日本の満州侵略と日ソ戦争の可能性

 トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、日本軍による満州侵略の意味について、トロツキーがアメリカのブルジョア雑誌『リバティ』に書いたものである。原題は「どうしてソヴィエト連邦は戦争を避けようとしているのか」。トロツキーはこの中で、日本帝国主義のとくに侵略的な性格の根拠を日本社会の特殊な構造に求めるとともに、日本がこの帝国主義的野望を実現することができないことを明らかにしている。それと同時に、日本による満州侵略がソ連との戦争を引き起こす可能性についても冷静に分析を加え、ソ連の平和政策を支持するとともに、世界情勢の焦点は、ファシズムの脅威が迫っているドイツにあると述べている。

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 日中紛争における国際連盟の無力さは、その最も和解できない敵と批判者のあらゆる予想を越えている。国際連盟の自己矛盾的性格――こう言うことを許していただけるなら、その裏切り的性格――は、フランスによって最もはっきりと表現されている。その公式代表者である外務大臣のブリアン(1)は、国際連盟の平和キャンペーンを推進しているが、それと同時に、フランスの政府系マスコミ――その筆頭は『ル・タン』――はみな、力のかぎり日本の満州侵略を支持しており、したがって、事実上、それ自身の公式の外交政策を無効にしてしまっている。『ル・タン』の社説に毎日目を通すならば、パリの外務省の機関紙ではなく、東京の参謀本部の機関紙を読んでいるかのような錯覚を覚えるだろう。ブリアンの実際の外交政策と本庄将軍(2)の軍事行動とのあいだの相違は、フランスの半官の新聞が両者の観点をともに擁護することができるのだから、それほど大きなものでないのは明らかである。

 ここでわれわれは、またしても、フランスが、ベルサイユのヘゲモニーを維持するために――このヘゲモニーは、各国の現実の相対的な経済的比重と一致していないがゆえに不安定なものである――、ヨーロッパと世界のあらゆる反動勢力に支柱を求めざるをえず、どのような結果になろうとも、軍事的暴力や植民地的拡張を支持せざるをえない。

 しかし、言うまでもなく、日中紛争は、あるいはより正確に言えば、日本による中国への軍事攻撃は、パリで支持を獲得しうる前に、まず東京で――そしてある意味では南京でも――支持を得なければならない。満州における現在の劇的な展開は、中国革命の圧殺と日本における革命の切迫から直接に生じたものである。

 1925〜27年の中国革命は、民族解放の運動であり、巨大な大衆を行動に立ち上がらせた。運動の指導権を手中にした国民党は、究極的には軍事力によって革命を粉砕することに成功した。このことは、民主主義国家の形成を妨げ、中国を弱め、軍閥間の闘争を復活させ、それとともに、略奪的強欲に、とりわけ日本のそれに火をつけた。

 しかしながら、日本による満州の軍事的侵略は、けっして現在の日本国家の強さを表現するものではない。逆である。この行動は、その弱さがますます増大したことによって命じられたのである。1904〜05年の戦争を導いたツァーリズムの満州での冒険と、不可避的に戦争を――より正確には一連の戦争を――もたらすであろう天皇政府の冒険とのあいだにアナロジーを立てるならば、大いに有意義だろう。

 在りし日のツァーリ政府は、ますます発展する資本主義と、国の古臭く半封建的な農業カースト構造とのあいだの耐えがたい内的矛盾からの脱出をめざして、東方の情勢に首を突っ込んだ。しかしながら、この治療法は災厄をいっそう悪化させただけであり、1905年の第1次ロシア革命をもたらした。

 日本の農業と階層構造はいまだに半封建的である。今世紀の初頭、若い日本の資本主義と古い国家体制との矛盾はまだ十分には発達していなかった。反対に、資本主義は、堅固な古い封建諸階級・制度・伝統をそれ自身の軍事的目的のために利用した。まさにこのような組み合わせこそが、1904〜05年における帝政ロシアに対する巨大な勝利を日本にもたらしたのであった。

