【解説】これは、1929年以降のスターリンの冒険主義的経済建設(超工業化路線と農業の強制集団化)を批判した一連の論文の一つである。
トロツキーら左翼反対派は、1926年以降、「亀の歩み」の工業化路線を批判し、より大胆な工業化計画を実行するよう要求しつづけていたが、スターリン=ブハーリン指導部はそれを拒否しつづけた。第14回大会および第15回大会では工業化の方針がいちおう承認されたが、その実行はサボタージュされていた。そうこうするうちに、一方での工業化の遅れと、他方でのクラークの台頭が原因で、1928年には早くも、新たな穀物調達危機が生じた。富農層は、高価で貧弱な工業製品と引き換えに穀物を国家に引き渡すよりも、それを退蔵し、投機的穀物市場に売りに出す方を選んだのである。こうした状況に直面してパニックに陥ったスターリニスト指導部は、クラークとの闘争を宣言し、より大胆な工業化への道へと進むことを余儀なくされた。だが、この新たな工業化路線は、たちまちのうちに、冒険主義的様相を帯び、ついには、農業の強制集団化とクラーク根絶という破滅的冒険へと乗り出すまでになった。当初、スターリンの工業化路線を社会主義的計画化への一歩前進と評価していた左翼反対派は、ただちにこの冒険主義への堕落を理解し、今度は逆に、工業化のテンポを緩め、農業の強制集団化を中止するよう呼びかけることになった。こうして、スターリンの経済的冒険主義に対する闘争が、1930年代初頭における、トロツキーの最も重要な活動の一つになったのである。
なお、今回アップするにあたっては、『トロツキー研究』第4号に掲載されたときに省略されていた強調部分を入れるとともに、いくつかの誤訳を訂正している。
Л.Троцкий, Успех социализма и опасности авантюризма, Бюллетень оппозиции, No.17-18, 1931.
ソヴィエト経済の経験と成功の世界史的な意義を本稿で繰り返す必要はない。現在、ソ連邦を資本主義の道に戻そうというあからさまに表現された欲求ほど、また帝国主義の共犯者やブルジョア破壊分子との積極的な政治的結束ほど、国際社会民主主義の恐るべき堕落をよく暴露しているものはない。代々の奴隷所有者の番頭であるマクドナルドが、第2インターナショナルの協力のもとで、インドの3億人を抑圧し植民地隷属下に置いている時に、彼らがソ連邦の強制労働に向けて発する「抗議」ほど、社会民主主義を含むブルジョア社会の支配階級の卑劣さと下劣さを特徴づけているものはない。「連立派」社会民主主義ないしは「反対派」社会民主主義の大騒ぎを、10月革命によって新生活に目覚めさせられた人民が成し遂げつつある巨大な事業と比較することが一瞬でも可能だろうか?
しかし、まさにそれゆえ、度を失った指導部によって実施されている誤った政策の結果としてプロレタリア独裁に迫りつつある危険性を全力をつくして粘り強く世界の労働者階級に警告する義務が、われわれマルクス主義者にはあるのである。
1、「追いつき追いこせ」
公式の指導者・新聞雑誌・経済担当者はみな、4ヵ年計画に変えられた5ヵ年計画の事業が力の異常な緊張のもとで遂行されているということを知っている。「競争」の行政的方法は、この計画のテンポが人間の筋肉と神経の犠牲でもって達成されていることを物語っている。労働者のある層、とりわけ共産主義者が事業に本物の熱狂を傾けていることや、労働者のより広範な大衆が個々の瞬間ないしは時期に、そして個々の企業においては、この熱狂に支配されているということを、われわれは一瞬たりとも疑わない。だが、何年にもわたって大衆的な労働の「熱狂」が可能であると認めるためには、人間の心理学に対してだけでなく、その生理学に対しても完全に無知でなければならない。
現在、本質的に内戦時に用いられたのと同じ方法で仕事が行なわれている。周知のように、内戦の間、われわれの技能や装備はとうてい十分とは言えない状況にあった。大衆はその欠陥を数と突撃精神と熱狂とでもって埋め合わせた。しかし、内戦の間でさえ熱狂は一般的なものではなかったし、とくに農民の間ではそうであった。逃亡者や脱走兵はその時、現在の無断欠勤者や職を絶えず転々とする人々と同じ役割を演じた。それでもある時期には、白軍による直接の攻撃のもとで、労働者ばかりではなく農民までも本物の革命的高揚をもって戦闘に身を投じたのである。これが、われわれの勝利のゆえんである。
内戦は3年間続いた。内戦の終わりごろになると、緊張はその完全な限界に達した。リガ条約の苛酷な条件にもかかわらず、われわれは第2次ポーランド出兵を断念した。3年間にわたる内戦の緊張と窮乏に対する深刻な反動が農民と労働者の大衆に広がりはじめた。農民の間では、事態は海軍と陸軍の一部を含む反乱にまでいたった。労働者の間では、ストライキといわゆる「サボタージュ」が生じた。党内では労働者反対派が大きな影響力を獲得した。その指導者――この時の論争は、馬鹿げた国定の教科書が教えているのとは違って、そもそも労働組合とは何の関係もなかった――の力は明らかに、その半サンディカリスト的な無邪気さにあったのではなくて、さらなる緊張に対する大衆の抵抗と、一息つき疲れをいやし休息をとりたいという要求のうちにあった。
1920〜21年の有名な論争では、当時の「トロツキスト」に反対する主要な論拠のうち大衆に最も影響力をもったのは、次のようなものであった。「彼らは戦争をやったのと同じ方法で経済建設の事業をやろうとしている」※と。
※原注
