【解説】本論文は、ドイツの破局とそれに対するコミンテルンの無力さをふまえて、革命組織としてのコミンテルンの崩壊を確認し、新しいインターナショナルへの展望を対話風に明らかにしたものである。
最初の邦訳は『トロツキー著作集 1933-34』上(柘植書房)に掲載されたが、今回アップするにあたって、『反対派ブレティン』所収のロシア語原文にもとづいて全面的に点検・修正している。
Л.Троцкий, Нельзя больше оставаться в одном "Интернационале" со Сталиным, Мануильским, Лозовским и Ко, Бюллетень Оппозиции, No.36/37, Октябрь 1933.
Translated by the Trotsky Institute of Japan
A 今やインターナショナルのモスクワ的戯画と手を切るべき時だ。スターリニストのために一片なりとも政治的責任を引き受けることはもはや不可能だ。われわれはコミンテルンに関してはきわめて慎重かつ忍耐強く対処してきたが、何ごとにも限度というものがある。ヒトラーが全世界の前で、一方ではウェルス(1)の、他方ではスターリンのおかげで権力の座についた今日、そしてコミンテルンがこうした破局にもかかわらずその政策の無謬性を宣言した今日、分別ある人間ならば誰ももはやこの徒党を「改革できる」とは思わないだろう。
B 官僚徒党についてはたしかにその通りだが、全体としてのコミンテルンについてはどうか?
A 一般的な言辞に惑わされてはならない。「全体としてのコミンテルン」というのは、無内容とは言わないまでも一個の抽象である。支配権はスターリニスト官僚の手中にある。大会が開かれなくなってからすでに6年になる(2)。規約を踏みにじったのは誰か? 官僚徒党だ。どのような権利にもとづいてか? 簒奪の権利にもとづいてだ。ただ一つの支部も、ただ一つの地方組織も、ただ一つの新聞でさえ、国際大会の必要性についてあえて一言も語ろうとしない。このことは事実上「全体としてのコミンテルン」の運命が無責任な官僚徒党の手に握られていることを意味する。
B それは疑いない。しかし、状況は、われわれがまだコミンテルンの改革というスローガンを掲げていた1年前と別に変わっていないのではないだろうか?
A いや違う。現在の状況は以前とは違うのだ。1年前ならドイツの状況はまだ救いようがあるものだった。われわれは、状況の論理を明らかにするためにできることは何でもした。コミンテルンが生命力のある組織であったならば、その指導部は事態の声を聴き入れていたはずだ。それは、これ以上は期待できないほど強力な声だった。そしてこの時にコミンテルンがその声を聞いてなかったとすれば、それはコミンテルンがすでに屍となっていることを意味する。もう一つ別の面でも決定的な変化が生じた。昨年はまだドイツ共産党が存在していた。大事件の渦中にあってそれはなお労働者大衆のことを考慮せざるをえなかった。大衆闘争の発展がテールマン(3)の中央委員会のみならず、スターリン=マヌイリスキー(4)のコミンテルン幹部会議をも方向転換させるだろうと――最後の審判の時までは――期待することには、一定の根拠があった。だがそうしたことは実際には生じなかった。
ドイツ共産党に残されているのは、日々弱体化し、ますます大衆から疎外されてゆく機構だけである。事態はすでに、中央委員会が地方の非合法組織に対して独自の論文やアピールを出すことを禁止するところにまで進んでいる。地方委員会の義務はマヌイルスキーやヘッカート(5)一味の天啓を転載することだけである。これらの人間にとってはあらゆる思考の働きは致命的な危険を意味する。ヒトラーの勝利は彼らには実は「敗北」ではなかった。それは、下からのあらゆる統制から彼らを解放したのである…。しかし、コミンテルン最強の党が舞台から姿を消した今日、コミンテルンを支配する徒党に働きかけるいかなる手段も回路もテコも残されていない。
B ドイツ共産党をコミンテルン最強の党と言うことができるだろうか? ソヴィエト共産党を忘れているのではないか?
