スペインの経験を通じた

諸個人と諸思想の検証
トロツキー/訳 湯川順夫

【解説】この論文は、スペイン革命におけるマルクス主義統一労働者党(POUM)の位置と役割をめぐってトロツキーとベルギー支部のフェレーケンとのあいだで行なわれた論争である。フェレーケンは、スペイン革命において革命党としての役割を担えるのはPOUMであると考え、POUMを同志的立場から批判と援助を与えることに努力を集中し、POUMに対する打撃的批判を繰り返す国際書記局およびスペインのボリシェヴィキ=レーニン主義者を批判した。トロツキーは、国際書記局およびスペインのボリシェヴィキ=レーニン主義を擁護する立場から介入し、POUMの本質を完全に見誤っているとしてフェレーケンを厳しく批判している。

 このトロツキーの批判は、1907〜1917年におけるレーニンのトロツキー批判を彷彿とさせるものである。当時のトロツキーは、POUMよりかるかに右のメンシェヴィキ解党派を社会民主党の不可欠の構成部分とみなし、解党派をボリシェヴィキも含めた統一的な党の中に入れることに腐心していた。スペイン革命におけるPOUMは、メンシェヴィキよりもはるかに戦闘的で、革命的であった。にもかかわらず、トロツキーは、POUMを事実上、左翼中間主義として切って捨てるような議論を展開し、その期待を一握りのスペインのボリシェヴィキ=レーニン主義者にかけた。だがその期待はまったく実現の見込みのないものであった。大衆的な左翼中間主義勢力に有機的に介入するすべを学ぶことなしに、革命情勢を利用することはできない。

Translated by the Trotsky Institute of Japan


 スペイン革命は先進的労働者の目に、第1級の重要性を持つ歴史的事件としてだけでなく、革命的戦略の学校としても、巨大な意義を持つものと映っている。さまざまな思想と個人が、きわめて重要な、絶対確実と言える検証を受けつつある。革命の諸事件についてみならず、スペインの諸事件に対してさまざまなグループおよび個々の活動家がその隊列の中でとっている政治的立場についても検討することは、すべての誠実なマルクス主義者にとっての責務である。

 

   同志フェレーケンと同志スネーフリート

 この手紙で私は、特殊なケースだが、最高度に教訓的なケースについて、すなわちベルギー支部の指導的メンバーの1人である同志フェレーケン(1)の立場を検討してみたい。フェレーケンは、今年6月末に開かれた革命的社会党(RSP)の中央委員会の会議でスペイン問題について報告した。彼の演説にもとづく報告は、ベルギー支部の内部ブレティン6−7月号に発表されている。それは、きわめて短く、おそらくせいぜい25行程度のものだろうが、それでもやはり、同志フェレーケンの誤りを十分に明確に描き出している。その誤りとは、ベルギー支部にとってと同様に全インターナショナルにとっても危険なものである。

 オランダの革命的社会主義労働者党(RSAP)の指導者、同志スネーフリート(2)は、周知のように、POUMの政策と完全に連帯してきたし、そうすることによって、革命的マルクス主義とどれほど絶縁してしまったかをはっきりと示してきた。同志フェレーケンの場合は、いくぶん異なる。フェレーケンの方がもっと慎重である。過去においてもまた現時点でも、彼の主張には「一方で」、「他方で」といった留保が混じっている。POUMに対して、彼は、われわれの共通の武器庫から数多くの主張を借りてきて、「批判的」立場をとる。だが、根本的には、スネーフリートの立場よりも彼の中間主義的立場の方がわれわれの隊列に混乱を持ち込む可能性がはるかに高いのである。それゆえ、フェレーケンの考えを注意深く批判する必要がある。

 

