ジュコーフスキ

トロツキー/訳 志田昇

【解説】これは、トロツキーが最初のシベリア流刑中に『東部評論』に執筆した一連の文芸評論の一つである。きわめて繊細で批判的なタッチで書かれたこれらの文芸評論は、まだ20代前半に過ぎなかったトロツキーの天才的才能を十分に示している。

 この翻訳は当初、『トロツキー研究』第8号に「ジュコーフスキー論」として掲載されたが、今回アップするにあたって、誤植を修正するとともに、詳しい訳注をつけておいた。

Л.Троцкий, В.А.Жуковский, Сочинения, Том20, Культура старго мира, Мос-Лен., 1926.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 50年前の1852年4月12日バーデン・バーデンでワシーリー・アンドレーヴィチ・ジュコーフスキーが死んだ。彼は――自分自身の定義によれば――「ルーシ[ロシア]におけるドイツ・ロマン主義の生みの親であり、ドイツとイギリスの悪魔や魔女の詩的な子守」である。

 伝説によれば、地主のブーニンはルミャーンツェフ(1)総督によるトルコ征伐に出かける自分の農奴たちに別れを告げてこう言った。「かわいいトルコ女を連れてこい。俺の女房はすっかり年をくってしまったからな」。これは「冗談に」言われたのだが、「まじめに」とられた…。それで1783年1月29日、この「冗談」からヴェ・ア・ジュコーフスキーが生まれた。古きよき時代かな!

 ジュコーフスキーはロシアの風土にドイツやイギリスの悪魔どもを適応させ、それによってロシアにロマン主義をうえつけた。この功績の意義はいかなる点にあるか? ロマン主義とはいったい何か?

 傷だらけの言葉! それは古い革袋を想起させる。この革袋は文学史的な進化の過程で絶えず新しい内容をつめこみ、結局いっぱいになって破裂したのである。

 思い出したまえ。ロマン主義はフランス大革命によって「古い秩序」のかせから解放された人間の自我をたたえたティンパニーとシンバルであった。それと同時にロマン主義は思想上の反動の隠れ家であり、ゴシック風大寺院、騎士の馬上試合、農奴制および権威的な教皇主義へ戻ろうとする訴えの旗印であった。

 ロマン主義は「もろもろの悪魔的な天性」のためのメガホンであり、それをつうじて天性はこの不幸で愚劣で卑俗な地上にのろいを投げつつ、天に挑戦したのである。一方で、ロマン主義は感傷的で無内容な憂いに苦しみ、ほほ笑みを浮かべながら空想的な「青い花」を賛美し、思想と意志の衰弱を誇っていた。

 ロマン主義! それは、ドイツ・ロマン派というオーストリア制服を着た、メッテルニヒ(2)の提灯もちであった。その一方で、ロマン主義はヴィクトル・ユゴー(3)とともに非妥協的な政治的亡命者であった。

 ロマン主義、それはあらゆるものだ。自由を愛するとともに奴隷根性をもち、戦闘的で静寂主義的、進歩的で反動的、自由思想的であると同時に正統主義的、巨人のように力強いと同時に子供のように涙もろい。ロマン主義はあらゆる変化を貫いて一つだけ共通点を保っていた。それは理性ではなく感性の生活を生きたか、または生きることをのぞんだ。それは、思想が魂の自然発生的高揚に急いで着せようとする拘束衣から、心理の無規定的で無意識的な闇の力を解放しようと努力した。ロマン主義の案内人となったのは理屈を並べる理性の法則ではなく、とめどもない神秘主義的感性のさまよえる炎である。ロマン主義は「心をひからびさせる」合理主義に、鎖から解き放たれた想像力を対置した。おそらく最も鮮明にロマン主義のこの特徴が表れているのはドイツの詩人ヘルダーリン(4)であろう。「おお、人間は、彼が空想するときは神だが、思考するときは乞食だ」。

 「空想」を本領とするロマン主義は、もちろん骨の髄まで主観的である。結局、ロマン主義は自分の主観主義の勝手気ままさのために疲れはて、その粗野な気まぐれに飽き飽きし、改心した放蕩息子としてカトリック教の胸の中に安らぎを求めた。先回りして指摘しておくならば、ジュコーフスキーは精神のあまりにも荒々しい揺れから身を守った。というのは、彼はけっして教義の権力から抜け出さなかったからである。

