【解説】この論文は、1905年革命の敗北後にロシアを襲った経済恐慌の結果を分析したものである。トロツキーが『わが生涯』で述べているように、当時、党の多数派は、この恐慌が革命の新たな高揚を生み出すと考えていたのに対し、トロツキーはそのような考えに反対し、革命の敗北後に訪れた恐慌は、プロレタリアートを奮起させるのではなく四散させ、士気阻喪させる、むしろ、その後に訪れる好況こそが、再びプロレタリアートの自信を高め、結集させるのだ、と主張した。事実はまさにその通りになった。また、トロツキーは、この論文の中で、恐慌のもとで党が提出すべき諸要求を具体的に提示している。
Л.Троцкий, На борьбу с безработицей и голодом, Сочинения, Том.4−Политическая хроника, Мос-Лен., 1926.
Translated by Trotsky Institute of Japan
1、商工業恐慌
冬の訪れは、都市と農村の働く人々を最も困難な状況に追いやっている。失業がこれほどまでの規模に達したことはこれまで一度もなかった。どこを見渡しても、仕事とパンと住居を求めて虚しくさまよう人々の群れであふれている。組み立て工、雑役夫、織工、農業労働者――彼らはみな飢餓と赤貧の前では平等である。南部でも北部でも、都心でも僻地でも。
クリヴォイロクだけでも、現在、25の鉱山が操業を停止している。ケルチ地方
[ウクライナ南部の地方]でも鉱山は死んだように静まり返っている。餓えた鉱夫たちはなすすべもなく悲鳴を上げている。ウラルでも事情は同じである。同地では、多くの鉱業関係の工場が二束三文で売り払われ、すでに初秋以降、労賃の支払いがストップしている。ウラルの工場主たちは、ぬくぬくとした生活を送りながら、労働者の打った電報には返事すらしない。織物業も低迷している。工場の人出はどんどん削られ、門前に群がる人々の数はどんどん増えている。毛織物業においては、去年の終わりに恐慌が起こった。一連の工場が破産し、多くの工場の門はぴしゃりと閉められた。ヴィリノ[ポーランドの都市ヴィリニュスの旧名]やベルディーチェフ[ウクライナの都市]では、皮革生産が落ち込んでいる。ヴォルイニ[ウクライナとポーランドにまたがる地方]の陶磁器工場でも失業者が増えている。いたるところ同じである。恐慌は資本家のもうけを一時的に減らしただけだが、プロレタリアートの子供たちの手からは、堅くなったパンのひとかけらさえも奪っている。
2、資本家は団結する
もちろん、すべての資本家がもうけを減らしたわけではない。恐慌で打撃を受けたのは、不景気を乗り切るだけの資本を持たない下っぱの資本家だけである。これらの資本家は破産した。だが、本格的な大資本家たちは、恐慌によってかえって利益を上げるだけであった。なぜなら、競争相手が減れば減るほど、それだけ利益も上がるからである。彼らはシンジケートやトラストとして団結し、計算づくで生産規模を縮小し、商品価格の急騰をもたらしている。資本の集積はあらゆる分野で生じている。南部の鉱山業者たちは、「プロダルート」というシンジケートを結成した。冶金業者たちは、「クローブリャ」「グボーズト」「プロヴォロカ」というシンジケートとして活動している。製糖業者たちは、労働者と消費者から収奪する結束した盗賊団を構成している。繊維業者たちも団結している。マッチ業者のシンジケートは全国で活躍している。各シンジケートは、生産を縮小することによって、何万という労働者を新たに街頭に放り出している。首切りはたえまなく続いている。真っ先に工場からたたき出されるのは、過去のストライキで指導的立場に立った最も誠実で確固たる信念を持った労働者や、高齢の労働者、あるいは労働者代表になったような人々である。そして、あらゆる所で、首切りの最初の候補に上がるのは、社会民主主義者の労働者である。
