【解説】1933年3月5日、ドイツで行なわれた総選挙で、ヒトラー率いる国家社会主義党(ナチス党)は、1932年11月の総選挙時より得票数で600万票近く、得票率で10ポイント、議席数で100近くも増大させる大躍進を遂げ、連立相手の国家人民党と合わせて、国会の過半数を獲得した。これによって、ついに強力なヒトラー政権が成立した。3月5日の総選挙は、あちこちで、ナチスの武装部隊による武装襲撃や流血の惨事が繰り広げられる異常な状況で行なわれた。それに先立つ1月30日に、ヒンデンブルク大統領の指名にもとづいて成立していたヒトラー政府は、2月27日、国会放火事件を引き起こし、共産党員をいっせいに逮捕し、基本的人権と市民的自由権を大幅に制限する大統領緊急令を発布した。さらに3月3日には共産党の最高指導者テールマンをも逮捕した。すでに、半分、内戦状態で総選挙が開かれたのである。それはすでに「自由選挙」ではなかった。
ドイツの主要政党 |
1932年11月の選挙 |
1933年3月の選挙 |
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得票数 |
得票率 |
議席 |
得票数 |
得票率 |
議席 |
社会民主党 |
724万8000 |
20.4% |
121 |
718万2000 |
18.3% |
120 |
共産党 |
598万0000 |
16.9% |
100 |
484万8000 |
12.3% |
81 |
カトリック中央党 |
423万1000 |
11.9% |
70 |
442万5000 |
11.7% |
74 |
国家人民党 |
295万9000 |
8.8% |
52 |
313万7000 |
8.0% |
52 |
国家社会主義党 |
1173万7000 |
33.1% |
196 |
1727万7000 |
43.9% |
288 |
この総選挙で国家人民党とともに多数を獲得したヒトラーは、「勝利宣言」を出し、3月8日には、共産党の議席剥奪を宣言して、強制的に国会から排除した。さらに、3月23日には、いわゆる「全権委任法」が議会で成立させ、ナチス独裁体制を急速に打ち固めていった。社会民主党は、この「全権委任法」に反対した唯一の党であったが、この党は、ナチス独裁に反対する本格的な闘争を何一つ組織しなかった。それどころか、5月1日のメーデーにはナチスの「国民労働デー」を祝ってパレードするよう訴えた。このような迎合的態度は、ただヒトラーの自信と強硬路線を強めることに役立っただけであった。ナチス政府は、メーデー翌日の5月2日に、ナチス突撃隊と親衛隊を使って全国の労働組合総同盟の建物や事務所を武装占拠し、役員を一斉検挙した。この独裁化の仕上げとして、ナチスは次々と他の政党を禁止・解散させていき、ついには、社会民主党も6月22日に禁止された。諸政党の中で最後まで残っていたカトリック中央党は、7月5日に自主解散した。こうして、ナチス政権が成立してわずか4ヶ月で、ナチスの一党独裁が成立したのである。
この劇的な過程において、共産党も社会民主党もついに本格的な闘争を組織することはしなかった。ブルジョア政党も積極的にナチスの権力掌握と共産党弾圧に協力した。そしてそのあげくに、政治の舞台から一掃されたのである。この事態は、ドイツにおけるスターリニズムと社会民主主義とブルジョア民主主義の最終的破産を確認した。
ここで紹介した論文はもともと、「新しいドイツについて」という表題で『マンチェスター・ガーディアン』1933年3月22日号に掲載されたものである。柘植書房の『トロツキー著作集 1932-33』上に訳出済みだが、今回アップするにあたって、パスファインダー社の『トロツキー著作集 1932-33』所収の英文にもとづいて、全体にわたって改訳している。
Translated by the Trotsky Institute of Japan
独裁体制に支配されるのは後進諸国だとする旧来の見解はもはや維持しえなくなっている。ある程度誇張することでこの見解をイタリアにあてはめることはまだ可能であったが、それをドイツに適用することは不可能である。なぜならドイツは、ヨーロッパの中心部そのものに位置する高度に発達した資本主義国だからである。