生産力の低い水準のもとでは、もっと正確に言えば極貧状態のもとでは、実際には新経済政策なしには、つまり市場にもとづいた個人的利害関係の導入なしには、戦時共産主義の方法以外のどんな方法もなかったし、ありえなかった。ネップに移行するまで、論争は核心に触れることなく堂々めぐりをしていた。ネップへの移行は論争の対象そのものを取り除いた。ただジノヴィエフといくらかはトムスキーだけが、結局最後まで何について論争しているのかすら理解することなく、労働組合問題のイロハについてくどくどと論じ続けていた。まさに内戦と戦時共産主義の時期に対する反動の雰囲気の中で、現在のスターリニストたちの大多数の経済哲学である「急がば回れ」が形成された。個人農業への拝跪、計画の方法に対する嘲笑、最小限テンポの擁護、世界革命に唾をはきかけること――これらすべてが、1923〜28年のスターリニズムの真髄をなしていた。しかし、この政策の希望であり支柱である強力な中農は自ずからクラークに発展し、あまりにもひどく立ち遅れた工業基盤しか有していないプロレタリア独裁の喉元に襲いかかったのである。自己満足的なオブローモフ主義の時期は、パニック的せっかちさに取って代わられた。「最短期間で追いつき追いこせ」というスローガンが提起された。原則的に第15回大会によって承認されたスターリンとクルジジャノフスキーの最小限主義的な5ヵ年計画は、新しい5ヵ年計画に取って代られた。その基本的要素は反対派の政綱から借用したものであった。こうした事情は、第16回党大会に向けたラコフスキーらの声明の性格を規定した。それはこう述べている。
「諸君は、唯一正しい道への真に本格的な一歩となりうる計画を発表した。そしてわれわれは、あらゆる係争問題に関し自らの見解を擁護する権利をいささかも放棄することなく、われわれの最も誠実な援助を諸君に提供する用意がある」。
最初は5ヵ年計画を作成する必要性を、次にはその一定のテンポ(政治局の現在の全メンバーが当時例外なく大声で叫びたてていたにもかかわらず、われわれが提案したテンポはまったく幻想的なものではなかったことを現実は十分に証明した)を反対派が擁護した時、言いかえれば、1923〜28年の路線に反対して工業化と集団化を加速させるために反対派が闘っていた時、反対派は、5ヵ年計画をドクマとしてではなくて作業仮設とみなしていた。事業の過程において計画の集団的な点検がおこなわれなければならないし、しかも社会主義的簿記係の数字だけがこの点検の要素なのではなく、労働者の筋肉と神経や農民の政治的気分もまたその要素である。党は、これらすべてを打診し点検し総括し一般化しなければならない。
実際には、工業化と集団化への経済的転換は、支配層のパニックの鞭のもとで行なわれた。このパニックは、今なお猛威をふるっている。このことは、今日のソヴィエトのすべての新聞の第1面を見れば十分である。内戦の間に使われていたスローガンや定式、アピールに対する完全な模倣がある。つまり、前線、動員、突破、騎兵などであり、また時にはスタートやフィニッシュなどのスポーツ用語がつけ加わる。これが、いかに真面目な労働者を苛立たせ、みんなをうんざりさせたことか! 内戦の苛酷な条件のもとでの一時的処置として、われわれは躊躇した後に「赤旗勲章」を導入した(レーニンはもともと反対であり、後に受け入れはしたが、あくまでも一時的措置としてであった)が、革命から13年目の今日では、4つかそれ以上の勲章がある。それよりもはるかに重要なことは、無休操業の導入、企業に労働者を縛りつけること、労働密度の極端な強化である。これらの非常処置を実行することが可能であったのは、もっぱら、それらが先進層の意識の中では、5ヵ年計画の理念と不可分に結びついた一時的なものであったからである。内戦期に労働者と農民が、敵を粉砕することによって働き休憩する自分たちの権利を確立するために最後の力をふりしぼったのと同様に、今日、労働者階級の先進分子は、今後2年間のうちに先進資本主義諸国に「追いつき追いこす」ことによって経済的危険や軍事的危険から自分自身を防衛することを心底あてにしている。理論的、政治的、心理的に、5ヵ年計画の考えは、大衆にとって一国社会主義の周りに鉄の壁を構築するという課題になっている。労働者は、党機構が彼らに課している極度の緊張を正当化する唯一の根拠をそこに見出だしている。
革命の12周年記念日に、スターリンは5ヵ年計画と関連して次のように書いた。「その時には、どの国が後進的で、どの国が先進的となっているかを、われわれは見ることになろう」と。このような声明やさらにもっと断言的なものが、繰り返し無数に印刷された。こういったものが、5ヵ年計画と関連したあらゆる政治的事業の基調となっている。大衆に問題提起するいかなる場合においても、官僚は、5ヵ年計画の実現によってソ連邦が資本主義世界を凌駕するかのように言って、半分意識的・半分無意識的に大衆をだましている。ヴァルガは何といっても党機構のカウツキーであるが、その彼は、一国社会主義の理論が、それ自体ばかげたものであるにしても、それでもなお労働者を鼓舞するために必要であるとみなしている。それは救いのための司祭の欺瞞であるというわけだ。
第16回大会報告に向けてスターリンは、5ヵ年計画の終わりにはソ連邦が資本主義世界に「追いつき追いこしている」ことを証明する統計を、他の数字といっしょに注文した。その形跡がスターリンの演説の中に見出される。ソヴィエト経済と世界経済との力関係に関する話の中心部分に来て、報告者は思いがけず次のように言うだけにとどまった。「わが国工業の発展水準に関しては、われわれは先進資本主義諸国から忌まわしいほどに立ち遅れている」と。そして彼はすぐに、こうつけ加えた。「わが国工業の発展テンポをさらに加速させることのみが、先進資本主義諸国に技術的にも経済的にも追いつき追いこすことを可能にするだろう」(1930年6月27日)と。ここで言っているのは、1つの5ヵ年計画のことなのか、それとも一連の5ヵ年計画のことなのか、わからない。
スターリンはその理論的未熟さゆえに、思いもかけない情報に率直に驚いたのである。しかし、わが国の後進性に関する正確な指数を党に提供して「追いつき追いこす」課題の真の規模を示すかわりに、スターリンは、「われわれの忌まわしい後進性」(彼は、場合によっては、自己を正当化するために後進性を引き合いに出す。まさにそこに彼の政治手腕のいっさいがあるのだ)についてのささやかな文言を密輸入するだけにとどめている。それに対して、大衆的扇動は以前と同じ精神で行なわれている。