3、賃金は下がり、物価は上がる
しかし、暗黒の日々を過ごしているのは失業者だけではない。今やすべてのプロレタリアートが極端な貧困に呻吟している。職のない労働者の大軍がいたるところで賃金を押し下げている。それに加えて、生活の維持に必要なすべての商品の価格が法外な値上がりをしている。
都市の家主たちは自分の手に土地、空気、太陽を確保している。彼らは法外な価格で、これらの恵みのひとかけらを労働者に許す。食料品の価格は、日ごとにどころか、時間ごとに上がっていく。肉の卸売り価格はこの2年間に25〜30%上昇し、小売価格はそれ以上に上昇した。小麦、卵、ミルクも高騰した。農民は零落し、搾乳用および食肉用の家畜の数はこの数年間に大きく下落した。多くの地方でまるまる3分の1にも減少した。肉の販売業者たちのシンジケートは、肉の販売を一手に独占した。彼らはすべての家畜を買い占め、それから、国のすべての地方に自分たちの価格を押しつけた。本物の牛肉は今や、労働者住民にとってぜいたく品となった。都市の貧民は食物屑や腐った物で糊口をしのいでいる。それを尻目に、畜産加工業者たちは1ルーブルあたり40コペイカももうけを上げている。一事が万事この調子である。製糖労働者の賃金は恐ろしく低いというのに、わが国におけるほど砂糖が高い国は世界のどこにもない。住民の砂糖消費量はほとんど増えていないというのに、製糖業者たちは濡れ手に粟でもうけを上げている。イギリスでは、平均して人口1人あたり年に2プード半の砂糖が生産されているが、わが国では14フント足らずである
[一プードは40フント]。パンさえ買えない住民にとって、砂糖などしょせん高値の花である。都市の商店でも倉庫でも、食料品の山が、買い手も見つからないまま腐っている。その腐った食料を荷馬車に積んで都市から離れたところに運びだすと、衛生監督官の指示にしたがって石油がかけられ燃やされる。飢えた者がそれらを食ってしまわないようにである。つまり、失業者には飢えて死ぬ権利はあっても、コレラで死ぬ権利はないのだ。なぜなら、コレラだと、富裕者に感染する危険性があるからだ。
4、農村での飢饉
では農村ではどうか? 都市よりもなお苛酷である。4年続けての不作である。痩せ衰えた土地は作物を結ばない。秋まきの種は完全に駄目になった。穀物の備蓄もすべて尽きてしまった。オルロフ県、サラトフ、チェルニゴフ、キエフ、クリミア半島の何百万という農民は、播いた種を取り戻すことができず、とてつもない貧困を耐えしのんでいる。他のどの県でも飢饉は秋以降すでに農家の窓をノックしている。多くの郷では、百姓のあばら家に巣くうゴキブリが飢饉のために死んでいっている。ちょうど、つい先日、社会民主党のベロウーソフ(1)が国会で言ったように。
農民手工業者の運命は農夫の運命よりもましではない。年々、家内手工業は没落しつつある。それは、工場との競争のせいであり、税金のせいであり、一般的な窮乏化のせいである。現在、ウクライナでは金属関係の手工業者は多いときでも1日に50コペイカしか稼がない。織工の稼ぎはもっと少ない。この程度の稼ぎでどうやって家族を養うというのか?
