コミンテルンの誤謬の「第三期」

トロツキー/訳 志田昇・湯川順夫・西島栄

【解説】この大論文は、スターリンのコミンテルンが1920年代末に打ち出した極左主義的「第三期」論に対する全面的な反論であり、とりわけ、景気の循環と政治情勢との弁証法的な関係について詳しく述べられており、必読文献のひとつである。

 スターリン、ブハーリンの支配するコミンテルン指導部は、1926〜27年に典型的な日和見主義路線、協調主義路線を展開し、左翼反対派を打倒・一掃することに専念した。しかし、左翼反対派が一掃されると、スターリン派は1928年のコミンテルン第6回世界大会で「第三期」(最初の危機の「第1期」、相対的安定の「第二期」についで、資本主義の最終崩壊に至る「第三期」)を宣言し、極左転換を行なった。さらに、翌年の7月に行なわれたコミンテルン第10回執行委員会総会は、この「第三期」の路線をいっそう徹底し、それを各国支部に押しつけ、世界共産主義運動に多大な混乱をもたらした。

 トロツキーは、このような極左転換にきっぱりと反対の姿勢を打ち出し、この極左主義が第2期における日和見主義の裏返しにすぎないこと、革命的戦略とはまったく無縁の、「激高した日和見主義者」の発作的冒険主義であることを説得的に明らかにした。この論文はまた、革命情勢というものが世界的に同時的に成熟するものではないことを説得的に示しており、いわゆる「世界同時革命論」なるナンセンスをトロツキーに押しつけようとする試みの愚かさを完膚なきまでに暴露している。「世界同時革命論」なるものは、まさに「第三期」におけるスターリニストの極左路線の表現なのである。また、この論文は、スターリニスト・タイプのみならず、あらゆる「極左主義」に対する最良の解毒剤になっている。

 しかし、同時に、この論文は、1929年秋にアメリカの株暴落をきっかけに始まった世界恐慌の規模を過小評価している。論文が書かれたのは、この世界恐慌の影響がヨーロッパに波及するかしないかの微妙な時期であり、この時点ではトロツキーはヨーロッパ経済がまだ上昇局面にあると考えていた。ただし、トロツキーはこの論文の「当面の展望はどうなるか?」の中で、ニューヨーク市場での株暴落がどのような結果をもたらすかについて、4つの可能性を提起しており、その第1の可能性は、アメリカで始まった恐慌がヨーロッパにも深刻な恐慌を及ぼすというものだった。しかしトロツキーはむしろ、アメリカの株暴落が一時的な不況をもたらすにすぎないという第2の可能性の方がよりありうると見ていたようである。しかし、現実の行程は、第1の可能性を完全に裏書きした。

 世界恐慌の深刻で長期にわたる影響がはっきりした時点で、トロツキーは自らの立場を変え、この恐慌という事態に即した防衛的戦術を提起する。しかし、経済恐慌と政治的急進化を機械的に結びつけていたコミンテルンは、極左主義的方針をあくまでも堅持し、こうしてドイツにおけるヒトラーの勝利を容易にしたのであった。

Л.Троцкий, ”Третий пириод” ошибок Коминтерна, Бюллетень Оппозиции, No.8., Январь 1930.

Trotsky Institute of Japan


 1……大衆の急進化とは何か

    フランスにおけるストライキ曲線

    ストライキ統計は何を示しているか

    事実と空文句

 2……景気上の危機(恐慌)と資本主義の危機

    経済的危機と大衆の急進化

    偽りの革命家は経済過程を恐れる

 3……政治的急進化の兆候は何か

    当面の展望はどうなるか?

 4……方向設定の技術

    モロトフは「両足を踏み入れた」

    経済的ストライキの引き金となるのは恐慌か好況か

    「第三期」の要因としてのソ連の発展

    ゼネラル・ストライキのスローガン

    「街頭の占拠」

    「改良主義者とのいかなる協定もありえない」

    自らの過去を忘れるな!

    もう一度、戦争の脅威について

    共産主義内の諸潮流

    必要な補足


 

   大衆の急進化とは何か?

 コミンテルンにとって、大衆の「急進化」は、目下のところ、あるひとつの過程を特徴づけるものではなく、空虚な教条である。『ユマニテ』紙は、真の共産主義者は党の指導的役割と大衆の急進化を承認しなければならない、と教える。このような問題提起は無意味である。党の指導的役割はすべての共産主義者にとって不動の原則である。この原則を受け入れなければ、アナーキストか混乱屋であって、共産主義者、すなわち、プロレタリア革命家たりえない。しかし、急進化それ自身は原則ではない。それは大衆の気分の特徴づけにすぎない。ある時期においてこの特徴づけは正しいのかそれとも正しくないのか? これは事実の問題である。大衆の気分をきちんと評価するためには、正しい基準を用いなければならない。急進化とは何か? それはどのように表現されるか? それは何によって 特徴づけられるか? それはどのようなテンポで、どの方向に発展しているか? フランス共産党の惨めな指導部はこうした問題を提起しさえしない。せいぜいのところ、公式の論文や演説がストライキ件数の増加について言及しているだけである。しかし、その場合ですら、生の数字が示されているだけで、真剣な分析やそれ以前の時期との簡単な比較対照もないのである。

 問題に対するこのような姿勢は、コミンテルン第10回執行委員会総会の不幸な決定から生じているだけでなく、実はコミンテルンの綱領それ自身からも生まれている。大衆の急進化は絶えざる不断の過程であると述べられている。今日、大衆は、昨日よりもますます革命的になりつつあり、明日には今日よりもさらに革命的になるだろうというのだ。このような機械的考え方はプロレタリアートや資本主義社会全体の発展の真の過程には対応していない。しかし、それはカシャン(1)やモンムッソー(2)などの驚愕した日和見主義者の思考方法に最も対応している。

 社会民主主義諸党は、とりわけ戦前には、将来を、社会民主党の得票数が権力を完全に掌握するまで一貫して増大し続けるものとして想像していた。俗流革命家やえせ革命家にとって、この展望はいぜんとして本質的に有効性を保持しており、彼らは得票数の持続的増加の代わりに、大衆の絶えざる急進化について語っている。この機械的概念は、コミンテルンのスターリン=ブハーリン綱領によっても認可されている。現代という時代全体の観点からすると、プロレタリアートが革命の方向に発展していることは言うまでもない。しかし、これは、資本主義的対立の先鋭化の客観的過程が直線的でないのと同様、けっして直線的な過程ではない。改良主義者は、資本主義発展の道の上昇のみを見ている。形式的「革命家」たちはその下降のみを見ている。しかし、マルクス主義者はその道筋の全体を、すなわちその上昇と下降の全体を見るのであって、同時にその主要方向――戦争の破局、革命の爆発――を一瞬たりとも見失なわない。

 プロレタリアートの政治的気分は、同一方向に自動的に変わるわけではけっしてない。階級闘争の上昇の後には下降が、満ち潮の後には引き潮が続き、それは物質的・イデオロギー的および国内的・国際的諸条件の複雑な結びつきに依存している。大衆の能動性は、それが時機を失せず利用されないか、誤って利用される場合には、その反対物に転化し、結局、下降期に入ってしまう。そして大衆は、遅かれ早かれ下降期から回復するが、それはまたしても、新しい客観的刺激に影響されて起こる。現代は、個々の時期がとりわけ急激に交替し、状況がはなはだしい大転換を遂げるという特徴を帯びており、このことは指導部に対して正しい方向設定という点でかつてない責任を課すことになる。

 大衆の能動性というのは――それが完全に正しく設定された場合でさえ――、条件に応じて実にさまざまな形で表現される。大衆は、一定期間、全面的に経済闘争に没頭し、政治問題にほとんど関心を示さない場合もあれば、反対に、経済闘争の分野で一連の大敗北を喫して、突如として政治の領域に関心を向ける場合もある。それから、大衆の政治活動は、一連の諸条件とその条件下で行動したときの経験しだいで、純然たる議会闘争の方向に向かうかもしれないし、あるいは議会外闘争の方向に向かうかもしれない。

 われわれはごく少数の例しか取り上げないが、それらは労働者階級の革命的発展の矛盾したあり方を示している。事実を追ってその意味を理解することができる者は、前述したパターンが理論的構築物ではなくて、過去数10年間の生きた国際的経験の表現であるということを容易に認めるだろう。

 いずれにしても、以上のことから明らかなのは、「急進化」について語る場合には、この概念について具体的に定義する必要があるということである。マルクス主義的反対派は、もちろんのこと、自らに対しても同じ要求をつきつけるべきである。モナットやシャンブラン(3)らのように急進化を抽象的に否定することは、その抽象的な肯定と同じくほとんど役立たない。現状がどうなっており、それがどう変化しつつあるのかを評価しなければならない。

 

   フランスにおけるストライキ曲線

 フランスの公式指導者たちは、ほとんどもっぱらストライキ運動と関連させてフランス労働者階級の急進化について語っている。ストライキ運動の増大は、統計的に立証されている明白な事実である。われわれはこの事実を出発点とする。

 フランスにおけるストライキの公式統計ははなはだ遅れている。ストライキに関する労働省の最近の報告は、1925年度で終わっている。私の手元には1926年のデータがない。次の3年間については、共産党の新聞のデータがある。以上2つの出所から取った数字は、比較できない。労働省がすべてのストライキを完全に記録しているかどうか疑わしい。他方、『ユマニテ』紙の浅薄な「革命家」たちには、誇張した数字を使う明白な傾向がある。しかし、それにもかかわらず、運動の全般的な傾向はかなりはっきりと現れている。

 フランスにおけるストライキ運動は戦後の最初の2年間で頂点に達した。1919年、2100件のストライキが行なわれ、120万人の労働者が参加した。1920年、1900件のストライキが起こり、約150万人の労働者が参加した。参加労働者数については、この年が頂点だった。1921年から、後で述べる一つのささやかな例外を除くと、系統的な減少が始まり、それは1926〜27年に最低点に達する。

 ここに端数を除いた数で表わした数字がある。1921年に、ストライキ参加労働者は45万人、すなわち、前年のストライキ参加者数の3分の1である。1922年に、ストライキ参加者は30万人で、1923年だけが、曲線は下降をせず、少し上昇しさえし、36万5000人のストライキ参加者があったことを示している。このエピソード的上昇は、疑いもなくルール占領とドイツの革命運動と結びついた諸事件のせいである。1924年に、ストライキ参加者数は27万5000人にまで下降した。1926年についてはデータがない。1927年について、ストライキ件数の合計しかない。1919〜25年の間に、ストライキ件数が570件から2100件までの間を変動していたのに対して、この年の件数はわずか230件であった。ストライキ件数がむしろ大まかな指針であるとしても、やはりそれは、ストライキ曲線が1921年から1927年まで下降し続けたことを全体として示している。1927年の第4・4半期には、93件のストライキで、参加者は7万人であった。ストライキ1回あたりの平均参加者数がその年全体で同じであると仮定すると(明らかに恣意的な仮定だが)、1927年について約17万人のストライキ参加者が得られる。この数字は過小評価されているというよりもむしろ過大評価されている。1928年に、共産党の新聞は約800件のストライキを数えている。そのうちの約600件がこの年の後半に起こり、36万3000人の労働者が参加した。したがって、1928年の1年全体については、40万人から45万人の労働者がストライキに参加したという仮説を採用することができる。同紙は、1929年に1200件のストライキがあり、1928年と同じストライキ参加者(すなわち、40万人から45万人)であると報じている。こうして、前年度と比較すると、増加は生じていない。1928年にストライキ参加者数は、1929年と同じで、1925年の数の約2倍である。それは、1921年のストライキ参加者数とほとんど同じ数である。それは、1920年の3分の1から3・5分の1である。

 以上すべての数字は、すでに指摘したように、厳密なものではないが、過程の発展力学を明らかにするのに十分である。1919〜20年のストライキの高揚期の後、1923年のごく小さな中断期をはさんで、1928年まで減少過程が続いた。1928年と29年には、ストライキ運動のはっきりとした、しかもかなりの上げ潮が見られる。これは、容易に推測されうるところだが――この点については後述する――、通貨安定の影響を受けて生じた産業好況と関連している。

 完全な確信を持って言えるのは、1919〜27年の時期が、フランス・プロレタリアートの生活において、一定の独自のサイクルを成していることである。それは、終戦直後のストライキ運動の嵐のような高揚と、その後の敗北と下降(とりわけ1923年のドイツの破局後に先鋭となったそれ)を含んでいる。このサイクルは、その最も一般的な面からすれば、フランスのみならず、ヨーロッパ全体、さらにかなりの程度、全世界の流れを特徴づけるものである。フランスにのみ特徴的なのは、サイクルの最高点と最低点との間における変動の振り幅が比較的緩やかなことである。戦勝国フランスは真の革命的危機を経験しなかった。ロシア、ドイツ、イギリス、その他の諸国で展開された壮大な事件は、フランスのストライキ運動のリズムのうちに弱い反響しか見出さなかった。

 それ以外の統計によっても、フランス労働者のストライキ運動の同じ傾向が示されている。ストライキ参加者数と平均争議日数は、1922年始めに急減した。1921年、各ストライキには平均で800人の参加者があり、争議日数は1万4000日以上であった。1925年までに、ストライキへの平均参加者数はわずか300人になり、争議日数は2000日を少し上回るだけになった。1926〜27年に、これらの平均数字が少なくとも増加しなかったと推定することができる。1929年には、ストライキ1回あたり400人の労働者の参加があった。

 われれれはもう一つ重要な指針に注目する。これは、後になると必要になってくる。戦後期、ストライキ参加者のうちで第1線を占めたのは、主として炭鉱労働者、金属労働者、運輸労働者であった。最近2年間で第1線を占めているのは、繊維労働者をはじめとするいわゆる軽工業の労働者である。

 

   ストライキ統計は何を示しているか?

