【解説】これは、ドイツの破局にもかかわらず、なおもコミンテルン指導部がナチス独裁の急速な崩壊とプロレタリア革命の切迫という官僚的楽観主義を振りまいていることを批判し、ヒトラー政権の持続性について論じた論文である。最初に発表されたのは、アメリカの『階級闘争』誌の9・10月号と11月号である。
この中でトロツキーは、彼特有の「意識の屈折反映論」を展開している。
「存在が意識を規定する」。だが、このことは、意識が外部の環境に機械的・直接的に依存していることをけっして意味しない。存在はそれ自身、意識の法則にしたがって意識の中に屈折して反映される。
そして、1910年代からの主張である、政治闘争の波と景気循環の波との弁証法を展開して、ドイツにおける労働運動の政治的復活は景気の回復から生じるだろうと予測している。
『トロツキー著作集 1932-33』下にすでに「ヒトラーはどれだけ長く政権にとどまれるか」という表題で訳出されているが、重大な誤訳が散見されたので、改めて、『ドイツにおける反ファシズム闘争』所収の英訳に照らして全面的に改訳してある。
Translated by the Trotsky Institute of Japan
火事の後で新たに事態を立て直すことは難しい。政治的大敗北の後でもう一度道を定め直すことはなおさら難しい。とくに敗北の責任の大部分が自分たちにある場合、党はなかなか自分たちのこうむった敗北を認めたがらない。その敗北が大きければ大きいほど、政治的思考にとって、新しい立場に転換し、新たな展望を打ち立て、その展望にもとづいて今後の活動の方向とテンポを定めることは、それだけ難しくなる。
軍事科学の歴史は、革命闘争の歴史と同様、司令部が根本的敗北の規模を正確に評価せずに、時宜を得ない攻撃によってそれをごまかそうとした結果、さらなる敗北をこうむった多くの事例を提供している。戦争においては、この種の犯罪的試みは、それ以前の打撃ですでに士気が低下していた残存部隊の大壊滅につながる。革命闘争では、それ以前の敗北によってすでに大衆から切り離されてしまった最も戦闘的な部分が冒険的試みの犠牲になる。
ドイツの現在の破局は疑いもなく、労働者の史上最大の敗北である。それだけになおさら、完全な戦略的転換が焦眉の課題になっているが、他方では、党官僚の抵抗もそれだけによりいっそう強固である。党官僚は、敗北をもたらした者――この場合には自分たち自身を名指しせざるをえない――に対してではなく、敗北の事実から必要な政治的結論を導き出す者に対しても、「敗北主義者」のレッテルを貼っている。ドイツの政治的発展の展望をめぐって展開されている現在の闘争は、ヨーロッパと全世界の運命にとって例外的な重要性を有している。
この脈絡においてわれわれは社会民主党を考慮に入れない。この党のおぞましい解体は、官僚の権威によるマヌーバーの余地すら残していない。その指導者たちは何らかの考えや計画を持っているのだと見せかけようとさえしていない。政治的に自分たちの頭を完全に失ってしまった後、指導者たちの関心は自分たちの頭を物理的に救済することに向けられている。これらの連中は、帝国主義戦争の開始以来、その全政策によって自分たちの恥ずべき敗北を準備しつづけてきたのである。
現在、政治的関心を引くのは共産党の路線だけである。大衆的組織としてこの党は完全に壊滅した。しかし、中央機構は保持され、非合法印刷物や亡命者の出版物を発行し、国外での反ファシスト大会を呼びかけ、ナチス独裁に反対する闘争計画を作成している。今やこの機構には敗北した幕僚のありとあらゆる醜悪さが他に類を見ないほどはっきりと示されている。
「ファシストは一瞬のカリフ(1)である」とコミンテルンの公式機関紙は書いている。「それは長続きしない。そのすぐ後にプロレタリア革命が続くであろう。……プロレタリア独裁のための闘争がドイツにおいて日程にのぼっている」。この機構は、たえず退却を続け、すべての陣地を明け渡し、支持者を失っているにもかかわらず、反ファシストの波は高まりつつあり、その士気はますます上がり、明日でないとしても今から数ヵ月後には蜂起の準備が必要であると相変わらず繰り返している。楽観主義的美辞麗句は、打ちのめされた司令部にとって政治的自己保身の手段となっている。ドイツ・プロレタリアートの内部生活がますます深い暗黒の中に沈み込んでいるだけに、この皮相な楽観主義はなおさら危険である。労働組合も議会選挙も党費の納入も機関紙の配布も存在していない――この間違った政策の結果を統制したり、指導部の心の安寧を妨げたりすることのできるいかなる手段もない。
自信に満ちたこうした予測がなされる主な理由は、ヒトラーが「公約を実行できないだろう」という事実にある。あたかもムッソリーニが権力に10年以上もとどまるのにその空想的な綱領を実行しなければならなかったようだ! 革命はペテン師に対する自動的罰ではなく、一連の歴史的諸条件がそろったときにのみ生じる複雑な社会現象である。もう一度その諸条件を指摘しておこう。支配階級の動揺と分裂、小ブルジョアジーの憤激と既存の体制に対する信頼の喪失、労働者階級の戦聞的活動力の増大、そして最後に革命党の正しい政策――以上が革命の直接的な前提条件である。これらはそろっているだろうか?
