【解説】トロツキーが提起したドイツにおける新しい党の建設という路線は、国際左翼反対派内部で激しい論争を巻き起こした。トロツキーはそれらの反対論を一つ一つ取り上げ、それが古い情勢に立脚した誤った議論であることを明らかにしていっている。
今回アップしたのは、『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)に英語版から訳出されたものを、『反対派ブレティン』掲載のロシア語原文にもとづいて修正したものである。
Л.Троцкий, Крушение германской компартии и задачи оппозиции, Бюллетень Оппозиции, No.34, Май 1933.
Translated by the Trotsky Institute of Japan
ドイツ共産主義の運命の問題が、現在、わが各国支部すべての関心の中心を占めている。ここから判断しうるかぎりでは、同志たちの大多数は、ドイツにおける共産主義の問題を新しい党の問題と考える方に傾いている。しかし、若干の同志たちは、問題のこのような定式の仕方は誤りだと考え、レーニン主義的路線にもとづいた党の「再生」という古いスローガンを維持するべきだと主張する人たちもいる。こうした立場で発言しているのは、たとえば、スペインの2人の同志、グループ全体を代表して発言するドイツの2人の同志、そして1人のロシア人同志である。彼らの反対論が反対派内のかなりの部分の気分を反映しているのは間違いない。あのような重大な転換がわれわれのあいだにさまざまな色合いの意見の相違と対立を生み出さなかったとすれば、それこそ不自然というべきであろう。こうして生まれた意見の対立を事実に即して同志的に討論できないとすれば、われわれは左翼反対派の名に値しない。このような討論は、もっぱら反対派のさらなる成長と内部民主主義の強化に役立つだけである。
反対論の核心そのものについていえば、心理的には理解できるものの、同意はできない。先に挙げた同志たちの誤りは、今日の事実にではなく、昨日の定式にもとづいている点にある。新しい事態の光に照らして定式を訂正し取り替えることができなければならない。
この3年間、われわれの計算は、ドイツ共産党が、大衆からの圧力によって、時機を失せずその政策を転換することができるという予測にもとづいて立てられていた。昨日のわれわれの予測をもっと正確にすれば、次のような言葉で表現することができるだろう。「過去の誤りやジグザグや敗北によってドイツ労働者階級がどの程度弱体化しているか、社会民主党の屈服と結びついたスターリニスト官僚のサボタージュがプロレタリアートのエネルギーをどの程度マヒさせているか、こうしたことについてわれわれはまだ知ることができない」と。われわれは何度も、ファシストの危険の接近そのものがプロレタリアートの隊列を固め、抵抗力を強めるだろうし、それは、ヒトラーがただちに全陣地を占領するのを許さないであろう、という期侍を表明してきた。そしてヒトラーの攻勢がいったん押しとどめられたならば、たとえ彼がすでに権力を手にしていたとしても、労働者のあいだに自信の巨大な波が必ず生み出されていたであろう。そして内乱が開始されれば、今度はそれは、政府の陣営内部とファシスト軍それ自身の内部に分解を引き起こすであろう。敵陣営内部における動揺は、それはそれで、またしてもプロレタリアートの攻撃力を高めるにちがいない、等々。以上が、われわれが蓋然的である、ないし可能である、あるいは少なくとも排除されていないと考えた弁証法的展望であった。だからこそわれわれは、昨日の情勢に含まれていたあらゆる可能性を扱み尽くさなければならなかったのである。それは義務であった。
しかし現在、諸事件によって事実にもとづく検証がすでになされた古い展望を指針とするのは愚かしい。スペインの同志たちは問う、「この数週間で、何ヶ月もの内乱という古い展望が別の展望に取って代わられたというのは本当なのか?」。もちろん本当である。わずか数週間が、あるいはわずか数日が、われわれがあてにしていたあのより有利な展望の可能性を完全に打ち砕いたのだ。ヒトラーは権力の物理的機構を掌握した。彼はどんなわずかな抵抗も受けることなくドイツ共産党の機構を粉砕し、ドイツ労働者から出版手段を奪い、改良主義者に対しては第2インターナショナルからの決別とファシスト体制への屈服を強制した。
