【解説】本論文は、ヒトラーの戦略についてきわめて鋭い分析を行ない、当時としては驚異的な正確さで、ファシスト・ドイツのその後の路線を予想したものである。
1933年5月12日、ヒトラー政権は、1926年に締結された独ソ不可侵条約を延長した。その翌日、副首相のパーペンは、ドルトムントで好戦的な演説を行ない、西側の民主主義諸国の警戒心を掻き立てた。5月16日、アメリカ大統領のルーズベルトは54ヶ国に軍縮を訴える書簡を送った。その翌日、ヒトラーは国会で、パーペンの好戦的演説とはまったく異なったトーンの演説を行ない、外交政策としての「ゲルマン化」を否定した。トロツキーは、ヒトラーのこの「平和主義」的演説の真の意味をきわめて説得的な形で明らかにしている。西側諸国の指導者たちは、トロツキーが示したような先見の明をまったく持たず、結果として、ヒトラーの戦略をことどとく手助けし、全世界に取り返しのつかない災厄をもたらした。
本稿が最初に発表されたのは、1933年6月21、22日号の『マンチェスター・ガーディアン』で、後日、『反対派ブレティン』第35号に掲載された。
本論文が最初に翻訳されたのは、『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)であり、今回アップするにあたって、『反対派ブレティン』所収のロシア語版にもとづいて全面的に修正してある。なお、英語版とロシア語版とでは若干、文章に相違がある。そこで、英語版にのみ存在する文章については、《 》にはさんで示しておいた。
Л.Троцкий, Гитлер и разоружение, Бюллетень Оппозиции, No.35, Июль 1933.
Translated by the Trotsky Institute of Japan
※原注
本論文はブルジョア雑誌のためのL・D・トロツキーによって書かれた。――編集部
1、ヒトラーの「平和主義」
物事が旧来の軌道に沿って動いているかぎり、きまりきった外交的手法もそれなりの優位性を有している。だが、まったく新しい大事件に直面すると、そのような優位性はたちまち失われる。敵側の行動体系がこのきまりきった手法の範囲を越えるているという理由で、敵を過少評価することは、最も危険なことである。ヒトラーをデマゴーグ、ヒステリー患者、俳優として片づけることは、この危険を見ないために目をつぶることを意味する。すべてのヒステリー患者が権力の奪取にいたるわけではない。いずれにせよ、国家社会主義のヒステリーの中にも一定の体系性がなければならない。時宜を失せずこのことを理解しない者に災いあれ! ドイツの労働者諸組織の指導者たちはヒトラーを真剣に受け止めようとはしなかった。ヒトラーの綱領を反動的でユートピア的とみなした彼らは、ヒトラーの行動力を評価する能力がないことを暴露した。《今日、この恐るべき過ちのせいでこれらの組織はこなごなに粉砕された。》世界政治の次元でも同じ危険性が繰り返される恐れがある。
《5月17日、ヒトラーは国会に対するその平和演説の中でルーズベルトと列強諸国に回答を与えた。》5月17日まで、多くの者は、ヒトラーがベルサイユ条約の問題に関して強引に振る舞い、たとえば、国会議事堂やマルクス主義的文献、ユダヤ人の百貨店に対するのと同じような方法で、ヨーロッパの体制に対しても立ち向かうだろうと考えていた。落雷がどこからどこに落ちるのかについて、実際のところ誰も知らなかった。何といっても、銀行を襲うギャング団とまったく同じやり方で労働組合が破壊されるなどと24時間前にでも予想しえた者が1人でもいただろうか。《次には何がやってくると予想すべきだったか? そこへ突然、ハトの鳴き声が聞こえてきた。》
ヒトラーの国会演説はその思いがけない平和主義で人々の不意を打った。そしてこれだけでも、その最も直接的な目的が達成された。敵の不意を打つことはつねに有利である。ヒトラーは最初の成功を獲得した。彼の取引相手は見事に困惑させられた。パーペン(1)の騒々しい好戦的言辞にびっくりさせられた後だけに、非常に熟達した外交官たちは、十分に計算された平和主義的文言に、少なくとも半ば安堵の息をもらした。ジョン・サイモン(2)は、ヒトラー首相の演説にステーツマン(政治家)としての穏健なトーンが見られるとうれしげに指摘した。オースチン・チェンバレン(3)も同じ印象を得た。『モーニング・ポスト』紙はヒトラーをパーペンに対置し、ヒトラーの宣言の中に「南方のより柔らかいアクセント」を見出した。マスコミはこぞって、雰囲気がたちまち和らいだと主張した。《時に彼らは、この予期せざる柔らかいアクセントを分析して、およそ次のように説明した》。一致して出された仮説は次のようなものである。抜け目のない外交家のムッソリーニがヒトラーをたしなめたのだろう。たぶんワシントンからの圧力も影響を及ぼしたのだろう。そしてこう結論する。軍縮政策の可能性がはっきりと高まった、と。とんでもない誤解である! この混乱の心理学的秘密は単純である。斧を振り回す暴漢に出くわす覚悟でいた時に、尻のポケットにブローニング銃を隠し持った男を前にすれば、誰しも安堵の気持ちを覚えるだろう。だが、ブローニング銃の方が斧よりも危険であることに変わりはない。