こうしたことは、ソヴィエト連邦にのみとどまるものではない。コミンテルンのすべての共産党の公式の機関紙は、5ヵ年計画の終わりにはソ連邦は最も先進的な工業国になるだろうと倦まずたゆまず繰り返している。それが真実であれば、社会主義の課題は世界的規模で解決されてしまうだろう。先進諸国に追いついたソヴィエト連邦は、1億6000万の人口と無限の空間と富をもって、すでに第2次5ヵ年計画の期間中に、すなわち3、4年で、現在アメリカ合衆国が占めている支配的地位よりもはるかに強力な地位を占めることになるにちがいない。最も後進的な国の一つで、社会主義が最も先進的な資本主義諸国よりもはるかに高い人民の生活水準をこの数年のうちに創造することができたということを、全世界のプロレタリアートは経験にもとづいて確信するだろう。ブルジョアジーは、1日たりとも勤労大衆を制止しておくことができなくなるだろう。資本主義一掃のこのような道は、最も単純であり、最も経済的であり、最も「人間的」であり、最も確実であろう。もしそれが、可能であるならば…。だが実際には、それは幻想でしかない。
2、いくつかの比較係数
5ヵ年計画は、戦前のロシアに非常に近い水準、すなわち極貧と野蛮の水準で、1928〜29年に始まった。1929(1)〜30年を通じて、巨大な成果が達成された。それにもかかわらず、ソヴィエト連邦は、5ヵ年計画の3年目にあたる今日においてもなお、生産力の点から見れば先進資本主義国よりも帝政ロシアの方にずっと近いことがわかる。ここで、いくつかの事実と数字を挙げよう。
わが国の全生産人口の5分の4は農業に従事している。合衆国では、農業従事者1人に対して工業従事者は2・7人である。
わが国工業の労働生産性は農業の5倍である。合衆国では、農業の労働生産性はわが国の2倍であり、工業では3・5倍である。したがって、合衆国における住民1人当たりの純生産高はわが国のおよそ10倍になる。
合衆国の工業における基礎的機械設備の動力は3580万馬力である。一方、ソ連邦では460万馬力で、およそ8分の1程度である。仮に1馬力が人間10人の力に相当するとみなすならば、合衆国では住民1人あたり3つの鋼鉄の奴隷が工業で働いているのに対し、ソ連邦では住民3人あたりに一つの鋼鉄の奴隷しか働いていないことになる。機械動力を工業だけでなく、輸送や農業でも取り上げるならば、その比率は、わが国にとっていっそう不利なものになるだろう。だが機械動力は、自然に対する人間の力を測る最も近似的なものさしなのである。
5ヵ年計画の終わりに電化計画が完遂されたとしても、ソ連邦はアメリカの電力の4分の1、人口を考慮に入れると6分の1、さらに領土の大きさを考えるともっと小さな部分しか有していないことになろう。しかも、この比率は、ソヴィエトの計画が完全に達成され、合衆国がまったく前進しないという仮定にもとづいたものなのである。
1928年に合衆国は、3800万トンの銑鉄を生産し、ドイツは1200万トン、ソヴィエト連邦は330万トン生産した。鋼鉄では、合衆国が5200万トン、ドイツが1400万トン、ソヴィエト連邦が400万トンである。5ヵ年計画の1年目に、わが国の金属生産高は、合衆国の1880年のそれに等しくなった。ちょうど半世紀前に合衆国は、現在のソ連邦のおよそ3分の1の人口で430万トンの金属を生産した。1929年にソ連邦は、およそ500万トンの粗鋼を生産した。このことは、現在ソヴィエト共和国の市民1人あたりの金属生産高が、半世紀前の合衆国の1人あたりの金属生産高のおよそ3分の1であることを意味している。
合衆国の現在の冶金生産高は、農業の全生産高よりも28%高い。一方、われわれの冶金生産高は、農業生産高のおよそ18分の1である。5ヵ年計画の終わりには、この比率は1:8になるだろう。工業化にとっての冶金の重要性は、農業の集団化にとっての冶金の重要性と同様に説明するまでもない。
5ヵ年計画の終了時には、ソ連邦における住民1人あたりの石炭消費量は合衆国のそれの8分の1になろう。ソヴィエトの石油生産高は、世界の生産高の7%弱であり、合衆国は68%、つまりソ連の10倍も生産している。
より良好な割合は、綿紡績業で見られるが、ここでさえ、われわれの立ち遅れは巨大である。合衆国は、世界の生産高の22・3%を占めており、イギリスは34・8%、ソヴィエト連邦は4・2%である。紡錘の数を人口数と対比させるならば、わが国の立ち遅れはなおいっそう驚くべきものになる。
5ヵ年計画では、ソヴィエトの鉄道網は1万8000〜2万キロメートル拡大し、こうして総計8万キロメートルに達することになっているが、それに対してアメリカの鉄道網は40万キロメートルにも及ぶ。100平方キロメートルの土地に対し、合衆国は51・5キロメートルの鉄道を有し、ベルギーでは370キロメートルであるが、ソ連邦のヨーロッパ地域で13・7キロメートル、アジア地域ではたったの1キロメートルしかない。
商業船舶に関する数字はさらに具合が悪い。世界の商業船舶に占めるイギリスのシェアはおよそ30%であり、合衆国のシェアは2・5%、ソヴィエト連邦は0・5%である。
1927年に合衆国は、全世界の自動車保有台数のおよそ80%を占めていたが、一方ソヴィエト連邦のシェアは、1%の10分の1でも表現できない。5ヵ年計画の終わりには全国で15万8000台の自動車がソ連邦で生産されていることになっている。つまり、1000人以上の人に対して1台の自動車である(現在は、7000人に対して1台である)。オシンスキーによれば、5ヵ年計画の終わりにはわれわれは「少なくともポーランドを多少なりとも追いこしているだろう」(もし、ポーランドが現在の水準のままでいるならばだが)。
最重要諸国の金準備については、合衆国が世界の金の36・2%、フランスが11%で、重要資本主義諸国を10ヵ国あわせて83%である。ソ連邦を含む残りの全世界で17%足らずである。
