ドイツの決議案に答えて

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解説】この論文は、ドイツにおける新党結成に向けた討論の一環として書かれたものである。この時点ではまだ新しいインターナショナルの話は出されておらず、ただドイツにおける新しい共産党ということが言われていたにすぎない。

 本稿の初訳は『トロツキー著作集 1932-33』上(柘植書房)だが、今回アップするにあたって、パスファインダー社の英語版『トロツキー著作集 1932-33』の英語をもとに点検修正しておいた。

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 決議案は、残念ながら日付がないのだが、いくつかの意見の相違(現実の相違と想像上の相違、すなわち誤解にもとづくもの)を解消したけれども、同時にそれ以外の諸問題については言及しないままに終わっている。この批評の目的は、今日における意見の相違の真の性格をできるだけ厳密に明らかにすることにある。

 1、決議は正しくも最初に次のように述べている。「ドイツ共産党の崩壊は、この党の改革というスローガンからいっさいの内容を奪ってしまった」。言いかえれば、この党は再生不可能である、と。言うまでもなく、われわれのすべてが3月5日まで擁護してきた立場の放棄を意味するこの宣言は、われわれの全活動にとって巨大な意義を持っている。

 決議の第3節は、「事態の発展は新しい党の方向へと向かっている」と述べている。このテーゼは、その前の部分に書かれているテーゼを完結させ、そうすることによって、意見の相違の範囲をきわめて限定されたものにする。ドイツ支部の指導的同志たちは、ドイツにおけるスターリニスト党は政治的に清算され、ドイツ共産党は、スターリニスト組織の外部で新しい党として再編成されるだろうと認識しているのである。

 2、だが、第3節からもっと詳しく引用してみよう。「事態の発展は新しい党の方向に向かっているが、新党結成のスローガンはまだ成熟していないし、誤りであろう」。この文章は、「スローガン」という用語が次の2通りの内容に受け取られかねない、と言いたいのである。第1にそれは、公式の党との関係でわれわれの新しい立場を公然と宣言することを意味し、第2に、現存勢力によって新党を即時結成することの訴えを意味する、と。第2の解釈に関するかぎり、それは最も滑稽な冒険主義となろう。われわれの間でそんなことを提案している者は誰もいない。討論の開始にあたって、たとえそのような誤解が生じる可能性があったとしても、ここ数週間の意見の交換は、その点を完全に明確にした。問題になっているのは、新党の結成を官僚的に命令することではなく、古い党に対するわれわれの立場と新しい活動の展望を公然と宣言することである。この転換の意義を小さくしたり、おおい隠したりすることは許されない。われわれの路線は、新党のためのプロパガンダを行ない、新党を準備することである。この転換について明確に公然と語る必要がある。この点でわれわれは一致しているか? 決議案は、必要な明確さを欠いている。

 3、決議は、正しい出発点に立ちながらも、その後、多くの矛盾に陥り、その基本的立場をあいまいにし、実践的指示を何ら提起していない。決議は次のように述べている。「新党」のスローガンは、すべての批判的あるいは半ば批判的な共産党員を反発させることになる、と。なぜか? それは明らかに、こうした党員が古い党の改革をまだ信じているからである。これらの献身的ではあるが近視眼的な革命家たちは、巨大な犠牲を払ってもスターリニスト党を非合法的に再建しようと試みるであろうし、当然にも「ドイツ共産党の改革の展望はもはやいかなる内容も持たない」、「事態の発展は新しい党の方向に向かっている」というわれわれの主張に敵対的な姿勢を見せるだろう。だが、われわれがドイツ[左翼反対派]の指導部との間で一致点を見い出すのは、まさに以上の2つのテーゼについてなのである。では、それに関してわれわれは何をするべきなのか? 内部改革を支持している人々を反発させないために、以上の考えを声に出して表明せずに自分の胸にしまい続けるのか? そのような立場は、およそマルクス主義者にふさわしいものではないし、私もドイツの同志たちがそう考えているとは思わない。内部改革をまだ夢見ている人々も、経験による打撃の中で、われわれの正しさを確信するようになっていくだろう。われわれが自らの立場をより強固に、より迅速に確立すればするほど、われわれの政治的権威はそれだけ大きくなるであろう。

