インド革命――その課題と危険性

トロツキー/訳 西島栄

【解説】この論文は、インド革命の永続革命的展望を明らかにするとともに、当時のコミンテルンにおける「第3期論」にもとづいた極左的指導を厳しく批判したものである。この論文の中でトロツキーは、国民議会(憲法制定議会)のスローガンが、インドの当面する情勢において重要な役割を果たしうることを正しく指摘している。

Л.Троцкий, Революция в Индии, ее задачи и опасности, Вюллетень Оппозиции, No.12/13, 1930.6-7.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 インドは、イギリスが古典的な宗主国であるように、古典的な植民地国家である。「文明」国の支配階級のあらゆる卑劣さと、資本主義が東方の後進国人民に対して用いた抑圧のすべての形態とが、最も完全で最も恐るべき形をとって、この巨大な植民地の歴史に総括されている。貪欲なイギリス帝国主義は、過去1世紀半もの間、この国を締めあげ、搾り取ってきた。イギリス・ブルジョアジーはインドにおいて、人間に対する人間の抑圧に役立つことのできる、アジア的野蛮のあらゆる残滓とあらゆる中世的制度とを、最大級の熱心さで維持している。イギリス・ブルジョアジーは、その農奴制的取引相手たちに、もっぱら植民地的資本主義の搾取形態を採用させ、彼らを自らの構成部分、自らの器官、大衆からの防護壁にした。

 イギリスの帝国主義者たちは、インドにおける自分たちの鉄道、運河、工業企業を自慢し、インドにおよそ80億金ルーブル[約40億ドル]を投資したと吹聴している。帝国主義の弁護論者たちは、勝ち誇ったように今日のインドと植民地化される前のインドとを比較している。しかし、3億2000万人もの人民を持つ資源に恵まれた国は、もし系統的で組織された掠奪の対象でなかったならば、はかり知れないほど急速かつ確実に発展しえただろう。このことを誰が疑うことができようか。イギリスがインドに投資した80億ルーブルが、およそ5〜6年のうちにイギリスがインドから奪い取る額と同じであるという事実を指摘するだけで十分である!

 テムズ河のシャイロック[イギリス帝国主義のこと]は、国富の搾取を容易にするのにちょうどいいように厳格に測られた量の技術と文化だけをインドに許していたが、経済的進歩と民族的独立と自由の思想が、ますます広範な大衆のなかに広がっていくのを防ぐことはできなかった。

 より古いブルジョア国家においてと同様、インドに存在する無数の諸民族(ナロード)が単一の国民(ネーション)に融合することができるのは、ますます彼らを政治的統一体に結合していく革命によってのみである。しかし、より古い国々と違って、インドにおける革命は、植民地革命、すなわち外国の抑圧者に矛先を向けた革命である。しかも、それは歴史的に遅れた国における革命であり、そこには、封建的農奴制、カースト差別、あまつさえ奴隷制的な諸関係さえもが、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級対立――それは近年、巨人の歩みで前進した――と並んで存在している。

 最も強力な抑圧国家の一つに矛先を向けたインド革命の植民地的性格は、ある程度まで、その国の内的な社会的対立を隠蔽する。とりわけ、そうした隠蔽が好都合な人々にとってそうである。実際、帝国主義的抑圧の強力なシステム――そのあらゆる根は、古いインド的搾取と絡み合っている――を投げ捨てる必要性は、インド人民大衆の側の並はずれた革命的努力を求めており、したがってまた階級闘争が巨大な規模になることをあらかじめ確実にしている。イギリス帝国主義は、その立場をけっして自発的には放棄しない。しっぽをアメリカの方に恥かしげもなく振りながら、イギリス帝国主義は、そのすべてのエネルギーとそのすべての悪意を、その最後の一滴まで、反乱に立ち上がったインドにふり向けるだろう。

