【解説】この覚書は、スターリン=ブハーリン派に対する合同反対派の闘争が最高潮にあった1926年11月に執筆された日記の覚書である。トロツキーはこのテーゼの中で、現在おきていることの現実的背景を探ろうとし、スターリン派の台頭とトロツキー派の衰退のうちに、あらゆる革命に共通する「革命と反革命のダイナミズム」および、その特殊ロシア的現われを見出そうとした。
本論文の一部訳は英語からの重訳としてドイッチャー編、山西英一訳『永久革命の時代――トロツキー・アンソロジー』(河出書房新社)に掲載されているが、ロシア語原文からの全訳はこれがはじめてである。底本は、1994年にロシアで出版されたフェリシティンスキー編集の『日記と手紙』である。なお、翻訳にあたっては、Leon Trotsky, The Challenge of the Left Opposition (1926-27), 所収の英語訳を参照にした。
Л.Троцкий, Из дневника(для памяти), Дневники и письма, 《Издательство гуманитарной литературы》, Мос., 1994.
Translated by Trotsky Institute of Japan
1、歴史においては、革命の後にはいつも反革命が続いた。反革命は常に社会を後方に投げ返したが、しかしけっして革命が始まった時点の水準にまでは戻しはしなかった。革命と反革命の交替は、階級社会のメカニズムの一定の基本的な特徴によって引き起こされる。このメカニズムこそがそもそも革命と反革命を可能ならしめたものである。
2、革命は広範な人民大衆がそこに引き入れられることなしには不可能である。このような参加は、それはそれで、被抑圧大衆がよりましな運命への希望を革命のスローガンに結びつける場合のみ可能となる。この場合、革命によって呼び起こされた希望は常に誇張されたものである。これは、社会の階級的メカニズムの所産であり、人民大衆の抑圧された多数派の恐るべき窮状、そして、ささやかな前進を勝ち取るためだけであっても最大限の希望と努力を集中しなければならないという客観的な必要性、等々の所産である。
3、しかし、こうした状況のうちにこそ、反革命の最も重要な要素の一つ――しかも最も一般的なそれ――が存在する。闘争の中で獲得された成果は基本的に、革命そのものによって初めて目覚めた広範な後進的大衆の願望に見合っていないし、直接的には見合うことはできない。これらの大衆の幻滅、日常と希望なき現実への回帰は、革命に参加した「満足した」階級や階層が「秩序」の陣営に移っていくことと同じく、革命後の時期を構成する要素である。
4、こうした過程と密接に結びついて、支配階級の陣営内部では異なった過程が、かなりの程度正反対の過程が平行的に生じる。広範な大衆の覚醒は、これまでの決まりきった均衡状態から支配階級をたたき出し、彼らから直接的な支柱や自信をも奪い取り、そうすることで、革命が、後に保持することができるよりもはるかに多くのものを獲得することを可能にするのである。
5、革命の直接的な獲得物に対する被抑圧大衆のかなりの部分の幻滅、およびそれと結びついた、革命的階級の政治的力と能動性の低下は、反革命的階層のあいだで――革命によって打倒されたがまだ完全には粉砕されていない連中だけでなく、一定段階で革命に参加したがその後の発展の中で反動の陣営に投げ返された連中のあいだでも――自信の高まりを生み出す。
6、以上の図式は、先行するすべての革命のメカニズムを大なり小なり反映したものだが、このような図式にもとづいて、もうすぐ10周年を迎えようとしている最初のプロレタリア革命の諸条件に適合した諸問題をより具体的に検討してみよう。
一方では帝国主義戦争の影響、他方では小ブルジョア的農民革命とプロレタリアートによる権力獲得との結合は、前代未聞の広範な大衆を革命に引き入れることになったとともに、それによって革命そのものを前代未聞の規模にした。
