ソ連邦の発展の諸問題

(ロシア問題に関する国際左翼反対派の政綱案)
トロツキー/訳 西島栄

【解説】この論文は、この間のソ連における冒険主義的経済路線(超工業化と強制的農業集団化)に対する批判を総括し、左翼反対派の課題について詳しく論じたものである。これは、『反対派ブレティン』の特別号として出され(右の写真を参照)、「ロシア問題に関する国際左翼反対派の政綱案」という副題がつけられている。

 この論文の中で、トロツキーは、ソ連で行なわれた技術者とメンシェヴィキに対するいわゆる「妨害者裁判」を額面通り信じ、実際にこれらの親資本主義分子が工業化を遅らせるために陰謀を働いていたというソ連司法の言い分を鵜呑みにしている。歴史が示しているように、この2つの裁判はでっち上げであり、後のより大規模なでっち上げ裁判(モスクワ裁判)の予行演習であった。スターリニスト指導部は、これまでの工業化の遅れの責任を逃れるためにスケープゴートを必要とした。その格好の餌食になったのが、技術者やメンシェヴィキ活動家だったのである。この時点では、トロツキーは、スターリニスト指導部がこれほどまでにひどいでっち上げ裁判をやるほど堕落しているとは思わなかったのだろう。後に、トロツキーは、この裁判もでっち上げだったことを知ることになる。

 この論文はすでに『トロツキー研究』第4号に訳出されているが、そのときは、紙幅の都合上、かなりの部分を割愛した(割愛した節は※マークを章題の右肩に入れてある)。今回は、割愛部分をすべて訳出し、初の全訳になっている。また、『トロツキー研究』で訳したときには「ソ同盟」としていたが、この「トロツキー・アルヒーフ」ではすべて「ソ連」ないし「ソ連邦」で統一しているので、今回もそのように表記してある。また、『トロツキー研究』では「国民投票的」と訳した単語(плебисцитарный)は、今回は「ポピュリスト的」と訳している。『トロツキー研究』に掲載するときも、どちらにするか迷ったのだが、結局、辞書にある意味を採用した。しかし今回、やはり「国民投票的」では意味が通じにくいので、文脈から判断して「ポピュリスト的」と訳しなおした。

Л.Троцкий, Проблемы развития СССР, Бюллетень Оппозиции, No.20, Апрель 1931.

Trotsky Institute of Japan


 1、過渡期の経済的矛盾

 2、独裁システムにおける党

 3、反革命の危険性と可能性

 4、左翼反対派とソ連邦

 5、結論


 

1、過渡期の経済的矛盾

 

  ソ連邦の階級的本質

 ソ連邦の経済と政治における矛盾した過程は、プロレタリア独裁の基礎上で展開されている。社会体制の性格は何よりも所有関係によって規定される。国有化された土地や国有化された工業の生産・交換手段、国家の手中にある外国貿易の独占、これらはソ連邦の社会制度の基礎をなしている。10月革命によって収奪された諸階級が、新しく形成されたブルジョア分子として、また官僚のブルジョア的部分として、土地や銀行や工場や鉄道その他において私的所有を再建することは、反革命的変革によってしか不可能である。階級関係の基礎にあるこの所有関係によって、われわれはソヴィエト連邦の本質をプロレタリア国家として規定するのである。

 外国の干渉と、君主主義者や以前の地主から「民主主義者」やメンシェヴィキやエスエルに至る国内敵の破壊的企図からソ連邦を防衛することは、あらゆる革命的労働者の基本的で争う余地のない義務であり、ボリシェヴィキ=レーニン主義者にとってはなおさらそうである。この問題に関しどっちつかずの態度をとったり留保条件を課すことは、実際には、帝国主義とプロレタリア革命の間をふらふらする小ブル的ウルトラ急進主義の動揺を現わしており、国際左翼反対派に属することと両立しない。

 

   経済発展の高いテンポが有する世界史的意義

 現在ソヴィエト経済が実に巨大な成功を収めることができているのは、所有関係の革命的な変革のおかげであり、この変革は計画によって市場の無政府性を克服する前提条件を作り出した。

 資本主義は、現在ソ連邦の領土で行なわれているような経済成長の進歩をけっしてもたらさなかったし、もたらすことができない。工業化の未曽有の高いテンポは、エピゴーネンたちの指導部の予期や計画に反して自己の道を切り開き、経済の社会主義的方法の威力をはっきりと示した。ソヴィエトの架空の「ダンピング」に対して帝国主義者は激しい闘争を行なっているが、それが故意のものでないだけにいっそう、ソヴィエトの経済様式が有する優位性の――彼らの側からの――真実の告白となっている。

 後進性や分散性や野蛮状態が最も深く根ざしている農業分野においても、プロレタリア独裁の体制は巨大な創造力を発揮することに成功した。将来における反動や後退がどんなに大きかろうとも、土地・信用・工業の国有化と労働者の指導的役割にもとづいてのみ可能な現在の集団化のテンポは、人類の発展の新時代、「農村生活の愚昧」の一掃の開始を刻印している。

 歴史的に考えうる最悪の場合ですら、すなわち、封鎖、干渉、内戦がプロレタリア独裁を打倒するような場合ですら、社会主義建設の偉大な教訓は、今後の人類の発展にとって完全に有効であり続けるだろう。一時的に敗北しても、10月革命は経済的かつ文化的な意味で完全に正当化されるだろうし、したがって再びよみがえるだろう。しかしながら、プロレタリアートの前衛にとって最も重要な課題は、10月革命を守り強化することによって、そしてそれを世界革命の序曲に転化することによって、この最悪の歴史的可能性を未然に防ぐことにある。

 

   過渡期の基本的諸矛盾

 運命論的楽観主義という現在支配的な公式の教義は完全に偽りである。それによれば、今後の急速な工業化と集団化とは、あらかじめ自動的に、一国における社会主義の建設を保証することになっている。

 発達した社会主義経済が、調和的で内的に均衡した、したがってまた恐慌のない社会としてのみ可能であるとすれば、その反対に、資本主義から社会主義への過渡期における経済は諸矛盾のかまど、しかも最も深刻かつ先鋭な矛盾をまだ前方に控えたそれである。ソヴィエト連邦は、スターリンの支配分派が教えていることとは違って、社会主義に入ったのでなく、ただ社会主義に向けた最初の発展段階に入ったにすぎない。

 経済的諸困難、あいつぐ諸危機、全ソヴィエト制度の極端な緊張とその政治的衝撃、これらの基礎には、さまざまな歴史的起源を有し相互に結びついている一連の諸矛盾が存在している。その最も主要なものを以下に列挙する。

 (1)ツァーリとブルジョアの旧ロシアがはらんでいた資本主義的および前資本主義的矛盾の遺物、何よりも都市と農村との矛盾

 (2)ロシアの全般的な文化的・経済的後進性と、この後進性から弁証法的に出てくる社会主義的変革の課題との矛盾

 (3)労働者国家と資本主義的包囲との矛盾、とりわけ、外国貿易の独占と世界市場との矛盾 

 これらの矛盾は短期的でエピソード的な性格を持ったものではけっしてなく、反対に、その最も重要な意義は今後ますます増大するだろう。

 

   過渡期の矛盾――工業化

 5ヵ年計画が達成されるならば、それは、プロレタリアートが搾取者の手から奪い取った微々たる遺産と比べて巨大な前進であろう。しかし、ソヴィエト連邦は、その最初の計画に勝利しても、まだ過渡期の最初の段階を卒業したことにはならない。社会主義は、市場のための生産システムではなく、人類の欲求を充足するための生産システムであり、したがって、ただ高度に発達した生産力にもとづいてのみ考えうる。だが、ソ連邦は、人口1人あたりの富の量を基準にすれば、5ヵ年計画の最後の年になってもまだ最も後進的な国のうちの一つであろう。実際にソ連邦が先進資本主義国と肩を並べるためには、いくつもの5ヵ年計画が必要となろう。

 だが、ここ数年の生産上の成功は、それ自体で将来における絶え間ない成長を保証するものではけっしてない。工業の発展が急速であること自体が不均衡を蓄積する。その不均衡は、一部は過去から受け継がれ、一部は新しい課題の複雑さから生じ、一部は直接的な妨害行為と結びついた指導部の方法論上の誤りから生じている。何らかの本格的な集団的点検がないもとで、行政的な鞭あてが経済指導に取って替わってしまったことによって、この誤りは不可避的に経済の基盤そのものに持ち込まれ、経済過程の内部に次々と新しい「ボトルネック」が準備される事態になっている。内部に追いやられた不均衡は、次の段階で、不可避的に生産手段と原料との間の不一致として、輸送と工業との間の、量と質のと間の不一致として、最後に、通貨制度の混乱として、はね返ってくるだろう。国家の現在の指導部が時機を失せずこのことを予見することができないほど、これらすべての危機はますます大きな危険性をもたらすことになるだろう。

 

   過渡期の矛盾――集団化

 「全面的な」集団化は、たとえそれが実際に今後2、3年のうちに成し遂げられたとしても、けっして階級としてのクラークを一掃することにはならないだろう。生産協同組合の形態は、技術的および文化的基礎が不十分である場合、小商品生産者内部の階級分化をくい止めることはできないし、その層の中から資本主義分子が発生することをくい止めることもできない。クラークの真の一掃のためには、農業技術の完全な革命が必要であり、農民が工業プロレタリアートとともに社会主義経済の担い手に、そして無階級社会の一員に変化することが必要である。しかし、この展望は数十年に及ぶものである。

 それに対して、個人用の農具が優勢で、その所有者の個人的ないしはグループ的な利害関係が優勢である場合には、農民の階級分化は、まさに集団化がある程度成功した時に、すなわち農業生産が全般的に増進する時に、不可避的に再開され強化されるだろう。