 インド革命は、民族ブルジョアジーの裏切り的指導部からなお解き放たれていない現在の時点においてさえ、マクドナルドの「社会主義」政府による弾圧に直面している。これは何と有意義な歴史的教訓であることか。自分たちの国に「平和的」に社会主義を導入すると約束している第2インターナショナルの雇われギャングどもによる血塗られた弾圧は、今のところまだ、イギリス帝国主義がインド革命に対する将来の決済を見越して現在差し出しているささやかな「手付け金」にすぎない。社会民主主義者は、ブルジョア的イギリスの利害と民主主義的インドとの調停の可能性について甘ったるい平和主義的議論を繰り広げているが、それは、マクドナルドによる血の弾圧の必然的な補完物である。マクドナルドは、言うまでもなく、死刑執行と死刑執行との間に、101回目ないし1001回目の調停委員会ないし和解委員会を開く準備をしているのである。

 イギリス・ブルジョアジーは、インドを失うことが、イギリスの十分に衰退した世界的権力を粉砕するだけでなく、本国内での社会的崩壊をも意味することを、十二分に理解している。それは生死を賭けた闘争である。すべての力が動員されるだろう。このことは、とりもなおさず、革命が、最も抑圧され搾取されている階級、階層、カーストの非妥協的エネルギーと隠れた社会的情熱を動員しなければならないことを意味する。

 数百万の大衆がすでに動きはじめている。彼らが、すでにこれほどの力――それは今のところまだ十分方向づけられていないが――を発揮したことで、民族ブルジョアジーは、消極性を脱し、運動を支配することでその革命的切っ先を鈍らせることを余儀なくされた。ガンディーの受動的な抵抗運動は、ばらばらにされ分散した小ブルジョアジーと農民大衆の無邪気で自己否定的な迷妄を、自由主義ブルジョアジーの裏切り的マヌーバーに結びつける戦術的結節点である。インド立法議会――すなわち帝国主義との共謀のための公式機関――の議長は、そのポストを辞任して、イギリス商品のボイコット運動の先頭に立ったが、それは非常に象徴的な性格を持っている。「われわれは諸君に請け合うが」――と、民族ブルジョアジーはテムズ河のジェントルマンに言う――「われわれは諸君にとって不可欠である。われわれなしには諸君は大衆をおとなしくさせることはできないだろう。しかし、われわれは諸君にその分の支払いを請求する」。

 それに答えてマクドナルドは、ガンディーを牢獄にぶちこんだ。従僕が、主人の信頼に応えようとするあまり、度外れに熱心になりすぎて、主人の意図を越えてしまったのかもしれない。イギリス政府の長が保守党だったら、すなわち経験を積んだ本格的な帝国主義者だったら、そもそも現在の段階では、ここまで弾圧に深入りしなかったかもしれない。しかし、他方では、受動的抵抗運動の民族的指導者たち自身も、すっかり地に落ちた自分たちの評判を取り戻すためには、このような弾圧を必要としている。こうしたサービスを彼らに提供してやったのが、マクドナルドである。彼は、労働者と農民を銃殺する一方で、ガンディーを逮捕するときは、ありあまるほどの配慮を示している。ちょうど、ロシアの臨時政府がコルニーロフ派やデニーキン派を、すなわち一時的に臨時政府に幻滅した友人たちを逮捕するときにそうしたようにである。

 インド帝国がイギリス・ブルジョアの国内支配の構成要素であるとすれば、他方では、インドに対するイギリス資本の帝国主義的支配は、インドの国内体制の構成要素である。問題を、何万か何十万の外国人抑圧者を追放することに、いささかも帰着させることはできない。彼らは、国内の抑圧者たちから離れることはできない。大衆の圧力が強力になればなるほど、国内の抑圧者たちはますます外国の抑圧者たちから分離したがらないだろう。ロシアにおいては、ツァーリズムの一掃と、それとともに世界の金融資本への債務の破棄が可能になったのは、農民にとって君主制の転覆が地主の土地所有の転覆と不可分であったからこそであるが、それと同じく、インドにおいても、帝国主義的抑圧者に対する闘争は、抑圧され半ば貧民と化した無数の農民大衆にとって、封建的土地所有者やその代理人、仲買人、官僚、高利貸しを一掃する必要性から生じてきている。インドの農民は土地の「公正な」分配を求めている。これは民主主義の基礎である。そしてこれは、全体としての民主主義革命の社会的基礎である。