情勢の急転換は統一戦線の問題に明白に示されている。現在、ドイツで2つの党の統一戦線を提起することは、間のぬけた教条主義である。社会民主党の機構が、一方で迫り来るファシズムの圧迫と、他方で自党の大衆からの圧力に挟まれていた一時期があった。この時期は利用されなければならなかった。敗北後の今日、社会民主党はヒトラーの長靴をなめ、このことに唯一の救済手段を見ている。2年前、ブライトシャイト(1)は共産党とのブロックによってブルジョアジーを脅す必要があると考えたが、今やウェルズ(2)一派は、共産党のみならず第2インターナショナルとさえこれみよがしに決裂することで頭がいっぱいである。現在、統一戦線を提起することは、共産党中央委員会をこっけいな立場に立たせるだけであり、社会民主党指導部に奉仕するだけである。政治には絶対的な定式というものは存在しない。政治のスローガンは具体的である。すなわち特定の状況に結びついている※。
※原注
上述したことは、もちろん、今日の状況下にあってさえ、工場や地区その他における共産党組織と社会民主党組織との協定や、公式の社会民主党から不可避的に分裂してくる他の左派グループとの協定を妨げるものではない。ドイツの一般労働者、一般の共産党員を含む彼らは、乗っている船が難破してしまった旅人のような気持ちでいる。彼の組織や彼らの新聞、よりよき未来に対する希望はすべてファシズムの波間に沈もうとしている。難破者たちは、現在、新しい船を作る方向に思考が向いておらず、ただ避難所と一切れのパンを求めるのみである。このような大破局のあとでは、士気の阻喪と政治的無関心主義が生じるのは避けられない。しかし、最も忍耐づよく確固とした勇気ある者たちが政治的に目覚めるなら、不可避的に彼らは新しい船を求めるようになるだろう。
ドイツ・プロレタリアートの大衆部分が置かれている現在の状況を特徴づけるうえで、私が最も重要と考えるのは、かつての工場委員会の大多数が一掃され、ナチスの細胞に取って代わられているという報告である。この「改革」はきわめて静かに進行しており、外国の新聞によってさえ報道されていない。だがこれは、新聞の編集局やリープクネヒト・ハウス[ドイツ共産党本部]、国会議員団などの問題ではなく、つまりは、雲の上の問題ではなく、プロレタリアートの生産基盤そのもの、工場の問題なのである。工場委員会の一掃に対し何の抵抗もなかったことは、指導部の裏切りとサボタージュに直面した大衆の意志が極度のマヒ状態に陥っていることを意味している。
この数年間、ドイツ共産党は600万もの票を集めてきた。ところが、共産党は、10万人程度さえも闘争に動員できなかった。党員でさえ中央委員会の呼びかけに応じなかった。この事実だけでも党機構の恐るべき孤立を示している。この孤立は日ごとに深まっていくだろう。大衆はニュアンスの差やささいな問題には関心を持たない。大衆は事態を大づかみに見る。空虚な定式によって大衆の不安をなだめ、明日の勝利に関する大言壮語を振りまき、こうして大衆を破局に追いやった党に対して、大衆は必らず背を向ける。
ドイツ共産党の状況は3月の2、3週間のうちに、「正常で」「平和な」時期の20年間でもそれほどには変わらなかったほど根本的に変化した。一般に帝国主義の時代は大きな転換に満ちた時代である。つまずいて頭を割らないためには、注意深く変化を追うことができなければならない。自らを欺いてはならない。破局の規模を全面的に理解しなければならない。もちろん、感傷的な陰鬱にふけるためではなく、新しい歴史的基盤に立って新しい計画にしたがって長期にわたる粘り強い仕事を開始するためにである。
1914年8月4日と1933年3月5日を比較することには、反対者のほぼすべてが異議を唱えている。周知のように、社会民主党は意図的にプロレタリアートを裏切り、このことによって権力の座に接近した。他方、スターリニストはプロレタリアートを守る「ことができなかった」だけであり、今では彼らは監獄にぶち込まれている。もちろん、この相違はきわめて本質的で、それは偶然ではない。しかし、それでもやはり、その政治的重要性を誇張してはならない。まず第1に、社会民主党多数派は1914年においてさえ、出世しようと望んだわけではなく、プロレタリア組織を「救おう」としたのである。これはちょうどドイツ共産党が、モスクワ官僚の指令に盲目的に従って、何よりも自分の機構のことを心配したのと同じである。第2に、1914年に社会民主党は政府の地位に接近したのに対し、1933年には社会民主党は、いっそうその卑劣さと堕落を深めていたにもかかわらず、監獄に接近した。この党は結局壊滅するにちがいないし、彼らのマッティオッティ(3)がいることは疑いえない。しかしだからといって、改良主義政策に対するわれわれの一般的評価が変わるだろうか?
