スターリニストは策を講じる

ジノヴィエフとカーメネフ等の除名によせて
トロツキー/訳 水谷驍・西島栄

【解説】この論文は、かの有名なリューチン事件に連座して、ジノヴィエフとカーメネフが党を除名されたことを取り上げたものである。この論文の中で、トロツキーは、今回の弾圧の矛先が主としてジノヴィエフとカーメネフに向けられたものであり、元右翼反対派のリューチンとウグラーノフが除名されたのは、ジノヴィエフとカーメネフの権威を失墜させるためのものであると判断している。リューチン派の政綱がまったく世界に知られていないもとでは、このような推理がなされたのはある意味で自然である。しかし、後世の歴史家が知っているように、この事件の主犯はあくまでもリューチンとウグラーノフのグループであり、その政綱は、トロツキーが想像したようなテルミドール的傾向を持ったものではなく、真のプロレタリア独裁を目指したものであった。リューチン派の政綱についてはその一部が『トロツキー研究』各号に訳されているのでそれを参考にしてほしい。いずれ、このホームページで、その全文を訳載する予定である。

 なお本稿は、英語版から水谷氏が最初に訳し、その訳文を西島が『反対派ブレティン』のロシア語原文で入念にチェックして修正を施したものである。

Л.Троцкий, Сталинцы принимают меры: К исключению Зиновьева и Каменева и др., Бюллетень Оппозиции, No.31, Ноябрь 1932.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 有線と無線の外電は、ジノヴィエフとカーメネフが他の20名以上の人々とともにボリシェヴィキから除名されたと全世界に伝えた。公式声明によれば、除名された者たちはソ連に資本主義を復活させようとしたとのことである。この新しい弾圧の政治的重みはそれ自体として大きなものであるが、それが持つ徴候的な意義はもっと大きく巨大である。

 ジノヴィエフとカーメネフは、長年にわたってレーニンの最も親密な弟子であり協力者であった。レーニンは、他の誰よりもよく2人の弱点を知っていた。しかし彼は、2人の長所を活用することもできた。特定の人物を過度に強めたり弱めたりしないように、賞賛も非難も押さえられた形で盛りこまれたきわめて慎重な表現の「遺書」の中で、レーニンは、10月革命におけるジノヴィエフとカーメネフの行動が「偶然ではなかった」ことを党に想起させることが必要だと考えた。その後の事態はこの言葉の正しさをあまりにもはっきりと裏づけた。しかし、レーニンの党においてジノヴィエフとカーメネフが一定の役割を果たしてきたことまた偶然ではなかった。そして、今日、彼らの除名は、彼らのかつての「偶然ではない」役割を思い出させてくれる。

 ジノヴィエフとカーメネフは政治局のメンバーだった。レーニン時代の政治局は党と革命の運命を直接的に担っていた。ジノヴィエフは共産主義インターナショナルの議長だった。カーメネフは、レーニンの晩年、ルイコフやチュルパとともに人民委員会議の幹部会におけるレーニンの代理人だった。レーニンの死後、カーメネフは政治局と労働防衛会議(共和国の最高経済機関)の議長を務めた。

 1923年にジノヴィエフとカーメネフは反トロツキー・カンパニアを開始した。闘争の初めのうち、彼らはその結果についてほとんど理解していなかった。このことはもちろん、2人の政治的な先見の明を証明するものではない。ジノヴィエフは基本的にアジテーターだった。きわめて有能なアジテーターではあったが、もっぱらアジテーターにすぎなかった。カーメネフは、レーニンの言うところでは「賢い政治家」だったが、意志力に欠け、インテリゲンツィア的風土、小市民的文化、官僚的環境にあまりに容易に順応しがちであった。

 この闘争におけるスターリンの役割ははるかに組織的な性格を帯びていた。小ブルジョア的な地方主義の精神、理論的素養の欠如、ヨーロッパに関する無知、視野の狭さ――これこそが、ボリシェヴィキとしての経歴にもかかわらず、スターリンを特徴づけているものである。「トロツキズム」に対するスターリンの敵意は、ジノヴィエフやカーメネフよりもはるかに根が深く、ずっと以前からその敵意を表現する何らかの政治的定式を求めていた。自分自身では理論的な一般化ができなかったスターリンは、それをジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンにかわるがわるやらせて、彼らの演説や論文から自分の目的のために最も適切と思われる部分を掻き集めた。