だが政府はこの数年間、執拗に税金と食糧税を要求してくる。農民は、穀物備蓄の最後の残りを市場に持っていく。それゆえトゥーラ県や他の県における穀物の地方価格は大きく下落した。穀粒を買い占めた商人たちは、それを都市に持っていって2倍の価格で売る。今年ほど郷で国内旅券が発行されたことはない。より若くより頑健な者は皆、仕事を求めて飢餓の農村を出ていく。農場の周りをうろうろしたり、工場のドアをノックしたりするが、仕事はない。
5、貧窮と死
労働組合は粉砕された。失業者を 助ける機関はどこにも存在しない。何かを売ることができた者はみな、すべて売り払い、食物に費やされた。9月の1ヵ月間で貯蓄銀行から200万ルーブルが引き出された。つまり、すべての小規模の貯蓄が暗黒の日々にすべて流通に回されたということである。だが、このような貯蓄を持っている労働者は多いだろうか? 1000人に1人程度だろう。では残りは。彼らは、飢えた野良犬のように街頭をさまよい、冷えきった足で牛小屋や犬小屋や下水溝にもぐり込む。絶望したある者は強盗に走る。彼らは捕まえられ、絞首刑に処される。このようにして国家は餓死者の数を減らすのである。他の者はぺこぺこしながら施しものを請う。乞食の数は驚くほど急増した。都市の警察は彼らを狩りたて、逮捕し、故郷に送り返す。あたかも、荒廃した農村が彼らを養うことができるかのように。飢饉のせいで農村から追い立てられた娘たちは家政婦の職を探す。だが、探しても見つからない。そこで、男たちに自分の体を売るか、家政婦派遣の事務所で自殺する。ペテルブルクの通りには、飢え死にした人々の群れ。多くの者はこのような生活に耐えられず、気がふれてしまう。精神病院に放りこまれることで、彼らは絞首刑や投獄をまぬがれるのである。失業者の自殺は後を絶たない。13歳の少年が、60歳の老人と同じく、飢えと寒さからの救いを自殺に見いだすのである。
帝政国家によって保護され、神と教会によって神聖化されている現在の資本主義秩序は、プロレタリアを何というひどい運命に陥れたことか。
6、労働時間の短縮を!
工業と商業が活況を呈しているときには、労働者は自らの境遇を改善するために闘う。だが現在のような、恐慌の暗黒の日々においては、労働者は、自らの生存を維持するために全力を尽くさなければならない。資本の側のどんなわずかな譲歩も抵抗なしにはすまない。ただの一歩でも相手を後退させるには闘争なしにはすまない。そして可能性がありしだい、攻勢に移らなければならない。
現在の主要な課題は、失業との闘争である。主要な手段は労働時間の短縮である。あらゆる所で、残業の即時かつ全面的な廃止を勝ち取らなければならない。これは、失業軍を減らし、賃金の上昇につながるだろう。その際、8時間労働を求めるアジテーションはできるだけ広範囲に展開しなければならない。
しかしながら、この途上においては、階級組織なしに一歩たりとも進むことはできない。労働者は四方を敵に囲まれている。しかも、敵はばらばらではなく、固く団結している。工場で労働者が前にしているのは、資本家たちのシンジケートである。借家人として前にしているのは、家主の同盟である。消費者として前にしているのは、穀物業者や精肉業者のシンジケートである。そして最後に、ロシア市民として前にしているのは、ツァーリ官僚の強力な徒党である。これらの敵は容赦というものを知らず、彼らの強欲の前に立ちはだかることができるのは、プロレタリア組織の力だけである。そこにすべての努力を傾けなければならない。合法的な労働組合が必要に迫られて慎重に活動せざるをえない場合、その活動を大胆で断固たる非合法的なアジテーションによって補完しなければならない。公然たる組合活動が不可能な場合には、大衆を非合法的に団結させなければならない。各工場において、各職場において、各農場において、自覚的労働者の確固たる中核をつくり出さなければならない。彼らのなすべきは、工場新聞を発行し、資本家の陰謀を暴露し、労働者大衆の自覚を目覚めさせ、資本家や帝政と衝突するあらゆる機会において労働者大衆の先頭に立つことである。
残業を根絶するための闘争と並んで、あらゆる力と手段を尽くしてなさなければならないのは、消費財の絶えざる高騰によって労働者大衆を苦しめている悪辣きわまりない陰謀に対して自己防衛することである。この場合、闘争は二重である。まず第1に、賃金のアップを勝ちとること、あるいは少なくとも、その引き下げを阻止することである。第2に、労働者の消費者協同組合をつくり出すことである。それを拡大し強化し、最も堅固で自覚的な労働者を事業に引き込み、消費者協同組合と労働組合との間に緊密な結びつきを確立しなければならない。ストライキ闘争にとっての消費者協同組合は、戦争にとっての兵たん部と同じである。消費者協同組合があれば、ストライキはよりうまくいくようになり、賃金もよりアップする。そして、このことが今度は、消費者協同組合の参加メンバーを増大させ、それを強化する。以上の関係はつねにあてはまる。小規模な場合も、大規模な場合も、である。労働者の組織が多様になればなるほど(労働組合組織、政治組織、協同組合組織、教育組織など)、これらの組織間の結びつきが密接になればなるほど、それだけますますプロレタリアートの闘争はより広く、より深く、より首尾よく展開されるだろう。
7、公共事業を!
