スペイン革命

トロツキー/訳
志田昇

【解説】これは、1931年1月に書かれたトロツキーによる最初の本格的なスペイン革命論である。1930年にプリモ・デ・リベラの独裁が崩壊し新たな革命の波が起こり始めたスペインに対しトロツキーは並々ならぬ関心を寄せた。ヨーロッパの中では非常に後進的でありながら社会主義の伝統が強いスペインはある意味で、かつてのロシアと同じような複合的な社会状況があり、永続革命論の古典的国の一つであると考えられたからである(もちろん、両国の重要な相違についてもきちんとふまえられている)。

 トロツキーは、第1次大戦勃発後にウィーンからスイスに亡命し、そこからフランスに移動して、戦中はそこで主に活動したわけだが、戦況が深刻になるにつれ、ついにはフランスでも活動が続行できなくなり、一時、スペインに追放される。この短いスペイン滞在については、トロツキー自身、『わが生涯』で詳しく書いているが、誰も話し相手がいなかったスペインで、トロツキーは、図書館にこもり、スペインの言語・社会・歴史について熱心に学ぶ。このときの経験が、今回の論文で遺憾なく発揮されている。トロツキーは、永続革命の図式から出発するのではなく、スペインの生きた現実から出発して、スペインにおける共産主義者の任務について具体的に定式化しており、変革の立場からの社会分析の生きた見本となっている。

 また、この論文の中で肯定的に言及されている「タルキン」ことアンドレウ・ニンは、スペインのカタロニア出身の革命家で、もともとはサンディカリストだったが、ロシア革命の衝撃のもと共産主義者となり、ロシアにおもむいて、コミンテルンの運動に参加した。彼は、トロツキーらによる左翼反対派の闘争が始まるとそれに参加し、運動の敗北後に追放され、スペインで左翼反対派(「左派共産党」)の建設に従事する。トロツキーとニンとはロシア時代からの付き合いであったため、ソ連追放後も熱心に書簡を交し合っていたが、その後、さまざまな事情からトロツキーとの間で深刻な意見の相違を経験する。ニン率いる左派共産党は、1935年に、ホアキン・マウリンを指導者とする労農ブロックと統合してマルクス主義統一労働者党(POUM)を結成し、比較的大衆的な革命政党の建設に成功する。ニンは、1936年のスペイン革命およびその後の内戦において重要な役割を果たすが、スターリニストによって拉致され、拷問の挙句、惨殺される。トロツキーは、ニンとの間の深刻な対立にもかかわらず、ニンの死に際して、ニンを称える追悼文を書いている。

Л.Троцкий, Испанская революция, Вюллетень Оппозиции, No.19, Марта 1930.

Trotsky Institute of Japan


   1、古いスペイン

 資本主義の鎖は、その最も弱い環で再び断ち切られようとしている。今度はスペインの番である。この国の革命運動は、イベリア半島に秩序が速やかに回復すると信じる可能性を、全世界の反動勢力からあらかじめ奪ってしまうほど力強く発展しつつある。

 スペインがヨーロッパで最も遅れた国の一つであることは間違いない。しかし、その後進性は、この国の偉大な歴史的過去によって背負わされた特殊性を有している。帝政ロシアが常に西欧の近隣諸国からはるかに遅れ、その圧力の下で緩慢に発展してきたのに対して、スペインは繁栄の絶頂期、ヨーロッパの他の諸国に対する優越と南アメリカに対する支配の時期を経験している。国内商業と外国貿易の力強い発展は、各地方の封建的分散状態や、国内の民族的地域の地方割拠主義をますます克服していった。スペイン王政の力と重要性の増大は、その数世紀の間、商業資本の中央集権化作用やスペイン国民の漸進的形成と切り離しがたく結びついていた。

 当初スペインを豊かにし発展させたアメリカ発見は、その後、スペインに不利に作用した。大きな通商路がイベリア半島を離れたのである。豊かになったオランダがスペインから分離独立した。オランダに続いて、イギリスが長期にわたってヨーロッパに君臨した。すでに16世紀の後半には、スペインは没落に向かっていた。無敵艦隊の壊滅(1588年)以後、この没落は、いわば公認のものとになった。マルクスが「不名誉で長期にわたる腐敗」と呼んだ状態が封建的・ブルジョア的スペインにのしかかった。

 古い支配階級と新しい支配階級――一方では、土地貴族・カトリックの聖職者と彼らを基盤とした王政、他方では、ブルジョア諸階級とそのインテリゲンツィア――は、旧来の特権を維持しようと執拗に試みたが、残念ながら、以前のような資源はもうなかったのである。1820年、南アメリカの植民地が完全に分離独立した。1898年にキューバを喪失したことによって、スペインは植民地をまったく失ってしまった。モロッコでの冒険は、国を荒廃させ、それでなくても大きかった人民の不満を増幅したにすぎなかった。

 スペインの経済発展の遅れは、不可避的に資本主義に固有の中央集権的傾向を弱めた。都市の商工業生活と都市間の経済的結びつきの衰退は、不可避的に個々の地方の相互依存を弱めた。ブルジョア的スペインが伝統的地方の遠心的傾向を今日に至るまで克服できなかった主な理由は、以上のようなものである。国全体の経済資源の乏しさと国のあらゆる部分の満たされない感情とが分離主義的傾向を育まざるをえなかった。スペインの地方割拠主義は、大革命によって古い封建的な地方に対する単一不可分なブルジョア国家の支配が完全に確立された隣国フランスにくらべて、とりわけ際立った根強さを示している。

 経済的な沈滞は、新しいブルジョア社会の形成を許さなかっただけでなく、旧来の支配階級をも同様に蝕んでいた。尊大な貴族も傲慢さをしばしば穴だらけのマントで覆い隠していた。教会は農民を絞り取ってはいたが、時には王政からの収奪に甘んじざるをえなかった。このスペイン王政は、マルクスの指摘によれば、ヨーロッパの絶対主義よりも、アジア的な専制主義と多くの共通点を持っていた。これはどういうことだろうか。ツァーリズムとアジア的専制主義との比較がしばしば行なわれるが、こちらの方が地理的に見ても歴史的に見ても自然に見える。しかし、スペインに関しても、この比較は完全に有効である。違いは、ツァーリズムが、貴族階級と原始的な都市の中枢部の極度に緩慢な発展にもとづいて形成されたという点にあるにすぎない。これに対して、スペイン王政は、国の没落と支配階級の退廃という条件の中で形成された。力を強めつつある都市が旧来の特権的身分に対して闘争を行なうことを通じてはじめてヨーロッパ絶対主義が発展したのに対し、スペイン王政は、ロシアのツァーリズムと同じく、古い諸身分と都市が無力であったおかげでその相対的な強さを獲得したのである。この点に、アジア的専制主義との明瞭な類似性がある。

