【解説】この論文は、1930年代前半のドイツ情勢を論じた一連の論文の一つである。この論文の中でとりわけ、トロツキーは、「生産の労働者統制」のスローガンと工場委員会の役割について正面から論じている。ここで展開された思想は、のちに「過渡的綱領」に生かされる。
この論文が始めて翻訳されたのは、現代思潮社の『社会ファシズム論批判』の中であったが、それはフランス語からの重訳であり、重大な誤訳が多数散見される。たとえば「スローガン」と訳すべき単語を「指令」や「合言葉」と訳したり、「モンド主義」と訳すべき単語を、フランス語で「世界」「世間」を意味する「モンド」だと勘違いして、「世界主義」と訳したり、など。そこで今回、『反対派ブレティン』に収録されているロシア語原文から訳し直した。また、「労働者統制」と訳した単語(рабочий контроль(worker's control))は、従来、「労働者管理」と訳されてきたが、ここで含意されているのは、労働者が直接生産の管理運営にあたることではなく、旧来の管理経営者層を監視し点検し、帳簿を公開させ、その活動を制御することである。したがって、「労働者統制」という訳語の方がふさわしい。邦訳『レーニン全集』(大月書店)の訳語も「労働者統制」の方を採用している。他方、「рабочее управление(worker's management)」の場合は、労働者が直接生産の管理運営にあたるので、「労働者管理」と訳すべきだろう。
Л.Троцкий, О рабочем контроле над производством(Письмо к товарищам), Бюллетень Оппозиции, No.24, Сентябрь 1931.
Translated by the Trotsky Institute of Japan
あなたの質問への答えとして、ここで、生産の労働者統制のスローガンに関する若干の予備的な意見交換と一般的な考察を行ないたいと思う。
そのさい生じる最初の問題は、生産の労働者統制を恒常的な――もちろん永遠にではないにしても、かなり長期にわたる――体制として考えることができるのか、というものだ。この質問に答えるには、このような体制の階級的本質をより明確に規定しなければならない。労働者の手中に統制権があるということ、これは、所有権と指揮命令権は資本家の手中に残されている、ということを意味する。したがって、この体制は、一種の経済的空位期間を特徴とする矛盾した性格を有している。
労働者にとって統制が必要なのは、プラトニックな目的のためではなく、企業の生産上および商業上の活動に実践的影響を及ぼすためである。しかし、それを達成するには、統制が、あれこれの形態、あれこれの程度で、直接的な管理に移行しなければならない。したがって、労働者統制の発展形態は、工場、銀行、商社などにおける一種の経済的二重権力を意味する。
生産管理への労働者の参加が、長期的で、安定的で、「正常なもの」であるためには、それは、階級闘争にではなく、階級間協力にもとづいていなければならない。しかし、このような階級間協力が実現できるのは、労働組合の上層部と資本家の連合体を通じてのみである。このような経験はこれまでも、ドイツの「経済民主主義」やイギリスのモンド主義(1)をはじめ、少なからず見られた。しかし、そのいずれの場合にも、問題になっていたのは、資本に対する労働者の統制ではなく、資本に対する労働官僚の奉仕である。このような奉仕は、経験が示しているように、長期にわたって継続することができる。それは、プロレタリアートの忍耐力しだいである。
しかしながら、生産現場に、工場に、職場に近くなればなるほど、このような体制はますます不可能なものになっていく。なぜなら、労働者の直接的で死活にかかわる利害が問題になるからであり、また、全過程が、労働者自身の目の前で展開されるからである。工場委員会を通じた労働者統制は、階級間協力ではなく、先鋭な階級闘争にもとづく場合のみ考えうる。しかし、そのことはまた、企業、トラスト、生産のあらゆる分野、経済全体にわたって、二重権力が存在するということをも意味する。