他方、ヒトラーの宣言を、パーペンの演説に対する不評を考慮したエピソード的なマヌーバーであるとみなす疑い深い人々も、不十分である。彼らは言う。それは、少なくとも数週間だけ世論を欺くことができるが、やがて事態は明らかになる、と。これもまた単純すぎる説明だ! もちろん、パーペンの演説に触発されたヘイルシャム卿(4)の威嚇的な演説は、ヒトラーの演説のきっかけになったかもしれない。しかしこうしたことは、政治的宣言のニュアンスとトーンに、すなわち技術的な領域に関係するだけである。しかしながら、外交的丁々発止の下には、より深い要因と計画が隠されている。ヒトラーの平和主義を額面どおり信じることも、あるいはその意味を深く考えもせずに「デマゴギー」として退けることも、等しく誤りである。政治的課題は、ヒトラーの宣言と彼の真の計画との内的な相互関係を解明すること、すなわち、ファシスト・ドイツが、その名前を呼ぶことができないしそうするつもりもない自らの目標をどのようにして実現しようとしているのかを理解することである。過去の経験がすでに十分に示しているように、国家社会主義の政策に空想と虚妄とが見られるからといって、ヒトラーは現実を考慮に入れることができないわけではない。彼の空想と虚妄はその真の政治的目標にとって合目的である。これが、国家社会主義の内外政策を評価するさいのわれわれの出発点である。
ヒトラーの演説を支配している哲学・歴史観は、その仰々しい凡庸さという点でまったくみじめなものである。ヨーロッパの国境線をその人種的境界線に沿って引き直す必要があるとするヒトラーの主張は、国家社会主義の綱領につめ込まれている反動的ユートピアの一つである。今日のヨーロッパが経済的にも文化的にも解体しつつあるのは、国境線が不完全だからではけっしてなく、この旧大陸があらゆる方面で関税障壁によって細分され、通貨制度のバビロンの塔によって分断され、軍国主義――ヨーロッパの崩壊と衰退に対抗する措置としてヨーロッパに必要なもの――によって押しつぶされているからである。国境線をあれこれの方向へ何十キロか何百キロ移動させたところで、何も変わらないばかりか、紛争地域の住民数をはるかに上回る数の人的犠牲が生じるであろう。
「ゲルマン化」を断念すると国家社会主義党は請け合ったが、それは彼らが征服を断念するという意味ではない。彼らの綱領の最も強固な中心的思想の一つは、ドイツの富農が入植できるよう「東方」の広大な領土を占領することだからである。諸人種の「理想的」な分離の立場を思いもよらず突然放棄したこの平和主義的宣言が、半ば脅迫的な調子で、将来の紛争原因は「西ヨーロッパの人口過剰」であると警告しているのも偶然ではない。ヒトラーはヨーロッパの、とりわけドイツの人口過剰からの出口をただ一つだけ示している。すなわち東方である。ドイツ・ポーランド国境の不当性を嘆きながら、ヒトラーが、「ポーランドの要求」と同時に「ドイツの正当な権利」をも満たすことのできる解決策が「東方で」労せずして見出せるだろうと宣言した時、彼の念頭にあったのは要するにソ連領士の略奪であった。この脈絡において、ゲルマン化の断念が意味するのは、占領地域における支配階層としてのゲルマン「人種」の特権的地位の原則にほかならない。ナチスは同化には反対するが併合には反対しない。彼らは、自分たちが征服した「劣等」民族のゲルマン化よりもその絶滅の方を選ぶ。幸いにして、今のところ問題になっているのは、仮定上の征服である。
偉大なるゲルマン民族が第二級の民族になり下がってしまった、これは国際連帯の利益と全民族の平等の原則に反する、とヒトラーが怒りをもって主張する時、このような思想がこの口から発せられるのは、まったく不似合いである。国家社会主義の全歴史哲学は、諸民族をその血筋にもとづいて不平等な地位に置くこと、および、「優等」諸民族には「劣等」諸民族を踏みにじり根絶させる権利があるということに立脚している。《言うまでもなくドイツ人はこれら優等民族の中でまた特等席を占める。》ヒトラーのヨーロッパ改造計画は、全体としてみれば、人種的神秘主義と民族的カニバリズム(共食い)との反動的・ユートピア的結合である。これを完膚なきまでに批判することは難しくない。だが、現在、ファシスト独裁の日程にのぼっているのはこの計画の実現ではなく、ドイツの軍事力の再建である。これなしにいかなる計画も考えられない。こうした観点から見る場合のみ、ヒトラーの演説は何がしかの関心をひくものとなる。
