ドイツ・プロレタリアートの悲劇
ドイツ労働者階級は再び立ちあがるだろう

だがスターリニズムは断じて否!
トロツキー/訳 西島栄

【解説】ドイツにおいて、ヒトラーがドイツ労働者からの決定的な闘争を経ることなく権力を掌握し、長年にわたってヨーロッパの前衛としての役割を果たしてきたドイツ労働者階級の組織と運動を粉砕したことは、まさにトロツキーがここで描き出しているように「歴史的悲劇」であった。トロツキーは、1930年以来、ヒトラーと闘うための方策を提起しつづけ、反ファシズム統一戦線を訴えつづけたが、それは結局、スターリニストによる「社会ファシズム」論的極左主義と社会民主党官僚の日和見主義によって、実現されることなく終わった。この2つの官僚組織によってほぼ完全に制圧されていたドイツ・プロレタリアートは、一部を除いて、最後の最後まで立ち上がらなかった。

 トロツキーは、ドイツにおけるこの悲劇をきっかけに、既存の共産党の改良・改革という路線から、新党の結成という路線へ、そして最終的には第3インターナショナルから決別して、新しいインターナショナル=第4インターナショナルの道へと路線を大転換することになる。

 この論文についてはすでに英語からの翻訳、フランス語からの翻訳など複数のものがあるが、いずれも重訳である。ここでは、『反対派ブレティン』所収のロシア語原文から翻訳し直している。

Л.Троцкий, Трагедия немецкого пролетариата. Немецкие рабочие поднимутся, сталинизм − никогда!, Бюллетень Оппозиции, No.34, Май 1933.

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 その生産上の役割、その社会的重み、その組織力においてヨーロッパ最強のプロレタリアートは、ヒトラーの政権獲得および労働者組織に対する最初の凶暴な攻撃に際して、いかなる抵抗も見せなかった。これこそ、今後の戦略的計算において出発点としなければならない事実である。

 ドイツの今後の発展がイタリアの道をたどり、ヒトラーが重大な抵抗を受けることなく一歩一歩その支配を強化し、ドイツ・ファシズムが長期間にわたって支配を維持するであろうと信じるのは、もちろんナンセンスである。いや、国家社会主義の今後の運命は、抽象的な歴史的アナロジーからではなく、ドイツおよび国際的な諸条件の分析から引き出されなければならない。しかし、一つのことだけは現在すでに明白である。すなわち、1930年9月以来、われわれはドイツにおいては短い射程をとることをコミンテルンに要求してきたが、今や、長い射程の政策にもとづいて足場を立て直さなければならない、ということである。ドイツ・プロレタリアートの前衛は、決定的闘争に突入することが可能になる前に、新たに方向性を設定しなおさなければならない。すなわち、何が起こったかを明確に理解し、重大な歴史的敗北の責任を分かち合い、新しい道をとり、それによって自信を取り戻さなければならない。

 社会民主主義の犯罪的役割は、もはや説明を要しない。コミンテルンが14年前に創立されたのは、まさに社会民主主義の士気解体的影響からプロレタリアートを引き離すためであった。しかしながら、今日に至るまでこのことに成功していないとすれば、そしてドイツ・プロレタリアートが、最大の歴史的試練に際して、無力で、武装解除され、麻痺させられていたとすれば、その直接の責任は、レーニン死後のコミンテルン指導部にある。これが、ただちに引き出さなければならない最初の結論である。

 左翼反対派は、スターリニスト官僚の背信的な打撃にもかかわらず、公式の党に対する忠誠を最後まで保持した。ボリシェヴィキ=レーニン主義者は現在、他のすべての共産主義組織とその運命をともにしている。われわれのカードルは逮捕され、われわれの出版物は発禁にされ、文書類は押収された。ヒトラーは、ロシア語で発行されている『反対派ブレティン』さえも大急ぎで発行停止にした。しかし、ボリシェヴィキ=レーニン主義者がすべてのプロレタリア前衛とともに、ファシズムの最初の本格的な勝利の結果を引き受けるとしても、彼らは、コミンテルンの公式政策に対するどんなわずかな責任をも、自らに引き受けることはできないし、そうするつもりもない。