   中間主義の特徴としての楽観的宿命論

 フェレーケンがこの報告を行なったのは、POUMが壊滅する前であり、スペインにおけるスターリンの手先(アントーノフ・オフセーエンコ(3))によるPOUM指導者の卑劣な虐殺が行なわれる前のことだった。われわれは、モスクワやその他の地域の悪党どもの中傷からニンと彼の仲間たちの名声をあくまでも防衛していくだろう。しかし、ニンの悲劇的運命によってもわれわれの政治的評価を変えることはできない。なぜなら、われわれの政治的評価は、感情的考慮によってではなく、プロレタリアートの歴史的利害によって決定されるからである。長年、同志フェレーケンは、事態の圧力によってPOUMが左へと「自動的に」進化し、スペインにおけるわれわれの政策がPOUMへの「批判的」支持に限られるだろうと考えていた点で、POUMの評価を完全に誤っていた。事態は、この運命論的で楽観主義的な診断――それは中間主義に特有のものであって、けっしてマルクス主義的思考によるものではない――を決定的に反駁するものであった。この同じ宿命論的楽観主義がPOUMの政策全体に染み込んでいたのである。フェレーケンがPOUMの指導者たちに順応していたのとまったく同じように、POUM指導部は、アナーキストの指導者たちがプロレタリア革命の道に自動的に入ると期待して、その指導者たちに順応していた。これらすべての期待は完全に打ち砕かれてしまった。事態は、アナーキスト指導者とPOUM指導者を左ではなく、右へと投げ出した。フェレーケンは、自己の政策の誤りを公然と認めるのではなく、さらに大きな混乱によって前日までの政策とは異なる新しい立場へと秘かに移行しようと試みる。

 

   POUMの特性

 フェレーケンは次のように報告を始める。「数十年間存続してきたCNTおよびFAIとは違って、POUMは最近できたばかりの均質でない組織であり、その左翼は弱体である」。この説明は、スネーフリートの立場に対するだけでなく、フェレーケン自身の以前の立場に対する根本的な批判をも表している。なぜなら、あの約束された左への進化はどこに行ったか、ということになるからである。同時に、POUMのこの特性は、わざと曖昧にされている。「左翼は弱体である」というとき、「左翼」という言葉はこの文脈では何も意味しない。彼は、POUM内のマルクス主義派のことを言っているのか、それとも左翼中間主義派のことを言っているのだろうか? フェレーケンは、この質問に意識的に答えないようにしている。われわれが彼に代わって答えよう。それはいかなる大きなマルクス主義派勢力をも指していない、と。POUM内では「トロツキスト」排除が存在してきたからである。だが、中間主義的左翼分派さえ弱体である。この点については、フェレーケンは正しい。だが、このことは、革命の6年間の経験を経た後、POUMの政策が右翼中間主義者によって決定されていることを意味する。以上がありのままの真実である。

 

   同志フェレーケンのPOUM「批判」

 では、フェレーケンがいかにPOUMを批判しているのかを聞いてみることにしよう。「POUMの誤りは、選挙のときに人民戦線に結集したことである。彼らは武装闘争によって7月19日にこの誤りを正した。もう一つの誤りは、[カタロニア]政府に参加し[地方]委員会を解散させたことである。しかし、彼らが政府から出た後、POUM内でこの誤りが取り除かれた」。

 以上すべては一見、マルクス主義的批判の一つを思い起こさせる。実際、フェレーケンは、POUMと彼自身の日和見主義的戦術を暴露するのではなく、覆い隠すためにマルクス主義的批判の不毛な断片を利用しているのである。とりわけ、わが批判者にとってそれがPOUMの「個別の」誤りの問題であって、POUMの政策全体に対するマルクス主義的評価の問題でないという事実には、驚かされる。いかなる組織にも「誤り」は起こりえる。マルクスは間違いを犯した。レーニンは間違いを犯した。ボリシェヴィキ党全体もまたそうである。しかし、これらの間違いは、根本的路線の適切さのおかげで、手遅れにならないうちに是正された。POUMについては、それは個別の「誤り」の問題ではなく、革命的でない、中間主義的な、すなわち、本質的に日和見主義的な誤りの問題なのである。言いかえれば、革命党にとって「誤り」は例外である。だがPOUMにとって、数少ない個別の正しいステップこそが例外なのである。

 