 だが、ジュコーフスキーのロマン主義とはいったい何か。「それは――願望、希求、高揚、感情、ため息、うめきである。すなわち、名前のない未完成の希望に対する愁訴であり、それが何だったのか神のみぞ知る失われた幸福に関する悲哀である。それは、あらゆる現実と無縁な世界、もちろん魅力的でかわいいけれども、やはりとらえがたい亡霊の住む世界である。それは憂鬱にのろのろと流れる、けっして報われない現在であり、この現在は過去を悼んで嘆きはするが未来を前方に見ることはない。結局、それは、悲哀を糧とし悲哀なしには自分の存在を維持しえなかった愛である」。

 この詩についてゲーテの詩句を借りて次のように言うことができる。「あらゆるやさしい心情の持ち主は彼の作品から憂鬱の糧を引き出す」。

 ジュコーフスキーの精神的特質と社会環境からこの詩人がもっぱらドイツ・ロマン主義に特別の愛情を抱いた理由が説明される。ドイツ・ロマン主義をフランス・ロマン主義から区別するものは、社会的内容に対する心理的内容の完全な優位性である。ドイツ・ロマン派とともに、ジュコーフスキーは「谷間の柳の発芽」を盗み聞き、肉体の殻から解放された精神の遍歴をながめ、透明な水の精と黒マントの骸骨からなる輪舞をつくりあげる。その一方で、苛酷な現実はまったく彼の芸術的視野に入らないない。芸術はここでは生活の改善ではなく、生活からの小心な逃避の手段として役立っている…。

 ドイツ・ロマン派と同様に、ジュコーフスキーは宿命というピエチズム[敬虔主義]的理念を詩にうたった。当然ながら、これは、批判的に思考したり積極的に闘ったりする必要性から人間を解放し、社会的無関心と空想的なアパシーを正当化するのである。

 観照的なロマン主義は、自己の内面を発達させることによって、当然ながら、インドでニルヴァーナ(涅槃)と呼ばれている精神の深淵にまで到達した。到達し、それにたじろがなかった……。ドイツの教師に忠実に、ジュコーフスキーもまた、マハーバーラタ(5)の一部(『ナラ王とダマヤンティー姫』)を訳すことによってインドに対してロマン主義的な敬意を払った。

 ヨーロッパのロマン主義には、自己の立脚点を1793年[フランス大革命]の諸原理から引き出す戦闘的で解放的な響きがあった。この響きは、ロウソクの光にかざして見てもジュコーフスキーの詩の中には見出せないだろう。この点で誰がより大きな責めを負うべきかを言うことは難しい。それは、平安をそして平安だけを求めた詩人の冷淡なピエチズム的性質が悪いのか。それとも、ドイツの「疾風怒涛」詩人クリンゲル(6)を、生徒たちのために自分の作品に最も厳しい検閲を課した陸軍幼年学校の校長や将軍にしてしまったわが国の社会状況が悪いのか。

 しかし、ジュコーフスキーは、自分の詩に西欧ロマン主義者のもつ抗議の精神を取り入れなかったが、その代わり、上流社会に対する態度という散文的な領域においてドイツ的「ゲミュート(心情)」の持ち主と完全に一致していた。しかし、ジュコーフスキーの名誉のために言っておく必要があるのは、彼は偽善的にふるまわなかったということである。これは彼のドイツの同志たちについてはそれほど無条件に言うことはできない。

 たとえば、彼が「ロシア兵士の陣営に立つ歌人」――詩的というよりは思想穏健な作品――を書いたとき、この詩人を導いていた感性の誠実さを疑うことはできない。兜と鎧、手には盾という古典的なコスチュームに身をかためたこのロシア兵たちは何と芸術的なことか! どうやら装飾や上申書や戦況報告を注釈するような「詩」の運命はこんなものらしい。

 全生涯をジュコーフスキーは温室的な雰囲気の中ですごした。温室の外部で何が起こっているか彼は知らなかった。なぜなら、温室の窓枠にはゴシック風寺院と同様に不透明な色ガラスがはめてあって、温室の内部に永遠の憂鬱なうす暗がりを作りだしていたからである。