 1923年以来、つまり、左翼反対派に対する闘争の当初より、スターリニスト指導部は、反対側からではあるが、社会民主主義がドイツ・プロレタリアートの道を誤らせ混乱させ弱らせるのを、全力を挙げて助けてきた。状況が大胆な革命的攻勢を命じていたときに、労働者を抑制しブレーキをかけた。革命的情勢がすでに通り過ぎたときに、その接近を宣言して、小ブルジョアジー出身の空論家やおしゃべり屋と同盟を結び、統一戦線政策の名のもとに社会民主主義の後を追って無力によろよろ歩いた。政治的引き潮と共産党の弱体化という状況において、「第三期」と街頭占拠の闘争を宣言し、真剣な闘争を、飛び跳ねや冒険やお祭り騒ぎにすりかえ、共産党員を大衆的労働組合から孤立させ、社会民主主義とファシズムとを同一視し、国家社会主義の徒党が襲撃をかけているときに、大衆的労働者組織との統一戦線を拒否し、地域での防衛的統一戦線結成のいかなるイニシアチブもサボタージュした。それと同時に、現実の力関係に関して労働者を系統的にあざむき、事実を歪曲し、味方を敵として描き、敵を味方として描き出し、党の喉もとをますますきつく締めあげて、もう自由に呼吸することも、話すことも、考えることもできなくしてしまった。

 ファシズムの問題を論じた膨大な文書からドイツ共産党の公式指導者テールマンの演説を取り上げれば十分だろう。彼は、1931年4月のコミンテルン執行委員会総会において、「悲観論者」、すなわち、先を見通すことのできる人々のことを、次のような言葉で弾劾した。

「われわれは、パニック的気分によって大衆に道を誤らせるようなことはなかった。……われわれは、9月14日(1930年)(1)がある意味ではヒトラー最良の日であり、その後に続くのは、良い日ではなく、悪い日であることを、冷静にきっぱりと明らかにした。われわれがこの党の発展に与えた評価の正しさは、その後の事態によって裏づけられた。……現在、ファシストにはもはや笑うべき理由はない」。

 テールマンは同じ演説の中で、社会民主党が独自の防衛隊を創設したことに触れ、この防衛隊が、国家社会主義の突撃隊と何ら異なるところはなく、両者とも共産党を破壊する準備をしていると断言した。

 テールマンは現在、逮捕されている。勝ちほこった反動を前にして、ボリシェヴィキ=レーニン主義者は、テールマンと同じ戦列に立っている。しかし、テールマンの政策はスターリンの政策であり、すなわち、コミンテルンの公式の政策である。まさにこの政策こそが、危機の瞬間に党を完全な士気阻喪状態におとしいれた原因である。この危機の瞬間に、指導者たちは度を失い、考える習慣をなくした党員たちは虚脱状態に陥り、最も重要な歴史的陣地を戦わずして明け渡したのである。偽りの政治理論は、それ自身のうち、因果応報の罰を宿している。機構の力と執念とは、ただ破局の規模を増大させるのみである。

 これほどの短期間のうちに、明け渡すことのできるものすべてを敵に明け渡したスターリニストたちは、痙攣的な行動によって、過去を修正しようと試みている。けれども、このことは、彼らによって犯された犯罪の全連鎖をよりはっきりと浮き立たせるだけである。共産党の機関紙が圧殺され、党機関が破壊され、リープクネヒト会館(2)の上にファシズムの血ぬられたぼろきれが罰せられもせずに翻っている現在、コミンテルン執行委員会は、下からの統一戦線だけでなく、上からの統一戦線の道をもたどろうとしている。しかし、これまでのすべてのジグザグよりも急激なこの新しいジグザグは、執行委員会自体の判断にもとづいて遂行されているのではない。スターリニスト官僚は、イニシアチブを第2インターナショナルに委ねた。第2インターナショナルは、今まで死ぬほど恐れていた統一戦線の武器を、その手中に収めることにまんまと成功した。その場合の政治的利益のいっさいは――そもそもパニック的な退却が行なわれているもとで政治的利益を云々することができるならばだが――、改良主義の側に帰している。正面からの問いかけに答えることを余儀なくされたスターリニスト官僚は、最悪の道を選んだ。彼らは、2つのインターナショナルの協定を拒みもしないが、受け入れもしない。つまり、隠れんぼ遊びをしているのだ。彼らは、世界プロレタリアートの前で、第2インターナショナルの指導者たち――すなわち、ブルジョアジーのまごうことなき手先であり、ファシズムへの道を切り開いたヒンデンブルクへの投票者たち――とあえて面と向かうことさえできないほどに、自信を喪失してしまったのである。