   1936年7月19日

 フェレーケンは、1936年7月19日に、POUMが武装闘争に加わったという点を、われわれに想起させる。もちろんだ! プロレタリアート全体を包含するこの闘争に参加しないのは、反革命組織だけであろう。明らかに、われわれのうちの誰も、POUMの性格をそのように規定した者はいない。しかし、大衆こそがこの時、自らの政策をアナーキストや社会党だけでなく、POUM派にも押しつけたわけだが、どうしてこの大衆の闘争に参加することで、人民戦線への参加という「誤りを手直しする」ことができるのか? ことによるとPOUMはその政策の根本的方向を変更したのだろうか? いやけっして! 7月19日の闘争は、労働者が実際に勝利したにもかかわらず、どの組織も必要な先見の明を持ち合わせておらず、闘争を最後まで推し進める勇気を持っていなかったというただそれだけの理由のために、2重権力の曖昧さのうちに終ってしまった。人民戦線へのPOUMの参加は偶然の「誤り」ではなく、その日和見主義的性格を示すまごうことなきしるしなのである。7月事件において、党の中間主義的性格が変化したのではなく、外部情勢が変化しただけなのである。POUMは人民戦線の選挙機構に順応した。中間主義の左へのジグザグは、右へのジグザグを補完するものであって、けっしてそれを改めるものではなかった。そして、左へのジグザグの最中に、POUMはその折衷的立場をそっくりそのまま保持していたのであり、まさにこうして将来の破局を準備したのである。

 

   政府への参加

 フェレーケンは言う。「もう一つの誤りは、[カタロニア]政府に参加し[地方]委員会を解散したことであった」と。もし7月蜂起への参加がそれまでの誤った政策を「改める」ものであったとすれば、この「もう一つの誤り」はどこから来たのであろうか? 実際には、[カタロニア]政府への参加は、党の中間主義的性格に根ざした新しいジグザグであった。同志スネーフリートは、この参加は「理解できる」と書いた。ああ何ということか! この曖昧な公式は、スネーフリートが革命期における階級闘争の法則を理解していないことを示しているにすぎない。

 1936年の7月事件は、カタロニア・プロレタリアートが正しい指導部を持っていれば新たな努力や犠牲を払うことなく、権力を奪取することができ、スペイン全土のプロレタリア独裁の時代を切り開いていたであろうが、主としてPOUMの誤りによって、おべっか使いたち(スターリニスト、アナーキスト、社会党の指導者たち)に代表される、プロレタリアート(革命委員会)とブルジョアジーとの間に立つ政権という結果に終ってしまった。労働者の利益になるのは、すべての権力を革命委員会に、すなわち、スペインのソヴィエトに、移譲することによって、どっちつかずの危険な情勢をできるだけ迅速に取り除くことであった。他方、ブルジョアジーの任務は、「権力の統一」の名において革命委員会を取り除くことであった。政府へのニンの参加は、プロレタリアートに敵対するブルジョアジーの計画の共通部分であった。もしスネーフリートがそうしたことを「理解できる」とすれば、彼にとって問題ははるかにひどいものになる。フェレーケンはより慎重である。彼は政府への参加を「もう一つの誤り」であると述べている。それほど悪くないこの「誤り」は、労働者の委員会に反対してブルジョアジーの政府を直接に支持することにある!

 フェレーケンは、自分の批判の矛先をくじいてしまう。「しかし、彼らが政府から出た後、POUM内でこの誤りが取り除かれた」と。これは、明らかに偽りであり、すでに引用したような、左翼が弱体な均質的でない党というPOUMに対する彼自身の性格づけを明らかにした際に彼自身が拒否したものである。では、その後でさえ、党内で左翼中間主義者が弱く少数派であるのに、どの点で「誤りが取り除かれたのであろう」か? あるいは、ことによると「誤りが取り除かれた」というのは、ボリシェヴィキ=レーニン主義者が排除されたということなのだろうか…?

 

   国際書記局に対する批判

 フェレーケンは中間主義の立場を擁護するに際して、それよりもさらに進む。彼は、POUMの「誤り」を挙げたあと、釣り合いをとるために、ただちに国際書記局の「誤り」を列挙することに移る。もう一度、彼の実際の言葉を検討してみよう。

「国際書記局の誤りは、7月19日から10日経っても、パリでいかなる立場もとらなかったことである。彼らは事態の重要性を理解していなかった。彼らはブリュッセルの会議に出席しなかった。パリでの決議をあまりにも文字どおりに適用しすぎた。この機会を利用してPOUMを革命的政策の方向へと押しやることによって利益を得るべきだった。彼らは、トロツキーの手紙を公表することによって、自らニンとの関係を断ち切ってしまった」。

