【解説】これはトロツキーのフランス到着後3日目にサンパレで行なわれた討論におけるトロツキーの発言を速記録をもとに起こしたもの。アメリカ共産主義者同盟『内部ブレティン』第13号(1933年)に最初に掲載。
本稿の初訳は『トロツキー著作集 1933-34』上(柘植書房)だが、アップするに際して英語版と照合して修正してある。
Translated by the Trotsky Institute of Japan
今日までわれわれは第3インターナショナルの一分派として発展してきた。除名された後もわれわれは自らを分派とみなし、共産主義インターナッョナルの改革をめざしてきた。これは絶対に欠かすことのできない段階であった。今から少し前、コミンテルンは決定的な敗北を運命づけられているとわれわれの一部が確信した時でさえ、われわれが自らを新しいインターナショナルであると宣言することは不可能であった。カードルを訓練するためには、われわれがどの程度の値打ちを持ち、われわれの思想がどの程度の値打ちを持っているかを実地に証明することが必要だったのである。それはただ分派としてのみなしうることであった。それは不可避的な一段階であった。
今や国際的にも国内的にも、この路線に終止符を打たなければならない。われわれは、歴史的諸事件――これはわれわれによって前もって批判的に解明されていた――がコミンテルンの政策の根本的な変化を生み出すという発展を理論的に想定していた。このような巨大な事件が実際に発生した。中国の事件があった。しかし当時、反対派の批判は閉ざされた書物にとどまり、西ヨーロッパの労働者たちはこれについてほとんど知ることができなかった。ドイツの事件があった。われわれは事態を一歩一歩追い、それを多少とも正確に予測した。これは、改革というものが可能だとすれば、まさにこれを実行するまたとない情勢であった。
4月5日〔1933年〕、コミンテルン執行委員会の決議(1)の後に、われわれはこう宣言すべきであった。共産主義インターナショナルは死んだ!と。 われわれは数ヶ月の時を失ったが、それでも、その期間はある重要な意味をもっていた。なぜこのように遅れたのか? 何よりも、ドイツにおいては新しい党が必要だとするわれわれの宣言が、われわれの隊列内に意見の相違を生み出したからである。問題は、分裂を生み出すことなく決定的な転換を実現することであった。第1段階はドイツの新しい党を宣言することであった。そして次に、ドイツの破局がコミンテルンの他の支部に対して及ぼす影響を見きわめる必要があった。
われわれのこの待機姿勢は、このような転換に必要とされる慎重さによって説明される。ドイツの破局の影響はコミンテルンに対して必然的に、コミンテルンの改革かあるいはその加速的な解体かのいずれかの方向に向かう変化を生み出さないわけにはいかない。コミンテルンがドイツ破局の前夜と同じであり続けることはできない。コミンテルンがとった道は今ではきわめて明瞭である。奇跡を期待することはできない。それは破綻を運命づけられている。コミンテルンの全体について、これを改革するという考えは国内的にも国際的にも退けられなければならない。なぜならそれは今や、世界の労働者階級の最大の敵となった破廉恥な官僚的カースト組織以外の何ものでもないからである。プロレタリア前衛をスターリニスト官僚の独裁から解き放つことが絶対に必要である。
この転換は本質的には何を意味するか? われわれは一分派たることをやめる。われわれはもはや左翼反対派ではない。われわれは新しい党の萌芽となる。われわれの活動はもはや分派という考え方によって制約されない。このことはわれわれに計り知れない利点を与える。スターリニスト組織はますます小さくなりつつある。労働者階級はその胸中からコミンテルンを投げ棄てつつある。われわれがこれに所属したままであれば、われわれの失敗は運命づけられるだろう。一部の組織、一部のグループは、われわれが改革を支持しているというだけの理由で、われわれに敵対している。彼らは混乱主義者であると言ってもよい。しかし、われわれと同じ道を進まなかった彼らの中にも健全な分子は存在する。われわれは自らをスターリニスト官僚の公式の後見人の立場から解放しなければならない。
問題になっているのは、今ただちに分裂を宣言することだろうか? いや、今ただちにそうすることはできない。われわれには十分な力がない。左に向かう潮流が社会党の中で形成されつつある。われわれはこれらの潮流に顔を向けなければならない。共産主義インターナショナルは革命に向かったこのような昨日の中間主義分子から形成された。全般的な情勢は1918年の方がずっと有利であった。発展のテンポははるかに急速だった。今日われわれは労働者運動の最大の敗北に直面している。発展ははるかに緩慢であるが、いずれはコミンテルンの破産と平行して社会民主主義の破産が、しかも資本主義社会の破局的崩壊の基礎上で生じるだろう。
われわれは革命組織の形成のための萌芽である。したがって、例えば、ドイツ社会主義労働者党(SAP)および他国の同じようなグループによってブリュッセルで会議が予定されているが、われわれは彼らからの招請にイエスと答えるべきである。もしわれわれが、コミンテルンの一分派たり続けることが必要だと主張するとすれば、意味を失った問題をめぐって、われわれに反対する統一戦線が形成されるであろう。われわれは違った対応をしなければならない。われわれはそこへ出かけていって、こう言わなければならない。「諸君は改革の問題でわれわれを非難してきた。今やわれわれは、改革の政策が使い果たされた新しい歴史的段階に立っている。過去の観点を議論するのはやめよう。意見の相違は解消されている」。
1933年7月27日
『トロツキー著作集 1933-34』上(柘植書房)より
訳注
(1)この決議の中でコミンテルン幹部会は次のように述べた。「テールマンを先頭とする中央委員会の……政治路線は、ヒトラーのクーデターに至るまでも、クーデター中も、完全に正しかった」(トロツキー「ドイツの破局――指導部の責任」より)。
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