A 忘れているわけではない。ソヴィエト共産党が政党であることを認めたとしても(実際にはソヴィエト共産党の行政的枠組み――それ自身、官僚徒党の意のままに変化するのだが――の内部にはいくつかの党が互いに暗々裏に闘争している)、いずれにせよこの党はコミンテルンの活動的な支部ではない。ソヴィエトの労働者は西方のプロレタリア運動で現に生じていることを何も知らない。彼らは何も知らされていないだけでなく、さらに悪いことには、陰湿に欺かれている。現在の政治局それ自身の中にさえ、マルクス主義の理論はもとより、世界プロレタリアートの生活と闘争について知っている者はただ1人もいない。さらに、ソ連共産党は、国際問題に関する自分の意見を展開する能力をまったく持ち合わせていない。党は、大会も、集会も、討論も、メディアも奪われている。ソヴィエトの新聞はどれ一つとして、ドイツにおける政策が正しかったかどうかという問題を立てることさえできなかった。そもそも誰も問題を立てることはできない。誰もが黙って回答を待たなければならない。そしてヒットラーがやって来たのである…。
コミンテルンの「改革」というスローガンはわれわれにとってはけっして空文句ではなかった。われわれは現実に依拠して改革を行なおうとした。その後の発展は最悪の道をたどった。まさにそれゆえわれわれは、改革という政策が完全に使い果たされたと宣言しなければならないのである。
B すると、われわれは、中間主義官僚にコミンテルンの旗を委ねてしまうのか?
A あいまいな定式で自らをごまかしてはならない。旗という言葉によって何が理解されているのか? 綱領か? しかし、われわれは第6回大会で採択された綱領を、日和見主義と冒険主義の悪質なごたまぜであるとして、ずっと以前に拒否した。われわれは何年にもわたって、諸事件の教訓に依拠しつつ、内部的手段によってコミンテルンの綱領を変更することに取り組んできた。ところが今やこの可能性は「改革」の可能性とともに潰えた。コミンテルンの惨めな折衷的「綱領」に対して、われわれは独自のマルクス主義的綱領を対置しなければならない。
B しかしコミンテルンの最初の4つの大会についてはどうか?
A もちろん、われわれがこれを放棄することはありえない。スターリニストが久しい以前にこれと縁を切りこれをわれわれに譲ったのだから、なおさらである。われわれはこの最初の4つの大会によって据えられた基礎の上に、われわれの綱領を築くつもりだ。これは議論の余地のないマルクス主義的基礎であり、われわれの基礎である。ただ左翼反対派だけが過去10年間の教訓をマルクス主義の言葉に翻訳してきた。われわれの国際予備会議(6)はこれを11項目に総括した。しかしその総括には欠落がある。予備会議は、歴史がコミンテルンを決定的な試験にかける前夜に開催された。コミンテルンの完全かつ最終的な崩壊は予備会議の決定には記録されていない。それは本会議でなされなければならない。これ以外の点についてはすべて、予備会議の決定は今なおそのすべての力を保持している。コミンテルンの最初の4つの大会の基本文書に左翼反対派の11項目を加えたものが、共産主義インターナショナルの真の綱領の基本的要素をなすだろう。
B われわれの反対者は、それでもやはり、われわれがレーニンの旗を放棄したと言うだろう。
A これらの反対者はかなり以前からそう叫んでいた。そしてその声が大きくなればなるほど、彼らはボリシェヴイズムの教えを泥の中で踏みにじるのだ。だがわれわれは、全世界の労働者に対してこう言わなければならない。われわれはマルクスとレーニンの旗の防衛を、彼らの事業の継続と発展を、改良主義の裏切者たちに対する非妥協的な闘争の中で――これは言わずもがなだ――だけでなく、ボリシェヴイズムの中間主義的偽造者たちやレーニンの旗の簒奪者たち、敗北と降服の組織者たち、そしてプロレタリア前衛を堕落させる者たち、つまりはスターリニストに対する非妥協的な闘争の中でも、引き受けるだろう、と。
B それではソ連共産党についてはどうすべきか? ソ連邦についてはどうすべきか? われわれの反対者は、われわれが、労働者国家の事業が潰えたとみなしてソヴィエト政府に対する武装蜂起の準備を進めているのだと言うのではなかろうか?