われわれがドイツ共産党指導部を断罪するのは、彼らの「愚かさ」や「無能さ」(何人かの同志たちはそういう言い方をしているが、これはまったく間違っている)のゆえではなく、官僚的中間主義のゆえである。問題になっているのは、特定の社会階層、まず何よりもソ連国内のそれに基礎を置いた一定の政治的方向性であり、この方向性は自らの政策をこの層の要求に合わせている。最近の諸事件にいたるまで、ドイツ共産党内部で、スターリニスト官僚の利益と階級闘争の論理のどちらの要因が優位を占めるかという問題は、まだはっきりとしていなかった。今日、この問題は完全に決着がついている。これほど巨大な意義をもった諸事件ですらドイツ共産党の路線を訂正しえなかったとすれば、官僚的中間主義はまったく絶望的である。ここから新党の必要性が出てくるのである。
しかし何といっても問題は国際的レベルで解決されるのだ!――こう異議を唱えて反対者は、正しい歴史的な思想を超歴史的な抽象論に変えてしまう。プロレタリアートの勝利の問題も――その壊滅の問題だけでなく――国際的レベルで解決される。しかしこのことは、1917年に勝利を獲得したロシアのプロレタリアートが、なお他の国々における勝利を期待するのを妨げるものではない。逆の過程もまた同じくらい不均等に発展しうる。ドイツにおいて公式の共産党が政治的に解体されている一方で、他の国、とりわけソ連邦では、党はいまだ決定的なテストを受けていない。歴史的諸事件はコミンテルンのチェス盤とは無関係にそれ自体の論理にしたがって展開する。
しかし、ドイツの敗北に責任があるのはやはりコミンテルンではないのか? まったくその通りである。しかしながら、歴史の法廷においては、普通のブルジョア法廷におけると同じように、罰を受けるのは本来の責任者ではなく、捕まった者である。現在、悲しいかな、歴史のやっとこに挟まれているのはドイツ共産党の機構である。まったくもって、罰の配分は「不公平」である。しかし、一般に公正さは歴史の裁判の属性ではない。しかもその裁判には控訴もない。
だが、歴史の法廷を中傷しないようにしよう。それは少なくともブルジョア法廷よりはずっと真剣である! ドイツ共産党の解体は一つの段階にすぎない。ここで事態がとどまることはない。コミンテルン他の支部がドイツの教訓を学ぶとすれば、彼らは歴史によってしかるべき情状酌量を受けるだろう。だがもし彼らが教訓を学ばないとすれば、彼らは死を運命づけられている。このように、歴史の歩みは、他の支部に対しまだ熟考する時間を与えている。われわれ左翼反対派は、この発展過程の唯一の解釈者である。われわれが第3インターナショナルと決別しないのはこのためである。
だが、コミンテルンと決別せずして、どうしてドイツで新党を建設することができるのか?――歴史的過程の諸矛盾をどうしても規約の枠内に押し込めようとする人々はこのように反論する。問題のこの側面はほとんど何の重要性も持たないと言うべきである。何といっても、われわれがコミンテルンから除名され、自らをその分派であると宣言した時でさえ、規約の問題が大きな重要性を持ったことはなかったからである。われわれにとって問題は政治的路線にあるのであって、ピャトニツキー(4)の党員名簿にあるのではない。コミンテルンのどこかの支部がより健全な原理の上に自らを再建することに成功すれば、われわれはもちろんこの陣地をコミンテルン全体の再建を促進する出発点にするだろう。その時には、規約との好ましい関係も復活することだろう。しかし、スターリン官僚制がソ連邦を崩壊させることになれば、誰も規約のことなど想起しないだろう――その場合には、第4インターナショナルを建設しなければならないだろう。
だが、ドイツの問題に戻ろう。3月の最初の日々、ドイツ共産党はまだ中央集権的機構と何十種類もの新聞、何千という細胞、何万という党員、何百万という票を持っていた。われわれは自らをこの党の一部と宣言し、このことによって外部世界の前に全体としての党に対する責任を引き受けた。もちろん、これはスターリニストの機構のためにではなく、それと結びついている下部の細胞のためであった。手遅れにならないうちに、すなわち破局にいたる前に、彼らの助けをかりて党指導部を刷新することができると考えたからである。最後通牒主義と非合法体制でがんじがらめにされた公式の党機構がスターリンの手先に完全に転換せざるをえなくなっている今日、下部大衆を通じてこれに影響を及ぼすことなどありえない。機構は完全に下部から切断されている。