過去数年間、ドイツの有産階級は最も激烈な内紛状態にあった。今や彼らはみな――たとえ重い気分にいるとしても――ファシストに屈服している。地主と産業資本家との対立や産業資本家諸グループ間の対立は解消されていないが、それが速やかに調整されることは確実だろう。
ドイツの小ブルジョアジーはごく最近まで沸騰するやかんのように沸き立っていた。たとえ民族主義的な狂乱の中にあったとしても、そこには社会的な危険性の要素が存在していた。今や、小ブルジョアジーは、その背に乗って政権を握った政府の周囲に統一され、その中から生み出された純軍事組織によって訓練されている。中間諸階級は秩序の主要な支柱になった。ここから反駁の余地のない結論が導き出される。すなわち、大ブルジョアジーと小ブルジョアジーの問題に関するかぎり、革命的結果を生み出すための前提条件は過去にすり抜けていった、あるいは同じことだが、不確定の未来へとすり抜けていった、と。
労働者階級に関しても情勢は同じように明確である。数ヵ月前、指導部の誤りを通じて、反革命の攻撃から自分たちの強力な合法的地位を防衛する能力がその指導部にないことが明らかとなったが、その大潰走直後の今日、ファシズムの強力な合法的地位に対して攻撃をしかける準備が整っているなどということはとうていありえない。物質的・モラル的要素が力関係をプロレタリアートに不利な方向に先鋭かつ大きく変えてしまった。それともこのことを再び証明する必要があるだろうか? 指導部の領域でも事態はまったく有利なものではない。共産党は存在していない。批判の新鮮な空気を奪われた共産党の機構は、深刻な内部闘争のなかで窒息しつつある。どのような意味において「ドイツでプロレタリアート独裁のための闘争が日程にのぼっている」などと言えるのだろうか? 「日程」というのはここでは何を意味しているのか?
これに対して、われわれの悲観主義や、革命の創造的力に対する不信を暴露しようとする――真面目な、ないし欺瞞的な――試みがなされると予測することは難しいことではない。何と安っぽい非難であることか! われわれは、他の誰にも劣らず、ファシズムが歴史的に破産した大義を擁護しているのを知っている。その方法は、見かけは大がかりだが不安定な結果を生み出すだろう。暴力によって押さえつけることができるのは、時代遅れになった階級だけである。しかし、プロレタリアートは常に社会の主要な生産的力でありつづけてきた。この階級を一時的に敗走させることはできても、それを永久に隷属させつづけることは不可能である。ヒトラーは労働者を「再教育」すると約束しているが、犬の訓練にさえ適合しないような教育方法を採用せざるをえなくなっている。ファシズムが労働者の非和解的な敵意にぶつかって首を折ることになるのは避けられない。だがいかにして、いつ? 全般的な歴史的見通しは焦眉の政策問題を取り除いてくれるわけではない。すなわち、国家社会主義の粉砕を準備し早めるために今何をなすべきなのか、そしてとりわけ何をなすべきでないかという問題である。
直接的に革命を促す効果としてファシストの弾圧と物質的窮乏をあてにするというのは、俗流唯物論を暴露するものである。もちろん、「存在が意識を規定する」。だが、このことは、意識が外部の環境に機械的・直接的に依存していることをけっして意味しない。存在はそれ自身、意識の法則にしたがって意識の中に屈折して反映される。同一の客観的事実も、全般的情勢やそれに先行する事態しだいで、異なった、時として正反対の政治的影響を及ぼす。たとえば、人類の歴史の発展の中では、弾圧はしばしば革命的憤激を呼び起こすが、反革命の勝利の後では、弾圧は抗議の最後の炎を一度ならずも消し去ってきたのである。経済恐慌が革命的爆発を早めることがあるし、このことは歴史上一度ならず起こったことである。だが、重大な政治的敗北の後の恐慌は、プロレタリアートを押しつぶし、その分解過程を促進するだけである。より具体的に言おう。ドイツにおいては産業恐慌のさらなる深まりから直接に革命的結果を期待することはできないのである。
たしかに、歴史の記録するところによれば、長期にわたる産業好況はしばしばプロレタリアート内部の日和見主義的潮流にとって追い風となってきた。しかし、長い恐慌と反動の後では、景気の上昇局面が逆に、労働者の活動水準を引き上げ、彼らを闘争の道へと駆り立てることがある。われわれはこのパターンの方が多くの点でよりありうるとみなしている。
