シベリア代議員団の報告

――ロシア社会民主労働党第2回大会
トロツキー/訳 志田昇

【解説】本書は、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂の契機となったロシア社会民主労働党第2回大会(1903年)の直後に書かれたパンフレットである。

 この第2回党大会において、レーニンの提案した規約第1条案(組織に入るものを党員とみなす)とマルトフの提案した第1条案(組織に入らなくても組織の指導を受けるものも党員とみなす)とが対立し、選挙の結果マルトフ案が採択された。続けて、人事をめぐって再び先鋭な対立が起き、それまで6人で構成されていた『イスクラ』編集部をレーニンとプレハーノフとマルトフの3人にするというレーニンの案が採択された(このときのわずかな多数を理由に、後にレーニン派は多数派=ボリシェヴィキを名乗り、マルトフ派は少数派=メンシェヴィキを名乗ることになる)。

 トロツキーは、大会直後に数日のうちにこの報告書の最初の原稿を書き上げ、それは写本されて広く流布した(その最初の草稿のロシア語原文と全訳は『トロツキー資料集』Vol.1に所収)。実はこの最初の報告では、レーニンと並んで、プレハーノフをも厳しく批判されていた。なぜなら、プレハーノフは、大会の途中で規約第1条案をめぐる論争に介入し、この問題があたかも日和見主義かどうかを分ける根本原則をめぐるものであるかのように主張して、レーニンを強く支持したからである。不幸な分裂を促進し固定化する上でプレハーノフはある意味で決定的な役割を果たした。

 にもかかわらず、プレハーノフは、大会後の形勢がレーニン派に不利になっているのを察知するやいなや、さっさとレーニンを見捨ててマルトフ派につき、あろうことか、最も激しい言葉でレーニンを批判し始めたのである。かくして、『イスクラ』派の主要幹部の中ではただ一人レーニンだけがレーニン派に残されることになった。最初の報告書の中でレーニンと並んでプレハーノフをこっぴどく批判していたトロツキーは、困った立場に置かれることになった。そこで、トロツキーは、この原稿をパンフレットにする際、プレハーノフを批判していた部分をすべて削除して出版することにした。序文の中でトロツキーは、「副次的または個人的な意義しかもたない若干の細部を削除した」と言い訳しているが、しかしその削除の性格は「副次的」なものでも「個人的」なものでもなかった。かくして、プレハーノフの果たした役割は、その後の組織論争の中で都合よく忘却され、レーニン一人の意志(真の前衛党を建設するための良き意志であれ、自己の個人的権力欲を満足させるための悪しき意志であれ)によって分裂が引き起こされたという神話が作り出されたのである。

 いずれにせよ、トロツキーはこのパンフレットを出版することで、レーニン攻撃の急先鋒に立つことになった。「レーニンの棍棒」とまで呼ばれていたトロツキーは、このとき以降、レーニンと厳しく対立するようになり、この不幸な断絶は基本的に1917年まで続くのである。

 ところで、トロツキーはこのようにしてレーニン批判の先頭に立ったにもかかわらず、プレハーノフは自分を一度は厳しく批判したトロツキーの罪を忘れてはいなかった。マルトフ派についたプレハーノフは陰に陽にトロツキーを攻撃し、ついには彼を『イスクラ』編集部からも排除した。トロツキーは、こうしてメンシェヴィキからも離れることになった。だがこのことは、党の問題に関するこれまでの考えを根本的に考え直させるきっかけとなった。トロツキーは、あの分裂が必然的で原則的であったというこの『報告』の中で述べられている意見を事実上撤回し、党の分裂は不幸な出来事であり、必要なのはボリシェヴィキとメンシェヴィキを統一した党であるという立場に頑として立つことになった。「レーニンの棍棒」から「メンシェヴィキの棍棒」へ、そして非分派主義の党統一派へ、このようなトロツキーの立場の大きな変転は、党内におけるトロツキーの立場を著しく弱めることになった。だが、同時に分派的利害に拘束されないトロツキーの立場は、大衆運動が盛り上がり、革命的高揚が高まったときには、多いに強みを発揮した。最も大胆に大衆の中に分け入り、革命を指導することを可能にしたからである。

 なお、原文には小見出しはついていなかったが、読者の便宜を考えて、英語訳を参照に、適時、小見出しをつけている(『トロツキー研究』第16号に掲載されたときと一部表現を変えている小見出しもある)。

Л.Троцкий, Второй съездь Рос, Соц.-Дем. Рабочей Партий: Отчет сибирской делегации, Женева, 1903.

translated by Trotsky Institute of Japan


  序文

  ロシア社会民主労働党第2回大会

  結びに代えて一言

  訳注


 

序文

 私は、この著作を初めから出版するつもりだったわけではない。それは、わが党のさまざまな委員会に向けて、遅れが許されない扇動のために大急ぎで、大会後ほとんど2日で書きあげられた。この著作は、私を大会に派遣した組織、シベリア同盟の代議員による報告書の形をとったが、この著作に触れられている問題の焦眉の性格のために、私が予想した以上に広く普及することになった。写本や写本の写本が現れたが、昔の写字生ラブレンチー修道士の流儀で言えば、「書き落とし」「書き加え」「書き変え」が沢山ふくまれていた。この自然的過程は、ついにヨハネス・グーテンベルグ(1)の介入がほとんど避けられない段階にまで達したのである。

 しかし、私にこの報告を出版させたのは、ラブレンチー修道士たちの誤りだけではない。もっと重要な理由もある。

 大会で明らかになった、組織をめぐる意見の相違は、議長の閉会の言葉とともに終わりはしなかった。意見の相違は議場を抜け出して、全党に広がった。今や、大会に関する声明とともに、意見の相違は完全に明るみに出た。それについて沈黙したり、それを回避したりすることはできない。必要なのは、それを取り除くことである。

 全党員が、意識的にせよ半ば意識的にせよ無意識的にせよ、2つの傾向に分かれてグループを形成した。意見の相違は――それが組織をめぐるものであるだけに、なおさら容易に――衝突に変わりつつある。この実践過程で、2つの傾向はますます明確になりつつある。もっとも、同じテンポでというわけではないが。本報告の筆者が与している複雑な方の、「弁証法的な」党組織論は今のところようやく一般的輪郭が現れたにすぎないのに対し、その対立陣営の極度に単純化された組織論は、ほとんど完璧に「純粋」な形をとっているだけでなく(参照、たとえば、在外連盟大会議事録)、多くの点で裏返しの形をとりさえしている。もっとも、その場合も何らの成果もあげていないが。

 報告はこの2つの傾向の出発点を記録しているにすぎない。この側面からみれば、報告は主として「歴史的」な関心の対象である。しかし、この2つの傾向が将来どうなるかに生きた関心を抱いている人は――そして党員なら誰でもそれに関心をもたざるをえないが――その現状を最近までの過去と比較しなければならない。そして、その点では、私の報告は、今なおその差し迫った意義を失っていないし、今後も失わないだろう。

 最近、筆者は、非常に権威ある同志[プレハーノフ]によって書かれた『イスクラ』の論文(「何をなすべきでないか」、『イスクラ』第52号)を読んで、大きな精神的満足感を得た。というのは、その論文の中で、党組織を混乱させる「中央集権主義」の若干の特質がこの報告でたびたび使われている用語で性格づけられていたからである。これは、[同じ対象には同じ]定義がペンの下からおのずと出てくるためであろう。

 この手稿から、私は、副次的または個人的な意義しかもたない若干の細部を削除した。そうした細部は、党のさまざまな委員会にあてた非公開の文書にふさわしいものであっても、印刷されたパンフレットには場違いだからである。残りのすべての部分は、手稿のとおりに印刷されている。

                                    N・T

 

ロシア社会民主労働党第2回大会

――シベリア代議員団の報告

 

   第2回党大会の意義

 親愛なる諸君!

 諸君はわれわれに党の第2回大会においてシベリア同盟を代表するよう委任した。現時点においてこれはすでに果たされている。第2回大会――燃えるような期待とあの巨大な希望の対象であり、それに先立つ粘り強い組織的な仕事の終わりであり、党の政治生活全体の始まりとなった第2回大会――はすでにやり遂げられた歴史的事実である。ありていに言えば、大会は期待通りにはいかなかった。大会によってわれわれは多くのものを得たと同時に多くのものを失った。何よりもありそうもないと思われた所で思いがけなく生じたあの激しい対立からわれわれはまだ冷めていない。それゆえ、大会のプラスとマイナスを数え上げ、その作業に政治的バランスシートをつけるのは難しい。ロシア社会民主主義の将来の歴史家はわれわれよりもうまく公平にこのことを行なうだろう。しかし、われわれもまたこの課題を避けるわけにはいかない。第2回大会の諸決定は、党活動においてわれわれが立脚し、それに立ち返る公式の基盤である。そして、それははっきりしない長期間……すなわち、第3回大会までそうなのだ、同志諸君!

