【解説】これは、当時における日本軍の満州侵略についてトロツキーがアメリカのメディアに答えたインタビューである。トロツキーはこの中で、この満州侵略という「第1段階」の後に、「本格的な戦争」という第2段階がやってくると予想している。これはこのインタビューの行なわれた7年後に日中戦争として実現する。同時にトロツキーは、中国の植民地化という日本の目標が、完全に日本の力量を超えたものであることを指摘するとともに、日本とソ連との戦争の可能性についても言及している。ここで展開されたトロツキーの予想は、日本国内についての予想を別にすれば、その後、ことごとく立証されたといっても過言ではない。
Л.Троцкий, Интервью представителю American United Press Association, Бюллетень Оппозиции, No.28, 1932.
Translated by the Trotsky Institute of Japan
中国における日本の軍事行動は螺旋を描くように発展しつつあり、螺旋の半径は月を追うごとに大きくなっている。こうした方法には政治的・外交的な利点がある。自国民と敵国民のどちらをも徐々に戦争に引き込みながら、それ以外の世界には一連の既成事実を突きつけることになるからである。この方法は、軍部がこの初期段階において国外の抵抗のみならず国内の抵抗をも克服しなければならないことを物語るものである。純軍事的観点からすれば、「小出しの」行動方式には欠点がある。どうやら日本の支配者たちは、中国が軍事的に脆弱であり、敵国や対立国の陣営に非和解的な矛盾があるもとでは、螺旋状の前進によって時間を失っても最初の時期には許されるとみなしているのだろう。
しかし、第1段階の後には――中断をともなって、あるいは中断なしに――、明らかに第2段階がやってくる。すなわち、本格的な戦争の段階である。その政治的目標は何だろうか? 日本の参謀本部の思想とスローガンを熱心にフランス語に翻訳しているパリの指導的大新聞は、問題になっているのは戦争ではなく警察的措置であるとたえず保証してやっている。こうした解釈は、必然的に螺旋方式に手を貸すものであるが、この方式が軍事行動の規模に達し、前線に配置された攻撃部隊がその課題に応じた行動をとったならば、この解釈は自然と崩壊するだろう。
日本の目標は中国を植民地化することである。これは壮大な目標であるが、ただちに言わなければならないことは、それが日本の力量を越えているということである。日本は舞台に登場するのが遅すぎた。今やイギリスがインドを失う可能性に直面しているというのに、日本が中国を新しいインドに変えることはないだろう。
東京の寡頭支配層の政治的目標はソ連邦を攻撃することではないだろうか? そうした計画を問題外だとみなすのは軽率というものだろう。しかし、この計画が前面に出ることはありえない。日本は、満州を占領してそこで足場を打ち固めた後になってはじめて、北西に攻撃を加えるという課題を自らに提起することができるだろう。しかし、ソヴィエト政府が戦争を望んでいないし望みえないというのに、日本の側から、中国・満州における橋頭堡をしっかり確保・強化しないうちに、ソヴィエト連邦に対して直接的な攻撃に出る決意をすることはないだろう。
同じ方向に作用しているもう1つ重要な問題がある。中国に対する戦争に関して日本の寡頭支配層は、少しずつ分割払いで遂行することが可能であるとみなしている(その判断にどれぐらい根拠があるかは、また別問題である)。こうした行動様式は日本の大蔵大臣にも受け入れやすいものであるにちがいない。大蔵大臣はこの問題に予算面からかなり密接にかかわっている。
ソヴィエト連邦に対する戦争はまったく異なったスケールを必要とするだろう。日本はある程度、戦争に気前よく資金を出してくれる強力な同盟国なしには、あえて満州の国境を越えようとはしないだろう。東京が今日ないし明日のうちに何十億もの戦時公債をどれほどあてにすることができるのかについては、プリンキポにいるよりもパリやニューヨークにいる方が容易に判断することができるはずである。
極東における侵略の企図をソヴィエト政府に帰そうとするいっさいの試みは、その内的根拠のなさゆえに破綻している。戦争は、ソ連の全将来と密接に結びついている経済計画にとって致命的な打撃となるだろう。1パーセントだけ未完成部分を残している工場はまだ工場ではない。そして、ソヴィエト連邦では数百・数千の工場がなお建設中である。戦争はこれら工場を長期にわたって遊休資本に変えてしまうだろう。こうしたことはすべてはあまりにも明白であって、るる論じるまでもない。