 闘争の最初の段階において、後進的で経験に乏しく分散した農民は、それぞれの村で対立する体制の個々の代理人に反対しており、つねに受動的な抵抗手段に頼っている。小作料や税金を払わない、森に逃げ込む、徴兵を逃れる、等々である。受動的抵抗のトルストイ的定式は、この意味で、ロシア農民の革命的覚醒の最初の段階を表現していた。ガンディー主義は、インドの人民大衆に対して同じものを代表している。ガンディーが個人的に「真面目」であればあるほど、彼はますます、有産者にとって、人民大衆を調教する道具として有用なものとなるだろう。帝国主義に対する「平和的」抵抗運動にブルジョアジーが与えている支援は、革命的大衆に対するブルジョアジーの流血の抵抗の前提条件にすぎない。

 農民は、歴史において一度ならず、闘争の受動的形態から、直接の敵――地主、地方官吏、高利貸し――に対する最も苛酷で最も血塗られた戦争に移行した。ヨーロッパ中世はこの種の農民戦争で満たされている。しかし、同時にヨーロッパ中世は、農民戦争の最も容赦のない壊滅でも満たされている。農民の受動的抵抗もその流血の蜂起も、都市階級の指導のもとではじめて革命に転化することができる。したがってこの階級こそが、革命的国民の指導者となり、勝利ののち、革命権力の担い手となる。現代においては、このような階級となりうるのは、東方でさえ、プロレタリアートだけである。

 たしかに、インド・プロレタリアートは、1905年前夜および1917年におけるロシア・プロレタリアートよりも数的に小さい。このようにプロレタリアートの規模が比較的小さかったことは、すべての俗物たち、すべてのマルトィノフ型の連中、すべてのメンシェヴィキ連中にとって、永続革命の展望に反対する主要な論拠であった。彼らは、ロシア・プロレタリアートがブルジョアジーを脇に押しやって、農民の土地革命を推進し、それを大胆な規模にまで広げ、この波にのって革命的独裁の高みに達するという考えを、まったく空想的なものとみなした。その代わりに彼らは、都市と農村の人民大衆に依拠した自由主義ブルジョアジーが民主主義革命を最後まで遂行するという希望を最も現実的なものとみなした。しかし、人口統計は、さまざまな階級の経済的・政治的役割をいささかも示すものではなかった。10月革命は、実践を通じてこのことを非常に説得的に、そして永遠に証明した。

 インドのプロレタリアートが今日、ロシアのプロレタリアートよりも数的に脆弱であるという事実は、それ自体としてはいささかも、その革命的可能性を縮小するものではない。それは、アメリカないしイギリスのプロレタリアートに比較してのロシア・プロレタリアートの数的脆弱さが、プロレタリアート独裁の障害にならなかったのと同じである。反対に、10月革命を可能にし不可避にしたすべての社会的特殊性が、より先鋭な形でインドに存在する。この、貧農の国において、都市のヘゲモニーは、帝政ロシアに負けず劣らずはっきりとした性格を有している。一方では産業的、商業的、金融的権力が大ブルジョアジーの手に、何よりも外国ブルジョアジーの手に集中していること、他方では、産業プロレタリアートが急速に成長しつつあることは、都市の小ブルジョアジ―――とりわけインテリゲンツィア――の独立した役割の可能性を排除しており、したがってまた、革命の政治的メカニズムを、農民大衆に対する指導権をめぐるプロレタリアートとブルジョアジーとの闘争へと転化する。今のところ、「ただ一つの」必要条件だけが足りない。ボリシェヴィキ党がそれである。そして、ここにこそ現在におけるすべての問題がある。

 われわれはすでに、スターリンとブハーリンが、民主主義革命のメンシェヴィキ的概念を中国で採用したのを目撃している。強力な機構で武装した彼らは、メンシェヴィキ的定式を実地に適用することができ、したがって、それを最後まで持っていくことを余儀なくされた。ブルジョア革命におけるブルジョアジーの指導的役割(これこそロシア・メンシェヴィズムの基本思想である)を保証するために、スターリニスト官僚制は、若い中国共産党を、ブルジョア民族政党の従属的部分に引き下げた。現在の教育人民委員であるブーブノフを通じてスターリンと蒋介石との間で公式に合意された条件によれば、共産党員は、国民党内部のポストの3分の1しか占めることができなかった。したがって、プロレタリア政党は、コミンテルンによって祝福されたブルジョア政党の公式の囚人として革命に参加することになった。その結果は周知の通りである。スターリニスト官僚は中国革命を絞殺した。歴史上おそらく、規模の点でこれに匹敵する政治的犯罪はなかった。