※原注 この報告は同盟の2人の代議員の名で書かれた。

 われわれが大会の仕事に秘められている「徴候」を大会における同志の主観的な論理によってではなく、むしろ、わが党の発展における客観的な論理によって明らかにしようとしないかぎり、われわれは諸君に対する義務を果たしたことにはならないだろう。われわれが大会においてとった行動の政治的意味を、大会議事録以上に諸君に解明しないかぎり、われわれは諸君に対する義務を果たしていないことになるだろう。われわれの報告が、諸君のうちの誰かが公式議事録の膨大な資料をもっときちんと検討する際の案内になることを希望する。また、わが党の将来の歴史家は、この文書を「人間的なドキュメント」として使うかもしれない…。

 同志諸君、諸君はわれわれが大会をどのように見ていたかご存じだろう。もちろん、われわれはあらかじめ大会に対してわが党の運命における名誉ある地位を与えていた。しかし、大会の創造者的意義を過大評価したことでわれわれを非難する者はいないだろう。われわれは、大会が水をブドウ酒にかえたり、数個のパンで数千人の飢えを満たすことができるなどと一瞬たりとも思ったことはない。党は地方の諸委員会の算術的総和ではない。党とは統一した有機体である。だから、党が技術的、理念的統合の長期にわたる組織化作業によって創造された限りでしか、大会は党を創造できないのである。「ひたいに汗して」われわれはこの仕事を行なっている。やがて、われわれの成果を正式に確定する必要性が感じられ始める時が来るだろう。その時大会は本領を発揮する。大会はわれわれの背後で半分なされたことを意識の明確な領域にもたらし、われわれの個人的な努力と集団的な努力の合力を記録し、形式上の特徴をはっきりさせ、法的規範を確立し、規約をつくり出し、項目にわけ、条文を書きこむ。大会は、記録係であり統制者であるが、創造者ではない。われわれが知る限りでは、長く待たれていた大会をこの観点から評価する用意がすべての同志にできていたわけではない。われわれは、過大な期待は過大な失望、いや不当な悲観主義にさえ場を譲りうる、という懸念を表明する。しかし、同志諸君、もちろん諸君は大会の役割に対する原則的な見方においてわれわれと異なることはない。その証拠は、諸君が時機を失せずに組織委員会の注意を喚起したあの決定である

※原注 この決議の趣旨は、大会が党の事実上の統一を十分に強化する場合のみ、大会が成功裡に開かれたことになる、というものであった。

 すでに述べたように、大会は記録係にすぎない。このことをあまりにも形式的に理解する必要はない。大会自身が、党の団結を固めるという組織的な仕事の構成要素とならなければならない。われわれがすでになされた仕事を規約の条文の中に記録するとき、われわれは単に法律的な儀式を行なっているのではない。否、われわれは実践の諸要素を持ち寄り、それらを分析し、そこから大いに貴重な教訓を引き出し、今後の仕事をより正しく行なうための方策を定めるのである。言いかえれば、われわれは自己教育の作業を行ない、実践的・理論的経験の成果を分かち合うのである。大会は数週間の間、さまざまな地域や、党活動のさまざまな分野で働いている諸同志を一つにまとめなければならなかった。そして、――これは特に重要なのだが――実践活動家と理論的指導者とを一つにまとめなければならなかった。理論家は、自らの結論を実践的に遂行する課題をになっている人々と面と向かい自分の理論を検証しなければならなかった。実践家は自らの扇動活動の糧となる普遍的思想の新しい蓄えを持ち帰らなければならなかった。大会のこの教育的な側面を、この1年間ロシアや外国の同志たちとの討論において特に粘り強く強調してきたのは、P・B・アクセリロート(2)であった。

 

   第2回党大会の実際の成り行き

 形式的にはそうではないが実質的には創立大会であった第2回大会に関する報告が、何よりも綱領と戦術決議の集団的な作成の情景――すなわち、われわれに社会民主党と名のる権利を与えているわれわれの思想と行動の根本特徴を集団的に確立する作業の情景――を描き出すだろうと誰もが期待するのは当然である。

 しかし、これを期待する人は間違っている。

 たしかに、大会はわれわれに綱領を与えた。もっと正確に言えば、大会は『イスクラ』と『ザリャー』の編集局によって提出された綱領草案を本質的な修正なしに採択した。そして、大会の仕事におけるこの部分は無条件に積極的なものであった。しかし、これについては何も言うべきことはない。なぜならば、大会は本質的にはこの分野においては「万事うまくいっている」ということを確認したにすぎないからである。同志マルトゥイノフ(3)や同志アキーモフ(4)や若干の「ブント」の代議員の「批判的」発言は孤立したものであった。戦術に関する決議に関しては、討議の時間が足りなかった。これらの決議は、2、3の例外を別にすれば、「少数派」(それについては後で述べる)によって作成され、空いた時間に大ざっぱに討議され、最後の会議の最後の2、3時間で大会によって採択された。

 したがって、同志諸君がわれわれの報告の中に探しているものを見い出せないとしても、その責任は報告者にはない。報告者自身、探していたものをすべて大会で見い出したわけではなく、当然ながら、自分自身に与えられた以上のものを人に与えることはできない。報告のほとんどすべてが規約と選挙に関する諸問題をめぐる投票の記録と性格づけに割かれているのは、大会の注意が不当にこの領域に集中したからである。会期の後半には、大会はまったくのバクチ的投票合戦と化してしまった

 すでになされた組織上の仕事を意識化し意味づける代わりに、大会はすべてを払いのけ、白い石板の上に神の御言葉にしたがって戒律の文字をきざみはじめた。実際に形成されつつある組織、影響力を獲得し強めつつある組織を大会は考慮しなかった。そうではなく、大会は自由な手で、もっと正確にいえば、自由な多数の手で(24本あった)、バラバラの諸部分から新しいグループをつくり、規約の条項によって影響力を「授けた」。大会は創造しているつもりであったが、破壊したにすぎなかった。

 驚いたことには、諸君も知っているように、組織規約の若干の副次的な細部が前面に押し出され、この細部に関する意見の相違が「多数派」をつくりだした。この多数派は非常に狭い基礎の上にグループを形成したが、にもかかわらず、闘争の中でそして闘争のために形成された古い組織の粉砕に取り組んだ。諸君も知っているように、大会を揺るがしたのは、政治闘争を深め広げる課題ではなく、中央委員会と中央機関紙編集局におけるメンバーの「補充の相互承認」に関する問題であった。熱烈な討論の対象になったのは、若干の都市で組織労働者の3分の2が地方委員会の指導の外にあるという問題ではなく、中央委員会の新しいメンバーを登用するのに3分の2の票でよいのか、それとも、全員一致でなければならないのか、という問題であった。貴重な時間を費やしたのは、武装デモの問題ではなく、評議会の「5番目」の人物の問題[評議会の5番目の人物をどのように選出するかという問題]であった。この秘密の人物に関する問題は意外にも大会で表面化し、今や「革命的社会民主主義」にとってほとんど死活の問題となった。

 事実は、あるがままに受け入れなければならない。その背後に一般的な原因を見いだすことが必要である。「補充の相互承認」と「全員一致制」に関する論争が単に法律的な「頭の体操」ではないことを説明する必要がある。「5番目の人物」も救いの女神ではないことを示さなければならない。ここに課題がある。

 

   ブントの離脱

 大会は記録係であり統制者であるが、創造者ではない。このことはまず、われわれに多くの時間を浪費させた「ブント」問題に現れた。ブント代表団が大会でとった態度はすべて過去の総決算であった。もちろん、諸君もご存じのように、この作業の結果「ブント」は離党した。この行為は「ブント」のわが党への実際の関係――というよりは、その欠如――の法的な表現でしかなかった。

 「ブント」は党の混乱状態の中で成長し、強化された。われわれはその指導者たちの実践的エネルギーを十分に評価しなければならない。彼らは自分の組織を「自然発生性に抗して」育てあげたが、不幸なことにそれはまた、「理性に反して」もいたのだ――たとえ教区の「都合」という狭い悟性に反してはいないとしても、いずれにせよ、全党的利害という政治的理性に反していた。「ユダヤ人居住区」に囲まれた狭い区域で彼らがはらった努力は、もっと広い規模でならば何倍も大きい結果をもたらし得たであろう。

 党は彼らにとって一つのフィクション、表向きの看板である。したがって、党の切実な課題に対する彼らの態度は純粋に表向きのもの、つまりフィクションである。組織委員会がつくられた時、彼らはそこに自分たちの代表を送った。党に属しているということが彼らに強制したことは、これだけであった。

 1898年以後のわが党の悲劇的な運命がブントの特殊な運命に重くのしかかっていた。ブントの組織的な孤立はその活動家たちの革命的エネルギーを狭い容器に押し込み、その指導者たちの政治的視野を――おそらく長期にわたって――容赦なく狭めた……。

「当該の社会運動に加わっている個人の数が少なくなるほど、運動が大衆運動である程度が少なくなるほど、普遍的なもの、合法則的なものがいよいよはっきりしなくなり、偶然的なもの、個人的なものがいよいよそこで支配的になる」(カウツキー『社会革命』、21ページ)。

 プロレタリアの政党はただ政治的、つまり国家的な枠によってのみ制限されうる。ただこの場合にのみ「普遍的なものと合法則的なもの」、つまり、社会民主主義の諸原理は運動の基盤に深く根づくのである。ブントの活動領域は国家的ではなく、民族的な特徴によって性格づけられている。「ブントはユダヤ人プロレタリアートの組織である」。第1回大会まではこうした状況は政治的ではなく、技術的な(広義の)意味を持っていた……。「ブント」は住民の大部分がイディッシュ語を話す地域で活動をするための党組織であった。党の「黙認」のもと――というのは、当時、党はその分散的細分状態ゆえに、あまりにもしばしば壮大なフィクションの役割を演じていたからだが――「偶然的なもの、あるいは特殊的なもの」が「一般的なもの、合法則的なもの」に対して優勢になった。組織的・技術的な事実が民族的な政治的「理論」にまで、まつりあげられた。党の第2回大会に先立って開かれたブントの第5回大会は次のようなテーゼを提起した…。

「自己の活動においていかなる地域的な枠によっても制限されないユダヤ人プロレタリアートの社会民主主義(?)組織であるブントは、その唯一の代表として党に加わる」。

 ブント内の「特殊的なもの」と「普遍的なもの」との争いはこのように解決された。以前、少なくとも意図においてはユダヤ人プロレタリアートの間での社会民主党の利害の代表者であったブントは、今や社会民主党に対するユダヤ人プロレタリアートの利害の代表者になった。それだけではない。「党に属する他の諸組織以外にブントも活動している特定の地域では、全プロレタリアートの名において行動することはブントが参加する時のみに許される」とされたのである。階級的観点が民族的観点に従属し、党は「ブント」の統制下に置かれ、「普遍的なもの」が「特殊的なもの」の支配下に置かれている。

 われわれは、古代ギリシャ人の政治的心理――「自分たちの」都市という狭い郷土愛主義(パトリオティズム)――を清算し、国家主義者である古代ローマ人の観点に立つために粘り強く活動し、多くのことをなした。大会はこの仕事の勝利の場でなければならなかった。そしてその大会でわれわれは、戦闘的地方主義と教区的な傲慢さ――これらはわれわれの革命運動におけるつい最近の重苦しい遺産である――を政治的な特徴として持つブントの代表団と衝突したのだ。組織分離主義の理論的根拠としての民族主義的な傾向はこの特徴にあまり積極的とはいえないものをつけ加えた。「普遍的なもの」と「偶然的なもの」がこの大会で面と向かうことになった。投票を数えることだけが残った。40票に対してブントの5票と3人の棄権。そして、「ブント」は党を離れた。

 

