【解説】旧ソ連で出された『レーニン全集』には第5版まであるが、そのいずれにも収録されていないレーニンの演説や文書類はかなりの量にのぼる。収録されなかった原因は、文書によってさまざまだが、その有力な理由の一つは、その中でレーニンが特別にトロツキーを評価していることである。次号の『トロツキー研究』第32/33合併号で、レーニンの隠された演説のいくつかを訳出することにしているが、そのいくつかの抜粋はすでにトロツキーの手によって公開されている。ここで翻訳されたものもその一つである。
1921年のドイツにおける冒険主義的な3月蜂起が失敗に終わった後も、なお攻勢理論に固執している左翼主義者は、コミンテルン各国支部にもまたコミンテルン中央執行委員会にも大勢いた。その代表的な人物はベーラ・クンであるが、レーニンは、ベーラ・クンが攻勢理論の立場からトロツキーを攻撃する演説をコミンテルン執行委員会議の中で行ったことを知ると、ただちにそれに反撃する必要があると考え、次の執行委員会議に出席して、ベーラ・クンをこっぴどく批判し、トロツキーを全面的に擁護する演説を行なった。コミンテルンにおける統一戦線戦術への転換が、レーニンとトロツキーの主導によって行われたことを示すきわめて重要な資料である。スターリニストがこの演説を『レーニン全集』のどの版にも入れようとしなかったのは、当然と言えよう(ごく最近になって、ロシアで、レーニンの発表されなかった手紙や演説・電報がすべて発表された)。
なお本稿は、英語版から服部氏が最初に訳し、その訳文を西島が『反対派ブレティン』のロシア語原文にもとづいて入念にチェックし、修正を施したものである。
Л.Троцкий, Уроки V−го конгресса(Скрытая речь Ленина), Бюллетень Оппозиции, No.32, Декабрь 1932.
Translated by the Trotsky Institute of Japan
コミンテルン第3回大会は、ドイツにおける1921年の「3月事件」の3ヶ月後に開催された。ドイツ共産党の若い指導部は、3月の闘争の熱気からいまだ冷めやらず、およそ次のように論じた。現在は革命期であるから、われわれ革命的前衛は、ひたすら前進し、いかなる障害を前にしても停止してはならず、自らの実例でもって労働者階級を惹きつけなければならない、と。これは、具体的な情勢から、あるいはプロレタリアートの実際の状況やそのさまざまなグループ編成にもとづくのではなく、この時期を革命的時期と一般的に特徴づけることにもとづくものであった。革命的冒険主義の一般的な歴史哲学的基礎とは、このようなものである。1921年には、この考え方はおずおずとしたタッチで描かれただけであった。10年後には、それは「第3期」論の名のもとに大っぴらに展開され、神聖化され、官僚化された。
レーニンの最も明晰な演説の一つが、これまでのところコミンテルンのアルヒーフの中に隠されたままであるだけになおさら、この理論に対するレーニンの態度を思い起こすことは重要である。われわれが言っているのは、第3回大会前夜の1921年6月17日におけるコミンテルン執行委員会会議で行なわれたレーニンの演説のことである。以下にこの演説の抜粋を引用するが、この演説を理解するためには、極左主義が当時ほとんどすべての党に蔓延していたことを思い起こす必要がある。たとえば、フランス代表団の一部は――たしかに、後になってからのことだが――1919年の徴兵適齢集団による兵役拒否を唱導した。ルクセンブルクの代表は、フランス共産党がフランス軍によるルクセンブルグ占領を「阻止」しなかったことを非難した。カシャン(1)とフロッサール(2)の日和見主義的政策に反対して演説したトロツキーは、彼自身が説明しているとおり、演説の始めに極左主義への批判を行なわざるをえなかった。彼は、ある一つの兵役年齢集団(フランス人が言うところの「1919年階級」)の受動的抵抗によって軍国主義を打ち負かすことは不可能であり、必要なのは労働者階級全体の能動的行動である、ということを示した。彼はまた、プロレタリアートが全体として革命的変革を実行する準備ができていなければ、ルクセンブルクの軍事占領を阻止することはできないことを証明した。基本的問題、すなわち権力獲得の問題を解決するには力が不十分であるときに、この種の「部分的」問題を力ずくで解決しようとすることは、冒険主義の道であり、その道は若い共産党にとって致命的なものになりかねない。