 3月5日に、コミンテルン執行委員会が行なった特別の呼びかけ(「全世界の労働者へ」)の中で、スターリニストは、主要な敵としての「社会ファシズム」については、一言も語っていない。彼らはもう、「社会民主主義とファシズムは対立物ではなく双生児である」とする彼らの指導者の偉大な発見について、触れようとはしない。彼らはもはや、ファシズムと闘争するためには、あらかじめ社会民主主義を壊滅させなければならないなどと主張しない。彼らは、上からの統一戦線は許されないという主張についておくびにも出さない。反対に、彼らは、スターリニスト官僚が、労働者にとっても自分自身にとっても思いがけないことに、改良主義的上層部に対して統一戦線を突然提案しなければならない破目になった過去の事例を、念入りに数えあげている。かくして、歴史の嵐が吹き荒れるやいなや、人為的で誤ったインチキ理論は崩れ去るのである。

 「各国の諸条件の特殊性」と、そこから生ずる、国際的規模で統一戦線を組織することの不可能性なるものを持ち出して(「例外主義」、すなわち、民族的特殊性に関する右派の理論に対する闘争は、突如として忘れられてしまった)、スターリニスト官僚は、各国の共産党に向かって、各国の「社会民主党中央委員会」に対して統一戦線を提案するよう勧告する。昨日までは、これは社会ファシズムへの屈服であると明言されていたのだ! こうして、この4年間におけるスターリニズムの最高の教えは、机の下の紙くずかごの中へ投げ込まれてしまう。こうして、一つの政治システム全体が水泡に帰す。

 問題はそれにとどまらない。執行委員会は、たった今、国際的舞台での統一戦線の条件をつくり上げることは不可能であると宣言したその舌の根も乾かないうちに、すぐにそのことを忘れて、その20行先ではもう、民族的条件の違いにもかかわらず、すべての国で統一戦線が容認され適用される条件を定式化している。ファシズムを前にしての退却に伴って、スターリニズムの理論的戒律からのパニック的退却が起こっている。思想と原則の切れはしや断片は、無用の長物として道ばたに投げ捨てられてしまった。

 すべての国々向けにコミンテルンが提示した統一戦線の条件(反ファシズム行動委員会、賃金切り下げ反対のデモとストライキ)は、何ら目新しいものではない。それどころか、それは、左翼反対派が2年半前にはるかに正確かつ具体的に定式化したスローガンの図式主義的で官僚主義的な焼きなおしにすぎない。反対派はかつて、このようなスローガンを定式化したせいで、それ自身が社会ファシズムの陣営に数えられてしまったのである。その時に、このような基礎にもとづいて統一戦線を構築していれば、ドイツにおいて決定的な結果をもたらすことができただろう。だが、そのためには、それは時機を失せずに実行に移されなければならなかった。時間は政治の最も重要な要因なのだ。

 それでは、現在の時点で、執行委員会の提案の持つ実践的価値とはいかなるものであろうか? ドイツにとって、それはごく小さい。統一戦線の政策は、一つの「戦線」、すなわち、確固とした陣地と中央集権的指導部を前提とする。かつて左翼反対派は、統一戦線を、攻勢に移行する展望を持った積極的防衛の条件として提起した。現在、ドイツ・プロレタリアートは、後衛戦を闘うことさえなく、散を乱して退却する状態に陥っている。このような情勢のもとで、共産党労働者と社会民主党労働者との自発的な統一は、個々のエピソード的課題のためなら実現されうるし、実際に実現されるだろう。しかし、統一戦線の体系的な実現は、不確かな未来まで不可避的に延期されてしまった。この点に関して幻想を抱いてはならない。