   『イスクラ』派の分裂

 大会は記録係にすぎず、創造者ではない。この命題の正しさに対する最大の疑問が生じたのは、われわれが大会の最も劇的な瞬間に近づいた時である。つまり、党規約の作成と党「中央」の創設をめぐる精力的で情熱的な闘争に近づいた時である。あれほどの全員一致によって「ブント」の連邦主義的要求を拒絶し、『イスクラ』を党の中央機関紙に任じ、『イスクラ』と『ザリャー』の編集局によって作成された綱領を採択した、あの結束した「イスクラ的」多数派をこの闘争は分裂させた。大会が創造者でないなら、それは破壊者、しかも気まぐれな破壊者ではないかと言いたくなる。なぜなら、この「イスクラ的」大会が、党の中央機関紙として大会によって承認されたばかりの『イスクラ』の編集局を情け容赦なく破壊すると誰が考えたろうか。同志マルトフとレーニンが大会で敵対する両陣営の敵対指導者として登場するとは、どんな政治的占星術師が予言できただろうか。

 これは晴天の霹靂のように思えた。しかし、そうではなかった。この思いがけない、それだけにいっそう重苦しいこの事実は、党によってなされた総括の必要不可欠な構成部分でしかなかったのだ。死者が生者に自分の意志を押しつけた。われわれは近い過去の債務に対する純粋に高利貸的な請求書の支払いをつきつけられたのだ。歴史はシェークスピアのシャイロックのような非情さをもって生ける党組織の肉片を要求した。いまいましいことに! われわれはつけを払わなければならなかった…。

 われわれが言っているのは非人格的な歴史の取り立てのことだ。もちろん、だからといってわれわれは同志レーニンの個人的責任を否定しようと考えているのではない。ロシア社会民主党第2回大会で彼ならではのエネルギーと才能をもってこの男は党破壊者の役割を演じた。しかし、すべての罪を彼に押しつけるとすれば、それは問題を許しがたく単純化することになるだろう。大会の仕事の第2期には、「柔らかい」イスクラ派に対抗する「硬いイスクラ派」の新しい結束した多数派がレーニンを支持した。われわれ「シベリア同盟」の代表は「柔らかい」方に含まれていた。そして現在、自己の行為を真剣に評価をした後でわれわれは自分の革命的な経歴を傷つけたとは思わない…。

 しかり! 大会は綱領と戦術における「政治的」傾向の勝利であり、組織における「中央集権主義的」傾向の勝利であった。しかし、この同じ大会は、多くの同志にとっては「政治」も「中央集権主義」もまだ純粋に形式的な意味、つまり「経済主義」と「手工業性」に対する空虚なアンチテーゼという意味しか持たないことを明らかにした。最近、ある同志が正当にも次のような不平をもらしている。

「このごろわれわれの政治的アジテーションはあまりにも抽象的な性格を持ち、労働者大衆の具体的生活や日常の要求とあまりにもつながりがない……。われわれの政治的アジテーションはしばしば空虚な政治的大言壮語になっている」(『イスクラ』43号、編集局への手紙)。

 非常に図式的には次のように言うことができる。以前、われわれは労働組合主義者であった(あるいは、そのようなふりをしていた、もちろん、最良の意図をもったそれであったが)。現在、われわれは、労働組合主義的な訓練を卒業した大衆を空虚な民主主義的な決まり文句によって反ツァーリ闘争に立ち上がらせようと努力している。われわれの扇動の兵器庫には、時として、お決まりの「政治的」定式、ステレオタイプの「専制打倒」の呼びかけ、抽象的で紋切り型であるためにあらゆる革命的内容を欠いた定式や呼びかけ以外に何もないことがある。労働組合闘争を政治的にいかがわしいものと疑うことにしばしば結びついたこの種の「政治」は、形式的には経済主義に対するアンチテーゼである。しかし、それは「経済主義」を「政治的」言語へ翻訳したものにすぎない。

 完全に同種の発展過程を組織論の分野に見いだすことができる。ここでも完全に論破されたと思われた手工業性が中央集権主義の言葉を話すことを学んだのだ。ここではまさに中央集権主義が地方的課題と一般組織上の課題とのジンテーゼ(総合)ではなく、手工業性に対する単なる論理的アンチテーゼであり、「裏返しにされた」形式的な概念構築物である。哲学的なペダンチズムを恐れずに言えば、多くの同志の組織論は戦術論と同様に形而上学の水準にあり、弁証法の水準にはない。

 以前、「経済主義」の時期に、これらの同志たちは自ら取り組んでいた労働組合的利益を自らが無視した階級政治の一般的課題に結びつけることができなかったし、そうすることを望まなかったのに対し、現在、「政治」の時代には、彼らは自らが形式的に承認した革命的・政治的闘争の課題を当面の要求、特に労働組合的要求に結びつけることができないでいる。以前、「手工業性」の時期に、彼らが意識の中で地方の仕事のこまごまとした課題を戦闘的な全党的中央機関創設の必要性に結びつけることができなかったし、そうすることを望まなかったとすれば、「中央集権主義」が花盛りの現在、彼らはこの機関に関する判断や決定において、この機関の創設目的でありまたその行動基準でもあるべき諸課題のすべての実践的複雑性党的具体性を完全に捨象してしまっている。そして、先回りして言えば、まさにこの理由によって、レーニンの直線的な、つまり純粋に形式的な「中央集権主義」の最も決然とした味方となったのが…かつての経済主義者たちだったのである。彼らこそが最高に硬い「イスクラ派」であることがわかったのだ。

 

   規約第1条

 大会での意見の相違はすぐには表面化しなかった。それは、私的な会話や協定の試みがなされている間に蓄積されていったのであり、長い間隠されていた。大会に出席していた「公式の」イスクラ派(つまり、「イスクラ」組織のメンバー)の内部における分裂の出発点になったのは、中央委員会の構成とその任命方法に関する問題であった。この問題をめぐって党「中央」諸機関(編集委員会と中央委員会)の相互関係に関する一連の意見の相違が蓄積していった。イスクラ組織の私的な会合――われわれの1人、つまり本報告の筆者がそれに出席した――は、われわれを統一に近づけたのではなく、逆にいよいよそれから遠ざけたので、意見の相違が自然発生的に出口を求めたのも当然なことであった。

 規約第1条――「党員」概念の規定――が最初の公然たる衝突の舞台となった。この衝突は、実質的には、われわれを分裂させた焦眉の問題とは直接関係のない原因でおこった。とはいえ、衝突は「宿命的」な性格をもっていた。大会は「規約」委員会から出た2つの定式、マルトフとレーニンの定式、つまり「柔らかい」イスクラ主義と「硬い」イスクラ主義をめぐって2つのグループに分かれた。たしかに、大会のメンバーの多くは当時どこが「柔らか」でどこが「硬い」のかまだはっきりと「理解」しておらず、投票はかなり入り乱れたものであった。しかし、闘争はすでに激しく、将来を予感させるものであった……。

 レーニンの定式――党の綱領を承認し、党を物質的に支持し、党組織の1つに参加している者すべてを党員とみなす。

 マルトフの定式――党の綱領を承認し、党を物質的に支持し、党組織の一つの指導のもとで党に対し規則的に個人的協力を行なう者はすべて党員とみなされる。

 同志諸君、われわれはこれらの定式を詳しく分析しようとは思わない。その作業は大会においてなされ、議事録に記録されている。ただ一つ非常に有意義なことを指摘しておく。それは、同志レーニンの立場の完全な抽象性である。党員には統制が必要である。統制は党員1人1人までに「手がとどく」ことができる場合にのみ実現されうる。だが、「手がとどく」のは、すべての党員が法的に登録される、つまり、しかるべき方法によって党組織の一つに組み込まれている場合にのみ可能である。その時、いたる所にあり、いたる所に浸透し、いたる所に目を光らせている中央委員会は、すべての党員を現行犯でとっつかまえる、というのだ。本質的にこれはかなり無邪気なお役所的夢想であり、問題が実践の領域に移されない間は、「ロシア社会民主労働党第2回大会は日和見主義やインテリ個人主義に対抗する最も確実な規約上の手段を手に入れた」という認識にもとづくプラトニックな満足をレーニンの定式の「支持者」たちに心おきなく与えたであろう。しかし、この不毛な形式主義から今日の党の重要問題に目を移すなら、同志レーニンの定式は非常に重大な不都合を呈することになる。

 多くの諸都市で党委員会とならんで広範囲の組織的な反対派が存在する(ペテルブルク、オデッサ、エカテリノスラフ、ヴォロネジ……)ことは誰にも秘密ではない。同志レーニンの定式は、こうしたすべての「労働者組織」のメンバーが――彼らの刊行物はいつも党の名義で出ていたにもかかわらず――党の外にあると宣言する。もし、これらのグループを党から追い出したくなければ、中央委員会は、レーニンの定式に従うなら、それらを党組織として公認しなければならないだろう。しかし、中央委員会はそうしないし、そうはできないのだ。なぜなら、それらは党が適切であるとみなす原理によって形成されていないからである。明らかにこれらの諸組織のメンバーにこう言っておくよりほかない。諸君、党に留まりたければ、解散してその後で党の正規の組織に加わりたまえ、と。

 「解散せよ!」と言うのは、明らかに、重要な実践的問題の非常に単純化された、純粋に「行政的」な解決策であり、言うまでもなく、多くの公認の「イスクラ派」が志向する解決策である。しかし、われわれにはこのような「中央集権的」解決策は高度な政治的英知の産物であるとは思えない。「労働者組織」は「どうせ口先だけだ!」と思って…解散しないだろう。反対派グループを言葉によって解散させようとしたり、一般に「中央集権主義」的なジェスチャーをしたりするのではなく、中央委員会は、党の解体期に生み出されたあらゆる「労働者組織」の再教育立て直し適切な利用というもっと真剣な党活動を行なわなければならないとわれわれは考える。しかし、そのためには、それらの労働者組織を法の外にあると宣言することから始める必要はない。レーニンによって提案された規約第1条案は、そうするように強制している。反対に、同志マルトフの定式は――彼も指摘したように――中央委員会の手中のすばらしい武器となりうる。この定式は「労働者組織」の代表者たちに「もし諸君が党内にとどまりたいならば、諸君は党組織の――すなわち地方委員会の――指導下に入らなければならない」と言う。これが意味しているのは、「労働者組織」は委員会の代表を自分たちの中に入れ、委員会もまた全党的な見地に立って「指導」を――もちろん、自己の影響力によってのみ――実現するだろうということである。