ヒトラーの綱領はドイツ資本主義の綱領である。すなわち、あらゆる資本主義の中で最も能動的で最も侵略的だが、最近の敗北によって手足を縛られている資本主義の綱領である。潜在的な強さと現実的な弱さとのこうした組み合わせが、国家社会主義の目的の極端に爆発的な性格の原因であるとともに、これらの目的をめざす当面する措置が極端に慎重である原因でもある。今日問題になりうるのは、この結び目を緩めて少しづつ解きほぐすことであって、それを一刀両断することではない。
条約のあらゆる改訂、とりわけ軍事体制に関わる改訂は、現在の力関係を変化させることを意味する。ドイツが今よりも強力になって、フランスは弱体化しなければならない。そうでなければ、改訂の問題そのものがドイツにとっては何の意味も持たない。他方、フランスの支配者たちがドイツを利する方向で自らの地位を弱体化させるようないかなる改訂も認めようとしないのは、まったく明白である。したがって、ナチスは、フランスとの友好的な合意を通じてドイツの国際的地位の向上をめざすあらゆる政策を、幻想的で空想的であると考えている。ヒトラーの全政治活動を貫くこのような確信からまさに、後で述べるように、独仏間の新しい衝突の不可避性という結論が出てくる。しかしそれは今日ではなければ、明日でもない。まさに時間に関するこの「修正」こそ、ヒトラーの宣言で語られていることであり、この意味でそれは単なる「欺瞞」ではない。ゲーリング(5)は国会議事堂を放火することによって、自分の手先の頭以外の何ものも危険にさらさなかった。だがヨーロッパに火を放つことははるかに危険な企てである。ドイツはその現在の状況からして戦争をすることができない。それは武装解除されている。これは単なる言葉ではなく、事実である。カギ十字の紋章をつけた眼鏡の学生や失業者はホーエンツォレルン家の軍隊にとって代わるものではない。もちろん、ヒトラーはそこかしこで軍備に関する条約上の義務を部分的に破るだろう。しかし、ベルサイユ条約の規定に真正面から対決することになる大がかりな措置を公然ととる決意はまだできていない。重武装したヨーロッパ諸国間の紛争といった何らかの「幸運な」状況がある場合のみ、国家社会主義は近い将来に対外政策の分野で「豹の跳躍」、新たな「3月5日」に着手することができる。しかし、そうでないかぎり、ヒトラーの行動は、外部では大がかりな外交的かけひきに、内部では小規模な武器密輪に制限されざるをえないだろう。
オーストリアとダンツィヒにおける国家社会主義党の闘争は、それがどれほど激烈であろうとも、上述した行動計画と矛盾するものではない。何よりもオーストリアにおける国家社会主義の成長は不可避的な事実であり、とりわけドイツにおけるその勝利の後ではそうである。オーストリアのヒトラー化に対する外国の反発はただファシストの上げ潮を強めるだけであろう。オーストリアをその内部から獲得することによって、ヒトラーは非常に重要な補完的支柱をつくり出した。ここから生じる国際的紛糾はベルサイユ条約の枠内に容易には収まらないであろう。もちろんヒトラーは、自分の政策に対して、言葉の論拠以外に力の論拠が対置されうることを知っている。やむにやまれる場合には、彼は、オーストリアとダンツィヒにおける自分の陣地を国際協定のための取引材料に変えることによって、いつでも退却することができる。
潜在的な強さは、現実の弱さを免れさせてくれるものではない。ホーエンツォレルン家のドイツが、後で世界の再分割に着手するつもりで、「ヨーロッパの組織化」を自らの課題にしたとすれば、敗戦によってはるか後方に投げ戻された今日のドイツは、かつてビスマルク(6)のプロイセンが解決した任務を再び自らに課さざるをえない。すなわち、全ドイツ領の統一に向かう一段階としてのヨーロッパの均衡の達成である。ヒトラーの実践的計画は今のところヨーロッパの地平に限定されている。諸大陸および諸大洋の問題は彼の視野の外にあり、ヨーロッパの内部問題とからみ合っている場合にのみ、彼の実践的関心の対象となりうる。ヒトラーはもっぱら防衛の言葉で語る。これは復活しつつあるドイツ軍国主義が経過しなければならない現段階に完全に照応している。軍事の原則――攻撃は最大の防御――が正しいとすれば、外交の原則――攻撃の最善の準備は防御に配慮することである――はなおさら正しい。逆説を好むブロックドルフ=ランツァフ(7)がモスクワで私にこう語ったのは、まさにこの意味であった。「戦争を望むなら平和に備えよ(Si vis bellum, para pacem)」(8)。