 経済においても政治においても遠心的傾向が求心的傾向に勝っていたために、スペインの議会主義はその足元から掘り崩された。選挙民に対する政府の圧力は、断固たるものであった。過去1世紀のあいだ、選挙の結果はいつも政府側に多数を与えてきた。国会はその時々の内閣に依存していたから、内閣自体は、当然ながら王政に依存するようになった。マドリードは選挙を行ない、権力は国王の手に落ちるのだった。国家を自らの名のもとに支配する能力のない分散し中央集権化されていない支配階級にとって、王政は特別に欠くことのできないものであった。そして、国家全体の弱さを反映するこの王政は――クーデターとクーデターとのあいだは――国家に自分の意志を押しつけることができる程度には強力であった。要するに、スペインの国家制度は、周期的な軍事クーデターによって限定された、堕落した絶対主義と呼ぶことができる。アルフォンソ13世(1)という人物は、堕落という点から見ても、絶対主義的傾向という点から見ても、クーデターに対する恐怖という点から見ても、この統治体制を実によく体現している。国王の駆け引きや裏切り、背信行為、一時的に連合した敵に対する勝利などは、アルフォンソ13世の性格そのものにもとづくものでは少しもなく、統治体制全体の性格にもとづいているのである。アルフォンソ13世は、曾祖父フェルナンド7世(2)の不名誉な歴史を、新しい状況のもとで繰り返しているにすぎない。

 王政と並んで、そして王政と同盟して、聖職者はもう一つの中央集権的勢力である。カトリックは、今日なお国教である。聖職者は反動の最も堅固な柱であって、国家の中で大きな役割を果たしている。国は毎年、教会のために、数千万ペセタの金を費やしている。僧侶の数は非常に多く、莫大な財産を所有し、今なお大きな影響力を持っている。修道僧・修道尼は7万人にも達する。この数は中等学校の生徒総数にひとしく、大学生の数の2倍以上である。こうした条件のもとでは、人口の45%が読むことも書くこともできないのも当然である。もちろん、読み書きのできない人々の大多数は農村部に集中している。

 カール5世(カルロス1世)(3)時代の農民は、スペイン帝国の強大さからほとんど利益を受けなかったが、後年、帝国没落の重荷を背負されたのは、彼らだった。農民は何世紀もの間、みじめな生活を送り、多くの地方では飢えた生活を送ってきた。今でも人口の70%以上を占めている農民は、国家構造の主要な重荷をその背で支えているのである。土地や水が足りず、小作料は高い。農機具や耕作法は原始的で、税金は高い。教会にも寄付をしなければならない。工業製品の価格は高い。農業人口は過剰だ。浮浪者、乞食、修道士はいっぱいいる。これがスペイン農村の姿である。

 農民のこうした状況ゆえに、ずっと以前から、農民は何度となく蜂起を起こしてきた。しかし、そのような血なまぐさい爆発も、全国的な規模ではなく地域的なものであり、実にさまざまな色彩、たいていは反動的な色彩を帯びていた。スペインの諸革命が一般に小革命であったように、農民蜂起は、小戦争という形をとった。スペインは「ゲリラ戦」の古典的な国なのである。

 

   2、スペインの軍隊と政治

 ナポレオンとの戦争の後、スペインに新しい勢力が生まれた。すなわち、政治化した将校がそれである。彼らは、大帝国の廃墟を相続したかなり凋落している支配階級の若い世代である。

 地方割拠主義と分離主義のはびこるこの国では、軍隊は必然的に中央集権的勢力として大きな意義を持った。軍隊は、王政の支柱となったばかりでなく、支配階級のあらゆる部分の不満、とくに軍隊自体の不満の表現手段となった。官僚層と同じく、将校も、国家に何よりもまず生活の手段を要求する分子――これがスペインには非常に多くいる――から集められる。だが、「教養ある」社会のさまざまなグループが抱いている食欲は、国家や議会やその他の官職の総計をはるかに越えているので、それを手に入れ損ねた者の不満は共和党を強めた。だが、この共和党も、スペインのその他のあらゆる集団と同じく不安定なのである。しかし、この不安定さの背後には、しばしば心からの激しい憤りが隠されているから、時には共和主義運動が果断で勇敢な革命的グループを生み出すこともあった。彼らにとって、共和国という言葉は、救済の神秘的スローガンなのである。

 スペイン軍の総兵力は約17万人で、そのうち1万3000人以上が将校である。これに1万5000人の水兵を加えなければならない。将校団は国家の支配階級の道具でありながら、兵士大衆を自分の陰謀に引き込む。このことによって兵士の独立した運動が発生する条件が作られる。すでに、過去においても、下士官たちは将校ぬきで、そして将校に反抗して政治に介入したことがある。1836年にはマドリード守備隊の下士官が反乱を起こし、女王に憲法を発布するよう強要した。1866年には、軍隊内の貴族的秩序に不満を持った砲兵下士官が反乱を起こした。とはいえ、指導的役割は過去においてはやはり将校のものであった。政治的に無力だった兵士たちは、自分の不満がもっと深い他の社会的原因に根ざしたものであったにもかかわらず、将校の不満分子に従っていたのである。

 軍隊内の矛盾は、普通、軍務の違いに一致している。武器の種類が熟練を要するようになればなるほど、つまり、それが兵士と将校に知性を要求するものであればあるほど、彼らは革命的理念を受け入れやすい。騎兵が普通王政支持であるのに、砲兵は大部分共和派である。最新の武器を扱う空軍パイロットが革命の側につき、その職務につきものの個人主義的冒険主義の要素を革命に持ち込んだのも驚くにあたらない。しかし、最も重要なのは依然として歩兵である。

 スペインの歴史は絶え間のない革命的動乱の歴史である。軍事クーデターや宮廷革命があいついで起こった。19世紀全体および20世紀のはじめの3分の1の間、政治体制は絶えず変化し、その体制の一つ一つの内部でも、内閣が目まぐるしく変わった。スペインの王政は、有産階級のいずれにも、――彼らはみなそれを必要としていたにもかかわらず――十分に安定した支柱を見い出すことができなかったために、一度ならず自分の軍隊に依存することになった。しかしスペイン各地方の分散した状態は、軍事的陰謀の性格にも影響を与えていた。陰謀グループ間のつまらない張り合いは、スペインの革命がそれを指導する階級を持っていないことの外的現れに他ならなかった。まさにこのために、王政はいつも新しい革命に勝利したのである。しかし、秩序が回復してしばらくすると、慢性的危機がまたもや勃発するのだった。次々に転覆されていったこれらの体制は、どれも大地に深い痕跡を残さなかった。どの体制も、支配階級の法外な食欲と要求を満たすことのできない乏しい歳入からくる難題と戦うことで、たちまち消耗した。われわれはとりわけ、最近の軍事独裁がいかに無様に終わりを告げたかを目撃した。恐るべきプリモ・デ・リベラ(4)は、新たな軍事クーデターすらなかったのに没落した。彼は、釘の刺さったタイヤのように、ただしぼんだだけなのである。

 これまでのスペインの革命は、すべて少数者に反対する別の少数者の運動であった。支配階級と半支配階級とが、焦燥感にかられて国家というパイを奪い合っていた。「永続革命」という言葉を、社会革命の発展が最も断固たる意志を持つ階級の手に権力を移し、その後この階級が権力を行使していっさいの階級を廃止し、したがって、新しい革命の可能性そのものを取り除く、という意味に理解するならば、スペインの諸革命はその「継続性」にもかかわらず、永続革命とはいささかの共通点も持たない。これはむしろ、進歩からとり残された国民の悪性の病を示す慢性的痙攣である。