たしかに、全世界のスターリニストの出版物はドイツ共産党の地下での「復活」について語っている(非合法の『ローテ・ファーネ』、宣伝ビラ、等々)。一時的な茫然自失状態ののちに、地方の党組織が活動しはじめることは最初からわかっていた。大量の専従職員と豊富な資金を有しているこのような大政党の機構が、非合法ないし半非合法に、一定量の文献を発行できること――これは何も驚くべきことではない。だが、繰り返して言わなければならないが、ドイツ共産党には、大衆と結合した非合法機関は存在しない。存在するのは、ヒトラーの意志によって非合法状態に追いやられた昔の組織の残存物である。この2つはまったく同じことではない。ドイツ共産党が今日まだ活動しているとしても、それはファシズムがその死刑執行人としての仕事に着手したばかりであり、反動がまだ党内に十分深く浸透していないからにすぎない。しかし、この2つの過程は今や日程にのぼっている。両者は平行して進行し、互いに助長し、相互に押し進めあう。
非合法の共産党組織を建設するためには、破局の規模を理解し明確な展望と自らの旗に対する確信を持った人々を特別に選抜しなければならない。このような選抜は、過去に対する容赦のない批判にもとづく以外に実行不可能である。スターリニストたちの組織の崩壊は、それ自体としては不可避であり、それは、非合法の革命党を創設するための諸要素を解放し、その基盤を準備するだろう。
ドイツのある同志は次のように反論する――政治的には、もちろん党は屍である。だが組織的には、それは生きている、と。この定式は、わが反対者の立場の誤りを最もよく暴露している。政治的に死んでいる党が「生きた」組織を持つことはありえない。なぜなら組織とは政治の手段にすぎないからである。党が死んだのならば、すべての労働者に対し、必要なすべての結論とともに、この診断を公然と明らかにしなければならない。旧党の遺産のどの部分が新しい党に移されるのか、この移転はどのような形態をとるのか、新党の発展はどのような段階を経るのか、新党の建設者と旧党の残存物との関係はどうなるのか――以上のことは、状況全体の発展段階に応じて明らかにされるべき非常に重要な問題である。だが、その回答が偽りや幻想でないためには、われわれは歴史によって完膚なきまでに証明された事実から出発しなければならない。すなわち、スターリニスト党は政治的に死んだという事実である。あいまいさや逃げ口上は許されない。それはわれわれ自身を道から踏みはずさせるだけである。
同じ同志が書いている。「改革のスローガンは無意味である。今では何をいかにして改革すべきかがわからないからである。しかしわれわれは新党のスローガンにも反対である。旧党の命運が完全に尽きたとは考えないからである」。この筆者は慧眼で洞察力のある同志であるにもかかわらず、これでは矛盾だらけである。党が「政治的に死んだ」のであれば、それはその命運が尽きたことを意味する。機構はこれを生き返らせるものではない。経験が物語っているように、機構は生者を殺せても死者をよみがえらせることはない。旧党の改革のスローガンが「無意味」であるとすれば、残るは新党のスローガンだけである。
反対者たちは主として力関係の問題におびえている。われわれボリシェヴィキ=レーニン主義者は、今なおわれわれの何十倍もの文献を発行し何千倍もの資金を使うことのできる大きな組織が解体されたと宣言し、他方では小さな左翼反対派の名前で新しい党を「宣言」するのか、というわけだ。このような問題の立て方は、機構の物神崇拝にどっぷりとつかることである。昨日と同じく、今日のわれわれの主要な課題はカードルを育成することである。しかし、これは単なる組織上の問題ではなく、政治的な問題である。力―ドルは明確な展望を基礎にして形成される。今さら党改革のスローガンを改めて持ち出すのは、どう見てもユートピア的な目標を掲げて、その結果われわれ自身のカードルをますます深刻な幻滅に追いやることを意味する。このような路線をとれば、左翼反対派は、解体しつづける党の付属物と成り下がり、その党とともに舞台から消え去ることになるだけであろう。
反対者の1人は、旧党が解体されたことに同意し、新党の結成が不可避であることさえ基本的に認めながらも、その課題を先送りしようと努力し、ある種のモラトリアムを求めようとしている。彼の議論は次のようなものである。実際、批判的精神を持っていてわれわれの主張に耳を傾ける最も貴重な党員はわずか10パーセントにすぎない。残りの90パーセントは、主として新参者であり、まだ党の誤りをまったく理解していない。したがって、われわれはこの90パーセントに対して、何が起こったかを順を追って説明し、そのあとではじめて新党建設を開始すべきである、と。これは、抽象的宣伝主義のアプローチであって、政治的アプローチではない。あるいは哲学的に言えば、合理論的アプローチであって、弁証法的アプローチではない。