 あちらには、つまりガラスの壁の向こうには、死につつある農奴制が、まるで消えかけたランプの灯のように、残忍さと暴力のひときわあざやかな炎をあげて燃えあがっている。あちらには呻きがあり、あちらには歯ぎしりがある。

 他方、「こちら」、つまりロマン主義的温室の奇妙な飾りつけをした舞台装置にあるのは、あったことのない「過去」に対する陶酔、訪れることのない「未来」に対する希求、天上のものに対する思慕、アイオロス琴の伴奏を聞きながらつく中途半端なため息……である。

 そして、全生涯において、ジュコーフスキーの長い全生涯において、農奴制の悪夢は彼の詩的なまどろみを妨げなかった。ジュコーフスキーにおけるこのロマン主義的な静寂主義、社会的思索の鈍重さは、彼自身の幼年時代の印象が、詩人の意識を批判的な仕事にいやでも向かわせるはずのものだっただけに、なおさら驚くべきである。なにしろ、ジュコーフスキーの母は捕虜にされたトルコ女であり、ブーニンの家で女奴隷として生活していたのだから。そして、彼女は自分の息子も属している「旦那たち」のそばに座ることも許されなかった…。息子を愛撫することも彼女はこっそりたまにしかできなかった…。[農奴制の]しきたりの十分はっきりとした実例だと思うのだが?

 つまり、運命がこのバラード詩人の「多感な」魂に着せた市民的無関心という鎧はきわめて堅かったのである!

 ジュコーフスキーの伝記は彼の文学的活動について述べて、――おそらく、たまたま紋切り調の表現を使ったにすぎないのだろうが――「自己犠牲的行為」という言葉を使っている。まったく、これほどジュコーフスキーの文学的相貌にふさわしくない定義を見つけだすことは難しい!

 詩人自身もおそらくこのような定義を拒むだろう。少なくとも、女帝に謁見した時のことを述べたとき、彼は称賛すべき誠実さで、こうつけくわえている。「私は怖じけづかなかった。なにしろ、私の胃の具合はよかった。したがって、魂も調子がよかった」…。ロマン主義的な魂が散文的な胃に直接依存していることについてのこの告白は「シニカルな」冗談とだけみなす必要はない。疑いもなく、彼の魂は、社会的な影響からきわめて熱心に自分を切り離して自分の気分を唯一「自分自身から」引き出すことによって、自己の「独立性」を失い胃の奴隷になる危険を犯しているのである。

 もちろん、われわれにはこの詩人の個人的な善良さと慈悲深さをまったく疑っていない。よく知られているように、1822年に外国から帰ったとき、ジュコーフスキーは書籍商ポポフが彼のために手に入れてやった農奴たちを解放し、ある手紙の中で自分の「奴隷」が自由を得たことについて満足を表明している。しかしながら、疑いもなく、「奴隷」に関していかなる社会的結論もジュコーフスキーが引き出さなかったという事実には変わりがない。いったい彼がそれをできなかったからなのか、望まなかったからなのか……。

 『トルベツコイ公爵の回想録』(7)には、ジュコーフスキーの市民的気分をとてもよく特徴づけている興味深い事実が含まれている。「全般的な福利」という目的を追求した秘密の『幸福の同盟』の「法規」(規約)が詩人に示された。もちろん、その団体に加盟しようという勧誘とともにである。「法規」を返して、ジュコーフスキーは次のように言った。「規約は、実に慈悲深く実に高級な思想を含んでいて、この思想の実現のためには多くの善行を必要とする。私がもしこの善行の必要を果たすことができると確信できれば、幸せだと感じるだろう。しかし、不幸なことに私はそれにふさわしい力を自分の中に感じないのだ」。

 いかに彼がここで彼らしくふるまっていることか。すなわち善行に対するプラトニックな尊敬と社会的消極性とを備えたわが空想的なロマン主義者にふさわしいことか。このロマン主義的な無関心に次のような本物の市民的勇気の声を対照してみたまえ……。「私は詩人である友人(ヴェ・ア・ジュコーフスキー)を模範とすべきだとは思わなかった。思うに、高潔で誠実な人間は形式に関するつまらない判断はわきにおいておくべきで、もしも道徳的な仕事や有益な仕事にできるかぎり協力しうるなら、個人的な不都合や危険さえもかえりみるべきではない」とエヌ・イ・ツルゲーネフ(8)は言っている。