 4、決議案は、カードル形成の問題を提起している。このスローガンはそれ自体まったく申し分のないものである。だが、何の目的のためのカードルか、という問題に答えることもまた必要である。古い党の内部改革のためか、それとも新党の建設のためか、と。もしわれわれが外交的沈黙のコースを取るとすれば、スターリニストがまったく同じように回答を要求するだろうし、われわれは、末端の共産党員の前に、自分たち用と外部用の2つの教義をもつ神官のように振舞うことになろう。明らかに、決議の起草者がこのような2枚舌を望むことはありえないし、また望んではいない。

 5、[ドイツ支部の]他の諸文章と同様にこの決議案でも、新党の展望は正しいが、先進的労働者は「心理的に」その準備ができていない、という考えがしばしば繰り返されている。問題になっているのが新党をただちに結成することであるとすれば、労働者は、「心理的に」だけでなく、政治的、理論的にも準備ができていない。必要なカードルは不足しており、既存のカードルは大衆を獲得していない。われわれ自身の支持者および同調者や友人でさえも展望の急転換に対して「心理的」に準備されていないということ以外に、「心理」について言及する意味が理解できない。決議の起草者は明らかに2つの問題を混同している。すなわち、1つは新しい共産党の結成にむけてプロレタリアートの前衛を準備するという問題であり、もう1つは、旧党と新党の問題に関するわれわれ自身の路線の大胆で決定的な転換に向けてわれわれの組織自身を準備するという問題である。ここでわれわれが問題にしているのは、後者の課題だけである。それは、何らかの「心理」から、すなわちプロレタリアートの前衛のさまざまな層の意識状態から導き出されるものではなく、客観的諸条件、すなわちファシズムの勝利およびスターリニストの政策とその党の瓦解から導き出されるのである。労働者の意識状態は今後も変化しうる。とりわけ、この歴史的事実への理解を今後たえず明確にしていくという意味において。だが、左翼反対派の政治的態度(展望)は、その出発点において、動揺する心理的感情ではなく、情勢の客観的転換にもとづかなければならない。

 6、新党のスローガンを、古い党の分解から生まれた諸勢力(ブランドラー派、社会主義労働者党、レーニンブント)との機械的統一として解釈することは、的外れであるばかりでなく、われわれの過去全体を嘲笑するものとなろう。あれこれのグループとの関係では、われわれは、ともに一定の歩みを、情勢の命ずる歩みを踏み出すだろうと言明しうるだけである。だから、たとえば反ファシスト大会で、われわれは、ミュンツェンベルク(1)とバルビュス(2)やヒンズー・ブルジョアジー(3)とのブロックに反対する、スネーフリート(4)・グループや社会主義労働者党などとの協定を追求するべきである。この種の戦術的協定と新党問題とを混同するいかなる理由もありえない。ただ一つのことは言える。正しい戦略的路線にもとづく巧みな戦術的協定は、新しい共産党に向けたカードルの形成過程を促進することができるということである。

 7、ドイツの諸文書では、「新党」のスローガンが「新たなツィンメルワルト」のスローガンと比較されている。この比較を理解することはまったく不可能である。ツィンメルワルトは、マルクス主義者と中間主義者とのあいだの一時的ブロックを表現するものであった。前者は、第3インターナショナルというスローガンのもとに行進していた。後者は第2インターナショナルの改革というスローガンのもとに行進していた。たしかに、ツィンメルワルトの旗「一般」のもとに自らの逡巡を隠すことによって、「第2インターナショナルか第3インターナショナルか」という問題に答えることを回避したツィンメルワルト参加者もいた。

