【解説】これは、レーニンの古典的名著『共産主義の左翼小児病』のポーランド語版にトロツキーが寄せた序文である。この序文の中でトロツキーは、極左主義に対する批判よりもむしろ、極左主義批判に名を借りた右翼日和見主義を批判し、どのような場合にどのような条件下で統一戦線が許されるのかを詳細に論じている。
この序文はすでに現代思潮社刊の『社会ファシズム論批判』に訳出されているが、今回、水谷氏が英語版から改めて訳しなおし、それを西島が『反対派ブレティン』のロシア語原文にもとづいて入念にチェックし、修正をほどこした。
Л.Троцкий, К польскому изданию 《Детскои болезни левизны в коммунизме》, Бюллетень Оппозиции, No.32, Декабрь 1932.
Translated by the Trotsky Institute of Japan
ポーランドの読者に提供されるレーニンのこの著作は、1920年の4月と5月に執筆された。当時、国際共産主義運動はまだ幼児期を脱していなかった。それはまさに小児病を患っていた。
レーニンは、形式的な「左翼主義」、見せかけの急進主義と美辞麗句を断罪し、そうすることで、階級的政策の真の革命的非妥協性をいっそう鋭く擁護した。しかし、彼は――残念ながら!――、さまざまな類の日和見主義者がこの著作を悪用するのを防ぐ十分な予防策を講じなかった。日和見主義者たちは、無原則的な妥協を擁護する目的で、12年前に刊行されたこの著作を何百回、何千回となく引用した。
現在、世界恐慌という状況のもとで多くの国の左翼が社会民主党と決別しようとしている。共産主義と改良主義との間にある隙間に落ち込んだこれらのグループは、ふつう、「統一戦線」――あるいはもっと広く「労働者運動の統一」――を作り出すことが自分たちの歴史的任務であると宣言している。事実、ザイデヴィッツ(1)やK・ローゼンフェルト(2)、老レーデブール(3)、その他が指導するドイツの「社会主義労働者党」を特徴づけるものは、基本的に、このような妥協的スローガン以外の何ものでもない。この地から判断できるかぎりでは、ジョゼフ・クルック博士らが属しているポーランドの小さな政治グループは、このドイツの「社会主義労働者党」とほとんど違わないように見える。このグループの理論家たちは、何かと言うと、レーニンの『左翼小児病』を喜んで引き合いに出してくる。だが彼らは、自分たちがレーニンを常に度しがたい分裂主義者と見てきた理由について説明することを忘れている。
レーニン主義的統一戦線政策の本質は、戦闘的・非妥協的な綱領と組織を堅持しつつ、たとえ小さな一歩であれ足並みそろえて実践的な前進を行なう機会をプロレタリアートに与えることにある。しかし、大衆のこのような実践的前進にもとづきつつも、レーニンは、マルクス主義と改良主義との間の政治的矛盾をうやむやにしたり緩和したりしないように努め、逆に、それを白日のもとにさらし、大衆に説明して、こうして革命的な翼を強化しようとした。
統一戦線の問題は戦術の問題の核心をなす。だがわれわれは戦術が戦略に従属することを知っている。われわれの戦略路線は、マルクス主義の観点から見たプロレタリアートの歴史的利益によって規定される。しかしだからといって、戦術的な問題の意義を低くめるつもりはいささかもない。戦略は、それに対応する戦術が伴わなければ、生命のない机上の抽象にとどまる。しかし、それに劣らず悲惨なのは、特定の戦術的方法を、それがある時点でいかに重要であっても、万能薬や普遍的処方箋や信条告白に変えてしまうことである。統一戦線政策を革命的に適用するための第一の条件は、無原則な妥協と非和解的に決別することである。
レーニンの著作は偽りの急進主義に致命傷を与えたかに見えた。共産主義インターナショナルの第3回大会と第4回大会は、それぞれの決議の中でこの著作の結論にほとんど満場一致の支持を与えた。しかし、レーニンの病気およびその死と軌を一にして始まったその後の時期に、一見したところ驚くべき現象が起こった。極左的傾向がふたたび前面に現れて、勢いを増し、一連の敗北をもたらし、その後、舞台から退いたかと思うと、またもっと極端かつ悪質な形で出現したのである。