 この多くの「告発」を読むと、自分の目を信じることができない。当然、国際書記局は、いくつかの実践的な怠慢に責任があるし、いくつかの政治的な誤りについてさえその責任があるかもしれない。だが、これらをPOUMの日和見主義的政策と同一レベルに置くことは、われわれに敵対する党とわれわれ自身の国際組織との間で不適切な調停者の役割を演じることである。同志フェレーケンは、この点でも、はじめてではないが、がっかりさせるほど平衡感覚の欠如を暴露している。だが、彼の告発をより綿密に調べてみよう。

 7月19日から「10日」経っても、国際書記局はパリでいかなる立場もとらなかった。これがその通りだと認めるとして、その理由は何であったのだろうか? 情報の欠如だろうか? 過度の慎重さのためだろうか? フェレーケンは説明しない。もちろん、ただちに「立場」をとった方がよい。ただし、一つの条件がいる。すなわち、その立場は正しくなくてはならない。国際書記局は最高の執行機関である。政治的立場をとるには非常に慎重でなければならない。スペインの闘争を直接に指導していなかったし、指導することができなかっただけによりいっそう慎重でなければならなかった。だが、「10日経っても」国際書記局がいかなる立場もとらなかったとすれば、7月19日から1年経っても、同志フェレーケンはまったく誤った立場をとっている。この方が比較にならないほど悪い。

 

   ブリュッセル会議

 「POUMを革命的政策へと押しやる」ために、ブリュッセルでの中間主義者のみじめでくだらない会議に再び参加する必要があった、とフェレーケンは言う。バルセロナではなく、ブリュッセルで、革命的大衆の面前ではなく、会議の閉ざされた室内で、POUMに対して影響を与える必要があった、というわけだ。まるでわれわれがはじめてPOUMの指導者に会ったかのように! まるで6年間、われわれが「彼らを革命的政策の道に押しやる」ことを試みてこなかったかのように! われわれはあらゆる方法とあらゆる手段を使った。山ほどの通信、代表の派遣、組織的連絡、数多くの論文やパンフレット、最後には公然たる批判である。それでも、POUMの指導者は、マルクス主義的政策を採用することなく、革命の容赦ない要求に恐れをなして、はっきりと中間主義の路線を採用した。フェレーケンにとって、以上すべてはどうやら重要性のない誤りであるようだ。巨大な重要性を持つであろうものは、ブリュッセルの中間主義的会議であり、そこで、フェレーケンはPOUMの指導者の1人を前にして、会議の前に何百回となく言われ書かれてきたことをせいぜい繰り返すにすぎない演説をぶつのである。今度は同志フェレーケンがまたしても中間主義者とセクト主義者とを一つにまとめる。

 セクト主義者にとって、存在の最高の瞬間は、1001回目の会議で、自己を誇示する時なのである!

 

   トロツキーの手紙

 さて最後の告発は、トロツキーの手紙を公表したことである。この手紙は、私の知るかぎり、公表を目的としたものではなかった。しかし、この手紙の公表を、POUMとわれわれとの関係における重要な決定的要素であるとみなすことができるのは、政治的考察力の最後の一片をも失った者だけである。この手紙は、ブルジョアジーとのブロックをプロレタリアートへの裏切りとして描いている。これが正しいのか、それとも間違っているのか?

 われわれは、ニンの意図の純粋さをけっして疑ってはいない。しかし、人民戦線への彼の参加を裏切り行為であるとする政治的評価は、絶対に正しかった。したがって、この手紙の発表は、「われわれとニンとの関係の断絶」となりえたのか? この手紙の発表の前でさえ、われわれは十分に彼との関係が切れていたし、それも偶然ではない。彼の政策全体は、われわれとは正反対の方向に向かっていた。トロツキーの手紙の公表よりも3年前にニンがわれわれと断絶していたのは、何らかのきまぐれのためではなかった。それとも、フェレーケンはことによると、選挙後、ニンがわれわれの方に発展しつつあり、手紙の公表がこの発展を阻止したと言おうとしているのであろうか?