 トロツキーに対する政治局多数派の闘争は、かなりの程度において個人的な陰謀として始まったが、たちまちのうちにその政治的内実を露にした。この闘争は、単純でもなく、均質でもなかった。

 左翼反対派の隊列には、権威あるボリシェヴィキ的中核を中心として、10月革命の組織者の多数や内戦に参加した活動家、青年学生のうちのかなり分厚いマルクス主義者層が含まれていた。しかし、この前衛の背後に、闘争の最初の段階では、ありとあらゆる類の不満分子、未熟者、さらには期待のかなえられなかった出世主義者どもが追随してきた。闘争のその後の厳しい展開がはじめて、左翼反対派をこうした偶然的な招かれざる同伴者からしだいに解放していった。

 「3人組」(ジノヴィエフ=カーメネフ=スターリン)の旗のもとには多数の「古参ボリシェヴィキ」が集まった。とくに、レーニンが1917年4月にすでに文書保管所へとお払い箱にするべきだと勧告した連中である。しかし、レーニン主義がトロツキズムにとって代わられる危険性が差し迫っていると本気で信じた、多くの真面目な地下活動家や有力な党オルガイナイザーも含まれていた。しかしながら、時がたつにつれてますます、強固にそびえ立つ壁として、肥大化し強化されていくソヴィエト官僚制が「永続革命」に反対して台頭してきた。このことがのちに、ジノヴィエフとカーメネフに対するスターリンの優勢を保証することになる。

 「3人組」内部の闘争も、かなりの程度において個人的な争いとして始まったが(政治は人間によって人間を通じて展開され、したがって、あらゆる人間的なものと無縁ではありえない)、たちまちその原則的な内実を露わにした。ジノヴィエフはペトログラード・ソヴィェト議長として、カーメネフはモスクワ・ソヴィェト議長として、両首都の労働者の支持を集めようとした。スターリンの主たる支持基盤は諸地方と党機構にあった。後進的な地方では、党機構は両首都よりも早期に全能になっていた。コミンテルン議長のジノヴィエフは、自分の国際的な地位をあてにしていた。スターリンは、西欧の共産党を軽蔑して見下していた。彼は1924年に、その一国的視野の狭さに適合した定式を発見していた。一国社会主義がそれである。ジノヴィエフとカーメネフは疑問と異論を突きつけた。しかしスターリンは、「3人組」が反「トロツキズム」闘争に動員した勢力に立脚して、ジノヴィエフとカーメネフを難なく打ち負かした。

 ジノヴィエフとカーメネフの過去、レーニンとの共同作業の十数年、そして亡命者として受けた国際主義的な学校――こうした蓄積があったからこそ両名は、最終的には10月革命を押し流してしまいかねない孤立化の波に敵対するようになったにちがいない。上層部におけるこの新しい闘争の結末は、多くの人々にとってまったく驚くべきものであった。なにしろ、反「トロツキズム」攻撃の最も精力的な扇動者である2人が「トロツキスト」の陣営に加わったのだから。

 ブロックの形成を容易にするために、左翼反対派は――この文章の筆者の警告と反対にもかかわらず――その政綱のいくつかの定式の調子を和らげ、最も先鋭な理論的問題に対する正式の回答を一時的に差し控えた。これはたぶんに誤った措置だった。しかし、1923年の左翼反対派は、本質的な譲歩はいっさいしなかった。われわれは自らに忠実でありつづけ、ジノヴィエフとカーメネフがわれわれのところにやってきたのである。昨日までの不倶戴天の敵が1923年の左翼反対派の側に移ってきたことが、われわれの隊列の自信と自らの歴史的な正しさに対する確信をどれほど強めたかは、言うまでもない。

 ところがこのときもまた、ジノヴィエフとカーメネフは自分たちの行動の政治的帰結のすべてを予見していたわけではなかった。彼らが1923年に、他の問題はすべてさしおいて、いくつかの扇動的なカンパニアと組織的なマヌーバーによって党を「トロツキーのヘゲモニー」から解放できると期待したとすれば、今度は、1923年の反対派と同盟することによって、ただちに党機構を押さえこみ、党内における個人的地位とレーニン主義的路線を復活できると考えたのだ。