もちろん、この90%の若い共産党員を大規模な学校に入れて、全面的な教育を施せるとすれば、それは素晴らしいことである。だが残念ながら、この90パーセントはヒトラーの学校に囚われたのだ。彼らは今日すでに党から半分引き裂かれているだけでなく、一般に政治からも引き離されている。その一部はファシズムの陣営に移行し、より多くの部分は無関心主義に陥るだろう。この過程は、次の数週間、数ヵ月間のうちに始まる。なぜなら、反革命は、革命と同じく急速に展開するからである。党の解体、大衆の離反、党機構の政治的不毛性といったことに影響されて、旧党の最良の分子はみな、自らにも他人にも問うだろう。何をなすべきか、と。こうした状況のもとで、「改革」のスローガンを持ち出すことは、彼らを嘲笑することを意味するだろう。
最大級の転換の時機にあっては、われわれは、党員大衆の急速に変化する気分にではなく、政治情勢の中で進行する客観的変化にもとづかなければならない。今日まだ官僚との決別を恐れているこれら共産党員の多くは、明日になれば、われわれに対し、自分たちをだましたとして、あるいは古い党の虚構を守り続けたとして、非難するであろう。われわれから離れた彼らは、ブランドラー派やアナーキストのところへ赴くだろう。聞くところによれば、ブランドラー派はすでに新党のスローガンを提起しているらしい。これは、彼らが日和見主義者であるとはいえ政治家であることを示している。もしわれわれが、その革命的政綱にもかかわらず、教条主義者としてふるまうならば、これら日和見主義的政治家たちによってわきに押しのけられてしまうであろう。
当面する時期、実践的な面で、ドイツにおけるスターリニスト組織とわれわれとの関係はどうなるだろうか? 当然ながら、同志たちが最も関心を持つのはこの問題である。反対者たちはたずねる、旧党の地方組織とも手を切らなければならないのか、と。いや、それは愚かしいことだろう。あらゆる労働者組織の中から、とりわけ旧党の細胞から(それらが存在するかぎりにおいてだが)、革命家を集める必要がある。第3インターナショナルが第2インターナショナルとの完全な分裂を宣言したときも、このことは共産主義者がかなり長期にわたって社会民主主義諸党の内部で活動するのを妨げなかったばかりか、フランスの党の多数派をその機関紙『ユマニテ』とともに獲得するのを可能にさえした。新党に向かうわれわれの路線はなおのこと、旧党の細胞内においてわれわれが活動を継続するのを妨げることはありえないし、妨げてはならない。
だが、われわれに次のように言って反論する人がいる。新党のスローガンそのものが下部の共産党員をわれわれに対立させる、と。もちろん、このことが理由で、衝突が生じることはある。しかしこれまでも「改革」のスローガンにもかかわらず、そういうことはあった。とはいえ、旧党の活動的細胞の生活においては、われわれの新たな展望に関する問題以上に、彼ら自身の中央委員会との関係に多くの時間が割かれるであろうことは疑いない。この点で、衝突がますます先鋭化すると考えられる。中央委員会はスターリンと自己自身を防衛する。これが彼らの主たる任務である。労働者党員は誠実な回答と明確な展望を要求する。われわれが改革の立場をとっていたとき、規律に違反するようなことを呼びかけはしなかった。今や状況は根本的に変化した。われわれは、無価値な公式文献の配布を拒否することや、機構のボイコット、中央委員会との決裂などを提案するだろう。もちろん、われわれは、個々の細胞の水準や状況全体を考慮しつつ、如才なく賢明にこれを行なうだろう。しかしわれわれの基本路線は新党の路線である。そして、このような路線にもかかわらず、革命的な党細胞とわれわれとの関係は、非合法という新しい状況のもとで、われわれが単なる分派であることを望んでいたこれまでの時期よりも比較にならないくらい友好的になるだろう。このことは疑いない。
