【解説】コミンテルン指導部は、ヒトラーが国会選挙で勝利を実現した3月5日の破局について、すぐに見解を示すことができず沈黙を続けた。4月7日に採択された幹部会の決議は、ドイツ共産党中央委員会の政策がヒトラーのクーデター前もそのあいだも一貫して正しいものであったという決定を下した。本稿はこの決定を厳しく批判したものである。
今回アップしたのは、『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)に所収の翻訳を、『反対派ブレティン』所収のロシア語原文にもとづいて修正したもの。
Л.Троцкий, Немецкая катастрофа: Ответственность руководтва,Бюллетень Оппозиции, No.35, Июль 1933г.
Translated by the Trotsky Institute of Japan
帝国主義の時代は、少なくともヨーロッパでは、大変動に満ちた時代である。政治はきわめて流動的で機動的な性格を帯びる。変動のたびごとに問題になるのは、あれこれの部分的改良ではなく、体制の運命であった。ここから、革命党とその指導部の例外的に重大な役割が生じる。社会民主党が、自分たちを育成した資本主義と同じく、整然と絶え間なく発展していた古き良き時代においては、ベーベル指導部は、不確定の未来における戦争(それは結局起こらないとみなされていた)のための計画を静かに作成している総司令部のようなものであった。それに対し、現在の状況における革命党の中央委員会は、行軍中の軍隊を指揮する野戦指令部に相当する。書斎の戦略が戦場の戦略に取って代わられたのだ。
集中した敵には、集中した闘争が必要である。総じて規律の精神で教育されてきたドイツ労働者は、戦争とそれに続く政治的激動の時期にこの思想を新たな活力をもって吸収した。労働者は、指導部の欠陥に気づいていないわけではない。だが、彼らは個人としては組織の万力から飛び出すことができない。彼らはみな、強力な指導部は、たとえ欠陥をともなっていても、分散状態やパルチザン主義よりもましであると考えている。人類の歴史の中で、政治的司令部が今日の時代ほど大きな役割を果たし、今日の時代ほど巨大な責任を担っているときはない。
ドイツ・プロレタリアートの未曾有の敗北は、最近の歴史において、ロシア・プロレタリアートによる権力奪取以来の最も重大な出来事である。敗北後にしなければならない最初の課題は、指導部の政策を再検討することである。たしかに、指導者のうちの最も責任ある連中(幸いなことに、全員無事である)は、批判者の口をふさぐため、逮捕された下部党員たちの名前を熱をこめて列挙している。われわれは、こうした偽りのセンチメンタリズムには軽蔑以外の何ものも感じない。ヒトラーによって囚われの身となっている人々に対するわれわれの連帯感は、揺るぎのないものである。しかし、この連帯の対象を指導者たちの誤りにまで拡大することはできない。こうむった損害が正当化されるのは、敗北した側の思想が前進する場合のみである。そのための条件は、勇気ある批判を行なうことである。
まる1ヶ月間、共産党の機関紙はどれ一つとして、3月5日の破局のことに言及しなかった。モスクワの『プラウダ』も例外ではない。これらの機関紙はすべて、共産主義インターナショナル幹部会が何かを言うまで侍っていたのである。幹部会は幹部会で、「ドイツの中央委員会は誤った指導をした」という見解と、「ドイツの中央委員会は正しい政策を遂行した」という2つの相対立する見解のあいだを動揺していた。だが、前者の見解をとることは不可能だった。破局への準備が全世界の面前で行なわれ、それに先立つ左翼反対派との論争があまりにもコミンテルン指導者たちの手を縛っていたからである。4月7日、ついに決定が発表された。「テールマンを先頭とする中央委員会の……政治路線は、ヒトラーのクーデターに至るまでも、クーデター中も、完全に正しかった」。ファシストによってあの世に送られてしまった人々がみな死ぬ前にこの慰めの決議を聞けなかったことだけが残念である。