 新しい農業技術の要素を伴った集団化は著しく農業の労働生産性を引き上げるであろうが、それがない集団化は経済的に正当化されないだろうし、したがって維持されえないであろう。そうなれば、今ですら過剰人口に悩まされている農村に、1000万から2000万以上の過剰労働力が生じるだろう。最も楽観主義的な計画のもとですら、これだけの過剰労働力を工業に吸収することはできない。コルホーズに自分の居場所をもたない過剰人口、すなわち半プロレタリア的・半窮民的人口の増大に照応して、もう一方の極では、豊かなコルホーズが成長し、貧・中コルホーズ内部の比較的裕福な農民が増大するだろう。コルホーズをアプリオリに社会主義的企業と同一視する近視眼的な指導のもとで、資本主義的農場主分子は集団化のうちによりよい隠れ蓑を見い出だすことができるのであり、それはプロレタリア独裁にとってますます危険となるだろう。

 したがって、現在の過渡期における経済的成功は、基本的矛盾を解消するのではなく、その矛盾が新たなより高い歴史的基礎の上で、いっそう深刻な形で再生産されるのを準備しているのである。

 

   過渡期の矛盾――ソ連邦と世界市場

 資本主義ロシアは、その後進性にもかかわらず、すでに世界経済の不可分の一部であった。ソヴィエト共和国は過去から、国の地理的・人口的・経済的構造と並んで、全体に対する部分のこうした依存を受け継いだ。1924〜1927年に形成された、自足的な一国社会主義という理論は、まだ世界的な要求に目覚めていなかった戦後の経済復興期の最初の極度に低い段階を反映したものである。ソヴィエトの輸出を拡大するために現在遂行されている激しい闘争は、民族社会主義の幻想に対する明々白々な反駁である。外国貿易の数値はますます、社会主義建設の計画とテンポに関する目標数値になりつつある。とはいえ、外国貿易の問題、言いかえると、ソヴィエトの過渡期経済と世界市場との相互関係の問題が有する決定的な意義は、ようやく明らかになり始めたばかりである。

 もちろん、ソ連邦の国境内での閉鎖的で内的に均衡のとれた社会主義経済をアカデミックに構想することも可能であろう。しかし、この「一国的」理想に向けた長い歴史的道のりの途上には、巨大な経済的変化とさまざまな社会的変動や危機が待ちかまえている。現在の生産力を倍増させることだけが、すなわちヨーロッパの生産力に近づくことだけが、数千万トンに及ぶ余剰農産物を現金化するという壮大な課題をソヴィエト経済に提起することができる。そして、この問題や、農村における過剰人口というそれに劣らず先鋭な問題を解決することは、経済のさまざまな分野に莫大な数の人間を根本的に再配分することによってのみ、また都市と農村との間の矛盾を完全に解消することによってのみ可能となるであろう。しかしこの課題――社会主義の基本課題の一つ――は、それはそれで、未曽有の規模で世界市場の資源を利用することを求めているのである。

 したがって、結局のところ、ソ連邦の発展が内包するすべての矛盾は、孤立した労働者国家とその資本主義的包囲との間の矛盾に帰着する。自足的な社会主義経済を一国において建設することは不可能であり、したがって、社会主義建設の基本的矛盾は、新たな発展段階のそれぞれにおいて、ますます大規模に、ますます深刻に、復活することになる。

 この意味で、もし残りの全世界における資本主義体制が長期の歴史時代にわたってもちこたえるならば、不可避的にソ連邦におけるプロレタリア独裁は崩壊するであろう。しかしながら、このような展望を不可避であるみなしたり、もしくは最もありうることだと考えることができるのは、資本主義の堅固さやその永続性を信じている者だけである。左翼反対派はそもそもこのような資本主義的日和見主義とは無縁である。しかし、左翼反対派は、資本主義的楽観主義への降伏を表わしている一国社会主義の理論とも、同じくらい和解することができない。

 

   世界恐慌および帝国主義とソ連邦との経済「協力」

 ソ連邦の指導機関は、今や例外的な鋭さを帯びている外国貿易の問題に不意に直面し、すでにそれだけでも、この問題は経済計画を破綻させる要因となった。コミンテルンの指導部もこの問題の前では無力であることがわかった。世界的な失業のおかげで、資本主義諸国とソ連邦との経済的協力をいかに発展させるかという問題が、労働者階級の広範な大衆にとって死活的な問題になった。この死活にかかわる焦眉の問題のおかげで、社会民主党労働者や無党派労働者に、ソヴィエト5ヵ年計画について、また経済の社会主義的方法の優位性について知らせしめるまたとない可能性が、ソヴィエト政府とコミンテルン指導部の前に開かれている。具体的な綱領を十分備えた共産主義的前衛は、経済協力というスローガンのもとで、いつも同じ呪文を繰り返すよりもはるかに効果的に封鎖や干渉と闘うことができるだろう。計画的なヨーロッパ経済と世界経済の問題は未曽有の高さにまで引き上げられ、こうしてそれは世界革命のスローガンの新しい武器となりうる。だが、コミンテルンはこの問題に関してほとんど何もしていない。

 社会民主党のメデイァをも含む世界のブルジョア・ジャーナリズムがソヴィエトの架空のダンピングを攻撃するためにいっせいに動員されているにもかかわらず、各国共産党は茫然自失として足踏み状態にある。ソヴィエト政府が全世界の面前で外国の市場と資源とを探しているにもかかわらず、コミンテルンの官僚は、ソ連邦との経済的協力というスローガンを「反革命的」スローガンであると宣言している。まるで労働者階級を混乱させるためにわざわざつくり出されたかのようなこの種の恥ずべき愚行は、一国社会主義という破滅的な理論の直接的な帰結なのである。

 

2、独裁システムにおける党

 

   経済と政治の弁証法的な相互関係

 過渡期経済の経済的矛盾は真空で展開されているわけではない。プロレタリア独裁体制の政治的矛盾は、結局のところ経済的矛盾から起こってくるとはいえ、独裁の運命にとって独立した、しかも経済危機よりも直接的な意義を有している。

 国有工業とソフホーズの成長が自動的かつ絶え間なくプロレタリア独裁の体制を強化するという現在の公式の教義は、弁証法的唯物論の産物ではなく、俗流的な「経済主義的」唯物論の産物である。実際には、経済的土台と政治的上部構造の間にある相互関係ははるかに複雑で矛盾した性格を有しており、革命の時代にはとりわけそうである。ブルジョア的社会関係から生まれたプロレタリア独裁は、工業の国有化と農業の集団化に先行する時期にその威力を発揮した。その後、独裁は、国内および世界の階級闘争に依存して、強化されたり弱体化したりする時期を経過した。経済的成果は、しばしば体制の政治的弱体化を代償にしてあがなわれた。経済と政治のまさにこの弁証法的な相互関係こそが、直接的には、ネップに始まり最近の集団化のジグザグに至るソヴィエト政府の経済政策の大転換をもたらしたのである。

 

   道具としての、そして成功の尺度としての党

 あらゆる政治組織と同様、党もまた最終的には社会の生産関係の産物である。しかし、党は生産関係の変化を測る自動計測器ではけっしてない。党は、プロレタリアートの――ある意味では全人類の――歴史的経験を凝縮したものであり、経済的および政治的諸条件の時々のエピソード的な変化を超越している。このことによってのみ、党は予測とイニシアチブと抵抗に必要不可欠な力を与えられるのである。

 ロシアに独裁が打ち立てられ、しかもそれが最も危機的な瞬間にもちこたえているのは、ボリシェヴィキ党に代表される、意識と意志の中核がロシアに存在するからに他ならない。この結論はまったく議論の余地のないものとして考えることができる。あらゆる種類の無政府主義やアナルコ・サンディカリズムが破産しているのは、そして結局のところそれらが反動的であるのは、まさにそれらがプロレタリア革命の時代における革命党の決定的な意義を、とりわけ階級闘争の最高段階におけるそれを理解していないからである。疑いもなく、社会的矛盾はいかなる党であっても出口を見出だせないような鋭さを帯びるかもしれない。しかし、それに劣らず確かなことは、党が弱体化していたり変質していたりする場合には、克服可能な経済危機ですら独裁転覆の原因となりうるということである。

 ソヴィエト体制の経済的および政治的諸矛盾は政権党の中で交差している。来るべきそれぞれの危機において、その危険性がどれぐらいの鋭さを帯びるかは党の状態に直接依存している。工業化や集団化のテンポのもつ意義がそれ自体どんなに大きくても、次のような問題を前にしては後景に退いてしまう。その問題とは、党がマルクス主義的な明晰な視野や思想的団結を維持することができるかどうか、そして自らの見解を集団的に表現する能力やその見解のために自己犠牲的にたたかう能力を維持することができるかどうか、である。

 この見地からすれば、党の状態は、プロレタリア独裁の状態をチェックする最高のものであり、その安定性を測る総合的な尺度である。あれこれの実践的な目的を達成するために、党が偽りの理論設定を押しつけられるならば、党員大衆が強制的に政治の指導から遠ざけられるならば、前衛がなまの大衆の中に溶解してしまうならば、党のカードルが国家の抑圧機構によって服従させられたままでいるならば、その場合には、経済的成功にもかかわらず、独裁のバランスシートは全体として赤字ということになろう。

 

   機構による党の置きかえ

 コミンテルンの諸党を指導しているソ連邦の公式の党がその機構によって完全に粉砕され置きかえられてしまったという事実を否定することができるのは、目が見えないか走狗やペテン師だけである。1923年の官僚主義と1931年の官僚主義との間にある巨大な差は、この間に党への機構の依存が完全に一掃されてしまったことによって、そして機構自体がポピュリスト的に変質してしまったことによって規定されているのである。