ヒトラーはイタリアの支持をあてにしており、そしてある程度までこれは保証されている。それは、両国の内部体制が似ている(周知のように、純ドイツ的な第3帝国はラテン民族からのあからさまな剽窃である)からというよりも、両国の対外的野望――少なくとも消極的なそれ――が類似しているからである。しかしイタリアの支えだけでは、ドイツ帝国主義は立ち上がれない。イギリスからの支持があってはじめて、ファシスト・ドイツは必要な行動の自由を獲得することができる。それゆえ、いかなる冒険も否、冒険的に聞こえるいかなる発言も否! 西方に対する打撃の一つ一つ(ポーランドに対する打撃は西方にはねかえる)がただちにイギリスとフランスを接近させ、イタリアに大きな自制を強制することになるのを、ヒトラーは理解している。軽率で時期尚早で危険をはらんだ報復行動がいずれも自動的にドイツの孤立をもたらすだろうし、その軍事的無力さをふまえるならば、あらたな屈辱的降伏をもたらすだろう。ベルサイユ条約の首吊り縄はいっそうきつく締め上げられるだろう。イギリスとの合意のためには自制が必要である。だが、パリ(問題になっているのはまさにパリである)はミサに値する(9)。パーペンを仲介としたヒンデンブルク(10)との合意が、ヒトラーをして、ワイマール憲法の解釈という名目のもとにクーデターを遂行することを可能にしたように、イタリアを仲介としたイギリスとの合意は、ドイツをして、ベルサイユ条約の「合法的」な蹂躙と破棄を可能とするだろう。このような枠組みにもとづいて5月17日の宣言を取り上げなければならない。ヒトラーの平和主義は偶然的な外交的即興ではない。それは、力関係をドイツに有利な方向へ根本的に変更し、ドイツ帝国主義のヨーロッパ的・世界的攻勢の基礎を据える大がかりな駆け引きの一部をなしているのである。
だが、以上はヒトラーの計画の一部分、それも消極的な一部分にすぎない。時期尚早な報復の試みを自制することは、基本的にはシュトレーゼマン(11)の政策の継続である。イギリスからの能動的支持を保証するにはこれだけでは十分でない。5月17日の宣言にはナチスの計画のもう一つの「積極的な」側面を示す明白な兆侯が含まれている。すなわち、ボリシェヴィズムとの闘争である。ここで問題になっているのは、ドイツ・プロレタリアートの組織ではなく、ソヴィエト連邦との闘争である。「東進(Drag nach Osten)」計画と密接に結びつけて、ヒトラーはボリシェビィキの野蛮から、ヨーロッパ文明やキリスト教やイギリスの植民地、その他の精神的・物質的価値を保護する課題を引き受ける。この歴史的役割によって、まさにこれによって、何よりもこれによって、ヒトラーはドイツの再軍備権を獲得できると期待している。イギリスの秤にあっては、西ヨーロッパにとって、ドイツ・ファシズムの危険は東方におけるボリシェヴィキ・ソヴィエトの危険より軽いことを、ヒトラーは確信している。この評価はヒトラーの対外政策全体を解き明かす最も重要なカギである。
しかし、それは最も重要なものであるが、唯一のものではない。国家社会主義党の独裁は、東西間の矛盾のみならず、西ヨーロッパ内部のあらゆる対立につけ込もうとする。そして、この種の対立にはこと欠かないのである。オーストリア・ハンガリーの亡霊をしきりに追い払いながらヒトラーは、「ヨーロッパの若い民族国家」に対するドイツの特別の配慮を約束する。彼は、弱小諸国に対し、勝者ではなく敗者の周りに結集するよう提唱して、ヨーロッパの均衡を再建するための追加的テコを得ようとしている。国家社会主義は国内政策において、没落し絶望した人々を自らの旗の下に結集し、それによっていっそう確実に彼らの利益を独占資本に従属させたが、それと同じように、対外政策においてヒトラーは、敗北し破滅した諸国の統一戦線を作ろうと努力しているが、それは、いっそう無慈悲にドイツ帝国主義の重みの下にそれらの国を押しつぶすためである。
ヒトラーがイギリスの軍縮計画をあれほど積極的に受け入れたのも、要するに彼があらかじめ完全な確信をもって、その失敗を予想していたからである。平和主義的提案の墓掘人という忌むべき役割を自ら引き受ける必要は彼にはなかった。ヒトラーはこの役割を他人に転嫁しようとする。同じ理由からヒトラーは、軍縮への支持を表明したアメリカの大統領に「暖かい感謝」を惜しみなく表明する。全世界の前に提起される軍縮計画がより広範で大規模なものになればなるほど、そして、それが破産で終わることが不可避的なものになればなるほど、それだけドイツの再軍備の権利は確実なものとなる。いや、ヒトラーは暴力的に――暴力には力が必要だ!――ベルサイユ条約を覆すつもりはない。ヒトラーは、自分が「支持」するイギリスの計画が失敗に終われば、イギリスはイタリアとともに、東方に対するドイツの防衛力の強化を全力をあげて支持するだろうと確信している。ただ防衛だけ、それも東方に対してのみ!