幹部会の決議は、ドイツ共産党の政策を分析するものではなく(それが何よりも求められていたのだが)、ドイツ社会民主党に対する1001回目の告発状であった。そこで聞かされるのは、社会民主党は共産党との連合よりもブルジョアジーとの連合の方を選んだとか、ファシズムとの真の闘争を回避し大衆のイニシアチブに足かせをかけたとか、さらには、彼らはその手中に「労働者の大衆組織の指導権」を集中していたのでゼネストを妨げることに成功した、といったものである。これはすべて本当だ。しかし、それは何ら今にはじまったことではない。
社会改良の党としての社会民主党は、資本主義が帝国主義へと転換するにつれて、その進歩的な使命を使い果たしてしまった。大戦中、社会民主党は、帝国主義の直接の道具として行動した。戦後になると、この党は、正式に資本主義の主治医として名乗りをあげた。共産党は、資本主義の墓堀人となることを望んだ。その後の発展の歩みは、どちらに有利だったか? 国際関係のカオス、平和主義の幻想の崩壊、大規模な戦争と疫病を足したものにも匹敵するような前代未聞の大恐慌――これらすべては、ヨーロッパ資本主義の衰退的性格と改良主義の無力さを暴露したように見える。
だが共産党はどこに行ってしまったのか? 実際、コミンテルンは自分自身の支部を無視している。ところが、この支部は選挙で600万票も獲得した党なのだ。それは、もはや単なる前衛ではない。それは、一つの独立した軍隊である。では、なぜ、この党は弾圧やポグロムの犠牲者としてしか事態にかかわることができなかったのだろうか? なぜ、決定的なときにマヒに襲われてしまったのか? 闘わずに退却することのできない状況というものがある。敗北が敵の勢力の方が優勢である結果として生じるなら、敗北のあとで立ち直ることもできる。だが、決定的陣地を受動的に放棄するのは、戦闘の有機的能力を欠いていることを意味するものであり、これは絶対に許されない。
コミンテルン幹部会は、共産党の政策が「クーデターに至るまでも、クーデター中も」正しかったと言う。けれども、正しい政策は、情勢への正しい評価からはじまる。だが、実際は、1933年3月5日までのこの4年間、われわれは明けても暮れても、ドイツでは強力な反ファシスト戦線が不断に発展しつつあり、国家社会主義が後退し分解しつつあり、全情勢が革命的攻勢を基調としている、と聞かされてきた。政策の基礎となっている展望全体がカルタの家のように覆されたのに、どうしてその政策が正しかったなどということがありうるのか?
幹部会は、この受動的退却を正当化しようとして、共産党が「労働者階級の多教の支持を得ていなかった」ので、決定的戦闘に突入するのは犯罪的だっただろう、と述べている。ところが、この同じ決議は、1932年7月20日の政治的ゼネストの呼びかけを共産党の功績に挙げている。だが、どういうわけか決議は、1933年3月5日の同様の呼びかけを功績のリストに挙げていない。ゼネストは「決定的戦闘」である。この2つのストライキの呼びかけは全体として、「革命的攻勢」の条件下で「反ファシズム統一戦線」において「指導的役割」を演じるという責務に対応したものであった。不幸にも、この呼びかけには行動が伴っておらず、それに応える者は誰一人としていなかった。だが、展望と現実とのあいだに、呼びかけと行為とのあいだに、ここまではなはだしい矛盾があるとすれば、いったい正しい政策と破滅的な政策とをどうやって区別するのか、その理解は容易ではない。いずれにしても、幹部会は、2度のストライキの呼びかけが正しかったのか、それともそれに対する労働者の無関心が真実なのか、このことを説明することを忘れている。