たとえ極東における軍事的衝突がやはり不可避であると仮定したとしても――そして日本だけでなく他の諸国の多くの政治家もこれを確信している――、この場合でさえソヴィエト政府の側から衝突を強行するだろうと考えるいかなる根拠もありえない。日本はその結果を予測しえないままに中国で壮大な冒険に踏み込んだ。それは、部分的な軍事的・外交的成功をおさめるかもしれないし、おさめるだろうが、それはしょせん一時的なものである。他方、その困難は恒常的なものであって、時とともにますます大きくなっていくだろう。日本は朝鮮という自らのアイルランドを抱えている。そして中国では自らのインドをつくりだそうとしている。中国の民族運動に対してなめた態度をとることができるのは、愚かな封建的タイプの将軍たちだけである。目覚めつつある4億5000万人の偉大な国民を、飛行隊の力で隷従のくびきにつなげておくことはできない。満州の肥沃な土壌で日本は腰までではないとしても膝まで沈んでいる。そして、日本の国内においても経済発展は社会の封建的構造と非和解的に矛盾するようになっており、内部危機はまったく不可避であるとみなされなければならない。まず手始めに、政友会(1)は、今後左に移行するであろう民政党(2)に席を譲るだろう。次には革命党が頭をもたげてくるだろう…。フランスはツァーリズムへの融資によって少なからぬ損失をこうむった。この損失が天皇政府への融資で取り戻せるとフランスが考えているとしたら、間違っている。明らかに、極東でソヴィエト政府が急いで事を起こしたり神経質になると考えるいかなる根拠もない。
したがって、ソ連と日本とのあいだの戦争は、日本側がより強力な同盟国との合意にもとづいて意識的かつ計画的に挑発した場合のみ勃発するだろう。もちろん、この戦争で賭けられているのは、東支鉄道や満州全体の問題よりもはるかに大きなものである。それどころか、一部のフランスの新聞は性急に「ボリシェヴィキはシベリアのステップで滅び去るだろう」と予測している。シベリアのステップと森林はきわめて広大で、そこでは多くのものが滅び去るだろう。だが、滅び去るのがボリシェヴィズムだと、このように頭から信じていいのだろうか。
日ソ戦争という考えは、それと相似をなしている日米戦争という考えと同様、空間の問題をただちに提起する。陸地の大洋[シベリア]と水の大洋[太平洋]とが、軍事作戦の舞台として想定される。一見したところ、戦略的問題が空間の問題に溶解してしまうように見える。このことから、多くの人は性急にソヴィエト連邦にとって不利な結論を導き出す。ソ連邦のアジア地域における人口の希薄さ、工業の後進性、不十分な鉄道連絡網――これらすべてはソヴィエト側にとって否定的な要因である。このことはある程度まで本当だが、あくまでもある程度にすぎない。たとえ問題を軍事技術的領域に限ったとしても、この同じ広大な空間が同時にソヴィエトの同盟軍にもなりうることを見ないわけにはいかない。東から西への日本の侵攻が軍事的に成功すると認めたとしても、少なくとも日本軍の侵攻した範囲が拡大するのに比例して困難が増大するだろう。こうして成功それ自身が自らを破滅に追いやる。しかも、日本の後方には、自らのアイルランドと自らのインドが控えているのである。
しかしながら、問題をこのように狭く設定することはできない。戦争は軍事的手段によってのみ展開されるのではない。ソヴィエト連邦だけが唯一の相手ではない。中国はまだ生きている。中国は自分自身の生存のために闘うことを望んでいるし、闘うことができる。この要因を無視する者は誰であれ、痛い目にあうだろう。
ソ連がシベリアの主要大陸部を突っ切って数百万の兵士をアジア方面に送り込み、戦争遂行に必要なすべての物資をこれらの兵士に供給することは、けっして生易しい課題ではない。しかし、ソヴィエト連邦の工業能力の現在の異例とも言えるほどの高い成長のおかげで、必要に応じて鉄道輸送力をいちじるしく高めることができるだろう。もちろん、これには時間がかかる。しかし、広大な空間にまたがる戦争は不可避的にきわめて長期にわたる戦争になる。ことによると、軍事の「5ヵ年計画」を策定するか、あるいは戦争の必要に応じて経済の5ヵ年計画を建て直すことが必要になるだろう。もちろん、これは参戦国の経済と文化に対するきわめて厳しい打撃となるだろう。しかし、それ以外の道がない場合という前提に私は立っている。ひとたび戦争が不可避になるや、真剣に遂行しなければならず、あらゆる力と手段を動員しなければならない。
