【解説】この論文はロシア革命15周年を記念して『反対派ブレティン』に書かれたものである。この中で政治的な意味での経済的な意味でも一国における社会主義社会が不可能なことを改めて簡潔に述べている。
なお、本稿は、英語版から水谷氏が最初に訳し、その訳文を西島が『反対派ブレティン』のロシア語原文にもとづいて入念にチェックし、修正を施したものである。
Л.Троцкий, 15 лет!, Бюллетень Оппозиции, No.31, Ноябрь 1932.
Translated by Trotsky Institute of Japan
10月革命から15年が経とうとしている。この簡単な数字が、プロレタリア国家に内在する巨大な力を全世界に語っている。われわれの隊列の中の最も楽観主義的な者でさえ、誰もこれだけの生命力を予想してはいなかった。それも不思議ではない。そのような楽観主義は国際革命に関する悲観主義を意味したからである。
指導者たちも大衆も、10月革命を世界革命の第1段階としかみなしていなかった。孤立したロシアにおける社会主義の自立的な発展という考えそのものが、1917年には、まったく誰によっても、擁護されることも、想定されることも、定式化されることもなかった。その後の数年間においても、全党が例外なく、経済建設とはプロレタリアート独裁の物質的土台を築くことであり、都市と農村との経済的スムィチカを保障することであり、国際的な基礎の上でのみ建設可能な将来の社会主義社会のための支点を創出することであると考えた。
世界革命への道は、われわれが15年前に予想し期待したよりもはるかに困難で長期にわたるものであることがわかった。外的な諸困難(その中で最も重要だったのは、改良主義の歴史的役割である)に加えて、内的な諸困難(何よりも、まったく誤っており、結果において致命的な、ボリシェヴィズムのエピゴーネンたちの政策)があった。最初の労働者国家の官僚制が、第2の労働者国家の誕生を妨げるうえで決定的なあらゆることを――無意識のうちに(だからといって、その結果がよしましだったわけではないが)――行なった。革命に活路を切り開くためには、エピゴーネンたちの結び目を解きほぐすか断ち切ることが必要である。
革命の発展期間がわれわれの想定した見通しの範囲を越えたとはいえ、それでもやはり、その基本的な原動力と運動法則に関するわれわれの評価は正しかった。これはソ連の経済発展の問題にも完全にあてはまる。現代の生産力は、決議や呪文によって一国の限界内に閉じこめておくことは不可能である。アウタルキー(自給自足)はヒトラーの理想であって、マルクスやレーニンの理想ではない。社会主義と国民的閉鎖性は相互に排除しあう。15年前と同じく今日においても、一国における社会主義社会という綱領はユートピア的であり反動的である。
ソ連の経済的成功は非常に偉大である。だが、ちょうど15周年を迎えた現在、その矛盾と困難はおそるべき規模に達している。計画の遅延や中断や不均衡は何よりもまず指導の誤りを物語っている。だがそれだけではない。それはまた、調和のとれた社会の建設が数十年にわたる絶え間ない試行錯誤を通じてのみ、そして、何よりも国際的な基礎に立ってのみ可能であることを明らかにしている。技術的・文化的なさまざまな障害、都市と農村のあいだの断絶、輸出入貿易の困難、等々は、10月革命が国際的規模で継続されなければならないことを証明している。国際主義は、儀式の慣例などではなく、死活の問題なのである。
記念の演説や論文がたくさん現れるだろう。その大半は、10月のときにはプロレタリア革命に非妥協的に反対した連中によるものであろう。こうした紳士たちは、われわれボリシェヴィキ=レーニン主義者を「反革命」と呼ぶだろう。この種の冗談を歴史が自らに許すのはこれが初めてではないし、われわれはこのことに恨み言を言いはしない。混乱や遅延はあっても、歴史は自分の仕事をやり遂げるだろう。
われわれもまた、自分の仕事を進めよう!
1932年10月13日
『反対派ブレティン』第31号
『トロツキー著作集 1932』下(柘植書房新社)より
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