民主主義の崩壊には一つの共通する原因がある。資本主義社会が生き長らえすぎてその力を失ったことである。資本主義社会内部に発生している国内的・国際的対立は、国内の民主主義的構造を破壊している。それはちょうど、世界的対立が国際連盟の民主主義的構造を破壊しつつあるのと同じである。進歩的階級が権力をとることができず、社会主義の基礎の上で社会を再建することができなかった所では、死の苦悶にある資本主義は、最も野蛮で反文化的な方法を用いることによってのみその生存を維持することができる。その極端な表現がファシズムである。ヒトラーの勝利の中に示されているのは、この歴史的事実である。1929年2月、私はあるアメリカの雑誌に次のように書いた。
電気のアナロジーを用いるなら、民主主義は、民族的ないし社会的闘争によって生み出される激しいショックから社会を守るための安全スイッチとヒューズのシステムとして定義されるかもしれない。現代ほど対立に満ちあふれた時代は、人類史において他になかった。流れる電流が過重になっていることは、現体制下のヨーロッパのさまざまな地点でますますはっきりしてきている。階級間の対立と国際対立の緊張が極度に高まると、民主主義の安全スイッチはヒューズが飛ぶか、破壊される。これが独裁というショートの本質である。
この議論に反対した人々は、この過程は文明世界の周辺部をとらえているにすぎないという事実を引き合いに出した。これに対して私は次のように答えた。
しかし、国内的および世界的対立は、弱まるどころか強まりつつある。……痛風は足の親指からはじまる。だが、それはいったんはじまると心臓にまで達する。(1)
多くの人々にとって、ボリシェヴィズムかファシズムかという選択はサタンか魔王かの選択と同じようなものである。このことについて何か慰めになることを言うのは難しい。20世紀が人類の記憶するかぎり最も不穏な世紀であることは明白である。とりわけ平和と安寧を望むわが同時代人にとっては、悪い時に生まれたと言うしかない。
ヒトラーの運動は、絶望に駆られた1700万人の人々によって勝利にまで押し上げられた。このことは、資本主義ドイツが腐朽しつつあるヨーロッパへの信頼を失ったことを示すものである。ベルサイユ条約によってドイツは、拘束服を支給されぬまま、狂気の館に変えられてしまった。ファシズムという「絶望の党」の勝利が可能となったのは、もっぱら、社会主義という「希望の党」が権力を握れなかったからである。ドイツ労働者階級は、数の上でも文化的にも社会主義を実現するに十分な水準に達していたが、党の指導者たちが無能であることが明らかとなった。
独特の保守的限界を有していた社会民主党は、他の議会政党と歩調を合わせて、ファシズムを徐々に「教育」することを望んだ。彼らは、ホーヘンツォレルン家の陸軍元帥であったヒンデンブルクにこのための主任練兵軍曹の地位を与えた。すなわち、社会民主党は大統領選でヒンデンブルクに投票した。労働者は正しい本能を持っていて、闘うことを望んだ。だが、社会民主党は、ヒトラーが最終的に合法的方法を放棄する時に闘いの合図を送ると約束することによって、労働者の闘争を抑制した。こうして、社会民主党はヒンデンブルクを通してファシストを権力に呼び寄せたばかりでなく、ファシストが段階をおってクーデターを遂行するのを可能にしたのである。
ドイツ共産党の政策は徹頭徹尾誤っていた。その指導者たちは、社会民主主義者と国家社会主義者は「ファシズムの2つの変種」であり、スターリンの定式によれば「対立する極ではなく双生児」であるという馬鹿げた公理から出発した。社会民主主義がファシズムと同様に、プロレタリア革命に反対してブルジョア体制擁護の立場に立っていることは疑いようのない真実である。だが、この2つの党の方法はまったく異なっている。社会民主党は、議会政体なしには、そして労働組合への労働者の大衆的組織化なしには、考えられない。しかしファシズムの使命はこの両方を破壊することにある。この対立関係にもとづいて共産党と社会民主党との防衛的統一戦線を構築することが必要であった。だが無能な指導者たちはこのアプローチを拒否した。労働者は、攻撃しながら押し寄せる敵を前にして、計画も展望も与えられることなく、分断され無防備のまま置かれた。この立場はプロレタリアートの士気を阻喪させ、ファシズムの自信を強めたのである。
2年半前の1930年9月、私は次のように書いた。
ファシズムはドイツにおいて真の脅威となっている。それは、ブルジョア体制の行きづまりの鋭さ、この体制に対する社会民主主義の保守的役割、この体制を打倒するうえでの共産党の蓄積された脆弱さを表現している。これを否定する者は、目が見えないか、口先だけの人間である。(2)