生産の労働者統制に対応する国家体制とは、いかなるものだろうか? 明らかに、権力はまだプロレタリアートの手にはない。なぜなら、権力がプロレタリアートの手中にあるとすれば、われわれが有するのは、生産の労働者統制ではなく、国有化にもとづいた国営生産体制に向けた労働者国家による生産統制だからである。われわれがここで問題にしているのは、資本主義体制とブルジョア権力のもとでの労働者統制である。しかしながら、自分の地位が安泰だと考えているブルジョアジーは、自分の企業での二重権力をけっして許さないだろう。それゆえ、労働者統制は、ブルジョアジーとその国家にとって不利な方向に力関係が急激に変化する場合にのみ実現される。プロレタリアートがブルジョアジーから権力を奪いとり、ついで生産手段の所有権をも奪いとる瞬間、その瞬間に向けた途上において、プロレタリアートが力ずくでのみブルジョアジーに押しつけることができるのが、労働者統制である。したがって、労働者統制の体制は、その本質そのものからして、一時的で過渡的なものであり、ブルジョア国家の動揺とプロレタリアートの攻勢とブルジョアジーの退却の時期に、すなわち、広い意味で理解されたところのプロレタリア革命の時期にのみ対応したものなのである。
ブルジョアがすでに自分の工場の支配主でないとしたら、少なくとも完全な支配主でないとすれば、ブルジョアは、自分の国家においても完全な支配主ではない。このことが意味するのは、企業における二重権力の体制には国家における二重権力の体制が対応している、ということである。
しかしながら、この対応を機械的に理解してはならない。すなわち、工場における二重権力と国家における二重権力とが、同じ日に生まれると理解してはならない。二重権力体制の出現は、各国におけるプロレタリア革命の大いにありうる段階の一つであるが、さまざまな国において、多様な要素をもって、さまざまな形で発展する。たとえば、一定の条件のもとでは(深刻で長引く経済恐慌、企業内での強大な労働者組織、革命政党の相対的な弱さ、堅固なファシズムを予備軍に抱えた国家の相対的な強さ、など)、生産の労働者統制は、全国規模の政治的二重権力より、ずっと早く到来することもある。
上で大雑把に述べた諸条件は、まさにドイツに特徴的なものであるが、このような条件のもとでは、全国規模の二重権力がまさに、その主たる源泉の一つとしての労働者統制から発展してくることもありえないことではない。エピゴーネンどもがコミンテルンに蔓延させた、ソヴィエト形態に対する物神崇拝を一掃するためだけでもすでに、この点は強調しておかなければならない。
現在支配的な公式見解によれば、プロレタリア革命が遂行されうるのはソヴィエトを通じてのみであり、しかもソヴィエトは、直接に武装蜂起の目的のために結成されなければならない。このような紋切り的図式は何の価値もない。ソヴィエトは、単なる組織形態にすぎない。問題を解決するのは、政治の階級的内容であって、けっしてその形態ではない。ドイツには、エーベルト=シャイデマンのソヴィエトが存在した。ロシアでは、1917年7月に、協調主義的ソヴィエトが、労働者と兵士に襲いかかった。その後レーニンは一時的に、武装蜂起を、ソヴィエトにもとづいてではなく、工場委員会にもとづいて遂行することを考えた。この企図は諸事件の歩みによって放棄された。なぜなら、われわれは、蜂起に至るまでの2ヵ月半の間に、最も重要なソヴィエトを獲得することができたからである。しかし、この一例はまさに、われわれがいかにソヴィエトを万能薬として考えてはいなかったかを示している。1923年秋、私は、革命的攻勢に移る必要性を――スターリンおよびその他の連中に対抗して――擁護するとともに、ドイツにおいて、事実上ソヴィエトの役割を果たし始めていた工場委員会と並んで、命令によってソヴィエトを作ることに反対して闘った。
多くのことが物語っているように、現在の革命的高揚の時期においても、ドイツでは、工場委員会は、その発展の一定の段階でソヴィエトの役割を果たし、ソヴィエトに取って代わることができるであろう。この予想は、何にもとづいているのか? それは、1917年2月〜3月のロシアにおいて、1918年11月のドイツとオーストリアにおいて、それぞれソヴィエトが生まれたときの条件の分折にもとづいている。どちらにおいても、ソヴィエトの主要な組織者は、戦争中に勃発した「民主主義的」革命という条件のせいでソヴィエトを結成することを余義なくされたメンシェヴィキと社会民主主義者であった。ロシアでは、ボリシェヴィキは、ソヴィエトを、協調主義者から奪取することに成功した。ドイツではそれが成功せず、それゆえソヴィエトは水泡に帰した。