 たしかに、ブルジョアジーの左翼、特に若いインテリゲンツィアは、以前からスペインを共和国に変えることを自己の任務としていた。スペインの学生は、主として、将校たちとほぼ同じ理由で不満を感じている青年層から形成され、その数にはまったく不相応な影響力を行使するのが常であった。カトリック反動勢力の支配は大学の反政府勢力をなおさら刺激し、この反政府派に反教権主義的性格を与えた。しかしながら、学生には社会体制をつくり出すことはできない。学生を指導しているスペインの共和党員は、極めて保守的な社会的綱領を有している。この共和党員たちは、今日の反動的フランスを理想としており、共和国といっしょに富も手に入れるつもりでいた。それゆえ、フランスのジャコバン党の道をとるつもりはまったくなく、そうする能力もない。大衆に対する恐怖が、王政に対する憎悪よりも強いからである。

 ブルジョア社会の亀裂と間隙がスペインにおいては支配層の脱落分子、官職と収入を求めるおびただしい数の人間によって埋められているのに対して、底辺の土台の亀裂で同じ役割を果たしているのは、おびただしい数のルンペン・プロレタリア、勤労諸階級の脱落分子なのである。ネクタイを絞めたルンペンも、ボロをまとったルンペンと同じように、社会の流砂を形成している。彼らは、革命がその真の推進勢力と政治的指導を見出さない場合には、革命にとってますます危険な存在となろう。

 プリモ・デ・リベラ独裁の6年間は、あらゆる形の不満や反乱を押しつぶし、押さえこんだ。しかし、この独裁も、スペイン王政の不治の病を患っていた。つまり各階級の一つ一つに対しては強力だったが、国の歴史的要求に対しては無力だったのである。それゆえに、最初の革命の波が届かないうちにもう、独裁は財政困難その他の暗礁に乗り上げて難破してしまったのである。プリモ・デ・リベラの失脚はありとあらゆる不満と希望を呼び起こした。こうしてベレンゲル将軍が革命を迎えるドアマンとなったのである。

 

   3、スペインのプロレタリアートと新しい革命

 この新しい革命の中にも、一見したところ、以前の一連の革命と同じ要素を見い出すことができる。すなわち、背信的な王政、国王を軽蔑しながら国王の前で平伏する保守主義者や自由主義者の分立した諸派、いつでも裏切る用意のある右翼共和党と、いつでも冒険する用意のある左翼共和党、あるものは共和国を望み、他のものは昇進を望んでいる陰謀将校、父親に不安な面持ちで見守られている不満学生たち、そして、いろいろな組織に分裂しているストライキ労働者と、鋤にも小銃にさえも手を伸ばしている農民である。

 しかしながら、現在の危機が、これまでのすべての危機とそっくり同じ経過をたどると考えるのは、重大な誤りである。ここ数十年、特に世界大戦の数年間は、国の経済と国民の社会構造に大きな変化をもたらした。もちろん、スペインは今日でもなお、ヨーロッパで最も遅れた国である。だが、国内では独自の産業が発展しつつある、鉱業と軽工業がそれである。戦時中は石炭産業、繊維工業、水力発電所の建設等々がいちじるしく成長した。産業中心地と工業地帯が各地で発展をとげた。これによって、新しい力関係が生まれ、新しい展望が開けた。

 工業化の成功は、国内の諸矛盾をいささかも緩和するものではない。反対に、スペインが中立国として戦争の慈雨の下で産業を発展させたという事情は、戦争が終わって、一時的に拡大した外国の需要がなくなると、新しい困難の原因となった。外国市場が消失したばかりではなく――世界貿易に占めるスペインの割合は、現在の方が大戦前より少ないぐらいである(1・2%に対して1・1%)――独裁体制は、ヨーロッパで最も高い関税障壁によって、国内市場を外国商品の流入から守らなければならなかった。関税を高くしたために、物価が高騰し、もともと低かった国民の購買力をいっそう低下させた。このために、戦後、産業は、一方では慢性的失業として、他方では階級闘争の爆発として現れる沈滞状態を脱することができないのである。

 イギリスやフランスのブルジョアジーがかつて果たした歴史的役割をスペイン・ブルジョアジーに期待することは、今では19世紀よりもはるかに困難である。あまりにも遅れて登場したために外国資本に従属し、人民の体にヒルのように吸いついているスペインの大工業ブルジョアジーは、たとえ短期間でも旧来の諸身分に対抗する「国民」の指導者になることができない。スペイン産業界の大立物たちは、人民に敵対し、内部で互いにいがみ合っている銀行家、実業家、大地主、王政、将軍、官僚からなる最も反動的な連合の一部を形成しているのである。プリモ・デ・リベラ独裁体制の最大の支柱が、カタロニアの工場主たちであった事実を指摘するだけで十分であろう。

 しかし、産業の発展はプロレタリアートを立ち上がらせ、強化した。2300万人の人口――国外への移民がいなければこの数はもっとずっと多かったであろう――の中で工業、商業、運輸に従事している労働者は150万人を数える。これに、ほぼ同じ数の農業労働者を加えなければならない。スペインの社会生活は、革命的諸問題の解決を引き受けることのできる階級が現れない限り、悪循環を続ける運命だった。歴史の舞台にスペイン・プロレタリアートが登場したことは、この状況を根本的に変え、新しい展望を開いた。このことを正しく理解するには、まず、大ブルジョアジーによる経済支配の確立とプロレタリアートの政治的重要性の増大とが、国の政治生活において指導的地位を占める可能性を小ブルジョアジーから完全に奪ったことを理解しなければならない。したがって、現在の革命的激動が国民生活の基礎そのものを変革しうる真の革命を生み出し得るかどうかという問題は、スペイン・プロレタリアートに国民生活の指導を引き受ける能力があるか否かという問題に帰着する。スペイン国民の中には、他にこの役割に挑戦しうる者はいない。そのうえ、ロシアの歴史的経験が十分にはっきりと示したように、半封建的関係の網の目に包まれた後進的農業国においては、大工業によって結合されたプロレタリアートが特別の重要性を持っているのである。

 スペインの労働者がすでに19世紀の諸革命に戦闘的に参加したのは事実だが、それはいつもブルジョアジーに引きずられてであり、いつも副次的勢力として2次的な位置にあった。労働者の独立した革命的役割は、20世紀初頭の25年間に強化された。1909年におけるバロセロナの蜂起(5)は、カタロニアの若いプロレタリアートにどんな力があるのかを示した。直接的な蜂起に移行した多数のストライキがスペインの他の地方でも起こった。1912年には鉄道労働者のストライキが起こった。工業地帯は勇敢なプロレタリアートの闘争地域になった。スペインの労働者は、自分がいかなる慣例にも縛られていないこと、事態に即応して自己の隊列を動員する能力があること、攻撃において大胆であることを示した。

