【解説】この論文は、ドイツの破局に関するブランドラー派(右翼反対派)の総括について簡単に批判したものである。
本稿の初出は、『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)であるが、今回アップするにあたって、『反対派ブレティン』所収のロシア語原文に沿って全面的に点検修正している。
Л.Троцкий, Пратформа группы Брандлера, Бюллетень Оппозиции, No.35, Июль 1933.
Translated by the Trotsky Institute of Japan
ストラスブール[フランス北東部]で発行されているブランドラー(1)=タールハイマー(2)のグループの機関紙『流れに抗して』の第5号には、反ファシズム闘争に関するテーゼおよびその他の綱領的宣言が掲載されている。あの破局からブランドラー派は何を学んだのだろうか? 彼らは前進したのか? 最初に言っておくが、このテーゼには一連のまったく議論の余地のない命題が含まれている。主として、党体制、「下からのみの統一戦線」政策、社会ファシズム理論に対する批判に関してはそうである。しかしこうした決定的な考え(これは、ごく初歩的なものであるが、倦まずたゆまず繰り返されるべきである)を除けば、『流れに抗して』は、それが述べていることと同時に述べていないことからして、やはり日和見主義の文書である。
1、このテーゼが、スターリニスト官僚が敗北の重要性を意図的に過小評価しようとしていると非難しているのは正しい。しかしブランドラー派は、破局に対する自分自身の評価から党に関する必要な結論を導き出していない。彼らは党の再建を課題としている。これまでと同様、彼らは党に復帰する願望を表明している。つまりいかなる破局も起こらなかったかのように振る舞っているのだ。こうしてブランドラー派はスターリニストが敗北の意味と規模を糊塗するのを政治的に助けている。
2、「破綻したのは共産主義ではない」とテーゼは述べる。「極左戦術が破綻したのであり、官僚主義が破綻したのであり、これまで適用されてきた指導方法が破綻したのである」。……問題が政治的にではなく、教条的に立てられている。闘争が生きた政治的諸勢力のあいだではなく、抽象的な諸原則のあいだで展開されたかのようである。もちろん、教義としての共産主義が破綻したのではない。だが、誤った戦術をとり、官僚体制にむじばまれ、プロレタリアートを破局に突き落としたドイツの党は破綻したのである。
3、「極左路線」は崩壊した。その路線はどこから生じたのか? その社会的内実は何か? その担い手は誰なのか? こうした問題については、これまでと同様、一言も語られていない。だがブランドラー派は、破局をもたらしたコミンテルンの誤った政策が10年問も続いてきたことを認めている。肉体のない「極左路線」がこんなにも長く続いた理由は何か?
4、ところで、コミンテルンのエピゴーネンの路線がつねに「極左」であったというのは本当なのか? 5年間にも及んだ国民党への中国共産党の従属は極左だったのか? イギリス労働組合内の前途洋々だった「少数派運動」(3)を破壊した英露委員会の政策をどう評価するのか? インドや日本におけるコミンテルンの政策(労農党)は極左だったのか? 「民族解放」の綱領がドイツの小ブルジョアジーの排外主義的心理に対する深刻な日和見主義的迎合であったし、今でもそうであるのは明らかではないのか? ブルジョ平和主義者や孤立した民主主義的個人などとのブロックという現在の政策を極左とみなせるのか? 反戦大会、反ファシズム大会、反帝国主義連盟など、一般にミュンツェンベルク(4)によって指導された仮面舞踏会といかさま仕事のすべてはどうか? 統一戦線を組んでいるあいだはずっと社会民主党に対する批判をすべて差し控える用意があることを宣言したコミンテルンの3月5日の宣言を「極左主義」と非難することができるだろうか?
5、すべての外国支部の極左政策はソ連共産党政治局の指令にもとづいているとテーゼは主張する。では、ソ連国内の政策はどうなのか? そこでは極左政策の饗宴が行なわれているのではないか? 全面的集団化と過度の工業化は極左路線の表現ではないのか? そして他方では、ソ連邦における経済的冒険主義の時期に先立って経済的日和見主義の数年があったことを否定できるのか?
6、ソ連共産党の政治局は、テーゼの言葉によれば、何十という国の政策を直接指導するような能力を有していない。そのこと自体には議論の余地はないが、それだけではコミンテルンをむしばんでいる病気の性格を説明したことにはまったくならない。問題が単に、政治局の地理的遠さや時間の不足、各国の状況に関する情報や知識の不足であれば、誤りはてんでばらばらの性格をもったはずである。だが問題は、偶然的な経験的誤りではなく、根本的に誤った一つの傾向なのである。その本質は何か? 何がその持続性、その相対的な一貫性を決定しているのか?
7、政治局の書記長が何十という党を指令するというシステムそのものは何を意味しているのか? それは偶然の産物ないし血迷った結果なのか? ブランドラー派は官僚主義について多くを語っているが、この言葉の意味を明確に理解していない。問題になっているのが個々の偶然的な逸脱ではなく、強力なシステムであるかぎりにおいて、官僚主義とは、プロレタリア前衛と対立しうるし実際に対立している特殊な社会階層たる官僚の思考様式と行動方式である。コミンテルンの官僚主義の基本的な担い手は、ソヴィエト官僚でないのか?