現在(1931年)、「ソヴィエト」という言葉は、1917〜1918年のときとまったく違った響きを持っている。今日では、この言葉は、ボリシェヴィキ独裁の同義語となっており、それゆえ、社会民主党の脅し文句になっている。ドイツでは、社会民主党は、再び率先してソヴィエトを結成したり、そのような企図に自らすすんで加わったりするようなことはしないだろう。それどころか、そのような試みに徹底して反対するだろう。共産主義者がソヴィエトの結成に着手することは、ブルジョア国家やそのファシスト親衛隊の目から見て、プロレタリアートによる内戦の直接的な布告と同じものに映るであろうし、したがって、共産党自身がまだそれを目的にかなっているとみなしていないときに、決定的な衝突を引き起こすことにもなりかねない。
以上の点を考慮するなら、ドイツにおいて、蜂起と権力獲得の前に、労働者の大多数を実際に包含したソヴィエトを結成することに成功するかどうかは、はなはだ疑わしい。それよりも、ドイツにおいて、ソヴィエトが、勝利の翌日に、すでに権力の直接的機関として生まれてくることの方が、私見によれば、可能性が高いように思われる。
工場委員会に関しては、まったく事情が異なる。それは現在すでに存在している。それは、共産主義者と社会民主主義者によって構成されている。ある意味では、工場委員会は、労働者階級の統一戦線を実現している。この機能は、革命的上げ潮が高まるにつれて拡張し深まってゆくだろう。工場委員会の役割は、工場・都市の生活への工場委員会の関与と同様、各工業部門、地方、そして、最後に国家全体の中で、大きくなってゆくだろう。工場委員会の地域大会、地方大会、全国大会は、事実上ソヴィエトの役割を果たす機関のための、すなわち二重権力の機関のための基盤として役立つだろう。工場委員会を通じてこの体制に社会民主党労働者を引き入れることは、ある一定の日時にソヴィエトの建設を労働者に直接訴えるよりも、はるかに容易だろう。
工場委員会のある都市全体の中央機関は、十分に都市ソヴィエトとしての役割を果たすことができる。ドイツにおいて、このことは1923年にすでに観察された。その機能を拡張し、自らに次々と大胆な課題を提起し、その全国的機関を作ってゆくことによって、工場委員会は、社会民主党労働者と共産党労働者とを密接に結びつけるソヴィエトに転化し、蜂起のための組織的支点となることができる。プロレタリアートが勝利した暁には、このような工場委員会=ソヴィエトは、当然のことながら、本来の意味での工場委員会と、プロレタリア独裁の組織としてのソヴィエトに、分割されなければならないであろう。
こう言ったからといって、私は、ドイツにおけるソヴィエトの結成が、プロレタリア革命以前にはまったく可能性がない、と言いたいのでは全然ない。考えうるあらゆる発展パターンを予測することは、まったくもって不可能である。ブルジョア国家の瓦解が、プロレタリア革命よりずっと前に生じるなら、そしてファシズムが、プロレタリアートの蜂起以前に崩壊ないし瓦解するとしたら、その場合には、権力闘争の機関としてのソヴィエトが結成される条件が形成されることになるだろう。言うまでもなく、その場合には、共産主義者は時機を失せず状況を把握し、ソヴィエト結成のスローガンを提起しなければならない。これは、プロレタリアートの蜂起にとって、考えうるかぎり最も有利な状況である。そのような条件が形成されたなら、それを最後まで利用しなければならない。しかし、このような条件をあらかじめ考慮に入れることは、まったく不可能な話だ。共産主義者が、まだ十分に強力なブルジョア国家と、その背後に控えているファシスト予備軍を考慮しなければならないかぎりにおいて、工場委員会を通じる道の方が、ソヴィエトを通じた道よりも、はるかに実現の可能性があるのである。
※ ※ ※
エピゴーネンたちは、生産の労働者統制は、ソヴィエトと同様、革命的状況においてのみ実現されるという考えを、まったく機械的に取り入れた。スターリニストが、その偏見から一定の体系を打ちたてようとしたら、おそらく、次のような論理を展開するだろう。一種の経済的二重権力としての労働者統制は、全国規模での二重権力なしには考えられないが、全国規模の二重権力もまた、ブルジョア権力にソヴィエトを対置することなしには考えられない。したがって――とスターリニストは結論を下すだろう――、生産の労働者統制のスローガンは、ソヴィエトのスローガンと同時にしか提起することはできない。
前述したことからまったく明らかなように、このような論理は誤りであり、図式的で、非現実的である。実践においては、この論理は、党が労働者に突きつける一種の最後通牒になってしまう。「われわれ党は、諸君が、同時にソヴィエト結成に同意するという条件でのみ、労働者統制のために闘争することを許す」。しかし、まさに問題は、この2つの過程が必ずしも平行的かつ同時に現われるものではない、という点にある。恐慌、失業、資本家の強盗的策略などに影響されて、労働者階級の多数派は、権力の革命的奪取の必要性を理解する前に、商業上の秘密の廃絶のために、銀行・商業・生産に対する統制のために闘争しようとするだろう。