 戦後の最初の数年、というよりロシア革命後の最初の数年間(1917年〜1920年)は、スペインのプロレタリアートにとって大きな闘争の年月であった。1917年には革命的なゼネラル・ストライキが展開された。このストライキの敗北ならびに、その後の一連の運動の敗北がプリモ・デ・リベラ独裁のお膳立てをしたのである。独裁の崩壊によって、再びスペイン人民の今後の運命という問題が全面的に提起された時、そして、旧来の徒党の臆病な陰謀や小ブルジョア的急進主義者のカラ元気に救済を期待してはならないことが明らかになった時、労働者たちは一連の勇敢なストライキによって、人民に対し、「われわれはここにいる!」と叫んだのである。

 ヨーロッパの「左翼」ブルジョア・ジャーナリストと、それに続いて社会民主主義者たちは、スペインが約150年遅れでフランス大革命の単なる再演を試みるにすぎないのだといった、科学的な装いをこらした空論を振り回すのが好きである。この連中に革命について説明することは、盲人と色彩を論じるのと同じである。いくら遅れているといっても、スペインは18世紀末のフランスよりはずっと進んでいる。大工業企業や1万6000キロメートルの鉄道や5万キロメートルの電信は、革命にとって歴史的回想よりもずっと重要な要因となるものだ。

 イギリスの有名な週刊誌『エコノミスト』は、一歩前進を試みて、スペイン情勢についてこう述べている。「ここで作用しているのは、1917年のモスクワの影響と言うより、むしろ1848年および1871年のパリの影響である」。だが、1871年のパリと言えば、これは1848年から1917年に至る一段階である。したがって、これらの年代を対立させるのは無意味なことである。

 これとは比べものにならないほど真面目で深い見方を、昨年『階級闘争』(6)誌上でL・タルキン(7)が述べている。「農民大衆に支持された(スペインの)プロレタリアートは権力を獲得しうる唯一つの勢力である」。さらに次のような展望が描かれている。「革命は、プロレタリアートの独裁をもたらさなければならない。この独裁はブルジョア革命を完遂し、大胆に社会主義的改造の道を開くであろう」。現在、問題は、このような仕方で――そして、このような仕方でのみ――提起されうる!

 

   4、革命の綱領

 共和制という言葉は、今や闘争の公式スローガンとなっている。しかしながら、革命の発展は、支配階級の保守派や自由主義的な部分だけでなく、共和主義的な部分をも王政の旗の下に追いやるであろう。1854年の革命的諸事件の際、カノバス・デル・カスティリョ(8)はこう書いた。「われわれは王座を守ろうと努める。ただし、王座の名誉を汚す宮廷内の徒党なしでだ」。今日、この遠大な思想を発展させているのは、ロマノネス氏(9)たちである。まるで、王政が一般に(ましてスペインで)宮廷内の徒党なしで存続しうるかのようである!…。たしかに、有産階級が自分を救うために王政を犠牲にせざるをえないような事態の組み合わせ(例えば、ドイツのように!)もありえないわけではない。しかし、プロレタリア独裁の時まで、たとえ目の下が隈だらけになろうとも、マドリードの王政が持ちこたえる可能性は確かにある。

 共和制というスローガンは、もちろんプロレタリアートのスローガンでもある。しかし、プロレタリアートにとって共和制を確立することは、単に国王を大統領に変えるというだけのことではなくて、封建制の遺物を社会全体から根本的に一掃することである。ここで最も重要な課題となるのは土地問題である。

 スペインにおける農村の諸関係は、半封建的搾取の様相を呈している。特に、アンダルシア地方とカスティーリャ地方の農民の貧困、地主や当局やカシケによる圧迫は、すでに一度ならず農業労働者や貧農を公然たる蜂起の道に追いやった。しかしながら、このことは、たとえ革命によってにせよ、スペインでブルジョア的諸関係を封建的なものから純化できるということを意味するのであろうか。否、これはただ、スペインの諸条件の下では、資本主義は、半封建的形態を取らなければ農民を搾取できないということを意味するにすぎない。革命の武器をスペインの中世の遺物に向けることは、この武器をブルジョア支配の根底そのものに向けることなのである。

  ※原注 国の個々の地方における非公式の支配者。

 地方主義と反動的影響から農民を解放するには、プロレタリアートは、明確な革命的民主主義の綱領を持つ必要がある。土地と水の不足および小作制度は、貧農のために地主の土地を没収するという問題を鋭く提起する。国家財政の重荷や過大な国債や官僚の公金横領、アフリカでの冒険などは、安上がりの政府の必要性を提起する。こういう政府は、大農場所有者や銀行家や実業家や肩書のある自由主義者によってではなく、勤労者自身によってのみ実現されるものである。

 僧侶の支配と教会の富の存在は、教会と国家とを分離し教会財産を人民に返還することによって教会を武装解除するという民主主義的課題を提起する。今まで教会に向けらていた予算だけでなく、教会自身の財産さえ、政教分離の結果、無神論者の自由主義者のポケットに入るのではなく、疲弊した農民経営をうるおすために使われるのだということを納得した時、農民のうちで最も迷信深い層さえも、この断固たる措置を支持するであろう。

 分離主義的傾向は、革命に対して、民族自決という民主主義的課題を提起する。この傾向は、見かけのうえでは、独裁体制の下で強められた。しかし、カタロニア・ブルジョアジーの「分離主義」が、マドリード政府とその駆け引きの中では、カタロニアとスペインの人民に対抗する道具でしかないのに対して、労働者と農民の分離主義は、社会的怒りの外皮にすぎない。この2種類の分離主義は厳密に区別しなければならない。しかしながら、民族的に圧迫されている労働者と農民をブルジョアジーから引き離すために、プロレタリアートの前衛は、民族自決の問題に関して、最も大胆かつ最も誠実な立場を取らなければならない。労働者は、カタロニア人とバスク人の大多数が完全な分離に賛成した場合には、彼らが独立した国家生活を営む権利を全面的に擁護するだろう。しかし、もちろん、これは先進的労働者がカタロニア人とバスク人を分離の方向に押しやるという意味ではない。反対に、民族的諸地域の大幅な自治をともなう国の経済的統一は、経済と文化の見地から見て、労働者と農民に大きな利益をもたらすだろう。

 新しい軍事独裁によって革命の発展を阻止しようという王政の企ても、ありえないわけではけっしてない。しかし、ありえないのは、この種の企てが真剣で長期にわたる成功を収めるということである。プリモ・デ・リベラの教訓は、まだ生々しすぎる。そんなことになれば、古い独裁が残したまだ直っていない傷口の上に新しい独裁の鎖を巻きつけねばならないだろう。外電から判断する限り、国王はこの実験をやる気でいるらしい。躍気になって適当な候補者を探しているが、志願者がみつからないのだ。明らかなことが一つある。それは、新しい独裁が挫折したら、それは王政とその生きた担い手である国王に非常に高くつくものになるだろうということである。そして、革命は、新たな力強い推進力を獲得するだろう。労働者は支配階級に向かって、「紳士諸君、やってみるがいい!(Faites vos jeux, messieurs)」と言うことができるのだ。