だが、敗北の原因はひょっとするとプロレタリアートそのものが分裂していたからではないのか? このような説明は、怠惰な知性のために特別につくられたものだ。普遍的スローガンとしてのプロレタリアートの統一は空虚なフィクションである。プロレタリアートは均質ではない。プロレタリアートの政治的覚醒とともに分裂がはじまり、その成長のメカニズムを構成する。社会的危機の成熟という条件のもとで権力奪取の課題に直面したとき、前衛は、正しい政策がある場合には、その階級の圧倒的多数を自らの周囲に結集することができる。だが、この革命的絶頂へとのぼりつめるまでには、分裂の諸段階を経なければならない。
統一戦線政策を発明したのはレーニンではない。それは、分裂と同じく、階級闘争の弁証法によって強制されたものである。差し迫った諸課題を達成するためには、プロレタリアートのさまざまな部分や諸組織や諸グループのあいだで一時的協定を結ばなければならないのであって、それなしには、いかなる成功も考えられない。ストライキ、労働組合、労働者新聞、議会選挙、街頭デモは、そのたびごとに、実践的に分裂を克服することを必要とする。すなわち、たとえ組織だったものでなくても、事実上の統一戦線を必要とするのである。運動の最初の段階では、エピソード的な統一が下から自然発生的に生じてくるが、大衆がその組織を通じて闘争することに慣れてくると、統一はまた、その上層部でも確立されなければならなくなる。先進資本主義諸国の現在の諸条件のもとでは、「下からのみ」というスローガンは、革命運動の最初の段階、主として帝政ロシアにおける記憶につちかわれたものであって、まったく時代錯誤なものである。
一定の水準になると、統一行動のための闘争は、自然発生的な事実から戦術的課題に転化する。統一戦線という抽象的な公式は何も解決しない。統一戦線を呼びかけるのは共産主義者だけではなく、改良主義者も、ファシストでさえもそうする。統一戦線の戦術的適用は、どの時期にあっても、一定の戦略的概念に従属する。改良主義抜きの、改良主義に対立する労働者の革命的統一を準備するには、常に最終的な革命的目標という観点に立って改良主義者との統一戦線を長年にわたって持続的にねばり強く適用するという経験が必要である。レーニンがわれわれに比類のない模範を示してくれたのは、まさにこの分野においてである。
コミンテルンの戦略的概念は、最初から最後まで誤っていた。ドイツ共産党の出発点は、社会民主党とファシズムとのあいだにあるのは単なる分業でしかなく、両者の利害は、同一でないにせよ同種のものである、というものだった。コミンテルンは、自分の主要な政治的競争相手と自分の不倶戴天の敵とのあいだの関係を先鋭化させるかわりに――そのためには、真実に曲げるのではなく、真実を声高にその本来の名前で呼ぶだけで十分だったろう――、改良主義者とファシストに自分たちが双生児であると確信させ、両者の和解を予言し、社会民主党労働者をいらだたせ、その反発を煽り、改良主義的指導者の立場を強化した。さらに悪いことに、指導部によって設けられた障害にもかかわらず、各地方で労働者防衛合同委員会が結成された場合には決まって、党官僚たちは除名の脅しで強制的に自党の代表者たちをそこから引き揚げさせた。官僚たちは、上からのみならず下からも統一戦線をサボタージュするという一点でのみ、首尾一貫性とねばり強さを発揮した。彼らが最良の意図をもってこの破滅的事業を行なったことは言うまでもない。
もちろん、共産党のいかなる政策も社会民主党を革命の党に変えることはできない。だが、そんなことが目的なのではない。必要だったのは、ファシズムを弱めるために、改良主義とファシズムとの矛盾を徹底的に利用すること、それと同時に、改良主義を弱めるために、社会民主党指導部の破産ぶりを労働者の前で暴露することであった。この2つの任務は、必然的に一個に融合する。だが、コミンテルン官僚の政策は正反対の結果をもたらした。改良主義者の降伏は、共産主義ではなく、ファシズムの利益となった。社会民主党労働者は、自分たちの指導者のもとにとどまり続け、共産党労働者は自分自身と指導部への信頼を失った。