 レーニンの「定式」によれば、彼の組織計画に反対する多数の人々に眠れぬ夜をもたらした例の「受任者」も党の外にいることになるが、このことを指摘するのも無駄ではないだろう。たとえば、中央委員会の受任者は、この党組織の指導下で働いているが、組織の構成員にはなっていないので、規約の境界の外に放り出されることになるであろう。いいかえれば、彼らは単に党に入りこむだけのために、「中央委員会受任者の組織」(?)を作らなければならないであろう。したがって、同志マルトフの「定式」は、この間の党内論争では苦難に耐えていた「受任者」という除け者に法的な保護を与える点でも優位性を持っている。

 

   党の中央諸機関の構成

 規約によって党の「政府」は「三元」的な組織になったが、ある人は大会の場でそれを怪物のようだと言った。この評価はきびしすぎる。それは複雑であるにすぎない。どの程度この組織が実際的かを予言することは難しい。われわれには党の組織的な経験がほとんどない。なにもかも白い石板の上に書き始めなければならないのである……。

 しかし、三元的な中央機関という「怪物のような」建物の方が、単純なためにきわめて魅力的な単一不可分の中央機関よりも全党の必要によく役立つのである。『イスクラ』編集局は思想的指導を行なう当然の中央機関としてすでに形成されている。それと並んで、もう一つの中央機関――主として、実践的・組織的な中央機関――が必要である。このような中央機関の萌芽が組織委員会であった。2つの機関は、それぞれの管轄領域では完全に自治的である。ここに、編集局がいかなる拘束も受けることなく党の実践を批判的に評価する保証がある。そして、ここに中央委員会の独立性の保証があり、これこそ中央委員会が党の権威ある機関に成長することを可能にするのである。しかし、これは、党の自治的な2つの中央機関の間の紛争の源泉となるかもしれないし、紛争は蓄積すれば分裂に至る可能性がある。

 そこで、仲裁裁判所の原理にしたがって建設され、調停し統一する機関として「評議会」の構想が登場した。評議会の構想は短期間にとてつもない変化をこうむった。大会の雰囲気は評議会に対して発育を促進する温室のようなものであった。評議会は、数日のあいだに仲裁機関から党の最高機関へと成長した。この組織の経歴の発端は控え目なもので、評議会は中央機関紙と中央委員会との中間にあった。大会では、評議会は中央機関紙と中央委員会の上にそびえたつことになった。評議会を5人から構成することが提案されていた。仲裁機関であった時は、評議会は中央委員会と中央機関紙のそれぞれ2名の代表から構成されなければならず(5人目は4人によって互選される)、2つの中央機関のどちらか一つの要求によって開かれることになっていた。だが「最高機関」になると、評議会は全メンバーが大会そのものによって選ばれなければならず、評議会の召集のためにはそのメンバーのうち2人の要求があれば充分である。評議会に関する同志レーニンの構想の発展は、ここで止まった。

 この発展の基本的な諸段階を叙述しよう。中央委員会からの中央機関紙の独立、そしてこのために唯一の中央機関を断固否定すること。これが出発点である。2つの中央機関の――したがって、調整者としての評議会の――必然性。これが次の段階である。評議会が当初は否定されていた唯一の中央機関へ変身すること。これが帰結である。こうしたオウディウス的な変身の結果わかったのは、中央委員会と中央機関が相互に独立を保証されているのは両者が評議会の前で独立を失っている限りにすぎないということである。さらに、レーニンの構想では、大会は評議会を中央機関紙編集局と中央委員会からそれぞれ2名以上選ぶことになっていた。いいかえれば、大会は、編集局から3人選び、中央委員会から2人選ぶのである。結束した「多数派」の気分は、そうしようという断固たる構えを示していた。明らかに、評議会全体を編集局メンバーだけから構成することだってできたであろう。同志レーニンはそこまではやらなかった。彼は、次のような地点で止まった。編集局の3人が評議会で決定的な力を得て、評議会は編集局と中央委員会に対して決定的な力を得るというわけである。「テーゼ」――編集局と中央委員会は自治的である。「アンチテーゼ」――編集局の3人は中央委員会の決議を無効とすることができる。「ジンテーゼ」はまだ存在しない。かくして、2つの「独立した」中央機関に関する規約の英雄伝説は終わった。

※原注 これ以外の仕方で理解した者はいなかった。ビューローの一員である同志パヴロヴィチは大会の会議の一つで評議会の構成についてこのような態度を公然と示した。このことは、議事録から明らかである。

 大会の会議の1つで、同志プレハーノフは、直接関係のない問題との関わりで、2つの中心[中央機関]という概念は数学に反していると述べた。同志の1人が、わが党の先頭には「2つの中心」が立っているとプレハーノフに指摘すると、同志プレハーノフは、急いで反論して「その場合には、それはフォーカス[ロシア語で「焦点」と「まやかし」の2つの意味を持っている]と呼ばれている」と言った。この機知に富んだ答えは、本人が思っていたよりもはるかによく的を射ていた。2つの焦点[フォーカス]からは――もし光学を考慮すれば――常に1つのみせかけの焦点が生じる。どうやら、この真理は、一定の条件のもとでは、党組織の「焦点」にもあてはまるようである…。

 

   中央委員会に対する編集局の後見

 「旧」評議会[仲裁裁判所としての評議会]が道徳的権威を持ちえたのは、その創設される方法そのもののおかげにすぎず、それが政治的影響力を持つのは2つの独立した指導的中央機関の仕事を調整する必然的な形態だからにほかならなかった。それに対し、「新」評議会が権力を持ちうるのは、それが主権を有する大会の正式な「意志」のたまものだからである。しかし、大会の「たまもの」だというだけでは不充分である。そして、同志レーニンは、あまりにもこのことをよく理解していた。その至高の意志を実現するために、評議会は物質的な手段を必要としている。しかし、権力の技術機構全体が中央委員会の手中にあるし、そこにしかありえない。

 したがって、もし中央委員会が実際に独立しているならば、すなわち編集局全体(それは「新しい」評議会によって直接の政治的影響力を奪われている)からだけでなく、その一部(この評議会において決定的な力を得た部分)からも独立しているならば、このような中央委員会は、うるさい後見からのがれるためには、ロシアにおける党の実践との生きた結びつきから「在外メンバー」全体を心ならずもできるだけ切り離し、評議会にはもっぱら自らを「党の最高機関」と意識するという思弁的な満足感だけを残さなければならない。イギリス憲法は国王に巨大な権力を「保証」しているではないか、このこと忘れてもらっては困る。

 同志レーニンはこのことを忘れておらず、実によく覚えている。そして、彼は次のような帰結を前にしてもひるまない。中央委員会に自らを独立していると感じさせないためには、必要な措置をとらなければならない。そのためには、中央委員会の仕事に対する評議会の原則的な統制では不十分である。中央委員会の人的構成に対する編集局の直接的統制が必要である。このことを定式化すれば、編集局と中央委員会の補充は相互の承認によって行なわれるということである。このようにして、同権は守られる。しかし、『イスクラ』の旧編集局は3年間同じメンバーで仕事をしたのに対して、中央委員会は――たとえ弾圧の結果にすぎないにせよ――たびたび新しい人員の補充に訴えざるをえないだろう。このことを考慮するならば、「補充の相互承認」のかげに、すなわち、この形式的な同権のかげに中央委員会の人的構成に対する編集局の後見が隠されているということを理解するのは難しいことではない。これが2つの中央機関の「自治」という構想の発展なのだ!

 中央委員会の人的構成に対する編集局の後見! しかし、編集局の4人のメンバー(同志アクセリロート、同志ザスーリチ(5)、同志マルトフ、同志スタロヴェール(6))はこのような後見を望んではいない。彼らは、このような後見が中央委員会と編集局との間に余計な摩擦や不必要な紛争を生む確実な手段にすぎないと考えている。同志レーニンだけが「精神的連帯」の名において後見を望んだ。いわゆる「補充の相互承認」に反対する編集局の4人の闘争こそ、旧編集局に対して容赦ない攻撃を加え、「ゆるぎない権力」の実践途上でレーニンに追随しない旧編集局多数派をやっかい払いしなければならない理由の1つであった。われわれは後で見るように、権力を求める今後の闘争のためにはレーニンにとってこのような攻撃が無条件に必要なものだったのである。

 

   中央委員と評議会メンバーの補充方法

 したがって、中央委員会の構成に対する編集局の後見は、2つの指導機関の「精神的連帯」の――ありていに言えば、編集局に対する中央委員の人格的従属の――保証の一つとなるはずであった。同志レーニンがもう一つの保証とみなしたのは、中央委員会における新しいメンバー補充の際に、全員一致を要求することであった。個人的な創意独立性という欠点を持つあらゆる人物に対してレーニンが拒否権を行使するためには、「信頼できる」人間を1人引き入れるだけで十分である。

 この点に関して、同志レーニンは、大会で正反対の2つの意見を述べた。初めは、「特別多数」(3分の2または4分の3)に賛成して、「全員一致」に反対し、数日後には「全員一致」に賛成して、「特別多数」に反対した。この意見変更は明らかに次のような事実の影響から生じたものである。つまり、レーニンも中央委員会の有力候補と認めざるをえない若干の実践家の同志たちが、レーニンが「イスクラ的」大会という気分を利用しようとしたことにひどく否定的な態度をとったという事実の影響からである。こうした同志たちが中央委員会に入るならば、それは、状況しだいでは、このみせかけの「焦点」の独立のための闘争が避けられなくなることを意味するであろう。評議会の「権力」は、そのような状況では、完全に幻想的なものとなるであろう。そこで、このような中央委員候補たちに対抗して、「補充の相互承認」と「全員一致」という一対の措置が前面に押し出されたのである。

 大会は、きわめてモザイク状の規約を採択した。「補充の相互承認」に関する条項は否決された。「全員一致制」は採択された。同志マルトフは修正を提案した。もし、中央委員会または編集局に新しい人物を補充するために必要な全員一致が得られなかった場合には、多数派は問題を評議会へと移すことができ、再度採決を多数派が求めた場合には、問題は前記の指導機関[評議会]で単純多数決によって解決されるという修正である。修正は採択された。評議会の全メンバーを大会で選ぶという同志レーニンの提案は否決された。編集局と中央委員会が評議会にそれぞれ2人づつ派遣するという同志マルトフの提案は採択された。