 スペイン革命が議会主義の時期を飛び越すと期待することはできるだろうか。理論的にはそれもありえないことではない。比較的近い時期に、革命運動が支配階級に議会主義のための時間も場所を与えないほどの強さに達するということも考えられる。しかしながら、こうした展望はあまりありそうもない。スペインのプロレタリアートは、その第一級の戦闘性にもかかわらず、まだ大衆的に認められた革命党をもっていないし、ソヴィエトを組織した経験もない。その上、共産主義者の隊列は、数が少なく、統一されてもいない。万人に承認された明確な行動綱領もない。にもかかわらず、国会(コルテス)の問題はすでに日程に上っている。こうした条件のもとでは、革命が議会主義の段階を通ることになるものと考えなければならない。

 だからといって、ちょうどロシアの労働者が1905年にブルイギン国会(10)をボイコットし、これを失敗させることに成功したように、ベレンゲルの疑似国会をボイコットする戦術もけっしてありえないわけではない。ボイコットに関する個別的な戦術問題は、革命のその時々の力関係にもとづいて解決されるべきである。しかし、先進的労働者はベレンゲルの国会をボイコットする場合にさえ、それと同時に、これに対して革命的憲法制定議会というスローガンを対置しなければならない。われわれは、「左翼」ブルジョアジーの口にする憲法制定議会というスローガンの欺瞞性を容赦なく暴く必要がある。こういう左翼ブルジョアジーは、実際には、古い支配的・特権的グループと取り引きするために、国王とベレンゲルの好意による協調主義的国会しか望んでいないのである。真の憲法制定議会を招集できるのは、労働者と兵士と農民の蜂起が勝利を得た後の革命政府だけである。われわれは革命的国会を協調主義的国会に対置しうるし、対置しなければならない。しかし、われわれの考えでは、現段階では、革命的国会というスローガンを放棄するのは誤りである。

 プロレタリアート独裁の路線を、革命的民主主義の課題やスローガン(共和制、土地革命、政教分離、教会財産の没収、民族自決、革命的憲法制定議会)に対置するのは、最も不毛で惨めな教条主義である。人民大衆は権力を獲得する前に、指導的なプロレタリア政党のまわりに結集しなければならない。民主的代議制度のために闘うことは、革命のあれこれの段階で国会に参加することと同様に、課題の解決を促進するうえで不可欠のものである。

 労働者と農民の武装(労農民兵の創設)というスローガンは、必ずや闘争の中でますます重要になるであろう。しかし、現段階では、このスローガンも、労働者や農民の組織の防衛、土地革命、自由選挙の保証、反動的軍事クーデターからの人民の保護などの諸問題と密接に結びつけられなければならない。

 社会立法の急進的綱領、特に失業保険、租税負担の有産階級への転嫁、無償の普通教育など、および、まだブルジョア社会の枠を越えない同様の措置も、プロレタリア政党の旗印に書き込んでおかなければならない。

 しかしながら、それと同時に、スペインではすべて私有である鉄道の国有化、鉱山の国有化、銀行の国有化、産業の労働者管理、さらには国家による経済の規制などの過渡的性格をもつ要求も今から提起しておくべきである。こうした要求はすべて、ブルジョア体制からプロレタリア体制への移行と結びついている。こうした要求は、この移行を準備し、銀行と産業の国有化の後には、社会主義社会を準備する計画経済のための体系的措置の一部となるものである。

 民主主義的スローガンを、過渡的スローガンや純粋に社会主義的なスローガンと結びつけるのは矛盾だと考えることができるのは、衒学者だけである。歴史的社会の矛盾した構造を反映するこうした複合的綱領は、過去から遺産として受け継いだ課題の多様性から不可避的に出てくるものである。あらゆる矛盾、あらゆる課題をただ一つの最小公分母、プロレタリア独裁に還元することは、不可欠ではあるけれども、それだけではまったく不十分な操作である。一歩進んで仮に、プロレタリアートの前衛がすでに、スペインを没落から救いうるのはプロレタリア独裁だけであることを理解していると仮定しても、予備的課題――労働者階級の不均質な諸階層と農村のさらに不均質な勤労大衆とを前衛の周囲に結集させること――は依然として完全に残っている。プロレタリア独裁という抽象的なスローガンと、今日、大衆を蜂起へと駆り立てている歴史的に条件づけられた課題とを対立させることは、社会革命に関するマルクス主義的理解をバクーニン主義的理解にすり替えることを意味する。これは革命を破滅させるための最も確実な手段であろう。

 民主主義的スローガンが、プロレタリアートを共和主義的ブルジョアジーに接近させることをいささかも目的とするものではないことは言うまでもない。反対に、それは左翼ブルジョアジーとの闘争に勝利するための地盤をつくり上げ、彼らの反民主主義的性格を一歩ごとに暴くことを可能にするのである。プロレタリアートの前衛が民主主義的スローガンのために、大胆かつ断固として容赦なく闘えば闘うほど、前衛はそれだけ速やかに大衆を獲得し、共和派ブルジョアジーと社会党的改良主義の土台を掘り崩すのである。そして、ますます確実に彼らの最良の分子がわれわれの側に加わり、ますます速やかに大衆の意識の中で民主主義的共和国が、労働者の共和国と同じものとなるのである。

 正確に理解された理論的公式が生きた歴史的事実となるためには、この定式を大衆の意識の中に、その体験や必要や要求にもとづいて浸透させなければならない。そのためには、細かいことをあれもこれも取り上げて大衆の注意を分散させることがないように、革命の綱領を少数の単純明快なスローガンで表現し、それを闘争のダイナミズムに応じて変更する必要がある。ここにこそ、革命的政策の神髄があるのだ。

 

   5、共産主義、アナルコ・サンディカリズム、社会民主主義

 例によって、コミンテルンの指導部は当初はスペイン情勢を見過ごしていた。ラテン系諸国の「指導者」であるマヌイリスキー(11)は、つい最近、スペイン情勢は注目に値しないと言い切ったものである。とんでもないことだ! この連中は、1928年にはフランスがプロレタリア革命の前夜であると断言していた。あまり長いこと婚礼音楽で葬式の行列を送ったので、彼らは葬送行進曲で結婚式を迎えないわけにはいかなくなったのである。この連中にとって、それ以外の行動は自分を裏切ることになる。にもかかわらず、「第三期」のカレンダーには予想されていなかったスペイン情勢が発展しつづけていることが判明したとき、コミンテルンの指導者たちはただ沈黙しただけであった。いずれにせよ、この方がたしかにより慎重ではあった。しかし、12月の事件がこの沈黙を不可能にした。そして再び、ラテン系諸国担当の指導者マヌイリスキーは、その伝統に従って180度の転回を行なった。われわれが問題にしているのは、12月17日付け『プラウダ』の論文のことである。

 この論文の中では、ベレンゲルの独裁も、プリモ・デ・リベラ独裁と同じく「ファシスト体制」と呼ばれている。ムッソリーニ(12)、マッティオッティ(13)、プリモ・デ・リベラ、マクドナルド(14)、蒋介石(15)、ベレンゲル、ダン(16)などは、すべてファシストの変種にすぎない。すでにファシストという言葉があるのだから、何も考える必要はないというわけだ。このリストを完成するには、エチオピアのネグス(17)の「ファシスト」体制を加えさえすればいい。