さらに、問題がドイツ共産党にのみかかわるものではないことを忘れてはならない。社会民主党の政治的崩壊は、その中から新しい「独立」党が登場する可能性を著しく高めている。スターリニスト機構がこの左翼社会民主主義者を自分の側にひきつける、あるいはさらに進んで彼らに革命的影響を及ぼすことが可能であると、たとえ一瞬でも考えることができるだろうか? およそありえないことである。スターリニストは、そのすべての過去――彼らはこれを否定することができないし、そのつもりもない――と同様、その最後通牒主義ゆえに、ウェルスのために畑のカカシの役割を果すことで、社会民主党内反対派の発展を妨げるだけである。この観点からしても、新党の展望は否応なく日程にのぼってくるだろう。
政治的・論理的な反対論の多くも、実際にはその背後に言外のセンチメンタルな配慮を隠している。スターリニスト機構はファシズムの攻撃のもとにある。自己犠牲的で献身的な多数の共産党員たちが力をふりしぼって組織を守ろうとしている――このような状況のもとで戦闘員の「士気を阻喪」させてよいものだろうか、と。結局のところ、このような議論は、ロシアの詩人[プーシキン]の次のような短い章句に総括される。「自分を高めてくれる幻想の方が、苦い真実の暗がりよりもずっと大切である」。だが、プーシキン(5)の哲学はマルクス主義の哲学ではない。今世紀のはじめ、われわれが小ブルジョア的幻想と社会革命党の冒険主義に反対して闘っていた時、ナロードニキ陣営のみならず、われわれの隊列の中にいた多くの善良な人々も、憤慨してレーニンの『イスクラ』と決別した。テロリストたちが次々と絞首刑にされていたまさにその時に、『イスクラ』が容赦なくテロを批判したからであった。われわれは答えた。われわれの批判の目的は、革命的英雄たちを個人的テロリズムから引き離し、大衆闘争の道に導くことにあるのだ、と。マヌイリスキー(6)=スターリンの付属物であるあの非合法の機構は、新しい災厄以外の何ものもドイツ・プロレタリアートにもたらしえない。このことを公然とただちに言わなければならない――何百、何千という革命家たちがその力を無駄に浪費してしまわないように。
プリンキポ、1933年4月9日
『反対派ブレティン』第34号
『トロツキー著作集(1932-33)』下(柘植書房)より
訳注
(1)ブライトシャイト、ルドルフ(1876-1945)……ドイツの革命家、独立社会民主党の創設者の一人。1918〜1919年、プロイセンの内務大臣。1920年からドイツ国会議員。1922年に社会民主党に再加盟。ヒトラーの権力掌握後にフランスに亡命。ヴィシー政府によって逮捕され、ゲシュタポに引き渡され、ブーヘンワルト収容所で死亡。
(2)ウェルス、オットー(1873-1939)……ドイツ社会民主党右派。第1次大戦中は排外主義者。ベルリンの軍事責任者としてドイツ革命を弾圧。1933年まで、ドイツ社会民主党国会議員団の指導者。共産党との反ファシズム統一戦線を拒否し、ファシズムに対する妥協政策をとりつづける。
(3)マッティオッティ、ジアコモ(1885-1924)……イタリアの政治家。イタリア統一社会党の書記、議員。1924年、ファシストが大勝した後の国会で、ファシストの不正選挙とテロリズムを国会で糾弾。それが原因で、ムッソリーニの手先に暗殺。この暗殺事件をきっかけに、イタリア中に反ファシスト運動が巻き起こった。
(4)ピャトニツキー、ヨシフ(1882-1938)……ロシアの革命家、古参ボリシェヴィキ。1922-31年、コミンテルンの書記。実務上の仕事を遂行する典型的なスターリニスト官僚として活躍。大粛清期に見世物裁判の犠牲者に。
(5)プーシキン、アレクサンドル(1799-1837)……ロシアの詩人・作家。ロシアの専制政治を批判し、革命運動に共感を示した。1917年の「自由」、18年の「農村」で専制政治を批判して、ペテルブルクを追放。1923〜31年に自伝的物語史『エフゲニー・オネーギン』を執筆。デカブリストの友人。晩年は歴史小説に関心を示し、『プガチョフの反乱』『スペードの女王』『大尉の娘』などを執筆。ロシア近代文学の父。
(6)マヌイリスキー、ドミートリー(1883-1959)……ウクライナ出身の革命家、古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1903年以来のボリシェヴィキ。1922年からコミンテルンの仕事に従事。1928年から43年までコミンテルンの書記。1931年から39年まではコミンテルンの唯一の書記。「第三期」政策を積極的に推進。スターリンの死後に失脚。キエフで死去。
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