 約1年半前、われわれは、情勢の鍵はドイツ共産党の手中にあると書いた。今やスターリニスト官僚は、この鍵を自分の手から紛失してしまった。労働者に、踏みとどまり、自らを強化し、隊列を立て直し、積極的防衛に移る可能性を与えるためには、党の意志に依らない大事件が必要であろう。これがいったいいつ起こるのか、それはわからない。たぶん、勝ち誇る反革命が考えているよりは、はるかに早いであろう。しかし、いずれにせよ、ドイツにおいて統一戦線政策を指導するのは、執行委員会の宣言を起草した連中ではない。

 中心的陣地が明け渡されたならば、進入路で防備を固め、将来の集中した攻勢のための拠点を準備しなければならない。この準備は、ドイツ国内では次のことを意味する。過去の批判的解明、先進的闘士の士気を維持し結集すること、そして、個々の戦闘部隊が一大軍隊に合流することを展望しながら、可能なところでは後衛戦を組織することである。この準備は、同時に、ドイツに密接に結びついている国々、あるいはドイツに直接接している国々、すなわち、オーストリア、チェコスロバキア、ポーランド、バルト諸国、スカンジナビア諸国、ベルギー、オランダ、フランス、スイスにおける、プロレタリアートの陣地を防衛することを意味する。ファシスト・ドイツを、プロレタリアートの堡塁の強力な環で包囲しなければならない。ドイツ労働者の算を乱しての退却を押しとどめる努力を一瞬たりとも停止することなく、今ただちに、ファシズムに対する闘争のため、ドイツ国境の周囲にプロレタリアートの要塞陣地を構築しなければならない。

 最も直接にファシスト革命に脅かされているオーストリアが前景に押し出される。もし現在オーストリア・プロレタリアートが権力を獲得し、自分の国を革命的拠点に変えるならば、オーストリアはドイツ・プロレタリアートの革命にとって、ピエモンテ地方(3)がイタリア・ブルジョアジーの革命にとって持ったのと同じ意味を持つだろう。このことは、確信をもって言うことができる。オーストリア・プロレタリア−トは事件によって前に駆り立てられながら、改良主義的官僚によって麻痺させられている。その彼らが、どこまでこの道を進むことができるかを予言することはできない。共産主義の課題は、オーストリア・マルクス主義に対抗しながら事態の発展を促すことである。そのための手段こそ統一戦線政策である。したがって、コミンテルン執行委員会の宣言が、左翼反対派からかくも遅れて繰り返している諸条件は、そのあらゆる効力を保持している。

 しかしながら、統一戦線の政策は、それ自身のうちに、利点ばかりではなく危険性をも内包している。それは、大衆の背後での指導者間の取り引き、同盟者に対する受動的迎合、日和見主義的動揺を容易に生みだす。この危険を封じることができるのは、2つの必要不可欠な保障がある場合のみである。すなわち、同盟者に対する批判の完全な自由を堅持することと、自分の党の内部における批判の完全な自由を復活させることである。同盟者に対する批判を拒否することは、直接に改良主義への屈服をもたらす。党内民主主義なき統一戦線政策、すなわち機構に対する党の統制なき統一戦線政策は、冒険主義の実験を不可避的に補完する日和見主義の実験に向け指導者の手を自由にするだろう。

 だが今回の場合、コミンテルン執行委員会はどのように行動しているだろうか? 左翼反対派が何十回となく次のように予言してきた。すなわち、スターリニストは事件の衝撃のもとで、かつての極左主義から手を引くことを余儀なくされるだろう。そして統一戦線の道に進みながらも、つい昨日までわれわれに帰していたあらゆる日和見主義的裏切りを実行し始めるだろう、と。予言は、今度もまた、文字通り実現された。

 統一戦線の立場に向かって命がけの飛躍をしながら、コミンテルン執行委員会は、それだけが統一戦線政策に革命的内容を確保することのできる根本的な保障を踏みにじる。スターリニストは、行動と指導に対するいわゆる「相互不可侵」を求める改良主義者の偽善的・外交的要求を受けいれる。マルクス主義およびボリシェヴィズムのすべての伝統と断絶したコミンテルン執行委員会は、各国共産党に対して、統一戦線が実現した場合には、「共同闘争のあいだ、社会民主主義組織に対する攻撃を放棄する」よう勧告している。何たる言い草! 「社会民主主義に対する攻撃(!)」を放棄すること(何と恥ずべき定式!)は、政治的批判の自由、すなわち革命党の根本的役割を放棄することである。