 そのとき以来、情勢は根本的に変化した。この4半世紀のあいだに、日本資本主義の発展は、天皇を頂点とした古い日本的な諸関係・諸制度を深刻に掘りくずした。支配的諸階級は、日本の農民たちに対し、満州の広大な土地を指し示している。しかし、農民たちはまずもって国内の農業問題を解決することを欲している。ただこの新しい民主主義的な土台にもとづいてのみ、日本は近代国家としての形を最終的に整えることができる。日本の運命の支配者は現在、今世紀初めのツァーリ君主制が感じていたのとほぼ同じように感じている。そして、運命の不吉な皮肉によって、日本の支配者たちは、満州という同じ土地に活路を求めている。その地域こそまさに、ツァーリ政府が深刻な前革命的打撃を受けた場所なのである。

 極東における事態の進展が、来る数日間ないし数週間においてどうなるかを予言することは容易ではない。相互に異なった方向へと交錯しあっているあまりにも多くの矛盾した諸要因が作用しているからである。とりわけ、この結節点において力関係を推し測ることは難しい。なぜなら、日本政府自身――それは前革命期の政府となりつつある――が、とてつもなく不安定であり、予測不可能な行動に駆り立てられる傾向にあるからである。

 しかし、次の数週間以内に事態がどのような展開を見せるのであれ、その基本的方向性については、ほとんど間違う危険性を犯すことなく予言することができる。たとえ現時点で日本の軍事行動の広がりを押しとどめることができ、したがって、拡大された戦線に沿った大規模な戦争へと直接に発展していくことを妨げることができたとしても、それは単に一時的な息つぎにすぎないだろう。日本の支配層は満州に足場を確保した。国際連盟は、中国の犠牲にもとづいて日本に新たに譲歩することを通じて紛争を解決しようとしている(ただし、本当に解決しようとしていると言えるならばだが)。このことは、現在の軍事行動の結果が最も有利なものになると仮定しても、日本が満州における自らの足場をいっそう強化するということを意味する。

 中国にとって、満州における日本の「権利」なるものは、はだしの足に突き刺さった刺のように忌々しいものになるであろう。たしかに、中国は、国民党のさまざまな軍閥がわがもの顔で支配していることによって、弱体化している。しかし、中国の民族的目覚めは、巨大な歴史的重要性を持った要因でありつづけるし、それはますます大きなものになるだろう。日本は、その陣地を維持するために、不可避的に、絶えず新しい軍事的冒険に訴えざるをえない。新しい軍隊を大陸に派遣する必要性は、それはそれで、日本の「権利」の拡大によって、すなわち新しい強奪と暴力によって、犠牲を正当化しようとする願望をつくり出す。

 この過程はそれ自身の自動的な論理を持っている。日本の国際的地位は、ますます厳しいものになるだろう。軍事的拡張は着実に増大していくだろう。経済的有利さに対する当初の配慮は、事態が発展するにつれて、軍事的特権に対する配慮に道を譲っていくだろう。

 不満は国中に広がっていくだろう。こうした状況において、満州は、日本の君主制にとって、スペイン君主制にとってのモロッコと同じ意味を持つようになるだろう。しかも、短期間のうちに。

 ところで、満州における現在の状況が発展していけば、日本とソ連との戦争をもたらしはしないだろうか? この問いに対しては、これまでと同様、私はもちろん、個々の政府の計画や意図に通じているわけではない一観察者として一般的にしかコメントすることはできない。したがって、もっぱら客観的な指標や物事の論理にもとづいて判断することになる。

 ソヴィエト政府の側から日本との衝突を欲するということは、いずれにせよ、ありえない。この問題に関しては、フランスの半官のマスコミによる最近の世論操作を観察することは、非常に有意義だろう。日本による侵略の最初の数週間、『ル・タン』はあきもせず次のように繰り返していた。「恐れるべきは日本ではなく、ソヴィエト社会主義共和国連邦である。同国は、明らかに攻撃的行動への準備をしている」。ソヴィエトの部隊が集結しているというニュースは、豊穣の角からあふれるように大量に垂れ流されていた。このようにして、世論の注意は十分にそらされ、日本の軍部当局は必要な時間を稼ぐことができた。国際連盟の弱さが十分にはっきりと暴露されたとき、フランスの半官のマスコミは、列強諸国に既成事実を受け入れさせ、それらの諸国に日本の要求をできるだけ満たさせようとした。その時から、『ル・タン』は次のように主張するようになった。ソ連による干渉は問題になりえない、問題になっているのは単なる地域紛争、地方的エピソードだけであって、いっさいは、可能なかぎり最良の形で解決され、興奮したり介入したりする必要はいっさいない、日本自身が、満州において自国にとり最良なのは何であるかを知っている、と。