大衆は闘うことを望んだが、上層部がそうするのを執拗に阻んだ。緊張、不安、そして最後には茫然自失によって、プロレタリアートは内部から崩壊した。鋳造用の合金を長く火にかけすぎるのは危険であるが、一つの社会をあまり長く革命的危機の中に放置するのはいっそう危険である。小ブルジョアジーが大挙して国家社会主義の側へと向きを変えたのは、上からマヒさせられたプロレタリアートが、小ブルジョアジーを別の道へ導くうえでの無力さを示したからである。労働者の側からの反撃のないことがファシズムの自信を高め、内戦のリスクに直面していた大ブルジョアジーの恐怖を和らげた。階級からますます孤立していった共産党の隊列が不可避的に意気阻喪していたため、部分的抵抗すら不可能になった。このようにして、プロレタリア組織の死骸の上をヒトラーの勝利の行進が進んでいくことになったのである。
コミンテルンの誤った戦略的概念は、あらゆる段階で現実と衝突した。そのため、理解することも説明することもできないようなジグザグのうんざりさせる路線を歩むことになった。コミンテルンの根本原則として、改良主義指導者との統一戦線は認められない!と宣言された。しかし、ドイツ共産党中央委員会は、最も危機的な瞬間に、何の説明や準備もなしに、社会民主党指導部に訴えを発し、最後通牒的な形で統一戦線を提案した。今か、さもなくば、永遠に否! と。改良主義陣営の指導者だけでなく労働者も、この提案を恐怖の単なる産物としてではなく、反対に、邪悪な罠であると解釈した。和解に向けたこの試みが不可避的に失敗すると、その後、コミンテルンは、あっさりとお決まりの立場に戻るよう命じ、統一戦線という考えそれ自体が反革命的であると再び宣言された。大衆の政治意識に対するこのような愚弄が、罰なしにすむわけがなかった。3月5日以前であれば、コミンテルンが最後の瞬間に敵の棍棒に追い立てられて、社会民主党への呼びかけを許容するだろうと、こじつけ的に想像することができたかもしれない。だが、各国内部の諸条件とは無関係に全世界の社会民主党に共同行動を提案した3月5日の幹部会アピールは、以上の説明すらも不可能にした。統一戦線の普遍的な提案――これ自体、すでに国会議事堂の炎で照らし出されたドイツにとっては、いずれにせよ手遅れのものだったのだが――は、社会ファシズムについてはもはや一言も触れていなかった。コミンテルンは、共同闘争の全期間を通じて社会民主党への批判を控えることさえも進んで受け入れた。信じがたいことだが、そのことは白い紙に黒字ではっきりと印刷されているのだ!
しかしながら、改良主義へのこのようなパニック的屈服は、ウェルス(1)がヒトラーに忠誠を誓い、ライパルト(2)がファシズムに援助と支援を申し出ると、たちまち静まってしまった。コミンテルン執行委員会幹部会はただちに宣言した、「共産主義者が社会民主主義者を社会ファシストと呼んだのは正しかった」と。これらの人々は常に正しい。だがなぜ、社会ファシズム論がはっきりと確証されるわずか数日前に、彼ら自身がこの理論を放棄したのか? 幸い、あえて指導者を困惑させるような質問をする者はいない! だが、不幸はこれで終わりではない。官僚の思考は、現在の事態のテンポについていくにはあまりにも遅すぎる。幹部会が「ファシズムと社会民主主義は双生児である」というあの悪名高いお告げに舞い戻るやいなや、ヒトラーは、自由労働組合[社会民主党系の労働組合連合]を完全に粉砕し、ついでにライパルト一派を逮捕した。この双生児たちの関係は、まったく兄弟的なものではないのである。
改良主義を、その左右への動揺をともない固有の利害と矛盾をもった歴史的現実としてとらえるかわりに、コミンテルンの官僚は金属の型枠で対処した。ライパルトが敗北後に進んで這いつくばったことが、敗北前にその敗北を回避するための統一戦線に反対した根拠として持ち出されている。あたかも闘争のための改良主義との合意が、プロレタリアの民主主義的諸機関とファシスト・ギャング団との非和解性に立脚するのではなく、改良主義指導者の個人的誠実さに立脚しなければならないかのようである!