 現在、党内民主主義はその外観さえ残っていない。地方組織は書記によって選ばれ、独裁的に再編成される。新入党員は中央の指令にしたがって、政治的義務として集められる。公式かつ公然と書記長の諮問機関に成り果てた中央委員会によって地方の書記は指名される。大会は勝手気ままに延期され、代議員は、彼らがどれぐらい終身指導者との一致を示しているかにしたがって上から選ばれる。上級に対する下部の統制の影すら一掃されている。党員は受動的な服従の精神で系統的に調教されている。自主性や自立性や堅忍不抜さといった革命家の本質を構成する特徴のどんな一片も、押しつぶされ、迫害され、足でふみにじられている。

 疑いもなく、誠実で献身的な革命家も少なからず機構の中に残っている。しかし、レーニン後の歴史――それは、マルクス主義のますます乱暴になる偽造、無原則的なマヌーバー、党に対するシニカルな嘲弄の連鎖であったのだが――は、何でもする用意のある従順な役人が機構の中でますます優勢となっていったからこそ可能になったのである。

 偽りの一枚岩に隠れて、二重性が党生活の中にすっかり入り込んでしまっている。公式の決定は全員一致で決議されている。同時に、党のあらゆる層は非和解的な矛盾によって侵食されており、その矛盾は回り道を通って現われている。ベセドフスキー(1)のような連中は、敵の陣営に寝返る直前に党からの左翼反対派の粛清を指導している。ブリュムキン(2)のような人々は銃殺され、アガベコフ(3)のような連中と置きかえられている。「半裏切り者」のルイコフ(4)にかわってロシア・ソヴィエト社会主義共和国連邦人民委員会議長に任命されたスイルツォフ(5)は、たちまち非合法的な反党活動のかどで告発された。党の最も重要な学術機関の長であるリャザーノフ(6)は、記念日が厳かに祝われた後、反革命的陰謀の参加者として断罪されている。党による統制から解放された官僚はそれ自身、ゲ・ペ・ウ――そこでは、メンジンスキー(7)とヤーゴダ(8)がアガベコフのような連中を養成している――による以外に党を統制する可能性を失ってしまったのだ。

 スチームボイラーは、たとえ粗雑に扱われても、長期にわたって有益な仕事をなすことができる。しかし圧力計は、振動を与えられればたちまち故障する精巧な器具である。役に立たない圧力計のついたボイラーでは、そのボイラーがたとえ最良のものであっても容易に爆発にまでいたるだろう。もし党が圧力計ないしは船のコンパスのような単なる方向づけの道具でしかなかったとしても、その故障は多大な災難をもたらす恐れがある。ところが、党はそのうえ、操縦機械の最重要部分でもあるのだ。10月革命によって鍛え上げられたソヴィエト・ボイラーは、構造は粗悪であっても、巨大な仕事をなすことができる。しかし、圧力計の故障は、それだけですでに、機械全体が爆発する恒常的な危険性を意味するのである。

 

   党の社会主義的死滅?

 スターリン官僚制の擁護者や弁護者は時おり、党の官僚的清算を、党が階級に溶解していく進歩的過程として示し、このことは社会の社会主義的改造が成功していることによって説明される、としている。この理論的な徒労の中では、無知がペテンと張り合っている。

 階級への党の溶解についてはただ、階級的諸矛盾が緩和し、政治が消滅し、あらゆる種類の官僚主義が死滅し、そして何よりも、社会関係の中での強制の役割が減少していく、そうした過程の反面としてのみ語ることができる。

 だが、ソ連邦と政権党の中で進行している過程は多くの点で正反対の性格を有している。強制的規律は消滅していないだけでなく――現段階でこのようなことを期待するのは馬鹿げたことであろう――、反対にそれは社会生活と個人生活のあらゆる領域で例外的に苛酷な性質を帯びつつある。党と階級による政治への組織的な参加は、事実上ゼロにまで切り縮められている。官僚主義の乱痴気騒ぎはとどまるところを知らない。こうした状況のもとで、スターリン機構の独裁を党の社会主義的死滅と詐称することは、独裁と党とを嘲弄することを意味する。

 

   ブランドラー派によるポピュリスト的官僚主義の正当化

 中間主義の右翼的同伴者たるブランドラー派はスターリン官僚制による党の絞殺を、労働者大衆の「非文化性」を持ち出すことによって正当化している。このことは、彼らがロシア・プロレタリアートに一国で社会主義を建設する唾棄すべき独占的権利を認めるのを妨げはしなかった。

 ロシアの全般的な経済的・文化的後進性については疑いない。しかし、歴史的に後進的な民族の発展は複合的な性格を有している。後進性を克服するために、その民族は、多くの領域で、最も先進的な形態を取り入れ発展させることを余儀なくされる。プロレタリア革命の科学的原理は、後進国であるドイツの革命家たちによって19世紀中半につくられた。ドイツ資本主義は、その後発性のおかげで、その後イギリスとフランスの資本主義を追い越すことができた。後進的なブルジョア・ロシアの工業は世界で最も複合的なものであった。若いロシア・プロレタリアートは、初めて実践においてゼネストと蜂起とを結びつけ、初めてソヴィエトをつくり出し、初めて権力を獲得した。ロシア資本主義の後発性は、これまでに存在した最も先見の明のあるプロレタリア党の育成を妨げなかったどころか、もっぱらそれを可能にしたのである。

 革命の時代における革命的階級の精鋭たるボリシェヴィキ党は、その歴史の最も危機的な時期に豊かで激しい党内生活を過ごしてきた。10月革命までに、ないしは革命後の最初の数年間に、党内官僚主義を弁護するためにロシア・プロレタリアートの「後進性」をあえて引き合いに出すような者がいただろうか! 権力の獲得以来、労働者の一般的な文化水準は疑いもなく向上しているにもかかわらず、それは党内民主主義の開花をもたらさず、反対に、それの完全な消滅をもたらした。農村からの労働者の流入を引き合いに出しても、それは何の説明にもならない。なぜなら、この要因は常に作用していたからであり、農村の文化水準も革命以来かなりの程度向上したからである。最後に、党は階級ではなくその前衛である。党は、その数的な増大のためにその政治的水準の低下という犠牲を払うことはできない。ブランドラー派によるポピュリスト的官僚主義の弁護は、党のボリシェヴィキ的な理解にではなく労働組合主義的な理解にもとづいており、それは実際には自己弁護である。なぜなら、中間主義が最も堕落し卑屈であった時期、右派は官僚主義の最も頼りになる支柱であったからである。

 

   なぜ中間主義官僚は勝利したか?

 なぜ中間主義官僚が勝利したのか、そしてなぜ官僚は勝利を保持するのに党を絞殺する必要に迫られたのか、このことをマルクス主義的に説明するためには、プロレタリアートの抽象的な「文化性」にもとづくのではなく、階級間の相互関係の変化と個々の階級の気分の変化にもとづかなければならない。

 革命と内戦の数年間における英雄的な力の緊張の後、大きな希望と不可避的な幻想の時期の後、プロレタリアートは、疲労とエネルギーの衰えと部分的には革命の結果に対する直接的な幻滅の、長期にわたる時期を通らないわけにはいかなかった。階級闘争の法則によって、プロレタリアート内部の反動は、都市と農村の小ブルジョア層と国家官僚のブルジョア分子の中に希望と自信のとてつもない高揚を引き起こした。彼らはネップの基礎の上で著しく強化された。1923年におけるブルガリア蜂起の崩壊、1923年におけるドイツ・プロレタリアートの屈辱的な敗北、1924年のエストニア蜂起の崩壊、1926年におけるイギリス・ゼネストの裏切り的な清算、1927年における中国革命の崩壊、これらすべての破局と結びついた資本主義の安定化――このようなものが、ボリシェヴィキ=レーニン主義者に対する中間主義者の闘争を生み出した世界の状況である。「永続的な」、すなわち本質的に国際的な革命に対する侮辱、工業化と集団化という大胆な政策の拒否、クラークに賭けること、植民地における「民族」ブルジョアジーとの同盟、宗主国における社会帝国主義者との同盟――これが、中間主義官僚とテルミドール勢力とのブロックの政治的内容である。

 より強固により大胆になっている小ブルジョアジーとブルジョア官僚に立脚しながら、疲弊し方向性を見失ったプロレタリアートの受動性と全世界における革命の敗北を利用しながら、数年かけて中間主義的機構は党の左翼的・革命的翼を粉砕したのである。

 

   ジグザグ路線は階級間を官僚主義的に遊泳する政策である

 機構の政治的ジグザグは偶然ではない。そこには、対立しあう階級諸勢力に官僚が順応しようとする志向が表現されている。1923〜1928年の路線は――部分的な動揺を別にすれば――、国内的にはクラーク階級への、対外的には世界ブルジョアジーとその改良主義的手先への、官僚の半降伏である。しかし、スターリン派は、プロレタリアートの増大する敵意を感じて、そしてテルミドールの深淵の底を覗いて――彼らはまさにその深淵のふちに這い降りていたのだが――、左へ跳びのいたのである。この跳躍の激しさは、彼らの隊列に引き起こされたパニックの大きさに照応している。そして、このパニックは、左翼反対派の批判によって暴露された彼ら自身の政策の結果なのである。1928〜31年の路線は――またしても不可避的な動揺やぶり返しを捨象するならば――、プロレタリアートに順応しようとする官僚の試みである。ただし、官僚はその政策の原理的な基礎も、そして何といってもその絶対的権力も放棄しはしなかった。