2、暴露文書
ヒトラーの計画に関するわれわれの解釈は、せいぜいのところ一個の仮説にすぎず、その可能性は兆候としては垣間見えるが、けっして確証されたものではないという反論が、疑い深い読者や、あるいは単に慎重な読者から出されることだろう。これにはこう答えることができる。この計画は情勢の有無を言わせぬ論理から出てくるのであって、大規模な政治においては、敵が最も有利な道を歩む場合をふまえなければならない、と。上述した「仮説」を文書的に証明する上での困難は、野党時代の国家社会主義の文献がきわめて豊富で相互に矛盾しているのに対し、政府としての国家社会主義の実践は今のところまだ短期間でささやかなものにすぎないという事実にある。筆者は、仕事に取りかかるに際しこの困難を十分に理解していた。ところがちょうどタイミングよく、まったく幸運な偶然がこの上もなく貴重な政治文書をもたらしてくれた。
問題の文書は、パーペンに対するヒトラーの「公開状」であり、1932年10月16日にパンフレットの形で公刊された。きわめて論争的な調子で書かれているにもかかわらず、この「公開状」はドイツ以外では注目されなかった。国家社会主義の指導者たちが語ったり書いたりしたものがあまりにも多かったからである! だが、この「公開状」は、ドイツの現在の対外政策に関心を持っている外交官やジャーナリストの机の上に置かれるべきである。当時の論争状況を想起しておこう。当時、パーペンが首相だった。ヒトラーは、ヒンデンブルクが自分を政府の首班に指名するのを拒否した8月13日から、同元帥がドイツの支配権をヒトラーに渡さなければならなくなった1月30日までのあいだ、虎視眈々と政権を狙う野党だった。「公開状」は大衆にあてたものではなく、支配階級に向けて書かれた。その目的は、ドイツの社会体制が官僚的方法では救済不可能であること、国家社会主義党のみが対外政策の分野で本格的な計画を持っていること、そして最後に、彼、ヒトラーが冒険主義と無縁であるだけでなく、意気地のない忍耐とも無縁であることを証明することであった。公開状は、デマゴギーをほとんど含んでおらず、真面目な調子で書かれ、基本的に真剣きわまりないものだった。今ではヒトラーはこのパンフレットを喜んで火にくべることだろう。それだけになおさら注意深く、ヒトラーの敵はこの文献を検討しなければならない。
ヒトラーはパーペンに説明する――「われわれを武装解除した諸国が、強制されることなく、今日突然に、本気で自ら軍縮に踏み切ると考えるのは、愚かしいことである」。同じく、時期がどうあれフランスがドイツの再軍備に同意することを期待するのも愚かしい。フランスは、その巨大な軍事的優位性のおかげで、敗戦敵国と、対等な原則にもとづいた協定を結ばなくてもすんでいる。武器と引き換えにフランスに軍事協定を提案しようとするあらゆる試みは、きわめて冷淡なあしらいをうけるだけでなく、その協定が対抗相手と想定している国家のただちに知るところとなるだろう。もちろん、ヒトラーはソヴィエト連邦のことをほのめかしている。ドイツの軍備権を取り戻すことは、「ヨーロッパの均衡の真の再建」を通じてのみ可能である。イギリスとイタリアはこの目標の達成に利益を有しているが、フランスはいかなる場合でも、いかなる条件下でもそのような利益を有していない。「イギリスないしイタリアとの接近や協力関係を達成することなしに、フランスとのよりよい関係の再建によってそれを埋め合わせることができると考えるのは、まったく馬鹿げたことだ!」。ロカルノ条約の思想――幻想と言った方がいいかもしれない――を葬り去ろうとするヒトラーの外交政策の基本姿勢が、ここに一点の曇りもなく明確になっている。5月17日の宣言においては、もちろん、これほどの明確さは見られない。しかしこの宣言は「公開状」といささかも矛盾するものではない。逆である。それは「公開状」の計画を発展させ一定の段階に適用したものである。
ドイツの政策目標は、ドイツ国家の軍事的主権を再建することである。それ以外はすべて、そのための手段にすぎない。しかし、手段が目的の姿に似せてつくられなければならないわけではけっしてない。ドイツは、「いかなる状況においても、再軍備計画そのものを自分から世界に提案してはならない。今回の会議(軍縮会議)においてはなおさらである」。理由は2つある。1つは、いかなる会議も物質的な力関係を根本的に変えるような決定は下せないからであり、2つ目は、再軍備の権利の主張そのものが、たとえ純粋にプラトニックなデモンストレーションにとどまるものであれ、フランスが自国の軍縮の問題を撤回することを可能にし、さらに悪いことに、イギリスをフランスに接近させるからである。