 またしても彼らは誤りを犯した。党内における個人的な対立とグループ分けは、すでに完全に、非個人的な社会的な勢力・階層・階級の道具となってしまっていた。10月革命に対する反動はそれ自身の内的な法則性を有しており、野合やマヌーバーによってその重々しい律動を急速に飛び越すことは不可能だった。

 反対派ブロックと官僚制との間の闘争は、日をおって先鋭化していって、ついに極限に達した。問題はすでに討論――たとえ鞭のもとでのそれであっても――の域を越えており、ソヴィエトの公式の機構と決裂するかどうかであり、つまりは、大きな危険性を伴い、その帰結も不確定な、何年もつづく苦難の闘争を覚悟することができるかどうかであった。

 ジノヴィエフとカーメネフは後退した。1917年における10月革命の前夜、小ブルジョア民主主義との決裂に恐れをなしたのと同じように、10年後の2人はソヴィエト官僚制との決裂に恐れをなした。そしてこれもまた「偶然ではなかった」。というのも、ソヴィエト官僚制の4分の3以上は、1917年に大敗が不可避であると脅してボリシェヴィキに10月の「冒険」を思いとどまらせようとした、あの同じ連中によって構成されていたからである。

 ジノヴィエフとカーメネフの降伏は、ちょうどボリシェヴィキ・レーニン主義者が組織的に解体された第15回大会[1927年]の前だったが、左翼反対派はそれを許しがたい裏切り行為とみなした。それはまさに本質的な意味でそうだった。しかしこの降伏にさえ、心理的にだけでなく政治的にもそれ自身の法則性があった。マルクス主義の一連の根本的な理論的諸問題(プロレタリアートと農民、「民主的独裁」、永続革命)をめぐって、ジノヴィエフとカーメネフはスターリン主義官僚制と左翼反対派との中間に立っていた。理論的あいまいさは、いつもそうであるが、実践において不可避的に報いを受ける。

 その煽動的な急進主義にもかかわらず、ジノヴィエフはいつも政治的定式から何らかの実践的帰結を引き出す手前で立ち止まった。ジノヴィエフは、中国におけるスターリン主義者の政策に反対して闘いながらも、共産党が国民党から決裂することには反対した。パーセルやシトリーンとのスターリンの同盟を暴露したにもかかわらず、ジノヴィエフは英露委員会と決裂する手前でぐずぐずと足踏みした。テルミドール的潮流との闘争に与したときも、彼はあらかじめ、どんなことがあっても党からの除名に至らないようにことを進めると誓った。この中途半端さが彼の破滅を不可避にした。「党からの除名を除くすべて」とは、スターリンが許す限界内でスターリン主義と闘争することを意味した。

 降伏後のジノヴィエフとカーメネフは断固として、自分たちに対する上層部の信頼を回復し再び公式世界に同化できるよう、できることは何でもやった。ジノヴィエフは一国社会主義の理論と和解して、もう一度「トロツキズム」を暴露し、個人的にスターリンに媚びへつらうことさえ試みた。だがまったく役立たなかった。降伏者たちは我慢し、沈黙し、待った。しかし、それにもかかわらず彼らは降伏の5周年を祝うところまで持ちこたえることができなかった。彼らは「陰謀」に巻き込まれ、党から除名された。国外追放あるいは流刑になるかもしれない。

 驚くべきは、ジノヴィエフとカーメネフが自らの大義のためや自らの旗のゆえに追い出されたわけではないことである。10月9日の決定によれば、除名者のリストの大半を占めるのは紛うことなき右派である。つまり、ルイコフ=ブハーリン=トムスキーの支持者たちである。このことは、官僚主義の中核に対して左翼中間主義が右翼中間主義と手を結んだことを意味しているのであろうか? 結論を急いではならない。