 統計は大衆の急進化テーゼを確認しているのだろうか、それともその間違いを証明しているのだろうか? われわれは次のように答える。まず第1に、急進化が何を意味するかを定義もせずにモンムッソーがそうだと言い、シャンブランがそうでないと言う抽象的領域から、統計は討論を抜け出させる。前述したストライキ闘争の統計は、労働者階級における一定の変化を示すまぎれもない証拠である。同時に、統計は、こうした変化の量と質に関する非常に重要な評価を与えるものである。それは、過程の全般的な発展力学の輪郭を描き出し、将来を――より正確には将来のいくつかの可能性を――ある程度予測することを可能にする。

 まず何よりも、1928〜29年の統計は、それ以前の時期の統計と比較するなら、フランス・プロレタリアートの生活における新しいサイクルの始まりを示すものである。それは、大衆の中で深い分子的過程が進行してきたし進行しつつあること、そしてその結果――経済戦線だけに限っていうなら――下降の勢いが克服され始めていこと、を推測させるものである。

 だが、同じデータが示しているのは、ストライキ運動の成長が非常に控えめであって、革命的時期ないし前革命的時期であると結論づけることができるような嵐のような高揚の様相を少しも呈していないことである。とりわけ、1928年と29年の間には何ら違いは存在しなかった。ストライキ運動で第1線を占めているのは、すでに述べたように、今あいかわらず軽工業の企業である。この事実から、シャンブランは急進化そのものを否定する十把一からげ的な結論に到達する。ただし、ストライキが重工業や機械製造の大企業をもとらえているなら、話は別だ、と言う。言いかえれば、シャンブランは、「急進化」が出来合いのものとして天から降ってくると想像しているのである。

 実際には、これらの数字が示しているのは、プロレタリアートの闘争の新しいサイクルが始まったということだけでなく、このサイクルがその最初の段階に通過しつつあるにすぎないということである。敗北と衰退の後では、いかなる大事件も起きないかぎり、新たな活性化は周辺的的な産業でのみ、すなわち、軽工業や2次的部門やより小さな工場でしか生じることはできない。ストライキ運動が冶金、機械、運輸部門へ拡大するならば、それはより高い発展段階への移行を意味するだろうし、変化の始まりの徴候だけでなく、労働者階級の気分の決定的転換を指し示めすものだろう。この段階はまだ到来していない。

 しかし、第2、第3、第4の段階がまだ始まっていないからといって、運動の第1段階にも眼を閉ざすのは愚かしいことだろう。たとえ2ヵ月目であろうと妊娠は妊娠である。それを無理やり促進すると流産につながるかもしれないが、それを無視してもまた流産になる可能性がある。もちろん、このアナロジーを用いる場合には、社会的領域での日程が生理学における日程に比べてけっして確実でないということをつけ加えておかなければならない。

 

   事実と空文句

 大衆の急進化の問題を議論する際に片時も忘れてならないのは、プロレタリアートが一枚岩の団結に達するのは革命の絶頂期においてのみだということである。資本主義社会の「平日」においては、プロレタリアートはおよそ均質的ではない。そして、プロレタリア各層の異質性が最も鋭く現われるのは、転換点においてである。プロレタリアートのうちの最も搾取された層や熟練度の最も低い層や政治的に最も遅れた層がしばしば最初に闘争舞台に登場するが、敗北した場合には、しばしば最初に闘争舞台から立ち去る。新しい段階においてより容易に運動に引き込まれるのは、単にまだ大規模な闘争に参加していなかったからだとしても、それ以前の段階で敗北を経験していない労働者集団である。こうした現象は、何らかの形で、フランスでも現出するに相違ない。

 同じことは、フランスの組織労働者がまだ優柔不断であることによっても示されている。このことは、共産党の機関紙によっても指摘されている。しかり、組織労働者においても行動の抑制は十分強力である。組織労働者は、自分たちがプロレタリアートの取るに足りない部分であるのを感じる場合、しばしば保守的役割を果たしがちである。これはもちろん、組織化に反対する論拠ではなく、組織の脆弱さに反対する論拠であり、そして、労働組合組織の性格を理解せず、労働者階級におけるしかるべき地位を労働組合に保証することのできないモンムッソー型の労働組合指導者たちに反対する論拠なのである。しかし、いずれにしても、現時点において、未組織労働者がストライキ闘争において前衛的役割を果たしている事実は、問題となっているのがまだ革命闘争ではなく、同業組合的・経済的闘争であり、しかもその初歩的段階であることを物語っている。

 同じことは、ストライキ運動において外国人労働者が重要な役割を果たしていることによっても示されている。ちなみに、これらの労働者は、アメリカにおける黒人の役割に類似した役割をフランスにおいても将来果たすだろう。しかし、それは将来のお話である。目下のところ、フランス語を知らない者もいる外国人労働者がストライキにおいて大きな役割を果たしている事実は、問題になっているのが政治闘争ではなくて経済的景気の変動から刺激を受けた同業組合的闘争であることを示すもう一つの証拠なのである。

 純然たる経済戦線に関してさえ、モンムッソー一派が語っているような闘争の攻勢的性格について語ることができない。彼らのこの定義の根拠となっているのは、ストライキのかなりの割合が賃上げを要求して展開されているという事実である。これらの思慮深い指導者たちは、一方では生活必需品の価格上昇によって、他方では新しい産業方式(合理化)の結果として労働者の物理的搾取が強化されたことによって、労働者がこうした要求を掲げざるをえないことを忘れている。労働者はこれまでの生活水準を防衛するために名目賃金の引き上げを要求せざるをえない。これらのストライキは、資本主義的簿記の観点から見た場合にだけ「攻勢的」性格をもっている。労働組合の政策の観点から見るならば、これらの闘争は純然たる防衛的性格をもっている。すべての真面目な労働組合員なら、まさに問題のこの側面をこそ明確に理解し、できるかぎり強調しなければならなかったはずである。しかし、モンムッソー商会は、口にするのもはばかれるが「革命的指導者」であるので、まったく無能な労働組合活動家でいる権利があると信じている。これら指導者は、声がかれるまで、純防衛的な経済ストライキの攻勢的・政治的・革命的性格について叫んでいるが、もちろんのこと、それによってストライキの性格を変えることも、その意義をたったの一ミリでも高めることもできないが、その代わり、労働者に対する経営者と国家権力の反撃の準備をこの上なく見事に整えさせているのである。

 わが「指導者」たちは、警察が活発に策動しているので…ストライキが「政治的に」なるだろうと指摘しているが、これによっても事態は一向に改善しない。何という驚くべき論拠だろう! 警察によるストライキ参加者への弾圧が…労働者の革命的攻勢として評価されているのである。フランスの歴史は、純然たる経済ストライキにおいて労働者に発砲される例がそれほど多くないことを示している。アメリカでは、ストライキ参加者との流血の決着が一般的である。このことは、アメリカの労働者が最も革命的な闘争を展開していることを意味するのだろうか? もちろん、ストライキ参加者に対する発砲はそれ自身、政治的な意味をもっている。しかし、ただほら吹きだけがそれを労働者大衆の革命的、政治的攻勢と同一視し、そうすることによって無意識のうちに経営者とその警察を有利にすることができるのである。

 イギリスの総評議会が革命的な1926年のストライキを平和的なデモであると呼んだとき、総評議会は自らが何をしていたのかを知っていた。それは意識的に仕組まれた裏切りであった。しかし、モンムッソー一派が分散的な経済的ストライキをブルジョア国家に対する革命的攻勢であると呼ぶとき、誰も彼らを意識的な裏切りと非難しようとは考えない。そもそも、こうした連中が意識的に行動できるというのは疑わしいからである。しかし、だからといってそれが労働者にとってよりましなものになるわけではない。

 次節で、われわれは、これらのウルトラ革命的な英雄たちが、商工業好況を無視し、その意味を過小評価し、すなわち、資本家の儲けを過小評価し、さらには労働者の経済闘争の土台を掘り崩すことによって、経営者にまた別の奉仕を行なっていることを見ることにしよう。

 これらはすべて、もちろん、「第三期」を賞賛するために行なわれているのである!

 

 

   景気上の危機(恐慌)と資本主義の危機

 統一労働総同盟(CGTU)(4)の第5回大会において、A・ヴァサール(5)はシャンブランに反対する長い演説を行なった。これはその後、ジャン・ブリコ[モンムッソーのペンネーム]による前書きを付けたパンフレットとして発行された。その演説の中で、ヴァサールは、改良主義的展望に反対して革命的展望を擁護しようと試みた。この点において、われわれの共感は全面的に彼の側に寄せられている。しかし、不幸なことに、彼は改良主義者を助けるにすぎない論拠で革命的展望を擁護している。彼の演説には多くの致命的な理論上および事実関係上の誤りが含まれている。

 なぜこのような誤った演説をわざわざ取り上げるのか、と異義を唱える人もいるかもしれない。だが、ヴァサールはなお多くのことを学ぶことができるし、そうなれば私としても喜ばしいかぎりだ。しかし、それは演説が宣伝的パンフレットとして発行されたという事実によって困難にされてきた。このパンフにはジャン・ブリコの序文が付けられている。ブリコは、少なくともモンムッソー自身の分身であり、このことはパンフレットに綱領的性格を与えている。演説を印刷物にする際に、著者だけでなく編集者もその目に余る誤りに気づかないという事実は、フランス共産党の現在の指導者の理論的水準が悲しむべき状態にあることを物語っている。ジャン・ブリコは、飽きることなくマルクス主義的反対派を非難し続けている。だが、彼がなすべきだったのは――今からそのことを示すつもりだが――、腰を据えて政治のイロハを学ぶことだけである。労働運動の指導は、マルクスがかつてヴァイトリング(6)に言ったように、無知とはあいいれない。

 大会では、シャンブランは、資本主義の安定がさらに30年か40年は続くこと、すなわち、今ようやく独り立ちしつつある新しい世代のプロレタリアートすら権力の革命的獲得を展望することができないという、演説者の改良主義的傾向以外にいかなる根拠もない思想を、この上なくきっぱりと表明した。シャンブランは、この空想的な期間設定を証明するいかなる真面目な論拠も示していない。だが、過去20年間の歴史的経験および現情勢の理論的分析は、シャンブランの展望を完全に否定している。

 しかし、シャンブランに対しヴァサールがいかに反論しているか聞いてみよう。ヴァサールはまず第1に、戦前でさえ資本主義システムは動揺なしには存在することができなかったと証明する。

「1850年から1910年まで、資本主義システムによって生み出される経済恐慌は、ほぼ14年ごとに(!?)勃発した」(14ページ)。

 さらに、

「もし戦前に恐慌が14年ごとに起こったとすれば、われわれは、この事実と今後40年間に重大な危機が起こらないと予測するシャンブランの主張との間には矛盾がある」(15ページ)。

 景気上の危機(恐慌)と資本主義全体の革命的危機とを混同するヴァサールが、この種の議論によって、シャンブランの誤った立場を強めるだけであるということは、さして理解しにくいものではない。

 まず第1に、景気循環を14年と規定するのは、驚くべきことである。ヴァサールは、この数字をどこからとったのだろうか? われわれはそんな数字を初めて聞いた。そして、われわれにかくも権威をもって(ほとんどモンムッソー自身と同じぐらい権威をもって)教えるジャン・ブリコは、いったいどうしてこのきわめて乱暴な間違いを指摘しなかったのだろうか。しかも、これは労働運動にとって直接的かつ重大な意義をもつ問題であるのに。

 戦前には、労働組合活動家なら誰でも恐慌または少なくとも不況が7、8年ごとに生じることを知っていた。もしわれわれが最近150年間の時期をとりあげるならば、恐慌と恐慌との間に11年以上の間隔があったことは一度もないことがわかる。循環の平均持続期間は約8年半であり、すでに戦前の時期に示されたように、景気循環のリズムは遅くなるのではなく速くなる傾向がある。それは生産設備の更新がより頻繁になったことと関連している。戦後には、景気変動は不規則な性格をもつようになった。そのことは、恐慌が戦前よりも頻繁に発生するという事実に表現されている。フランスの労働組合の指導者がそのような初歩的な事実を知らないということは、いったいどうして生じたのであろうか? とりわけ、景気変動のリアルな姿を知ることなしに、どうやってストライキ運動を指導することができるのであろうか? まじめな共産党員なら誰でも統一労働総同盟の指導者、とりわけモンムッソーにこの問題を正面から提起することができるし、しなければならない。

 事実の面から見て、事態はこのようなものである…。方法論から見ても、事態はよりましなものではない。実際、ヴァサールは、何を証明しているのだろうか。資本主義的発展は一般に景気変動なしには考えられない。景気変動は戦前に存在したし、将来も存在するだろう。おそらく、シャンブランもこの一般論を否定しないであろう。しかし、このことはまだ革命的展望を開くものではない。むしろ、反対である。過去150年間に資本主義世界が18回の恐慌を経験したからといって、資本主義が19回目または20回目の恐慌とともに没落するにちがいないという結論を引き出す根拠はまったくないからだ。実際には、資本主義における景気循環は、有機体の血液循環とほぼ同じ役割を果たすのである。革命の不可避性という結論が恐慌の周期性から出て来ないのは、死の不可避性が脈拍の規則性から出てこないのと同じである。

 コミンテルンの第3回大会(1921年)において、当時の極左派(ブハーリン、ジノヴィエフ、ラデック、テールマン、タールハイマー、ペッパー、ベラ・クンその他)は、資本主義は最後の時期(「第三期」?)に入ったので、もはや好況を経験することはなく、この最後の時期は絶えざる恐慌のあげくに革命そのものに至るだろうと主張した。第3回大会ではこの問題をめぐって、大々的なイデオロギー闘争が行なわれた。私の報告のかなりの部分は帝国主義の時代にも産業循環の交代を規定する諸法則が依然として作用しており、資本主義が続くかぎり景気変動が付随することになると証明することにあてられた。脈拍は死ぬときにはじめて停止する。しかし、医者は、他の徴候と関連あせつつ脈拍の状態から、身体が強いか弱いか、健康か病気か、を判定することができる(もちろん、私はモンムッソー学派の医者について言っているのではない)。これに対して、ヴァサールは恐慌と好況が…14年ごとに起こるという根拠にもとづいて、革命が不可避であり、間近に迫っているということを証明しようとしている。

 ヴァサールが少なくともコミンテルン第3回大会で行なわれた報告と討論を研究していたならば、このようなお粗末な誤りを容易に避けることができただろう。しかし、悲しいかな、真のマルクス主義思想がコミンテルンで支配的であった最初の4つの大会の最も重要な資料は、今や読むことが禁じられた文献となっている。指導部の新しい世代にとっては、マルクス主義思想の歴史はコミンテルンの第5回大会、とりわけ不幸な第10回執行委員会総会から始まっている。愚鈍で無分別な官僚機構の主要な犯罪の一つは、この理論的伝統を物理的に破壊したことにある。

 

   経済的景気と大衆の急進化

 ヴァサールは、景気循環のメカニズムを認識しておらず、景気上の危機(恐慌)と資本主義体制全体の革命的危機との相互関係を理解していないが、経済的景気と労働者階級の闘争との弁証法的な相互依存も同じように理解していない。ヴァサールは、この相互依存を自分の敵であるシャンブランとまったく同じように機械的に理解している。両者の結論は正反対だが、2人とも同じように間違っている。