改良主義とのいかなる協定に対しても、社会民主主義とのいかなる統一戦線に対しても、労働組合運動のいかなる統一に対しても発せられる形式主義的で陳腐な抗議、自分自身の「純粋無垢な」(レーニンの表現)労働組合の結成を求める浅薄な論拠――こうした「極左」的議論が、今日、幼児の弱々しい金切り声によってではなく、官僚の低音のわめき声によって主張されているからといって、いささかでも真面目なものになったり、いささかでも利口なものになったりはしない。この驚くべき再発はいったい何ゆえなのか。
周知のように、政治的傾向というものは宙に浮いて存在しているわけではない。偏向や誤りは、それが長期にわたって存在しているとすれば、必ずや何らかの階級的基盤を有している。その社会的根源を特定することなく「極左主義」について語るとすれば、それはマルクス主義的分析を観念遊びに置き代えることを意味する。実際、スターリン主義に対する右からの批判者たち、すなわち日和見主義的な批判者たち(たとえばブランドラー派)は現在でも、コミンテルンのすべての誤りを単純なイデオロギー的誤解に還元してしまい、極左主義を、超社会的で超歴史的なある種の神秘的な原理――いわば、敬虔なキリスト教徒を誘惑する悪霊のようなもの――に変えてしまう。
問題はこのようなものではまったくない。事態の推移は次のことを疑問の余地なく明らかにした。すなわち、かつては個々人や集団の政治的未成熟さの現れとしか見えなかった誤りが、現在では一つのシステムにまで高められ、官僚的中間主義という大きな政治的潮流の支配をめざす闘争の自覚的な武器になっていることである。今日コミンテルンを支配しているこの同じ政治グループが極左的誤りと深刻な日和見主義的実践とを相互に繰り返しているだけに、なおさら真の問題は、極左主義の不毛な精神ということにあるのではない。しかも、ときとしてスターリスト分派は、急進主義と日和見主義の間を揺れ動くだけでなく、党派闘争の必要に依存して、この両者を同時に適用する。
こうして現在、われわれは次のような奇妙な光景を目にしている。すなわち、一方で、スターリニストは、ドイツ社会民主党とのいかなる協定政策もすべて原則的に拒否しながら、他方では、ブルジョア的・小ブルジョア的平和主義者やフランス急進党員、フリーメーソンとの協定を通じて、あるいは、「第2インターナショナルと第3インターナショナルの統一」を自らの固有の使命と考えるバルビュス型のもったいぶった個々人との協定を通じて、反戦大会なるものを招集しているのである。
レーニンは「協定」や「妥協」や不可避的な譲歩等々を支持したとする、単純で常に十把ひとからげ的な議論は逆に、こうした方法がけっして越えてはならない境界線、それを越えると正反対物に転化してしまう境界線がどこにあるかを示す上でもこの上なく役に立つ。
統一戦線の戦術は万能の処方箋ではない。それはより高い基準にしたがう。すなわち、非妥協的なマルクス主義的政策にもとづいてプロレタリア前衛を統一するという基準である。重要なのは、誰との、どのような目的での、どのような限界内での統一戦線が許され、それはいつ解消されるべきかを、具体的な階級関係にもとづいて個々のケースごとに決定することであり、そこに指導の技術がある。
※ ※ ※
統一戦線政策を実行してはならないし実行することのできないケースについて完全な実例を得たいと思うならば、戦争に反対する「すべての階級とすべての政党」によるアムステルダム大会ほど最良の――というよりも最悪の――例を見いだすことは不可能であろう。この例は一つ一つ詳細に検討するに値する。
1、共産党は、一時的であれ長期的であれどのような協定を結ぶにあたっても常に、公然と自分自身の旗を掲げなければならない。ところがアムステルダムでは、政党それ自身はそもそも参加を許されなかった。あたかも戦争反対の闘争が政治的課題ではなく、したがって政党の課題ではないかのように。あたかもこの闘争が思想の最高度の明晰さと最高度の厳密な正確さを必要としないかのように。あたかも政党以外のどのような組織でも、反戦闘争の問題を最も正確かつ完全な形で定式化できるかのように。ところが、政党を排除したこの大会の事実上の組織者は、他ならぬコミンテルンだったのである!