新聞と出版の分野で、革命前の状況と比べて最も重大な成果が達成された。しかし、まさにこの分野でこそ、立ち遅れがとりわけ大きい。ユーゴスラヴィア、スペイン、ハンガリー、ポーランドなど最も後進的なヨーロッパ諸国でさえ、1人あたりの紙の消費量は6〜7キログラムよりもかなり多いにもかかわらず、わが国のそれはおよそ3・5キログラムである。アメリカ合衆国では1人あたり80キログラム、すなわちソ連邦の23倍の紙が消費されている。先進資本主義諸国の紙の消費量は、現時点におけるわが国1人あたり消費量と比べてばかりでなく、5ヵ年計画終了時に予定されている量と比べてさえ、総じて数十倍多い。したがって、この軽工業の領域においてさえ、すなわち、より大衆に身近で、経済的にだけでなく政治的かつ文化的にも重要な領域においてさえ、課題を解決することは、おしゃべり屋やほら吹きが描き出しているほどけっして簡単にはいかないのである。
3、「われわれは社会主義に入った」
偽りの理論は、不可避的に政治的欺瞞を意味する。「一国社会主義」という誤った教義からは、歪曲された一般的展望ばかりでなく、現在のソヴィエトの現実を糊塗する犯罪的傾向も生じる。
5ヵ年計画の2年目は、すべての演説や論文における次のような文言によって、すなわち「わが国の国民経済は社会主義の時代に入った」という文言によって特徴づけられる。すでに社会主義は「基本的に」実現されていると宣言された。たとえ「基本的に」であれ、生産が社会主義的なものであると考えられるのは、ただ生産が人間の欲求に直接奉仕するために行なわれる場合のみである。しかしながら、わが国では、恐るべき商品飢饉にもかかわらず、重工業はこの1年間に28・1%増大したのに対し、軽工業はたったの13・1%しか増大しておらず、基本的な計画すらやり遂げられていない。実現された割合が申し分なく正しいことを認めたとしても――そんなことはちっともないのだが――、それでもやはり、一種の「社会主義的本源的蓄積」のために、ソ連邦の住民はそのベルトをますますきつく締めざるをえないだろう。しかし、このことは、生産の低い水準では社会主義は不可能であり、ただ社会主義への準備的な一歩だけが可能であることを意味しているのである。
ぞっとするようなことではないか、国は商品飢饉から脱出できず、絶えず供給がとどこおり、子供たちにはミルクがないにもかかわらず、政府の俗物たちは「わが国は社会主義の時代に入った」と宣言するのだから。はたして、これ以上悪質に社会主義の名誉を傷つけることができるだろうか?
工業と農業におけるあらゆる経済的成功にもかかわらず、現在の穀物調達は、経済取引というよりも「政治闘争」であり、言いかえれば、国家の強制にもとづいて行なわれている。エピゴーネンたちの数年間に、スムィチカ[労農提携]という言葉は、あらゆる機会にあらゆる意味で使われてきたが、それがもつ唯一正しい意味では使われていない。スムィチカとは、農村がますますその利益と意欲とを増大させながら農業生産物を工業生産物と交換できるような、都市と農村の経済的相互関係を創造することを意味する。かくして農民とのスムィチカの成功は、穀物調達のための「政治的」方法、すなわち強制が弱まることと同じである。これは、都市と農村の鋏状価格差を縮小することによってのみ達成可能である。しかし、10月革命13年周目にスターリンは、この鋏状価格差を「ブルジョア的偏見」にすぎないと断言した。換言すれば、鋏は閉じているのではなくて開いているということを彼は認めたのだ。スムィチカという単語そのものが、今や公式の辞書から完全に姿を消してしまったという事実は、何も驚くべきことではないのである。
クラークに対する地方権力の圧力が不十分なために穀物調達の進行が遅れていると説明しつつ、穀物調達係の1人は次のような見解に達している。
「クラークの機略に富んだ計画は、ちっとも複雑なものではない。彼が供出すべき穀物量が3トンだとすれば、彼は400ルーブルの罰金を払ってそれを保留することができる。そしてそれを投機市場に売るだけで、彼は罰金に利息を付けた分を取り戻し、さらに2・5トンの穀物を自分のために残しておくことができる」。
この驚くべき計算は、投機市場における穀物価格が、国定価格よりも少なくとも6倍は高いということを意味している。われわれは「利息」がどれぐらいかを知らないので、おそらく8倍ないし10倍高いだろう。スターリンによってブルジョア的偏見と断言された鋏状価格差は、このようにして『プラウダ』紙をつらぬき、若干の先鋭な結末を示したのである。
『プラウダ』紙は、穀物調達の進行具合について、「穀物のための闘争は社会主義のための闘争である」というレーニンの言葉を掲げて日々報道している。しかし、レーニンがこの文言を用いた時、わが国が社会主義の時代へ「入った」という考えとは無縁だった。穀物のために闘争――しかり、闘争なのだ!――しなければならないという事情はただ、わが国が社会主義体制からなおひどくかけ離れていることを示すだけである。
理論の基本的土台を蹂躙して罰を受けずにすむわけがない。生産関係の社会的形態――未熟で未発達で、農業においてはひどく不安定で矛盾している形態――にのみ限定して、社会発展の基本的要因である生産力を捨象してはならない。社会的形態それ自身は、技術の水準に依存して本質的に異なった内容を持っているし、持つことができる。アメリカの生産力を基礎にしたソヴィエトの社会的形態、これはすでに社会主義、少なくともその第1段階にある社会主義である。
今日のソヴィエトの生活様式、勤労大衆の日常生活、文化水準、すなわち読み書きできない者の比率を考慮に入れるならば、嘘をつかず、欺かず、自分自身も他の者もペテンにかけないならば、また官僚のデマゴギーの堕落に身を委ねないならば、――そうすれば、ブルジョアジーとツァーリのロシアの遺産が、ソヴィエトにおける圧倒的多数の住民の日常生活や道徳や生活様式の95%を構成し、社会主義の要素はせいぜい5%にすぎないことを正直に認めなければなるまい。そして、このことは、プロレタリア独裁やソヴィエト体制、経済における巨大な成功という事実に、まったく矛盾してはいない。これらすべては、未来の建築物――あるいはむしろその一角――の周りに建てられた木材の足場にすぎないのである。煉瓦とセメントを持ってこの足場をのぼっていく建設労働者たちに、腹をすかし、しばしば足を滑らせて下に落ちる彼らに、「君たちは、すでにこの建物に住むことができる」――「われわれは社会主義に入った!」――と告げることは、建設労働者と社会主義とを愚弄することである。
4、4年か5年か?