 シャンブランは次のように言っている。

「大衆の急進化はある意味で、当該国における資本主義の情勢を評価することを可能にするバロメーターである。資本主義が衰退しつつあるとしたら、大衆は必然的に急進化する」(23ページ)。

 ここからシャンブランは次のような結論を引き出す。フランスではストライキが周辺的な労働者を含むにすぎず、金属産業や化学産業はほとんど影響を受けていないので、資本主義はまだ衰退していない。資本主義の前途には、なお40年の発展期があるというわけである。

 ヴァサールはどのようにこれに答えているだろうか? ヴァサールは言う、シャンブランは「搾取の新しい方法を見ていないので、急進化も見ていない」のだ、と(30ページ)。そこでヴァサールはしきりに繰り返す。もし搾取の強化が認められ、それがさらに発展することが認められるならば、「それだけでもう、大衆が急進化しているかどうかという問題に肯定的に答えなければならない」(31ページ)。

 この論争を読むと、2人の目隠しされた人間が互いに相手をつかまえようとしているような印象をうける。恐慌がいついかなる場合にも大衆を急進化させるというのは、正しくない。たとえば、イタリア、スペイン、バルカン諸国等々を見ればよい。また労働者階級の急進化が必ず資本主義の衰退期と一致するというのも正しくない。たとえば、イギリスのチャーチスト運動などを見ればわかる。シャンブランと同様に、ヴァサールは死んだ公式のために労働運動の生きた歴史を無視している。そして、当面の問題に関するシャンブランの結論も間違っている。ストライキが労働者の主要な部分を含んでいないからといって、急進化の開始を否定することはできない。したがって、今することができるし、しなければならないのは、この急進化の範囲や深さや激しさを具体的に評価することである。シャンブランはどうやら、労働者階級全体が攻勢に加わった後にしか急進化を信じることに同意しないようである。しかし、準備が完全に整うまで始めたがらない指導者は、労働者階級には必要ない。たとえ弱々しくとも最初の活性化のきざし(さしあたりは経済的分野に限られている)を見ることができなければならないし、それに戦術を適合させ、過程の発展を注意深く追わなければならない。その際に一瞬たりとも見失ってはならないのは、われわれの時代の一般的性格である。というのは、現代という時代は、活性化の最初の徴候と、革命情勢をつくりだす嵐のような高揚との間には40年も必要としないこと、おそらくその5分の1か10分の1しか必要としないということを、すでに一度ならず証明したし、今後も証明するだろうからである。

 ヴァサールの場合も事態はよりましなものではない。彼は単純に搾取と急進化との間に機械的な平行関係を設定する。ヴァサールはいらだって尋ねる。もし搾取が日ごとに増大しているならば、どうして大衆の急進化が否定できるのか、と。これはまったくバクーニン流の幼稚な形而上学である。急進化は推論によってではなく、事実によって証明されなければならない。ヴァサールの論拠は、容易に正反対のものに転化しうる。問題を、以下のように設定してみればよい。大衆の急進化に直面しているのなら、資本家は、いったいどうやって毎日搾取を増大させることができるのか、と。搾取の強化を許しているのは、まさに大衆の戦闘的精神が存在していないからである。確かに、限定ぬきのこのような議論もまた、一面的である。しかしそれでも、それは、ヴァサールの理屈よりもはるかに現実に近い。

 問題は、搾取の増大が必ずしもプロレタリアートの戦闘的精神を高めるとは限らないということにある。したがって、失業の増大をともなう景気後退のなかで、とくに闘争の敗北後には、搾取の増大は大衆の急進化を生み出さず、反対に、士気喪失と分解をもたらすのである。たとえば、イギリスにおける1926年の炭鉱ストライキの直後がそうであった。ロシアでは、それは、1907年の商工業恐慌が1905年革命の挫折の時期と重なったときに、いっそう大きな規模で観察された。もし過去2年間に搾取の強化がストライキ運動の一定の増加を引き起こしたとすれば、その基盤は景気の後退によってではなく、好況によってつくりだされたのである。

 

   偽りの革命家は経済過程を恐れる

 しかし、コミンテルンを指導している「極左」日和見主義者は、好況を経済的「反革命」として恐れている。彼らの急進主義は弱々しい軸心に寄りかかっている。なぜならば、商工業の景気のいっそうの上昇は、何よりもまず「第3の最後の時期」という愚かな理論に致命的な打撃を加えるからである。この連中は、革命的展望を現実の矛盾した過程からではなく、偽りの図式から引き出している。そして、ここから彼らの戦術上の致命的な誤りが出てくるのである。

 統一労働総同盟(CGTU)の大会における公式の発言者が、フランス資本主義の現状を最大限悲惨に描きだすことに最も意を用いたことは、まったくありそうもないように思われるかもしれない。フランスのスターリニストは、金切り声でストライキ運動の現在の規模を誇張しつつ、同時に、今後、同業組合的なストライキ闘争をまったく見込みのないものであるかのようにフランス経済を特徴づけている。その一人がヴァサールである。ヴァサールは、モンムッソーと同じく資本主義の危機と景気上の危機(恐慌)とを区別しておらず、シャンブランと同じく好況が革命を数十年先に延期すると考えているので、ヴァサールは、産業好況を迷信深く恐れているのである。彼は、自分のパンフレットの21〜24ページで、フランスにおける現在の商工業の活況が「人為的」で「一時的」(24ページ)であることを証明している。12月の全国委員会でリシェッタはフランスの繊維産業を恐慌の状態にあると熱心に描き出した。もし事態がそうであるとすれば、今のところ急進化の唯一の兆候とされているストライキ運動は、いかなる経済的な根拠もないか、あるいは、まもなく経済的な根拠を失うということになる。控えめに言っても、ヴァサールとリシェッタは資本の代表者に労働者に対する経済的な譲歩に反対するきわめて貴重な論拠を与え、さらに重要なことに改良主義者に経済的ストライキに反対する決定的な論拠を与えている。なぜならば、慢性的な恐慌という展望からは経済闘争の発展という展望を引き出すことがけっしてできないということを理解しなければならないからである。

 こうした哀れな労働組合活動家は、経済関係の刊行物に注意を払わないのだろうか。しかし、彼らはこう言うかもしれない。資本家の刊行物は意識的に楽観論をふりまいているのだ、と。しかしながら、それは社説の問題ではない。毎日毎日、毎月毎月、新聞は株式相場、銀行や企業や鉄道のバランスシートを公表している。これに関する若干の総括的データは、すでに『ラ・ヴェリテ』に転載されている。最新のデータは、フランス経済の上昇傾向を証明しているにすぎない。たとえば、最近私の手もとに届いた『ル・タン』という週刊誌(1929年12月9日)は、フランスの東部と北部の金属企業の株主総会の報告をのせている。われわれは、「第三期」の哲学に対するキュヴェレット氏の見解を知らないし、正直に言えば、そんなことにはあまり興味がない。しかしその代わり、彼は非常に上手に利潤を計算し、配当をすることができる。キュヴェレットは、次のように昨年の総計を総括している。「国内市場の情勢は、異例なほどよい」。この評価は観念的な楽観論とは何の関係もないと、私は思う。なぜならば、それは1年前の25フランの配当に代わる、40フランの配当によって裏づけられているからである。この事実は、金属産業における経済闘争にとって重要性を持つであろうか、それとも持たないであろうか。それは重要性を持つと思われる。しかし、悲しいかな、キュヴェレットの背後に、ヴァサールやブリコの姿、あるいはモンムッソー自身の姿が見え隠れし、彼らの次のような声が聞こえてくる。「この資本主義的楽観論者の言葉を信じるな。彼は自分が第三期の窮地におちいっていることを知らないのだ」と。もし労働者がこの問題に関してモンムッソーを信じ、キュヴェレットを信じないという誤りをおかすならば、労働者には、攻勢どころか、闘争の成功のためのいかなる基盤もないという結論にならざるをえないということは、明らかではないだろうか。

※原注 われわれは、『ラ・ヴェリテ』が月毎の経済評論を導入したという事実を歓迎しなければならない。最初の論文(第12号)は、党および労働組合の仕事に従事しているあらゆる共産主義者にとって経済的方向性を定める必要性についてすばらしい論拠を与えている。反対派は、とくに問題のこの側面に依拠し、事実と数字のマルクス主義的分析にもとづいた真に革命的な展望を対置し、カシャンやモンムッソーの空虚なおしゃべりに反対するだけでなく、間違って左翼反対派の隊列のなかに迷いこんだ若干のサロン的な紳士諸君の政治的むだ話にも反対しなければならない。

 モンムッソーの学校――もし人々に考えたり読んだり書いたりすることをやめさせる機関を学校と呼んでよいとしたらの話だが――は、好況を恐れている。だが、次のことをはっきり言わなければならない。フランスの労働者階級は、戦時中と戦後に少なくとも2度その構成を新たにし、その隊列のなかに莫大な数の青年、女性、外国人を引き入れ、これらの新しい要素全体をまだ同化してはいない。このフランスの労働者階級にとって、好況のいっそうの発展はかけがえのない学校をつくりだし、その隊列を結束させ、資本主義社会における彼らの意義と役割を最も遅れた層に示し、そうすることによって全体としての階級意識を新しい高みに押し上げるであろう。成功裏に遂行される広範な経済闘争の2、3年、いや1年でさえ、プロレタリアートを生まれ変わらせる。適切に利用された経済好況の後では、恐慌は大衆の真の政治的急進化に本格的な刺激を与えるであろう。

 同時に、次のことも忘れてはならない。われわれの時代の戦争と革命は、恐慌から生じたのではなく、一方における生産力の発展と他方におけるブルジョア的所有および民族的国家との間の矛盾が極限まで先鋭化したために生じたものである。帝国主義戦争と10月革命は、すでにこの矛盾の深刻さを示した。アメリカの新しい役割は、この矛盾をさらに激化させた。あれこれの国あるいは一連の諸国における生産力の発展が、本格的なものであればあるほど、それだけ早く工業の新しい好況は世界経済との基本的な矛盾に直面し、それだけ早く経済的・政治的・国内的および国際的な反作用が生じるであろう。本格的な好況はいずれにせよフランスの共産主義にとってマイナスではなく、巨大なプラスであり、政治的攻勢の先駆けとして強力なストライキ運動をつくりだすであろう。革命的な状況の不足は存在しないだろう。しかしながら、それを利用する能力が不足することは大いにありうることである。

 しかし、フランスの景気における今後の上昇は保証されているだろうか。これをあえて断言することはできない。さまざまな可能性が残されている。いずれにせよ、それはわれわれにかかっていることではない。われわれにかかっていること、および、われわれがしなければならないことは、みじめな図式のために事実に目を閉じることではなく、経済的発展の経過をありのままに見て、事実にもとづいてわれわれの労働組合戦術をつくりあげることである。われわれは今、戦略と区別された意味での戦術について語っている。もちろん、戦略は景気変動によってではなく、基本的な発展方向によって決定される。しかし、戦術は戦略に従属しているとはいえ、他方では戦略は戦術を通じてのみ実現されるのである。

 コミンテルンおよびプロフィンテルンにとって、戦術は周期的なジグザグから構成され、戦略はこのジグザグの算術的総和である。これこそ、プロレタリア前衛が敗北に敗北を重ねている理由である。

 

 

   政治的急進化の兆候は何か?

 しかしながら、大衆の急進化の問題は、ストライキ運動で尽きるわけではない。政治闘争はどのような水準にあるか。そして、とりわけ、共産党の規模とその影響力はどのようなものかという問題にかかわっている。

 急進化を語るに際して公式指導者たちが自党の問題を奇妙かつ軽率にも無視していることは注目に値する。実際のところ、1925年以降、党員数は年を追うごとに減少しているのである。1925年:8万3000人。1926年:6万5000人。1927年:5万6000人。1928年:5万2000人。1929年:3万5000人。これまでの数年間についてわれわれが使っているのは、コミンテルン書記、ピアトニツキーの公式の数字である。1929年については、セマール(7)の数字を使っている。これらの数字をどのようにみなそうとも、それらが大きく誇張されていることに疑問の余地はない。にもかかわらず、全体としてそれらの数字は党の下降曲線をはっきりと示している。5年間で、党員が半分以上減ったのだ。

 量よりも質が重要であり、今や党には完全に信頼できる共産主義者しか残っていないと言えるかもしれない。そうであると仮定してみよう。だが、問題はまったくこんなところにはない。大衆の急進化の過程が活動家の孤立を意味することはけっしてないのであって、反対に、信頼できない共産主義者および半分信頼できる共産主義者の党への流入と半分信頼できる共産主義者の「信頼できる」共産主義者への変貌を意味する。大衆の政治的「急進化」が党員の一貫した減少と両立するのは、労働者階級の中での党が無用の長物であるとみなされている場合だけである。事実は言葉よりも強力である。ストライキ運動が退潮局面にあった1925年〜27年の期間中だけでなく、ストライキ件数が増え始めている最近の2年間においても、党の着実な衰退が見られる。

 公式共産主義の尊敬すべき楽天家たちは、この点について口を挟み、党員数とその影響力との間の「不均衡」を指摘するだろう。今やこれが、一般にお人好しな連中のために狡猾な連中がでっち上げたコミンテルンの公式なのである。しかしながら、聖典に祭り上げられたこの公式は何も説明していないばかりか、いくつかの点で事態を悪化させてさえいる。労働者運動の経験は、革命党が「議会的」性格を帯びれば帯びるほど、それ以外の諸条件が同じだとすれば、その影響力の及ぶ範囲はその組織規模をますます上回るようになることを立証している。分散的な大衆に依拠するのはマルクス主義より日和見主義の方がずっと容易なのである。このことは、社会党と共産党とを単純に比較するだけで明白である。組織された共産主義者の数が減少しているもとで「不均衡」が一貫して拡大している事実は、したがって、フランス共産党が、革命党から議会的、地方自治的党に変質しつつあることを意味するにすぎないのである。最近の「地方自治体の」スキャンダルは、この過程が近年、ある程度発展したこを明らかにしたのであり、今後「議会」スキャンダルが続くことが懸念される。それでも、今日の共産党とブルジョアジーの社会民主主義的手先との間の相違はいぜんとしてきわめて大きい。指導部の中の楽天家たちは、フランス共産党の党員数とその影響力との巨大な不均衡について説教するとき、フランス共産党の悪口を言っているにすぎない。残念なことだが、共産主義の政治的影響力が最近5年間ほとんど増大していないことを示すのはむつかしいことではない。