 スターリン主義のジグザグは、官僚が階級でもなければ独立した歴史的要因でもなく、補助的な勢力であり、階級の執行機関であるということを示している。左へのジグザグは、これまでの右翼路線がいかに深く進行していたとしても、それでもやはりそれはプロレタリア独裁の基盤の上で展開されていたものであることを物語っている。しかしながら、官僚は同時に、階級によって示唆されたことを屈折させるだけの受動的な機関ではない。統治機構は絶対的な自立性を持っていないとはいえ――かかる幻想は多くの官僚主義的な頭の中に生きているのだが――、非常に大きな相対的自立性を手にしている。官僚は直接的に国家権力を領有し、階級の上に君臨し、その発展の上に強力な刻印を押している。そして、官僚そのものは国家権力の土台にはなれないとはいえ、その政策によって、ある階級から別の階級への権力の移行をはなはだしく容易にすることができるのである。

 

   ジグザグ政策はプロレタリア党の自主性と両立しない

 官僚にとっては、自己防衛の課題があらゆる課題に優先する。官僚が行なう転換のすべては、直接的には、その自立性、その立場、その権力を擁護しようとする官僚の志向から発している。しかし、手を完全に自由にしておくことを必要とするジグザグ政策は、コントロールする習慣を持ち報告を求める自主的な党の存在と両立しない。ここから、党的なイデオロギーを強制的に破壊し混乱の種を意識的に播くシステムが生じるのである。

 クラーク優遇路線、工業化と集団化に関するメンシェヴィキ妨害者の計画、パーセル(9)や蒋介石(10)やラフォレット(11)やラディッチ(12)とのブロック、農民「インターナショナル」の創設、2階級政党のスローガン――これらすべてがレーニン主義であると宣言された。その反面、工業化と集団化の路線、党内民主主義の要求、中国におけるソヴィエトのスローガン、プロレタリア党の名において2階級政党に対して闘争すること、農民インターナショナルや反帝国主義連盟やポチョムキン村などの空疎さと誤りの暴露――これらすべてが「トロツキズム」と呼ばれた。

 1928年の転換以来、仮面は塗り替えられたが、仮面はつけたままであった。中国において反革命が頂点にある時に武装蜂起とソヴィエトを宣言すること、ソ連邦における行政的鞭のもとでの冒険主義的な経済テンポ、2年間で「階級としてのクラークを一掃する」こと、時と場合とは無関係に改良主義者との統一戦線を拒否すること、歴史的に後進的な国々での革命的民主主義のスローガンの拒否、経済の上昇局面における「第3期」の宣言――これらすべてが、その後レーニン主義と呼ばれるようになった。反対に、労働者の力と要求に適応した現実的な経済計画の要求、鋤と鍬の基礎上でクラークを一掃するという綱領を拒否すること、全世界と個々の国における経済的および政治的過程をマルクス主義的に分析することによって「第3期」の形而上学を放逐すること――これらすべてが、今や「反革命的トロツキズム」と宣言されるようになった。

 官僚主義的扮装の2つの時期の間をイデオロギー的に結びつけているのは、あいかわらず一国社会主義の理論である。それはソヴィエト官僚の基本憲章であり、世界のプロレタリア前衛の上に君臨し、あらかじめ官僚の行動や転換や誤りや犯罪行為のいっさいを神聖化する。

 党的な意識という織物はゆっくりと形成されるものであり、それは、これまで辿ってきた道をマルクス主義的に評価し、情勢の変化を分析し、革命的予測をすることによって不断に更新されなければならない。倦むことのない批判的な内部闘争なしには、党は不可避的に衰退することになる。ところが、自己防衛のための官僚の闘争は、今日の政策と昨日の政策との間の公然たる比較を、すなわち一方から他方へのジグザグの検証を排除する。支配分派の間に誠実な良心が少なくなればなるほど、良心はますます卜占官(13)の勲章となる。この卜占官は自分たちだけにわかる言葉で語り、上級卜占官の無謬性を認めるよう要求するのである。党と革命の全歴史は官僚主義的な自己防衛の必要性に順応させられる。伝説の上に伝説が積み上げられる。マルクス主義の基本的真理は偏向の烙印を押される。こうして、諸階級間のジグザグの過程の中で、党的意識という基本的な織物は、この8年間にますますもつれさせられ引き裂かれていった。行政的ポグロムが最後の仕上げを行なった。

 

   党のポピュリスト的体制

 勝利し党を絞殺した官僚は、自分たちの隊列の中に意見の相違という贅沢を許容することができない。なぜなら、許容すると、係争問題の解決のために大衆に支持を求めざるをえなくなるからである。官僚にとって必要なのは常設の仲裁裁判所たる政治的首長である。全機構は「ボス」を軸にしてつくられている。このようにして、ポピュリスト的機構の体制が形成されたのである。

 ボナパルティズムは、人民大衆の蜂起に勝利したブルジョアジーがとる形態の一つである。カウツキーがやっているように、現在のソヴィエト体制とボナパルティズムの社会体制とを同一視することは、ブルジョアジーの利益のために、階級的基礎にある差異を意識的に労働者から隠蔽することを意味する。とはいえ、スターリニスト機構のポピュリスト的変質、もしくは、党運営のボナパルティズム・システムを、国家的規模でのボナパルティズム体制の前提条件の一つとして語ることには、完全に根拠がある。

 新しい政治秩序は無から生まれるものではない。権力に到達した階級は、自己の国家の機構を、革命時ないしは反革命時にそろっていた諸要素を使って建設する。メンシェヴィキやエスエルによって指導されていたケレンスキー時代のソヴィエトは、ブルジョア体制の最後の政治的手段であった。同時に、何よりもボリシェヴィキを先頭にしたソヴィエトは、準備を整えつつあるプロレタリア独裁の源であった。現在のソヴィエト機構は、ポピュリスト的に歪曲されたプロレタリア独裁の官僚主義的形態である。しかし、それは同時に、ボナパルティズムの潜在的道具である。機構の現実の機能とその有りうる機能との間には、流血の内乱が横たわっているにちがいない。だが、勝利した反革命は、まさにポピュリスト的機構のうちに、自己の国家を建設するにあたっての貴重な諸要素を見出だすだけでなく、反革命の勝利自体、機構の決定的な部分がブルジョアジーの側に移行することなしには考えられないであろう。まさにそれゆえ、スターリンのポピュリスト的体制は、プロレタリア独裁にとって主要な危険と化したのである。

 

3、反革命の危険性と可能性

 

   社会主義的傾向と資本主義的傾向との相互関係

 経済的成功と行政的措置とがあいまって、国民経済――とりわけ工業と商業――に占める資本主義的要素の比重はこの数年間に著しく下がった。集団化とクラーク一掃は、現時点において農村上層部の搾取者的役割を著しく引き下げた。経済の社会主義的要素と資本主義的要素の相互関係は、疑いもなく前者にとって有利に変化した。極左ないしはブルガリア反対派がやっているように、ネップマンとクラークについての一般的言辞を繰り返すことによって、この事実を無視したり、ましてや否定したりする者は、マルクス主義者の名にまったく値しない。

 しかしながら、それに劣らず誤っているのは、現在の比率を確実なものとみなしたり、なお悪いことに、ソ連邦内部における国営経済と私有経済の比重でもって社会主義の実現の度合いを測ることである。国内の資本主義的要素の一掃がますます強められるにしたがって――それには、行政的な幻惑の方法によるものも含まれていたが――、ソ連邦はますます強力に世界市場に参入するようになった。それゆえ、ソ連邦における資本主義的要素の比重に関する問題は、世界経済に占めるソ連邦の比重に関する問題と結びつけることなく立てることはできないのである。

 ネップマン、ブローカー、クラークは、疑いもなく世界帝国主義の自然な手先である。それゆえ、前者の弱体化は後者の弱体化を意味する。しかし問題はこれでつきるわけではない。ネップマンの他に国家の役人たちがいる。レーニンは、彼が参加した最後の党大会で、次のことに注意を促した。“他民族を征服した民族――少なくとも、その上層部――が、より高度な文化をもつ敗北した国民の習慣や宗教に同化されてしまうことが歴史上しばしば見られた。そしてこれと類似した過程が階級闘争でもありうる”と。ソヴィエト官僚は、勝利したプロレタリアートの上層部と没落諸階級の広範な層のアマルガムであり、世界資本の強力な手先をその中に含んでいるのである。

 

   二重権力の諸要素

 社会主義破壊分子とメンシェヴィキに対する2つの裁判は、ソヴィエト連邦における階級と党の相互関係を示すこの上なく明確な地図を与えた。司法機関によって争う余地なく次のことが立証された。1923〜1928年の間、ブルジョアジーの外国本部と密接に結びついたブルジョア専門家は、資本主義的諸関係を復活させることをもくろんで、巧みに工業化の技術的な遅れをもたらした、というものである。プロレタリア独裁の国における二重権力の要素は、資本主義復活の直接の手先がその民主主義的共犯者たるメンシェヴィキとともにソヴィエト共和国のすべての経済的中心で指導的な役割を果たすほどの重みをもつに至ったのだ! 他方では、何年にもわたって党の公式の政策が資本主義復活の計画と方法を合法的にカムフラージュするのに役立ってきた間に、中間主義は何と深くブルジョアジーの側に滑り落ちていったことか! 