 この屈服は、実際上のやむをえざる必要によって生じたのではなく、パニックの精神状態によって生じたものである。改良主義者は、事態の圧力および大衆の圧力によって余儀なくされる程度に応じて、協定に達するだろうし、実際に達しつつある。だが「不可侵」の要求は一種のゆすりである。すなわち、改良主義的指導者が付随的な利益をせしめようとする試みである。ゆすりに屈することは、統一戦線を腐った土台の上に建て、任意の恣意的な理由で統一戦線を掘りくずす可能性を改良主義的事業家に与えることを意味する。

 批判というのは一般に、そして統一戦線の条件のもとではなおさら、実際の関係に合致したものでなければならないし、必要なバランスを守らなければならないことは言うまでもない。「社会ファシズム」に関するたわごとは投げ捨てなければならない――そうするのは、社会民主主義に譲歩することではなく、マルクス主義に譲歩することである。同盟者を批判することが必要なのは、1918年におけるその同盟者の裏切りのゆえではなく、1933年におけるその悪行のゆえである。しかし、批判は一時といえども止まることはありえない。それは、批判を自らの声としている政治生活がそうであるのと同じである。共産党の暴露が現実に適合したものならば、それは、統一戦線の目的に貢献し、一時的同盟者を前に駆り立て、そして、いっそう重要なことは、プロレタリアート全体に革命的教育を与えることができる。この根本的義務を放棄することは、スターリンが国民党との関係において中国共産党に強いたあの破廉恥で犯罪的な政策の最初のステップに足を踏み出すことを意味する。

 第2の保証についても、事態はましではない。社会民主主義に対する批判を放棄したスターリンの機構が、自分の党のメンバーに批判の権利を回復することを考えるはずもない。転換そのものが、いつもの通り、官僚的啓示という形で行なわれた。各国の党大会もなければ、国際大会もなく、執行委員会の総会さえない。党機関紙における準備もなければ、過去の政策の分析もまったくない。そして、これもむべなるかな。党内討論が始まるやいなや、思考する労働者はみなアパラーチキ[機構の官僚]に質問するだろう。なぜボリシェヴィキ=レーニン主義者は、すべての支部から除名され、ソ連では逮捕され流刑され銃殺されたのか? それは、単に彼らがより深く掘り、よく遠くを見ているからではないのか? このような結論をスターリニスト官僚は認めることができない。彼らは、どんな飛躍でも転換でもやることができるが、労働者の面前でボリシェヴィキ=レーニン主義者と対決すること、これは、彼らにはできないことである。こうして、自己保身の闘争の中で党機構は、その新たな転換に対する信頼を、社会民主党労働者のあいだだけでなく、共産党労働者のあいだでもあらかじめ掘りくずしてしまうことで、その転換の価値を失わせてしまうのである。

 執行委員会の宣言の公表には、さらにもう一つの事情が伴っている。それは、われわれが検討してきた問題とは別種のものだが、コミンテルンの現在の立場およびコミンテルンに対するスターリニスト支配グループの態度にきわめて鮮明な光を投げかけるものである。3月6日付『プラウダ』に掲載された宣言は、モスクワ所在のコミンテルン執行委員会の名における直接の公然たる呼びかけとしてではなく――いつもそうなのに!――、「タス」通信を通じてパリから伝えた『ユマニテ』記事の翻訳という形で発表された。何とナンセンスで卑劣なトリックだろうか? あらゆる成果の後でも、すなわち第1次5ヵ年計画の達成、「階級の根絶」、「社会主義への突入」の後でも、スターリニスト官僚は、自分自身の名においてコミンテルン執行委員会の宣言を発表することさえできないのだ! これが、コミンテルンに対するスターリニスト官僚の実際の態度であり、国際舞台における彼らの真実の自己認識なのである。