※原注 1924年の議会選挙直前、共産主義インターナショナル執行委員会ビューローは、フランス共産党に宛てた特別アピールの中で、フランス社会党が「存在しない」と断言した。この呼びかけは、軽薄なロゾフスキーが出したものであった。私は、組織力が弱体でその新聞も限られたものでしかないとしても改良主義的議会主義政党が非常に広範な影響力を保持し続けることがあると説明した幹部会宛ての手紙を書いて、この軽率な評価に抗議したが、無駄だった。私のこの見解は「悲観主義」とみなされた。当然にも、1924年の選挙の結果およびそれ以降の事態の発展のコースによって、ジノヴィエフとロゾフスキーの軽薄さが打ち破られるのに時間がかからなかった。

 マルクス主義者にとって、議会選挙と地方選挙が抑圧された大衆の実際の気分をはなはだしく――そして常に革命的傾向に不利なように――歪めているということは、公然の秘密である。そうは言ってもやはり、政治的発展の発展力学は議会選挙の中にも反映する。これこそ、マルクス主義者が選挙闘争に積極的に参加するひとつの理由なのである。しかし、選挙結果は何を示しているだろうか? 1924年の議会選挙では、共産党は87万5000票、全投票数のうちの10%弱、を獲得した。1928年の選挙では、全得票の中の11・33%を代表する、100万を少し上回る票(106万4000票)を獲得した。こうして、有権者の中での党の比重は4年間に1・33%だけ上昇した。この過程が同じテンポで持続するとすれば、30年間から40年間の「社会平和」というシャンブランの展望は、あまりにも…革命的すぎるということになるだろう。

 ジノヴィエフとロゾフスキーによれば1924年にすでに「存在していなかった」社会党は、1928年にほぼ170万票、18%を上回る得票率、すなわち共産党の1・5倍以上の票を獲得した。

 地方選挙の結果は、全体の政治地図をほとんど変えない。一部の工業中心地(パリ、北部)では、社会党から共産党への票の移動があった。たとえば、パリでは、共産党の比重は4年間で、18・9%から21・8%へ、すなわち3%だけ増加したのに、同じ時期、社会党は22・4%から18・1%、すなわち4%だけ減少した。このような事実の兆候的な意味は疑う余地はない。しかし、今のところは、それらは地方的な性格のものにすぎず、ルイ・セリエ(8)や彼と同類のプチブル的連中によって人格的に代表される反革命的な「地方自治体主義」によってひどく信用が傷つけられている。セリエ一派のこうした傾向の結果として、議会選挙の1年後に開かれた地方選挙は、何ら実質的な変化をもたらさなかった。

 政治生活のそれ以外の指標もまた、控えめに言っても、この2年間で起こったと想定されているいわゆる大衆の政治的急進化に関する時機尚早な断定に反している。『ユマニテ』の発行部数は、われわれの知るかぎり、増えていない。『ユマニテ』のための資金集めは確かに喜ばしい事実である。しかし、この新聞に対する反動派の露骨な攻撃を考慮すれば、そうした資金集めは1年前にも2年前にも3年前にも可能だったろう。

 8月1日に――この点をわずかの間も忘れるべきでないのだが――、党は自党に投票したすべての労働者、あるいはすべての組織労働者すら、動員する能力を持っていなかった。

 パリで、『ユマニテ』の明らかに誇張された計算によれば、約5万人の労働者が、すなわち組織労働者の半分弱が、8月1日のデモに参加したという。地方では、事態ははるかに悪化していた。ところで、このことは、CGTU(統一労働総同盟)機構内の政治局の指導的役割が組織労働者の間での党の指導的役割を意味しなかったことを証明している。

 しかし、組織労働者は階級の中の小さな部分を構成しているにすぎない。革命的高揚がそれほど反論の余地のない事実であるとすれば、中国とソ連が衝突している決定的瞬間に、自党に投票したこの国の有権者の4分の1――より正確に言えばその10分の1でさえ――反帝国主義のデモンストレーションに動員できない党指導部にいったい何の価値があるのだろうか? 共産党指導部に不可能なことを要求する者は誰もいない。階級を操作することはできない。だが、8月1日のデモを失敗に追いやったものこそ、指導部の勝ち誇った叫びと大衆の本当の反応との間の途方もなく巨大な「不均衡」なのである。

 労働組合組織に関して言えば、公式の数字から判断すると、それらは1年遅れで党の下降を追っていた。1926年、CGTUは47万5000人の組合員を擁していた。その組合員数は、1927年45万2000人に、1928年には37万5000人になった。この国のストライキ闘争が増加しているときに10万人の組合員数が減少したことは、大衆の同業組合的な経済闘争の中で進行している基本的過程がCGTUに反映されていないことを示す議論の余地のない証拠である。CGTUは、党のより拡大された影として、一定期間遅れて党の下降をなぞっているにすぎないのである。

 ここに引用されたデータは、われわれがストライキ運動の分析にもとづいて導き出した予備的結論を2重に確認している。それをもう一度繰り返してみよう。1919年〜20年は、フランスにおけるプロレタリアートの闘争の頂点であった。その後、退潮が始まったが、それは経済の領域では6年後に新しいまだゆっくりとした上げ潮に交替しはじめた。しかしながら、政治の分野では、少なくとも労働者の主要な部分の中では、退潮または停滞が今日においてすら続いている。したがって、経済闘争におけるプロレタリアートの一定の層の能動性が活性化していることは疑う余地のない事実である。しかし、この過程もまた最初の段階にすぎない。闘争に引き込まれているのは主として軽工業部門であり、そこでは組織労働者よりも未組織労働者が明らかに支配的であり、外国人労働者の比重が高い。

 ストライキの波を刺激しているのは、生活費の上昇を同時的に伴った景気の上昇である。第1段階では、同業組合的な闘争の強化はたいていの場合、革命的高揚を伴うことはない。今の段階でもそれは存在していない。逆に、一定期間にわたる経済闘争は、労働者階級の政治的利害を、少なくとも一部の層の政治的関心を、弱体化すらさせる。

 フランスの産業がこの2年間上昇局面にあり、産業の基本的部門で失業の話が聞かれず、一部部門で深刻な労働力不足すら生じているという事実をさらに考慮するならば、労働組合の闘争にとって例外的に有利な諸条件のもとで現在のストライキの波がごく控えめなものであると結論づけるのは、難しくはない。この穏健な性格を示す主要な証拠は、これまでの時期から引き継いでいる大衆の意気消沈と産業の景気上昇それ自身の緩やかさである。

 

   当面の展望はどうなるか?

 景気変動の規則性にもかかわらず、景気循環の局面の交替を実際に予見することはきわめて大ざっぱにしかできない。これは戦前の資本主義についても当てはまる。しかし、現在では、景気予測の困難さは何倍にも大きくなっている。戦争の破壊の後、世界市場は、たとえ戦後の最初の5年間に比べると均一な景気にずいぶん近づいているとしても、まだ均一な景気の確立には至っていない。だから、世界の景気の次の変動を前もって判断しようとする場合に、一段と慎重でなければならないのだ。

 現時点で生じうる基本的なパターンとしては、次の四つのものが考えられる。

 1、ニューヨーク株式市場の恐慌が、アメリカにおける商工業恐慌の先駆けとなり、それが来るべき数ヵ月に重大な深さにまで達する場合。この場合、アメリカ資本主義は、外国市場へと向かう決定的な転換を行なわざるをえない。激烈な競争の時代が開始される。アメリカ製品は原価以下の価格で道を切り開く。ヨーロッパ製品はこの容赦ない攻撃の前に後退する。ヨーロッパはアメリカより遅れて恐慌に入るが、ヨーロッパの恐慌は驚くべき先鋭さを帯びる。

 2、株式市場の崩壊がただちに商工業恐慌を引き起こさずに、一時的な不況をもたらすにすぎない場合。株式市場の投機への打撃は、株価の相場と商工業の実体との間、および商工業と市場の実際の購買力との間の相互関係の改善をもたらす。不況と調整期の後に、商工業の景気は、以前の時期ほど急激ではないとしても、再び上昇に転ずる。この可能性は排除できない。アメリカ資本主義の潜在的力量は巨大であり、そこでは、まだまだ政府予算(発注、補助金など)が効果を発揮する余地がある。

 3、アメリカへの投機資金の引揚げがヨーロッパの商工業活動を引き起こす。この好況の運命は今度は、世界的要因と同じだけ純ヨーロッパ的要因にも左右されることになろう。たとえアメリカが深刻な経済恐慌に陥った場合でも、ヨーロッパでは景気上昇が一定期間維持されるかもしれない。なぜなら、アメリカ資本主義が世界市場への決定的攻撃に向けて数ヶ月のうちに自らの準備を整えることができるとは考えられないからである。

 4、最後に、事態の実際の発展コースは、若干の上下の変動を伴った揺れ動く曲線の中で、以上の3つのパターンの間の中間の形となるかもしれない。

 資本主義の歴史全体における労働者階級の発展は、とりわけストライキ運動の中に表現されているそれは、景気循環と密接に結びついてきた。しかし、これは機械的に考えてはならない。商工業の景気循環を越えた一定の諸条件(世界経済や世界政治の急激な変化、社会的危機、戦争、革命)のもとでは、ストライキの波は、所与の景気によって呼び起こされる当面の要求ではなく、労働者階級の根本的で歴史的な革命的任務を表現することがある。

 だから、たとえば、フランスの戦後のストライキは景気循環的性格をもたず、資本主義社会全体の深い危機を表現していた。もしわれわれがこの基準を用いるならば、今日におけるフランスのストライキの活性化が主として景気循環的性格を有しており、労働運動のコースとテンポは最も直接的な意味において今後の市場の変動および景気局面の交替ならびにその範囲と強さに左右されるであろう、ということがわかる。現在のこの時期は歴史の転換期である。それだけに、経済事象の本当の発展を何ら見ることなく「第三期」を宣言することは、なおさら許せないのである。

 たとえ、アメリカで好況の復活が、ヨーロッパで商工業の景気上昇が生じるとしても、新しい恐慌が不可避であるということは、説明するまでもない。恐慌が発展すると、現在の指導者たちが、われわれの「予測」の完全な正当性が立証された、資本主義の安定化が起こらなかった、階級闘争がより先鋭な形をとった、と宣言することは疑いない。そのような「予測」がほとんど無価値なのは明らかである。毎日、日食が起こると予測していた人は生きて最後にはこの予測が完全に実現されるのを見ることだろう。しかし、われわれがこのような予言者を真面目な天文学者とみなすなどとはおよそ考えられないことである。共産主義者の任務は、恐慌、革命、戦争を1日単位で予測することではなく、戦争と革命との間に生起する状況と条件について冷静な評価を下すことによって戦争と革命に備えることである。好況の後に恐慌が不可避的に起こることを予測するのは必要である。来るべき恐慌について大衆に警告することは必要である。しかし、大衆は、正しい指導のもとで好況の時期を適切に利用すればするだけ、それだけよりよく恐慌に備えられるのである。

 CGTUの最近の全国委員会総会(1929年12月)で、実に健全な考えが表明された。たとえば、クラブリとドレーユは、CGTUの最近の大会(1929年5月)が労働者大衆の同業組合的要求の問題を回避したことに不満を表明した。しかしながら、発言者たちは、労働組合の大会がその第1の最も緊急の課題を見逃すなどということがどうして起こったのかよく考えてみようとはしなかった。いわゆる「自己批判」に合わせて、これらの発言者は今回、かつて反対派が行なった批判よりもさらに徹底的な批判をCGTU指導部に加えた。

 しかしながら、ドレーユは、「第三期」の名のもとに、ストライキの政治的性格について少なからぬ混乱を持ち込んだ。ドレーユは、革命的な共産党員組合活動家――現時点ではそれ以外の革命的組合活動家はいない――があらゆるストライキの中で労働者に搾取の個々の例が現在の体制全体に依存していることを示し、したがって、労働者の当面の要求とプロレタリア革命との間の結びつき示すようにと要求している。これはマルクス主義者にとってABCである。しかし、このことそれ自身がストライキの性格を決定するわけではない。政治的ストライキとは、共産党員がその中で政治的アジテーションを展開するストライキではなく、その中でさまざまな職業の、さまざまな工場の労働者が明確な政治的目標に向けて闘争を展開するストライキのことである。ストライキにもとづく革命的なアジテーションはあらゆる状況のもとでなされなければならない任務である。しかし、政治的ストライキ、すなわち、革命的ストライキへの労働者の参加は、闘争の最も進んだ形態の一つであり、例外的な状況のもとでのみ生まれる。このような状況は、党であれ労働組合活動家であれ自分の望むままに人為的作り出すことはできない。同業組合的ストライキと政治的ストライキとを同一視することは混乱を生み出し、この混乱は、労働組合指導者が経済的ストライキに正しくアプローチするのを妨げ、それを準備して労働者の要求の適切な綱領を練り上げるのを妨害する。

 事態は、全般的な経済的方向設定の点では今なお悪化している。「第三期」の哲学は、即時に何が何でも経済恐慌を要求する。したがって、われわれの賢明な労働組合活動家たちはフランスでの過去2年間の景気の一貫した好転に対して眼をつぶる。しかし、景気の具体的な評価がなければ、正しい要求を練り上げ、それらの要求を実現するための闘争に成功することは不可能なのだ。クレブリとドレーユは問題を最後まで突き詰めて考え抜いた方がよいだろう。

 フランスの景気上昇があと1年か2年続くとすれば(これはまったくありえないことではない)、何よりもまず経済闘争の発展と深化がまもなく日程にのぼるだろう。そうした状況に対応することは、労働組合の任務であるばかりか、党の任務でもある。共産党が、指導的役割を引き受けるには、そうする権利を抽象的に宣言するだけでは十分ではない。労働組合機構の狭い枠内だけでなく階級闘争の舞台全体で、実際にこのことを実現する必要がある。労働組合の自立というアナーキスト的、サンディカリスト的定式に対して、党は労働組合への真剣な理論的、政治的支援を対置し、労働組合がより容易に、経済と政治の発展の中で正しい路線をとり、正しい要求と正しい闘争方法を練り上げられるように保証しなければならない。