 リスト上でジノヴィエフとカーメネフにつぐ最も有名な名前は、2人の元中央委員ウグラーノフとリューチンである。ウグラーノフはモスクワ委員会の書記長として、リューチンは宣伝扇動部の責任者として、首都における左翼反対派に対する闘争を指導し、あらゆるところから「トロツキズム」を一掃した。1926〜27年に両名は、ジノヴィエフとカーメネフに対して、主流派を「裏切った」として、とくに猛烈な攻撃を展開した。スターリニストが左へのジグザグをした結果、ウグラーノフとリューチンが右翼反対派の事実上の中心的組織者となると、彼らを非難する公式の論文や演説は同一の図式にのっとって打ち立てられた。「反トロツキズム闘争でウグラーノフとリューチンが果たした役割の大きさは誰にも否定できない。しかしそれにもかかわらず、彼らの綱領はクラークとブルジョア自由主義者のそれである」。スターリニストは、反トロツキズム闘争がまさにこうした綱領にもとづいて展開されたことを知らないかのように装う。当時も現在も、原則的な立場を有していたのは右派と左派だけであった。スターリニストは、この両者からこぼれ落ちた餌を拾って生きていた。

ウグラーノフとリューチンは、すでに1928年から、党体制の問題については左翼反対派の立場が正しかったと主張しはじめた。スターリニスト体制を打ち固めるうえでこの2人以上に成果を誇れる者は誰もいないのだから、なおさらこの承認は有意義である。しかし、党内民主主義の問題をめぐる「一致」も、右翼反対派に対する左翼反対派の態度をやわらげるものではない。党内民主主義は抽象的な理念ではない。それは、テルミドール的潮流のための煙幕として機能することに用いられてはならない。しかも、ウグラーノフとリューチンは、少なくとも過去において、右派の陣営における最もはっきりとしたテルミドール派の代表だった。

 ソヴィエト中央執行委員会の決議は、陰謀の参加者として、スレプコフやマレツキーといった他の札付きの右派を挙げている。この2人は、ブハーリン学派の赤色教授である、コムソモールと『プラウダ』の指導的人物、党中央委員会の数多くの綱領的決議の起草者、反「トロツキズム」の無数の論文やパンフレットの著者である。

 除名者のリストにはプタシヌィとゴレロフの名前があり、「トロツキスト反対派」のかつての支持者という注記がされている。これが、降伏してその後右派の陣営に身を投じたほとんど誰も知らない2人の元左派のことを指しているのか、それとも党を欺くための偽造なのか、われわれには判断のしようがない。前者の可能性は排除されていないが、後者の可能性も大いにありうる。

 陰謀参加者の一覧の中に、右翼反対派の指導者の名前は存在しない。ブルジョア新聞宛ての外電が伝えるところによれば、ブハーリンは「党内の地位を完全に回復」し、どうやらブーブノフの後任として教育人民委員になり、ブーブノフはゲ・ペ・ウに移るようだ。ルイコフもふたたび取り立てられて、ラジオ演説その他を行なっているという。ルイコフもブハーリンもトムスキーも「陰謀者」のリストに載っていないという事実は、官僚制が一時的に右翼反対派のかつての指導者たちを寛大に扱っていることを実際に示しているのかもしれない。しかし、彼らが党内のかつての地位を回復しているなどということは金輪際ありえない。

 リストに挙げられた集団は、全体として、「ソ連において資本主義と、とりわけクラーク階級を復活させるためにブルジョア的クラーク的組織」をつくろうとしたと非難されている。驚くべき定式化だ! 「資本主義と、とりわけクラーク階級」を復活させる組織(!)。この「とりわけ」が全貌を暴露している。少なくともそれを示唆している。除名された者の何人か、たとえばスレプコフやマレツキーが、「トロツキズム」反対の闘争のときに、師ブハーリンにならって「社会主義に成長転化するクラーク」について語っていたことはまったく議論の余地がない。その後の彼らがどのような立場に移ったかついてはわれわれは知らない。しかし、大いにありそうなのは、彼らの今回の罪が、クラークを「復活させる」ことを望んだことにあるのではなく、「階級としてのクラークの一掃」の分野におけるスターリンの勝利を認めなかったことにあることだ。

 だが、「資本主義復活」の綱領に対するジノヴィエフとカーメネフの関係はいかなるものか? この罪への2人の関わりについてソ連の新聞はこう知らせている。

「流布されていた反革命文書のことを知って2人は、クラーク的スパイの手先をただちに暴露する代わりに、この文書を検討する(?)ことを選んだ。そのことによって2人は、反党・反革命集団の直接的共犯者となった」。