 このようにフランスのマスコミは、最近再びソ連と赤軍の「弱さ」を肯定するようになったが、彼らはこのことの根拠を探し求めた。そのさい彼らは、前述した1904〜05年の日露戦争のアナロジーを頻繁に用いた。このアナロジーは非常に有意義であるが、一つ条件がいる。すなわち、以前マイナスの記号が置かれていたところに、プラスの記号を置くこと、およびその逆である。なぜなら、今日の日本が今世紀初頭の日本と似ても似つかないように、ソヴィエト連邦もまた帝政ロシアとそれ以上に似ていないからである。もちろん、ソヴィエト革命は完成したというにはほど遠い状況にある。ソヴィエトの経済発展には多くの矛盾があり、これらはしばしば政治的諸困難をもたらしている。このことを否定することは、ダチョウの政治[現実逃避の政治]に陥ることを意味する。しかし、広い歴史的な規模で評価するならば、しかるべき釣り合いの感覚を維持しなければならないし、2次的な要因によって根本的な要因を撹乱させないようにしなければならない。赤軍は3つの革命の歴史的産物である。この諸革命は、ロシアの国民を目覚めさせ教育し、それとともに、ソヴィエト連邦の他の多くの諸民族および――ソ連に友好的な――他国の諸国民を目覚めさせ教育した。戦争になったときには――ただし、その不可避性と必要性がソ連の大多数の住民によって理解される場合だが――、これら3つの革命によって覚醒されたエネルギーは強力な力を発揮するだろう。このことを理解することができないのは、愚か者だけである!

 たしかに、軍事行動によって東方を脅かしている勢力は、遠く離れたところにいる。そことの鉄道連絡は非常に困難な状況にある。日本の利点はこの点では疑う余地がない。ただし、この点だけである。それ以外のいっさいはソ連にとって決定的に有利である。赤軍だけでも、現在の前革命的状況にある日本の軍隊に対して圧倒的な優位性を示すだろうし、このことだけでも決定的な意義を有している。しかし、さらに加えて、戦闘が遂行されるのは、日本に対してきわめて敵対的でソヴィエト連邦には友好的な国の中で、である。ソ連が戦争を余儀なくされた場合、ソ連は、民族解放のために闘う中国人民の同盟者としてその戦争を遂行するだろうし、その場合のみそうすることができるだろう。

 軍閥体制によって中国がどんなに弱体化されていたとしても、2つの革命による巨大な高揚は、新しい中国をつくるための無数の要素を政治的に準備した。数十万、数百万の中国人が武器の使い方を学んだ。飢えと、目覚めさせられた民族意識とは、武器を取ることへと中国人民を駆り立てるだろう。現在でさえ、ゲリラ部隊は絶え間なく日本の後方連絡線を撹乱し、個々の日本軍部隊を脅かし、即興で作られた中国軍部隊は日本に対する深刻な脅威となっている。その脅威の大きさは、かつてスペインのゲリラ部隊がナポレオンの占領軍に対して持ったのと優るとも劣らぬものである。ソヴィエト共和国と中国との軍事同盟が実現すれば、それはまさに日本にとって真の破局となるだろう。

 としたら、どうしてソヴィエト連邦は戦争を避けようとしているのか、と諸君は尋ねるかもしれない。モスクワの平和愛好的な諸声明は、平和的ならざる意図を隠す外交的煙幕にすぎないのか、と。いや、私はそうは思わない。それ以上に、私はそのようなことは不可能だと思う。その軍事的結果がどのようなものになるのであれ、戦争はソヴィエト共和国に巨大な経済的災厄をもたらすだろうし、それはただでさえ困難な現在の経済情勢をさらに悪化させるだろう。経済建設は停止し、政治的困難もまた同じ結果に見舞われるだろう。