 一方、以下のようにジュコーフスキーを批評するのは、もう一人の市民、ルイレーフ(9)である。「不幸なことに、わが国の文学精神に対する彼[ジュコーフスキー]の影響はあまりにも有害であった。彼の詩の大部分は神秘主義に貫かれており、空想性や曖昧さや何となく不明瞭なものが、彼においてはときには魅力的でさえあり、多くの人を堕落させ、多くの悪を生み出してきたのだ!」と彼はプーシキン(10)への手紙で言っている。

※  ※  ※

 以上で述べられたことは、みなほとんどこの詩人の非常に偉大な純文学的功績には触れていない。忘れてはならないのは、ジュコーフスキーがロシア「文学」を擬古典主義という懲罰大隊からきっぱりと解放し、多くの新しい内容を文学の日常に持ち込んだことである。西欧においては、19世紀ロマン主義は中世の歴史的経験の詩的追体験であった。しかし、われわれロシア人は自分の歴史をいわば短縮された教科書のように通過したのである。わが国には、騎士道も、十字軍も、ゴシック風の寺院もなかった。わが国の文学にロマン主義的傾向を取り入れたことによって、ジュコーフスキーはわれわれの意識を封建制とカトリック教の時代の西ヨーロッパが遺したあの思想的諸要素で豊かにした。このようにして、ジュコーフスキーは単にシラー(11)やゲーテ、グレー(12)、ウォルター・スコット(13)を翻訳しただけではない。否、彼はもっと大きなことをしたのである。つまり、彼はヨーロッパのロマン主義をロシア語に「翻訳した」。このことについてはジュコーフスキーに感謝しなければならない。

 ブランデス(14)が次のように述べるとき、それは無条件に正当である。

「ロマン主義は主としてサロンの詩であり、かつそれにとどまった。美学的な『お茶』が出される機知にとんだ社交界がロマン主義の理想だった。しかし、このサロンの雰囲気の中ではロマン主義は生き生きとしており、魂に始まって魂に終わり、内心の感情を表現し、かつ目覚めさせた。…」。

 ベリンスキー(15)は次のように述べている――「ジュコーフスキーは、ルーシ[ロシア]ではじめて、哀調を帯びた言葉で人生に対する人間の愁訴を口に出した」と。彼以前には、わが国の詩は擬古典主義の図式に合わせた修辞的具体例を提供していたにすぎない。ジュコーフスキーがはじめて詩を個々人の魂の生活に結びつけた。プーシキンと、とりわけゴーゴリ(16)はこの事業をさらに前進させた。彼らは文学を集団的な魂、すなわち社会の生活に結びつけたのだ。

 ジュコーフスキーの名はいかなる文学上の時代にも与えられていない。彼はカラムジン(17)時代とプーシキン時代とのあいだにいる。カラムジンの仕事を完成させることによって、彼はプーシキンのための土壌を準備した。ベリンスキーが述べているように、ジュコーフスキーがなければプーシキンもなかっただろう。これは非常に大きなことであり、われわれは、このことに対して感謝しなければならないのである。

『東方評論』第89号

1902年4月19日

ロシア語版『トロツキー著作集』第20巻『旧世界の文化』所収

『トロツキー研究』第8号より

 

  訳注

(1)ルミャーンツェフ、ピョートル(1725-1796)……ロシアの軍人、元帥、伯爵。1764年よりウクライナの総督となり、ロシア化政策を進める。露土戦争でも戦功をたて、「ドナウ公」の称号を得る。

(2)メッテルニヒ、クレメンス(1773-1859)……オーストリアの反動政治家。1821年から48年までオーストリアの宰相として、反動支配を確立。プロイセンとともにドイツ連邦を形成し、さらにヨーロッパの半導体国と神聖同盟を結成。1848年の革命で失脚し、イギリスに亡命。

(3)ユゴー、ヴィクトル(1802-85)……共和主義的・人道主義的傾向の強いフランスのロマン主義作家。ナポレオン3世のクーデターに反対して国外追放となり、19年間亡命生活を送る。『レ・ミゼラブル』『93年』など。