 つまりジノヴィエフとカーメネフは、「ただちに暴露する」よりも、「この文書を検討することを選んだ」。告発者たちは、ジノヴィエフとカーメネフにはそもそも「暴露する」意志がなかったとさえ主張していない。彼らの罪はただ、「暴露」する前に「検討することを選んだ」ことにあるのだ。では、2人はいったいどこで、どのようにして、誰と検討したのか。これが右翼グループの秘密の集まりでのことだったならば、告発者たちは必ずやそう伝えていたはずである。明らかにジノヴィエフとカーメネフは、自分たちの4つの目で自分たちの部屋の4つの壁のあいだで「検討することを選んだ」のである。検討の結果、2人は右翼の綱領に共鳴したのだろうか。そのようなことを示唆するわずかな形跡でもあれば、その決議の中でそのことが書かれていたはずである。この点での沈黙は逆のことを証言している。ジノヴィエフとカーメネフは、明らかに、すぐヤーゴダに電話する代わりに、この綱領を批判したのだ。しかし、やはり2人が電話しなかったことから、『プラウダ』は、「敵の敵は味方」という考えを彼らが採用したのだとみなしたわけである。

 ジノヴィエフとカーメネフに対するこの粗雑な告発からして、攻撃の矛先がまさにこの2人に向けられている、と確信をもって結論することができる。それは、この間、彼らが何らかの政治的行動を続けたからではない。この点についてはわれわれは何も知らない。しかもこの点でもっと重要なのは、決議から明らかなように、中央執行委員会もまた何も知らないことである。しかし、客観的な政治情勢が非常に悪化しているため、スターリンはもはや、あれこれの反対派グループの合法的指導者となりうる人物を許容できなくなっているのである。

 スターリニスト官僚制は、もちろん、さんざん足蹴にされてきたジノヴィエフとカーメネフが党内の反対派的潮流に非常に「興味を抱いていた」こと、ヤゴダには送られなかったありとあらゆる文書を読んでいたことをずっと前から知っていた。カーメネフは1928年にはブロック形成の可能性を探ろうとブハーリンと秘密の交渉さえもった。こうした交渉の議事録は当時、左翼反対派によって公表された。しかしスターリニストは、ジノヴィエフとカーメネフの除名を決断できなかった。差し迫った必要性がないかぎり、弾圧の新しいスキャンダルによって自分自身の権威を落としたくなかったのである。当時、半ば現実で半ば偽りの経済的成功が始まりつつあった。ジノヴィエフとカーメネフはただちに危険とは考えられなかった。

 今や状況は根本的に変化した。たしかに、彼らの除名を伝える新聞の記事はこんなふうに書いている――われわれが経済的に非常に強力になり、党が絶対的に一枚岩になったがゆえに、「どんなわずかな協調主義」も許容することができないのだ、と。しかしこの説明からすでに、あまりに粗雑な舞台裏がはっきりと見て取れる。明らかにでっち上げの理由によってジノヴィエフとカーメネフを除名しなければならないということ自体、逆に、スターリンとその一派が極度に弱体化していることを示している。ジノヴィエフとカーメネフを大急ぎで除名しなければならないのは、彼らの行動が変わったからではなく、状況が変化したからである。筋書きをもっともらしく見せかけるために、実際の行動とは無関係にリューチンのグループが道連れにされる。そのうち説明を求められることがあらかじめわかっているがゆえに、スターリニストは「策を講じて」いるのだ。

※  ※  ※

 総じて、1923〜28年にスターリンにその政策を教えこんだ右派と、真偽の定かではない2人の元「トロツキスト」、そして知りながらも通報しなかったことが罪とされたジノヴィエフおよびカーメネフという、この訴状上の組み合わせが、スターリンとヤロスラフスキーとヤーゴダの政治的創造力にまったくふさわしい産物であることを否定することはできない。テルミドール型の典型的なアマルガムだ! この組み合わせの目的は、手札を混ぜかえし、党に方向を見失わせ、イデオロギー的混乱を深めさせ、そしてそうすることで、労働者が事態を理解し活路を見いだすのを妨げることである。その補足的な任務は、ジノヴィエフとカーメネフを政治的に貶めることである。かつては左翼反対派の指導者だった2人は、今や右翼反対派への「友好的態度」のために除名されたのである。