ソヴィエト連邦の参戦は中国人民にとって新たな展望を切り開き、中国人民の中に民族感情の巨大な高まりをつくりだすだろう。状況の論理と人民大衆の心理を理解する者は誰であれ、このことにいかなる疑いも抱かないだろう。中国では人的資源にはこと欠かない。数百万の中国人民がライフル銃の扱い方を学んできた。欠けているのは、闘う意志ではなく、適切な軍事訓練、組織、システム、熟達した司令部である。この点で、赤軍は非常に効果的な援助を提供することができる。周知のように、蒋介石(3)の軍隊の最良の部隊はもともとソヴィエトの教官の指導下に形成されたものである。さまざまな政治的基礎の上に創設された黄埔軍官学校(4)(この問題についてここで論じるつもりはない)の経験をより大規模に拡大することもできよう。シベリア鉄道は、必要な軍需物資に加えて、軍隊をまるごと輸送するというよりも、軍隊の精鋭部分のみを輸送することもできるだろう。目覚め高揚した人材から軍隊を即興的につくりあげるやり方をボリシェヴィキは十分に学んできているし、まだ忘れていないはずである。訓練の点では日本軍に劣らず、戦闘意欲の点では日本軍を圧倒する最初の100万人の軍隊を、12ヶ月から18ヶ月のうちに動員、装備、訓練し、前線へ送り届けることができるだろう。私はこのことを疑わない。次の100万人の軍隊は6ヶ月も必要としないだろう。私は中国について述べているが、それに加えて、ソヴィエト連邦と赤軍とその膨大な予備兵力も存在している…。それなのに、フランスの大新聞(それは全世界で最も反動的だ)は、あまりにも性急にソヴィエトをシベリアのステップの中に埋葬してしまっているのである。むき出しの憎悪というものは総じて間違った助言者だが、とりわけ歴史的な予測が問題になっている時にはそうである。
しかし、あなたたちはこう質問するだろう。もし展望がそんなに有利なら、ソヴィエト政府はどうして戦争を必死になって避けようとするのか、と。私はすでにこの質問に答えている。極東では、時間的要素が、すでにその絶頂期を過ぎて今や没落に向かいつつある帝国主義日本に不利に作用している。しかも、それに劣らず重要なのは、世界は極東のみからなっているわけではないということである。世界情勢の鍵は今日、奉天[中国の最北部の省]ではなくベルリンにある。もしヒトラーが権力につくならば、それはソヴィエト連邦にとって東京の軍部寡頭支配層の企図とは比べものにならないほど直接的な危険を意味するだろう。
しかし、われわれは最初からこのインタビューを極東問題に限定することに決めたのだから、以上のことにとどめておこう。
プリンキポ、1932年2月29日
『反対派ブレティン』第28号
『トロツキー研究』第35号より
訳注
(1)政友会……正式には立憲政友会。伊藤博文を中心に1940年に結成。自由党の後身。第2代総裁は西園寺公望、3代目総裁は原敬。昭和初期に立憲民政党とともに2大政党制を構成。
(2)民政党……1927年に憲政会と政友本党の合同により成立。昭和初期、立憲政友会とともに2大政党制を担う。
(3)蒋介石(しょう・かいせき/Jiang Jie-shi)(1887-1975)……中国の軍閥指導者、国民党の右派指導者。日本とソ連に留学。辛亥革命に参加し、孫文の信任を得る。1920年代にコミンテルンは共産主義者の国民党への入党を指示し、国民党を中国革命の指導党として称揚していた。1926年3月20日の広東クーデターで指導権を握り、同年7月に北伐を開始。コミンテルンはこのクーデターを隠蔽し、蒋介石を擁護。同年5月の国民党中央委員会総会で蒋介石は共産党員の絶対服従と名簿提出を命令し、コミンテルンはそれに従う。1927年4月12日、蒋介石は上海で国民党内の共産主義者の弾圧に乗り出し、多くの共産主義者を殺戮(4・12上海クーデター)。その後、中国共産党と対立しつつ国内の独裁権を強化。日中戦争勃発後、国共合作を行なうが、第2次大戦後、アメリカの援助のもと共産党との内戦を遂行。1949年に敗北して台湾へ。総統として台湾で独裁政権を樹立。
(4)黄埔軍官学校……1924年5月にロシアの資金によって黄埔(ホワン)に設立された軍官学校で、革命的民族主義にもとづく新しい軍隊の士官を養成することを目的としていた。そこの卒業生の多くは国民党軍の中で積極的役割を果たした。
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