まだ検証されていない5ヵ年計画を4ヵ年計画に切りかえたその軽率さにわれわれは断固反対してきた。これに関して事実は何と語っているだろうか?
2年目における工業生産の増加を示す公式の数字は、24・2%(2)であった。したがって、5ヵ年計画の2年目に予定されていた増加率(21・5%)を2・7%超えたことになる。しかし、4ヵ年計画としてはおよそ6%遅れている。品質と原価に関してかなりの立ち遅れがあることや、帳簿上の比率は鞭の下で達成されていることを考慮に入れるならば、実際には2年目が、せいぜい5ヵ年計画のテンポにしたがっていたのであり、けっして4ヵ年計画のペースにしたがっていたのでないことはまったく明らかである。
資本建設[生産手段の生産]の分野では、1929〜30年の課題は20%ばかり未達成であった。しかも、新しい巨大な冶金工場の建設やコークス生産設備や基礎的な化学・電気設備の建設、つまり工業化全体にとっての土台たる分野において最も大きな立ち遅れが生じている。同時に、計画では建設コストの引き下げを14%実行することになっていたのにもかかわらず、たったの4%しか引き下げられていない。4%というこの帳簿上の数字が何を意味しているかは、コメントせずとも明白である。むしろ、建設コストが増大したのでないならば幸いであろう。したがって、こうした計画の遅れを合わせれば、未達成の比率は20%でなく、30%以上になるだろう。これが、資本建設の分野において5ヵ年計画の3年目が受け継ぐ実績なのである。
計画の最も大きな遅れは、まさに完成品の生産分野で蓄積されてきたのであるから、最初の2年間にある程度なされていたように、計画の「遅滞」を軽工業の犠牲で埋めあわせるようなことは、もうできない。軽工業は、5ヵ年計画によれば1929〜30年に18%拡大するはずであり、4ヵ年計画によれば23%拡大されるはずであった。ところが、実際にはたったの11%(別のデータによれば、13%)しか拡大しなかった。それにもかかわらず、商品飢饉はまさにこの軽工業の分野で法外な努力を要求しているのである。
2年目と「3年目」のあいだに挿入された特別の「4半期」(3)の課題の一つは、「貨幣流通や金融制度全体をできるだけ安定させること」だと説明された。これは、5ヵ年計画の最初の2年間における経験主義的で無計画な指導の結果、金融制度が不安定になったことを認めたものである。通貨インフレは、最初の2年間が将来に対して無担保の貸付けをしたということ、それゆえ、次の2、3年のうちにこの借金を清算しなければならないということ以外の何ものも意味しない。貨幣流通安定化の訴えは、「われわれは社会主義の時代に入った」にもかかわらず、チェルヴォーネツ[金貨の単位]を清算するどころか、それを支えなければならないということを示している。その際、理論的な意味はまったくひっくり返ってしまっている。
あらゆる誤りや誤算、あらゆる変動、不均衡、遅滞、中間主義的経済指導の幻惑や偏向が、チェルヴォーネツの病的な状態のうちに集約されている。この病的なチェルヴォーネツが、5ヵ年計画の最初の2年間の遺産として3年目に受け継がれるのである。インフレーションの惰性を克服することはそれほど簡単ではない。特別4半期の最初の月における金融計画の実行の歩みが、すでにそのことを証明している。しかし何はともあれ、チェルヴォーネツの再建(それは絶対に必要だ)の成功が、工業と経済にとって多かれ少なかれデフレーションの危機をもたらすということを忘れてはならない。未来が負った無担保の貸付は――潜在的な貸付はなおさら――、けっしてただでは済まないのである。
この2年間における工業生産の一般的成長に関して言えば、5ヵ年計画上の47%に対して52%である。すなわち帳簿上4・5%上回ったにすぎない。質の面での到達の遅れを計算に入れるならば、最初の2年間にせいぜい5ヵ年計画の基本見積もりに近づいたにすぎず、しかも全体として――すなわち一連の内的不均衡を度外視すれば――近づいたにすぎないとわれわれは確信をもって言うことができる。
5ヵ年計画の最初の2年間における重い遺産に関しわれわれが上で与えた性格は、達成された成果の意味をけっして引き下げるものではない。これらの成果は巨大であり、その歴史的意義は、指導の絶え間ない誤りにもかかわらず獲得されただけにいっそう重要である。しかし、この実際の成果は、5年から4年への軽率な飛躍を正当化しないだけでなく、予定されている計画が5年で実現される保証にすらならないのである。なぜなら、最初の2年間に作り出された不均衡と「遅滞」が残りの3年間で支払われなければならないからである。このことを予見する能力が少なければ少ないほど、もしくは警告の声に耳を傾ける能力が少なければ少ないほど、支払いはますます重くなるだろう。
進行中の5ヵ年計画を点検し、ある部門を引き上げ他の部門を抑えること――これが経済指導の基本的な課題である。そしてそれは、アプリオリな、したがって必然的に非現実的になる、不正確な課題にもとづいてではなく、諸経験の誠実な考慮にもとづいて行なわれなければならない。しかし、まさにこの課題は、党や労働組合やソヴィエトにおける民主主義の存在を前提としている。社会主義建設の調整は、「総」指導――それは、実際には、総破産、総危機なのだが――の無謬性というばかげていると同時に途方もない原則によって妨害される。
※ ※ ※
10月27日付の『プラウダ』自身、次のことを確認せざるをえなかった。
「われわれは、大衆消費用の食料や工業製品を供給する上での困難に陥っている」。「社会主義建設のテンポを完全に保証するのに必要な金属や石炭や電気エネルギーや建設材は、今のところまだ非常に不足している」。「わが国の輸送網ははなはだ不十分にしか工業製品や農業生産物の輸送を保証していない」。「国民経済は、労働力と熟練した専門家の人材の深刻な不足に直面している」。
このことからして、4ヵ年計画への移行が明白に冒険主義的な措置であったということになるのではないか? だが『プラウダ』にとってはそういうことにはならない。『プラウダ』はこう書いている。