※  ※  ※

 宣言は、第2インターナショナルのイニシアチブに対する唯一の回答ではない。種々のフロント組織、すなわち、ドイツおよびポーランドの赤色労働組合反対派(RGO)、反ファッショ行動隊、自称「イタリア労働総連合」を通じて、コミンテルンは4月に「全ヨーロッパ反ファシズム労働者大会」を召集する。その招待者名簿は、案の定、漠然としていて、その範囲は果てしない。「企業」(まさにそう書かれている。スターリン=ロゾフスキーの努力によって、共産党員が、世界中ほとんどすべての企業から追い出されているというのに)、地域の労働者組織(革命的、改良主義的、カトリック的、党派ないし無所属のそれ)、スポーツクラブ、反ファシズム組織、農民組織。その上、「われわれは、事実上(!)勤労者の利益のために闘っている、すべての孤立した個人をも招待することを望んでいる」。長い間、大衆の事業をさんざん破壊してきた戦略家たちは、「孤立した個人」、すなわち大衆の隊列の中に居場所を見つけられなかったものの、「事実上、労働者の事業のために闘っている」清廉の士に呼びかける。こうしてバルビュスとシェーナイヒ将軍(4)が再び、ヒトラーからヨーロッパを救うために動員される。

 われわれの前で演じられているのは、スターリニストが自らの無力さを隠す常套手段にしているインチキ劇の一つである既成の台本である。中間主義者と平和主義者とのアムステルダム・ブロックは、中国に対する日本の強盗的侵略に対する闘争において何をしただろうか? 何も。平和主義者は、スターリニストの「中立」に敬意を表し、抗議の声明さえ公表しなかった。現在、反戦ならぬ反ファシズムのアムステルダム大会(5)の新版が準備されている。不在の「企業」と無力な個人による反ファシズム・ブロックに何ができるだろうか? 何もできはしない。事態が今度ばかりは大会開催にまで至った場合には、無駄口たたきの声明を発表するのが関の山だろう。

 「孤立した個人」には2つの傾向がある。日和見主義の傾向と冒険主義の傾向である。かつてロシアのエスエルは、右手を自由主義者に差し出しながら、左手では爆弾をかかえていた。過去10年間の経験が物語っているように、コミンテルンの政策によって引き起こされるか、あるいは少なくとも先鋭化した大敗北のたびごとに、スターリニスト官僚は決まって、何らかの大冒険によって名誉を挽回しようとした(エストニア、ブルガリア、広東)。この危険性は、現在も存在しているのではないだろうか? われわれは、いずれにせよ、警告の声を上げることが必要であると考える。麻痺した大衆の行動に取って代わることを目的とする冒険は、よりいっそう大衆を混乱させ、破局を深刻なものにする。

 現在の世界情勢の諸条件も、各国の諸条件も、革命政党にとって有利であり、その分、社会民主党にとっては致命的である。しかしスターリニスト官僚は、資本主義の危機と改良主義の危機を共産主義の危機に転化してしまった。これが、10年間にわたるエピゴーネンのでたらめな指令体制の結果である。

 こう言う偽善者もいるかもしれない。反対派は、死刑執行人の手に落ちた党を批判している、と。悪党はつけ加えるだろう。反対派は死刑執行人の手助けをしている、と。偽りの感傷主義と有毒な嘘を組み合わせて、スターリニストは、中央委員会を党機構の背後に隠し、機構を党の背後に隠し、破局と偽りの戦略と災厄的体制と犯罪的指導に関する責任問題を抹消しようとする。これこそ、昨日および今日の死刑執行人を助けることだ。

 中国におけるスターリニスト官僚の政策は、今日のドイツにおける政策に劣らず破滅的だった。しかし、中国では、問題は世界プロレタリアートの背後で、彼らにとっては理解しがたい条件のもとでおこった。反対派の批判の声は、ソ連から他の国々の労働者のもとにはほとんど届かなかった。中国の実験は、スターリンの機構にとって、ほとんど罰を受けないで済んだ。ドイツにおいては事情は異なる。ドラマのすべての段階は、世界プロレタリアートの目の前で繰り広げられている。各段階ごとに反対派は声を上げた。発展のすべての歩みはあらかじめ予言されていた。スターリニスト官僚は、反対派を中傷し、反対派と無縁の思想や計画を反対派になすりつけ、統一戦線に賛成したすべての党員を除名し、社会民主党官僚が地域の合同防衛委員会を破壊するのを助け、労働者が大衆闘争の道を切り開くあらゆる可能性を妨げ、前衛を混乱の中に叩き込み、プロレタリアートを麻痺させた。こうして、社会民主党との防衛的統一戦線に反対したスターリニストは、社会民主党とともに、パニックと降伏の統一戦線の中に身を置くことになったのである。