 評議会の5人目のメンバーの問題だけが残った。同志マルトフは、4人の評議員に5人目を互選するよう委任することを提案した。同志レーニンは、大会が5人目の評議員を任命するよう主張した。さもなくば、党の最高機関が未完成のままとなる可能性がある。というのは5人目の選出に関して合意に達しない可能性があるからだ。そうとすると評議会は成り行きまかせになってしまう、云々と。同志ザスーリチは、 仲裁裁判所は大昔から存在しており、評議会の4人のメンバーが5人目の選出で合意できないとすれば、それはその評議会が2つの中央機関の調整には役に立たないということを示している、と指摘したが、この指摘は同志レーニンを納得させなかった。大会は同志レーニンの提案を採択した。もちろん、これによって、評議会において編集局が中央委員会に対し編集局の数的な優位を確保するという問題はあらかじめ解決された。

 

   レーニンの「権力への意志」

 しかし、数的な優位という事実は、まだ評議会の全政策をあらかじめ決定しているわけではない。編集局の4人のメンバーは、中央委員会をみせかけの焦点へ変えることに対する断固たる反対者として大会に登場した。この4人は――編集局の多数派として――彼らの中から2人を評議会へ派遣するだろう。同志レーニンを導いていた「権力への意志(Will zur Macht)」は、ここで鋭いディレンマ――すなわち評議会への影響力を断念するか、それとも編集局の一部をやっかい払いするかという問題――に直面した。前者の道は退却を意味したであろう。同志レーニンは首尾一貫している。彼は後者の道を選んだ。彼は、予定されていた旧編集者全員を承認する代わりに、3人を大会で選ぶよう主張することにした。これが「権力闘争」の弁証法である。その出発点は、中央委員会の側からの圧力に対して中央機関紙に独立性を保証することであった。次の段階の課題は、編集局に対して中央委員会を従属させる規約上の保証を創り出すことである。最後の帰結は、中央委員会の独立性を擁護する編集局を破壊することである

 われわれは「権力闘争」について云々しているが、この言葉にいかなる個人的な内容も込めていない。この個人的な闘争は原理的で、いわば非個人的な性格を帯びていた。これは、体制の帰結であった。同志レーニンがあれほど精力的に要求していた「戒厳状態」は「ゆるぎない権力」を必要とする。組織された不信の実践は鉄腕を必要とする。恐怖政治体制の頂点を飾るのはロベスピエール(7)である。同志レーニンは頭の中で党の主要人物を点検し、鉄腕はレーニン自身であり、レーニン以外にありえないという結論に達した。そして、彼は正しい。解放闘争における社会民主党のヘゲモニーは、戒厳状態の論理にしたがえば、社会民主党に対するレーニンのヘゲモニーを意味している。この文脈において「権力闘争」は、個人的性格を失う。それは体制の最後の環として現れた。この闘争の成功は体制の成功である。それだけに、その成功は、党にとって、なおさら破滅的となる可能性がある。

 

   『イスクラ』編集部の選挙

 われわれの報告はついに大会が党の最高諸機関を「任命」する時点まできた。この時には力関係はすでにはっきりしていた。「多数派」(4票差)がすでに形成されていた。選挙の問題は双方にとって最も重要な意義を持っていた。なぜなら、正常な立憲体制の戦術と独裁によって強化された戒厳状態の戦術との間の原則的闘争がこの問題において総括され、いわば人格化されるからである。

 すでに述べたように、『イスクラ』の編集局や組織の両派の間では、一連の私的な会合で選挙方法と中央委員会の人的構成について合意に達しようとする試みがなされていた。これらの会合は、合意に達するのが絶望的であり、意見の相違が大会の会議に移されなければならないことを明らかにしただけであった。言っておかなければならないが、編集局の選挙は誰にとっても問題になっていなかった。『イスクラ』旧編集局が承認されるのは当然のこととみなされていた。だが中央委員会の選挙は別問題である。多くの代議員は当惑し、「天の声」を待っていた。『イスクラ』編集局および『イスクラ』組織の意見は決定的な意義を持ったであろう。合意を待っていたので、われわれは、多くの同志から質問されたにもかかわらず、自分たちの見解を表明しなかった。この時、もう一方の陣営は、われわれの陣営が「イスクラ派」の会合で提案していた候補者全員に反対して非妥協的な扇動を行なっていた。われわれがこれに気づいたときには、すでに遅かった。「多数派」が選び抜かれ、固められ、閉ざされた壁でわれわれから隔てられていた。

 選挙の前日、「24票グループ」の予備会議が行なわれた。同志マルトフは、自分と3人の他の編集局員(ザスーリチ、アクセリロート、スタロヴェール)および労働解放団メンバーの同志ドイチュ(8)がこの会議に出席する許可を文書で求めた。そして、これは文書で拒否された。

 翌日、同志諸君、われわれは『イスクラ』を埋葬した…。『イスクラ』の創設者である旧編集局の承認決議は否決された。3人からなる編集局を選出するという提案は、2票差で採択された。残るのは選挙を行なうことだけだった。出席した44票のうち、20票が棄権した。結果は次のとおり。同志プレハーノフ23票、同志マルトフ22票、同志レーニン20票、同志コリツォフ(9)3票。こうして同志マルトフは、彼に敵対的な「硬い」多数派によって編集局に選出された。これは同志マルトフが『イスクラ』で果たした役割に対するどうしても避けられない敬意であった。つまり、マルトフを候補者にすることは、同志マルトフが「柔らかい」一派だからということで参加を許されなかった24票グループの同じ会合で採択されていたわけである!

※原注 多数派の代議員の同志Tは1人からなる編集局を支持した。どうやら彼は自分の2票を同志プレハーノフだけに入れたようである。

 

   『イスクラ』の終焉

 同志マルトフは、旧編集局の廃墟の上に人為的につくられた3人組に加わることを拒否した…。この組み合わせは、彼にとって道徳的に許しがたいものであった。政治的には、この組み合わせは、マルトフが恒常的に少数派にとどまることを運命づけていた。マルトフの文筆家としての役割を知っている人なら次のことに同意していただけるであろう。権力を持っている「結束した多数派」が、マルトフを『イスクラ』のために働くことを政治的にも道徳的にも不可能にすることで、「評議会」に具体化されたお役所的な中央集権主義の構想の名において、この新聞を犯罪的に裏切ったということである。それ以来、『イスクラ』は存在していない。同志諸君、『イスクラ』について語ることができるのは過去形でだけである…。まだ何もしていない「評議会」、まだ行政的創造行為にとりかかろうとしただけの「評議会」を手に入れるために、われわれはあまりにも高価な犠牲を払ったのである。

 同志マルトフに続いて、同志コリツォフも就任を拒否した。というのは、彼は最初に『イスクラ』旧編集局の承認を提案した人物だからである。この提案が否決された後で、次のような提案が行なわれた。

(1)前の選挙はしかるべき結果をもたらさなかったので、再選挙を行なうこと。(2)1人の編集長を任命すること。(3)新しい状況を考慮して『イスクラ』編集局全員を承認すること。3つの提案はすべて否決された。プレハーノフとレーニンに編集局を組織することを委ねるという提案が採択された。少数派に残されていたのは、同志レーニンに彼自身の言葉を思い出させることだけだった。すなわち、4人の評議会は5人目について合意することができないだろう、そして党の最高機関は「成り行きにまかされる」わけにはいかない…と。

 選挙の仕組みは、あいにく、編集局任命問題における「民主主義」の権利に対するこの予想外の訴えを、極端な冒険主義にいたらせる役割を果たした。実際、選ばれるためには絶対多数はいらなかった。再投票は行なわれなかった。マルトフが拒否した後では、3票を得たコリツォフが候補者になった。彼が拒否した後では、経済主義者や日和見主義者の誰かが候補になることもできた。そのために必要なのは、たった1票を得ることだった。同志レーニンにこのことを思い知らせたとしても不当ではなかったろう。だがわれわれはそこまではしなかった…。

 いずれにせよ、誤って『イスクラ』という輝かしい名前を名のっている中央機関紙の編集局――すなわち、結束した多数派がつくらねばならなかった2つの「焦点」の1つ――は選出されたのである。

 

   中央委員会の選挙

 残るのは中央委員会の選挙であった。3人の中央委員を選出することが決められていた。選出方法は秘密投票である。各自が、適任と思う3人の名前を書くのである。同志マルトフは、このようなやり方で指導機関の活動能力を保証することはできないと指摘した。44票のそれぞれによって提出される候補者リストが活動能力ある3人組を構成していると仮定しよう。だが、選出されるのは、異なる候補者リストに乗った人物かもしれない。それは3人の実践家かもしれないし、3人の文筆家かもしれない…。そういう事態を避けるためには、複数の署名によって公然と支持が表明された、いくつかの候補者リストにしたがって投票する必要がある。この方法を秘密活動の原則に反すると中傷する試みもあった。候補者リストを公表すべきではないというのである。まるで私的な会合では、候補者になるかもしれない人物をすべて検討の対象にしてはいないかのようだ!

 24票が同志マルトフの提案を拒否した。24票が投票に参加した。残りの20票は、棄権した。票数を計算し、選出された同志のうちの1名を公表することが議長に委任された。3人の中央委員のそれぞれに投じられた票数を公表すべきかどうかという問題が生じた。「多数派」はこれに反対した。残念ながら、今度は秘密活動を引き合いに出して、それを「多数派」によって作成された候補者リストの煙幕にすることはできなかった。問題は投票にかけられ、大会は真っ2つに割れた。数字を「秘密にする」ことを望んだのは、22票にすぎなかった。多数派の代議員の1人(2票を持っていた)が少数派の案に投票したのだ。つまり、1人の代議員が意見を変えるだけで十分だったのだ。『イスクラ』編集局を破壊した勝ち誇る多数派は、もはや存在しなかった! こうして、投票結果を公表しないという提案は、大会の一般規則に例外をつくろうとしたものだったが、多数をとれず、否決された。議長は、中央委員の1人の名前をあげ、3人全員が24票中の24票を得て選出されたと公表された。これが、集団的な候補者リストも公表せずに行なわれた秘密投票の結果なのだ! 同志諸君、こうして、同志プレハーノフのうまい表現を使えば、第2の「焦点」が作られた。

 残るは、5人目の評議員を選ぶことである。投票で選出された者の名を公表するかどうかという問題が出された。代議員Nは、多数派の一員であったが、公表すべきであると提案した。5人目の評議員は、当然「在外メンバー」だろうからというのである。「では、もう決まっているのか」と少数派の1人が質問した。しかし、「結束した多数派」は「5人目」の名前の公表に反対の票を投じた。選挙結果は次のとおりであった。21票を得たある同志が「5人目」の評議員に選ばれた。2票の白紙投票があった。1票が別の同志を支持した。20票が棄権した。