「1929〜30年における資本建設の未達成は、客観的原因がないにもかかわらず、党内のクラークの代理人――右翼反対派――に、党によって採択されたテンポが分不相応であったという金切り声をあげる口実を与えている」(1930年11月3日)。
こんなふうにしてスターリニストは、右派との相違を4年か5年かというジレンマに帰着させることによって、できるだけ右翼のためにお膳立てをしてやっているのである。しかしながら、この問題は「原則的に」解決されるのではなく、ただ経験にもとづいてのみ解決されるのだ。12ヶ月というこの相違のうちには、2つの方針はまだまったく存在していない。しかし、この官僚的な問題設定は、中間派自身が右派と中間派との相違をどのように評価しているを測る絶好の尺度をわれわれに与えているのである。彼らはお互いを4:5という比率のうちに関係づけているが、それはせいぜい20%の違いにすぎない。だが、それでも計画が4年で達成されないということを経験が示したらいったいどうなのか? それは、右翼が正しかったことを意味するのか? はたしてそうなのか?
とりあえず、いわゆる特別4半期(1930年の10月と11月と12月)が2年目と3年目の間に挿入された。5ヵ年計画の3年目は、もはや特別4半期を考慮に入れないので、今や1931年の1月1日より公式に始まる。かくして、右派との違いはすでに20%から15%に縮小された。このくだらない方法は、何のために必要なのか? それは「威信」のために必要なのであって、けっして社会主義のためではない。
彼らが特別4半期でもって埋め合わせざるをえなかった遅滞は、『プラウダ』によれば「客観的原因がないにもかかわらず」生じた。これは、まさに慰めのための説明であるが、このような説明では未完成の製品や工場の代わりにはとうていならない。「無能力」や「イニシアチブの欠如」などといった主体的要因が、主体の――より正確に言えば官僚機構の――影響のもとにあるのは、一定の限界の範囲内においてだけであり、その限界を越えれば、それは客観的な障害に転化するという点にこそ、まさに不幸があるのだ。なぜなら、それらは結局のところ技術と文化の水準によって規定されているからである。たとえば近視眼的な「総」指導という主体的原因によって実際に引き起こされた「遅滞」でさえ、それ自身、さらなる発展の可能性を制限する客観的要因となるのである。日和見主義が客観的条件への受動的順応(「追随主義」)によって特徴づけられるとすれば、日和見主義の対極にいる兄弟たる冒険主義は、客観的要因に対する尊大な大胆さによって同じぐらい特徴づけられる。今日におけるソヴィエトの新聞の合言葉は、「ロシアの人間にとって不可能なものはない」というものである。
『プラウダ』の記事(スターリン自身は慎重に沈黙している)は、先見の明、集団的考慮、経済の弾力的な調整が、今後も「総」鞭によって置きかえられるということを意味している。『プラウダ』は、いくつかの場合において、「遅滞は、生産過程全体の技術革新にもとづいてよりもむしろ、革命的人民大衆にもとづいて一掃された」(11月1日付)ことを認めている。この承認が何を意味するかは、まったく明白である。
もちろん、実際に問題となっているのが、次の2、3年で先進資本主義諸国を追いこして社会主義経済の堅固さを確保するということであるなら、労働者の筋肉と神経への一時的な圧迫は、理解しうるだけでなく正当化することさえできるだろう。しかし、先に見たように、この課題は、曖昧かつ欺瞞的でデマゴギッシュな形で労働者に提起されている。神経の絶えざる緊張が、内戦の終わりに表面化した反動よりもはるかに恐るべき反動を大衆の間に引き起こすおそれがある。たとえ幸いなことに5ヵ年計画が実現されたとしても、「追いつき追いこせ」の課題が解決されないばかりでなく、どんなすさまじい緊張をもってしても5ヵ年計画そのものが4年では達成されないがゆえに、なおさらこの危険性は深刻なものになる。それだけではない。指導の行政的冒険主義のおかげで、5年での計画の実現すらますます不確実なものとなっている。「総」威信のために計画の字面を維持しようとする愚鈍で盲目的な頑固さは、一連の危機を不可避的なものにしている。そして、その危機は経済成長を妨げ、公然たる政治的危機に転化する可能性がある。
5、ソ連邦と世界市場
かくして、工業の成長――それは規模の点で例外的なものだった――に関する総括は、状況の真実の姿を提供していない。というのは、5ヵ年計画の3年目が始まった時(1930年10月1日)の経済的かつ政治的に不利な諸条件を特徴づけていないからである。経済のより具体的な分析は、成功についての十把一からげ的な統計が一連の深刻な矛盾を隠しているということを示している。その矛盾とはすなわち、(1)都市と農村との矛盾(鋏状価格差、食糧や原料の不足と農村における工業製品の不足)、(2)重工業と軽工業との矛盾(原料が供給されない企業、商品不足)、(3)チェルヴォーネツの名目購買力と実質購買力との矛盾(インフレーション)、(4)党と労働者階級との矛盾、(5)機構と党との矛盾、(6)機構内部の矛盾である。
しかし、これらのいわゆる「国内」矛盾は別にしても、事物の論理からしてますます重要になる矛盾がある。すなわち、ソヴィエト経済と外国市場との矛盾である。
外国貿易の独占による保護のもとに国内的基礎にもとづいて調和的に発展する閉鎖的な社会主義経済という反動的ユートピアが、計画化全体の出発点をなしている。喜んで当局に出向き、自らの反国家的な目的※と偏見とを結合しているゴスプランの専門家たちは、工業化のテンポにおける下降曲線ばかりでなく外国貿易における下降曲線にもとづいて5ヵ年計画の最初の草案を作成した。それは、10年か12年の後には、ソ連邦は完全に輸入を停止してしまうということを予定していた。他方では、その同じ計画は、収穫の増大を、したがってまた輸出の可能性の増大を予定していた。わが国の余剰穀物と他のすべての余剰生産物とをいったいどうするのか、という疑問は不明のまま残された。それを海にでも投棄するつもりなのか?