生産の統制に足を踏み出せば、プロレタリアートは必然的に、権力と生産手段の奪取へと駆り立てられるだろう。信用、原材料、市場の問題などは、ただちに、統制が孤立した企業の壁を越えることを余儀なくさせるだろう。ドイツのような高度産業国家では、輸出入の問題だけでもたちまちにして、労働者統制を全国家的な課題にまで高め、労働者統制の中央機関をブルジョア国家の公式機関に対置させることになるだろう。労働者統制の体制に内在的な矛盾――それは、その本質そのものからして非和解的なものだ――は、労働者統制の活動舞台と課題とが拡大されるにつれて不可避的に先鋭化し、短期間のうちに耐えがたいものになるだろう。この矛盾からの出口は、プロレタリアートによる権力奪取(ロシア)か、あるいは、資本の剥き出しの独裁を打ちたてるファシスト反革命(イタリア)のうちに見出すことができる。強力な社会民主党が存在するドイツではまさに、生産の労働者統制のための闘争が、権力のための労働者の公然たる闘争に先立つ労働者の革命的統一戦線の第1段階となる可能性が最も大きい。
しかしながら、現在すでに、労働者統制のスローガンを提起することは可能だろうか? 革命的情勢は、十分に「成熟」しているだろうか? この問いに遠方から答えることは困難である。革命情勢の温度を即座に誤りなく確定することのできる計測器は存在しない。そうするためには、行動の中で、闘争の中で、できるだけ多種多様な計測器を用いるしかない。そのような計測器の一つ、そして、現状においてはおそらく最も重要な計測器の一つこそまさに、生産の労働者統制のスローガンなのだ。
このスローガンの意義は、何よりもまず、これにもとづいて、共産主義者、社会民主主義者、無所属、カトリックなどの労働者の統一戦線を準備することができる、という点にある。社会民主党労働者の態度は決定的意義を有している。共産主義者と社会民主主義者との革命的統一戦線――これこそが何といっても、ドイツにおいて直接的に革命的な情勢をつくり出すうえで欠けている根本的な政治的条件だからだ。強力なファシズムの存在はもちろんのこと、勝利に向けた道に立ちふさがる深刻な障害である。しかし、ファシズムがその魅力を維持することができるのは、プロレタリアートが分散し弱体化している場合のみであり、したがってまた、ドイツ人民を革命の勝利に導いていくことができない場合のみである。労働者階級の革命的統一戦線はそれ自体としてすでに、ファシズムに対する、致命的な政治的打撃となるだろう。
ちなみに言えば、まさにこうした理由から、人民投票の問題に対するドイツ共産党指導部の政策は、とりわけ犯罪的な性格を帯びることになるのだ。最も悪辣な敵でさえ、社会民主党労働者を共産党に対立させ革命的統一戦線政策の発展を妨げるうえで、これより確実な手段を思いつかないだろう。
今やこの誤りを正さなければならない。労働者統制のスローガンはそのために大いに役に立つ。しかし、正しいやり方が必要である。何の準備もなく、官僚的指令として投げつけられた労働者統制のスローガンは、不発に終わるだけでなく、労働者大衆の面前で党の権威をなおさら失墜させ、現在は党に投票している労働者のあいだでさえ党に対する信頼を掘りくずすことになるだろう。このはなはだ重要な闘争スローガンを公式に提起する前に、情勢を慎重に検討し、準備を整えておかなければならない。
まず下部から、工場、職場から始めなければならない。いくつかの典型的な工業、銀行、商社の現実に即して労働者統制の問題を検討し試してみなければならない。投機や、隠蔽されたロックアウト、賃金の切下げを目的とした利潤の悪質な過小見積もり、同様の目的をもった原価の悪質な過大見積もり、といった特別に明白な事例を出発点しなければならない。この種の策略の犠牲となっている企業内で、共産党労働者を通じて、後進的な労働者大衆の気分を、何よりも社会民主党労働者の気分を確かめ、彼らがどの程度まで、商業上の秘密の廃止と生産の労働者統制に対する要求に呼応してくるかを探らなければならない。まず、はっきりとした部分的課題を手がかりに純粋に実務的な問題設定から始め、粘り強いプロパガンダを展開し、このようにして社会民主主義的保守主義の抵抗力を測らなければならない。これこそ、革命情勢がどの程度「成熟しているか」を判断するための最良の手段の一つなのである。