 スターリンによる左へのジグザグはプロレタリア独裁の強力な生命力の客観的な証拠であり、官僚はこの独裁の軸の周りを回転しているのであるが、しかしながらこの左へのジグザグは、首尾一貫したプロレタリア的政策も、生き生きとしたプロレタリア独裁の体制も、けっして再建しはしなかった。官僚主義的機構のうちに潜んでいる第2権力の要素は、新路線の開始によって消えてなくなったのではなく、ただ再粉飾し再武装したにすぎない。疑いもなく、それはより強固にさえなった。なぜなら、機構のポピュリスト的変質がいっそう進行したからである。妨害者は現在では、冒険主義的振り幅をテンポに与え、それによって危険きわまりない危機を準備している。役人どもは、クラークが隠れ蓑にしているコルホーズに社会主義の看板を熱心にかけている。反革命の触手は、思想的にだけでなく組織的にもプロレタリア独裁の機関の中に深く忍び込んでいる。そして、その触手は、公式の党の全生活が虚偽と偽りにもとづいているだけにいっそう容易に保護色を帯びるのである。迫害されているプロレタリア前衛が時機を失せず第2権力の要素を暴露してそれを党の隊列から一掃する可能性が小さくなればなるほど、この要素はますます危険なものになるであろう。

 

   党なしに過渡期の社会主義建設は不可能である

 政治は集中された経済であり、独裁政治はありうるすべての政治のなかで最も集中された経済である。経済の将来計画とは、前もって与えられたドグマではなく作業仮説である。これを実現する過程においては計画の集団的点検が行なわれなければならない。しかも、会計担当者の数字だけが点検の要素なのではなく、労働者の筋肉・神経や農民の政治的気分もまたそうである。打診、点検、総合、一般化、これらすべては、能動的で自主的で自信をもった党だけが行なうことができる。経済過程に参加しているすべての者(一方では工場やトラストの管理機関、他方では工場委員会)が党規律に従い、無党派労働者が党細胞と工場委員会の指導から離れないであろう、という確信なしには5ヵ年計画は考えられない。

 ところが、この間に党規律は完全に行政的規律と一体になった。機構は、それがボリシェヴィキ党の基礎的資本を消費する可能性を有するかぎりにおいて、全能であった――そして、今日でもそうである。だが、この資本は大きいが、無限ではない。右翼を粉砕して以来、官僚主義的指令の緊張は最高限度に達した。これ以上、この道に沿って進むことはできない。しかし、これによって行政的規律の崩壊が準備されているのである。

 一方における党の伝統と、他方でのそれに対する恐れとが、もはや公式の党を一つにまとめられなくなり、敵対的傾向が爆発して表面化するや否や、国営経済の上に政治的諸矛盾のあらゆる力が降りかかるようになるだろう。どのトラストやどの工場も、自己の利益を独力で確保するために、上から降りてくる計画や指令に違反し始めるだろう。国家の目を盗んでの工場と私的市場との取り引きは例外的なものから規則的なものになり、労働力や原料や販売市場をめぐる工場間の争いは自動的に、よりよい労働条件をめぐる労働者の争いを引き起こすだろう。こうした過程がいっそう進めば必然的に計画原理は一掃され、それによって国内市場が復活するだけではなく、外国貿易の独占も崩壊するだろう。工場の管理機関は急速に私的所有者の地位に、ないしは外国資本の手先の地位に近づくが、その管理機関の多くは、生存闘争の中で、そうせざるをえない。不安定なコルホーズ形態がかろうじて小商品生産者社会を支配している農村では、計画原理の崩壊は、たちまちにして本源的蓄積の自然発生的な力をとき放つだろう。行政的な圧迫は、官僚主義的機構が爆発した矛盾と遠心的傾向の最初の犠牲者になるという理由だけからしても、状況を救うことはできないであろう。したがって、共産党の、生命力あふれる結束した力なしには、ソヴィエト国家と計画経済は崩壊を運命づけられているのである。

 

   政権党の瓦解は内戦の危険性をともなう

 ポピュリスト的規律の崩壊は、単に党や行政や経済や労働組合や協同組合の組織だけではなく、赤軍やゲ・ペ・ウにまで及ぶだろう。ある条件のもとでは、まさにこの最後のゲ・ペ・ウから崩壊が始まるだろう。これ一つとってみても、ブルジョアジーへの権力の移行はけっして単なる変質に終わるものではなく、不可避的に公然たる暴力的変革の形態をとるということがわかる。

 この変革はいかなる政治的形態で生じるだろうか? これに関してはただ基本的な傾向を描くことしかできない。左翼反対派は常に、テルミドール的変革という言葉を、プロレタリアートからブルジョアジーへの権力の移動として、ただし、事実上すでに決定的な移動ではあるとはいえ、まだソヴィエト制度の形式的な枠組みの中で、公式の党のある一分派に反対する他の一分派の旗のもとで起こる移動として理解してきた。これに対して、ボナパルティズム的変革とは、ブルジョア反革命のより公然たる、より「成熟した」形態であり、ソヴィエト制度とボリシェヴィキ党全体に反対して、ブルジョア的所有のために決起した剥出しの武装勢力の形をとる変革である。右翼が粉砕され、その綱領が放棄されたことによって、前者の過渡的でカムフラージュされた変革形態、すなわちテルミドール的変革形態の勝算は減少した。党機構のポピュリスト的変質によって、疑いもなく、ボナパルティズム的形態の勝算は増大した。

 しかしながら、テルミドールとボナパルティズムとは何かお互いに相いれない2つの階級的タイプではなく、同一のタイプの異なった発展段階にすぎない。しかも、生きた歴史的過程は、過渡的で複合的な形態をいくらでも生み出すものである。だが、一つのことだけは疑いない。すなわち、ブルジョアジーがあえて公然と権力の問題を提起する場合には、最後の答えは、生死をかけた武力衝突の中で行なわれる階級的力の相互点検を通じて出されるだろう。

 

   内戦の2つの陣営

 諸矛盾が蓄積していく分子的過程が爆発にまで至る場合には、敵対する陣営は戦火の中で、ほんの昨日まで非合法であった政治的中心の周りに団結することになろう。指導分派たる中間主義は、行政機構とともに、たちまちにして政治的分化の犠牲者となろう。その構成要素はバリケードの両側に分裂するだろう。最初のうち、反革命の陣営の中で主要な地位を占めるのは、トゥハチェフスキー(14)やブリュッヘル(15)やブジョンヌィ(16)のような冒険主義的近衛兵分子か、ベセドフスキーのような正真正銘の社会的屑か、ラムジンやオサドチーのようなより重要な人物であろう。これは、反革命が攻勢に移る時と場合に依存して決まってくる。しかし、この問題そのものはエピソード的な意義しかもちえない。トウハチェフスキーやベセドフスキーはただラムジンとオサドチーに至る段階として役立つだけであり、ラムジンとオサドチーの方も帝国主義独裁に至る段階として役立つのみである。そして、帝国主義独裁は、この2つの段階をすぐに飛び越すことができなくても、きわめて短期間のうちにこれらを退けるであろう。その際、メンシェヴィキとエスエルは中間主義の近衛兵的翼とブロックを結び、ちょうど1917年における革命の急激な高揚期に帝国主義者をカムフラージュしたように、革命の急激な衰退期にも帝国主義者をカムフラージュしようとするだろう。

 対立する陣営の内部で、10月革命の防衛闘争を旗印に、諸勢力の決定的な再編成が少なからず生じるであろう。恐るべき危険性に直面して、ソヴィエトや労働組合や協同組合や軍隊の革命分子は、そして何よりも工場の先進的労働者の革命分子は、屈服することも裏切ることもけっしてない試され済みの革命的カードルの周りに、明確なスローガンをもって団結する必要性を感じることであろう。党の中間派だけでなく右派からも、手に武器をもって10月革命を防衛しようとする革命家が少なからず出てくるだろう。しかし、そのためには彼らは、内部での線引きという痛みの伴う作業を必要とする。そしてその作業は、狐疑逡巡したり、動揺したり、時間を失ったりする期間なしには実現されないだろう。その全過去によってくっきりと浮かび上がり、最も重大な試練の中で鍛えられてきたボリシェヴィキ=レーニン主義派は、こうした決定的な状況において、飽和溶液の中の結晶の役割を果たすよう求められるだろう。左翼反対派を中心にして、革命的陣営が団結し真の共産党が再生する過程が進行するだろう。レーニン主義派の存在は、反革命勢力との闘争でプロレタリアートが勝利する勝算を倍増させるであろう。

 

4、左翼反対派とソ連邦

 

   一国社会主義反対――永続革命賛成

 後進国ロシアの民主主義的課題はプロレタリアート独裁による以外に解決できないものであった。しかしながら、農民大衆の先頭に立って権力を獲得したプロレタリアートは民主主義的課題で立ち止まることはできない。民主主義革命は社会主義革命の第一段階と直接的に絡み合った。しかし、社会主義革命は国際的舞台でのみ完結しえる。レーニンによって作成されたボリシェヴィキ党綱領は、10月革命を、プロレタリア世界革命の第一段階であり、それと切り離しえないものであるとみなしている。これこそが永続革命論の核心である。

 国際革命の発展がいちじるしく遅れていることによって、ソ連邦に巨大な困難がもたらされ、独特の過渡的方法が提起されることになったが、しかしこのことは、資本主義経済の国際的性格とプロレタリア世界革命の永続的性格からでてくる基本的な展望や課題を変えはしない。

 国際左翼反対派は、エピゴーネンどもが1924年に生み出した一国社会主義の理論を、マルクス主義に対する最悪の反動として、テルミドール派イデオロギーの主要な成果として断固拒否し断罪する。スターリン主義ないし一国社会主義――これは、共産主義インターナショナルの綱領のうちに表現されている――に対する仮借なき闘争は、国際階級闘争の問題においても、またソ連邦の経済的課題の領域においても、正しい革命的戦略にとって不可欠の条件である。

 

   二重権力体制か、プロレタリア独裁体制における二重権力の諸要素か

 ソ連共産党が最終的に党であることをやめたという議論の余地のない事実に立脚するならば、プロレタリア政党の支配なしにプロレタリア独裁は考えられないのだから、ソ連邦にはプロレタリア独裁は存在しないという結論にならざるをえないのではなかろうか? このような結論は一見すればまったく筋が通っているように見えるが、しかしながら、これは現実の戯画化、しかも反動的な戯画化であり、体制の創造的可能性と独裁の潜在的余力を無視したものである。