ジノヴィエフ、ブハーリン、ラデックは、極左派の側に立っていた。しかし、彼らはレーニンがどちらの立場をとるかがわからなかったので、公然たる闘争を行なうことを差し控えていた。彼らはベーラ・クン(3)を前面に押し出した。ベーラ・クンはドイツにおける3月戦略を防衛しただけでなく(この戦略に関しては、彼は個人的にも大きな責任を負っていた)、ルクセンブルク代表および未来のファシスト、ラポルト(4)を含むフランス代表団の一部の極左主義的批判をも擁護した。
レーニンはこの会議には出席していなかった。しかし、論争が激しく展開されていることを知り、速記録を取り寄せ、次の執行委員会会議に姿を現し、極左主義に反対する猛烈な演説を行なった。
「同志ベーラ・クンは、日和見主義者だけが誤りを犯したと主張している。しかし、実際には、左派も誤りを犯しているのだ。私は、同志トロツキーの演説の速記録を持っている。この速記録によれば、同志トロツキーは、この種の左派の同志たちが今後とも同じ道を歩み続けるならば、フランスにおける共産主義運動と労働者運動を破滅に追いやるだろうと語っている(拍手)。私もこのことを深く確信している。そこで私は、同志ベーラ・クンの演説に抗議するためにここに来たのである。彼は、同志トロツキーを防衛するのでなく彼に反対している。真のマルクス主義者であることを望むなら、同志トロツキーを防衛しなければならなかったというのに……」
「同志ベーラ・クンは、革命的であることは、いつでもどこでも左派を擁護することだと考えている。ヨーロッパ最大の国の一つであるフランスにおける革命の準備は、どんな党でも単独で遂行することはできない。労働組合の指導権をフランス共産党が獲得することになれば、これほど喜ばしいことはない。……」
「共産党のすばらしい活動を目の当たりにし、労働組合や他の組織の中で活動しているすべての細胞を見て、私は次のように言いたい。フランスにおける革命の勝利は、左派が愚かなことをしないかぎり、保証されている、と。そして、ベーラ・クンのごとく、誰かが、冷静さや規律など役に立たないなどと言うなら、それこそ左派の精神に見られる愚かさであると言いたい。私は左派の同志たちに対して次のように言うためにここに来た。君たちがこのような忠告に従うならば、君たちは革命運動を破滅に追いやるだろう、と。……」
レーニンは、フランス共産党の日和見主義的誤りに関する問題に移って、次のように語っている。
「別の例を取り上げよう。マルセル・カシャンやその他の人々は、フランス議会において、英仏協定を取り上げ、そこに平和の保証があると言っている。これは日和見主義であり、これを許容する党は共産党ではない。もちろん、われわれの決議の中で、このような言明を許容することはできないこと、これが共産主義的方法ではないことを指摘しなければならない。しかし、批判は具体的である必要がある。われわれは日和見主義に烙印を押さなければならない。しかし、カシャンの演説に示されている真の日和見主義は批判を受けていない。これを批判する代わりに、彼らは[トロツキーの]この言明を批判し、新しい『忠告』を与えている。同志トロツキーが演説の中で言ったのはこうである(トロツキーの演説のドイツ語版速記録が読み上げられる)」。
「したがって、同志ラポルトは完全に誤っており、この点に抗議した同志トロツキーは完全に正しい。おそらく、フランスの党の振る舞いは、完全には共産主義的ではなかったのである。私はこの点を認める用意がある。しかし、現瞬間においては、このような愚行(兵役の拒否など)は、フランスおよびイギリスの共産主義運動を破壊するだろう。1919年の徴兵適齢集団の兵役拒否によっては、革命を行なうことはできない。トロツキーがこの点を指摘したとき、彼は千倍も正しかったのである。しかし、ルクセンブルクの同志は、フランスの党がルクセンブルク占領に対する妨害行動を起こさなかったことをいぜんとして非難している。何たることだ! 彼は、同志ベーラ・クンと同じく、これが地理的問題であると考えている。いや違う。これは政治的問題であり、同志トロツキーがこれに抗議したのは完全に正しかったのである。これは非常に『左翼的』な、非常に革命的な愚行であり、フランスの運動にとって非常に有害な愚行である。……」
レーニンは、さらに次のように続ける。