 フェレーケンの言葉は、それ以外の意味を持ちえない。もっとも、それが多少とも意味らしきものを持っているとすればの話だが。実際、われわれが知っているように、ニンと彼の友人たちは、人民戦線とその後の政府への参加が正しいと考え続けたのであり、この参加の継続さえ要求した。この点において、それは「誤り」の問題でなく、全政治路線の問題なのである。

 最後に、もしPOUMが人民戦線に参加したことの「誤り」を理解していたというのであれば、この誤りの鋭い分析を含むこの手紙の公表がどうしてPOUMの発展を妨げることになるのか? フェレーケンは、、この手紙によってニンが感情を大いに傷つけられたので、以前の正しくない立場に戻った、と言おうとしているのであろうか(もし何かを言おうとしているのであればの話だが!)? だが、このような見解は、つまらない個人的政治的自負心に対する考慮ではなく政治思想によって導かれてきたニンをあまりにも侮辱するものである。

 以上が、フェレーケンがPOUMの中間主義的政策と同一レベルで提起した国際書記局の「誤り」である。こうして、彼は、自分がマルクス主義と中間主義との間の仲介的位置を占めていることを示しているにすぎない。

 

   1937年の5月事件の準備

 フェレーケンは次に今年5月の事件に話を進める。彼は言う。「POUMはこの事件を予測しており、武器を整えていた。だがこの事件の大きな広がりは、党の不意を打った。しかし、いかなる党であっても不意を打たれていたであろう」。

 すべての文章がことごとく間違っている。しかも、それは、偶然の誤りではなく、間違った政治的路線の産物なのである。5月事件はたった一つの方法によって「予測」でき、準備できた。すなわち、カタロニアとスペインの政府に対する非妥協的闘争を宣言することによって、また、これらの政府とのいっさいの政治的協調を拒否することによって、他のすべての政党に、その指令センターに、とりわけCNT指導部に、自党を対置することによって、人民大衆が一瞬たりとも革命的指導部とブルジョアジーの追従者とを混同させないようにすることによって、である! もちろん、軍事闘争および人民大衆の革命的行動への積極的な参加を伴ったこの種の非妥協的な政策は、すべての労働者の間での、とりわけカタロニア・プロレタリアートの圧倒的多数を構成するアナーキストの間での、不動の権威をPOUMにもたらしただろう。POUMは、そうする代わりに、自分たちの指導者を反革命的政府に再入閣させるよう要求し、同時に、『ラ・バターリャ』のすべての号の中で、労働者が武装闘争なしに権力を握れると主張した。この目標を実現するために、POUMはブルジョア政府によって招集される特別大会という子供じみた計画に着手した。この大会によって…権力を労働者と農民に引き渡すことができるというのだ。POUMが不意を打たれ、5月事件がPOUMにとって破局への道の途上の新たな段階でしかなかったのは、まさにこのためであった。

 フェレーケンは叫ぶ。「しかし、いかなる党であっても不意を打たれていたであろう」。この信じられない文章は、フェレーケンが中間主義の党とマルクス主義の党との違いを知らないことを改めて示すものである。もちろん、真の大衆蜂起がいかなる革命党をも多かれ少なかれ乗り越えるというのはその通りである。しかし、違いは、まさにその乗り越えの程度にある。ここでもまた、量は質に転化する。中間主義の党は、事態に流され、その中で溺れてしまうが、他方、革命党は最後の決定的闘争において事態を支配し、勝利を確保する。

 

   「攻勢的ではなく防衛的に」

 フェレーケンは続ける。「5月の4日と5日に、(POUMの)政策は正しかったし、防衛的で、攻勢的ではなかった。権力奪取に向かって前進することは当時の状況の中では冒険主義となったであろう。POUMの大きな誤りは、後退の最中に幻想をまき散らし、敗北を勝利であるととりつくろったことであった」。