しかしながら、現在、重点は景気循環の予測にあるわけではない。何百万もの人民大衆の心理が大きく転換するには長い幕間が必要である。このことが出発点にならなければならない。景気循環上の転換、有産階級内部の衝突、国際的諸事件、こういったものが労働者にそれぞれの影響を与えるだろう。
しかし、外的事態は大衆の意識の内部法則を簡単に無効にすることはできないし、プロレタリアートをしてその敗北の結果をただちに取り消して革命闘争の新しいページを開くことを可能にすることもできない。たとえ特別に有利な国際的・国内的諸条件の組み合わせによって特別に短い幕間――たとえば、1年とか2年――の後に転換が始まることになったとしても、われわれの政策がどうあるべきかという問題は来るべき12ヵ月または24ヵ月の間は同じままであろうし、その間、反革命はその征服地をさらに拡大しているだろう。正しい展望を持たなくては現実的な戦術を展開することはできない。ドイツで進行しているのがプロレタリア革命の成熟ではなくてファシスト反革命の深化であるという点を理解することなくして、正しい展望はありえない。そして、このことは同じことではないのだ!
革命機構をも含めて官僚機構というものは、プロレタリアートが政治の客体であるだけでなく、その主体でもあるということをあまりにも簡単に忘れてしまう。ナチスは労働者の頭悩を打ちのめすことによって労働者を人種主義の解剖用人体模型に変えようとしている。コミンテルン指導部は反対に、ヒトラーによる打撃が労働者を忠実な共産主義者にすると判断している。これらの計算はともに間違っている。労働者は陶工の手の中の粘土ではない。彼らはその度に歴史をもう一度はじめからやり直しはしない。彼らは、ナチスを憎悪し軽蔑しているが、だからといって自分たちをナチスの首吊り縄へと連れていった政策に戻ろうとはまったく考えていない。労働者は、自分たち自身の指導者に欺かれ、裏切られたと感じている。彼らは何をなすべきかを知らないが、何をなすべきでないかは知っている。彼らは想像を絶する苦難をこうむっているのであって、混乱、脅迫、嘘、大言壮語の悪循環を断ち切り、脇にしりぞき、身をかがめ、嵐が過ぎ去るのを待ちたいと思っている。そして、自分たちの手に負えない問題を決定する必要性から手を引いて休みたいと思っている。彼らは、幻滅という傷を癒すための時間を必要としている。この状態に対して使われている一般的呼び名は政治的無関心である。大衆はいらいらした受動性に陥っている。一部の労働者――その数はけっして少なくはない――はファシスト組織に庇護を求めている。もちろん、個々の政治家がこれみよがしにファシズム陣営に乗り換えることと、無名の労働者が独裁下の強制的組織に加入することとを同一次元に置くことは許されない。前者は出世主義の問題であるが、後者は、保護色による自衛の問題、支配者への服従の問題である。にもかかわらず、労働者がカギ十字の旗のもとへと大量に移行したという事実は、プロレタリアートをとらえている無力感を示す反駁の余地ない証拠である。反動は労働者の骨にまでしっかりと到達している。これは1日やそこらでは終わらない。
すべてを忘れ、何も学ばなかった騒々しい党官僚は、こうした全般的情勢の中で、明白な政治的アナクロニズムを表している。労働者は無謬性という公式の建前に吐き気を催している。機構の周囲には空虚なものが広がっている。労働者は、ヒトラーの鞭に加えて、見せかけの楽観主義という鞭によってさらに打たれたいとは思わない。労働者は真実を欲している。公式の展望と現実の事態とのあいだの途方もない不一致は、先進的労働者の隊列の中に新たな分解要素を持ち込むだけである。
大衆の急進化と呼ばれるものは、集団意識の複雑な分子的過程である。この道に戻るためには、労働者は何よりも、起こった事態を理解しなければならない。大衆が自らの敗北をしっかり理解しなければ――少なくともその前衛が過去を批判的に評価し直し、敗北を乗り越えて新しい段階へと進まないかぎり――、急進化は考えられない。