 たとえ党が党として、すなわち前衛の自主的な組織としては存在していないとしても、このことは、過去から受け継がれた党のあらゆる要素が消滅したということを意味しない。労働者階級のうちには、10月革命の伝統が力強く生きている。年長の世代には革命闘争の教訓とボリシェヴィキ的戦略の結論が忘れられずに残っている。人民の中には、とりわけプロレタリア大衆の中には、かつての支配階級やその政党に対する憎悪が生きている。こうした傾向のすべてが、全体として、未来への可能性を形づくっているだけでなく、ソ連邦を労働者国家として維持している今日の生きた力をも形づくっているのである。

 革命の創造的力と官僚との間には、深刻な対立が存在する。しかし、それでもやはりスターリニスト機構がある限界の手前で立ち止まり、なおかつ左へ大きく転換することさえ余儀なくされているのは、何よりも革命党の諸要素――無定形で統一されていないが、それでもまだ強力な諸要素――の圧力があったからである。この要因がどれだけの力を持っているかを数字で表すことはできない。しかし、いずれにせよ、今日その力は、プロレタリア独裁の建造物を維持するのに十分なほど強力である。この力を無視することは、完全に官僚主義的思考の観点に立つことを意味し、スターリニストの機構がそびえたっている所に、そしてただそこにのみ、党を探すことを意味する。

 左翼反対派は、ソヴィエト国家をブルジョア国家ないし小ブルジョア国家とみなす評価のみならず、「中立的」国家として、まるで一時的に階級的支配者なしに存在しているかのようにみなす評価をも断固として拒否する。二重権力の諸要素が存在しているという事実は、諸階級の政治的均衡が存在することをけっして意味しない。社会的過程を評価する際には、その過程がどれぐらい成熟しどれぐらい完成されているのかを確定することがとりわけ重要である。量が質に転化する瞬間は、他の分野と同様に政治においても決定的な意義を有している。この瞬間を正しく確定することは、革命の指導において、最も重要であると同時に最も困難な課題の一つである。

 ソ連邦を間階級的国家だとする評価(ウルバーンス(17))は、理論的にナンセンスであり、政治的には、世界プロレタリアートの最重要の陣地を階級敵に譲り渡すこと、ないしは半ば譲り渡すことと等しい。左翼反対派は、こうした見地を、革命的マルクス主義の原則とはあいいれないものとして断固拒否し断罪する。

 

   ソ連邦における左翼反対派の路線は改良の路線である

 反革命の可能性と勝算に関して上で与えた分析を、現在の諸矛盾は必然的に公然たる内戦の爆発にまでいたるに違いない、というふうにけっして理解してはならない。社会というものは弾力性に富み、一定の限界内でさまざまな可能性に道を開いている。それは、合いたたかう諸勢力のエネルギーや洞察力に依存しており、しかも国内の過程は世界の階級闘争の歩みに依存している。プロレタリア革命家の義務は、いかなる状況のもとであっても、あらゆる事情を徹底的に熟慮し、最悪の結果にも備えておくことにある。テルミドール的およびボナパルティズム的変革の可能性と勝算に対するマルクス主義的分析は、悲観主義とは何の共通性もない。それはちょうど、官僚の盲目と法螺が革命的楽観主義と何の共通性もないのと同じである。

 現在のソヴィエト国家を労働者国家として認めることは、ブルジョアジーは武装蜂起の結果として以外に権力を獲得することができないということを意味するだけではなく、ソ連邦のプロレタリアートは、新しい革命によってではなく改良の方法と手段によって、官僚を自己に従わせ党を再生し独裁体制を健全化する可能性をいまだ失っていないということをも意味する。

 プロレタリア的改良の勝算がどれぐらいで、ブルジョア的変革の勝算がどれぐらいかをあらかじめ計算しようとするのは不毛なペダンチズムであろう。前者は確実だが後者は有りえないなどと主張するとすれば、それは犯罪的なまでに軽率である。可能なあらゆる場合に備えておかなければならない。ポピュリスト的党体制が不可避的に崩壊した瞬間に、階級敵に時を稼がせることなく速やかに、プロレタリア的翼を結集し前進させるためには、左翼反対派は一致団結した分派として存在し発展していなければならない。情勢のあらゆる変化を注意深く分析し、発展の展望を明確に定式化し、時機を失せず闘争スローガンを提起し、労働者階級の先進分子との結びつきを強化しなければならない。

 

   左翼反対派とブランドラー派

 中間主義に対する左翼反対派の関係は、右翼反対派に対する左翼反対派の関係を規定している。右翼反対派は、中間主義と社会民主主義との間に架けられた未完成の橋である。

 国際的な右翼反対派は、ロシア問題において、その他すべての問題と同様、基本的な問題に関するコミンテルンの日和見主義政策には同意していながら、それが犯した主として実務的で第二義的な失策を批判することで生き永らえる寄生的存在と化している。ブランドラー派の無原則性は、ソ連邦の運命と結びついた問題をめぐって、最も露骨に最も破廉恥に暴露されている。政府がクラークをあてにしていた時期には、ブランドラー派は、スターリン=ルイコフ=ブハーリンの政策以外の政策はそもそも実施できないと言って、完全に公式の路線を支持していた。1928年の転換の後にブランドラー派は待機して沈黙していた。工業化の成功が彼らにとって思いがけなく明らかとなった時、ブランドラー派は無批判に「5ヵ年計画を4年で」と「階級としてのクラークの一掃」の綱領を承認した。右派は、革命的な方向づけとマルクス主義的な予測の点で完全な無能力を露わにし、同時にソ連邦においてはスターリン体制の擁護者となった。日和見主義の基本的な特徴――その時々の権力に叩頭すること――は、スターリン主義に対するブランドラー派の全態度を規定している。「われわれは、あなた方がソ連邦で行なういっさいのことを無批判で承認する用意があります。ただ、われわれのドイツではわれわれの政策を実施するのをお許しください」というわけである。これと類似の性格は、合衆国におけるラブストーン派、チェコスロバキアの右翼反対派、その他の国の同種の半社会民主主義的・半共産主義的グループに見られる。

 左翼反対派は、中間主義者の右翼同伴者に対して非妥協的な闘争を遂行する。とりわけ、ロシア問題に関してはそうである。それと同時に、左翼反対派は、中間主義のジグザグとその腐敗した体制によって右翼反対派に追いやられた革命的労働者を、ブランドラー派上層部の堕落的影響から救い出すよう努力する。

 

   左翼反対派の原則――ありのままを語ること

 小ブルジョア的同伴者たる「ソヴィエトの友」――実際には、スターリン官僚と、それに従属した各国のコミンテルン小官僚の友――は、ソヴィト連邦の発展がはらむ諸矛盾に安んじて目を閉じているが、後になって最初の深刻な危険性が訪れるやいなや背を向けるであろう。

 しかしながら、政治的および個人的な紛争はしばしば、腰をぬかした中間主義者や、なお悪いことに不満をもった出世主義者をも、左翼反対派の隊列に追いやる。こうした連中は、抑圧が激化した時や、それとは反対に公式の路線が成功した時には、降伏者として公式の隊列に復帰し、そこで負け犬の合唱団を構成する。ジノヴィエフやピャタコフ(18)やラデック(19)のような降伏者は、グローマン(20)やスハーノフ(21)のようなメンシェヴィキ降伏者と、もしくはラムジンのようなブルジョア専門家の降伏者と、わずかな点でしか区別されない。出発点の違いにもかかわらず、今やこれら3つのグループはすべて現在の「総路線」の正当性を承認することに行き着いているが、近い将来に諸矛盾が激化するやいなや再びさまざまな方向に飛び散るであろう。

 左翼反対派は、自らをプロレタリア独裁と世界革命の軍隊の構成部分であると感じており、外からではなく中からソヴィエト体制に接近し、欺瞞的なベールを恐れることなく剥ぎ取り、現実に存在する危険性を暴露するが、それは献身的にその危険性と闘い、その危険性を他の者に教えるためである。

 レーニン死後の全期間における経験は、左翼反対派がソ連邦の発展の歩みに議論の余地のない影響を及ぼしたことを物語っている。公式の路線の中で創造的であったもの、そして現在でもそうであるものはすべて、左翼反対派の思想とスローガンの遅ればせの反響でしかなかった。右派=中間派ブロックは、ボリシェヴィキ=レーニン主義者の圧力によって半崩壊を余儀なくされた。左翼反対派の足もとを掘りくずそうとして出てきたスターリンの左翼路線は、「第三期」の理論と実践というナンセンスのうちに支えを見出した。コミンテルンをまっすぐ破滅に導くこの熱病的発作は、またもや左翼反対派の批判の結果として拒否された。左翼は少数であるにもかかわらず、この批判の力は、そもそもマルクス主義が有している力――分析し、予見し、正しい道を指摘する能力――にもとづいている。したがって、ボリシェヴィキ=レーニン主義派は現在でもすでに、ソ連邦における社会主義建設と国際プロレタリア革命の理論と実践を発展させる最も重要な要素の一つなのである。

 

   労働者の生活水準と国家における労働者の役割は

            社会主義の成功を測る最高基準である

 プロレタリアートは基本的な生産力であるだけではなく、ソヴィエト体制と社会主義建設が立脚する階級でもある。独裁は、その歪曲された体制がプロレタリアートの個性を政治的に抑圧する場合には、安定することができない。工業化の高いテンポは、それが労働者の肉体的な摩滅を招くほどの過度な緊張にもとづいている場合には、長期間続くことができない。最も基本的な生活必需品が慢性的に不足していたり、行政機関の鞭に脅かされる不安状態が恒常的に続く場合には、すべての社会主義建設は打撃をこうむる。ソ連邦の反対派の政綱は次のように語っている。