 スペインのプロレタリアートについて『プラウダ』は、それが「ますます急速にスペイン共産党の綱領とスローガンを受け入れつつある」ばかりでなく、すでに「革命の指導部という自己の役割を自覚した」とさえ報じている。同時にパリからの公式の特電はスペインの農民ソヴィエトについて語っている。周知のように、スターリンの指導のもとでは、ソヴィエト組織はまず農民によって採用され実現される(中国を見よ!)。プロレタリアートはもう「革命の指導部という自己の役割を自覚した」のだし、農民はソヴィエトを組織しはじめ、しかもこれらすべてが共産党の公式の指導のもとに行なわれたのだから、スペイン革命の勝利は保証されていると見なされなくてはならない。少なくともマドリードの「実行者」たちが総路線の適用を誤ったとしてスターリンとマヌイリスキーから非難される時までは。『プラウダ』の総路線なるものは、われわれから見れば、総体的無知、総体的軽率に他ならない。この「指導者たち」は、自分自身の政策のために骨の髄まで腐っていて、何事にせよ、学ぶという能力を持たないのである!

 実際には、闘争の力強い広がりにもかかわらず、革命の主体的要因――党、大衆の組織化、スローガン――は、運動の課題に著しく遅れている。そして、この遅れが今日の主要な危険なのである。

 犠牲と敗北に至る、あるいは成果を上げずに終わるストライキの半ば自然発生的な爆発は、革命の絶対に避けられない段階の一つである。それは大衆の覚醒と動員、闘争参加の段階である。何といっても、運動に加わるのは労働者の最良の部分だけではなく、大衆全体なのである。ストライキに入るものは工場労働者ばかりでなく、職人も運転手もパン屋の従業員も建築労働者も潅漑労働者も、さらには農業労働者もストライキに入る。老兵は手足をやすめ、新兵は学ぶ。このようなストライキを通じて階級は自らを階級として意識し始める。

 しかしながら、現段階で運動の強さとなっているもの――その自然発生的性格――は、今後はその弱点となる可能性がある。今後とも運動が明確な綱領も自らの指導部も持たないまま放置されるのを認めることは、希望のない展望を認めるのに等しい。何といっても、問題は権力の獲得に他ならないからである。どんなに激しいストライキも、この課題を達成することはできない。散発的なストライキの場合はなおさらである。もしも数ヶ月以内にプロレタリアートが闘争の過程で、その任務と方法が自分たちにとって明確になったと感じないならば、そして彼らの隊列が団結し強くなったと感じないならば、プロレタリアートの内部に分解が始まることは避けられないであろう。現在の運動によって初めて呼び覚まされた幅広い層が再び受動性の中に落ち込むことだろう。足元の地盤が揺らぐにつれて、前衛の中には、ゲリラ的行動や冒険主義一般に適した気分が復活し始めるだろう。そうなったら、農民も都市の貧困層も、信頼できる指導部を見いだせないだろう。目覚めた希望はたちまち失望と憤怒に変わるだろう。スペインにも、1920年秋以降のイタリアの状況をある程度再現したような状況が生み出されるであろう。プリモ・デ・リベラの独裁はファシズムではなく、有産階級の一定の部分に支持された一軍事グループによる典型的なスペイン的独裁である。しかし、以上に述べたような諸条件――革命党の消極性と待機主義、大衆運動の自然発生的性格――があれば、本物のファシズムがスペインに地盤を得ることになるであろう。途方にくれ、失望し、絶望した小ブルジョア大衆を大ブルジョアジーが獲得して、その怒りをプロレタリアートに向けさせるだろう。もちろん、まだ現状はそこまで行ってはいない。しかし、時間を浪費してはならない。

 ブルジョアジーの左翼――将校、学生、共和党員――が指導する革命運動が勝利することができたと仮定してみても、この勝利はあまりにも不毛であって、結局のところ敗北に等しいことがわかるであろう。スペインの共和党は、すでに述べたように、全面的に現在の所有関係に立脚している。共和党には、大地主の土地の収奪も、カトリック教会の特権的地位の清算も、文武の官僚の腐敗の一掃も期待することはできない。王政派の徒党にただ共和党の徒党がとってかわるだけであろう。そして、1873年から1874年にかけて存在した短命で不毛な共和国が再現されるだろう。

 社会党の指導者たちが共和党指導者に追随しているという事実は、まったく当然のことである。昨日、社会民主主義者はプリモ・デ・リベラの独裁に右肩を寄せていた。今日は共和党に左肩を寄せている。独自の政策を持たない、そして持てない社会党にとって、最高の課題は堅固なブルジョア政府に参加することである。この条件さえ満たされるなら、社会党は、最悪の場合には、王政派と和解することも拒否しないだろう。

 しかし、アナルコ・サンディカリストの右派も、同じ運命に陥らない保証は少しもない。12月の諸事件はこの意味でよい教訓であり、重大な警告である。

 「全国労働連合(CNT)」は、明らかにプロレタリアートの最も戦闘的な分子を擁している。このふるい分けは、ここ数年の間に行われた。このCNTを強化し、そしてこれを真の大衆組織に変えることは、すべての先進的労働者、とりわけ共産主義者の当然の義務である。同様に、改良主義的組合の内部にあって、その指導者の裏切り行為をたゆまず暴露し、労働者たちに、単一の労働組合連合の枠内に結集するよう呼びかける仕事によっても、これに貢献することができる。革命の諸条件は、この仕事を大いに促進することになるだろう。

 だがそれと同時に、教義および革命の方法としてのアナルコ・サンディカリズムの運命に関しては、いかなる幻想も持つことはできない。アナルコ・サンディカリズムは革命的綱領の欠如と党の役割についての無理解によって、プロレタリアートを武装解除している。アナーキストは政治が彼らの襟首をつかまえるまで政治を「拒否」し、襟首をつかまえられると敵階級の政治に席を譲る。これが12月に起こったことなのである!

 たとえ社会党が革命期にプロレタリアート内部で指導的な地位を占めたとしても、社会党にできることは、次の一事でしかない。すなわち、革命によって獲得した権力を共和党のザルの中に注ぐことである。そしてこのザルからこぼれた権力は、その現在の保持者の手に自動的に移ってしまうであろう。大きな可能性を孕んだ革命は、流産に終わってしまうだろう。

 アナルコ・サンディカリストに関して言えば、彼らがそのアナーキスト的偏見を捨てない限り、革命の先頭に立つことはできない。われわれの義務は彼らがこの方向に向かうのを援助することである。実際には、おそらく、サンディカリスト指導者の一部は、社会党に移るか、革命によって脇に放り出されるであろう。本物の革命家はわれわれと一緒になるだろう。サンディカリストの大衆は、共産主義者の隊列に加わるだろう。社会党労働者の大部分もそうするであろう。