 好況は不可避的に恐慌に席を譲る。このことは任務を変え、経済的闘争の土台を掘りくずすだろう。恐慌の開始が大衆の政治活動への刺激に――ほぼ間違いなく――なるだろうということはすでに述べた。この刺激の力は2つの要素によって直接に左右される。景気上昇の期間とその規模、およびそれに続く恐慌の深さ、という2つの要素である。この変化がより急激で、より大きければ大きいほど、大衆の行動もより激しいものになるだろう。この原因を理解するのは難しくない。慣性の法則によって、ストライキは一般に、好況が崩れ始める時点で最大の勢いを獲得する。それはまるで、労働者が走っている最中に固い壁にぶつかったかのようである。その場合、経済ストライキはほとんど成果を得ることができない。資本家は、不況が進むにつれて、簡単にロックアウトを行使するようになる。労働者の深まる階級意識が別の表現手段を追い求め始めるのは、当然である。しかしどのような手段で? それは、景気の諸条件だけでなく、この国の全体的情勢にもかかっている。

 次の恐慌がフランスで直接の革命的情勢を作り出すだろうと前もって断言するのは何ら根拠がない。これが本当に可能になるのは、恐慌の枠を越える一連の諸条件がそろっている場合のみである。しかし、現時点では理論的推測しかできない。大衆を革命闘争の道に押しやるであろう将来の恐慌にもとづいて政治的ゼネストのスローガンを今日焦眉のものとして提起することは、今日の飢餓を明日の晩餐でまぎらわすようなものである。モロトフはコミンテルン第10回執行委員会総会で、ゼネストがフランスにおいて実際に議事日程にのぼっていると述べたが、それはただ自分がフランスの情勢も今日の課題も知らないということを示しただけである。アナーキストとサンディカリストは、フランスにおけるゼネストの考えそのものの信用を傷つけている。公式の共産主義は、一貫した革命的活動を冒険主義的なやぎの跳躍に置き換えることによって、かれらと協調している。

 大衆の政治能動性の高まりは、それがより決定的な形をとる前には、一定の期間における、集会への参加の回数の増加、共産党の出版物の販売部数の拡大、選挙での得票の増加、党員数の増加、の中に表現される。指導部は、何事があろうと、発展の嵐のようなテンポにもとづくような路線を前もって純理論的に採択できるだろうか? 否である。路線はあれこれのテンポに備えなければならない。このようにしてのみ、党は、革命的方向から逸脱することなく、階級と歩調を合わせて進むことができる。

※  ※  ※

 以上の見解に対して答として、一方では「経済主義」、他方での資本家的楽観主義であると、そしてもちろん社会民主主義的偏向であると私を非難する耳障りな声が聞こえてくる。原始時代の人間にとって、この世の99パーセントが悪霊の活動によって説明されるのとまったく同じように、モロトフ一派にとって、自分たちが理解できないすべてのこと――それは大量にある――は、社会民主主義的偏向の領域に属する。モロトフ一派に続いて、セマールとモンムッソーも、問題は景気の変動によって論じ尽くされるわけでなく、たとえば産業の合理化や差し迫る戦争のようなそれ以外の諸要因が存在することをわれわれに教えてくれる。こうした連中は、そうした諸要因のうちのたったひとつも説明することができないので、それだけにますます「多くの」要因について語る。わわれわれは次のように彼らに答えるだろう。そうだ、戦争は全展望を覆し、いわば新しい紀元を切り開くことになろう。だが、第1に、われわれには今日、戦争がいつ起こるか、どの門を通ってやって来るのかはわからない。第2に、目をしっかり見開いて戦争を迎えるためには、われわれは戦争に至る途上のすべての紆余曲折を注意深く研究しなければならない。戦争は天から降って来るわけではない。戦争とその勃発時期の問題は世界市場の問題と緊密に結びついている、と。

 

 

   方向設定の技術

 革命的指導の技術とは、何よりもまず、正しい政治的方向設定の技術のことである。共産党はいかなる条件下においても、プロレタリア前衛に対し、そして彼らを通じて労働者階級全体に対し、革命的権力奪取へと準備を整えさせる。しかし、その仕事は、労働運動のさまざまな部門、さまざまな時期に応じて、多様である。

 方向設定の最も重要な要素の一つは、大衆の気分、その能動性、闘争への構えを見定めることである。しかしながら、大衆の気分は、天から降ってくるものではない。それは、大衆心理の特殊な諸法則の作用を受けて変化し、その法則は客観的な社会的諸条件によって作動する。階級の政治的状態は、一定の範囲内では、量的諸規定(新聞の発行部数、集会やデモやストライキへの参加者数、選挙、等々)のもとにある。過程の発展力学を理解するためには、労働者階級の気分がいかなる方向に変化しつつあるか、いかなる原因に影響されて変化しつつあるかを見定めなければならない。主体的な要素と客観的なデータを組み合わせることによって、ある程度まで運動の展望を、すなわち科学的根拠をもった予見を得ることができる。それなしには、そもそも、本格的な革命闘争など考えることはできない。しかし、政治における予見は、厳格な図式のようなものではなく、作業仮説としての性格を有している。闘争をあれこれの方向に持っていくにあたっては、運動の主体的および客観的諸要素における諸変化を注意深く追い、時機を失することなく戦術におけるしかるべき修正をほどこさなければならない。闘争の現実の発展過程は予測と完全に一致するわけではけっしてないが、だからといって政治的予測を追求しなくてもよいということになるわけではない。ただそのさい必要なのは、既存の図式にとらわれることなく、たえず歴史的過程の発展コースを検証し、そのあらゆる徴候に合わせて予測を修正することである。

 現在、コミンテルンを支配している、折衷的で思想的に寄生的な潮流たる中間主義は、その本質そのものからして、歴史的予測を行なう能力に欠けている。ソヴィエト共和国において中間主義が優位を占めたのは、10月に対する反動、革命の退潮といった条件のもとで、経験主義と折衷主義が流れに乗って優位を獲得したときであった。そして、その際あらかじめ、発展の歩みは自動的に一国社会主義へと向かっていると宣言されたので、それだけでもう十分にソヴィエト中間主義は世界的な方向設定を行なう必要性から免れたのであった。

 しかし、これから権力獲得のための闘争をしなければならない、あるいはそうした闘争に向けて準備しなければならない資本主義諸国の共産党は、何らかの予測なしにやっていくことはできない。日々の正しい方向設定はこれらの党にとって死活にかかわる問題である。しかし、彼らはこの最も重要な技術を学んでいない。なぜなら、彼らはスターリニスト官僚の指令に応じて、飛び跳ねたり座ったりしなければならないからである。プロレタリア権力によってすでに獲得された資本の利子でかなり長いあいだ食いつなげる官僚的中間主義は、若い諸政党を権力獲得に向けて準備を整えさせる能力をまったく持っていない。まさにここに、現在のコミンテルンにおける主要で最も恐るべき矛盾がある。

 中間主義的指導部の歴史は方向設定における破滅的な誤りの歴史である。エピゴーネンが、ヨーロッパにおける全状況を大きく変えた1923年におけるドイツの革命情勢を逸して以来、コミンテルンは致命的誤りの3つの段階を経過してきた。

 1924〜25年は極左的誤りの時期であった。指導部は前方に直接的な革命情勢がせまっているとみなしたが、実際には革命情勢はすでに過ぎ去っていた。この時期、われわれマルクス・レーニン主義者は「右派」とか「清算主義者」などと呼ばれた。

 1925〜27年は公然たる日和見主義の時期であったが、それはちょうど、イギリスにおける労働運動の嵐のような高揚と中国革命の時期にあたっていた。この時期、われわれはまさに「極左」と呼ばれていた。

 最後に、1928年に「第三期」が宣言された。それは、1924〜25年のジノヴィエフ的誤りを繰り返すものであったが、より高い歴史的基盤にもとづいていた。この「第三期」はまだ終わっていない。それどころか、それはますます猛威をふるって、組織と人々を荒廃させている。

 この3つの時期の全体を通じて、指導部の系統的なレベル低下が進んだが、それも偶然ではない。第1の時期はジノヴィエフ、ブハーリン、スターリン、第2の時期はスターリンとブハーリン、そして第3の時期は、スターリンと…モロトフである。ここには法則性が見られる。

 次に、指導部の問題と「第三期」の理論についてより詳しく見てみよう。

 

   モロトフは「両足を踏み入れた」

 コミンテルン第6回大会(1929年7月)の1年後に開かれた第10回執行委員会総会は、第6回大会が言ったことを単純に繰り返すだけでは許されず、オクターブを一段」高くしなければならなかった。すでに総会直前に、ソ連共産党の理論機関誌『ボリシェヴィキ』はこう書いていた。

「全資本主義世界において、ストライキの波が高まっている。この波は、高度に発達した帝国主義諸国だけでなく、後進的な植民地諸国でも起こっており、時と場所によっては、強力な革命闘争や内乱の諸要素とからみあっている。未組織の大衆も闘争に参加しつつあり積極的に行動に出ている。……大衆の不満の増大と左傾化は、数百万もの農業労働者と被抑圧農民をもとらえつつある」(『ボリシェヴィキ』第12号、6月号、9頁)。

 ここで描かれている構図はいかなる疑問の余地も残していない。ストライキの波が本当に全世界で起こっており、「数百万もの農業労働者と被抑圧農民」さえも巻き込みつつあり、「革命闘争や内乱」の諸要素とからみあっているとすれば、それは明らかに、革命情勢が存在するということ、権力のための直接的な闘争が日程にのぼっているということである。このような情勢を「第三期」と呼ぶべきか、あるいは番号を付けずにすますべきか、このことに関しては議論するつもりはない。

 周知のように、第10回総会の音響は、大指揮者モロトフの手中にあった。コミンテルン指導部の前で綱領演説を行なったモロトフは、その中で次のように述べた。

「世界の労働運動の諸事実をふまえるなら、われわれが、世界的意義を持った最も偉大な革命的諸事件が展開される時代に両足を踏み入れたことは明らかであり、このことを見ないためには、愚鈍な日和見主義者(!)か、惨めな自由主義者(!)である必要がある」(『プラウダ』第177号)。

 「両足」とは、何と力強い論証であることか!

 モロトフ的音響と調和して、ソ連共産党の理論機関誌『ボリシェヴィキ』は1929年8月にこう書いている。

「最も主要な資本主義諸国における労働者階級の闘争の分析にもとづいて、第10回総会は大衆の左傾化と革命化の過程が発展し深化していること、そしてそれがすでに現在において革命的高揚の始まりに転化しつつあること(少なくとも、ドイツやフランスやポーランドにおいて)を確認した」(第15号、4頁)。

 疑問の余地はない。モロトフは、頭ではなく足によって、現在の時期の革命的性格を最終的に確定した。誰も「愚鈍な日和見主義者」とか「惨めな自由主義者」などと呼ばれたいとは思わないので、モロトフの議論が総会で批判される危険性は最初からなかった。経済的・政治的分析をすることに手をわずらわせたりしない(それも無理はないが)モトロフは、「われわれが、世界的意義を持った最も偉大な革命的諸事件が展開される時代に足を踏み入れた」ことを唯一証明するものとしては、いくつかの地方(ルール、ウッジ[ポーランド中部の都市]、北フランス、ボンベイ、など)におけるストライキの短いリストを出すだけでよしとしている。これで歴史的時代の一丁あがりというわけだ!

 各国支部の中央委員会と機関紙に今後残されているのはただ、自分自身の足が、頭を飛び越して、できるだけ早急に「偉大な革命的諸事件」に飛び込むようにすることだけである。

 しかし、革命情勢が、「不均等発展の法則」――すなわち、スターリンがかろうじて名前を知っていた唯一の歴史法則――を完全に無視して、全世界で――先進国においても植民地国においても――同時に現出するなどという事実は驚嘆すべきことではないか? 実際には、このような同時性など問題になりえない。世界の情勢を分析する代わりに、たった今われわれが見てきたように、さまざまな国でさまざまな原因から起こった種々雑多な衝突が寄せ集められている。ヨーロッパ諸国のうち、オーストリアだけは昨年、危機の真っただ中にあり、強力な共産党がもし存在していたなら、直接的な革命的発展を遂げることができたかもしれない。しかし、オーストリアの名前は挙げられていない。名前を挙げられていたのはフランス、ドイツ、ポーランドであり、これらの国はモロトフによれば、「今や革命的高揚の最前線にいる国々」である。一連の論文の中でわれわれは、フランスにおけるストライキの波を検討し、国とプロレタリアートの発展過程におけるその実際の位置について明らかにした。われわれは、近いうちに、同じぐらい詳細に、ドイツ労働者階級の闘争の基本的な特徴について分析したいと思っている。しかし、第10回総会がヨーロッパの最も革命的な3つの国の一つに数えていたフランスの例からわれわれが到達した結論は、モロトフの分析が、理論的無学さと政治的無責任さと官僚的冒険主義という3つの要素の結合だ、ということである。しかしながら、これらの要素は「第三期」だけの特徴ではなく、全期間における中間主義的官僚を特徴づけるものである。

 

   経済的ストライキの引き金となるのは恐慌か好況か?