 東方の他のすべての国と同様、インドにおいても、スターリンは1924年に、一国社会主義という反動的思想とともに、「労働者と農民の2階級政党」というそれに劣らず反動的な思想を提起した。これは、プロレタリアートの独立した政策と独立した政党を否定するもう一つの定式である。不幸なロイは、それ以来、超階級的ないし間階級的な「国民」政党ないし「民主」政党という教義の使徒となった。マルクス主義の歴史と、19世紀における発展過程、3つのロシア革命の経験――こういったいっさいのものが、これらの紳士諸君にとっては、いかなる足跡も残すことなく通り過ぎていった。「労働者と農民の党」がただ国民党という形態においてのみ考えうるということ、すなわち、後で裏切り粉砕するために自分の背後に労働者と農民を従えたブルジョア政党としてのみ考えうるということを、彼らはいまだに理解していない。歴史において、超階級的ないし間階級的政党の他のタイプは、まだ考案されていない。もっとも、ロイ――中国におけるスターリンの代理人で、「トロツキズム」に対する闘争の予言者、マルトィノフ的「4階級ブロック」の実行者であったロイは、中国革命の不可避的な敗北ののち、スターリニスト官僚の犯罪の儀式的なスケープゴートにされた。

 「労働者と農民の2階級政党」というスターリン的処方箋の実行を通じた、力を弱め士気阻喪させるような実験が、インドでは6年間にわたって繰り広げられた。その結果はこうである。すなわち、無力で地方的な労農政党が、まさに行動しなければならない瞬間に、すなわち革命的上げ潮の時期に、動揺し、ふらふらとよろめいている状態にあるか、あるいは、単純に雲散霧消してしまっている。しかし、いかなるプロレタリア政党も存在しておらず、事件の炎の中でこれから創造されなければならない。しかも、その前に、スターリニスト官僚によって積み上げられたゴミの山を片づけなければならない。これが今の状況だ! 1924年以来、コミンテルンの指導部はインドにおいて、インド・プロレタリアートを無力化し、その前衛の意志を弱め、その力をそぐためになしうるあらゆることをした

 ロイをはじめとするスターリンの生徒たちが、超階級的政党のための「民主主義的」綱領を練り上げる上で、貴重な年月を無駄に過ごす一方で、民族ブルジョアジーは、労働組合の指導権を握るために、この騒動を最大限利用した。政治分野においてではなく、労働組合の分野においてインド版国民党が創設された。ただし、その創設者が、その後、自分の手になる事業に恐れをなして、脇に飛びのき、「執行者」にあれこれ文句をつけている、という違いがある。

 今回の場合も、中間主義者は、よく知られているように、「左翼」に飛び移った。しかし、だからといって、事態は好転しなかった。インド革命の問題におけるコミンテルンの公式の立場は、現在、恥ずべき混乱のかたまりとなっており、あたかも、プロレタリア前衛をまどわせ絶望させるために特別に考えだされたものであるかのようだ。少なくとも、こうした混乱の半分は、指導部が意識的かつ卑劣に自らの過去の誤りを隠蔽しようとしていることからきている。残りの半分は、中間主義の破滅的な性質にもとづいている。

 われわれはコミンテルンの綱領には今は触れない。その綱領は、植民地ブルジョアジーに革命的役割を付与し、今なおマルトィノフとスターリンの帽子をかぶり続けているブランドラーとロイの概念を完全に是認している。またわれわれは、スターリンの『レーニン主義の諸問題』の無数の版についても語らないでおこう。それは、世界のあらゆる言語で、労働者と農民の二階級政党について語り続けている。われわれは、現時点の、今日の、最新の問題設定に限定する。それは、コミンテルンの「第3期」の誤りを東方において再現している。