※原注
『反対派ブレティン』の本号所収の論文「妨害者裁判は何を教えるか」を見よ。しかしながら、5ヵ年計画の最初の草案が反対派の圧力のもとで原理的に修正される以前に、事態の経過そのものが孤立経済の理論と実践に亀裂をもたらした。
世界市場は、どんな国の経済にとっても、すなわち資本主義国だけでなく社会主義国の経済にとっても、巨大で、事実上無尽蔵の資源を提供している。ソヴィエト工業の成長は、一方では技術的・文化的要求を、他方ではあらゆる新しい矛盾を生み出し、それによってソヴィエト工業を外国貿易にますます頼らざるをえなくする。同時に、自然的な諸条件が原因で、工業は不均衡に発展し、工業がその国の基本的な必要を全体として満たすはるか以前に、個々の部門(たとえば、石油や木材)において輸出の切実な必要性を生み出す。それゆえ、ソ連邦における経済生活の再建はけっして経済の孤立化をもたらすのではなく、反対に世界経済との結びつきの増大を、したがってまた世界経済への依存の増大をもたらすのである。この依存の性格は、一方では世界経済におけるソヴィエト経済の比重によって規定され、他方でより直接的には、国内原価と先進資本主義諸国の原価との相互関係によって規定されている。
それゆえ、世界市場へのソヴィエト経済の参入は、広い展望をもった計画的予測にもとづいて行なわれたのではなく、反対に、すべての予測とは逆に、切実な必要に迫られて、すなわち、機械や必要な種類の原料および補助材料の輸入が工業の全部門の計画にとって「ボトルネック」であることが明らかとなった時に行なわれたのである。そして、輸入の増大は、輸出の拡大を通じる以外にありえない。
ソヴィエト国家は、輸出しないわけにはいかないがゆえに輸出するのであり、しかも世界経済によって現在決定されている価格で売らざるをえない。こうして、ソヴィエト経済はますます世界市場のコントロール下に入っていくばかりでなく、さらには――もちろん屈折し変化した形でだが――、資本主義世界の景気変動の影響圏内に引き入れられていく。1929〜1930年の輸出計画は、予定されていた規模では全然実現されなかったにもかかわらず、世界恐慌のおかげで金融的にかなりの損害を被った。このようにして、左翼反対派と中間派とによる多くの論争の一つは、その解決を見出だすのである。5ヵ年計画を作成する必要性のために闘争していた時に、われわれは時機を失せずすでに次のような考えを提起していた。すなわち、5ヵ年計画は単なる第1段階でしかなく、設備更新の平均期間を包含し、それによってとりわけ世界の景気変動に適応するために、5ヵ年計画から8〜10年の将来計画にできるだけ早急に移行しなければならないという考えである。反対派の代表者はその時次のように語った。
「戦後資本主義のいくぶん長期にわたる安定は、戦争によって破壊された商工業循環を不可避的に復活させるであろう。そして、われわれは世界の景気変動からの架空の独立によってではなく、この景気変動に巧みに適応することによって、すなわち好況から得るものをできるだけ多くし、恐慌で失うものをできるだけ少なくするような方法によって、われわれの計画を立てざるをえなくなるであろう」。
スターリンやブハーリンをはじめとする公式の指導者たちが、今では事実と化しているこの予測に対して、一国社会主義という俗悪な考えを対置したことをここで思い起す必要はない。経済の指導者たちが、事物の単純な論理を予見しなくなればなるほど、現在の輸出はますます混乱した性格を持つであろう。
ソヴィエトの外国貿易の短い歴史から、そして、増大したとはいえまだ量的にきわめて取るに足りないこの1年間の輸出が逢着した諸困難から、単純な、だが将来にとってきわめて重大な結論を引き出さなければならない。将来におけるソヴィエト経済の成功が大きければ大きいほど、対外的な経済的結びつきはますます拡大するに違いない。その逆定理はより重要である。すなわち、ソヴィエト経済が時機を失せず部分的恐慌を克服し、部分的不均衡を減じ、さまざまな部門を動的に均衡させることができるのは、輸出入をできるだけ拡大する場合だ、ということである。
しかしながら、主要な、そして究極的には決定的な問題と諸困難にぶつかるのは、まさにここなのである。社会主義経済の発展のために世界市場の資源を利用する可能性は、すでに述べたように、一定の標準的品質を備えた商品1単位あたりの国内原価と世界原価の相互関係によって直接的に規定されている。しかし、テンポの官僚的競い合いのおかげで、この分野において何らかの成果を挙げることができなかっただけでなく、問題を真剣に提起することさえできなかったのである。
第16回党大会報告の中で、スターリンはこう言った、われわれの生産物の品質は時おり「ひどい」場合がある(官僚はこのような言い方で、あらゆる欠陥を取りつくろうとするのだ)、と。これは、「忌まわしい」後進性という表現と完全にパラレルである。われわれは、正確なデータのかわりに、非常に力強いが実際には現実の卑劣な糊塗にすぎない言い回しを差し出されるのである。後進性は「忌まわしい」、品質は「ひどい」というわけだ。しかし、2つの数字、2つの平均的な比較係数があれば、現代の賢者の10時間の演説を満たしている安っぽい新聞統計の山――この分野でも質の不足を量が補っている――よりも、比較にならないほど価値ある方向性を党と労働者階級に与えることができたであろう。