A もちろんそう言うだろう。とっくに彼らはそう言っている。ボリシェヴィキ=レーニン主義者に対する彼らの卑劣な弾圧を正当化するために他に言いようがあるだろうか? しかし、われわれの導きの糸となるのは、敵の中傷ではなく、階級闘争の実際の進行過程である。ボリシェヴィキ党を先頭とした10月革命は労働者国家をつくり出した。このボリシェヴィキ党は今や存在しない。しかし10月革命の根本的な社会的内実は今でも生きている。官僚的独裁は、そのもとで(それに反して)達成された技術的な成功にもかかわらず、資本主義復活の可能性を著しく容易にしているが、しかし幸いなことにそれはまだ復活にまでは至っていない。国内的な、そして何よりも国際的な諸条件が有利であれば、新しい革命を経ることなく労働者国家の建築物をソヴィエト連邦の社会的土台の上に再建することは可能である。
われわれは長い間、ソ連共産党そのものを改革することが可能であり、それを通じてソヴィエト体制を再生させることができると考えてきた。しかし現在の公式の「党」は今や、2年前に比べて、あるいは1年前に比べてさえ、およそ党とは言えなくなっている。党大会はもう3年以上も開催されておらず、しかも誰もこのことについて語ろうとはしない。スターリニスト徒党は今や、まるで懲罰大隊が問題になっているかのように、自らの「党」をまたしても切り刻み改造しつつある。粛清と除名は当初、党を解体し恐怖政治を敷き思考と行動の可能性を党から奪うことを目的としていたが、今ではこの弾圧は党の再生を妨げることを目的としている。それにもかかわらず、ソヴィエト国家が滅びないためには、プロレタリア党は必要なのである。プロレタリア党にとっての諸要素は多数いるが、それらを他から分離して統合することが可能になるのは、スターリニスト官僚に対する闘争の中でのみである。いまソ連共産党の「改革」について語ることは、前方をではなく後方を見やり、空虚な定式で自分の良心を慰めることを意味するだろう。ソ連におけるボリシェヴィキ党は新たにつくり直さなければならない。
B しかしそれは内乱への道ではないだろうか?
A スターリニスト官僚は、われわれがソ連邦共産党の改革という立場にまったく誠実かつ断固として立っていた時期においてさえ、われわれ左翼反対派に対して内乱をしかけてきた。逮捕、追放、銃殺――こうしたことは少なくとも萌芽的な内乱でないとすれば何なのか? 左翼反対派に対する闘争の中で、スターリニスト官僚は反革命勢力の道具となったのであり、それによって自らを大衆から孤立させたのである。現在、内乱は別の線に沿って日程にのぼっている。すなわち攻勢に出ている反革命と守勢に立っているスターリニスト官僚とのあいだにおいてである。ボリシェヴィキ=レーニン主義者は、反革命に対する闘争においては、言うまでもなくソヴィエトの側の戦線の左翼を占めだろう。この場合、状況全体の結果としてスターリニストとの戦闘的ブロックが生じるだろう。しかしながら、この戦闘においてスターリニスト官僚が一致団結すると考えるべきではない。決定的な瞬間にそれは分裂し、その構成分子は2つの敵対する陣営に飛び散るだろう。
B したがって内乱は不可避である、と?
A それはまさに現在進行中なのだ。現在の路線を維持しているかぎり、それはますます先鋭になる一方であろう。コミンテルンが今後もその無力さをさらけ出し、国際プロレタリア前衛の麻痺状態が続き、そしてこのような条件のもとで不可避的に生じる世界的なファシズムの台頭を前提とするならば、ソ連邦における反革命の勝利は不可避なものとなるだろう。もちろん、ボリシェヴィキ=レーニン主義者はいかなる条件のもとでもソ連内部におけるその活動を継続する。しかし労働者国家は世界の革命運動の介入によってしか救済することはできない。このような労働者国家の再生と飛躍のための客観的諸条件が今日ほど有利だったことは、人類の歴史上かつてなかったことである。欠けているのは革命党だけだ。スターリニスト徒党は、ソ連邦においても他の全世界においても、党を破壊することによってのみ支配を維持することができる。この悪循環から離脱することが可能になるのは、スターリニスト官僚と手を切ることによってのみである。党を、新たな地平に、汚れなき旗の下に建設することが必要である。
B それでは資本主義世界の革命党は、ソ連邦内のスターリニスト官僚に対していかにして影響を及ぼすことができるのか?