2、共産党の追求するべき統一戦線の相手は、個々の弁護士やジャーナリストではなく、知り合いの支持者でもなく、労働者の大衆組織、したがってまず何よりも社会民主党でなければならない。ところが、社会民主党との統一戦線はあらかじめ排除されていた。社会民主党に対して統一戦線の提案をすることさえ、すなわち社会民主党の指導部に対する党員大衆の圧力の影響を公然と試すことでさえ、許されないと宣言された。
3、統一戦線の政策そのものが日和見主義の危険性を内包しているがゆえに、あらゆる類のいかがわしい仲介者や大衆の背後での外交的画策を排除することが共産党の義務となる。ところがコミンテルンは、公式の主催者にして舞台裏での仲介役および旗振り役としてフランスの作家バルビュス(4)を前面に立てることが必要であると判断した。改良主義と共産主義の最悪の分子を自己の支持基盤とするあの男である。バルビュスは、大衆には知らせることなく、しかし明らかにコミンテルン幹部会の支持のもとに、反戦大会について誰あろうフリードリヒ・アドラー(5)と会談したのだ。上からの統一戦線は禁止されているのではなかったか? だがバルビュスの仲介を通じてならそれが許されるのだ! 政治的策謀の分野においてならば、第2インターナショナルのボス連のほうがバルビュスよりも何枚も上手であるのは言うまでもない。舞台裏でのバルビュスの外交は、会議への参加を回避する格好の口実を第2インターナショナルに提供しただけであった。
4、自らの大義のためなら、脆弱な同盟者であっても――それが真の同盟者であるかぎり――獲得しようとすることは、共産党の権利であり、義務でさえある。しかしそうすることによって、共産党の根本的な「同盟者」である労働者大衆を遠ざけるようなことがあってはならない。ところが、帝国主義フランスの政権党のメンバーである個々のブルジョア急進党員の大会参加は、フランス社会党の労働者を共産主義から遠ざけるだけである。それだけではない。エリオ(6)の党の副代表や平和主義的シェーナイヒ将軍(7)と肩を並べることが許されて、どうして改良主義的労働者組織に対して戦争反対の共同行動の提案を行なうことは認められないのか――このことをドイツのプロレタリアートに説明するのは容易ではない。
5、統一戦線政策において、相手を見誤ることほど危険なことはない。すなわち、偽りの同盟者を真の同盟者とし、それによって労働者を欺くことほど危険なことはない。だがこれこそが、アムステルダム大会の組織者が犯し、いまも犯しつづけている犯罪なのである。
フランスのブルジョアジーは現在ではみな「平和主義者」である。これは何ら不思議なことではない。勝者はすべて、敗者が復讐戦争を開始するのを阻止しようとするからである。フランスのブルジョアジーは、いつでもどこでも平和の保証を求める、すなわち、自分たちの略奪物の不可侵性を維持しようとする。
小ブルジョア平和主義の左翼は、この保証を追求するにあたって、コミンテルンとの一時的な同盟さえ辞さない。しかし、いったん戦争となれば、その初日にこれらの平和主義者はこぞって自国政府の側に立つだろう。彼らはフランスの労働者にこう語ることだろう。「平和のための闘争においてわれわれはあらゆる手を尽くし、アムステルダム大会さえ開いた。しかし事態が戦争にまで至った今や、われわれは祖国防衛の立場に立つ」。フランスの平和主義者の大会参加は、事実上誰の手も縛るものではなく、いざ戦争になれば、彼らは全面的にフランス帝国主義の利益に奉仕するだろう。他方で、国際的な略奪の分野で「平等な権利」を求める戦争が勃発すれば、シェーナイヒ将軍やその同類たちは全面的に祖国ドイツの陣営に立って、新たに獲得したばかりのアムステルダム大会の権威を全面的に利用しようとするだろう。このことを疑うことはできない。