「党内民主主義の衰退は、労働組合やその他すべての無党派大衆組織における労働者民主主義一般の衰退をもたらしている」。

 政綱が発表されて以来、この過程はいっそう破滅的な進化を遂げている。労働組合は完全に支配官僚の補助機関と化している。突撃運動(22)ているかのように、行政的圧力のシステムが作られている。だが、5ヵ年計画が完了すれば、ソヴィエト経済はさらに大きな新しい上昇に直面するだろう。「追いつき追い越せ」という合い言葉によって、官僚は、到達段階に関する誤った認識を、部分的には自分自身に、主には労働者に抱かせ、こうして幻滅の先鋭な危機を準備しているのである。

 経済計画は、都市と農村の労働者階級の物質的・文化的状況を現実かつ系統的に改善していくという見地から再検討されなければならない。労働組合はその基本的な課題に立ち返らなければならない。すなわち、それは鞭ではなく集団的教育者とならなければならない。ソ連邦においても全世界においても、達成されたものを誇張したり課題と困難を矮小化したりしてプロレタリアートを欺くようなことはやめなければならない。あらゆる分野において、プロレタリアートの政治的独立性とその自主性を高めることを全政策の主眼としなければならない。こうした目的を実際に達成するためには、個々のグループ・層の過度の特権や、生活条件の極端な不平等に対して闘争しなければならないし、そして何よりも、無統制の官僚が有している特権や優越性に対して闘争しなければならない。

 

5、結論

 

 1、計画作成の分野での、中間主義者、右派、メンシェヴィキ、妨害者らの長期にわたる同盟に抗して、自らの道を切り開いてきたソ連邦の経済的成功は、経済の社会主義的方法の最も重要な勝利であり、世界革命の強力な要因である。

 2、世界プロレタリアートの主要な要塞としてのソ連邦を、世界帝国主義と国内反革命のあらゆる企図から防衛することは、あらゆる自覚的な労働者にとって最重要の義務である。

 3、ソ連邦の経済的発展の危機は、過去から受け継がれた資本主義的・前資本主義的諸矛盾、および、現代における生産力の世界的性格とソ連邦における社会主義建設の一国的性格との矛盾から生じている。

 4、この後者の矛盾に対する無理解にもとづいた一国社会主議論は、それはそれで、危機を引き起こし増大させる実践的誤りの源泉となっている。

 5、ソヴィエト官僚の力が隆盛を極めているのは、何年にもわたる力の極端な緊張の後に、ソヴィエト・プロレタリアートの政治的能動性が急激に減少したからであり、一連の国際革命が敗北したからであり、資本主義が安定し国際社会民主主義が強化されたからである。

 6、内部における階級的諸矛盾と、外部における資本主義の包囲という条件下で社会主義を建設するためには、生命力と先見の明と能動性をもった党が必要であり、党は計画経済と階級的駆け引きにとっての根本的な政治的前提条件である。

 7、それにもかかわらず、反革命的社会勢力の直接的な援助のもとに、党の革命的国際主義の翼を粉砕することによって勝利した中間主義官僚は、今後、党による統制や選挙による任命制や労働者大衆の世論を抑圧することによってしか自らの支配を維持することができない。

 8、党を圧殺することによって、すなわち目と耳をなくすことによって、中間主義官僚は、手探りで進み、諸階級による直接的な圧力を受けて自らの道を決め、日和見主義と冒険主義との間をいったりきたりしている。

※   ※  ※

 9、発展の歩みは完全に、ロシア反対派政綱の基本的命題のすべて――理論的批判の部分も実践的要求を提起した部分も――の正しさを確認している。

 10、この間、ソ連共産党(ボ)と共産主義インターナショナル全体における主要な諸潮流――マルクス・レーニン主義の潮流、中間主義の潮流、右派の潮流――の特徴が、格別の明瞭さで明らかとなった。極左主義の潮流は、中間主義のジグザグの一方を頂点にまでもっていったものとしてか、あるいは、左翼反対派の周辺として、現われている。

 11、中間主義官僚の政策と体制は、プロレタリア独裁にとって、最も先鋭で直接的な危険性をもたらす源泉となった。支配的中間主義との系統的な闘争は、最初の労働者国家を健全にし強化し発展させるための闘争の最も重要な構成部分である。

 12、労働者階級の物質的状態と政治的自覚とを無視することは、官僚主義体制の主要な特徴である。官僚主義体制は、剥出しの指令と行政的圧迫の方法によって、一国社会主義の王国を建設したいと願っている。

 13、虚偽の理論設定にもとづいて、そして党の集団的思考による点検を受けることなく、工業化と集団化のテンポを官僚主義的に促進することは、不均衡と諸矛盾を、無制限に蓄積していくことを意味する。このことは、とりわけ世界経済との相互関係に関して言える。

 14、ソヴィエトの所有関係は、諸階級の政治的相互関係と同様、議論の余地なく次のことを物語っている。すなわち、ソヴィエト体制の歪曲や中間主義官僚の破滅的な政策にもかかわらず、ソ連邦は労働者国家のままである。

 15、ブルジョアジーは、反革命的変革を通じてしかソ連邦で権力を獲得することができない。プロレタリア前衛は、官僚を自らの統制に従わせることによって身の程をわきまえさせ、正しい政策を確保し、断固たる大胆な改良によって党や労働組合やソヴィエトを再生する可能性を保持している。

 16、しかしながら、公式の党の枠内で蓄積している諸矛盾は、スターリニスト体制が維持されているかぎり、不可避的に――とりわけ経済的困難が先鋭化する瞬間には――政治的危機に行き着くにちがいない。そしてその政治的危機は、改めて権力の問題を全面的に提起することになるだろう。

 17、ソヴィエト体制の運命にとってより決定的な意義を有しているのは、プロレタリア前衛が時機を失せず立ち上がって団結し、世界帝国主義に支えられたテルミドール・ボナパルティズム連合勢力に反撃を加えることができるかどうか、である。

 18、プロレタリア前衛に対する自らの義務を左翼反対派が果たすことができるのはただ、不断の批判作業や情勢のマルクス主義的評価によってであり、ソ連邦の経済的発展の道筋や世界プロレタリアートの闘争の道筋を正確に定めることによってであり、時機を失せず死活にかかわるスローガンを提起することによってであり、労働者階級の力に足枷をはめているポピュリスト的体制と非妥協的に闘争することによってである。

 19、これらの理論的および政治的課題の解決が考えられるのはただ、ソ連邦全体のボリシェヴィキ=レーニン主義派が自己の組織を強化し、公式の党や労働者階級の他の組織の主要なすべての細胞に浸透し、同時に国際左翼反対派の不可分の一部としてとどまるという条件がある場合のみである。

※   ※  ※

 20、最も差し迫った課題の一つとして、ソ連邦の経済建設の経験を、ソ連共産党とコミンテルンによる全面的で自由な研究・討議の対象にすること。

 21、経済計画を討議し作成し再検討する際の基準は、(1)実質賃金の系統的な引き上げ、(2)工業価格と農業価格の鋏上価格差の縮小、すなわち農民とのスムィチカの確保、(3)国内価格と国際価格の鋏上価格差の縮小、すなわち低価格の圧力から外国貿易の独占を守ること、(4)生産物の質の向上。これは、量と同じく重視されなければならない、(5)貨幣の国内購買力の安定。これは、長期間にわたってまだ、計画原理と並んで経済調整に必要不可欠な要素である。

 22、「最大限の」テンポを行政的に追求するのではなく、最適な(最も有利な)テンポを作り出さなければならない。この最適なテンポは、今日の指令を見せかけだけ実施するといったものではなく、動的均衡にもとづいた経済の安定成長を保障し、国内資源の正しい分配と世界市場の広範な計画的利用を伴うものである。

 23、このためには、何よりも、一国社会主議論から出てくる閉鎖的で自足的な一国的経済発展という偽りの展望を放棄しなければならない。

 24、世界経済との結びつきの増大を展望しながら、ソ連邦の外国貿易の問題を根本問題として立てなければならない。

 25、これと対応して、資本主義諸国とソ連邦との協力という問題はコミンテルンの全支部にとって焦眉のスローガンの一つとなっている。とりわけ、世界恐慌と世界失業の時期においてはそうである。

 26、農業の集団化を、農業プロレタリアートと貧農の真の自主性、彼らと中農との同盟という方向に切り替えなければならない。コルホーズの経験の本格的かつ全面的な検討を、労働者と先進的農民の課題とすること。コルホーズ建設の国家計画を、実際の経験と現存する技術的資源および経済全体の資源に照応させること。

 27、鋤や鍬の基礎上で2、3年で「階級としてのクラークを一掃」するといった官僚的ユートピアを拒否すること。クラークの経済的傾向を系統的に制限するという確固たる政策を実施すること。この目的のためには、けっしてコルホーズを社会主義的企業と同一視することなく、コルホーズ内部およびコルホーズ間の階層分化という不可避的な過程を注意深く監視すること。

 28、官僚の威信に対する配慮にもとづいて経済が指導されるような事態に終止符を打つこと。誇張したり沈黙したり欺いたりしないこと。生産力水準がいまだきわめて低くきわめて矛盾に満ちた構造をもっている現在の過渡的なソヴィエト経済を「社会主義」と呼ばないこと。

 29、指導の無謬性という実践的に破滅的で革命党にあるまじきローマ・カトリック教的ドグマときっぱり手を切ること。

 30、スターリン主義の理論と実践を弾劾し、マルクスの理論とレーニンの革命的方法論に立ち返ること。

 31、党をプロレタリア前衛の組織として再生すること。

※   ※  ※

 一方での巨大な経済的成功と、他方でのコミンテルンのよりひどい弱体化にもかかわらず、世界の政治地図におけるボリシェヴィズムの革命的比重は、世界市場におけるソヴィエト経済の比重よりもはるかに重要である。ソ連の国有・集団化経済を全力挙げて向上させ発展させながらも、同時に、次のことを一瞬たりとも見落とすことなく正しい展望を堅持しなければならない。すなわち、革命闘争の中で世界ブルジョアジーを打倒することは、ソ連の国境内で世界経済に「追いつき追いこす」よりもはるかに現実的で直接的な課題であるということである。