 「このような革命的高揚の基礎にあるのは何か?」とモロトフは思索を試み、その思索の結果を次のように提示している。「高揚の基礎にあるのは、資本主義の全般的危機の激化と、資本主義システムの根本矛盾の先鋭化以外にありえない」。

 このことに同意しない者は「惨めな自由主義者」であるそうだ。だが、経済的ストライキの基礎にあるのは恐慌「以外にありえない」などとどこで言われているのだろうか? 現実の経済的状況を詳しく分析し、それにもとづいて現在の経済的ストライキ運動の正確な位置を見きわめる代わりに、モロトフは、はじめに結論ありきの方法をとっている。半ダースほどストライキを数え上げて、それだけでもう資本主義的危機の「激化」を結論づけるのである。天を指で撃つ[的外れなことをする]とはこのことだ。

 一連の国におけるストライキ運動の高揚は、われわれがすでに知っているように、この2年間における経済的景気の好転によって引き起こされた。何よりもこのことはフランスにあてはまる。実際、産業の活況は、ヨーロッパ全体に共通とはとても言えないが、これまでのところフランスにおいてもはなはだ控え目なものであり、しかも明日にはどうなっているかまったく保証はない。しかし、景気のあれこれの方向への小さな転換でさえプロレタリアートの生活に何の痕跡も残さないということはない。工場から毎週のように労働者が解雇されている場合と、新しい労働者が――限られた数だとしても――雇用されている場合とでは、現場労働者の意識には違いが見られるだろう。景気はまた、支配階級にも優るとも劣らぬ影響を及ぼす。商工業の活況期には、資本家たちは、その後のさらなる活況を期待して、国際的矛盾の緩和に加担する。まさに、有利な景気をそのまま発展させておきたいからである。これこそまさに「ロカルノとジュネーブの精神」である。

 以前、景気循環的要因と基本的要因との相互作用を示す見事な事例が見られた。

 1896年から1913年は、わずかな中断をともないつつも、嵐のような商工業好況の時期であった。1913年にそれは不況に交代し、それは、すべての者にとって明かな形で、長期にわたる恐慌をもたらした。未曾有の繁栄のあとに訪れた恐るべき景気転換は、支配階級の気分をはなはだ神経質にし、戦争への直接的な刺激として役立った。もちろん、帝国主義戦争は、資本主義の根本矛盾から発生した。これは、モロトフでさえ知っている一般論である。しかし、戦争への道は、一連の諸段階を経るのであって、その間には矛盾が先鋭化するときも、緩和するときもある。同じことは、労働者の階級闘争にもあてはまる。

 戦前の時期は、その基本的な過程も、景気循環的過程も、現在の時期よりはるかに順調であった。それに対し、先鋭な転換と大きな変動に満ちた現在においては、経済における相対的にあまり重要でない動揺から、政治における巨大な飛躍が生じる。しかし、だからといって、現実の発展過程に目を閉じることはできないし、「矛盾の激化」と「労働者大衆の左傾化」と「戦争の接近」という3つの呪文を来る日も来る日も繰り返しておればいいわけでもない。われわれの戦略的路線が、究極的には矛盾の拡大と大衆の革命的急進化によって規定されるのに対し、この戦略に寄与するわれわれの戦術は、それぞれの時期、それぞれの段階、それぞれの時点の現実的な評価に立脚しており、矛盾が一時的に緩和することもあれば、大衆が右傾化することもあれば、ブルジョアジーに有利なように力関係が変化することもある。もし大衆が間断なく左傾化しているとすれば、どんな愚か者でも指導することができるだろう。幸か不幸か、問題はもっと複雑であり、とりわけ、現在のような不安定で動揺的で「気まぐれな」状況下においてはそうである。

 いわゆる総路線は、個々の場面における国内的・国際的諸条件の日々の変動と結びついていないかぎり、空文句である。コミンテルンの指導部はどのように行動しているか? 状況を具体的に評価する代わりに、コミンテルン指導部は、新しい段階が訪れるたびに額をぶつけて怪我をし、その都度、敗北の責任を、各国支部の中央委員会にいるスケープゴートに負わせ、彼らを更迭したり除名しさえすることで、大衆をなだめてきた。われわれは倦むことなく、カシャンやモンムッソーやテールマンやレンメレのような連中に対し、第三期の理論と実践のスケープゴートにされることをあらかじめ覚悟しておくよう忠告している。こうしたことは、スターリンがモロトフの誤りを修正する――もちろん、後智恵的にだが――ときになってから、起こるだろう。

 

   「第三期」の要因としてのソ連の発展

 モロトフがこの2年間における「革命的高揚」の第1の原因とみなしているのは、経済恐慌である。彼はこれを演繹的方法によって導き出している。

 第2の原因としてモロトフが持ち出しているのはソ連の経済的成功であり、コミンテルン執行委員会総会に対し5ヵ年計画の革命的作用を十分に評価していないとして非難してさえいる。ソヴィエト共和国の経済的成功が世界の労働運動にとって巨大な意義を有していること、このことは証明を要しない。しかし、だからといって、5ヵ年計画がアプリオリな形でヨーロッパおよび全世界の革命的高揚の原因になると結論づけることはまったくできない。広範な労働者大衆はソヴィエト5ヵ年計画の目標数値によって生活しているわけではない。しかし、5ヵ年計画のことは脇に置いて、工業化の実際の成功を示す数字をとりあげたとしても、それでもやはり、それをフランスの港湾労働者やインドの繊維労働者のストライキの原因とみなすことはできない。数百万の労働者は、自分たちを直接取り巻く諸条件に導かれて行動を起こすのである。言うまでもないことだが、圧倒的多数の労働者は、ブルジョアーと社会民主主義の新聞の2枚舌的論文から、ソヴィエト経済の成功と失敗について認識している。最後に、そしてこれが最も重要な点なのだが、外国の広範な労働者層を直接とらえることができるのは、抽象的な数字でも統計でもなく、ソ連における労働者大衆の境遇が実際に大きく改善されることである。明らかに、モスクワおよびレニングラードにおける厳しい食糧難は、資本主義世界の何千万もの労働者に革命的興奮を吹き込むことはできない。不幸なことに、最近ソ連から帰ってきたフランスの代議員による勝利報告の場にいたのは、たった100人の労働者にすぎなかった。これがまぎれもない現実である。100人の労働者、これがパリ全域での動員なのだ! これは恐るべき警告である。このことについて、口やかましく傲慢な官僚は熟考する必要があるとはみなさないのである。

 

   ゼネラル・ストライキのスローガン

 「最も偉大な革命的諸事件」にかくもやすやすと足を踏み入れたモロトフは、その舌の根も乾かないうちに、同じストライキに話を戻して、不意にこう宣言する。「しかしながら、資本とそれに奉仕している改良主義に対するこの攻勢は、それでもやはりばらばらで分散的な性格を有している」。

 さまざまな国で、直接的にはさまざまな理由から、しかし、全体として世界市場における好景気から生じているストライキが、ばらばらで分散的な性格を有しているとすれば、それはまだ――まさにばらばらで分散的であるがゆえに――「最も偉大な革命的諸事件」ではないはずではないか。しかし、モロトフはこのばらばらのストライキを統一したいと思っている。称賛すべき課題だ。しかし、それはまだ課題にすぎず、達成された段階ではない。ばらばらのストライキを統一することは――とモロトフは教訓を垂れる――政治的大衆ストライキによってのみ可能となる。しかり、必要な条件がそろっている場合には、労働者階級は、革命的大衆ストライキによって統一されるだろう。大衆ストライキの問題は、モロトフによれば、「当面する時期における共産党の任務の中心に位置する、根本的で最も特徴的な新しい課題」である。「これはつまり――とわが戦略家は続ける――階級闘争の新しい最高度の形態に接近したということである(今度は「接近した」だけだ!――L・T)」。そして、第三期論という宗教を10回総会に最終的に確信させるために、モロトフはこうつけ足している。「大衆的ストライキのスローガンは、高揚の時期でないかぎり、提起することはできない」。

 この論理展開はまったくもって申し分ない! まず最初に、戦略的両足を最も偉大な革命的諸事件に踏み入れたら、理論的頭の前には、まだゼネラル・ストライキの課題が立っているにすぎないというわけである――ゼネラル・ストライキそのものではなく、単なるそのスローガンがである。そしてこのことから、逆順的に引き出される結論は、われわれが「階級闘争の最高度の形態に接近した」ということである。なぜなら、もし接近していないのだとすれば、どうして私モロトフがゼネラル・ストライキのスローガンを提起したりするだろうか、というわけだ。いっさいの論理構造は、この新進戦略家の聖なる言葉によって支えられている。そして、各党の全権代表たちは自己満足的愚物の話にうやうやしく耳を傾け、名前を呼ばれると、「その通り!」と答えるのである。

 いずれにせよ、われわれが今しがた聞いたところによれば、イギリスから中国にいたるすべての国は――フランス、ドイツ、ポーランドを筆頭に――今やゼネラル・ストライキのスローガンに接近した。われわれが完全に確信しえたのは、不幸な不均等発展法則が跡形もなくなったということである。いかなる政治的目的のために個々の国でゼネラル・ストライキを提起するのかについて語ってくれていたなら、まだしも我慢できただろう。何といっても、労働者がゼネラル・ストライキのためにゼネラル・ストライキをやることはけっしてないからである。このことを理解しなかったアナルコ・サンディリズムは自分の首を折るはめになった。ゼネラル・ストライキは、時には、抗議のデモンストレーションの性格を持つ場合もある。この種のストライキが起きるのは、一般的に言って、何らかの鮮烈な――時には突発的な――事件が大衆の想像力を掻きたて、一致団結した反撃の要求を喚起せしめる場合である。デモンストレーションとしてのストライキはまだ、言葉の本来の意味における革命的政治ストライキではなく、それに向けた準備的なリハーサルの一つにすぎない。革命的政治ストライキに関していえば、言葉の本来の意味では、それはプロレタリアートの権力闘争に向けた、終わりから2番目の行動である。ゼネラル・ストライキは、資本主義国家の正常な機能をマヒさせることによって、「家の主人は誰か?」という問題を真っ向から突きつける。この問題は武力以外によって解決することはできない。それゆえ、武装蜂起にいたらない革命的ストライキは、結局のところ、プロレタリアートの敗北に終わる。したがって、革命的政治ストライキや「闘争の最高度の形態」というモロトフの言葉に何らかの意味があるとすれば、次のこと以外にありえない。すなわち、全世界において同時に、ないしほとんど同時に、東西南北すべての共産党が、武装蜂起の直接のプロローグとなるようなゼネラル・ストライキに直面するほどに革命的情勢が成熟している、と。

 「第三期」のモロトフ的戦略の馬鹿々々しさを暴露するには、その戦略を正確に定式化するだけで十分である。

 

   「街頭の占拠」

 ゼネラル・ストライキと並んで提起されているのは、「街頭の占拠」である。そのさい問題になっているのは――少なくとも言葉の上では――、ブルジョアジーや社会民主主義によって蹂躙された「民主主義的」権利のひとつを擁護することではなく、バリケードに対するプロレタリアートの「権利」の実現である。7月総会直後に共産党の機関紙誌によって無数に出された論文の中で、「街頭の占拠」は基本的にまさにこのような形で解釈されている。もちろんわれわれは、バリケードによって「街頭を占拠する」プロレタリアートの権利を否認しない。しかし、はっきりと理解しておく必要があるのは、そのことの意味である。何よりも明確に念頭に置いておかなければならないのは、プロレタリアートは、ストライキのためにストライキををしないのと同様、バリケードのためにバリケードにおもむきはしないということだ。数百万大衆を一つに結びつけ、前衛に確固不動の支柱を与えるような、直接的な政治的目的が必要である。革命家はこのように問題を立てる。だが、憤激した日和見主義者はまったく異なった形で問題にアプローチする。

 革命的「街頭占拠」――技術のための技術――のために、彼らは特別の日を指定する。この種の最近の思いつきは、周知のように、8月1日である。普通の人は不審に思う。何だって8月1日なのか、その敗北は5月1日の敗北によって予見されているというのに? いったい何のために? この問いに対して、御用戦略家はいらだたしげに答える。街頭占拠のためにだ。だが、「街頭の占拠(ザヴォエヴァーニエ)」とはどういう意味なのか? それは歩道や車道の占拠ということか? われわれはこれまで、革命党の課題は大衆を獲得すること(ザヴォエヴァーニエ)だと思っていた。ますます多くの大衆を、ますます能動的に動員することを可能にする政策は、不可避的に、自らの前に街頭への道を切り開き、それは警察によって遮断することも封鎖することもできない。街頭のための闘争は、大衆の政治闘争から切り離された自立した課題ではありえないし、ましてやモロトフの官僚的スケジュールに従属したものではない。

 だが、歴史を欺くことはできない。なすべき課題は、強く見せることではなく、強くなることである。騒々しい仮面舞踏会は何の役にも立たない。「第三期」なるものが存在しなくても、もちろん、それを頭の中ででっち上げることはできる。10もの決議をひねり出すこともできる。しかし、カレンダーに沿って街頭で第三期を作りだすことは、不可能である。そんなことをしようとすれば、共産党を待っているのは敗北だけである。その敗北は、時には悲劇的であろうが、多くの場合は、単に愚劣で屈辱的なだけだろう。

 

  「改良主義者とのいかなる協定もありえない」

 しかし、「第三期」にもとづく重要な戦術的結論はまだもうひとつ存在する。それは、モロトフによって次のように表現されている。

「今や、いつにもまして、革命組織と改良主義者の組織との間の連合戦術は許しがたいし、有害である」(『プラウダ』第177号、1929年8月4日)。

 改良主義者との協定は今や「いつにもまして」許しがたいというわけだ。これは、以前もやはり許しがたかったという意味だろうか? とすれば、1926〜28年の全政策はいったいどのように説明されるのだろう? いったい全体、そもそも許しがたいはずの「改良主義者との協定」が、どうして今とくに許しがたいものになるのだろうか? なぜなら――と彼らは説明する――われわれは革命的高揚の時期に突入したからである。しかし、われわれは思い出さないわけにはいかないが、イギリス労働組合の総評議会とブロックを結んだのは、ちょうどその時にイギリスが革命的高揚の時期に突入し、イギリスの労働者大衆の急進化が改良主義者を左に追いやっていたからではなかったのか? 昨日までスターリニズムの戦術的奥義であったものが、いったいなにゆえ引っ繰り返ったのか? 答えを見出そうとしても無駄であろう。中間主義の単純な経験主義者は、英露委員会の経験でやけどをして、確固たる誓いによって、将来におけるスキャンダルからわが身を守りたいと思っている。しかし、誓いは助けにはならない。なぜなら、わが戦略家たちはこれまでのところ英露委員会の教訓を理解していないからである。

 誤りは、大衆の圧力で当時(1926年)実際に「左傾化」しつつあった総評議会とエピソード的な協定を結んだことにあるのではない。最初の、出発点における誤りは、このブロックが、具体的かつ実践的で労働者階級にとって明白な諸課題にもとづいてではなく、一般的な平和主義的空文句とエセ外交的な定式にもとづいて結ばれたことにある。だが、主要な誤り、巨大な歴史的犯罪と化した誤りは、総評議会がその武器をゼネラル・ストライキに向けたとき、すなわち彼らが当てにならない半同盟者から公然たる敵に変貌したときに、即時かつ公然と関係を断つ勇気がわが戦略家たちになかったことにある。

 大衆の急進化が改良主義者に及ぼす影響は、ブルジョア革命の発展が自由主義者に及ぼす影響とまったく同じである。大衆運動の最初の段階においては、改良主義者は左に移行し、そうすることで指導権を自らの手中に保持しようとする。だが、運動が改良の段階を越えて、指導者に対しブルジョアジーとの直接の断絶を要求するようになると、改良主義者の大多数はたちまち調子を変え、大衆の臆病な同伴者からスト破り、敵、公然たる裏切り者に変貌する。もっとも、その際、改良主義者の一部は、最良の分子ばかりとはかぎらないが、革命の陣営に移行してくる。改良主義者が状況の全体に押されて一歩前進ないし半歩前進することを余儀なくされるときには、彼らとのエピソード的な協定は不可避的になりうる。しかし、その場合も、改良主義者が突如として後退するときには、容赦なく彼らと手を切るかまえが共産党の側にできているということが前提条件となる。改良主義者が裏切り者であるのは、いついかなる場合でも、どの行動においても、つねにブルジョアジーに直接奉仕するからではない。もしそうであるとしたら、改良主義者は労働者にいかなる影響力も持っていないことになるだろうし、したがってブルジョアジーにとっても必要ではないだろう。まさに、決定的な瞬間に労働者を裏切るのに必要な権威を保つために、日和見主義者は、準備的な期間においては、労働者の闘争の指導権を自らの手中に保持しておく必要がある。とりわけ、大衆の急進化の最初の地点ではそうである。このことから、統一戦線の戦術の必要性が出てくる。われわれは、広範な大衆を団結させるために、その改良主義的指導者と実践的協定を結ぶことを余儀なくされるのである。