インドのブルジョア民族主義者パテール(8)がアムステルダム大会に参加した理由は、蒋介石が「審議権」を持ったメンバーとしてコミンテルンに参加したときと同じである。このような参加はいやおうなく人民大衆に対する「民族主義指導者」の権威を高める。何かの会議の席でインド共産党の誰かがパテールとその仲間を裏切り者呼ばわりするようなことがあれば、パテールはこう答えるだろう。「もし私が裏切り者だとすれば、アムステルダムでボリシェヴィキの同盟者となるようなことはなかったはずだ」。こうしてスターリン主義者は、インドのブルジョアたちをインド労働者に対して武装してやっているのである。
6、実際的な目的のための協定は、いかなる場合であっても、その代償として、原則面で譲歩したり、本質的な相違について沈黙したり、曖昧な定式化でごまかしたりしてはならない。ところがアムステルダム大会の宣言はこれすべて、ごまかしと2枚舌、言葉遊び、矛盾隠し、中身のない大げさな約束、いかなる義務も負わせない厳粛な誓い、等々に立脚している。ブルジョア政党の党員やフリーメーソンの嘘つきが資本主義を「断罪」する! 平和主義者が…平和主義を「断罪」する! そのうえで、まさに会議の翌日、シェーナイヒ将軍は、V・ミュンツェンベルク(9)の雑誌に書いた論文の中で、自分は平和主義者だと宣言する。そして資本主義を断罪したフランスの大小のブルジョアたちが、自国の資本主義政党の構成員に戻ると、エリオに信任票を投じる。これは卑しむべき仮面舞踏会ではないか、これは恥知らずなインチキ芝居ではないか?
一般に統一戦線の適用にあたって義務となるマルクス主義的非妥協性は、戦争のようなきわめて先鋭な問題が問われているときには、さらに2倍も3倍も重要な義務となる。ドイツ革命の発展にとって、戦争中のリープクネヒト一人の断固とした声は、独立社会民主党(USPD)にいる平和主義者の感傷的で中途半端な抗議とは比べものにならないくらい重要な意味を持った。フランスにはリープクネヒトのような人物は一人もいなかった。その原因の一つはまさに、フランスでは平和主義――フリーメーソンの、急進党の、社会党の、サンディカリストのそれ――が、嘘と偽善のきわめて分厚い層を形成していたことにある。
レーニンは、どのような種類の「反戦」大会であっても、統一のための一般的言辞を追求してはならず、反対に、問題を明確にはっきりと鋭く提起して、平和主義者の指にやけどを負わせ、彼らをたじろがせて、すべての労働者に教訓を与えなければならない、と主張した。1922年にハーグで開催された反戦会議のソ連代表団に対して、レーニンは次のような指示を与えている。
「私の考えでは、われわれの間にハーグ会議で戦争反対の演説をあれこれの言語でやることのできる人間が何人かいるならば、最も重要なのは次のような意見に反撃することである。すなわち、あたかも会議の出席者たちがみな戦争に反対しているかのように主張する意見、戦争がまったく思いがけないときに勃発しうるし、勃発するにちがいないことを自分たちは理解していると主張する意見、戦争と闘う方法を自分たちはそれなりに理解していると主張する意見、戦争と闘うために適切で効果的な措置をとるそれなりの用意があると主張する意見である」(10)。
レーニンがアムステルダムで、フランス急進党のG・ベルジェリ(11)やドイツのシェーナイヒ将軍やリベラル民族主義者のパテールらと手を携えて、大言壮語だけの空虚な宣言に賛成する光景を一瞬でも思い描いて見よ! この光景の不自然さ以上に、エピゴーネンたちが落ち込んだ奈落の深みをはっきりと示すものはない!