この予備的な打診作業は、党が問題を理論的な観点からだけでなくプロパガンダ的な観点からも検討し、先進的労働者、何よりも工場委員会のメンバーや著名な労働組合活動家などに真剣かつ実務的な教育をほどこすことを前提としている。この予備的作業の進行のみが、すなわちその成功の度合いのみが、党がいつ、プロパガンダから、労働者統制のスローガンのもとでの公然たるアジテーションと直接的な実践活動に移ることができるのかを示すことができるのである。
この問題における左翼反対派の政策が、少なくともその基本点に関するかぎり、上で述べたことから生じているのは、十分明白である。最初の時期において問題になるのは、正しい原則的な問題設定のためのプロパガンダであり、それと同時に、労働者統制のための闘争の具体的な諸条件を研究することである。反対派は、自分の力にふさわしい小さな規模で、ささやかな範囲で、上で明らかにした準備作業に、党の当面する課題として着手しなければならない。こうした課題にもとづいて、反対派は、工場委員会や労働組合などで活動している共産党員との結びつきを求め、彼らに、全般的情勢に対するわれわれの見方を説明し、彼らを通じて、革命の発展に関するわれわれの正しい理解を、いかにして工場と職場の具体的条件に適用すべきかを学ばなければならない。
追伸
ここで終わりにしようと思ったのだが、スターリニストが、次のような反論をするかもしれないと思われたので、一言つけ加えておきたい。「諸君は、ドイツにおいてはソヴィエトのスローガンを『引っこめる』用意があるというが、他方で諸君は、かつてわれわれが、中国でソヴィエトというスローガンを提起するのを拒否したとして、われわれを厳しく批判、断罪したではないか」。
実際は、このような「反論」は、あいかわらずの組織的物神崇拝にもとづいた、すなわち、階級的内容と組織的形態との同一視にもとづいた、最悪の詭弁にすぎない。もし、スターリニストが当時、中国には、ソヴィエトという組織形態を適用するのを妨げる原因が存在すると述べ、そのかわりに、中国の状況により適合した、大衆の革命的統一戦線のための別の組織形態を提案していたとすれば、われわれはもちろん、この提案に最大限の注意を払っていただろう。ところが、提案されたのは、ソヴィエトを国民党で置きかえること、すなわち、労働者を資本家に隷属させることだった。論争の対象となったのは、組織の階級的本質であって、その組織的「技術」などではまったくなかった。しかし、ただちにつけ加えておかなければならないのだが、蒋介石(2)や汪精衛(3)などの当時のスターリンの同盟者ではなく、大衆に注意を向けるならば、中国においてはまさに、ソヴィエトを結成するいかなる客観的障害もなかった。中国労働者のあいだには、社会民主主義や保守主義の伝統は、まったく存在しなかった。ソヴィエト連邦に対する熱狂的支持は、真に全面的なものだった。中国における現在の農民運動でさえ、ソヴィエト的形態をとろうとしているぐらいである。とすれば、1925〜1927年における大衆のソヴィエトへの志向は、なおさら一般的なものだった。
1931年8月20日
『反対派ブレティン』第24号
新規
訳注
(1)モンド主義……この用語は、1920年代にイギリスの大工業家アルフレッド・モンド(1868-1930)が、労働者の経営参加について労働組合との協議機関を設けたことに由来している。
(2)蒋介石(1887-1975)……中国の軍閥指導者、国民党の右派指導者。日本とソ連に留学。辛亥革命に参加し、孫文の信任を得る。1920年代にコミンテルンは共産主義者の国民党への入党を指示し、国民党を中国革命の指導党として称揚していた。1926年3月、広東クーデターで指導権を握り、北伐開始。コミンテルンはこのクーデターを隠蔽し、蒋介石を擁護。同年5月の国民党中央委員会総会で蒋介石は共産党員の絶対服従と名簿提出を命令し、コミンテルンはそれに従う。1927年4月12日、蒋介石は上海で国民党内の共産主義者の弾圧に乗り出し、多くの共産主義者を殺戮(4・12上海クーデター)。その後、中国共産党と対立しつつ国内の独裁権を強化。日中戦争勃発後、国共合作を行なうが、第2次大戦後、アメリカの援助のもと共産党との内戦を遂行。1949年に敗北して台湾へ。総統として台湾で独裁政権を樹立。
(3)汪精衛(1884-1944)……中国の国民党左派指導者。武漢政府の首班。コミンテルンは、蒋介石の1927年4月のクーデター後、この武漢政府をたよりにしたが、汪精衛はこのクーデターからわずか6週間後に労働者弾圧を開始した。
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