この過程はまだ始まっていない。官僚機構のメディア自身、その楽観主義的叫びの合間に次のことを認めざるをえない。ナチスが農村において自らの陣地を強化しつづけ、共産党員を追い出し、労働者に対する農民の激しい憎悪を煽っているだけでなく、工業においても、最後に残った労働者共産党員を追放しつづけており、しかも何の抵抗も受けていないことである。ここには何ら思いがけないものはない。敗北した側には敗北の結果がのしかかってくるのである。
こうした事実に直面した官僚は、その楽観主義的展望を支える支柱を求めて、その本来の主観主義から今度は完全な運命論へと身を投げる。たとえ大衆の士気が下がっているとしても、ヒトラー体制はいずれにせよ間もなくそれ自身の矛盾の結果として吹き飛んでしまうだろう、と官僚はわれわれに保証する。ドイツのすべての党――ナチスから社会民主党まで――はファシズムの変種であって、同一の綱領を推進しているとみなされていたのは、ほんの昨日のことである。今ではすべての希望が支配陣営内の矛盾に向けられている。
政治的計算の新しい誤りは古い誤りに劣らず愚劣である。ナチスに対する旧来の資本主義政党の「反対」は、軍のやぶ医者に虫歯を引き抜かれる病人の本能的抵抗にすぎない。たとえば、警官はドイツ国家人民党のあらゆる部門を制圧してしまった。事態はスケジュールどおりに進行しつつある。フーゲンベルク(2)とヒトラーとの衝突は、ヒトラーの手に全権力が集中していく過程におけるエピソードにすぎないであろう。自らの任務を完遂するために、ファシズムは国家機構と融合しなければならない。
ファシスト軍部隊の多くがすでに不満を抱いているということは大いにありそうなことである。彼らは思う存分略奪することすら許されていない。しかし、この不満がいかに先鋭な形をとろうと、重大な政治的要因にはなりえない。政府機構は、従順でない近衛部隊を次々と粉砕し、信頼できない部隊を再編し、軍のトップ層を買収するだろう。一般的に言えば、広範な小ブルジョア大衆の酔いが醒めるのは絶対に不可避である。しかし、それが起こるまでの時間とその形態はさまざまである。ある場合には、この不平の炎が燃え上がった後に、ファシズムに裏切られた下層が再びより底辺に沈む場合もありうる。いずれにしても、ここから独立した革命的イニシアチブを期待するなどというのは問題外である。
国家社会主義党の工場委員会が労働者に依存している度合は、かつての改良主義者の工場委員会が労働者に依存していた度合よりもはるかに少ない。実際、闘争の最初の復活の雰囲気が感じられるようになると、ファシストの工場委員会でさえ労働者階級の台頭を支える支点になるかもしれない。1905年1月9日、ツァーリ体制のオフラーナ(秘密警察)によって作られた労働者組織が一時期、革命のてこになったように。しかし、ドイツ労働者が痛々しい幻滅と低迷の段階を通過している現在、ファシスト官僚の指導下で重大な闘争に突入すると期待するのは馬鹿げたことである。工場委員会は上から選ばれ、労働者に対する裏切りと抑圧のための手先として訓練されるだろう。
自己欺瞞は許されない! 幻想で敗北を覆い隠すことは破滅を意味する。救いは明晰さにある。あらゆる失敗と誤り容赦なく批判することだけが偉大な反撃を準備することができる。
ドイツ・ファシズムの方がイタリア・ファシズムより早いテンポで進行していることは、経験から明らかであるとみなせるだろう。それは、ヒトラーがムッソリーニの経験を利用できたからというだけでなく、主として、ドイツの方が社会構造がより高度で、その矛盾がより先鋭であるからである。このことから、権力についた国家社会主義がイタリアの先例よりも早く使い果たされるだろうという結論を引き出すことは可能だろう。しかし、たとえどのように堕落し分解していても、国家社会主義は自壊しない。今日のドイツにおいては蜂起なしに政治体制の変革はありえない。たしかに、現在そのような蜂起の差し迫った展望は存在しないが、事態の発展は、それがいかに曲がりくねった道をたどろうとも、必ずや蜂起への突破口を切り開くにちがいない。
周知のように、小ブルジョアジーは独立した革命的政策を持つことはできない。しかしながら、小ブルジョアジーの政策と気分は、この階級の助けによって作り出された政権の運命にとってけっして無関係ではない。中間諸階級の失望と不満は、すでにイタリアのファシズムを転換させたように、国家社会主義を人民の運動から警察的機構へと転換させるだろう。この機構がそれ自体いかに強力であろうとも、それは、社会のあらゆる毛穴に浸透する反革命の生きた流れに取って替わることはできない。それゆえ、ファシズムの官僚的堕落は終わりの始まりを意味する。