A すべては現実の力関係の問題である。われわれはスターリニスト官僚がいかにして中国国民党の前にはいつくばり、イギリスの労働組合主義者の前にはいつくばったかを見てきたが、現在は、彼らが小ブルジョア平和主義者の前にさえはいつくばっているのを目にしている。帝国主義に対して本当に闘うことのできる、したがってソ連邦を本当に防衛することのできる強力な革命党の存在は、スターリニスト官僚をしてこのような革命党のことを考慮せざるをえなくさせる。これよりもはるかに重要なことは、このような組織はソヴィエト労働者の目の前で巨大な権威を獲得し、こうしてついには真のボリシェヴィキ党の再生のための有利な諸条件をつくり出すだろうということだ。ソヴィエト国家の改革が新しいプロレタリア革命を経ることなく可能になるのは、ただこの道を通じてのみである。
B つまり、われわれは、ソ連共産党の改革というスローガンを放棄し、ソヴィエト連邦改革のための道具として新しい党を作ろうとするということか?
A まさにそのとおりだ。
B われわれの力はそのような巨大な課題に見合っているだろうか?
A 問題の立て方が間違っている。まず最初に歴史的課題を明確に勇気をもって定式化し、次にこれを解決するために力を結集することが必要なのだ。たしかにわれわれは今のところまだ弱体である。しかしこのことは、歴史がわれわれに割り引きをしてくれることを意味するものではまったくない。日和見主義の心理学的な源泉の一つは、大きな課題に対する恐怖、すなわち革命的可能性に対する不信である。しかしながら、大きな課題というものは天から降ってくるものではない。それは階級闘争の過程から生じてくる。まさにこのような条件のもとで、この大課題を解決するの必要な力を追求しなければならないのである。
B しかし、自己の力の過大評価が冒険主義につながることはよくあることではないだろうか?
A そのとおりだ。もしわれわれが、現在のわれわれの組織を共産主義インターナショナルであると「宣言」し、あるいはこの名のもとに他のさまざまな反対派組織を機械的に結合するとすれば、それは純然たる冒険主義であろう。いま新しいインターナショナルを「宣言」することはできない。現在のところは、これを作る展望が存在するだけだ。しかしすでに今日、新しいインターナショナルを創設することの必要性を宣言することは可能であり、必要でもある。
フェルディナンド・ラサール(7)は、日和見主義や冒険主義とけっして無縁ではない人物だったが、それにもかかわらず、革命的政策の根本的要件について完全に正しいことを述べている。あらゆる偉大な行動は、事実をありのままに語ることから始まると。新しいインターナショナルはいかにして建設されるべきか、いかなる方法が適用されるべきか、期日をどのように設定すべきか、といった問題を実践的に解決する前に、ありのままを公然と語ることが必要である。すなわち、コミンテルンは革命にとってすでに死んだという事実である。
B あなたの意見では、この点についてはもはやいかなる疑問もありえないということか?
