スペインにおける

第4インターナショナルの任務
トロツキー/訳 湯川順夫

【解説】この論文は、スペイン革命の新たな発展の中で第4インターナショナルの任務を提起したものである。トロツキーは、POUMを厳しく批判しつつ、第4インターナショナルの任務を簡単な項目の中で提起している。

 なお、この論文の中でトロツキーは、マウリンの「民主的社会主義革命」を「折衷主義的ごたまぜ」と呼んでいるが、マウリンの「民主的社会主義革命論」は基本的にトロツキーの永続革命論と同じく、労働者階級による権力掌握が民主主義的課題をやり遂げるとともに、社会主義革命を開始するという内容を持っていた。

 本稿はすでに『ニューズ・レター』第17号に掲載済みであるが、今回アップするにあたって、訳注を加えている。

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 スペイン情勢は再び革命的になった。

 スペイン革命の発展は緩やかなテンポをたどっている。このために、革命勢力は、決定的瞬間において自らの任務に対応できるよう、自己を形成し、自らのもとに前衛を結集するためのかなり長期の時間を手にすることになった。だが現在われわれは、左派共産党(ICE)がこの例外的に有利な合間がそのまますり抜けていくのを許し、自らが社会党や「共産党」の裏切り者たちと少しも変わらないことを自ら暴露してきた、と言わざるをえない。しかしながら、それに対する警告がなされてこなかったわけではけっしてない。それだけにより大きいのは、アンドレウ・ニン(1)、フアン・アンドゥラデ(2)らの罪である。「左派共産党」が第4インターナショナルの支部として正しい政策を堅持していたなら、今ごろはスペイン・プロレタリアートの先頭に立っていたかもしれない。この党は、そうする代わりに、綱領も展望もなく、いかなる政治的意義をもたないマウリン(3)の混乱した組織の中で暮らしている。スペインにおけるマルクス主義的行動は、アンドレウ・ニンとアンドゥラデの政策全体に対する仮借ない弾劾を通じてはじめて始まりえる。この2人は、不誠実であるばかりでなく犯罪的でもあったし、今なお依然としてそうである。

 大統領サモラ(4)の解任は何を意味するか? それは、政治的発展がもう一度、先鋭な段階に突入したことを意味する。サモラは、いわば、支配層を支える支柱であった。彼は、ヒンデンブルク(5)がドイツで一定の期間、果たしたのと同じ役割を別の状況の下で果たした。この一定期間というのは、すなわち、一方では反動側(ナチスさえ)が、他方では社会民主党が、同じくヒンデンブルクに期待をかけていた時期のことである。

 近代ボナパルティズムは、階級対立がまだ公然たる闘争にまで至っていない時期における最も極端な階級対立の表現である。ボナパルティズムは、疑似議会政府の中だけでなく、さらに言えば「超党派的」大統領の中にも、支点を見いだすことができる。それは、もっぱら状況しだいである。サモラは、ボナパルティスト的均衡を代表する人物であった。対立の先鋭化は、主要な陣営がどちらもまずサモラを利用しようと試み、次には彼を追放しようとするという事態をもたらした。右翼は、このことを時機を失せず成し遂げることに成功しなかった。「人民戦線」はそれに成功した。しかしながら、このことは、先鋭な革命的時期の始まりを意味する。

 人民大衆の中の根深い熱気とその頻繁で激しい爆発はともに、何度も繰り返し欺かれてきた都市と農村の労働者および貧農が革命的解決に向けて引き続き全力を傾注しつつあることを示している。それでは、この強力な運動に直面したときに人民戦線が果たす役割は何か? その役割とはブレーキの役割であり、これは、裏切り者や奴隷根性のしみついた人間の屑どもによって組み立てられ、始動させられる。そして、フアン・アンドゥラデは、この人民戦線のまったく卑劣な綱領に、つい昨日まで署名していたのである。