この後者の結果は、ヒトラーの意見によれば、パーペンの無思慮な政策の結果、すでにある程度まで実現されている。イギリスは自らの望む以上にフランスを支持しなければならなくなっている。ディレッタントで冒険屋という、「紳土クラブ」(12)や首相自身に対するヒトラーの批判は、単に辛らつであるばかりでなく、きわめて説得的でもある。民族派の男爵や官僚にはいかなる対外政策もない。彼らは、存在しもしない武器の音をしきりにがちゃつかせているが、それは国内的配慮から必要になったにすぎない。彼らは喜んで民族主義の運動を利用しようとするが、同時にそれが、これ以上発展するのを押し止めようとする。
疑いもなくビスマルクに触発されたヒトラーは、ホーエンツォレルン家最後の当主にためらうことなく一撃を加える。曰く、パーペンとその仲間はヴィルヘルム2世の芝居じみた政策のエピゴーネンにすぎない、両者の本質的な違いは、カイザーが第1級の軍隊を持っていたのに対し、パーペンらはその想い出しか持っていないことだ、と。このヒトラーの指摘は核心をついている。
以上のことをふまえるならば、戦場における死の特異な魅力について語ったパーペンのレトリックのうちに現在のドイツ政府の真の計画を見出そうとする一部のジャーナリズムや外交官たちがいかに間違っているかを理解することは困難ではない。ナチスはパーペンの短い首相就任期間中、彼を主として竜騎兵大尉と呼んでいたが、そのパーペンはナチスに囲まれた永遠の見習いであるかのように感じていた事実を忘れてはならない。5月13日、彼は調子を合わせるためにきわめて高い音調で語ったが、彼は計算間違いをしていたのである。
一服の薬を服用してからコップー杯の水を飲みほすまでのあいだに、動脈硬化症よりも榴散弾の方がましだと若者に説教する老いた竜騎兵大尉のセンスについて何とでも言うことができよう。だが、一つのことだけは議論の余地なく明白である。パーペンの演説の背後には何の計画も隠されていない。現首相[ヒトラー]の「平和主義」の方が副首相[パーペン]の好戦主義よりもはるかに危険である。
ついでながら、ヒトラーの宣言とそれに先行するノイラート(13)やナドルニ(14)らの政策との先鋭な矛盾について説明しておこう。ヒトラーは男爵や高級官僚たちと妥協するという代償を払って首相になった。ヒンデンブルクの取り巻き連中は、ヒトラーの下でも自分たちの政策が実行できると考えて自らを慰めた。ヒトラーに外交政策の舵を完全に握る可能性を与えたのは、おそらくパーペンの演説における威嚇的な響きであったと思われる。5月17日の演説を新首相に指示したのはヴィルヘルム・シュトラッセ[ドイツ外務省]ではない。逆にヒトラーがヴィルヘルム・シュトラッセの男爵や高級官僚たちのわがままを抑えつけたのだ。
だが「公開状」に戻ろう。それは、パーペンが打ち出した海軍の再軍備のスローガンをとりわけ激しく攻撃している。たとえドイツに財源があったとしても――ないのだが――それを軍艦に変えることは許されないだろうし、ドイツにはこの禁を破る力はない。海軍の再軍備のスローガンは、イギリスをフランスの側に押しやるだけである。これこそが「フォン・パーペン殿、外交政策における貴君の真に破滅的な指導の結果なのだ!」。
陸軍のみならず海軍の再軍備をもめざすドイツの闘争は、明確な政治思想にもとづかなければならない。ヒトラーはそれをはっきりと指摘している。「比較的容易に正当化することができるのは、東方の潜在的脅威に対する防衛の強化」の必要性である。このような計画に対しては、西方の――もちろんフランスのことではない――「慧眼な人々」の共感があらかじめ保証されている。ベルサイユ条約の海軍条項についてもその「修正」に対するイギリスの合意を達成することができるのは、バルト海からの「東方におけるわれわれの防衛上の必要性」という観点にもとづく場合のみである。なぜなら、「現時点においては、イギリスに対する全幅の信頼にもとづくことこそがドイツの将来にとって重要である」ことを忘れてはならないからである。
ドイツ国民の運動は再軍備を要求できるし要求すべきであるが、ドイツ政府は絶対にそのような要求をしてはならない。現在はもっぱら戦勝国の軍縮だけを主張すべきである。ヒトラーは、軍縮会議が破産を運命づけられていることを自明のこととみなしていた。権力獲得の3ヵ月前、彼はこう書いている――「ジュネーブ軍縮会議の喜劇にドイツ代表団が最後までつき合う必要はまったくないであろう。われわれにとっては、フランスに軍縮の意図がないことを全世界に誤解の余地なくはっきりと暴露するだけで十分である。その上で、会議の席を蹴ってこう宣言するのだ。見たまえ、ベルサイユ講和条約はそれに署名した列強諸国自身によって踏みにじられている。ドイツは一定の状況においてはそこから必要な結論を引き出す権利を自らに留保しておかなければならない、と」。
首相としてのヒトラーの国会演説はこのメロディを発展させたものにすぎない。戦勝国による軍縮の拒否は「条約そのものの道徳的・事実的な最終的破棄」を意味しよう。ドイツはこのような行動を「ドイツを会議から排除する」願望の現れとみなす。この場合ドイツが「国際連盟に加盟しつづける」のは困難となろう。まことに「公開状」はヒトラーの戦略を解き明かすまたとないカギである!