 インドにおけるスターリニストの中心的スローガンは、中国と同じく、今なお労働者と農民の民主主義独裁である。このスローガンが今現在、つまり過去15年の経験を経たのちの1930年の時点で、いったい何を意味するのかについて、誰も知らないし、誰も説明することはできない。なぜなら、誰も理解していないからである。労働者と農民の民主主義独裁というのは、労働者と農民を虐殺した国民党の独裁とどの点で異なるのか? マヌィルスキーやクーシネンのごとき連中はたぶん、今問題になっているのは3つの階級(労働者、農民、都市小ブルジョアジー)の独裁であって、中国の場合の四階級とは違うと答えるだろう。中国では、スターリンは幸運なことに自分の同盟者たる蒋介石をブロックに引き込むことができた。

 もしそうだとするならば――と、われわれは答える――どうして諸君はインドでは民族ブルジョアジーを同盟者として拒否しているのか。中国では、民族ブルジョアジーを拒否したことで真のボリシェヴィキを共産党から除名しその後彼らを投獄したというのに? 中国は半植民地国家である。中国には、封建領主や封建的代理人の強力な階層は存在していない。だがインドは古典的な植民地国であり、封建的カースト制度の強力な残存勢力が存在している。スターリンとマルトィノフが、中国における外国の抑圧と農奴的遺制の存在を理由に中国ブルジョアジーの革命的役割を導きだしたとすれば、インドにおいては、これらの理由はいずれも2倍の力を有している。つまり、コミンテルンの綱領を厳密に理解するならば、インド・ブルジョアジーは、中国ブルジョアジー(忘れがたき蒋介石と「忠実な」汪精衛を含む)の場合よりもはるかに、スターリニストのブロックに入る資格があるということだ。だが、そうではないとするなら、すなわち、イギリス帝国主義の抑圧と中世のあらゆる遺物にもかかわらず、インド・ブルジョアジーが革命的役割ではなく反革命的役割しか担えないとするならば、諸君は、中国における裏切り的政策を容赦なく糾弾し、コミンテルンの綱領――そこには、この裏切り的政策の痕跡が、おずおずとした調子で、だがずる賢く残されている――を修正しなければならないはずだ!

 しかし、これで問題が尽きるわけではない。諸君がインドにおいてブルジョアジー抜きのそしてブルジョアジーに対立するブロックを建設するならば、そのブロックを指導するのはいったい誰か? マヌィルスキーとクーシネン型の連中はおそらく、彼らに特有の上品ぶった怒りをたたえながら、こう答えるだろう。「もちろん、プロレタリアートだ!」と。われわれは答える、よろしい、非常に称賛に値する。しかし、もしインド革命が労働者・農民・小ブルジョアジーのブロックにもとづいて発展するのなら、このブロックが、帝国主義と封建制に矛先を向けるだけでなく、あらゆる問題でこれらと結びついている民族ブルジョアジーに対しても矛先を向けるのならば、そして、このブロックの先頭にプロレタリアートが立つならば、このブロックが、武装蜂起を通じて敵を一掃することによってのみ勝利することができ、そうすることで、プロレタリアートを国全体の真の指導者の役割にまで引き上げるならば――その時には、次のような問題が生じる。勝利した暁には、いったい権力はプロレタリアート以外のどの階級の手中に握られるのか? その場合、労働者と農民の民主主義独裁は、農民を指導するプロレタリアートの独裁とどう違うのか? 言いかえるなら、労働者と農民の仮定上の独裁は、10月革命が樹立した現実のプロレタリア独裁と、そのタイプの点でどう違うのか?