原価よりも安い値段でソヴィエト製品を販売することは、輸入のために、ある程度まで不可避であり、経済全体の見地から完全に正当化される。しかし、ある程度まででしかない。輸出の増大は今後、原価の内外格差が大きくなるにつれて、ますます大きな障害に逢着するだろう。ここで、国内工業と世界工業の質および量の比較係数の問題が、特別の明瞭さと実践的な先鋭さをもって提起される。ソヴィエト経済の運命は、経済的には、外国貿易との結節点において決定され、政治的には、全ソ共産党をコミンテルンに結びつけている結節点において決定されるのである。
※ ※ ※
世界の資本主義メディアが、ソヴィエトの輸出の増大を、文明の基礎を転覆する目的をもったダンピングとして描き出し、ロシアから亡命した買弁ブルジョアジーとそれに付属した買弁民主派はさっそくこのスローガンを借用したが、このことは、ルーマニアやポーランドやそれより大きく強力な猛獣のために、買弁亡命者新聞がソ連邦の国防秘密を暴露していることと同様、何ら驚くべきことではない。ダンピング問題のなかには、驚くような卑劣さはなく、あるのは愚鈍さなのであり、それも驚くようなことでない。買弁ブルジョアジーにあまり知性を求めてはならない。リベラル派と民主派は、ソヴィエトの「ダンピング」を世界経済への脅威として描くことによって、ソヴィエト工業が世界市場を揺るがすほどの力を持つに至ったことを認めているのである。だが、残念なことに、それは違う。
ソヴィエトの輸出は、現在その規模をかなり増大させたとはいえ、それでも世界の輸出の1・5%しか占めていない、と言えば十分だろう。このおかげで、資本主義の腐朽にもかかわらず、それを転覆することができないのである。1・5%の輸出を通じて世界革命を引き起こすなどという意図をソヴィエト政府に帰すことができるのは、札付きの間抜けだけである。もっとも、間抜けだからといって、ろくでなしであることに変わりはないのだが。
世界経済へのソヴィエトの侵入として描かれていることは、それよりもはるかに、ソヴィエト経済への世界経済の侵入なのである。この過程は、しだいに2つの体制間の経済的対決へと化しながら、拡大していくであろう。こうした展望に照らしてみれば、「その国自身のブルジョアジーに対する勝利によって社会主義建設が保証され、それ以後の対外関係は軍事干渉に対する闘争に限られる」という素人哲学がいかに幼稚であるかをわれわれは知るのである。
世界恐慌の最初の時点ですでに、反対派は、ソ連邦との経済協力の強化のための国際プロレタリアートのキャンペーンを開始することを提案した。恐慌と失業とがこのキャンペーンを緊急なものにしているにもかかわらず、それは実に馬鹿げた口実でもって拒否された。ところが実際には、反対派がその提案をしたがゆえに拒否されたのである。今や、ソヴィエトの「ダンピング」に対する世界的攻撃が原因で、コミンテルンの各支部はやはり、われわれが時機を失せず提案したソ連邦との経済協力のためのキャンペーンを行なわざるをえなくなっている。しかし、これは何とみじめで折衷的なキャンペーンだろうか。明確な考えもなければ展望もない。それは、計画的な攻勢ではなくて無秩序な防衛のキャンペーンである。このように、この実例においても、官僚の金切り声の背後には、あの同じ「追随主義」が、たった一つの問題においてすら政治的イニシャチブをとれないあの同じ無能力が隠されていることがわかるのである。
6、結論
1、5ヵ年計画を4年で達成するという決定は誤りであったことを公然と認めること。
2、最初の2年と特別4半期の経験を党内での全面的で自由な研究・討議の対象にすること。
3、討議の際の基準は、(1)最適の(最も合理的な)テンポ、すなわち現在の指令の実現を保証するだけでなく、今後何年にもわたって急速な成長の動的均衡をも保証するようなテンポ、 (2)実質賃金の系統的な引き上げ、(3)工業と農業の鋏状価格差の縮小、すなわち農民とのスムィチカの確保である。
4、いかなる場合においても、コルホーズを社会主義と同一視することなく、コルホーズ間においてもコルホーズ内においても、不可避的に生じる階層分化の過程を注意深く監視すること。
5、通貨制度の健全化の問題を公然とかつ計画にしたがって提起すること。さもなくば、パニック的な官僚的デフレーションは、インフレーションに優るとも劣らぬ脅威となるおそれがある。
6、世界経済との結びつきの増大を展望しながら、外国貿易の問題を根本問題として提起すること。
7、ソヴィエトの生産物と先進資本主義国の生産物との比較係数の体系を、輸出入の実践的課題のためのガイドとして、また「追いつき追いこせ」の課題の唯一正しい基準として作成すること。
8、官僚の威信に対する配慮によって経済を指導するような事態に終止符を打つこと。誇張したり、沈黙したり、欺いたりしないこと。その水準からして、先進資本主義よりもむしろツァーリとブルジョアジーの経済に近い現在の過渡的なソヴィエト経済を社会主義と呼ばないこと。
9、一国社会主義の理論から必然的に導かれる経済発展の誤った国内的および国際的展望を放棄すること。
10、「総」無謬という実践的に破滅的で革命党にとって屈辱的でまったく愚劣なローマ・カトリック教会的ドクマときっぱり手を切ること。
11、党を再生し、官僚的機構の独裁を打倒すること。
12、スターリニズムを断罪し、マルクスの理論とレーニンの革命的方法論に立ち返ること。
1930年11月
『反対派ブレティン』第17/18号
『トロツキー研究』第4号より
訳注
(1)ロシア語原文は「1924」となっていたが、英訳に沿って修正した。
(2)ロシア語原文では「24%」となっていたが、英訳に沿って修正した。
(3)この年、経済年度末を10月から1月に遅らせ、追加の4半期を挿入した。
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