 

   多数派と少数派

 選挙は終わった。

 24対20! 「真の」イスクラ派対「連合」! われわれは、「多数派」の活動家の名をいちいち挙げようとは思わない。というのは、同志プレハーノフと同志レーニンを除けば、われわれは、そこに、ロシア社会民主主義の革命的潮流と結びついた聞きおぼえのある名前には出あわないからである。

 少数派の構成について一言述べよう。ペテルブルグ労働者組織の代表[経済主義者のブルケールのこと]が編集局および中央委員会および「5人目」の評議員の選挙の際にわれわれと共に棄権した件で、われわれはさんざん皮肉を言われた。中央集権主義や『イスクラ』思想一般に対する原則的反対者であるこの同志は、編集局全体に対してもその一部のメンバーに対しても賛成投票する気がなかったのである。中央集権主義に反対するこの代議員の抗議が中央集権主義への組織的愚弄に反対するわれわれの抗議と表面的には同じ形で――すなわち、棄権という形で――現れたとしても、それによって事態が変わるわけではない。しかし、何らかの政治的こだわりからわれわれの説明で満足できないならば、われわれは、このペテルブルグ労働者組織の代表が規約第1条に関して同志レーニンの提案した定式に賛成投票したことを喜んで付け加えるだろう。

 選挙の時には、「ブント」の代議員はすでに大会の場にいなかった。規約の作成の際には、彼らはたいていの場合棄権し、彼らが、形成されつつあった結束した多数派に対抗してわれわれを支持したのは、1つか2つの問題に関してだけであった。この支持から、さっそく少数派に対する「脅し文句」が作られ始めたが、おそらく、そういうやり方に十分な道徳的正当性はないであろう。われわれは、「ブント」の指導者の政治的姿勢にどれほど多くのものが不足しているか非常によく理解している。しかし、彼らが大部分のロシアの同志に不足しているものを――すなわち、組織活動の経験を――持っているということは、誰にも否定できないだろう。

 先に進もう。われわれの側にいたのは、ニコラーエフ、クリミア、ハリコフ、鉱山組合、シベリア(以上は2票づつ)、モスクワ、ロストフ、ウーファ、オデッサ(1票づつ)の代議員であった。これらの委員会や組織はこれまで『イスクラ』を指導的な機関紙として採用していた。

 同志諸君、ご存じのように、『ユージヌィ・ラボーチー(南部労働者)』グループは、大会のずっと以前から『イスクラ』組織と連合していた。『イスクラ』を党の中央機関紙として承認する決議を大会に提出したのは、『ユージヌィ・ラボーチー』グループである。この「グループ」の2人の代議員は、われわれの側に与した。

 同志諸君、ご承知のように、『イスクラ』の組織は、一般に全党的な仕事において、特に大会の準備において大きな役割を果たした。この組織の唯一の代議員、同志マルトフ(2票)はわれわれの側にいた。

 『労働解放団』グループについては、あらためて紹介するまでもないであろう。その2人の代議員のうちの1人、同志ドイチュは、われわれの側にいた。

 『イスクラ』編集局は、3分の2、つまり6人中4人がわれわれの側にいた。あいにく、そのうち3人は、審議権しかもっていなかった! このような権利は、大会召集の規程によれば、代議員資格を持っていない若干の重要な党活動家に与えられた。

 組織委員会の2人のメンバーと同志コリツォフとカフカースの一同志――4人とも審議権をもつ――は、われわれの側にいた。同志ザスーリチ、同志スタロヴェール、同志アクセリロートのような「重要な党活動家」に与えられていた審議権は、不幸にも、道徳的な権威を持つだけで、法律的な権威を持っていなかった。そして、われわれは敗れた。

※原注 大会に出席していた5人の組織委員のうち4人は少数派の側にいた。

 すでに指摘したように、多数派の代議員の1人が『イスクラ』の破壊の後にわれわれの側に移り、「少数派」と「多数派」は同数になった。大会の終わり頃、すなわち、大会最終日には、多数派の若干の代議員はすでにしかるべき「堅固さ」をもってはいなかった。戦術に関する諸決議が大急ぎで採択された最終会期の時に、少数派がすでに多数派となっていたのは、このせいである。われわれは多くの決議(同志アクセリロート、同志マルトフ、同志スタロヴェールの決議)を通過させ、そのうちいくつかの決議は「多数派」の反対にもかかわらず採択された。われわれは同志レーニンと同志プレハーノフの決議に彼らの抵抗にもかかわらず根本的な修正を加えた。議事録公表に関する3人からなる委員会(中央委員会からも中央機関紙からも責任を追及されない委員会)に、われわれは「少数派」の2人のメンバーを送り込んだ。きわめて多くのものを破壊し、何もつくりださなかった「結束した多数派」の権威を完全にそこなうためには、『イスクラ』旧編集局を承認するという提案か党の中央機関紙の名称を変更するという提案をもう一度出しさえすればよかった。だが、われわれはそこまではやらなかった。

 したがって、第2回大会によって採択された基本的な戦術決議を、「イスクラ派的」と呼ぶことができるのは(すでにそう呼ばれていた)、決議の大多数が『イスクラ』の新編集局関与なしに作成され、若干の決議はその意志に反して可決されたという限定された意味においてにすぎない。物事をはっきりさせることは決して害にならない。

※原注 言っておくが、この報告は、旧編集局が(同志レーニン抜きで)再建される以前に書かれた。

 

   中央集権主義か自己中心主義か

 同志諸君、大会の後半における活動の結果はこのようなものであった。その性格は主として清算的なものであり、編集委員会は清算され中央委員会も実質的には長期にわたって清算された。そして、凱旋将軍として大会に登場したはずの中央集権主義の理念そのものが深刻な清算の危機に脅かされていると考えるべきであろう。「硬い」イスクラ派と公認の中央集権主義者の勝利の結果は、このようなものであった! 

 同志諸君、われわれはできることはすべてやった。われわれは『イスクラ』旧編集局の不可侵性を擁護した。なぜならば、われわれは自らをイスクラ派とみなしていたし、『イスクラ』をわれわれは集団の産物としてのみ知っていたからである。われわれは党の戦闘的指導部である中央委員会の独立性と自立性を擁護した。なぜならば、われわれを自らを中央集権主義者とみなしていたからである。

 しかし、われわれは敗北した。なぜならば、中央集権主義ではなく、自己中心主義――それは、昨日の経済主義と手工業性に対する後悔の念にもとづいていた――が勝利する運命のめぐり合わせになっていたからである。まさに、この定式のなかに事実の説明と「勝者」の歴史的弁明がある。なぜならば、われわれの見解によれば、党の面前で自己を正当化する必要があるのは敗者ではなく「勝者」だからである。

 

   レーニン的「中央集権主義」は党をどこに導くか

 大会後半の「多数派」は、「権力への意志」を大いに発揮した…ただし自分自身に対しての。「多数派」の行為があまりにも明白に示していたように、この裏返しにされた「権力への意志」の心理的な原因をなしていたのは、党規律に対する成熟した感情ではなく、無政府主義的な手工業性の破綻の結果として生じたとまどいの感情であった。「来たりてわれらを支配せよ」――このように「多数派」の心理を定式化することができる。まったく非実践的な狭い実践主義が、実践家に対する完全な不信と全能の在外「編集局」に対する無分別な信仰にとってかわられた。

 しかし、絶望に対するこの信仰がまったくむき出しの形で表現されたのは、大会においてではなく、そこから遠く離れた、ボルガ川がカスピ海にそそぐ河口にある都市、すなわち州都のアストラハンにおいてであった。ここの地方委員会は大会への意見書のなかで――残念ながら、それは時間不足のために読み上げられなかった――ロシアの実践家が不安定であることを考慮して、編集局を党中央委員会に任命することを提案した。そして、編集局は外国から受任者を通じてロシアを指導するというのである。このようにして、実践的に指導する党の中央機関はその原則性を保証するために、国境の向こうに追放されねばならないというわけだ。で、どうなったか? このまったく滑稽な構想――ロストフ事件やキシニョフのポグロムや南部でのゼネラル・ストライキを想起しさえすればよい!――は、ちょっと偽装されただけで、実質的には大会で「多数派」の承認を得た。第2回大会でつくられた中央委員会は、評議会の管理下の受任者機関にほかならず、評議会もまた編集局の分身にすぎない。もちろん、このような中央委員会は政治的な指導部とはなりえないだろう。このような中央委員会から独立の意志や独立の思考が出現することは期待できない。創造的な仕事は、「反抗」にまでいたる可能性のある自由な創意を前提とする。だが、レーニンの考えにしたがえば、中央委員会の役割は、まったく別のものである。その役割は、中央集権主義の番犬となることである。それは反対派を「解散」させ、党の門戸をとざす。大会で中央委員会の使命を説明して、同志レーニンは中央委員会の「政治的」象徴として…こぶし(私は比喩ではなく文字どおりの意味で言っている)を振り上げた。会議の議事録にこの中央集権主義的なジェスチャーが書き込まれているかどうかはわからない。もし、書かれていなければ大変残念だ。このこぶしは、正当にも組織全体の頂上をかざるだろうからである。

 ある文筆家は『イスクラ』が正統性を裏切っていると非難し、同志マルトフを「典型的な経済主義者」と特徴づけたが、この人物は、同志プレハーノフのもっともな評言によれば、「一部の読者の知的貧困」(『イスクラ』43号)につけこんでいた。特定のタイプの知的貧困につけこんでいた――とわれわれは付け加えるだろう。すなわち、正統派的な後悔の時期をむかえている失墜したベルンシュタイン(10)主義者や破産した経済主義者の知的貧困に。