「共産主義青年同盟の中に真の革命家が存在していることを私は知っている。具体的な根拠にもとづいて日和見主義を批判し、公式のフランス共産主義の誤りを指摘しなければならないが、君たち自身が愚行を犯してはならない。大衆はますます君たちに近づいており、君たちはますます勝利に近づいている。そうであるならなおさら、労働組合の指導権を獲得しなければならない。労働組合の多数派獲得は、準備作業にとって素晴らしい成果をもたらす。もしこれに成功すれば、偉大な勝利となるだろう。ブルジョア民主主義はもはや信用されていないが、労働組合では第2および第2半インターナショナル出身の官僚的指導者がいぜんとして優位を保っている。労働組合の中で、われわれは何よりも信頼できるマルクス主義的多数派を獲得しなければならない。その後に、われわれは、1919年の徴兵適齢集団の兵役拒否によってではなく、またベーラ・クン専門の愚行によってでもなく、反対に日和見主義に対する、そして左派が犯す愚行に対する闘争を通じて、革命を行なうだろう。おそらくこれは、闘争というほどのものではなく、マルセル・カシャンの演説に対する単なる警告であり(ただし、日和見主義の伝統に対しては公然たる闘争をするが)、同時に左翼の愚行に対する警告となるだろう。だからこそ私は、同志トロツキーが言ったことを基本的にすべて支持し、同志ベーラ・クンの擁護した政策がいかなるマルクス主義者によっても、いかなる共産主義者によっても擁護するに値しないものであると宣言することが私の責務であるとみなしたのである」。
1932年秋
『反対派ブレティン』第32号
『トロツキー著作集 1932』下(柘植書房新社)より
訳注
(1)カシャン、マルセル(1869-1958)……社会党出身のフランス共産党指導者。『ユマニテ』の編集者。第1次大戦中は社会愛国主義派。1918年に中央派に。コミンテルン第2回大会でフロッサールとともにフランス社会党を代表。1920年12月のトゥール大会でフランス社会党のコミンテルン加入を訴える。フランス共産党内では中央派。その後、忠実なスターリニストとなり、死ぬまでその立場を堅持した。
(2)フロッサール、ルイ・オスカール(1889-1946)……フランスの社会主義者、ジャーナリスト、一時期、フランス共産党の指導者。1905年、フランス社会党に入党。第1次大戦中は平和主義派、中央派。1918年、党書記長に。1920年、マルセル・カシャンとともにコミンテルン第2回大会に参加。帰国後、フランス社会党のコミンテルン加入を訴え、多数派とともにフランス共産党を結成し、その書記長に。統一戦線戦術をめぐってコミンテルン(とくにトロツキー)と対立。1923年に党と決別し、その後、社会党に復党し、国会議員に。後に、社会主義そのものと決別し、ブルジョア政権のもとで大臣に。第2次大戦中はペタン政府に奉仕。
(3)クン、ベーラ(1886-1939)……ハンガリーの革命家、共産主義者。1914年にオーストリア=ハンガリー軍に召集され、ロシア戦線において捕虜となる。捕虜収容所で社会民主主義者となり、1917年2月革命後、ボリシェヴィキに。1918年にハンガリー共産党を創設し、その指導者に。ハンガリー革命を指導し、ハンガリー・ソヴィエトの事実上の最高指導者。革命敗北後にオーストリアへ逃亡し、そこで拘留。1920年夏に釈放され、ロシアに亡命。南部戦線の評議会メンバーとして内戦に参加。1921年、コミンテルンの執行委員に。ドイツの冒険的3月行動を指導。第3回世界大会の際は、攻勢理論を唱えて、レーニン、トロツキーと対立。1922年のコミンテルン第4回大会で報告。その後スターリニストとなり、コミンテルンの役職を歴任。1937年に逮捕され、1939年に粛清。1956年に名誉回復。
(4)ラポルト、モーリス(1901-?)……初期のフランス共産主義青年同盟の指導者、党内極左派、その後、反共右派に。第1次大戦中にフランス社会党に入党。1918〜1919年、社会主義青年同盟内の共産主義的潮流として活躍。フランス共産主義青年同盟の書記長。1921年のコミンテルン第3回大会、1921年6月16、17日の第2回拡大執行委員会会議、1922年の第4回コミンテルン大会に出席。1923年、フランスによるルール占領に反対する行動の中で逮捕投獄。1923年に青年同盟書記長の地位をドリオに譲る。1920年代半ばに共産主義と絶縁。反共右派となり、1940年以降のドイツ占領期にドイツ軍に協力。戦後、フランスの戦犯を裁く裁判で欠席のまま終身刑を宣告される。
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