私はこの考えをこの2年間にドイツで発行された一連のバンフレットの中で繰り返した。たとえば1931年11月に私は次のように書いている。
「国家社会主義者」の権力掌握は、何よりも、ドイツ・プロレタリアートの精鋭の完全な絶滅、その組織の破壊、そして、自分自身と自らの将来に対するプロレタリアートのあらゆる信頼の瓦解をもたらすだろう。今日におけるドイツの社会的諸矛盾がはるかに成熟し先鋭化していることをふまえるなら、イタリア・ファシズムの悪業も、ドイツ国家社会主義がやりかねないことに比べれば、生彩のない、ほとんど人道的な実験にさえ見えるであろう。(3)
スターリニスト分派は、これはわざとパニックを引き起こすためのものだ、と言った。この問題について膨大な量の政治文献が書かれたが、ここではその中から、1931年4月のコミンテルン執行委員会においてドイツ共産党の公式指導者テールマンが行なった演説だけを取り上げよう。そのとき彼は次のような言葉で、いわゆる悲観主義――すなわち先を見通すことのできた人々――を暴露した。
パニックを引き起こすことによってわれわれを道から逸らせようとする試みをわれわれは許さなかった。……1930年9月14日(ナチスが国会で107議席を獲得した時)がヒトラー最良の日であったこと、今では、ヒトラーがそれ以上よくなることを期待できないばかりか、ただ悪くなるのみであることをわれわれは確信している。この党の発展に関するわれわれの評価は事態によって確認された。……今日、ファシストには喜ぶべき理由は何もない。
この引用だけで十分だ!
こうして、ブルジョア民主主義が崩壊しつつある中、ファシストは、2つの労働者政党の指導者の統一した努力に助けられて権力に就くことができたのである。
ヒトラー政府は時を失せず一気呵成にことを運んだ。この政府は、共産主義者を強制収容所で「教育」するだろうと宣言している。ヒトラーは、社会民主党の根絶を、すなわち、ビスマルクやヴィルヘルム2世の力をもってしてもなしえなかった課題を、その時よりもはるかに困難な条件のもとでなしとげると公約している。ヒトラーの政治的軍隊は、公務員、事務員、商店主、商人、農民といった、中間的で不安定なあらゆる階層の連中によって構成されている。社会的意識の点から見れば、彼らは吹けば飛ぶような塵あくたにすぎない。
ヒトラーが、そのまったくの反議会主義にもかかわらず、社会の場でよりも議会の場ではるかに強力であるというのは、一種の逆説である。ファシストが議会でその頭数を増やしたとしても、ファシストの塵あくたは塵あくたのままである。他方、労働者は生産過程によって結びつけられている。この国の生産力は彼らの手に強固に集中されている。ヒトラーの支配のための闘争は始まったばかりである。ヒトラーの主要な困難はまだ前方に控えている。商工業における好況への転換は、ヒトラーに有利にではなく、プロレタリアートに有利に力関係を変化させつつある。失業が滅少するというその事実だけからしても、労働者の自信は強まるだろう。あまりにも強く圧縮されすぎたバネは、いずれびよんと伸びるにちがいない。恐慌の数年間における労働者の生活水準の途方もない下落の後に、広範な経済闘争の時期がやってくることは、確信をもって予測することができる。
ヒトラーの主要な困難は、彼の主要な闘争と同じく、前方に控えている。国際的舞台では、当分、ヒトラーがさらなるジェスチャーや空文句を展開することはないだろう。彼がフランスとの戦争を真剣に考えることができるためには、まずもってドイツ内部であまりにも長く、血なまぐさい戦争を闘い抜かなければならない。他方、ヒトラーは、ボリシェヴィズムとの闘争というその神聖な使命においてフランスをはじめとする資本主義諸国が自分を支援する必要があるということを、これらの諸国に対して全力をあげて証明しようとするだろう。さまざまな逸脱はあるだろうが、ファシスト・ドイツの対外政策は本質的にソ連邦にその矛先を向けている。
1933年3月10日
『トロツキー著作集(1932-33)』(パスファインダー社)所収
『トロツキー著作集 1932-33』上(柘植書房)より
訳注
(1)この論文は、『ニュー・リパブリック』の1929年5月22日付けに掲載された「ロシアはどこへ行く」のこと。
(2)1930年9月26日付けの論文「コミンテルンの転換とドイツの情勢」より。
(3)1931年11月26日付けの論文「国際情勢の鍵はドイツにある」より。
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