A いささかもありえない。国家社会主義に対する闘争の全過程とこの闘争の帰結、そしてこの帰結から得られた教訓はいずれも、革命組織としてのコミンテルンの完全な破産だけでなく、事実から学び軌道を修正する能力、すなわち「自らを改革する」組織的能力の完全な欠如をも示している。ドイツの破局は、過去10年間にわたる中間主義者のジグザグ、致命的な誤り、ますます恐るべきものとなる敗北、ますます不毛なものとなる犠牲と損失、そしてそれとならんで完全な理論的荒廃や官僚的堕落、猿真似、士気喪失、大衆に対する欺瞞、不断の偽造、革命家の追放、役人や金銭亡者やあからさまな従僕の選抜といった歴史の到達点であり、だからこそドイツの教訓はこれほどまでに壊滅的で決定的なものになったのである。現在のコミンテルンはプロレタリア前衛を無力化するための高くつく機構である。それだけの代物だ! コミンテルンにはそれ以上のことは何もできない。
ブルジョア民主主義の条件が一定の活動の余地を与えている場合には、スターリニストはいつもその機構と財政のおかげで、政治活動の見せかけをすることができる。ミュンツェンベルク(8)が現在、コミンテルンの象徴的人物となっている。このミュンツェンベルクとは何者だろうか? 彼は「プロレタリア」の舞台におけるウストリク(9)である。いかなる義務も課さない空虚なスローガン、少量のボリシェヴイズムと少量の自由主義、新聞の投機的経営、ソ連との友情が安く取り引きされる文学的サロン、改良主義に対する劇場的敵意、だがそれは容易に友情に変わりうる(バルビュス!)、そしていちばん重要なことだが、豊富な資金と、労働者大衆からの自立――これがミュンツェンベルクである。ブルジョア民主主義の政治的好意をあてにして活動しているスターリニストは、ブルジョア民主主義に対して、その上さらにボリシェヴィキ=レーニン主義者の弾圧をも要求している! これ以上の堕落がありえようか…。しかし、ブルジョアジーが、ファシストのこぶしを、あるいは単に警察のこぶしを本格的に振り上げられるやいなや、スターリニストはしっぽを巻いて逃げ出し、おとなしくどこかへ隠れてしまうのだ。死の苦悶の中にいるコミンテルンは世界のプロレタリアートに対し、害悪以外には何も、まったく何も与えることはできない。
B コミンテルンが中央機関としては革命運動に対するブレーキとなってしまったこと、このことについては同意しないわけにはいかないし、同じく、大衆から自立したこの機構の改革がおよそ実現不可能であることについても、同意しないわけにはいかない。しかし各国支部についてはどうか? 各国支部の堕落と退廃の程度はすべて同じだろうか?
A ドイツの破局のあと、われわれはオーストリアとブルガリアにおいてスターリニスト党が大衆的抵抗なしに一掃された光景を目にした。ある国の情勢が他の国よりも有利だとしても、それでもやはり違いはあまり大きなものではない。例えば、コミンテルンのあれこれの支部で左翼反対派が勝利したと仮定しよう。その翌日には、場合によってはその前夜には、この支部はコミンテルンから除名され、自分のために新しいインターナショナルを追求しなければならなくなるだろう(これに似たことはチリで実際に生じた)。このような事態は第3インターナショナルの勃興期にも生じた。この結果フランス社会党は公式に共産党に転じたのである。しかしこのことは、第2インターナショナルに対するわれわれの政策の一般的方向を変えるものではなかった。
B われわれが完全にコミンテルンから決別しようとしていることを知れば、われわれに同情的な何千という「スターリニスト」たちは驚嘆して飛びのいてしまうのではないか?
A それはありうることだ。というよりもきわめて現実的である。しかし彼らは次の段階で、それだけいっそう断固としてわれわれの隊列に加わってくるだろう。さらに、別の側面として、次のことを忘れてはならない。各国には、公式の党を放棄するか、あるいはそこから追放された何千という革命家たちがいるが、彼らがわれわれに合流しない主な理由はまさに、われわれが、彼らが見離したのと同じ党の一分派にすぎないからである。そして、さらに多くの労働者がすでに現在、改良主義と決別して革命的指導部を探し求めている。最後に、社会民主主義の腐敗とスターリニズムの崩壊の状況下において、汚れのない旗印を必要とする労働者の若い世代が育ってきている。ボリシェヴィキ=レーニン主義者はこれら多くの分子のすべてを結晶化させるための基軸を形成することができるし、形成しなければならない。その暁には、スターリニストの「インターナショナル」内部にいるすべての生きた分子が、その最後の疑念を振り捨てて、われわれのもとにやってくるだろう。
B 新しい方向性がわれわれ自身の隊列の中から反対にあう恐れはないだろうか?