ドイツがまだ「社会将軍」シュライヒャー(3)――コミンテルンは、この将軍がヒトラーとウェルスとの同盟を保障すると宣言していた――の統治下にあった1932年8月、私はこう書いた。
「あらゆることが物語っているように、ウェルス=シュライヒャー=ヒトラーの3者連合は、それが成立する前に分裂するだろう。
しかし、ヒトラー=ウェルス連合がそれに代わるのではなかろうか? スターリンによれば、両者は『双生児であって、対立物ではない』。社会民主党が、自らの労働者を恐れることなく、自らの寛容をヒトラーに売りこむことを決意したと仮定しよう。だが、ファシズムはこのような商品を必要としない。ファシズムに必要なのは、社会民主党の寛容ではなく、その根絶である。ヒトラー政府は、プロレタリアートの抵抗を粉砕し、そのような抵抗の根拠となるありとあらゆる機関を制圧してはじめて、その任務を果たすことができる。ここに、ファシズムの歴史的役割が存在する」(『唯一の道』)(4)。
よりよい時期がくるのを待って無為に過ごす合法的可能性をヒトラーが社会民主党に許したとすれば、それは確かに敗北後の社会民主主義者にとって幸福なことだったろう。このことに疑いはない。だが、彼らにとって不幸なことに、ヒトラーは――彼にとってイタリアの経験は無駄ではなかった――、労働者組織というものは、たとえその指導者が口輪をはめることに成功しても、最初の政治的危機が訪れるやいなや不可避的に危険な代物になることにを理解していた。
現在の労働戦線の伍長であるレイ博士(5)は、コミンテルンの幹部会よりはるかに明快に、いわゆる双生児間の関係を規定している。「マルクス主義は死んだふりをしている――と彼は5月2日に語っている――、より有利な機会が来れば再び立ち上がるために。……ずる賢い狐にわれわれはだまされない。この狐がいつか再び立ち上がるまで待つより、さっさと撃ち殺した方がいいのだ。ライパルト一派やグラスマン(6)一派は、ヒトラーに対してありとあらゆる種類の献身のそぶりを示すかもしれない。だが、彼らを獄中に閉じ込めておいた方がよい。……だからこそわれわれは、マルクス主義者の手からその主要な武器(労働組合)を取り上げ、そうすることによって彼らが再起する最後の可能性を奪い取るのである」。
コミンテルンの官僚があれほどまでに無謬を誇らずに批判の声に耳を傾けていたなら、ライパルトがヒトラーに忠誠を誓った3月22日から、その宣誓にもかかわらずヒトラーがライパルトを逮捕した5月2日までのあいだに、新しい誤りをつけ加えることもなかっただろう。
基本的に言って、ファシストが労働組合をこじ開けて乗っ取るといった「浄化」作業がなかったとしても、「社会ファシズム論」を論破することは可能である。たとえヒトラーが、力関係の結果としてライパルトを労働組合の指導部の地位に一時的、名目的にとどめておくのが合理的であると考えたとしても、この取引は両者の根本的利害の非和解性を取り除くことにはならなかっただろう。改良主義者は、たとえファシズムによって寛大な扱いを受けたとしても、ワイマール民主主義という贅沢なスープを思い出すだろう。それだけでもすでに彼らはファシズムにとっての隠れた敵なのである。第三帝国内に鉄兜団さえ独立して存在できないときに、社会民主主義とファシズムとの利害の非和解性を見ないことがどうしてできようか? ムッソリーニは、かなり長いあいだ社会民主党どころか共産党さえも大目に見ていたが、それは後に両党をそれだけいっそう無慈悲に破壊するためだった。社会民主党の議員が国会でヒトラーの外交政策に賛成投票したことは、改めてこの党の破廉恥ぶりを暴露しこそすれ、この党の運命をいささかも改善するものにはならないだろう。