 サモラの解任後、アサーニャ(6)は、共和国の新大統領と提携して、ボナパルティストの支柱としての役割を引き継がなければならない。つまり、彼は、自分を権力の座に就くのを助けた革命的大衆に国家の武器をよりうまく向けるために、両陣営よりも上に自己を引き上げなければならない。しかしながら、労働者組織は、人民戦線の網に完全にからめとられたままである。綱領も、信頼に値する指導部も持たない革命的大衆の混乱は、こうして、反革命独裁体制に門戸を開く危険性をもたらしている。

 労働者が革命的方向に向かって前進していることは、労働者のすべての組織の発展によって、何よりもまず社会党とその青年組織、社会主義青年同盟の発展によって示されている。2年前、われわれはスペインのボリシェヴィキ=レーニン主義者の社会党への加入問題を提起した。この提案は、アンドレウ・ニンとアンドゥラデらの保守的俗物たちによって軽蔑をもって退けられた。2人は何がなんでも「独立」が欲しかったのである。というのも、そうなれば、自分たちが平穏なままに置かれ、いかなる義務も課されないからである。だが、社会党への加入は、たとえば、フランスのケースとは比べものにならないほどのすばらしい成果をもたらしていただろう(もちろん、フランスの指導的同志たちよって犯されたひどい間違いがスペインでは回避されるという条件のもとにおいてであるが)。しかしながら、その間、アンドゥラデとニンは、狼狽しうろたえるマウリンと合同して、ともに人民戦線に追随した。革命的明確さを求める社会党の労働者は、スターリニストの裏切り者たちの犠牲になった。[社会党系と共産党系の]2つの青年組織の合同は、最良の革命的エネルギーが、コミンテルンの傭兵たちによって悪用され、消散させられてしまうことを意味する。そして、「偉大な」革命家、アンドレウ・ニンとアンドゥラデはマウリンとともにいぜんとして傍観者にとどまり、「民主的社会主義」革命、すなわち、社会民主主義的裏切りに向けたまったく無力な宣伝を遂行している※※

※原注 『ラ・バターリャ』が人民戦線から「転換」したことは、信用を回復することにはつながらないだろう。月曜日に、「国際連盟は略奪者の徒党である」と言い、火曜日には有権者に国際連盟の綱領への投票を呼びかけ[人民戦線の選挙協定には「国際連盟の原則に一致して」という一句が含まれていた]、水曜日には「昨日のは選挙行動の問題でしかなく、今日は独自綱領を再び掲げなければならない」と説明するなどということは、不可能である。真剣な労働者であれば、こう問いかけるに違いない。それでは、これらの連中は木曜日と金曜日にはどういうことになるのだろうか、と。マウリンは、軽薄で機敏で気まぐれな小ブルジョア的革命家そのものである。彼は何も学ばず、少ししか理解せず、自分の周囲すべてに混乱をまき散らしている。

※※原注 マルクスは1876年に「社会民主党」という用語の欺瞞性について書いている。社会主義を民主主義に従属させることはできない。社会主義(または共産主義)で十分である。「民主主義」は社会主義とは無関係である。その後、10月革命は、社会主義革命が民主主義の枠内では遂行できないことを力強く証明した。「民主主義」革命と社会主義革命とは、相互にバリケードを隔てて正反対の側にある。第3インターナショナルは、この経験を理論的に確認した。スペインの「民主主義」革命は、すでに遂行された。人民戦線はそれを更新している。スペインで「民主主義」革命を人格的に体現しているのは、カバリェロ(7)がいてもいなくても、アサーニャである。社会主義革命は、これから、「民主主義」革命と人民戦線に対する非妥協的闘争の中で実現されなければならない。これらの「総合」、すなわち「民主的社会主義革命」とは何を意味するか? まったく何も意味しない。それは折衷主義的なごたまぜにすぎない。

 スペインの次の局面がどのような形をとるかは誰にも分からない。いずれにしても、人民戦線派を権力につけた急激な高揚は非常に強力であり、短期間で引くことはないし、戦場を反動の思いのままにしておくこともない。真の革命派には今なお、自己自身を冷静に評価し、その勢力を結集し、将来に向けて備えるための時間がある。それは確かにそれほど長くはないが、一定期間があるのだ。このことはとりわけ、スペインにおける第4インターナショナルのすべての支持者にあてはまる。その任務は、一点の曇りもなく明白である。