(4)ヘルダーリン、ヨハン(1770-1843)……ドイツの詩人。ヘーゲル、シェリングと交わり、理想主義的革命思想を培う。イエナでゲーテやシラーと交友。理想主義的な叙事詩を多数執筆。『ギリシア』『人間』『祖国のための死』『パンと葡萄酒』など。

(5)マハーバーラタ……古代インドの大叙事詩。18編10万頌から成る。400年ごろに現在の形が確定。

(6)クリンゲル、フリードリヒ(1752-1831)……ドイツの作家、詩人。ゲーテやレンツと並んで、「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)期」の代表的作家。後に軍務に就き、ロシアの将軍となる。戯曲『シュトゥルム・ウント・ドランク』など。

(7)『トルベツコイ公爵の回想録』……トルベツコイ公爵(1790-1860)は、ロシアの軍人で、1819年に秘密結社デカブリストの創立メンバーとなる。1825年、反乱の独裁官に選ばれたが、当日現場に現われず、反乱失敗の一要因になった。1826年、シベリアへ終身流刑。1856年に恩赦で帰郷し、回想録を執筆した。

(8)ツルゲーネフ、イワン(1818-1883)……ロシアの作家。リアリズム文学の代表者。貴族の子、ペテルブルク大卒。ドイツに留学し、ベリンスキーに認められる。1860年代の革命的雰囲気の中で、連作『ルージン』『アーシャ』『貴族の巣』『その前夜』『父と子』などを発表。また、その『父と子』の中で、雑階級知識人のニヒリストバザーロフを登場させ、論議を呼ぶ。

(9)ルイレーエフ、コンドラティー(1795-1826)……ロシアの詩人、革命家。軍人の子、士官学校卒。1813〜14年にナポレオン戦争に従軍。1923年に秘密結社デカブリストに加盟。1925年のデカブリストの反乱の首謀者の一人。処刑。

(10)プーシキン、アレクサンドル(1799-1837)……ロシアの詩人・作家。ロシアの専制政治を批判し、革命運動に共感を示した。1917年の「自由」、18年の「農村」で専制政治を批判して、ペテルブルクを追放。1923〜31年に自伝的物語史『エフゲニー・オネーギン』を執筆。デカブリストの友人。晩年は歴史小説に関心を示し、『プガチョフの反乱』『スペードの女王』『大尉の娘』などを執筆。ロシア近代文学の父。

(11)シラー、ヨハン(1759-1805)……ドイツの劇作家、詩人、歴史家。ドイツ古典主義の代表者。『ドン・カルロス』『ヴィルヘルム・テル』など。

(12)グレー、トーマス(1716-1771)……イギリスの詩人。屈折した心理状態を描く作品が多い。ロマン主義の先駆。

(13)スコット、ウォルター(1771-1832)……イギリスの詩人、作家。スコットランド生まれ。最初、物語詩人として名声を馳せるが、後に歴史小説に転向。近代歴史小説の祖。

(14)ブランデス、ゲオルグ(1842-1927)……デンマークの文芸評論家。最初キルケーゴールの影響を受けたが、J・S・ミルやH・スペンサーなどと交わって、戦闘的無神論の立場に。当時隆盛だったロマン主義を批判して、自然主義リアリズムを提唱。『キルケゴール』『シェークスピア』『ゲーテ』など多くの伝記を書いた。

(15)ベリンスキー、ヴィサリオン(1811-1848)……ロシアの文芸評論家。1940年に『祖国雑記』という雑誌を編集し、若い世代に強い影響力を持った。ゲルツェン、ツルゲーネフ、ドストエフスキーなどの新人を発掘。ロシア文学の黄金時代を築く。

(16)ゴーゴリ、ニコライ(1809-1852)……ロシアの作家、リアリズム文学の父。ポルタワの地主の息子。農奴制下の小役人や貴族や官僚社会を風刺し批判する作品を多く執筆。『検察官』『狂人日記』『死せる魂』など。

(17)カラムジン、ニコライ(1766-1826)……ロシアの作家、歴史家。フランスの啓蒙思想の影響を受け、ヨーロッパに留学、そのときの経験をまとめた『ロシア人旅行者の手紙』を発表し、脚光を浴びる。後に、宮廷付の歴史編纂官になり、大著『ロシア国家史』を執筆。

 


  

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