 革命的状況の利点は、大衆が急速に学ぶということにある。大衆の成長が社会党内ばかりでなく、サンディカリストの内部にも分化と分裂を引き起こすのは避けられないだろう。革命的サンディカリストとの実践的協定は、革命の過程で避けられないものである。われわれはこの協定を誠実に履行する。しかし、この協定の中に曖昧さや暗示的表現や欺瞞の要素を盛り込むことはまったく破滅的である。共産主義労働者が、サンディカリスト労働者と肩を並べて闘わなければならない日々刻々にも、原則上の区別をなくしてはならないし、意見の違いを隠蔽したり、同盟者の誤った原則的立場に対する批判を控えたりしてはならない。この条件のもとで初めて革命の前進的発展が保証されるだろう。

 

   6、革命的フンタと党

 労働者が大都市ばかりでなく、副次的な居住地でも一斉に蜂起した12月15日という日は、プロレタリアート自身がどれほど統一した行動を熱望しているかを立証した。プロレタリアートは独自の連絡網をもたなかったので、共和党の合図を利用したのである。この運動の失敗は、見たところ少しも後退を引き起こさなかった。大衆は自己の行動を経験、訓練、準備と見なしている。これこそ革命的高揚の極めて顕著な特徴である。

 広い道への出口を見つけるためには、プロレタリアートはその隊列の内部に存在するあらゆる政治的・民族的・地方的・職業的区分を越えた組織、現在の革命闘争の規模にふさわしい組織を必要とする。工場や鉱山や商社や鉄道や海運の労働者、都市と農村のプロレタリアによって民主的に選ばれるこの組織は、ソヴィエト以外ではありえない。亜流たちは、ソヴィエトが武装蜂起の必要のためにのみ、そして蜂起の直前になってはじめて創設されるのだという偏見を多くの人々に植えつけることによって、全世界の革命運動にはかりしれない損害を与えた。実際には、ソヴィエトが創設されるのは、武装蜂起にはまだ程遠いにしても、労働者大衆の革命運動が、さまざまな企業や職種を含む経済的・政治的闘争を指導する能力のある広範で権威ある組織の必要性を感じる時である。ソヴィエトが革命の準備期間中に労働者階級に根を下ろすことに成功する場合にのみ、ソヴィエトは権力のための直接的闘争の時期に指導的役割を果たしうるであろう。たしかに、「ソヴィエト」という言葉は、ソヴィエト体制が13年も続いた今となっては、ソヴィエトが権力機関としてではなく、単に労働者階級の戦闘組織として創設された1905年あるいは1917年はじめ頃とは、かなり違った意味を持つようになった。スペインの革命史全体に直接結びついた「フンタ(評議会)」という言葉は、同じ思想をこの上なく見事に表現している。スペインでは、労働者フンタの創設が日程に上っている。

 プロレタリアートの現状では、フンタ創設は、共産主義者、アナルコ・サンディカリスト、社会民主主義者、および党派に属さないストライキ闘争指導者の参加を前提とする。ソヴィエトへのアナルコ・サンディカリストと社会民主主義者の参加は、どの程度あてにできるのだろうか。それを外部から予言することはできない。もし共産主義者が、労働者フンタの問題をそれに必要な精力をもって提起することに成功すれば、運動の進展は、きっと多くのサンディカリストおよび、おそらくは一部の社会党員をも、彼らが望む以上に前進させるであろう。

 大衆の圧力のもとに、ソヴィエト建設、代議員選出のルール、選挙の時期と方法といった実践的諸問題は、単に共産主義者の諸分派間の協定ばかりでなく、フンタ創設に協力することを承知したサンディカリストや社会主義者との協定の対象となりうるし、またならねばならない。もちろん、共産主義者は闘争のすべての段階で自らの旗印を掲げて行動する。

 農民ソヴィエトに関するスターリン主義の最新理論に反して、選出された組織としての農民フンタがプロレタリアートによる権力奪取の前に多数出現するということは、おそらくないだろう。むしろ、準備の時期には、農村で、選挙にもとづくのではなく、個人的選択にもとづく別の組織形態――農民組合、貧農委員会、共産党細胞、農業労働者組合など――が発展することになるだろう。しかしながら、土地革命の綱領にもとづく農民フンタというスローガンの宣伝は現在すでに日程にのせることができる。

 兵士フンタという問題を正しく提起することは、非常に重要である。軍事組織の性格そのものから、兵士ソヴィエトは、国家権力が軍隊に対する統制力を失う革命的危機の最終段階にいたって初めて出現しうるものである。準備の時期に問題になるのは、秘密組織、革命的兵士のグループ、党細胞など、多くの場合、労働者と兵士の個人的つながりである。

 1930年12月の共和派の蜂起は、あきらかに革命闘争の2つの時代をつなぐ転換点として歴史に残るだろう。たしかに共和党左派は行動の統一を確立するため、労働者組織の指導者と連絡を保った。非武装の労働者は共和党という花形のそばで、応援団の役割を演じなければならなかった。この目的は将校の陰謀と革命的ストライキが両立しえないことを決定的に証明するには十分な程度に実現された。軍務の違いによって内部で対立していた軍隊の陰謀に対抗して、政府は軍隊そのものの内部に十分な力を見いだしたのである。そして、独立した目的も、独自の指導も持たなかったストライキは、軍隊の蜂起が鎮圧されるやいなや必然的に総崩れとなった。

 将校の実験道具としてではなく、人民の武装部隊としての軍隊が演じる革命的役割は、究極的には、闘争の過程で労働者と農民の大衆が演じる役割によって決定されるだろう。革命的ストライキが勝利するためには、労働者と軍隊との直接対決にまで行き着かなければならない。このような衝突の軍事的要素がどんなに重要でも、政治はそれ以上に重要である。軍の兵士大衆を獲得することは、蜂起の社会的課題をはっきりと提起することによってのみ可能である。しかし、将校が恐れているのは、まさにこの社会的課題なのである。現在すでにプロレタリア的革命家が、兵士に注意を向け、意識的で勇敢な革命家の細胞を軍隊内に創設しつつあるのは当然である。軍隊内の共産主義的活動は、政治的に労働者や農民の間での活動に従属するものであって、明確な綱領にもとづいてのみ発展することができる。しかし、決定的な時期が到来したとき、労働者は大衆性とその攻撃の力によって、軍隊の大部分を人民の側に引きつけるか、少なくともこれを中立化しなければならない。問題をこのように幅広く革命的に提起することは、ゼネストと蜂起の直前の時期に、先進的兵士やプロレタリア革命に同情的な将校による軍事的「陰謀」が起きる可能性を否定するものではない。しかし、その種の「陰謀」は軍事クーデターとは何の共通点も持たない。その任務は、補助的性格のものであり、プロレタリアートの蜂起の勝利を確実にすることにある。

 以上すべての課題を首尾よく解決するためには、3つの条件が必要である。それは、まず第1に党、その次に党、そしてもう一度党である。

 現存するさまざまな共産主義組織やグループの間の関係がどうなるか、将来その運命はどうなるかという問題を外部から判断することは困難である。答えは経験が教えてくれるだろう。大きな事件は必ず思想や組織や人間を試すものである。コミンテルンの指導部にはスペインの労働者に対して誤った政策と官僚的命令と分裂を提供するしか能がないことが判明した場合には、真のスペイン共産党が公式の共産主義インターナショナルの枠外で結成され、鍛え上げられるであろう。いずれにせよ、党を創らなければならない。それは統一的で中央集権的なものでなければならない。