しかしながら、この段階になると新たな困難が現れてくるにちがいない。敗北の影響で、プロレタリアートの抑制中枢は肥大化している。労働者は用心深く、壊疑的で、傍観者的になっている。たとえ反動の大噴火が停止したとしても、ファシスト国家の固まった溶岩がこれまでの苦難の日々をあまりにも恐ろしい形で思い起こさせる。こうした事態がイタリアの今日の政治情勢である。経済学の用語を借りるならば、小ブルジョア的反動に対する幻滅と不満は、労働運動の激しい恐慌から不況へと移行する局面を準備したと言えるかもしれない。そしてこの不況段階は次にはある一定の段階で景気回復に移行することになる。現段階においてこの景気回復がいかに、いつ、どのようなスローガンのもとで始まるかを予言するのは、不毛な作業でしかない。景気循環の各段階でさえ常に「思いがけない」性格を帯びる以上、政治発展の諸段階はなおさらそうである。
重病を乗り越えたばかりの体にとっては、正しい治療がとりわけ重要になる。ファシズムのローラーに押しつぶされた労働者にとって、冒険主義的な戦術は不可避的にアパシーを再発させることになる。たとえば、時期尚早な株式投機はしばしば恐慌の再来をもたらす。イタリアの例は、政治的沈滞状態が――とりわけ誤った政治的指導部が存在する場合には――何年も長引く可能性があることを示している。正しい政策は、人為的な前進をプロレタリアートに強制することではなく、運動の生きた弁証法から闘争の展望とスローガンを引き出すことを要求する。外部からの有利な刺激は、この過程の個々の段階を著しく短縮することはできる。イタリアのように沈滞状態が何年も続くのはけっして必然ではない。しかし、大衆が立ち上がっていくその有機的な段階を飛び越すことはできない。飛び越そうとするのではなくこの過程を加速すること――革命的指導部の全技術はここにある! 一度はファシズムの鉛の重圧のもとで引き裂かれてしまった労働者運動は、比較的短期間のうちに大きな規模に達するかもしれない。その後ではじめて、しかもプロレタリアートの指導下ではじめて、小ブルジョアジーの不満は進歩的な政治的性格を獲得するとともに、革命闘争にとって有利な情勢を再び打ち立てることができるのである。
支配階級はこの過程の反対面に直面しなければならない。小ブルジョアジーの支持を失ったファシスト国家は、きわめてあてにならない支配機構になるだろう。資本を代弁する政治家たちは新たな方向を定めなければならなくなるだろう。有産諸階級の内部矛盾が表面化するだろう。
攻勢に転じた大衆に直面したヒトラーは、信頼できる後衛が存在していないことに気づくだろう。こうして直接的な革命的情勢が生まれ、国家社会主義の最後のときが告げ知らされるだろう。
しかし、プロレタリアートが偉大な任務を自らに課すことができるためには、過去のバランスシートを引き出さなければならない。その最も一般的な定式は次のようになるだろう。すなわち、古い諸政党は死んだ。ごく少数の労働者はすでに、新しい党を準備する必要があると言っている。社会民主党の嫌悪すべき無気力と公式のエセ・ボリシェヴィズムの犯罪的無責任さは、闘争の炎の中で燃え尽きてしまうだろう。諸君、ナチスは戦土の人種について語ってきた。ファシズムが革命的戦士によって構成される無敵の人種と衝突する時が来るだろう。
1933年6月30日
『ドイツにおける反ファシズム闘争』所収
『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)より
訳注
(1)カリフ……イスラム世界の最高権威者の称号で、後にオスマン・トルコ王国の皇帝の称号となる。現在は廃止。
(2)フーゲンベルク、アルフレート(1865-1951)……ドイツの大銀行家、大資本家、右派政治家。1909〜1918年、クルップ製鋼の重役。1916年以降、約150社に及ぶフーゲンベルク大コンツエルンを結成。1919年より国家人民党議員。ワイマール共和国に反対し、1928年に国家人民党の党首となり、ヒトラーと同盟を結んだ。1933年1月30日、最初のヒトラー政権の経済相になったが、1933年6月に解任。
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