 社会民主主義者を、その全陣地から一歩一歩追い出すためには、社会民主主義の歴史的役割を全体として理解しておかなければならない。しかしこのような理解は、現在の指導部にはまったく見られない。彼らが知っているのは2つの方法だけである。すなわち、ブランドラー的精神で社会民主主義に追随するか(1926〜28年)、さもなくば、社会民主主義とファシズムとを同一視して、革命的政策を無力な悪罵によって置き換えるか、である。この6年間におけるジグザグの結果は社会民主主義の強化と共産主義の弱体化であった。第10回総会の機械的な指令は、ただでさえ不利な立場をいっそう悪化させただけであった。

 「第三期」の摩訶不思議な力によって、労働者階級が全体として社会民主主義から離れ、改良主義的官僚のすべてをファシズムの陣営に押しやっているなどと事態を描きだすことができるのは、まったくどうしようもない愚か者だけである。いや、実際の過程はもっと複雑でもっと矛盾に満ちている。ドイツの社会民主党政府やイギリスの労働党政府に対して不満が高まりつつあること、部分的で分散的なストライキがより大衆的な運動に移行しつつあること、等々は(以上のことはたしかに事実だ!)、不可避的に――すべてのモロトフ・タイプの諸君、よくこのことを覚えておきたまえ!――改良主義者の非常に広範な層が左傾化するという結果をもたらすだろう。それはちょうど、ソ連の内的過程が、モロトフ自身が属している中間主義者の左傾化をもたらしているのと同じである。

 社会民主主義とアムステルダム派は――右派の最も自覚的な部分(トーマス(9)、ヘルマン・ミュラー(10)、ルノーデル(11)、ジュオー(12)などのタイプ)を除いて――、しかるべき条件のもとでは、大衆の行動の指導権を引き受けることを余儀なくされる。もちろん、この行動を狭い枠に閉じこめるために、あるいは、大衆がこの枠を突破しようとしたときに背後から労働者に打撃を与えるために、である。しかし、たとえわれわれがこのことをあらかじめ知っているとしても、そして、このことを公然と前衛部分に警告するとしても、それにもかかわらず、共産主義者が改良主義者との協定を拒否できないだけでなく、自らこのような協定のイニシアチブをとる必要に迫られる場面は、今後とも、何十、何百、何千回となくあるだろう。だが、動揺的な組合主義者が公然たる裏切り者に変貌した瞬間に、運動の指導権を手放すことなく改良主義者と手を切らなければならない。

 この政策は何よりも、左翼社会民主主義者との関係で不可避になるだろう。彼らは、大衆が実際に急進化するときには、右派に対しより断固たる姿勢をとるようになり、ほとんど分裂直前までいくことを余儀なくされる。このことは、左翼社会民主主義者の指導部分がしばしば、ブルジョアジーの最も堕落した最も危険な手先であるという事実と何ら矛盾しない。

 たとえば、改良主義者がストライキを指導しているような場合に、どうして彼らとの実践的協定を拒否することができるだろうか? このような機会が現在は少ないとすれば、それは、ストライキ運動自身がまだ非常に弱く、改良主義者はそれを無視ないしサボタージュすることができるからである。だが、広範な大衆が闘争に引き込まれる場合には、協定は双方にとって不可避となる。同じく、ファシズムとの闘争においては、改良主義者――社会民主主義的大衆のみならず、多くの場合、その指導者(たいていは一部の指導者)も――との実践的協定を妨げることはできないだろう。このような展望はすでに、オーストリアのみならず、ドイツにおいてもそれほど遠い先のことではないだろう。

 第10回総会の指令は、死ぬほどびっくり仰天した日和見主義者の心理から出てきたものにすぎない。スターリン、モロトフ、といった連中は、昨日までは蒋介石、汪兆銘(13)、パーセル、クック(14)、ラフォレット(15)、ラディッチ(16)の同盟者であったにもかかわらず、現在はもちろん、左翼反対派が第2インターナショナルとのブロックを支持していると絶叫している。しかしこの絶叫は、実際に左傾化した労働者階級が再び官僚の不意を打ったときには、官僚が「第四期」ないし「第三期の第2段階」を呼号することを妨げはしない。その時になれば、モロトフのような連中は、少なくともその「両足」を、英露委員会や労農国民党のような日和見主義的実験の時代に踏み入れるだろう。

 

   自らの過去を忘れるな!

 フランス共産党の現在の指導者たちはみな、自分自身の、まだまったくほやほやの歴史を思い起してみるべきだろう。もっとも、コミンテルンの他の党も同じだが。何といっても彼らはすべて、若年層を除いて、労働者の左傾化の影響力のもと、改良主義者の隊列から出てきたのだから。だからこそ、われわれボリシェヴィキは、大衆の面前で明確な条件にもとづいて、左傾化しつつある改良主義者と協定してきたのだ。これら無数の協定のうちの一つは、たとえば、ツィンメルワルトである。にもかかわらず、昨日までの社会愛国主義者は、次のような自己満足的言明を行なう。大衆が実際に「革命的高揚の最前線」に接近しているときにも、カシャンやモンムッソーやテールマン等々の転換の新版(2度目はおそらく1度目よりはましであろう)は生じないとか、彼らとエピソード的な協定を結び、ついで21ヵ条の、あるいはおそらく42ヵ条の条件の前に立たせることによって――そして彼らが後退しはじめたときには、日和見主義の沼地のなかに頭から放りこむことによって――これらの紳士連の耳をつかんで革命的立場にひっぱり上げる、というような事態にはならない、と。

 公式の理論家たちは、共産主義内部において右派が現在強化されている事実について、「内部」の改良主義者が大衆の急進化によって肝をつぶしているからだとまったく誤って説明している。政治的心理学に対するまったくの無理解だ! 日和見主義というのは、きわめて大きな柔軟性と適応能力を持っている。大衆的上げ潮を感じたなら、ブランドラーやイレク(17)やラブストーン(18)は右にではなく左に移行する。とりわけ、議員としての自らの地位を維持することに何よりも心を配っているセリエやガルシェリのような老獪な出世主義者はそうである。たしかに、日和見主義者の左傾化能力は無限ではない。問題がルビコン河――決断、蜂起――にまで至ると彼らの大多数は右に飛び跳ねる。このことは、ボリシェヴィキのような鍛えぬかれた党の経験によってさえ証明されている(ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、カリーニン、トムスキー、ルナチャルスキー、等)。勝利ののち、日和見主義者は再び「左」に移行する、より正確に言えば、権力の側に移行する(ロゾフスキー、マルトゥイノフ、クーシネン、そして彼らの後を追って、ペッパー、カシャン、フロッサール)。しかし、フランスにおいては、事態が決定的瞬間に至るまではるかに遠い。そして、フランスの日和見主義者が現在左傾化しておらず、右に遁走しているすれば、それ自身が、大衆の革命運動がまだ存在してないこと、共産党が脆弱で、地方議員その他の出世主義者が、共産主義に敵対することで自らの地位を保持しようとしていること、こうしたことを示す正確な徴候である。このような腐った分子が脱党することそれ自体が、党にとって利益となるだろう。しかし不幸にも、現在の公式指導部の、不実で無責任で、冒険主義的であるとともに大衆追随的で卑怯な政策は、裏切り者にとって好都合な遮蔽物をつくり出し、本来共産主義の隊列の中に場所を占めるべきプロレタリア分子を日和見主義者の側に追いやっている。

※原注 ついでに言っておくと、プロレタリア政党ではなく「労農党」をつくり出すことによって、ルイ・セリエ一派は、東方向けに予定されていたスターリンの天才的定式を西方において具体化した。

 

   もう一度、戦争の脅威について

 混乱を増幅させるために、直接的な革命情勢の認識に、同じく直接的な戦争脅威の認識が付加されている。このテーゼを擁護してモロトフは、何を思ったか、そのすべての知恵を動員してヴァルガを攻撃している。ヴァルガは有名な理論的大臣であり、シェークスピア悲劇のポローニアス(19)のように、天気の状態を見ながら、左右の「王子」に向かって、調子のいいことを言うのをむねとしている。しかし、今回は、言う方向をまちがったようだ。外国の新聞や諸事実や数字についての知識が災いして、時機を失せずコミンテルンの子午線を、モロトフの左足が置かれている場所に移すことができなかった。ヴァルガは、決議に対し、次のようなうやうやしい修正をほどこした。

「帝国主義的矛盾は先鋭化しているが、帝国主義列強諸国はいずれも、現在のところ、戦争によって問題を解決することを合目的的とはみなしておらず、賠償問題の領域においては、一時的にこの矛盾を緩和しようとしている」。

 一見したところ、このウルトラ慎重なフレーズは完全に議論の余地のないものであるように見える。しかし、それでもやはり多少の追加的な思考力を必要とするので、モロトフは完全に切れた。いったい全体――とモロトフは絶叫する――主要な帝国主義列強諸国が現在いずれも、帝国主義的矛盾を戦争によって解決することを合目的的とみなしていないなどと、どうして考えることができようか。「誰もが知っているように(!)――謹聴、謹聴、モロトフのお話だ!――、新しい帝国主義戦争の危険性は日々強まっている」。にもかかわらず、ヴァルガは「正反対のことを言っている」。驚くべきことではないか? あろうことかヴァルガは、「ヤングの賠償案を執行した結果として、不可避的に矛盾が激化する」ことを否定している……。

 このような主張は、あまりにも馬鹿々々しく低レベルすぎて、皮肉でさえしゃっぽを脱ぐ。「誰もが知っているように、新しい帝国主義戦争の危険性は日々強まっている」。何とも強力な論理だ! 誰もが知っている? 不幸にも、このことは人類のごくわずかなパーセントにしか知られていないし、コミンテルンの新参の指導者でさえ、実際に戦争の危険性がどのように増大しているかについては、まったく知らない。ましてや、戦争の危険性が「日々」増大するというのは、大衆の左傾化が日々進行すると言うのと同じくナンセンスである。われわれが前にしているのは弁証法的過程であり、帝国主義的対立は一時的に緩和したり新たに強化されたりする。モロトフもたぶん聞いたことはあるだろうが、この過程全体の最も基本にある資本主義的生産力でさえ、けっして「日々」発展しているのではなく、恐慌と好況を通じて発展しており、生産力の衰退の時期もあれば、その大規模な破壊の時期(戦時)さえある。この基本線に沿って、政治的過程も展開されている。ただし、ますます激しい動揺をともなって、だが。

 賠償問題は1923年にルール占領をもたらした。これは、小さな規模での戦争の直接的な再現であった。しかし、この規模はドイツに革命情勢を作り出すに十分であった。ジノヴィエフとスターリンによって指導されていたコミンテルンと、ブランドラーによって指導されていたドイツ共産党は、この例外的な情勢を見逃した。ドーズ案が出された1924年は、ドイツにおける革命闘争が弱まった年であり、フランスとドイツとの矛盾が緩和しはじめた年であった。これによって、経済的安定化の政治的前提条件がつくり出された。われわれがこのことを声を大にして語ったとき、いや、より正確に言えば、1923年の終わりにこの発展の展望について予見したとき、モロトフをはじめとする賢者たちは、われわれのことを清算主義者と非難し、両足どころか、手足全部でもって、革命的高揚期にただちに突入したのである。

 安定期は新しい矛盾をつくり出し、一連の古い矛盾を先鋭化させた。ドーズ案を見直すことは緊急の課題となった。フランスがヤングの案を拒否し、ドイツも拒否したとすれば、ヨーロッパは今日すでにルール占領が繰り返される事態に――しかもはるかに大規模な形で――直面していたことだろうし、そこからあらゆる帰結が生じていただろう。しかし、これはあくまでも仮定の話である。すべてのゲーム参加者は、現時点においては、協定に入ることをより分別のあることとみなした。それゆえ、われわれが目にしているのは、第2のルール占領ではなく、ライン地方の浄化である。無知は物事の混同を特徴としており、理解は物事の区別から始まる。マルクス主義はけっして無知に甘んじることはできない。

 しかし――とわが戦略家は叫ぶ――、「ヤングの賠償案を執行した結果として」、今後、不可避的に「矛盾の激化」が訪れるに違いないのではないか? 訪れるに違いない! ただし、結果としてだ。だが、物事の連続性とその交替の弁証法を理解しなければならない。資本主義の好景気の結果として、不可避的に不況が訪れるし、時には先鋭な恐慌が訪れる。しかし、だからといって、好景気が景気の低迷と同等であるとか、恐慌が「日々」激化するということには、けっしてならない。人間は生きた「結果」として死に旅立つ。しかし、だからといって、人間は、死に至るまでに、幼年期、成長、病気、成熟、老化といった諸段階を通らない、ということにはならない。無知は物事の混同を特徴としている。知恵のリンゴは物事を区別することを教える。しかし、モロトフは、この果実を食したことは一度もないようだ。

 現在の指導部による惨めな図式主義はけっして罪のない無邪気なものではない。反対に、それは、一歩ごとに革命に打撃を与える。ソヴィエトと中国との衝突は、思いがけなく、戦争の脅威に反対しソ連を擁護するべく大衆を動員する必要性を生じせしめた。疑いもなく、この途上において共産党は、現在の諸条件のもとであっても、かなりの成功を勝ち取ることができたはずである。そのために必要なのは、アジテーションにおいて、事実そのものに語らしめることである。しかし、運悪く、極東での衝突が起きたのは、8月1日行動の準備がたけなわの頃であった。公式のアジテーターとジャーナリストが、戦争一般と脅威一般について絶え間なくヒステリックに叫んだために、現実の国際的衝突はこの絶叫のなかに埋没してしまい、ほとんど大衆の琴線に触れなかった。このように、現在のコミンテルンの政策においては、官僚主義的図式の痩せた雄牛は、生きた現実という肥え太った雄牛をむさぼり食っているのである。