 ごらんのように、フェレーケンは薬剤師のような精度で、POUMの「正しい」行動と「誤り」とを秤にかけ、比較対照している。しかしながら、彼の主張全体は、間違い以外の何ものでもない。5月に権力奪取へ進むことが冒険主義だと、誰が、どこで言ったのか? これは、とりわけ、POUM自身の意見ではなかった。その前日まで、POUMは、もし労働者が望めば武装闘争なしに権力をとれるだろうと労働者を安心させていた。そして、権力をとることを労働者は「望んでいた」。どこに冒険主義があるのか? この問題において注目すべき観点からすれば、スターリニストの側の下劣な挑発の要素は、第2義的な重要性しか持たない。事件の後のすべての報告が示すところでは、もし真剣さと自信を持った指導部が存在していれば、5月蜂起の勝利が確保されていただろう。この意味で、もし労働者が「望めば」権力をとることができるというPOUMの主張は正しかったのである。だが次の点を付け加えるのを忘れていた。すなわち、残念ながら、労働者は革命的指導部を持っていない、と。それまでのPOUMのすべての政策がそうしたイニシアチブを不可能にしているために、そしてただそれだけのために、POUMはカタロニアのプロレタリアートを革命的攻勢へと導くことができなかったのである。

 

   1917年の「7月事件」と1937年の「5月事件」

 しかしながら、この点で、同志フェレーケンは、反論することができる。「だが、1917年7月のボリシェヴィキでさえ、権力の奪取を決定せず、自らを防衛的な闘いに限定し、できるかぎり犠牲を少なくするために銃の弾道の範囲内から大衆を引き揚げさせるべく指導した。それでは、どうしてこの政策がPOUMにはふさわしくないのか?」

 この主張を検討してみよう。同志スネーフリートとフェレーケンは、スペインが「ロシアではない」し、「ロシア的」方法をこの国に適用することができないということをわれわれに指摘するのを大いに好んでいる。この種の抽象的説教は何ら重大な印象を与えるものではない。うまくやったかどうかは別にして、この6年間、われわれはスペイン革命の具体的条件を分析しようと努めてきた。その最初の段階ですら、われわれは、1917年のロシアのような、事態の発展の急速なテンポを期待してはならないと警告した。反対に、われわれは、フランス大革命との類推を用いた。フランス革命は、1789年に始まり、1793年にその頂点に達する前に一連の諸段階を経過した。1917年7月のペトログラードにおけるボリシェヴィキの戦術を1937年5月のカタロニアの事態にそのまま移しかえることができるとみなさなかったのは、まさしくわれわれが歴史的諸事件を図式化する気がないからである。両者の異なった特徴はあまりにも明白である。

 ペトログラード・プロレタリアートの武装デモは革命開始から4カ月後に、ボリシェヴィキ党が真のボリシェヴィキ的綱領(レーニンの4月テーゼ)を打ち出してから3カ月後に、起こった。この巨大な国の人民の圧倒的多数は2月の幻想からちょうど醒め始めつつあるところにすぎなかった。前線には1200万人の軍隊がいて、当時その兵士たちにボリシェヴィキに関する最初の噂が届いたばかりにすぎなかった。こうした諸条件のもとで、ペトログラード・プロレタリアートの孤立した蜂起は不可避的に粉砕されることになっていただろう。時を稼ぐ必要があった。以上がボリシェヴィキの戦術を決定した状況であった。

 スペインでは、5月事件は、革命から4カ月後ではなく、6年後に起こった。全国の人民大衆は巨大な経験を積んでいた。ずっと以前に、大衆は1931年の幻想も人民戦線の陳腐な幻想も失っていた。大衆は、最後まで突き進む用意のあることを、国のあらゆる地域で、繰り返し示した。もし1937年5月にカタロニア・プロレタリアートが権力を奪取していたなら――1936年7月に実際にそうしたように――、スペイン全土から支援を受けることができただろう。ブルジョアジーとスターリニストの反動派も、カタロニア労働者を粉砕するのに2つの連隊を見つけ出すことさえできなかっただろう。フランコ派の支配地域では、労働者だけでなく農民もカタロニア・プロレタリアートに共感し、ファシスト軍を孤立させて、その必然的な解体をもたらしただろう。こうした条件のもとで、何らかの外国政府がスペインの燃える大地に自国の軍隊を投入するような危険を冒すかどうか疑わしい。軍事干渉は物質的に不可能である。あるいは少なくともはなはだ危険なものとなっただろう。

 当然のことながら、いかなる蜂起においても、不確実性と危険性の要素が存在する。しかし、その後の事態の推移が示したように、敗北した場合でさえ、スペイン・プロレタリアートの状況は、現在よりもはるかに有利なものとなっていただろう。もちろん、革命党が存在していたなら、スペイン・プロレタリアートの未来が保証されていただろうことは、言うまでもない。