 資本主義経済が陥っている現在の深刻な危機は、先進資本主義諸国のプロレタリアートの前に革命的可能性を開いている。労働者大衆の戦闘的能動性は不可避的に増大し、それによって、革命の全問題が再び鋭く提起され、中間主義官僚の専制はその基盤を奪われるだろう。左翼反対派は、これまでの道筋や犯された誤り、新しい課題と展望に対する明瞭な理解で武装して、革命の時代に入っていくだろう。

 ソ連邦がはらむ国内外の諸矛盾からの完全で最終的な活路は、プロレタリア世界革命の勝利という舞台の上に、そしてただそこにのみ見出されるだろう。

1931年4月4日

『反対派ブレティン』第20号(特別号)

『トロツキー研究』第4号より

  訳注

(1)ベセドフスキー、グリゴリー(1896-1949)……ゲ・ペ・ウの工作員、外交官。最初エスエル、その後ボリシェヴィキ。1917年以降、ウィーン、ワルシャワ、東京などで外交官として活動。西方に逃亡した最初のソヴィエト要人の一人。

(2)ブリュムキン、ヤーコフ(1899-1929)……ロシアの革命家、左翼エスエルのメンバー。1918年の左翼エスエル蜂起の一貫としてドイツ大使ミルバッハを暗殺。トロツキーに説得されボリシェヴィキに。プリンキポに追放されたトロツキーと連絡を取り、そのメッセージをもってソ連に帰国するも、逮捕され、1929年11月に銃殺。

(3)アガベコフ、ゲオルギー(1896-1937)……ゲ・ペ・ウの工作員。1920年にエカテリンブルクでチェカに参加。1920年代には左翼反対派弾圧に活躍し、1928年に西欧に逃亡。

(4)ルイコフ、アレクセイ(1881-1938)……ロシアの革命家、1899年以来の社会民主労働党の党員、古参ボリシェヴィキ。1917年10月に内務人民委員。1917年から中央委員。1918年から最高国民経済会議の議長。1922年から政治局員。1924年から人民委員会議議長。ブハーリンとともに右翼反対派指導者。1938年の第3次モスクワ裁判で、でっち上げの罪で銃殺。死後名誉回復。

(5)スイルツォフ、セルゲイ(1893-1937)……1914年にボリシェヴィキに入党。内戦中は師団のコミッサール。後、中央委員会の煽動宣伝部局長。大粛清期に獄死。

(6)リャザーノフ、ダヴィド(1870-1938)……ロシアの革命家、歴史家、文献学者。1889年からロシアの社会民主主義運動に参加。党分裂後はメンシェヴィキ。亡命地でマルクス主義関係・労働運動関係の文献を収集し研究。1917年にメジライオンツィ派としてボリシェヴィキに参加。1921年から31年までマルクス・エンゲルス研究所の所長。初版の『マルクス・エンゲルス全集』(全27巻)を発行。1931年に反革命活動の罪をでっち上げられて除名。1938年に粛清。死後名誉回復。

(7)メンジンスキー、ヴァチェスラフ(1874-1934)……古参ボリシェヴィキ。1903年に学生の時にボリシェヴィキに入党。1905年革命の際、兵士向けのリーフレットを編集。1906年に逮捕されるも逃亡。そのまま国外へ亡命。1917年夏にロシアに帰国し、10月革命後、国営銀行、財務人民委員部で活動。1919年末からチェカの幹部に。1923年、ゲ・ペ・ウの副議長。1926年にゲ・ペ・ウ長官になり、死ぬまでその職に。

(8)ヤーゴダ、ゲンリク(1891-1938)……古参ボリシェヴィキ、ゲ・ペ・ウ幹部。1904年から革命運動に参加。1907年にボリシェヴィキ入党。一時期、統計学者。10月革命後、いくつかの軍事ポストを歴任。1920年からチェカの指導的活動に参加。1924年にゲ・ペ・ウの副長官。1934年から1936年まで内務人民委員(NKVD)。1938年、第3次モスクワ裁判の被告として死刑を宣告され、銃殺。

(9)パーセル、アルバート(1872-1935)……イギリスの労働組合活動家で、イギリス総評議会の指導者。英露委員会の中心的人物。1926年に起こったゼネストを裏切る。

(10)蒋介石(1887-1975)……中国の軍閥指導者、国民党の右派指導者。日本とソ連に留学。辛亥革命に参加し、孫文の信任を得る。1920年代にコミンテルンは共産主義者の国民党への入党を指示し、国民党を中国革命の指導党として称揚していた。1926年3月、広東クーデターで指導権を握り、北伐開始。コミンテルンはこのクーデターを隠蔽し、蒋介石を擁護。同年5月の国民党中央委員会総会で蒋介石は共産党員の絶対服従と名簿提出を命令し、コミンテルンはそれに従う。1927年4月12日、蒋介石は上海で国民党内の共産主義者の弾圧に乗り出し、多くの共産主義者を殺戮(4・12上海クーデター)。その後、中国共産党と対立しつつ国内の独裁権を強化。日中戦争勃発後、国共合作を行なうが、第2次大戦後、アメリカの援助のもと共産党との内戦を遂行。1949年に敗北して台湾へ。総統として台湾で独裁政権を樹立。

(11)ラフォレット、ロバート(1855-1925)……アメリカのブルジョア政治家で、1924年に進歩党の候補者として大統領選に立候補。

(12)ラディッチ、ステファン(1871-1928)……クロアチアの民族主義者。1924年に農民インターナショナルに参加。

(13)卜占官……小鳥の鳴声や飛び方で神の心を占ったという古代ローマの占い師。

(14)トゥハチェフスキー、ミハイル(1893-1937)……ソ連の軍人、革命家、元帥。貴族出身で、陸軍士官学校卒。第1次大戦にロシア軍将校として参加。1918年にボリシェヴィキ入党。1935〜36年、ソ連軍参謀総長、国防人民委員代理。1937年に、スターリンの陰謀でクーデターの首謀者として逮捕され、他の赤軍指導者とともに銃殺。死後名誉回復。

(15)ブリュッヘル、ヴァシーリー(1890-1938)……ソ連の軍人、革命家、元帥。第1次世界大戦前から革命運動に従事。1914年に軍隊に召集され、1915年に軍曹に。サマラでボリシェヴィキ革命に参加。内戦では、ボルガやウラル、南部戦線で赤色軍司令官として活躍。1924〜27年、中国の広東でソヴィエト顧問として軍事指導。1937年の赤軍大粛清で粛清する側であったが、1938年に逮捕され、粛清。

(16)ブジョンヌィ、セミョン(1883-1973)……ソ連の軍人、元帥。1903年に帝政ロシア軍に入隊。1917年に革命運動家となり、連隊兵士委員会議長。1919年にボリシェヴィキ入党。内戦では赤色騎兵隊を率いて活躍。1919〜23年、第1騎兵軍団長。1937年、モスクワ軍管区司令官。1940年、軍事人民委員代理。1939〜52年、党中央委員。

(17)ウルバーンス、フーゴ(1892-1947)……ドイツの革命家。1924年以降、ドイツ共産党の指導者。1927年にマスロフ、フィッシャーらとともに除名され、レーニンブントを結成。後にこの組織は左翼反対派と合同。1933年、スウェーデンに亡命し、同地で死去。

(18)ピャタコフ、グリゴリー(ユーリー)(1890-1937)……元アナーキスト、古参ボリシェヴィキ。1910年以来の党員。1914年に亡命。民族問題などでブハーリンを支持して、レーニンと対立。1917年、キエフ・ソヴィエト議長。1918年、左翼共産主義者。1924年以降、左翼反対派。1927年、第15回党大会で除名。1928年に屈服。1930年、重工業人民委員代理。1937年の第2次モスクワ裁判の被告として銃殺。

(19)ラデック、カール(1885-1939)……ポーランド、ドイツ、ロシアで活躍した革命家。1904年からポーランド・リトアニア社会民主党、1908年からドイツ社会民主党左派、1917年にボリシェヴィキ。1923年から左翼反対派。流刑地でスターリンに屈服し、1937年に第2次モスクワ裁判被告。

(20)グローマン、ウラジーミル(1874-1937)……ロシアの経済学者、メンシェヴィキ。1890年代から社会民主主義運動に参加。1905年にメンシェヴィキ。メンシェヴィキ中央委員会の著名な活動家。1922年にボリシェヴィキに。1922年に中央委員。その後マルクス主義に幻滅し、離党。1923〜28年、ゴスプラン幹部会の指導的働き手。1929年に解任。1930年に逮捕。メンシェヴィキ裁判の主要な被告の一人。大粛清期に強制収容所で死んだと思われる。

(21)スハーノフ、ニコライ(1882-1940)……ロシアの革命家、元エスエル、メンシェヴィキ。1917年にはマルトフのメンシェヴィキ国際主義派に属する。10月蜂起の決定が行なわれたボリシェヴィキの有名な秘密会議は留守中のスハーノフの家で行なわれた(スハーノフの妻はボリシェヴィキ)。1920年に共産党に。1930年に反党活動をでっちあげられ除名。彼の書いた『革命記』(全7巻)はロシア革命を生き生きと伝える第一級の証言となっている。

(22)突撃運動……社会主義競争の方法として20年代終わりから30年代中ごろまで行なわれた労働と経済建設の運動。


  

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