【解説】この手紙は、アメリカにおける労働党の展望について語ったものである。トロツキーは、1932年2月15日のインタビュー「ニューヨーク・タイムズの質問への回答」の中で、アメリカにおける労働党の可能性について次のように述べていた。
「古い地域主義を脱したアメリカの決定的登場、市場争奪戦、軍備増強、積極的な世界政策、現在の恐慌の経験――こうしたすべての事態が合衆国の国内生活に重大な変化を不可避的にもたらすことでしょう。労働党の登場は不可避です。それは、『アメリカ的テンポ』で成長しはじめ、イギリスで自由党が消滅したのとまったく同じように旧来の2大政党のうちのひとつの解体にまで行き着くかもしれません」。
労働党についてのこのトロツキーの発言は、アメリカのなかで論議を呼び起こし、そのために彼はこの手紙を書くことになった。トロツキーは、この手紙の中で、インタビューで自分が語った「労働党」とは、固有名詞としての「労働党(Labor Party)」のことではなく、一般名詞としての「労働者党(Worker's Party)」のことであったが、『ニューヨーク・タイムズ』では、固有名詞としての「労働党」の方に翻訳されてしまったと述べている。
私は、アメリカ共産主義者同盟第2回大会の労働党問題に関するテーゼ(1)を読みなおした。これはどの部分も素晴らしいし、私はこれを全面的に支持する。
1932年3月の『ニューヨーク・タイムズ』に発表された私のインタビューがとくにラブストーン・グループ(2)に誤解と誤った解釈をもたらしているだけに、私としてはこのテーゼとの完全な一致を強調する必要がある。
1、このインタビューにおいて労働党に関する私の考えはどのようなものだったか。労働者階級の党の不可避的かつ差し迫った発展がアメリカの政治的相貌を全面的に変えるという意味で、アメリカの政治はヨーロッパ化されるだろう、と私は述べた。このことはマルクス主義者にとって常識である。問題は、特殊イギリス的意味でなく、ヨーロッパ一般という意味での労働党であり、そのような党がとる形態やそれが経過する段階については述べていない。このインタビューにおいて、共産主義者の隊列の内部における戦術上の意見の相違について立ちいる必要はまったくなかった。ロシア語のテキストでラボチャーヤ・パルティヤ[労働者党]という言葉を使っている私のインタビューの英語への翻訳に欠陥があり、一般的意味であるはずのものを具体的かつ特殊に解釈することを許すことになった。
2、「労働者階級の党」という一般的用語もイギリス的意味における労働党を排除しないと言うこともできよう。そうしておこう。しかし、そのような可能性は具体的戦術問題といかなる関係もない。一定の歴史的条件のもとで、アメリカの労働組合官僚がイギリスの労働組合官僚を模倣せざるをえなくなり、労働組合を基礎にしてある種の党を形成するかもしれないと仮定することもできる。だが、このような可能性――これは私には非常に疑わしいようにみえる――は、共産主義者が追求し、プロレタリア前衛の注意を集中させるべき目標にはならない。
3、コミンテルン内の長期にわたる混乱は、非常に単純で絶対に欠くことのできない原則、すなわちマルクス主義者、プロレタリア革命家は労働者階級に対して2つの旗を掲げることはできないという原則を多くの人々に忘れさせた。マルクス主義者は労働者の集会で「私は一等席の切符と、遅れた労働者向けのより安いもう一つの切符を持っている」と語ることはできない。共産主義者たるものは、共産主義の党のために闘わなければならない。
4、アメリカのような条件のもとではイギリス的意味での労働党も進歩的な一歩であると言えるかもしれないが、このことを認め、そのように言うことは、間接的にであれ、そのような党の形成を助けることになる。だが、まさにそれゆえに、労働党の形成がアメリカにおいても「進歩的一歩」になると抽象的かつ教条的に確認する責任を私はけっして引き受けない。なぜなら、どのような状況のもとで、どのような指導路線のもとで、またどのような目的のためにそのような党が形成されるかわからないからである。私には次のことの方がよりありそうに思われる。すなわち、アメリカは(たとえばイギリスのチャーチスト運動のような)労働者階級による独立した政治的行動の重要な伝統を持たず、またアメリカの労働組合官僚はイギリス帝国の絶頂期における労働組合官僚よりもはるかに反動的で堕落しており、とくにそのようなアメリカにおいては労働党の形成をもたらすことができるのは労働者大衆の強力な革命的圧力と増大する共産主義の脅威だけだろう。そのような条件のもとでは労働党は、進歩的一歩でなく労働者階級の進歩的発展に対する障害になることはまったく明らかである。
5、ごく近い将来のアメリカにおいて労働者階級の党がどのような形態で真の大衆政党になるのかを予測することはできない。なぜなら、社会主義政党や労働党はヨーロッパにおいても国ごとに非常に違うからである。たとえばベルギーにおいて中間的タイプの党の発生を認めることができる。アメリカにおけるプロレタリア党の発展の各段階は疑いもなく独特なものになる。間違いなく確認できるのはただ次のことだけである。すなわち、アメリカは1921〜24年の時期に労働党あるいは農民・労働党(3)を形成するという重要なリハーサルを積んでいるので、同じような運動の復活はこの経験の単なる繰り返しにはなりえず、革命的共産党か、あるいは増大する共産党に反対する改良主義分子かのいずれかの指導の下で、はるかに豊かで明確な運動になるということである。また1921〜24年においてさえ共産党は、形成途上にあった労働党の組織内部において独立した行動の可能性をあまり見いださなかったが、同じような運動の新しい局面においてそのような可能性はよりいっそう小さいだろう。