 このような情勢のもとで、戦争を遂行することができるのは、それが絶対に避けられない場合のみである。しかし、それは避けられないものではない。反対に、純粋に軍事的な観点からしても、ソヴィエト政府にはそのような事態に急いで頭を突っ込むいかなる理由もない。日本は、その満州侵略によって自らを弱めるだけであろう。極東における諸条件――巨大な空間、全般的な経済的後進性、とりわけ鉄道網の未発達――からして、ソヴィエト連邦の重要な中心地――もちろんアジアにおけるそれを含む――が直接に脅かされる危険性のみならず、相対的に遠く離れた地域が脅かされる危険性さえも、恐れるいかなる理由もまったくない。

 東支鉄道の問題は、それ自体としていかに重要なものであろうと、以上の観点から見るなら、両サイドの政策を決定する上で決定的な意義を持つことはできない。ソヴィエト政府は、一度ならず、その鉄道を真に強力な中国政府――すなわち、目覚めた中国人民に依拠する政府――に引き渡す完全な用意があることを公言してきた。この鉄道を初期の頃に、張作霖(3)や張学良(4)に引き渡していたとしたら、それは、直接ないし間接的に、日本に引き渡すことを意味しただろう。そして日本はこの鉄道を、中国およびソ連に対して悪用しただろう。

 東支鉄道に対するソヴィエトの政策を「帝国主義」として理解することは、物事をひっくり返すことであり、攻撃的な日本軍国主義に奉仕することを意味する。しかし、いずれにせよ、東支鉄道の問題は孤立した問題ではない。それは、極東全体の大問題に含められる従属的問題である。中国はこの問題においてその最後の言葉を語るだろう。そしてソヴィエト連邦の人民の最も熱烈な共感が中国人民の側にあることは、言うまでもないことである。

 わざわざつけ加えるまでもないことであるが、ヨーロッパの現在の情勢は、それだけでもすでに、ものを考えるすべての政治的人々――ソ連の敵を含む――に、次のことをはっきりと明らかにしている。ソヴィエト連邦は、極東の情勢に自らの手を縛られたくないと思っているし、そうすることもできないこと、である。何のことを言っているのかと尋ねるかもしれない。私は、ドイツの国家社会主義者、すなわちファシストがドイツにおいて権力に就く可能性のことを言っているのである。もしこのような事態になれば、それは、私の深い確信によるならば、ファシスト・ドイツとソヴィエト共和国との不可避的な戦争を意味するだろう。そうなれば、まさに生死にかかわる問題が生じることになる。しかし、これは別個の主題であり、これについてはたぶん、別の機会に立ち戻ることになるだろう。

1931年11月30日

『リバティ』1932年2月27日号

『トロツキー研究』第35号より

 訳注

(1)ブリアン、アリスティッド(1862-1932)……フランスのブルジョア政治家。第1次大戦後、首相を10回、外相を11回つとめる。1920年代には反ソ政策を推進。

(2)本庄繁(1876-1945)……日本の陸軍大将。1907年に参謀本部付となり、1908年から北京上海に駐在。1918年にシベリア出兵に参加。1921年から3年間、張作霖との共同防衛協定によって軍事顧問をつとめ、1931年に関東軍司令官となり、満州事変に関与。敗戦後に自決。

(3)張作霖(ちょう・さくりん/Zhang Shi-cheng)(1875-1928)……中国の軍閥。辛亥革命で頭角を現わし、袁世凱の信任を得て、1916年、奉天督軍兼省長となり、ついで奉天全体を掌握。その後、他の軍閥と戦争を繰り返して勢力をしだいに拡大。1927年、軍政府を組織して北京に君臨したが、翌年、北伐に敗れて、奉天へ引き上げる途中で、日本の関東軍の陰謀で爆死。

(4)張学良(ちょう・がくりょう/Zhang Xue-liang)(1901-?)……中国の軍人、政治家。張作霖の息子。1928年に張作霖が爆殺されると、東北地区の実権を握り、蒋介石に忠誠を見せて、東北部を国民党の支配下に置いた。1936年に蒋介石を西安に監禁し、共産党と協力して抗日戦線を結成することを迫る(西安事件)。これによって国共合作が実現するが、本人は蒋介石によって監禁され、蒋介石政府が台湾に移った後も、引き続き台湾で軟禁状態に置かれた。1990年に名誉回復。


  

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