 政治生活の無条件的な要求を前にして理論的堕落と実践的無力さが鋭く自覚されればされるほど、純粋に形式的な傾向がますますはっきりと登場した。崇拝していたものを火あぶりにし、火あぶりにされていたすべてのものを崇拝するといった傾向である。経済主義や日和見主義といった言葉は、催眠術のようにこうした心理に働きかけた。前述の文筆家はこの劇薬を利用しようとした。しかし、不幸にも登場するのがあまりにも早すぎたた! 彼は成功しなかった。大会においてはじめて本物の日和見主義と正真正銘の「イスクラ主義」との中間に、「柔らかい」イスクラ主義、言いかえれば「ジロンド的な」イスクラ主義が存在しているということが明らかになった。後悔の心理は断固たる決意に燃えていた。そこに天の声が投げられた。「祖国は危機に瀕している! 党の門戸は開けっ放しになっている!」というわけだ。ただちに、編集局の3分の2は疑惑をかけられた。正統派的なジャコバン派が自らをむさぼり食う過程がはじまった。「祖国は危機に瀕している! 執政官をして警戒せしめよ!」。そして、同志レーニンはひかえめな評議会を全能の公安委員会に変えた。「清廉な」ロベスピエールの役割を引き受けるためにである。邪魔ものはすべて一掃されなければならなかった。そして、同志レーニンはイスクラ的なジャコバン派を粉砕することをためらわなかった。評議会を通じて「徳と恐怖の共和国」を邪魔されずに樹立できさえすればいいのである。

 公安委員会によるロベスピエールの独裁は、第1に、公安委員会そのものにおいて、「忠実な」人々をしかるべく選び出すことによってのみ維持される。第2に、すべての重要な公職を「清廉な」人物の手先に入れ替えることによってである。さもなくば、全能の独裁者も宙に浮くことが避けられないであろう。第1の条件は、わが国の戯画化されたロベスピエール体制においては旧編集局の清算によって達成された。第2の条件は、しかるべき人物を中央委員会の最初の3人組に選出することによって、そして、その結果すべての候補を「全員一致」「補充の相互承認」というふるいにかけることによって、早急に保証されなければならなかった。他の官職の任命は中央委員会の裁量に依存しており、中央委員会自身の仕事は評議会の用心深い統制のもとにある。同志諸君、正統派的な「徳」と中央集権主義的な「恐怖」の共和国を支配することになる行政機構は、このようなものである…。

 このような体制は長く続くことはできない。「恐怖政治」の体制は反動にぶつかる。パリのプロレタリアートは、自分たちを貧困から脱け出させてくれると期待してロベスピエールをまつり上げた。しかし、独裁者は彼らにあまりにも多くの処刑を与え、あまりにもわずかなパンしか与えなかった。ロベスピエールは没落しジャコバン派全体を道連れにした。そして、それとともに民主主義の事業一般を道連れにした。

 そして、われわれは現在、レーニン的な「中央集権主義」の不可避的でしかも間近に迫った崩壊が、多くのロシアの同志の面前で中央集権主義の理念一般の信用を落とすという現実的な危険の前に立っている。党の「政府」にかけられた期待は、あまりにも大きすぎた。各委員会は、この政府が人材、文献、指示、資金を与えてくれると信じていた。ところが、この体制は自らを維持するために、文筆や実践に従事する一連の最良の働き手を排除しはじめ、あまりにも多くの処刑とあまりにも少ないパンを約束している。この体制は不可避的に幻滅を呼びおこし、幻滅がロベスピエールと中央集権主義の奴隷たちにだけではなく、単一の戦闘的な党組織という理念にも及ぶことは避けられない。その時、社会主義的日和見主義の「テルミドール派」が状況を支配し、党の門戸は実際に開け放たれるであろう。

 同志諸君、そうなるのを許してはならない…。

 

結びに代えて一言

※原注 「結び」はこのパンフレットのために書かれたもので、もとの『報告』には入っていない。

 

   1901年の「試論」

 大会は終わった。代議員たちは家に帰った。「その時、われわれは傷を数え、同志を数えはじめた」。傷はたくさんあったが、同志は少なかった。もっとも、それは「中央集権主義」の催眠術がまだ解け始めていない最初の時期のことにすぎない。催眠術が解け始めたのは、部分的には反対派のプロパガンダのおかげであるが、主要には「多数派」の自己をむさぼり食う組織「活動」のせいである。

 24本の手でつくられた編集局は、非現実的なものであった。同志マルトフは、大会中にすでに編集局を抜けていた。同志レーニンは、大会後に「改革」を鼓舞した。どうやら文筆家の指導機関は「投票」からはつくられないようである。

 同志レーニンが編集局から辞任するとともに、「多数派」の組織論は2つの中央機関の相互関係に関するかぎり完全に逆さまになった。だが、これはわが党のまだ歴史によって書かれていない新しい章のはじまりである。

 もちろん、組織をめぐる当初あった意見の相違は、中央委員会と中央機関紙との関係という問題枠組みには収まらなくなった。地方委員会と中央委員会との関係という領域から多数の具体的諸問題が党の前に生じた。そして、これらのほとんどすべての問題に対して「反対派」と「多数派」は違う回答を与えてきたし、今も与えている。

 「少数派」の組織論を正確に定式化し詳細に特徴づけることは、近いうちにしなければならない課題である。さしあたって、筆者は2年前に書いた自分の試論から抜粋するにとどめたい

※原注 筆者は当時、実践活動や文筆活動から完全に切り離されていた。筆者はまだ『イスクラ』を知らなかったし、そのロシア組織の活動についても知らなかった。同志レーニンのパンフレット(『何をなすべきか』)は当時まだ発表されていなかった。この試論は1991年の春の波濤を知らせる断片的情報の影響のもとで書かれた。報告の出発点は次のようなものである。「われわれは使い古された例え話をもう一度使うならば、魔法使いの弟子の立場にいる。この魔法使いの弟子は型通りのやり方で巨大な力に生命を吹き込んだのだが、それを支配しなければならないときになって自分が無能力であることに気づいたのである」。打開策は1つしかない。中央委員会を先頭にいただく全党的な組織をつくることである。このために大会を召集しても、問題は解決されない。中央機関は宣言するよりも前につくり出す必要がある。印刷されなかったこの試論の思考過程は、このようなものであった。2年前にこの試論を「ナロードニキ的」と(その「非民主的」な傾向のゆえに)みなした若干の同志たちは、今や「中央集権主義」の道をもっと先まで進み、『報告』の筆者が彼らには「反中央集権主義的」偏見に染まっているように見えるほどである。筆者はしばしばこの事実を思い起こしては楽しい気分になる。かくも急速に、わが祖国は進歩の道をたどっているのである。

 試論は次のように述べている。

「どこかの地方委員会が中央委員会の全権を承認することを拒否した場合には、中央委員会はこの組織を承認しない(注意せよ)と権利を持つだろう。中央委員会はこの組織と関係を断って、それを革命運動全体から切り離す。中央委員会は、そこに文献やその他の活動手段を送るのを止め、その活動分野に中央委員会の部隊を派遣しあらゆる活動手段や資金を調達し、これを地方委員会と宣言するだろう」。

 試論はさらに述べている。

「しかし、このような『荒療治』は例外的にしかとりえない。一般的には、物理的な制裁措置をとるのは馬鹿げたことであろう。そんなことをすれば、中央委員会が全党の流れに逆らって泳ごうとすることになるだろう。どうしようもない夢想だ!」

しかし、中央委員会が組織的な如才なさを持ちあわせ、運動の課題を理解していたならば、中央委員会と地方委員会との紛争は起こらないだろう。なぜならば、事態が正常に発展している場合には、中央委員会の措置は全党的な要求を定式化したものにすぎないだろうからである…。地方委員会が党と足並みをそろえることに気をくばるならば、中央委員会も同じように地方組織の内部問題に対して、あらゆる干渉をひかえるだろう」。

 この思想がどんなに初歩的なものであろうとも、わが党の「中央集権主義」の時代には今やそれを少なくともイタリックで印刷しなければならない。

 

   レーニンの辞任の手紙

 同志レーニンが編集局を辞任する理由を説明して書いた「イスクラ編集局への手紙」が独立の印刷物として公表されたのは、本書脱稿後のことであった。同志レーニンの手紙は、きわめて奇妙な文章である。

 同志レーニンは、少数派によってつくられた「非合法(原文のまま)文献が亡命地に充満し、諸委員会あてに発送され、すでにいま一部はロシアから亡命地へ逆もどりをはじめている」と嘆いている。ちなみに、この「非合法」(「匿名」のことか)文献の中には、『シベリア代議員団の報告』も入っている。同志レーニンは、これによっていったい何が言いたいのだろうか。『シベリア代議員団の報告』が正式に公刊されていないということを非難しているのだろうか。しかし、党大会に関する公式の発表があるまでは公刊できなかったのである。あるいは、同志レーニンは、報告が特定のグループと人物の間でしか普及していないことを指摘したかったのだろうか。しかし、その場合には、いかなる理由で同志レーニンが出版を予定していない文書を自分の出版物のなかで引用するのか、まったくわからない。さらに、同志レーニンは彼が「非合法」と呼んでいるような文献を、彼自身は出さなくてすんだと言いたいのだろうか。そしてさらに、たまたまそうであったとしても、彼が「非合法」文献の「逆もどりしつつある」諸文書を引用することを自らに許した後では、今や、彼は自分自身の多かれ少なかれ「非合法」の文書を公表することが自分の義務だとは考えないのだろうか。いいかえれば、彼は「少数派」に対してしかそうする権利を認めないつもりなのだろうか。われわれは同志レーニンがしかるべき説明をするようを希望する。

 [レーニンの手紙によると]非合法的文献は、「『専制』とかロベスピエール的処刑制度(原文のまま)の樹立とかいう、レーニンに対する滑稽きわまる非難」に満ちている(6ページ)。われわれは、非合法文献の「滑稽きわまる」非難が同志レーニンを「楽しませた」ことを喜びたい。ただし、彼がロベスピエール的な「処刑」という表現を本気にしたのは無駄であった。シベリア代表団の「非合法」文書は、戯画化されたロベスピエール体制について語っているのである。一般に、卑俗な喜劇が歴史上の悲劇と異なっているのと同じように、この戯画化された体制はその偉大な手本と異なっている。そして、実際には誰をも「支配」できない「専制」や、処刑された人々に党の複雑な任務を果たすことを許している「処刑」ほど滑稽なものはないということをわれわれは認める用意がある。

 同志レーニンは、組織をめぐる意見の相違がもっぱら「少数派の立場と中央諸機関の人的構成を変えるための闘争の方法とを美化するために」われわれによってでっち上げられたと考えているか、少なくともそのように印刷物で書いている。同志レーニンは、いかなる「官僚主義的中央集権主義」も知らない。しかし、そのかわりに、彼は党の中央機関にもぐりこむために「少数派」によって行なわれた数多くの処刑を知っている…。どんな人でも自分が見ることのできるものしか見ないものである。