6、労働組合官僚とその社会主義的・左翼民主主義的助言者たちが考えられているよりも先見の明があって、革命運動があまりに脅威になる前に労働党を結成し始めることができる、と考える者もいるかもしれない。だがアメリカの労働官僚と労働貴族の手探りの経験主義と視野の狭さを考えるならば、彼らがそのような先見の明を有しているとはとても思えない。過去においてそのような試みに結局失敗してきた事実は、これらの官僚たちが、目の前の目標にはかなり固執するが、たとえ資本主義社会の利益のためであっても系統的政治行動を大規模な形では展開しえないことを教えている。官僚はその脳天を震撼させられないかぎり、そのような「過激な」イニシアチブをとらない。しかしながら労働党の結成が共産主義の大きな成功を一定の期間妨げるとすれば、われわれの基本的責務は労働党の進歩性を主張することではなく、その不十分性、曖昧さや限界、そしてプロレタリア革命に対する障害物というその歴史的役割について主張することである。
7、われわれはそのような労働党に入るべきだろうか、それとも外部にとどまるべきだろうか。これは原則の問題でなく、状況と可能性の問題である。この問題はそもそもイギリス労働党に対するイギリス共産主義者の経験から生み出されてきたものであり、この経験は共産主義者よりも労働党にはるかに大きな利益をもたらした。労働党運動に参加し、それを利用できる可能性は、明らかにその端緒の時期、すなわち党がまだ党でなく無定形な政治的大衆運動である時期においてはるかに大きい。そのような時点でこの運動に最大のエネルギーをもって参加しなければならないことは明白である。それは、われわれを排除し、われわれと闘う労働党の形成を助けるためでなく、われわれの活動と宣伝によってこの運動の進歩的分子をますます左に押しやるためにである。自分たちの貧弱な頭を飛び越える何らかの方法をあちらこちらで探し求めている「偉大な」新しい学派にとって、このような考えはあまりにも単純すぎるように見えることだろう。
8、労働党を統一戦線の有機的一部とみなすことは、統一戦線の概念と党の概念をともに誤解するものである。統一戦線は具体的状況と具体的目的によって決まる。党は恒久的なものである。統一戦線のもとでは、われわれは一時的同盟者と手を切る自由を確保する。これらの同盟者と共通の一つの党の中では、われわれは規律とさらには党という事実そのものによって縛られる。国民党と英露委員会の経験を十分に理解しなければならない。共産党の独立性という精神を欠き「大」政党(国民党、労働党)に入りたいという願望にもとづく戦略路線は、同盟者の意思への日和見主義的順応と同盟者を介した敵の意思への順応にもとづくあらゆる結果を不可避的に招く。われわれは、共産主義思想の無敵さと共産党の未来を確信する自らのカードルを教育しなければならない。それと並んでもう一つ別の党のために闘うことは彼らの頭の中に不可避的に2元性をもたらし、彼らを日和見主義の道に押しやる。
9、統一戦線の政策は、大きな利点をもたらすだけでなく、限界と危険をもともなう。統一戦線は、たとえ一時的ブロックという形態であっても、たとえば1923年のブランドラーのように、しばしば致命的にもなる日和見主義的偏向を生みだす。この危険がまさに圧倒的になるのは、共産党が自らの宣伝と行動の力によって形成された労働党の一部になっているような場合である。
10、労働党がわれわれにとって好都合な闘争の舞台となり、共産主義に対する障害物として形成された労働党が一定の状況のもとで共産党を強めることもありうるが、それは、われわれが労働党を「われわれ」の党とみなさず、われわれが無条件に独立した共産党として活動するための舞台とみなす場合だけである。
11、イギリス労働党に関するすべての決議は、コミンテルンとイギリス共産党のこの点に関する経験を積む以前の起草された時点での形式にもとづいてではなく、これまでの経験にもとづいて評価されねばならない。これらの決議を1932年という現在のアメリカの条件に機械的に適用しようとすることは、エピゴーネンの考え方にふさわしいものであり、マルクス主義やレーニン主義とは無縁である。
12、農民・労働党という思想は、言うまでもなく、マルクス主義の裏切り的なまがいものである。
1932年5月19日
英語版『トロツキー著作集 1932』所収
『トロツキー研究』第23号より
訳注
(1)アメリカ共産主義者同盟第2回大会は、1931年11月にニューヨークで開かれた。同大会は、労働党を提唱することには反対するが結成された場合には内部に参加して活動する必要を認める、という決議を採択した。
(2)ラブストーン、ジェイ(1898-?)……アメリカ共産党の指導者、ブハーリン派。1929年に、モスクワの指令によって除名。ラブストーン・グループは、他の右翼反対派傾向と同じように、第2次世界大戦まで存在した。ラブストーン自身は、後にAFL・CIO会長ジョージ・ミーニーの冷戦問題国際関係顧問となった。
(3)農民・労働党……1919年末にシカゴ労働連合は、他の地域の労働団体とともに、全国的な労働党を結成した。これは後に農民−労働党と呼ばれ、1920年代には大統領選挙に立候補した。アメリカ共産党はこの発展を無視したが、1922年末に、コミンテルン代表ジョン・ペッパー(ジョセフ・ポガニー)の指導のもとで方針を転換し、1923年7月の農民・労働党の大会で、同党の支配権を握ることに成功した。シカゴ労働連合と他の労働者団体は手を引き、同党の名前は連合農民−労働党(FFLP)に変更された。その後、この党は、1924年のラフォレット進歩党の大統領選挙運動に協力した。共産党のなかにはこの方針に反対する意見が存在した。指導を求められたコミンテルン執行委員会の意見は、この戦術を日和見主義的であるとみなした。共産党は急きょ、独自候補者を立て、FFLPの一つの支部はそれを支持し、他の支部はラフォレット運動に合流した。
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