ドイツの国連脱退は、一方におけるフランスと他方におけるイギリスおよびアメリカとの間の不和を招くであろう。こうして、「ヨーロッパの均衡」を再建するための最初の前提条件がつくり出され、その中でドイツはますます重要な位置を占めるにちがいない。イタリアとイギリスの協力のもとにヒトラーは、もはや小規模な密輸的手段によってではなく、ベルサイユ条約の「修正」という堂々たる手段によって、ドイツ再軍備の可能性を手に入れる。これと平行して東方に対する「防衛」計画が展開される。この過程は必然的に決定的地点に行きつかざるえない。戦争である。どの国に対する戦争か? 東方に至る道が最小抵抗線でない場合には、爆発は別の方面で生じるかもしれない。なぜなら、たとえ攻撃の手段と防衛の手段とがどの程度区別できるかについて議論することが可能だとしても、東方に対して役立つ軍事的手段が西方に対しても役立つことについては、もはや議論の余地がないからである。
ヒトラーは戦争を準備している。経済分野における彼の政策は、自給自足の抽象的概念に導かれているのではなく、何よりも戦時においてドイツが最大限の経済的自立性を獲得することへの配慮によって導かれている。労働の義務も軍事的準備の目標に奉仕しなければならない。しかし、こうした措置の性格そのものは、問題になっているのが今日明日のことではないことを物語っている。多少とも近い将来における西方への攻撃は、ファシスト・ドイツとソヴィエトとの軍事同盟という条件が存在する場合のみ実行可能である。しかし、このような不条理の可能性を信じたり、それを脅しに用いようとするのは、ロシアの白衛亡命者の中でも最も常軌を逸した部分だけである。他方、東方への攻撃は、西方の列強諸国の一つないしいくつかの支持があってはじめて可能である。こちらの方が、いずれにせよ、より現実的である。しかしこの場合でも準備期間は週単位や月単位では測れない。
4国協定(15)は、基本的に何ものもあらかじめ解決するものではなく、ただ西ヨーロッパの4大国間が相互に探りを入れる過程を組織化するにすぎない。それは2次的な意義しか持たない偶発事に対する保証になるだけで、根本的な相互対立を防ぐものではない。ヒトラーは東方への攻撃のためにこの協定からあらゆる利益を引き出そうとするだろう。協定の条文はそれの今後の運命のせいぜい10%程度しか決定しない。その真の歴史的役割は、その参加諸国、およびその同盟国と敵国の、現実の相互関係と諸編成によって決定されるだろう。
ヒトラーは、今後10年間フランスに対してもポーランドに対してもいかなる軍事的行動にも出ないことに同意した。宣言の中でヒトラーは、軍事力の面でドイツの平等な権利が実現されるべき期限を5年と定めた。もちろんこの期限を神聖不可侵なものと考えることはできない。しかし、それでもそれは間接的に、ファシズムの指導部がその報復計画を閉じ込めておく時間的限界を示唆している。
国内の困難や失業、小ブルジョアジーの没落と絶望は、もちろんのこと、ヒトラーをして、自らの冷静な分析にもとづくなら破滅的とみなしうるような時期尚早の行動に駆り立てるかもしれない。生きた政治においては、敵の計画のみならず、敵が置かれている錯綜した情勢の全体を考慮に入れなければならない。ヨーロッパの歴史的発展は、ミュンヘンの褐色の家でつくられた日程におとなしく従うものではない。しかしこの日程は、ヒトラーによる権力掌握後、ヨーロッパ情勢の最大の要素の一つとなった。計画は事態の発展に応じて変更されるだろう。しかし、その変更を理解することができるのは、この計画の全体をしっかりと認識している場合のみである。
本論の筆者は、ベルサイユ条約を擁護するべきだとはいささかも思っていない。ヨーロッパは新しい秩序を必要としている。だが、この仕事がファシストの手に落ちるならば、それはヨーロッパにとって災いとなろう。その場合には、21世紀の歴史家は必ずやこう書くにちがいない。ヨーロッパの哀退の時代は1914年の戦争から始まった、と。「民主主義のための戦争」として正当化されたこの戦争はやがてファシズムの支配をもたらした。ファシズムは、「解放戦争」…ただし先の戦争の諸帰結からの「解放戦争」という目的に向けてヨーロッパ諸民族の全勢力を集中する手段となった。こうして、ヨーロッパの歴史的行き詰まりの表現としてのファシズムは、同時にその経済的・文化的遺産を破壊する手段となった。