 当然、次のような疑問が生じてくる。穏健派で経験豊富な政治家であり古参ボリシェヴィキである彼らがなぜ、このような打撃を受ける隙を敵に見せたのか? 党にとどまるために自分自身の政綱を放棄した彼らが、自分たちとは無縁な政綱との関係をでっち上げられて、結局は党から除名されることになったのはなぜか? こうした疑問に対しては次のように答えなければならない。この結末もまた偶然に生じたものではない、と。ジノヴィエフとカーメネフは歴史をごまかそうとしたのだ。もちろん2人は、何よりもソ連のことを思って、党の統一のことを思ってそうしたのであって、個人的利益のためなどではなかった。しかし彼らは、ロシア革命と世界革命の次元に立ってではなく、はるかに低次元のソヴィエト官僚制の立場から自分たちの任務を設定したのだ。

 彼らは、降伏前夜の最も困難な時期に、われわれに、そして彼らの同盟者たちに懇願した。「党と妥協してくれないか」。われわれはこう答えた――党を全面的に受け入れる用意がある、ただし、スターリンやヤロスラフスキーが要求するのとは別の、もっと高次の意味で、と。しかしそれは分裂を意味するのではないのか? それは、内戦とソヴィエト権力転覆の脅しではないのか? こうした疑問にわれわれはこう答えた。スターリンの政策は、たとえわれわれの反対がなくとも、不可避的にソビエト権力を破滅に導くであろう。これこそ、われわれの政綱に明示された考えであった。原則は勝利する。降伏が勝利することはありえない。われわれは、内外のあらゆる状況を考慮しつつ、原則のための闘争を遂行するべくできるだけのことをする。今後の進展のあらゆる可能性を予見することは不可能である。だが、革命とかくれんぼの遊びをすること、階級をごまかすこと、歴史と外交的取り引きをすることは、ナンセンスであり犯罪的である。このような複雑で責任重大な状況のもとでは、フランスのある格言によって的確に表現されている原則に従わなければならない。「Fais ce que doit, advienne que pourra! (人事を尽くして天命を待て!)」。

 ジノヴィエフとカーメネフは、この原則を守らなかったがゆえに、犠牲者となった。

※  ※  ※

 ラデックやピャタコフのような完全に戦意を失った降伏者たちは、この先もジャーナリストあるいは役人として(社会主義に奉仕するという口実のもとに)勝利したいかなる分派にも奉仕を続けるだろう。彼らを別とすれば、降伏者たちは政治集団としては党の穏健「自由主義者」を代表する。彼らは、ある時期に左(ないし右)のほうへとあまりにも遠く進みすぎて、その後、支配的官僚との妥協の道を選んだ。しかしながら、今日の状況は、最終的と見えたこの妥協に亀裂が入り、爆発しはじめた――しかも、きわめて先鋭な形で――という事実によって特徴づけられる。ジノヴィエフ、カーメネフ、ウグラーノフその他の除名の持つ巨大な徴候的意義は、大衆の中の深い変化が上層におけるこの新しい衝突に反映されているという事実から生じている。

 1929〜30年における降伏ラッシュを正当化した政治的前提条件はいかなるものであったか? それは、官僚の左転換、工業化の成功、農業集団化の急速な拡大であった。5ヵ年計画が労働者大衆の関心を奪った。広大な展望が切り開かれた。労働者は、近い将来に決定的な社会主義的成功が勝ちとられるとの期待から、政治的独立性の剥奪に甘んじた。貧農は、コルホーズによって自分たちの運命が変わることに期待した。たしかに、最下層の農民の生活水準は、かなりの程度農業の基礎的資本を犠牲にしてだが、向上した。以上が、降伏の伝染病を生みだした経済的前提条件と政治的雰囲気であった。

 経済的不均衡の拡大、大衆の生活条件の悪化、労働者と農民の不満の高まり、官僚層それ自体の混乱――こうしたものがありとあらゆる類の反対派が復活しはじめた前提条件である。矛盾の先鋭化と党内での不安の高まりが、穏健で慎重で、つねに妥協の用意のある党内「自由主義者」をますます抗議の道へと押しやっている。官僚制は、袋小路に追い込まれて、ただちに弾圧をもって応えているが、その大部分が予防的である。