しかし、飢饉は待ってくれないし、失業者は組合費を払うことができない。彼らには、ただちに、その場で援助の手が差し伸べられなければならない。彼らにはそれを要求する権利がある。
失業者への緊急の援助は、多くの場合、公共事業によって可能となる。都市においては、水道設備、鉄道の敷設、等々が必要である。そうすることで、郊外にいる労働者は、衛生的な水を飲むことができ、都心部と結びつくことができる。農村においては、舗装道路の敷設、学校の建設、土地改良事業(土壌の改善)などが必要である。なるほど、政府は自らこうした手段に訴えつつある。たとえば、10月3日、政府は、凶作だったサラトフ県への公共事業に150万ルーブルを支出した。しかし、実際にそこで行なわれたのは、公共事業ではなく、懲役労働だった。その条件があまりにもひどかったので、飢えですっかり参っていたムジークたちは逃げ出してしまった。そして、もちろんのこと、これは偶然ではない。わが国の市会は家主たちが牛耳り、ゼムストヴォでは地主が牛耳っているかぎり、そして労働者がその集団自身の現実的な監督を奪われているかぎり、都市でも農村でもストルイピン体制が支配しているかぎり、公共事業は不可避的に囚人労働に変貌するだろう。これに対抗することができるのは、またしても、強力で相互に結びついた都市と農村の労働者諸組織だけである。
8、社会民主党、前進せよ!
恐慌の災厄と労働者の失業に対する多様で粘り強い闘争において、社会民主党の労働者はその最前線に立つ使命を有している。彼らは、それぞれのプロレタリア組織において頭脳となり心臓とならなければならない。最も困難で危険な部署、敵からの最も狂暴な攻撃を受ける地点に、社会民主党のプロレタリアは立たなければならない。多くを与えられる者からは、多くのものが取り立てられる。
同志諸君、自らの部署につけ! 労働組合において、協同組合において、社会民主党の党組織において。
失業について、プロレタリアートと農民の窮状について、詳しい情報を集め、それをビラや合法・非合法の新聞で広く宣伝しよう。そして、その情報を『プラウダ』に寄せてほしい。国会にいる諸君の労働者代表にそれを伝えよう。
そして、社会民主労働党の議員団を通じて、都市と農村の勤労大衆の差し迫った要求を、帝政政府とストルイピン(2)国会の顔面に投げつけよう。暗黒国会の徒党どもの耳に直接、飢えた数百万の恐るべき声を鳴り響かせよう。
ウィーン『プラウダ』第2号
1908年12月30日
『トロツキー研究』第29号より
訳注
(1)ベロウーソフ、T・O(1875-)……ロシアの社会民主主義者。イルクーツク県から選出されて第3国会の議員に。1912年に、議員を辞めることなく、社会民主党議員団から離脱したため、大きな非難を浴びた。
(2)ストルイピン、ピョートル(1862-1911)……ロシアの反動政治家。1906年に首相に就任し、1907年に選挙法を改悪(6月3日のクーデター)、1910年に農業改革を実施し、富農を育成、1911年にエスエルによって暗殺。
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