※ ※ ※
レーニンのこの著作の中には、われわれが今日支持できないような定式はただの一つも含まれていない。しかし、この著作が書かれてから12年がたった。今日、レーニンの政策の系統的な歪曲とレーニンからの引用の意図的な悪用にもとづいて、一つの有力な潮流が形成されている。すなわち、官僚的中間主義という潮流、レーニンがこの著作を書いたときには存在しなかった潮流である。
スターリニスト的傾向が存在する理由を説明することは難しくない。それには社会的な基盤がある。勝利はしたものの単一の国で孤立しているプロレタリア革命から生まれた数百万の官僚がそれである。官僚の独自の階層的利害がその内部に日和見主義と民族主義の傾向を生み出す。しかしそれにもかかわらずそれは、ブルジョア世界に包囲された労働者国家の官僚制である。それは一歩ごとに資本主義諸国の社会民主主義官僚と敵対的に衝突する。コミンテルンの方針を決定するソ連官僚は、自分自身が置かれた状況の諸矛盾をコミンテルンの上に刻印する。エピゴーネン指導部の全政策は日和見主義と冒険主義との間を揺れ動く。
「極左主義」は幼児の病気であることをやめた。今やそれは、世界のプロレタリア前衛の発展にますますブレーキをかける一分派の、自己保存のための方法の一つになった。官僚的中間主義に対する闘争は、現在では、すべてのマルクス主義者の第一の義務である。すでにこの理由だけでも、われわれは、レーニンのこの素晴らしい著作がポーランド語で出版されることを熱烈に歓迎しなければならないだろう。
1932年10月6日
『反対派ブレティン』第32号
『トロツキー著作集 1932』下(柘植書房新社)より
訳注
(1)ザイデヴィッツ、マックス(1892-?)……ドイツ社会民主党の左派で、1931年10月に社会民主党から離脱し、社会主義労働者党(SAP)を創設。その後、SAPから離れ、1933年にスウェーデンに亡命。第2次大戦後、東ドイツの党および政府の中でいくつかの重要なポストに就いた。
(2)ローゼンフェルト、クルト(1877-1943)……ドイツの社会民主主義者で弁護士。1917年に独立社会民主党に移り、1922年に社会民主党に復帰。1931年に一時期、社会主義労働者党の指導者に。
(3)レーデブール、ゲオルグ(1850-1947)……ドイツの古参の社会民主党員、中央派。1917年に独立社会民主党の創設者の一人。独立社会民主党の第3インターナショナルへの加盟に反対。1922年に社会民主党に復帰。1931年に社会主義労働者党に参加。1933年にスイスに亡命。
(4)バルビュス、アンリ(1873-1935)……フランスの詩人・作家。人道主義的立場からしだいに社会主義的立場に移行し、共産党に入党。雑誌『クラルテ』を創刊。1930年代にはスターリニズムの主要な文学的弁護者となった。1935年に訪ソ中に死去。
(5)アドラー、フリードリヒ(1879-1960)……ヴィクトル・アドラーの息子。オーストリア社会民主党の指導者。第1次世界大戦の時は反戦を唱えて、首相のシュテュルクを暗殺。大戦後出獄し、国会議員に。
(6)エリオ、エドゥアール(1872-1957)……フランス急進党の指導者。1916年から無任所大臣。1924〜25年に首相。1936〜1940年、下院議長。
(7)シェーナイヒ、パウル・フォン(1886-1954)……ドイツの軍人、ユンカー出身の海軍将校で、平和主義者に転じて、ソ連に好意的な立場をとるようになった。
(8)パテール、S・V(1875-1950)……インドの政治家。ガンディーとともにインド独立運動を指導。インド国民会議派の中では保守派。1947年、独立後のネルー政府の中で内相。
(9)ミュンツェンベルク、ウイリー(1889-1940)……ドイツのスターリニストで、共産主義青年インターナショナルの創始者の一人。コミンテルンの資金を用いて出版社、日刊紙、雑誌、映画会社などを設立。ナチスの政権掌握後、フランスに亡命。人民戦線をめぐって意見が分かれ、1937年にコミンテルンから決別。後に、不可解な状況の中で暗殺される。
(10)レーニン「わがハーグ代表の任務の問題についての覚え書」(1922年12月4日)、『レーニン全集』第33巻。
(11)ベルジェリ、ガストン(1892-1958)……フランス急進党の政治家で、1930年代は「ソ連の友」。1935年に人民戦線の創立者となる。後年、右に転じて、ペタン政権の大使となった。
トロツキー・インターネット・アルヒーフ | 日本語トップページ | 1930年代前期 |