 われわれは今のところ左翼反対派の公然たる声を聞いていない。それは不思議ではない。ルイコフとブハーリンに対して慈悲深い措置が準備されていると語るブルジョア新聞は、同時に「トロツキストの新たな大量逮捕」を報じている。ソ連国内の左翼反対派は、この5年間というもの、警察のおそるべき迫害にさらされ、そのカードルはきわめて過酷な条件のもとに置かれているので、反対の立場を公然と表明し、事態の展開に組織的に介入することは、合法的な「自由主義者」よりもはるかに困難である。ちなみに、ブルジョア革命の歴史が教えるところでは、絶対主義に対する闘争において、自由主義者はつねに、その法的な優位性のおかげで、「人民」の名において登場する最初の社会層であり、自由主義ブルジョアジーと官僚制との間の闘争を通じてのみ、小ブルジョア民主主義とプロレタリアートのための道が切り開かれた。もちろんこれは歴史的なアナロジーにすぎない。しかしそれでもそれは、何事かを説明してくれている。

 9月の中央委員会総会の決議は、いきなり出し抜けにこう自慢している。

「反革命トロツキズムを粉砕し、本質的に右翼日和見主義の反レーニン主義的クラークを暴露して、党は……現時点で決定的な成功を勝ちとった」。

 ごく近い将来、左翼反対派と右翼反対派は、粉砕もされず絶滅もされず、逆に現に存在する唯一の政治潮流であることが明らかになると期待してよい。まさにこの3、4年の公式路線こそが、右翼テルミドール的潮流の新たな高揚のための条件を準備した。左派と右派をいっしょくたにしてしまうスターリニストの試みは、今日、左派と右派の双方が退却について語っているという事実によって、ある程度まで容易にされている。これは不可避である。冒険主義的熱狂の路線からの秩序だった退却が緊急に必要とされており、これがプロレタリア国家の死活にかかわる課題となっている。中間主義的官僚はもっぱら、完全に面目を失墜することなく秩序ある退却を行なう可能性について夢想している。しかし、食糧不足をはじめとするあらゆる欠乏に直面しての退却は、自分たちの立場を危うくしかねないことを意識せざるをえない。それゆえに彼らは、こっそりと退却する一方で、反対派を退却的潮流だとして非難するのである。

 真の政治的危険性は、永続的退却路線の信奉者である右派が、今やこう主張する機会を与えられているという事実にある。「われわれはいつも退却を要求してきた」。党内生活の抑圧的な雰囲気は、労働者が経済過程の弁証法を速やかに理解すること不可能にしている。彼らは、右派の立場の一方における限定的、一時的、局面的な「正しさ」と、他方におけるその根本的な誤りを正しく評価することができない。

 それゆえに、ボリシェヴィキ=レーニン主義者の明晰で自立的で先を見とおした政策の重要性がますます高まっている。ソ連の国内と党内のあらゆる過程を注意深く追うこと。個々のグループをそのそれぞれの思想と社会的基盤に即して正しく評価すること。右派との個々の戦術上の一致に驚かないこと。戦術上な一致のゆえに、戦略的路線の対立を忘れないこと。

 ソ連のプロレタリアートの政治的分化は以下のような問題をめぐって生じるだろう。どのようにして退却するか。退却の限界はどの地点にあるか。新しい攻勢はいつ、どのようにして始めるか。攻勢のテンポはどうあるべきか。それ自体としてはきわめて重要なこうした問題のすべても、それだけでは十分ではない。われわれは個々一国で政策を立てるわけではない。ソ連の運命は世界情勢の発展と不可分に結びついている。ロシアの労働者の前に、世界共産主義の問題を改めて全面的に提示することが必要である。

 左翼反対派が独自の立場をとり、その旗のもとへプロレタリアートの基本的中核部分を結集することだけが、党と労働者国家と共産主義インターナショナルの再建を可能にするのである。

1932年10月19日

『反対派ブレティン』第31号

『トロツキー著作集 1932』下(柘植書房新社)より


  

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