不幸な指導者たちは、ファシズムが勝利した最大の原因の一つを――もちろん秘かにではあるが――ヒトラーの「天才」のせいにしている。すべてを見通し、いかなる機会も逸しなかったというわけである。今となっては、ファシストの政略を後智恵的に批判に付したところで不毛な作業でしかない。去年の夏にファシストが上げ潮に乗るチャンスをヒトラーが明らかに見逃したことを思いおこすだけで十分だろう。それは、これまでの躍進の快調なテンポを大きく失うことになったが(巨大な誤りだ!)、致命的な結果には至らなかった。ゲーリング(7)による国会放火は――いかにこの挑発行為が粗雑なものだったとしても――、それでも必要な結果をもたらした。同じことがファシストの政略全体にも言うことができる。このような政略が勝利をもたらしたのである。残念なことだが、プロレタリアートの指導部よりもファシストの指導部の方が優れていたことは否定できない。だが、打ち負かされた指導部がヒトラーの勝利に果たした自分たち自身の役割について沈黙を守り続けるかぎりにおいてのみ、そう言えるにすぎない。チェッカーには、自分が相手の駒をすべてとると勝つという普通のルールでやる場合と、相手に自分の駒をすべてとらせたほうが勝つという逆のルールでやる場合とがある。ドイツで行われた政党間の争いの特殊性は、ヒトラーが相手の駒をとる勝負をしていたのに、敵が自分の駒を相手にとらせる勝負をしていたという点にある。ヒトラーが政治的天才である必要はなかった。ヒトラー自身の戦略の欠陥を敵の戦略が補って余りあったのである。
1933年5月28日
『反対派ブレティン』第35号
『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)より
訳注
(1)ウェルス、オットー(1873-1939)……ドイツ社会民主党右派。第1次大戦中は排外主義者。ベルリンの軍事責任者としてドイツ革命を弾圧。1933年まで、ドイツ社会民主党国会議員団の指導者。共産党との反ファシズム統一戦線を拒否し、ファシズムに対する妥協政策をとりつづける。
(2)ライパルト、テオドール(1867-1947)……ドイツの労働組合指導者で、社会民主党主導の「自由労働組合」の組織者。後にドイツ労働総連合(ADGB)の議長。第2次世界大戦後、東ドイツでスターリニスト党と社会民主党の合体を主張。
(3)シュライヒャー、クルト・フォン(1882-1934)……ドイツの将軍、政治家。パーペン政府の国防大臣をつとめ、1932年12月2日にヒンデンブルクによって首相に指名(ワイマール共和国最後の首相)。1933年1月末、首相の座をヒトラーに取って代わられる。ナチスの「血の粛清」中の1934年6月30日に殺害される。
(4)トロツキー『唯一の道』第3章「社会民主主義とファシズムとの同盟か、両者の闘争か」。
(5)レイ・ロベルト(1890-1945)……ナチスのケルン大管区指導者で、ナチス支配下の全体主義的「組合」である「ドイツ労働戦線」の指導者。
(6)グラスマン、ペーテル(生没年不明)……ドイツの社会民主主義指導者で、労働運動の指導者。自由労働組合におけるライパルトの副官。
(7)ゲーリング、ヘルマン・ヴィルヘルム(1893-1946)……ナチスの幹部。ヒトラーの片腕。SA(ナチス突撃隊)の組織者。ナチス政権下でプロイセン内相として、国会放火事件をでっち上げて共産党を弾圧。その後プロイセン首相に。戦後、ニュルンベルク裁判で死刑を宣告されるが、処刑される直前に自殺した。