 だが、フェレーケンは、何を根拠に、当時の状況下でカタロニアでの権力奪取が冒険主義になるだろうなどと断言するのか? まったく何の根拠もない。ただし、中間主義の無力さを正当化したいという願望、そして中間主義の左翼的影でしかなかったし、いぜんとしてそうであり続けている自らの政策を根拠とするのでなければの話だが。

 

   フェレーケンはボリシェヴィキ=レーニン主義者の排除を擁護する

 報告の結びの数行は、報告全体と同じレベルである。「POUM内には民主主義がないと言われている。だが、もしボルディガ派がわが党に入りたいと望んだなら、分派の権利を認めないけれども、それを受け入れるだろう」。こう言っているのは誰か? 中間主義の弁護人か、それとも自らのボリシェヴィキ=レーニン主義者の一員だとみなす革命家か? それを言うのは難しい。フェレーケンはPOUMの民主主義に完全に満足している。日和見主義者たちは自分たちの党から革命派を排除する。フェレーケンは言う。言うことをきかない革命派が分派を作るのだから、日和見主義者たちは正しい、と。

 フェレーケンが最初にPOUMについて言ったことをもう一度思い起こしてみよう。それは「最近できたばかりの均質でない組織であり、その左翼は弱体である」。この均質的でない、本質的にさまざまな分派や小分派によって全体が成り立っている党から、POUMは、自ら公然と認める改良主義者でも小ブルジョア的なカタロニア民族主義者でももちろん中間主義者でもなく、ボリシェヴィキ=レーニン主義者のみを排除している。これは、明白にされなければならない。にもかかわらず、「ボリシェヴィキ=レーニン主義者」のフェレーケンは、中間主義者による弾圧を承認する。彼は、ごらんのように、POUMの綱領と戦術をめぐる政治的問題ではなく、分派の権利という規約上の問題に夢中になっている。

 マルクス主義者の目には、中間主義政党内の革命派は積極的事実として映る。革命党内のセクト主義派や日和見主義派が否定的事実である。フェレーケンが問題を分派が存在する単純な権利に帰しているという事実は、彼が中間主義とマルクス主義との間の分岐線を完全に消し去ったことを示すにすぎない。この点で、真のマルクス主義者は次のように言うであろう。「POUM内に民主主義がないと言われている。これは本当ではない。そこには民主主義は存在する。右派、中間主義者、混乱者のための民主主義は存在している。だが、ボリシェヴィキ=レーニン主義者のための民主主義は存在しない」と。言いかえれば、POUM内の民主主義の度合いは、革命的マルクス主義に根本的に敵対する中間主義的政策の実際の内容によって決定されているのである。

 

   許しがたい攻撃

 しかし、フェレーケンはそれにとどまらず、POUMを擁護して、カタロニアのわれわれの同志たちに対する直接の中傷(これにはそれ以外の言葉が見当たらない)に訴える。「バルセロナのボリシェヴィキ=レーニン主義者の支部は、出世主義者や冒険主義者から成り立っている」と彼は言うのである。これを読んだ人は自分の眼を信じられないだろう。これを言っているのは誰か? 社会民主主義者なのか? スターリニストなのか? それとも敵のブルジョアジーなのか? そうではない、これはわがベルギー支部の責任あるメンバーが言っているのである。これは、事態の全発展過程によって暴露された誤りにしがみつくことを意味している! もしベルギー支部のブレティンがバルセロナのゲ・ペ・ウの手先の手に落ちれば、彼らは明日には、「フェレーケン自身の告白によれば、ボリシェヴィキ=レーニン主義者は出世主義者で、冒険主義者である。したがって、連中を始末しなければならない!」と言うだろう。

 われわれが怒りをもって同志フェレーケンのこの許しがたい攻撃を退け、われわれのあらゆる国際的権威をもってわれわれの若きバルセロナ組織を支持すると宣言することは、われわれのすべての支部の義務である。ここで、次のことをつけ加えておこう。バルセロナのわれわれの同志たちは、今年の7月19日におけるその綱領的呼びかけによって示したように、フェレーケンとは比べものにならないほど深く、真剣に革命の任務を理解している、と。国際書記局の真の「誤り」はむしろ、今日までフェレーケンの発言を非難しなかったこと、そしてまたわれわれのベルギー支部がそれを非難するよう主張しなかったという点にある。