 この質問に対する答えはないし、彼らには答えることもできない。これまでの歴史的発展の中で、「民主主義的独裁」の定式は、空虚なフィクションになっただけでなく、プロレタリアートにとっての裏切り的な罠になった。このすばらしいスローガンは、まったく矛盾する2つの解釈を同時に許す。一つは、国民党の独裁であり、もう一つは10月革命の独裁である! この両者の間にいかなる中間も存在しない。中国において、スターリニストは国民党独裁としての民主主義独裁を2重に解した。最初は右翼的な意味でそれを、ついで左翼的な意味で、である。しかし、彼らはインドにおいてそれをどのように解釈するのだろうか? 彼らは沈黙する。沈黙せざるをえないのだ。なぜなら、自分たちの犯した罪に支持者の目を向けさせることになるのではないかと恐れているからである。このだんまり戦術は実際には、インド革命に敵対している。そして、現在のすべての極左的大騒ぎは状況をただの一歩も改善するものではない。なぜなら、革命の勝利を保証するものは、大騒ぎでも大言壮語でもなく、政治的明晰さだからである。

 しかし、以上によってもまだ、混乱のかたまりは終わりではない。それどころか、まさにこの点で新しい混乱の糸がからまってくる。わが戦略家たちは、一方では革命に抽象的な民主主義的性格を付与し、ついで、神秘的で人を惑わす「民主主義独裁」が確立された後になってようやく、その革命がプロレタリアート独裁に達することを許しながら、他方では、あらゆる革命的民主主義運動の中心的スローガンである憲法制定議会のスローガンを拒否している。なぜか? いかなる根拠にもとづいてか? まったく不明である! 民主主義革命は、農民にとっては、平等、とりわけ土地分配の平等を意味する。権利の平等はこの平等にもとづいている。形式的には、すべての国民の代表が過去と決着をつける場であるが、実際にはさまざまな階級がお互いに決着をつける場である憲法制定議会は、目覚めた農民大衆の意識においてだけでなく、労働者階級それ自身の意識においても、革命の民主主義的課題を、当然かつ必然的に総括したものに他ならない。われわれはこれについては、すでに中国との関連で十分詳しく述べたので、ここで繰り返す必要があるとは思わない。ただつけ加えておくとすれば、インドの地方的雑多性、その政府形態の多様性、そしてそれに劣らず雑多に絡み合った封建的・カースト的諸関係の多様性は、インドにおける憲法制定議会のスローガンを、とりわけ深い革命的・民主主義的中身で満たすことだろう。

 ロシア共産党におけるインド革命の理論家は現在、サファロフ[元労働者反対派で、後に合同反対派に合流し、最後にスターリンに屈服した]である。彼は、幸運な屈服のおかげで、その妨害活動を中間主義の陣営に移した。インド革命の力と課題に関する『ボリシェヴィキ』の綱領的論文の中で、サファロフは、フックにかかったチーズのかけらの周りをうろうろしている老獪なネズミのように、憲法制定議会の問題の周りを慎重にうろうろしている。この社会学者は、二度とトロツキズムの罠に陥るまいと決意している。彼は、あまり格式張ることなく問題を解決しようと、憲法制定議会に次のような展望を対置している。

「プロレタリアートのヘゲモニーのための闘争にもとづいた(!)新しい革命的高揚の発展は、次のような結論を導く(導く? 誰が、どうやって、なにゆえ?)。インドにおける労働者と農民の独裁はソヴィエトの形態を通してのみ可能であるという結論である」(『ボリシェヴィキ』第5号、1930年、100頁)。

 驚くべき文章だ! マルトィノフにサファロフが加乗されている。われわれはマルトィノフという人物を知っている。そしてサファロフについては、レーニンが、情け容赦なくこう言っている。「サファロフ君は左に向かい、サファロフ君はへまをする」。前述のサファロフ主義的展望は、こうした特徴づけを反駁するものではない。サファロフはかなり左に向かい、そして……レーニンの定式の残り半分も破壊しなかった。インドには、プロレタリアートのヘゲモニーのための共産主義者の闘争に「もとづいて」人民大衆の革命高揚が発展しつつある、ということから話が始まっている。すべてが引っ繰り返っている。だがわれわれは、プロレタリアートの前衛は、新しい革命的高揚にもとづいて、ヘゲモニーのための闘争に入る、ないし入る準備をする、ないし入るべきであると考えている。サファロフによれば、闘争の将来の展望は、プロレタリアートと農民の独裁である。ここでは、左翼主義ゆえに、「民主主義」という言葉が投げ捨てられているが、それがいかなる「2階級」独裁なのか、すなわち、国民党タイプの独裁なのか、10月革命タイプの独裁なのかは直截には言われない。その代わり、この独裁は「ソヴィエトの形態を通してのみ」実現されうると、誓いの言葉をもって断言されている。これは非常に立派に聞こえる。憲法制定議会というスローガンが何だ。サファロフはソヴィエト「形態」しか認めないつもりである。