 しかし、われわれは、近い将来に以下のように書かれたパンフレットが公刊されるべきだろうと考える。

「われわれの在外社会民主主義者の文献において、最近、事情を知らない読者にとってはかなり奇妙な論争が行なわれている。論争の対象となっているのは、若いロシアの社会民主党に官僚主義的中央集権主義という名で知られている傾向が実在しているかいないかという問題である。論争する両陣営のうち一方――たとえば、P・アクセリロート――の意見によれば、そのような傾向は実在しているばかりではなく、同時に、一定の条件のもとではわが党の今後の発展に非常に有害な影響を及ぼす可能性がある。もう一方の側――同志レーニン――は、アクセリロートに同意したがらない。この陣営の考えによれば、アクセリロートの意見には何の根拠もない」。

「わが党の内部問題から離れた所にいる人にとって、このような論争は興味がないかもしれない。論争する両陣営が少数の人にしかわからないような曖昧なほのめかしによって意見を表明しているだけに、なおさらそうである。しかし、実際にはこの論争は大きな実践的重要性を持っており、したがって、少数派はこの資料集を公表することによって、問題の解決に寄与することが必要であると考える」。

 おそらく、同志レーニンは、経済主義派の『ラボーチェエ・デーロ(労働者の事業)』(11)を論じた『ヴァデメクム(手引き書)』(12)がまさにこのような書き出しであったことを覚えているであろう。われわれは、「経済主義」を「官僚主義的中央集権主義」に置きかえ、『ラボーチェエ・デーロ』の編集局の代わりに、同志レーニンの名前を書き込みさえすればよい。われわれは同志アクセリロートの名前を置きかえる必要はなかった。彼は最初に「経済主義」の存在を確認し、最初に「官僚主義的中央集権主義」という「滑稽な」非難を定式化した。『ヴァデメクム』が述べているように、その後の事態が「P・アクセリロートの洞察力と先見性に輝かしく反論の余地のない証明」を与えたこともつけくわえておこう。

 『ラボーチェエ・デーロ』の同志は、同志アクセリロートの非難に対する回答でいったい何と言っているだろうか。彼らは、「労働解放団との争いが綱領的な意見の相違によってではなく、労働解放団が編集局のいかなる変更にも同意しなかったことによって引き起こされたと主張している。これが、彼らの公式の真理である」。

 「歴史は繰り返す」…。

 同志レーニンは、組織をめぐる深刻な意見の相違の存在を否定している。彼は、どうやら党大会で自分自身が「戒厳状態」の戦術について語ったこと、在外連盟の大会ではブント派や「ラボーチェエ・デーロ」派や「ユージヌィ・ラボーチー」派を党から追い出す必要性について語ったことを、急いで忘れようとしているようである。

 同志レーニンは意見の相違を否定している。しかし、彼は、そうすることによって、いかなる無原則的な原因が彼をして旧編集局の粉砕を大会に要求せしめたのか、党に対して説明する責任を負っているとは考えないのだろうか。今や、われわれは同志レーニンから「多数派の意見では中央機関の人的構成の変更にはかかわりなく党内で自分の見解を提起することができるし、またそうすべきである」と聞かされている。しかし、われわれは同志レーニン自身が「中央機関の人的構成の変更」を要求したことを知っている。他方で、彼の言うところによれば、そのさい彼には「党内で提起する」必要があるようないかなる「自分の見解」もなかったのである。どうやら、「多数派の意見では」そのような場合には、最後通牒主義が認められているようである。

 同志レーニンは、「イスクラ」少数派と「非イスクラ的」分子との連合について繰り返し語っている。われわれは同志レーニンの執拗さに心から驚かされる。党大会と在外連盟大会の議事録が彼の主張を徹底的に粉砕しているということを彼自身が知らないわけはないだけになおさらである。この点に関しては、この報告も若干のことを提供することができる。だが本当のところ、レーニンの現在の用語においては、「イスクラ派」とか「硬い」首尾一貫した「イスクラ派」という言葉は、いったい何を意味しているのだろうか。

 われわれは長い間この問題に関してわからないで困惑していたが、同志の1人が次のように言ってわれわれの蒙を啓いてくれた。この同志によれば、硬いイスクラ派とか首尾一貫した中央集権主義者とかいわれているのは、自分の世界観をデカルト哲学の原理の上に築いた人のことなのだ。つまり、「われわれは中央委員会によって承認されている。ゆえにわれ在り」ということである…。

 「柔らかい」イスクラ派、すなわち、承認されておらず、したがって、存在していないも同然のイスクラ派に関していえば、彼らはレーニンによれば「亡命者の小派閥」にすぎない。しかしながら、この小派閥が、中央委員会をボイコットし、中央委員会の措置をさまたげて、「あらゆる活動を邪魔だてする撹乱活動」に反対する多数の党委員会の闘争を引き起こしていることがわかった。党の「あらゆる活動」邪魔だてしている「亡命者の小派閥」! 同志レーニンは、この場合、遠近法の初歩を踏みにじった。

 頭の中で、真のつり合いを回復させるためには、読者は、われわれが22票対22票で大会から去ったことを想起しさえすればよい。

 「なぜ私は『イスクラ』編集局を辞任したか」という表題がつけられた同志レーニンの「手紙」を最後まで読めば、読者は誰でもきっと次のように尋ねたいと思うだろう。「本当にいったいなぜ同志レーニンは『イスクラ』編集局を辞任したのだろうか」と。そして、この読者が「手紙」の内容を合わせ考えるならば、彼は次のように独り言をいうだろう。

「同志レーニンは大会で『党の中央機関の人的構成を変更する』ためにたたかった。この闘争を行なう原則的な根拠は、同志レーニンにはなかった。にもかかわらず、彼は成功した。『イスクラ』編集局と組織委員会は破壊された。しかし、この破壊にすぐ続いて起きたのはレーニン自身の編集局からの辞任であった。明らかに、非原則的な考慮に導かれた同志レーニンの『戦術計画』は、若干の誤算をこうむった。このようなデリケートな企てを行なう際には、そのような誤算はあってはならないのだが。同志レーニンは『挫折した』。これはよくあることである。しかし、その場合には――とこの読者は結論づける――できるだけ騒ぎや余計な面倒を起こさずに引き下がったほうがいい」。

 このように判断するなら、この読者は正当だろう。

1903年

同名パンフ所収

『トロツキー研究』第16号より

 

  訳注

(1)グーテンベルク、ヨハネス(1400頃-1468)……ドイツの活版印刷の発明者。ヨハン・フストとともに印刷所を設立し、ゴシック体の活字で「グーテンベルクの聖書」と呼ばれるラテン語訳聖書を印刷。

(2)アクセリロート、パーヴェル(1850-1928)……メンシェヴィキの指導者。1883年にプレハーノフとともに「労働解放団」を結成、1903年のロシア社会民主労働党分裂後、メンシェヴィキの指導者に。第1次世界大戦中はメンシェヴィキ国際主義派。10月革命後に亡命。

(3)マルトゥイノフ、アレクサンドル(1865-1935)……メンシェヴィキの右派指導者。1884年に「人民の意志」派に参加。1886年に、シベリアに流刑。1890年代に社会民主主義運動に参加。経済主義派の「ラボーチェエ・デーロ」派に属す。1903年の党分裂で、メンシェヴィキに。1905年革命においては『ナチャーロ』に参加。反動期はメンシェヴィキ解党派。10月革命に敵対。1922年にメンシェヴィキから離脱。1923年にボリシェヴィキに加わり、スターリニストとなる。

(4)アキーモフ、ウラジーミル(1872-1921)……経済主義者、メンシェヴィキ。1890年代より社会民主主義運動に参加。「経済主義」の指導的人物の一人。1903年の党分裂でメンシェヴィキに。1907年以降、政治活動から手を引く。

(5)ザスーリチ、ヴェーラ(1849-1919)……ロシアの女性革命家。ナロードニキとして革命運動に参加し、1878年にトレポフ知事を狙撃し、スイスに亡命。1883年にプレハーノフらと「労働解放団」を結成。1903年の党分裂後にはメンシェヴィキ。第1次大戦中は祖国防衛派。10月革命に敵対。

(6)スタロヴェール……アレクサンドル・ポトレソフ(1869-1943)のこと。1900年から『イスクラ』編集委員。1903年の党分裂の際はメンシェヴィキ。第1次大戦中は社会愛国主義派。

(7)ロベスピエール、マクシミリアン(1758-1794)……フランスの急進革命家、ジャコバン派指導者。弁護士出身で、ジャコバン派の左派として頭角をあらわし、1793年に公安委員会に入り、恐怖政治を実行。左派のエーベル派と右派のダントン派を粛清。1794年のテルミドールのクーデターで失脚し、処刑される。

(8)ドイチュ[デーイチ]、レフ(1855-1941)……ロシアの革命家、メンシェヴィキ。当初ナロードニキで、1883年に「労働解放団」に参加、その後「イスクラ」派。1903年の党分裂の際にはメンシェヴィキ。第1次大戦中は社会愛国主義者。10月革命後、政治活動から手を引く。

(9)コリツォフ、デ(1863-1920)……ヴェ・ア・ギンズブルクの筆名。古参革命家、最初、「人民の意志」派。1890年代から社会民主主義運動に参加。1893年に逮捕・投獄され、国外追放。後にスイスに亡命して、在外「ロシア社会民主主義連盟」に参加。1903年の分裂後はメンシェヴィキ。第1次大戦中は祖国防衛派。1918〜19年は、ペトログラードの協同組合で活動。

(10)ベルンシュタイン、エドゥアルト(1850-1932)……ドイツ社会民主党の右派指導者。1899年に『マルクス主義の諸前提と社会民主主義の任務』を著わし、修正主義の理論的創始者となる。第1次世界大戦勃発時は祖国防衛派。その後、平和主義の立場に移り、1917年に独立社会民主党に参加。20年に社会民主党に復帰。

(11)『ラボーチェエ・デーロ(労働者の事業)』……経済主義者の雑誌で、「在外ロシア社会民主主義者同盟」の不定期機関紙。1899年から1902年までジュネーブで発行され、クリチェフスキー、マルトゥイノフ、イヴァヌイシンなどが編集。全部で12号、9冊発行された。

(12)『ヴァデメクム』……正確には『「ラボーチェエ・デーロ」編集局のためのヴァデメクム』。「在外ロシア社会民主主義者同盟」とその機関紙『ラボーチェエ・デーロ』編集局の日和見主義的見解を暴露した資料・記録文書集で、プレハーノフが編集し、1900年にジュネーブで「労働解放団」によって発行された。


  

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