)……ボリシェヴィキに加わった大佐。1918年9月〜翌年7月、赤軍の最高指揮官。フルンゼの陸軍アカデミー教授。1937年、逮捕。銃殺。
(4)マーモントフ、コンスタンチン(1869-1920)……帝政ロシアの軍人、中将、白衛派将軍。第1次大戦では、騎兵隊将校として参加。内戦において白衛派のコサック司令官として、ソヴィエト権力と闘争。1919年の夏から秋にかけて、敵の背後を突く奇襲攻撃で名を馳せた。
(5)ペトリューラ、シモン(1879-1926)……ウクライナ民族運動の指導者。当初ウクライナ 社会民主党に参加。2月革命後、キエフに結成された中央ラーダの首班。1918年にウクライナ人民共和国を宣言し、ドイツ、ポーランドと結んでソヴィエト政権に対する反革命武力闘争を挑む。自分の支配する地域において、最も残酷なポグロムを組織し、多数のユダヤ人を虐殺した。1920年に赤軍に敗北し、ワルシャワに亡命。
(6)トゥハチェフスキー、ミハイル(1893-1937)……ソ連の赤軍司令官、元帥。貴族出身で、陸軍士官学校卒。第1次大戦にロシア軍将校として参加。1918年にボリシェヴィキ入党。1935〜36年、ソ連軍参謀総長、国防人民委員代理。1937年に、スターリンの陰謀でクーデターの首謀者として逮捕され、他の赤軍指導者とともに銃殺。死後名誉回復。
(7)ドゥートフ、アレクサンドル(1864-1921)……帝政ロシアの軍人、大佐。1917年のロシア革命のさなか、オレンブルクのコサック団のアタマン(頭目)に選ばれ、同年末にソヴィエト政権に対する反乱を起こし、ウラル一帯を占領。シベリアのコルチャーク軍と呼応して内戦の火の手を上げたが、1919年に赤軍に敗れ、1920年に中国に逃亡。そこで部下に殺された。
(8)チチェーリン、ゲオルギー(1872-1936)……ロシアの革命家、ボリシェヴィキ、外交官。もともと帝政ロシアの外交官であったが、革命運動を支持して罷免される。ドイツに亡命し、社会民主党に入党。主にイギリス、フランス、ドイツで社会民主主義運動に従事。当初メンシェヴィキ。第1次大戦中は、最初は祖国防衛派であったが、のちに国際主義派になり、『ナーシェ・スローヴォ』に協力。10月革命後にボリシェヴィキに。イギリス滞在中、ボリシェヴィキの手先として逮捕・投獄。1918年に、イギリスの捕虜になっていたブキャナンの息子との捕虜交換でロシアに帰国。その後ソヴィエト政府の外交官として活躍。
(9)ウスペンスキー、グレープ(1843-1902)……ロシアのナロードニキ系の作家。雑誌『現代人』の編集者。トロツキーはウスペンスキーをナロードニキ作家の中で最も高く評価した。『零落』(1869)、『大地の力』(1882)など。
(10)ロイド=ジョージ、ディヴィッド(1863-1945)……イギリスのブルジョア政治家。1908〜15年、蔵相。1916〜22年、首相。ソヴィエト・ロシアへの干渉戦争を推進。1931年の総選挙後は「独立自由党」を率いる。
(11)ブリアン、アリスティッド(1862-1932)……フランスのブルジョア政治家。第1次大戦後、首相を10回、外相を11回つとめる。1920年代には反ソ政策を推進。
(12)ミルラン、アレクサンドル(1859-1943)……フランスの政治家。急進社会党から独立社会党に移行。独立社会党の議員であったときに、ヴァルデク=ルソー内閣に入り、社会主義陣営から厳しく批判され、ミルラン主義という言葉が作られた。1919年に首相。20〜24年に大統領。
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