A 最初の時期にはそれは絶対に避けられないことだ。多くの国における左翼反対派の全活動は、もっぱらとまでは言わないまでも、主として公式の党に結びついていた。それは労働組合にはほとんど浸透してこなかったし、社会民主党の内部に生じていることにはほとんどまったく無関心だった。今こそ狭いプロパガンダ主義に終止符を打つべき時である! われわれの組織の全メンバーがこの問題を徹底的に考え抜かなければならない。事態の進行がこれを助けてくれるだろう。新しいインターナショナルの必要性については、一日一日が反論の余地のない論拠を与えてくれている。この転換を友好的かつ断固として実行するならば、それはわれわれの前に広大な歴史的展望を開いてくれるだろう。私はこのことを信じて疑わない。
1933年7月20日
『反対派ブレティン』第36/37号
『トロツキー著作集 1933-34』上(柘植書房)より
訳注
(1)ウェルス、オットー(1873-1939)……ドイツ社会民主党右派。第1次大戦中は排外主義者。ベルリンの軍事責任者としてドイツ革命を弾圧。1933年まで、ドイツ社会民主党国会議員団の指導者。共産党との反ファシズム統一戦線を拒否し、ファシズムに対する妥協政策をとりつづける。
(2)これはトロツキーの勘違い。コミンテルンの大会は1928年であり、この論文の時点からは5年前にあたる。
(3)テールマン、エルネスト(1886-1944)……ドイツのスターリニスト、1920年代半ば以降、ドイツ共産党の最高指導者。1932年にヒンデンブルク、ヒトラーと対抗して大統領選挙に立候補。1933年にナチスに逮捕され、1944年に強制収容所で銃殺。
(4)マヌイリスキー、ドミートリー(1883-1959)……ウクライナ出身の革命家、古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1903年以来のボリシェヴィキ。1905年革命に積極的に参加。逮捕され、流刑されるも、途中で脱走。1907-12年、フランスに亡命。1912-13年、非合法活動のためロシアに戻る。その後再びフランスに亡命。第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1917年にロシアに帰還し、メジライオンツィに。その後、ボリシェヴィキに。1918年、ウクライナ・ソヴィエトの農業人民委員。1922年からコミンテルンの仕事に従事。1928年から43年までコミンテルンの書記。1931年から39年まではコミンテルンの唯一の書記。「第三期」政策を積極的に推進。スターリンの死後に失脚。キエフで死去。
(5)ヘッカート、フリッツ(1884-1936)……ドイツ共産党の指導者の一人、スターリニスト。1902年にドイツ社会民主党に。党内では左派に属す。第1次大戦中にスパルタクス団に加盟。1918年11月の革命ではケムニッツのレーテを指導。ドイツ共産党創設に参加し、中央委員(全国委員)に。1921年にコミンテルンの執行委員に。1924年に国会議員。ヒトラーの権力掌握後、ソ連に亡命し、そこで1933年4月1日のコミンテルン執行委員会議でドイツ情勢について報告し、コミンテルンの政策は完全に正しかったとする報告書を提出した。
(6)国際予備会議……1933年2月4〜8日にパリで開催され、トロツキーが起草した綱領的文書「国際左翼反対派――その任務と方法」を採択。この文書には反対派の基本的立場を要約した「11項目」が含まれている。
(7)ラサール、フェルディナンド(1825-1864)……ドイツの革命家、ドイツ社会民主党の父 。1848年にマルクスと知合い、影響を受けるも、独自の理論形成を行なう。労働者の組織化に尽力し、1863年にドイツ労働者同盟を創立。プロイセン国家を信奉し、ビスマルクにも接近をはかる。恋愛事件に端を発する決闘で重傷を負い死亡。
(8)ミュンツェンベルク、ウイリー(1889-1940)……ドイツのスターリニストで、共産主義青年インターナショナルの創始者の一人。コミンテルンの資金を用いて出版社、日刊紙、雑誌、映画会社などを設立。ナチスの政権掌握後、フランスに亡命。人民戦線をめぐって意見が分かれ、1937年にコミンテルンから決別。後に、不可解な状況の中で暗殺される。
(9)ウストリク、アルベール……フランスの銀行家。1930年、彼の投機のために多数の銀行が倒産し、これがタルディウ内閣崩壊の原因となった。
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