 1、人民戦線に参加しているすべての指導者の政策を大衆の面前で無慈悲に批判し、弾劾すること。

 2、「マルクス主義統一労働者党(POUM)」、とりわけ旧「左派共産党」の指導者――アンドレウ・ニンやアンドゥラデなど――の破産ぶりを全面的に理解し、すべての先進的労働者の眼前でこれらの指導者を暴露すること。

 3、「公開状」にもとづいて第4インターナショナルの旗のもとに結集すること。

 4、社会党と統一青年同盟に加盟して、ボリシェヴィズムにのっとった分派として活動すること。

 5、労働組合などの大衆組織の中にフラクションを始めとする核を結成すること。

 6、自然発生的および半自然発生的な大衆組織に大きな関心を寄せ、その全般的特徴を研究すること、すなわち、その議会グループの雰囲気ではなく大衆の雰囲気を研究すること。

 7、すべての闘争に参加して、その闘争に明確な表現を与えること。

 8、闘争の大衆的形態をいかなる時でも堅持し、特別に選出される行動委員会(フンタ、ソヴィエト)を一貫して拡大すること。

 9、カバリェロ型、マウリン型のあらゆる中途半端な綱領に対して、権力奪取とプロレタリア独裁と社会革命の綱領を対置すること。

 これがプロレタリア革命の真の道である。他に道はない。

1936年4月12日

『スペイン革命(1931-1939)』所収

『ニューズ・レター』第17号より

  訳注

(1)ニン、アンドレウ(アンドレス)(1892-1937)……スペイン共産党の創始者、スペイン左翼反対派の指導者。最初はサンディカリストで、10月革命の衝撃で共産主義者に。左翼反対派の闘争に参加し、1927年に除名。スペインの左派共産党(国際左翼反対派のスペイン支部)を結成。その後トロツキーと対立し、1935年にホアキン・マウリンらを指導者とするカタロニア労農ブロックと合同して、マルクス主義統一労働者党(POUM)を結成。1936年の人民戦線に参加。カタロニアの自治政府の司法大臣に。スターリニストの策謀で閣僚を解任され、1937年、スターリニストの武装部隊に誘拐され、拷問の挙句、虐殺される。

(2)アンドゥラデ、フアン(1897-1981)……スペインの共産主義者。社会主義青年同盟の指導者から共産党へ。1921年にスペイン共産党の中央委員。1930年に左翼反対派に。1935年に左翼反対派と分裂し、ニンとともにPOUM結成に参加し、同党の指導者に。

(3)マウリン、ホアキン(1897-1973)……スペインの労働運動活動家、CNT指導者、共産主義者。ブハーリンの右翼反対派を支持して1929年にスペイン共産党から追放。カタロニア労農ブロックを組織。1935年、アンドレウ・ニンと協力して、マルクス主義統一労働者党(POUM)を結成。1936年に内戦が勃発したとき、POUMの国会議員であったマウリンはフランコの軍隊に逮捕され、投獄された。1947年、釈放されると、アメリカに亡命していっさいの政治活動をやめてしまった。

(4)サモラ・イ・トレス、アルカラ(1877-1949)……スペインのブルジョア政治家、スペイン共和国の初代大統領(1931-1936)。

(5)ヒンデンブルク、パウル・フォン(1847-1934)……ドイツのユンカー出身の軍人。第1次世界大戦中は参謀総長として戦争を指導し、国民的人気を博す。1925年に大統領に。1932年4月に再選。1933年1月にヒトラーを首相に任命。

(6)アサーニャ、マヌエル(1880-1940)……スペインのブルジョア政治家、弁護士。1931年6月のスペイン共和国政府の首相。1933年に右翼の圧力で辞任。1936年2月の人民戦線の勝利で再び首相に。1936年6月〜1939年3月大統領。1939年に人民戦線政府の崩壊で亡命。

(7)カバリェーロ、フランシスコ・ラルゴ(1869-1946)……スペインの社会主義政治家、スペイン社会党の左派指導者。1936年9月から1937年5月まで人民戦線政府の首相。


  

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