 

   再度われわれは同志フェレーケンが正しい路線に

      復帰するよう助けなければならない

 われわれには意見の相違をさらに重大なものにしようとするようなつもりは毛頭ない。われわれは、さまざまな状況のもとで、そしてベルギー支部と国際組織のさまざまな発展段階において、同志フェレーケンを見てきた。われわれ全員が、労働者階級の大義への同志フェレーケンの献身、そのエネルギー、この大義に自らのすべての力を無私に注ぎ込もうとするその熱意を評価するようになった。若い労働者は、この点を同志フェレーケンから学ぶべきである。しかし、彼の政治的立場について言えば、残念ながら、まったくしばしば、マルクス主義の路線から数ヤード左右に逸脱する。けれども、だからといって、同志フェレーケンが、マルクス主義的路線に忠実にとどまっている人々に対して寛大になることはない。過去において、われわれは、とりわけ、同志フェレーケンのセクト主義的傾向と闘わなければならなかった。彼は少なからぬ害をベルギー支部にもたらした。だが、そのときでさえ、セクト主義が、そこから日和見主義が全面開花するつぼみにすぎないことはわれわれにとって周知のことであった。今、われわれの前で、政治的植物学のこの法則がまったく驚くほどはっきりと確認されている。同志フェレーケンは、第2義的重要性しか持たない問題や組織の形式的問題におけるセクト主義が結局のところ巨大な歴史的重要性をもつ政治問題における日和見主義に行き着くことを立証した。

 第4インターナショナルの内部生活は、民主主義の原則の上に築かれている。同志フェレーケンは、この民主主義を非常に広く、時としてアナーキスト的にさえ使っている。それでも、民主主義的体制の利点は、経験と同志的討論に依拠する圧倒的多数派が権威ある意見を自由に定式化して、危険な道に踏み込んだ少数派を時機を失せずもとの正常な道に戻すことができる点にある。これが、現時点でわれわれのベルギー支部と同時にオランダ支部に対してなすことのできる最善の貢献である。

1937年8月24日

『スペイン革命(1931-39)』(パスファインダー社)所収

『トロツキー研究』第22号より

  訳注

(1)フェレーケン、ジョルジュ(1894-1978)……ベルギーの革命家、トロツキスト。ベルギー共産党の中央委員から左翼反対派に。1930年代、第4インターナショナルのベルギー支部の指導者。1936〜38年、スペイン革命の問題をめぐってトロツキーと論争。戦後、『トロツキスト運動におけるゲ・ペ・ウ』などの著作あり。

(2)スネーフリート、ヘンドリク(1883-1942)……オランダの革命家、インドネシア共産主義運動の創設者。1902年にオランダ社会民主党に。1913年、インドネシアに渡り、マルクス主義の普及に努める。1914年、インド社会民主同盟(インドネシア共産党の前進)を結成。イスラム同盟内に共産主義の影響を広める。1918年に追放。第2回コミンテルン世界大会に参加し、アジアの運動の重要性を訴え、その責任者として中国に渡り、中国共産党の創設にも貢献。1923年、オランダに帰国。投獄中の1933年に国会議員に選出。革命的社会主義労働者党(RSAP)を創設。1933年、4者宣言に署名。その後、革命的社会主義労働者党とともに国際共産主義者同盟に加入。1938年に第4インターナショナルの運動から離れ、第2次大戦中にナチスによって逮捕され処刑。

(3)アントーノフ=オフセーエンコ、ウラジーミル(1884-1938)……ロシアの革命家、1902年以来のロシア社会民主労働党の党員。分裂後はメンシェヴィキに。ツァーリ軍の将校として軍隊反乱を指導。投獄・流刑された後、亡命。第1次大戦中は国際主義派として、トロツキーとともに『ゴーロス』『ナーシェ・スローヴォ』を編集。1917年にはメジライオンツィ派(非分派的国際主義派)として活動し、ボリシェヴィキに入党。10月蜂起の際、冬宮占拠を指導。内戦中は赤軍の政治委員として活躍。1923年以来、左翼反対派としてスターリニストと闘争。その後屈服。1936年に内戦のスペインに派遣され、帰国後、処刑される。


  

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