8、ブランドラー派はこの中心問題からの逃亡を余儀なくされている。なぜなら、彼らは、その性格および精神の点で、この同じ官僚制の一部隊――寵愛を失って恨みを抱いている部隊――にすぎないからである。彼らは官僚制の「極左主義」に対しては闘うが、その日和見主義については何も語らない。彼ら自身、そうした右の誤りのすべてを共有してきたし、今も共有しているからである。
9、テーゼは、コミンテルンの誤った政策の始まりがレーニンが仕事から身を引いた時とほぼ一致すると述べている。しかしブランドラー派は、総路線の転換――マルクス主義から右ないし左への転換――がある一つのイデオロギー上のテコを用いてなされたことを知らないのであろうか? トロツキーに対する闘争がそれである。その個々の細部や偽造や中傷を別にして、事態の本質を把握するならば、マルクスとレーニンの方法の修正は、トロツキズムとの闘争の旗のもとに行なわれた。ブランドラー派は今日にいたるまでこのことの意味を理解していない。彼らは、トロツキズムとの闘争は「それ自体としては」正しかったが、過去何年にもわたって党のイデオロギーの基本を形成してきたこの闘争を隠れ蓑にして、何か不可思議な力によってレーニン主義の方針から「極左路線」の方針(実際には官僚的中間主義の方針)ヘの転換が生じたのだとみなしている。
10、ブランドラー派がマルクス主義者、国際主義者であったならば、ソ連邦における中間主義官僚の政策を不可侵と宣言したり、ドイツにおいては自分たちにもその同じ不可侵性を要求したりするなどできなかったはずである。ここで問題になっているのは各国支部の自治(われわれはこのような自治の必要性を全面的に承認する)ではまったくなく、共産主義内における国際的グループ編成に関する誤った評価である。
11、テーゼは、ドイツ共産党とコミンテルンの再建をなしうる勢力はブランドラー派の組織以外には存在しないと宣言している。ドイツに関してこの法外な主張を承認する者がいたとしても(われわれは、これまで述べたことから明らかなように、承認する気は毛頭ない)、コミンテルンに関してはどうか? 共産主義インターナショナルがこの10年間に系統的に解体しつづけてきたというブランドラー派の主張は正しい。だが、ブランドラー派のインターナショナル(IVKO)がこの2、3年のうちにやはり解体してしまったのはなぜか? 彼らは1929年にはそれなりの勢力を持っていたが、現在ではその断片が残っているにすぎない。その理由は、帝国主義の時代にあっては日和見主義の潮流に何らかの生きた国際的組織をつくることは不可能であり、したがってコミンテルンを復活させることも不可能だからである。
※ ※ ※
テーゼには一連の誤ったないし曖昧な、部分的な戦術的議論が含まれているが、これにはいずれ立ち戻る機会があるだろう。今はっきりさせておきたいのは、不幸にしてドイツの破局がブランドラー派には何も教えなかったという事実である。戦術的問題の分野では、彼らは極左ジグザグ路線に対する闘争が問題になっている場合でのみ正しい。しかし、彼らは、スターリン主義の右翼的ジグザグの誤りのすべて、ないしほとんどすべてを共有しており、おそらくはなお悪いことに、彼らはあいかわらず、戦術の問題から戦略の問題に前進することができない。彼らにとって、インターナショナルの政策はあいかわらず各国政策の総和である。現在においてさえ彼らは、世界の労働運動内部の基本的な流れを理解することができず、その中に自らの位置を見出すことができない。まさにそれゆえ、ブランドラー派にはいかなる未来もないのである。
1933年5月22日
『反対派ブレティン』第35号
『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)より
訳注
(1)ブランドラー、ハインリヒ(1881-1967)……ドイツ共産党の創始者の一人。1921年3月事件から1923年の敗北まで党を指導。1924年に指導部からはずされる。共産党内に右翼反対派、ドイツ共産党反対派(KPO)を結成。1929年に除名。その後も、タールハイマーとともに共産党反対派を指導しつづけ、1933年にパリに亡命。1940年、フランスがナチスに敗北すると、タールハイマーとともにキューバに亡命。1948年に盟友のタールハイマーが死去すると、西ドイツに帰国。
(2)タールハイマー、アウグスト(1884-1948)……ドイツの革命家、ローザ・ルクセンブルクの協力者で、ドイツ共産党の創始者の一人。ブランドラーとともに反対派を結成。1929年にブランドラーとともに除名。その後も、ブランドラーとともに共産党反対派を指導しつづけ、1933年にパリに亡命。1940年、フランスがナチスに敗北すると、ブランドラーとともにキューバに亡命。1948年にキューバで死去。
(3)「少数派運動」……イギリス労働組合運動の中の左派組織で、最初、共産党員によって開始された。
(4)ミュンツェンベルク、ウイリー(1889-1940)……ドイツのスターリニストで、共産主義青年インターナショナルの創始者の一人。コミンテルンの資金を用いて出版社、日刊紙、雑誌、映画会社などを設立。ナチスの政権掌握後、フランスに亡命。人民戦線をめぐって意見が分かれ、1937年にコミンテルンから決別。後に、不可解な状況の中で暗殺される。
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