【解説】これはコペンハーゲンへの小旅行の際(現地およびその帰途)に行なわれた一連のインタビューや取材の一つである。
なお本稿は、英語版から喜多幡氏が最初に訳し、その訳文を西島が『反対派ブレティン』のロシア語原文で入念にチェックして修正を施したものである。
Л.Троцкий, Ответ Л.Д.Троцкого на вопросы журналистов, Бюллетень Оппозиции, No.32, Декабрь 1932.
旅行の結果に満足しているか? 大いに満足している。デンマークにもっと長く滞在するつもりだったのではないか? その通りだ。私は講演の後、何週間かそのまま滞在できることを期待していた。それは妻の病気の治療のためでもある。しかし、デンマーク政府の拒絶は予想していなかったわけではない。私は民主主義についてまったく幻想を持っていない。だから幻滅もしていない。
私がデンマークを訪問する機会を得たのは、民主主義の原理(亡命の権利、集会の自由など)によってではまったくなく、気まぐれな政治的利害によってである。学生と青年労働者の左翼サークルが、コペンハーゲンで私の講演を開催したいと言った。社会民主党の政権はそれに反対すると面倒なことになると考えた。なぜなら、現在、明らかに労働者階級の中に左傾化が見られるからである。合意にしたがって、私は自分の講演を厳密に歴史と科学に関わる問題に限定した。しかし政府は、私が擁護している思想への関心を満たすためには8日間で十分だと判断したようだ。
事情に通じている友人によると、私に滞在延長と病気治療の機会を与えるのに反対した主な人々は、王室関係者、ファシスト、ロシアの白衛派亡命者、社会民主党の幹部等を別にすると、ソ連邦政府の手先である。私は残念ながら、この情報に反駁することができない。一つだけ強調しておきたいのは、これはソヴィエト国家やロシア人民の利益の問題ではなく、スターリン派の特殊な利益に関わる問題だということである。
11月27日にタス通信はラジオを通じて全世界に、西欧諸国の「トロツキストの協議会」がコペンハーゲンで秘密裏に開催されていると報じた。この報告は虚偽の密告と言うほかない。これは密告である。なぜなら、それは私の政治的支持者に対する警察の弾圧を挑発しているからである。これは虚偽の密告である。なぜなら、コペンハーゲンではいかなる協議会も開催されていないからである。
デンマークの当局は、実際に何があったのかを非常によく知っている。ヨーロッパのさまざまな国の私の友人たちは、ヨーロッパの反動的なメディアで行なわれているキャンペーンを非常に危険だと感じていた。彼らはこのキャンペーンを、最近左派の新聞で暴露されたトゥルクール将軍の組織による私に対するテロ計画と関係していると考えた。デンマークの周辺の6ヶ国から20人ほどの支持者が集まってきた。私の講演がまったく平穏に終わったのを見届けたあと、彼らは私の帰途に同行すると決めた1、2人を除いて全員、それぞれの国に帰った。
では、タス通信の前代未聞のラジオ放送や、私のビザの問題をめぐってソ連邦の手先たちがとった行動は、何によって説明されるか? それは何よりも、ソ連邦内部の状況に関連している。一部の報道機関によって執拗に流されている「ソヴィエト権力の崩壊が近い」という噂――もう何回耳にしたことか――はすべて、こっけいな空想物語だ。しかし、スターリンの個人的地位の動揺が決定的な段階に入っていることは間違いない。彼の政策の誤りは今や誰の目にも明らかである。党内において、より有能な集団的指導を再建しようとする傾向は非常に強い。だからこそ、いわゆる「トロツキスト」に対する新しい弾圧の波が始まっているのだ。私の友人のラコフスキーは、前はウクライナ人民委員会議議長であり、その後ロンドンとパリでソ連邦の大使を務めた。その彼が3年間の流刑をさらに3年間延長された。これはすべて、公式には、左翼反対派(「トロツキスト」)によるソ連邦に対する「反革命」活動なるものによって説明されている。私はコペンハーゲンでの演説、アメリカ向けのラジオ演説、トーキー・フィルムのためのインタビューを通じて、私はソヴィエト共和国に対するわれわれの実際の態度を明らかにしておいた。それは1917年10月以来変わっていない。だからモスクワの現在の支配グループは、私を西欧から追放するために並々ならぬ努力を傾けているのだ。スターリン派がこの過程において多くの同盟者や協力者を得ているという事実は、事の本質と完全に合致している。
私はコペンハーゲンを離れるにあたって、ブルジョア民主主義の本質についての新しい知見は得られなかったが、その代わり、デンマークの人々の友好と歓待という最良の思い出を持ち帰ることができそうだ。このことについては、いくつかのすばらしい例を示すことができる。それはおそらく他のヨーロッパ諸国では考えられないことだろう…。
トルコでの私の生活について諸君は尋ねておられる。この点についてはいくつかの誤解がある。私はもちろん自分の意思でトルコに来たのではない。しかし、トルコ政府が私に何らかの制約を課しているというのは事実でない。妻と私は、気候を考えてプリンキポ島を選んだ。私たちは再々にわたってトルコ政府からの配慮と協力を受けている。
1932年12月3日
『反対派ブレティン』第32号
『トロツキー著作集 1932』下(柘植書房新社)より
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