 戦争の脅威に対する闘争という問題に関連して、もう一度、「第2期」の戦略を振り返ってみることが必要であろう。総評議会とブロックを維持する主要な根拠として当時持ち出されていたのは、戦争の脅威と共同で闘う必要があるというものであった。1927年7月の中央委員会総会において、スターリンは、イギリスの労働組合がイギリス帝国主義と闘う上でわれわれを助けてくれるだろう、したがって、スト破りとの決裂を要求することができるのは、ソ連の防衛を真剣に考えていない連中ぐらいなものだ、という論拠でもって、総評議会とのブロックを正当化した。したがって、1926〜27年において、イギリス労働者の左傾化のみならず、戦争の危険性もまた、改良主義者とのブロックを正当化する主要な論拠だったわけである。ところが今では、大衆の急進化に加えて、戦争の脅威の接近ということが、いかなる場合でも改良主義者との協定をきっぱり拒否する根拠とされているのである。かくして、どの問題も、できるだけ先進労働者の頭を混乱させるよう立てられてる。

 疑いもなく、戦争の場合には、あるいは、その危険性が現実かつ明白に接近した場合には、改良主義者は完全に自国のブルジョアジーと共同する。戦争に反対する闘争において彼らと協定を結ぶことは、プロレタリア革命を実行するために彼らと協定することが不可能なのと同じように不可能である。まさにそれゆえ、スターリンのごとく、英露委員会を帝国主義と闘うための武器として描きだすことは、労働者を欺く犯罪的行為なのである。しかし、重要なのは、歴史には戦争と革命だけでなく、戦争と革命の間の時期、すなわちブルジョアジーが戦争の準備をし、プロレタリアートが革命の準備をする時期もあるということである。われわれは現在、まさに後者の時期にいる。われわれに必要なのは、改良主義者――近年、彼らは弱まっているのではなく、強化されている――の側にいる大衆を獲得することである。しかしながら、改良主義者は、強化されることで、かえって、そのプロレタリア的基盤の発展過程にいっそう強く依存するようになっている。統一戦線の戦術は完全にこの依存関係に立脚している。しかし、この戦術を、ジノヴィエフ流や、ブランドラー流、スターリン流やブハーリン流に実行してはならない。この問題においても、レーニンに立ち返ることが必要である。

 

   共産主義内の諸潮流

 「第三期」の教義問答書とは無縁の左翼反対派は、モンムッソーのような曲芸師によって再び右翼偏向者として非難されるだろう。このような非難に対し、われわれは、この6年間の経験に照らして、まったく落着き払って対処することができる。コミンテルン第3回大会においてすでに、私とレーニンを右翼偏向と非難した紳士諸君の多くが、今では社会民主主義に移行しているか、あるいは一時的にブランドラー的段階にとどまっているだけに、なおさらである。コミンテルン第5回大会の時に、「トロツキズム」を糾弾した主要人物の一人がルイ・セリエであったことを思い起こすだけで十分だろう。

 しかしながら、右派分子が実際に、われわれの批判の個々の要素を利用しようとするだろうことは疑いない。このことはまったく不可避である。右派の判断のすべてがすべて誤りであるなどと考えるべきではない。右派が、左翼冒険主義のはねかえりに対し非常に説得的な批判をするのはよくあることである。この限界内においては、彼らはマルクス主義的批判を大いに利用する。そして、マルクス主義の煙幕に隠れて、冒険主義に対し日和見主義を対置するのである。

 しかしながら、つけ加えておく必要があるが、自らを左派とみなす十分な根拠を有している反対派の隊列の中にも、つい最近まで、部分的には現在においても、次のような人々がいる。すなわち、1924年にわれわれに加わった人々で、われわれが国際革命の立場を擁護しているからではなく、単に、われわれがジノヴィエフ的冒険主義に反対しているから加わったという人々である。多くの潜在的日和見主義者は、当時フランスで、ロシア反対派の保護色を身につけた。彼らの一部は、つい最近まで、無条件に(sans reserves )われわれに同意しているということを自慢げに言いふらしさえしていた。だが、反対派の見解を擁護するための闘争が現実に切迫したものとして提起されると、深淵がこれらの「サロン的」反対派分子をわれわれから引き離した。彼らは、革命情勢なんぞこれっぽちも望んでいなかったので、なおさら進んで、革命情勢の存在を否認した。

 多くの善良な人々は、われわれが容赦なく左翼反対派と右翼反対派との間にくさびを打ち込んでいることに心底がっかりした。われわれは、現在の共産主義陣営における3つの基本的潮流を分類したが、彼らはそれを恣意的と呼び、フランスではそのような分類は非現実的であり、右派なるものは存在しないと主張した。しかしながら、この数ヵ月の諸事実は、国際的な「図式」がフランスにおいても肉と血をもった存在であることを教えた。「サンディカリスト連盟」(20)はこれみよがしに共産主義に反対する闘争の旗を掲げ、このことのうちに、2級のサンディカリスト反対派との共通の基盤を見出した。ちょうどその頃、最も改良主義的な分子が共産党から離脱し、官僚主義的冒険主義に対する反対闘争を利用して、新党の名のもとに自らの議席を保持しようとした。そして、ただちに、その政治的親和的ゆえに、右派のサンディカリスト反対派は、新しい議会的・自治体的「党」と結びついた。こうして、すべての勢力がしだいにその所を得ていった。この点で、『ラ・ヴェリテ』は少なからぬ役割を果たした。

 直線は2つ点によって決定される。しかし、曲線を決定するには、少なくとも3点が必要である。政治の路線はきわめて複雑で曲がりくねっている。さまざまな潮流を正しく評価するためには、いくつかの時期――革命的高揚期と引き潮の時期――に即してそれらの潮流を取り上げなければならない。共産党における左翼反対派の正確な軌道を描きだすことは、紙に一連のターニング・ポイントを書き出す場合のみ可能になる。1923年のドイツの事件に対する態度、1924年の安定化の問題、1923〜28年における工業化とクラークに対する態度、中国国民党と英露委員会の問題、広東蜂起の問題、「第三期」の理論と実践の問題、等々。これらの問題はいずれも一連の戦術的課題を有している。機構に巣食う火事場泥棒たちは、諸思想と諸スローガンの複雑な体系から個々のフレーズを抜き出し、それにもとづいて、左派と右派との和解という思想を組み立てようとしている。マルクス主義者は、問題の全体を取り上げ、さまざまな情勢を貫徹している戦略的思想の統一性を導きだす。この方法は、すぐに結果を出すわけではないが、唯一確かな方法である。火事場泥棒には火事場泥棒をさせておこう。われわれは明日を準備するだろう。

プリンキポ、1930年1月8日

 

   必要な補足

 1月7日付『ユマニテ』は、われわれが利用したものよりも新しい公式資料にもとづいて、1919〜1928年までのフランスにおけるストライキ件数に関する統計資料を掲載している。われわれはそれを以下に転載する。

ストライキ件数

参加人員

1919

2111

121万1242

1920

1911

146万2228

1921

570

45万1854

1922

694

30万 583

1923

1114

36万5868

1924

1083

27万4865人

1925

931

24万9198

1926

1060

34万9309

1927

443

12万0551

1928

943

22万2606

 

                  

                     

                     

                       

                       

                      

                      

                       

                      

                       

 

 

 この表は、この3年間のストライキ件数に関するわれわれの計算に若干の変更を加えている。しかし、この変更は、われわれの結論を弱めるどころか、むしろ強化するものであることを指摘するのは困難ではない。この10年間におけるフランスのストライキ運動の最低点は1927年である。1928年に多少の上昇が始まっている。共産党機関紙のデータにもとづいて、われわれは近似的に、1928年におけるストライキの統計数値を400件、45万人と規定しておいた。1929年については、『ユマニテ』は50万人という統計数値を与えているが、これは彼ら自身のデータからさえ正当化されないものであるが、彼らはこの数値にもとづいて、昨年に比して1929年にストライキ運動が急成長を遂げたという結論を引き出している。このことは、この党機関紙が1928年の公式の数値を過小であると非難するのを妨げなかった。こうして、同じ数値から2つの直接に矛盾する結論が導きだされる。

 しかし、この2年間における『ユマニテ』自身の数字を取り上げるなら、1929年におけるストライキ運動の高揚ではなく、むしろその多少の下降さえもが示される。しかし、この思いがけない結論は、単に、『ユマニテ』による1928年の数値の水増しが、1929年の場合と比べてより大胆であったということで説明される。1929年の政府の統計数値は概算としてもまだ発表されていない。それゆえ、昨年と比べてこの1年間にストライキ数が増大したという言い分は、『ユマニテ』の過大に評価された1929年の数字と、政府の過小に評価された1928年の数字とを比べるという、まったく許しがたい比較にもとづいているのである。

 いずれにせよ、すでに取り上げた公式の表から明らかなのは、革命的高揚の最初の年と宣言された1928年におけるストライキの数が、1927年を唯一の例外とすれば、この10年間で最も少ない数値だということである。それにもかかわらず、フランスをいわば「革命的高揚の最前線」として押し出した「第三期」の全診断は、もっぱらではないにせよ主として、ストライキ運動の事実にもとづいていた。したがって、全体としての結論は変わらない。すなわち、このような武器、このような手法にもとづくなら、前方に控えているのは敗北だけである!

『反対派ブレティン』第8号

『トロツキー研究』第29号より

 

  訳注

(1)カシャン、マルセル(1869-1958)……社会党出身のフランス共産党指導者。『ユマニテ』の編集者。第1次大戦中は社会愛国主義派。1918年に中央派に。コミンテルン第2回大会でフロッサールとともにフランス社会党を代表。1920年12月のトゥール大会でフランス社会党のコミンテルン加入を訴える。フランス共産党内では中央派。その後、忠実なスターリニストとなり、死ぬまでその立場を堅持した。

(2)モンムッソー、ガストン(1883-1960)……フランスの労働運動家、スターリニスト。1920年の鉄道ストライキを指導。1925年にサンディカリストからフランス共産党へ。フランス共産党の労働官僚となり、CGTU(統一労働総同盟)、後にCGT(労働総同盟)を指導。

(3)シャンブラン、モーリス(1901-1966)……フランスのサンディカリスト左派。1924年にフランス共産党を離党してモナット派に。

(4)統一労働総同盟(CGTU)……1921年に労働総同盟(CGT)から分裂して結成。多数派はスターリニスト。

(5)ヴァサール、アルベール(1898-1958)……フランスの労働運動指導者、フランス共産党指導者、スターリニスト。1921年にフランス共産党に入党。共産党系の労働組合連合体であるCGTUの書記。1929年に党政治局員。1934〜35年の人民戦線戦術の主要な担い手の一人。戦後は反共主義者に。

(6)ヴァイトリング、ヴィルヘルム(1808-1871)……ドイツの空想的共産主義者。ドイツで「義人同盟」という労働者組織を結成し、1848年に逮捕される。1849年にアメリカにわたり、共産主義共同体をつくるが失敗。

(7)セマール、ピエール(1887-1942)……サンディカリスト出身のフランス共産党の指導者。1920年にフランス共産党が創設された時に入党。その後、CGTUの指導部に。1924〜29年に党書記長。同時期、コミンテルン執行委員会とその常任委員会のメンバー。1939年に逮捕、1942年にナチスによって銃殺される。

(8)セリエ、ルイ(1885-?)……フランスの共産党指導者。1923年に党書記長。1929年に除名された6人の地方自治体議員の一人。

(9)トーマス……次の2人のうちどちらかを指していると思われる。

 トーマス、ジェームズ(1874-1949)……イギリスの労働組合運動家、労働党政治家。鉄道労働組合出身で、1911年に全国鉄道ストライキを指導。1918〜31年、全国鉄道産業従業員組合書記長。1920年、労働連合会議議長。1910〜36年、労働党の下院議員。1924年、第1次労働党内閣で植民地相。1931年、マクドナルドともに自由・保守両党との挙国一致内閣に入閣し、労働党を除名。1930〜35年、自治領相。

 トーマス、アルベール(1878-1932)……フランス社会党の右派指導者。第1次世界大戦中の挙国一致内閣に入閣。

(10)ミュラー、ヘルマン(1876-1931)……ドイツ社会民主党の指導者で、1928年6月から1930年3月までドイツの首相。トロツキーがドイツへの亡命権を申請したとき、そのビザ発行を拒否した責任者。このミュラー政府は社会民主党を中心とする連合内閣であったが、景気の停滞と賠償支払いの圧迫の中で、左右からの追撃を受けて1930年3月27日に辞任。

(11)ルノーデル、ピエール(1871-1935)……フランス社会党の右派指導者。大戦前はジョレスの右腕的存在。1915〜18年に『ユマニテ』の編集長。第1次世界大戦中は排外主義者。

(12)ジュオー、レオン(1879-1954)……フランスの労働運動指導者、アナルコ・サンディカリスト、労働総同盟の長年にわたる議長。1919年以降、アムステルダム・インターナショナルの指導者の一人。

(13)汪兆銘(1884-1944)……中国の国民党左派指導者。武漢政府の首班。コミンテルンは、蒋介石の1927年4月のクーデター後、この武漢政府をたよりにしたが、汪精衛はこのクーデターからわずか6週間後に労働者弾圧を開始した。1929年から31年まで反蒋運動に従事。対日妥協政策を主張し、抗戦派と対立。1940年、日本の傀儡政権を南京に樹立し、その主席となる。日本の名古屋で病死。

(14)アルバート・パーセル(1872-1935)、アーサー・クック(1885-1931)……両名ともイギリス労働組合運動の指導者で、英露委員会の指導者。

(15)ラフォレット、ロバート(1855-1925)……アメリカのブルジョア政治家で、1924年に進歩党の候補者として大統領選に立候補。

(16)ラディッチ、ステファン(1871-1928)……クロアチアの民族主義者。1924年に農民インターナショナルに参加。

(17)イレク、ボフミル(1892-1963)……チェコスロバキアの共産党指導者。1921年の党創立時から書記長。ブハーリニスト。ブハーリンの没落とともに1929年に除名。その後いっそう右傾化。

(18)ラブストーン、ジェイ(1898-?)……アメリカ共産党の指導者、ブハーリン派。1929年に、モスクワの指令によって除名。ラブストーン・グループは、他の右翼反対派傾向と同じように、第2次世界大戦まで存在した。ラブストーン自身は、後にAFL・CIO会長ジョージ・ミーニーの冷戦問題国際関係顧問となった。

(19)ポローニアス……ハムレットの登場人物で冗舌な内大臣。

(20)サンディカリスト連盟……1926年にモナットとその支持者たちが結成した組織。


  

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