 労働者階級は、いかなる場合にも連合主義の原理にもとづいて自己の政治組織を建設してはならない。共産党は、未来のスペイン国家体制の原型ではなく、現体制を覆す鋼鉄のテコである。それは民主主義的中央集権制の原則にもとづいてのみ組織することができる。

 労働者フンタは、あらゆる党やグループが幅広い大衆の眼前で試験にかけられる大きな闘争舞台となるであろう。共産主義者は、労働者統一戦線というスローガンを、社会党員および一部サンディカリストによるブルジョアジーとの連合政策に対置するだろう。革命的統一戦線によってのみ、プロレタリアートは農村や都市の被抑圧大衆から必要な信頼を得ることができる。統一戦線の実現は共産主義者の旗のもとで初めて可能となる。フンタは指導的な党を必要とする。確固たる指導がなければ、フンタは空虚な組織形態の域を出ないだろうし、必ずやブルジョアジーへの従属におちいることになろう。

 このようにスペインの共産主義者は壮大な歴史的任務を担っている。世界の先進的労働者はこの一大革命劇の経過を熱烈な関心をもって見守ることだろう。そしてこのドラマは、やがて世界の先進的労働者に、共感ばかりでなく協力をも要求することになるだろう。用意をしようではないか!

プリンキポ、1931年1月24日

『反対派ブレティン』第19号所収

『トロツキー研究』第22号より

  訳注

(1)アルフォンソ13世(1886-1941)……スペイン国王。在位は1886〜1931年。1931年の革命で王位を追われ、イタリアへ亡命。

(2)フェルナンド7世(1784-1833)……スペイン国王。在位は1808、1814〜1833年。カルロス4世の息子。ナポレオン体制崩壊後の反動政治を強行。

(3)カール5世(カルロス1世)(1500-1558)……神聖ローマ皇帝。在位1519〜1556年。カルロス1世としてスペイン国王。在位1516〜1556年。スペインの国王に即位後、1519年にドイツ皇帝になり、スペインとドイツにまたがるハプスブルク王国を形成。ドイツを利用してハプスブルク家の覇権をヨーロッパに確立しようとしたが、新教徒諸侯を中心とする反スペインのドイツ領主層の反乱を招き、またフランスとの対立も深める。

(4)プリモ・デ・リベラ(1870-1930)……スペインの軍人、独裁者。1923年、カタロニア軍管区総司令官のときに、国内の不安定化に乗じてクーデターを遂行。軍人から成る執政政府を樹立。1930年、世界恐慌下で財政政策に失敗して失脚。その息子、ホセ・アントニオは、ファシスト政党「フェランヘ党」を結成。

(5)1909年のバルセロナの蜂起……スペインの植民地モロッコへのカタロニア予備役兵の出陣に対する抗議として勃発した蜂起で、「悲劇の一週間」と呼ばれている。結局、中央政府によって粉砕された。

(6)『階級闘争(La Lutte de classes)』誌……フランス左翼反対派の月刊理論誌。

(7)タルキン、L……アンドレウ・ニン(1892-1937)の筆名。スペイン共産党の創始者、スペイン左翼反対派の指導者。最初はサンディカリストで、10月革命の衝撃で共産主義者に。左翼反対派の闘争に参加し、1927年に除名。スペインの左派共産党(国際左翼反対派のスペイン支部)を結成。その後トロツキーと対立し、1935年にホアキン・マウリンらを指導者とするカタロニア労農ブロックと合同して、マルクス主義統一労働者党(POUM)を結成。1936年の人民戦線に参加。カタロニアの自治政府の司法大臣に。スターリニストの策謀で閣僚を解任され、1937年、スターリニストの武装部隊に誘拐され、拷問の挙句、虐殺される。

(8)カノバス・デル・カスティリョ、アントニオ(1828-1897)……スペインの政治家、歴史化。ジャーナリストから1854年に政界に入り、1860〜68年に閣僚を歴任。1875〜95年に首相を7回経験。1897年に暗殺される。

(9)ロマノネス、アルバーロ(1863-1950)……スペインのブルジョア政治家、スペイン自由党の指導者で大地主。1912〜13、1915〜17、1918〜19年、首相。

(10)ブルイギン国会……1905年2月に内相ブルイギンによって構想され、同年8月に設置された。これはまったく実質を伴わない議会もどきのもので、事実上、ツァーリの諮問機関にすぎなかった。この国会は、社会民主主義勢力のボイコット戦術によって挫折させられた。

(11)マヌイリスキー、ドミートリー(1883-1952)……第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1931年から39年までコミンテルンの唯一の書記。「第三期」政策を積極的に推進。

(12)ムッソリーニ、ベニート(1883-1945)……イタリアのファシスト独裁者。最初、社会主義者として出発し、イタリア社会党に入党。1912年に『アヴァンティ!』の編集長となる。党内では最左派に属していたが、第1次世界大戦勃発後、極端な排外主義者に変貌し、イタリアの参戦を主張、党から除名された。戦後の1919年、ファシスト党を結成。1922年、ローマ進軍によって首相の地位を獲得。1924年のマッティオッティ暗殺事件後の政治危機を乗り切り、1925年からファシスト独裁政治を遂行。1945年にレジスタンスのパルチザンに逮捕され、処刑。

(13)マッティオッティ、ジアコモ(1885-1924)……イタリアの政治家。イタリア統一社会党の書記、議員。1924年、ファシストが大勝した後の国会で、ファシストの不正選挙とテロリズムを国会で糾弾。それが原因で、ムッソリーニの手先に暗殺。この暗殺事件をきっかけに、イタリア中に反ファシスト運動が巻き起こった。

(14)マクドナルド、ラムゼイ(1866-1937)……イギリス労働党指導者。1924年に第1次労働党内閣で首相兼外相。1929〜31年に第2次労働党内閣で首相。

(15)蒋介石(1887-1975)……中国の軍閥指導者、国民党の右派指導者。辛亥革命に参加し、孫文の信任を得る。1920年代にコミンテルンは共産主義者の国民党への入党を指示し、国民党を中国革命の指導党として称揚していた。1926年、中山艦事件で指導権を握り、北伐開始。1927年4月、上海で国民党内の共産主義者の弾圧に乗り出し、多くの共産主義者を殺戮。その後、中国共産党と対立しつつ国内の独裁権を強化。日中戦争勃発後、国共合作を行なうが、第2次大戦後、アメリカの援助のもと共産党との内戦を遂行。1949年に敗北して台湾へ。総統として台湾で独裁政権を樹立。

(16)ダン、フョードル(1871-1947)……1894年からロシア社会民主主義運動に参加。1903年の分裂後はメンシェヴィキの指導者。第1次世界大戦中は社会愛国主義者。1922年にソ連から追放。その後アメリカに亡命。

(17)ネグス……エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世(1892-1975)の称号。在位1930〜1974年。ただし、イタリアがエチオピアを占領していた1936〜41年はイギリスに亡命。皇帝として独裁政治を強いていたが、1974年に反皇帝のクーデターが勃発し、監禁。1975年に共和制が実施。


  

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