しかしながら、われわれは、この旧大陸が今なお、自らのために別の歴史的道を切り開く十分な生命力を有していると期待しよう。
プリンキポ、1933年6月2日
『反対派ブレティン』第35号
『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)より
訳注
(1)パーペン、フランツ・フォン(1879-1969)……ドイツのブルジョア政治家。プロイセンの土地貴族であるユンカーの代表で、カトリック中央党の指導者。1932年6月1日にヒンデンブルクによってドイツの首相に任命。7月20日にクーデターを強行し、プロイセンのブラウン社会民主党政府を解散させ、自らをプロイセン総督に指名。ドイツ宰相の地位は、1932年12月にシュライヒャー将軍が取って代わられ、1933年1月にヒトラー内閣の副首相になった。戦争中、パーペンはヒトラーに協力しつづける。
(2)サイモン、ジョン(1873-1954)……イギリスの自由党政治家。1906年、下院議員、1915〜16年、内相。1926年、ゼネストの違法性を宣言。1931年、国民自由党を結成。1940年までその党首。1931〜35年、外相、1935〜37年、外相、1937〜40年、蔵相。
(3)チェンバレン、オースティン(1863-1937)……イギリスの保守党政治家、ジョゼフ・チェンバレンの息子。1892〜1937年、下院議員。1902〜03年、郵政相。1919〜21年、蔵相。1924〜29年、外相。1925年、ロカルノ条約の調印に尽くしたとしてノーベル平和賞受賞。
(4)ヘイルシャム卿(ダグラス・マクガーレル・ホッグ)(1872-1950)……イギリスの政治家。当時の陸軍相。
(5)ゲーリング、ヘルマン・ヴィルヘルム(1893-1946)……ナチスの幹部。ヒトラーの片腕。SA(ナチス突撃隊)の組織者。ナチス政権下でプロイセン内相として、国会放火事件をでっち上げて共産党を弾圧。その後プロイセン首相に。戦後、ニュルンベルク裁判で死刑を宣告されるが、処刑される直前に自殺した。
(6)ビスマルク、オットー(1815-1898)……ドイツの政治家。1862年にプロイセンの首相となり、「鉄拳宰相」として強権でもってドイツ統一を推進。1871年から1890年までドイツ帝国の宰相。
(7)ブロックドルフ=ランツァウ、ウイリヒ・フォン(1869-1928)……ドイツの外交官。1922〜1928年、最初のソ連駐在ドイツ大使。1926年の独ソ不可侵条約の締結にあたり重要な役割を果たした。
(8)「戦争を望むなら平和に備えよ」……ラテン語の格言「平和を望むなら戦争に備えよ」をもじったもの。
(9)「パリはミサに値する」……フランス国王アンリ4世(1553-1610)が、かつて軍事的制圧に失敗したパリに入城するため、カトリックに改宗したときに述べたとされる。1593年にカトリックになり、1594年に即位してパリを支配下に置く。
(10)ヒンデンブルク、パウル・フォン(1847-1934)……ドイツのユンカー出身の軍人。第1次世界大戦中は参謀総長として戦争を指導し、国民的人気を博す。1925年に大統領に。1932年4月に再選。1933年1月にヒトラーを首相に任命。
(11)シュトレーゼマン、グスタフ(1878-1929)……ドイツの保守政治家。第1次世界大戦注は国民自由党の指導者で、「勝利の平和」を唱える。ドイツ革命後にドイツ人民党を創設。1923年に大連立内閣の首相兼外相。1925年のロカルノ条約、1926年の国連加盟などを指導。1926年にノーベル平和賞受賞。
(12)「紳士クラブ」……1924年に結成された、ユンカーや将軍や政府高官、大実業家などの集まり。1932〜33年にヒトラーを支援した。1944年に解散。
(13)ノイラート、コンスタンチン・フォン(1873-1956)……ドイツの保守政治家。「紳士クラブ」のメンバーで、1933〜1938年、パーペン、シュライヒャー、ヒトラー内閣の外相をつとめる。
(14)ナドルニ、ルドルフ(1873-1953)……ドイツの外交官。1933〜34年、在モスクワ大使。ジュネーブ軍縮会議のドイツ代表団長。
(15)4国協定……1933年6月7日、イギリス、フランス、イタリア、ドイツがローマで署名した協定。
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