 亜流主義の本質――その軽蔑すべき悪質な本質――は、過去の現実的過程とその教訓とから、空虚な形式だけを抜き出し、それを物神崇拝の対象物に変えてしまうという点にある。ソヴィエトの取り扱いがまさにそれである。独裁の階級的性格――国民党政権のような、プロレタリアートに対するブルジョアジーの独裁なのか、10月革命のような、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの独裁なのか――について何も語ることなく、独裁のソヴィエト的形態によって、人々を、何よりも自分自身を慰める。あたかも、ソヴィエトが労働者と農民をだます手段になりえないかのようだ! 1917年のメンシェヴィキと社会革命党のソヴィエトはいったい何だったのか? 1918〜19年における社会民主党のソヴィエトはいったい何だったのか? それは、ブルジョアジーを救い労働者をだますための機関であった。インドにおける革命運動のさらなる発展の中で、そして大衆闘争が大きな高揚をみながら共産党が脆弱である場合には――そして、後者はサファロフ的混乱が頭を支配しているかぎり不可避だ――、インドの民族ブルジョアジー自身が、労働者と農民のソヴィエトを創出して、それを――ちょうど現在労働組合を指導しているのと同じく――指導し、革命を絞殺するかもしれない。ちょうどドイツ社会民主党が、ソヴィエトの頂点に立ち、そうしてドイツ革命を絞殺したように。民主主義独裁の裏切り的性格は、敵に対して、このような可能性をしっかりと、そして永遠に閉ざすことをしないという点にある。

 インド共産党――その創設は6年前にさかのぼる。そしてそれは何という年月だったことだろう!――は現在、革命的・民主主義的高揚の中で、大衆を動員する最も重要なスローガンの一つである民主主義的憲法制定議会のスローガンを奪い取られている。その代わり、まだその一歩を踏み出してもない若い党は、抽象的独裁――すなわち、いかなる階級の独裁かがわからない独裁――の一形態としてのソヴィエトという抽象的スローガンを押しつけられている。これこそまさに、混乱の極みだ! そして、こうしたことのいっさいは、例によって例のごとく、今のところ深刻でまったく甘くない事態をおおい隠す醜悪な粉飾と甘いオブラートを伴っている。

 公式の機関誌、とりわけ同じサファロフは、インドにおけるブルジョア民族主義がすでに屍となっており、共産主義者がすでにプロレタリアートの先頭に立っている、あるいは立ちつつあり、プロレタリアートはプロレタリアートで、ほとんどその背後に農民を従えているかのように、状況を描きだしている。コミンテルンの指導者たちとその社会学者たちは、最も恥知らずな形で願望を現実であると詐称している。より正確に言えば、過去6年間にもし正しい政策をとっていたならばそうなっていたかもしれない状況を、誤った政策の結果として生じた実際の状況の代わりに持ち出しているのである。しかし、想像と現実との不一致が露わになるとき、非難されるのはインド共産党である。正しい総路線であると偽って提示された誤った総路線を、まずく実行したとして非難されるのである。

 インド・プロレタリアートの前衛はまだ、その偉大な任務の入り口にいる。前方には長い道のりが控えている。一連の敗北が、プロレタリアートと農民の後進性ゆえのみならず、指導部の罪ゆえにも生じるだろう。現在の主要な任務は、革命の推進力に関する明晰なマルクス主義的概念を持ち、正しい展望を構築し、先を見通した正しい政策を持つことである。その政策は、陳腐な決まり文句や紋切型や官僚主義的な旧習墨守を拒否する代わりに、偉大な革命的任務を遂行するにあたって、注意深く労働者階級の革命的成長の諸段階に適応するだろう。

                             1930年5月30日

『反対派ブレティン』第12/13号

『トロツキー研究』第30号より


  

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