 このときの協定はエピソードでしかないことが明らかとなったが、これに対して第3インターナショナルというスローガンは、新しい時代全体の革命的政策を決定した。この点では現在との類似点がある。その場合、何らかの協定、たとえば社会主義労働者党との協定は、新党に向けた途上での一つのエピソード(ツィンメルワルトよりもはるかに重要性を持たないが)にはなりうるだろう。しかしながら、これは新党問題とは別問題なのである。

 8、ところで、社会主義労働者党の問題は今日、どのように提起されているか? 自らの生存のための闘争において、社会主義労働者党の指導者たちは、いかなる綱領的問題にも答えることなく、われわれがなおドイツ共産党について幻想をかき立てていると言いはることによって、左翼反対派から自らを切り離した。だがこの根本的論拠は、その後、事態の推移によって一掃された。社会主義労働者党への呼びかけとして、われわれは次のように語る。「3月5日以後、われわれもまた新党の結成を問題にしている。だが、党は綱領にもとづいて作られる。諸君の綱領は何か?」と。われわれは、自らの新しい立場の利点を利用しなければならない。もし社会主義労働者党の指導者たちが、今はまだ綱領作成の途上にあると答えるならば、われわれは、彼らの討論に参加すること公然と提起し、さらには共同の理論討論誌の発行を提案することさえできる。もちろん、われわれの組織的独立性とわれわれ自身の政治誌を完全に保持したうえでのことである。だが、社会主義労働者党の問題は明らかに決定的な問題でないし、われわれはそれを他の問題に優先させるつもりもない。ただ、重大ではあるが副次的な問題として、他の諸問題と並んで提起するだけである。

 まとめよう。討論を通じてすでに次のような結果がもたらされている。すなわち、多くの明白な誤解が明らかになり、それによって、意見の相違の範囲が狭められた。にもかかわらず、すでに述べた諸問題に対するドイツの指導的同志たちからの明確ではっきりした回答を得るまでは、意見の相違が克服されたと言うことは尚早であろう。われわれは、新党の展望を正式に確認しなければならないだけでなく、さらにこの展望から必要な実践的結論を引き出し、一致協力してこの結論を実現するための闘争をしなければならない。

1933年4月21日

『トロツキー著作集 1932-33』(パスファインダー社)所収

『トロツキー著作集 1932-33』上(柘植書房)より

  訳注

(1)ミュンツェンベルク、ウイリー(1889-1940)……ドイツのスターリニストで、共産主義青年インターナショナルの創始者の一人。コミンテルンの資金を用いて出版社、日刊紙、雑誌、映画会社などを設立。ナチスの政権掌握後、フランスに亡命。人民戦線をめぐって意見が分かれ、1937年にコミンテルンから決別。後に、不可解な状況の中で暗殺される。

(2)バルビュス、アンリ(1873-1935)……フランスの詩人・作家。人道主義的立場からしだいに社会主義的立場に移行し、共産党に入党。雑誌『クラルテ』を創刊。1930年代にはスターリニズムの主要な文学的弁護者となった。1935年に訪ソ中に死去。

(3)ヒンズー・ブルジョアジー……インド国民会議議長のパテール(1877-1950)のこと。パテールはガンディーとともにインド独立運動を指導し、1947年、独立後のネルー政府の中で内相になった。

(4)スネーフリート、ヘンドリク(1883-1942)……オランダの革命家、インドネシア共産主義運動の創設者。1902年にオランダ社会民主党に。1913年、インドネシアに渡り、マルクス主義の普及に努める。1914年、インド社会民主同盟(インドネシア共産党の前進)を結成。イスラム同盟内に共産主義の影響を広める。1918年に追放。第2回コミンテルン世界大会に参加し、アジアの運動の重要性を訴え、その責任者として中国に渡り、中国共産党の創設にも貢献。1923年、オランダに帰国。投獄中の1933年に国会議員に選出。革命的社会主義労働者党(RSAP)を創設。1933年、4者宣言に署名。その後、革命的社会主義労働者党とともに国際共産主義者同盟に加入。1938年に第4インターナショナルの運動から離れ、第2次大戦中にナチスによって逮捕され処刑。


  

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