 そして現在、すでに廃墟を前にして、コミンテルン指導部は、何よりも照明と批判を恐れている。世界革命は滅びよ、空虚な威信万歳! 破産者は混乱を撒き、証拠を隠滅し、足跡を消す。全体として400万人も投票者が増加したもとで、ドイツ共産党が最初の一撃「だけ」で120万票を失ったという事情は、『プラウダ』によって、「政治的大勝利」と宣言された。これと同じく、1924年にスターリンは、ドイツにおいて、一戦も交えずに退却した労働者がなお共産党に360万票を投じた事実を、「大勝利」と宣言した。2つの機構によって欺かれ武装解除されたプロレタリアートが今回、共産党に約500万票を投じたとしても、これはただ、もし彼らが指導部を信頼していたならば、その2倍ないし3倍の票を与えただろうということを意味するにすぎない。権力を奪取しそれを維持する能力があることを共産党が示すことができていたなら、プロレタリアートは共産党を政権の座に就かせただろう。しかし、共産党はプロレタリアートに、混乱、ジグザグ、敗北、苦悩以外の何ものをも与えなかった。

 たしかに、500万の共産党支持者はまだ、孤立した個人として投票箱に近づくことができた。しかし、企業や街頭に共産党員はいない。彼らは、途方に暮れ、分散し、士気阻喪している。彼らは機構のくびきのせいで独立性を失ってしまった。スターリニズムの官僚主義的テロルは、ファシズムのギャング的テロルの順番が回ってくる前に、共産党員の意志を麻痺させていたのである。

 はっきり正確に公然と言わなければならない。スターリニズムはドイツにおいて自らの「8月4日」を持ったということを。この国の先進的労働者は、今後、刺すような感情を抱いて、憎悪と呪詛の言葉をもってしか、スターリニスト官僚支配の時期について語ろうとはしないだろう。公式のドイツ共産党は有罪を宣告された。今後、ドイツ共産党は、瓦解し、砕け散り、灰燼に帰するだけであろう。どんな人為的手段も同党を救うことはできない。ドイツの共産主義は、新しい基礎の上でのみ、新しい指導部のもとでのみ、復活するだろう。

 不均等発展の法則は、スターリニズムの運命にも影響を及ぼしている。国によってスターリニズムの解体はそれぞれ異なった段階にある。ドイツの悲劇的経験が、コミンテルンの他の支部の再生を促す衝撃としてどれほど役に立つか、それは未来が示すだろう。ドイツにおいては、いずれにせよ、スターリニスト官僚の挽歌は終わった。ドイツ・プロレタリアートは再び立ち上がるだろうが、スターリニズムは断じて否。敵の恐るべき打撃のもとで、ドイツの先進的労働者は新しい党を建設しなければならない。ボリシェヴィキ=レーニン主義者はこの仕事に全力を捧げるだろう。

1933年3月14日

『反対派ブレティン』第34号所収

『ニューズ・レター』第29号より

  訳注

(1)1930年9月14日……国会選挙の日。この選挙において、共産党は40%の得票増を勝ち取ったが、ナチスは約80万票から640万票へと700%もの得票増を勝ち取り、一気に第2党へと躍進した。

(2)リープクネヒト会館……ベルリンにあるドイツ共産党本部の名称。

(3)ピエモンテ地方……イタリア最大の地方自治体。19世紀におけるイタリア統一運動(リソルジメント)発祥の地。

(4)シェーナイヒ将軍(1886-1954)……ユンカー出身の海軍将校で、平和主義者に転じて、ソ連に好意的な立場をとるようになった。

(5)アムステルダム大会……1932年8月にアムステルダムで開かれた反戦大会のこと。名目上イニシアチブを取ったのはロマン・ロランやバルビュスなどの平和主義者だったが、そのバックで主導権を握っていたのはスターリニストであった。一方で社会民主主義との統一戦線を拒否しながら、平和主義者、自由主義者との統一戦線の戯画を作り出した。


  

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