7、革命のこのような規模と歴史上最も決然とした指導部のおかげで、旧支配階級と両派――前ブルジョア的およびブルジョア的陣営(君主、官僚、貴族、ブルジョアジー)――の諸機関は、完全な政治的崩壊をこうむった。そしてこの崩壊の結果は、旧支配階級が外国帝国主義の指導のもとで何年ものあいだプロレタリア独裁を武力によって打倒しようとしたことによって、ますますラディカルで強固なものとなった。
8、旧支配階級の崩壊の徹底性は、復古の危険性を防ぐ保障の一つである。しかし、この保障の意味と力を正しく評価することができるのは、それに劣らない重要性を持った他の諸状況と結びつける場合のみである。
9、君主制的・地主的復古を妨げている最も重要な保障は、農民の大多数が、かつては地主のものであった土地を自分のもとに保持しておくことに直接的な利害関心を有しているという事実である。
ミリュコーフ(1)はブルジョア共和制的復古という観念を抱いているが、この復古のためには、農民を政治的中立にとどめ、農民の上層を(エスエルとのブロックを通じて)復古の側に引き込むことが必要である。
10、疑いもなく、プロレタリアートが1918〜1920年に権力および国有化された工場を何とか維持することができたのは、プロレタリアートだけでなく農民もまた当時は、地主から奪取した土地を守るために同じ敵に対して闘ったからである。しかし、国有工場を維持するための闘争は、今のところブルジョア体制時代よりも安い価格で工業製品を受け取っていない農民にとっては、はるかに利害関心の低い問題である。
11、こうした評価にもとづいて、レーニン1922年に次のように書いたのであった。
「われわれは世界にかつて例がないほど『純粋な』ブルジョア民主主義革命を完遂した。これは、どのような勢力も取り消すことのできない最も重要な成果だ。……(われわれはソヴィエト型の国家を創設し、これによって新しい世界史の時代を開始した。この時代はブルジョア国家の時代に代わるプロレタリアートの政治的支配の時代である。これももはや取り消すことはできない。ただし、ソヴィエト型の国家を『完遂する』ことができるのはいくつかの国の労働者階級による実践的経験によってのみである)。……しかし、社会主義経済については、われわれはその土台さえ完遂するにいたっていない。これはまだ、われわれに敵対する勢力、死滅しつつある資本主義の勢力によって取り消される可能性がある」(2)。
12、農民問題は――われわれの革命が孤立しているかぎり――、プロレタリアートにとって、これまでと同様、あらゆる段階において中心的な問題である。革命が勝利したこと、そしてこの勝利が大規模なものになったことは、プロレタリア革命と「農民戦争」とが結合したおかげである。それゆえ、復古(反革命)の危険性は、工業における社会主義体制と販売における協同組合体制等々を維持することに対する農民の利害関心が消失することの結果として農民がプロレタリアーから分離するかどうかにかかっている。すでに述べたように、ミリュコーフ流のブルジョア共和制的復古はまさにそれゆえに、その運命を地主的・君主制的復古から切り離そうとしており、それによって農民をプロレタリアートから分離しようとしているである。
13、農民はもともと前資本主義的階級(階層)である。資本主義のもとでこの階層は小商品生産者、農業小ブルジョアジーに転化した。戦時共産主義は農民経済の小ブルジョア的傾向を経済的万力で締め上げた。ネップは、農民の矛盾した小ブルジョア的傾向とともに、そこから生じる資本主義復活の可能性をもたらした。
14、工業製品価格と農業製品価格との相互関係(鋏状価格差)は、資本主義および社会主義に対する農民の態度という問題において決定的な要因である。そして農業生産物の輸出は、国内の鋏状価格差を世界市場の統制下に置く。
わが国の工業生産物は世界市場よりも2〜3倍高い。品質を検討すれば、わが国の工業生産物が世界市場の生産物より3〜4倍劣っていることがわかる。
このこと一つとっただけでも、世界市場を捨象して、社会主義建設の問題を一国の枠内で孤立的に考察する理論が完全に破綻していることは明らかである。
15、私的商品生産者、商品の売買者として自らの経済を再建した農民は、必然的に資本主義復活の諸要素をも再建した。その経済的基礎は、穀物の高価格と工業製品の低価格に対する農民の利害関心である。
復古の政治的諸要素は商業資本を通じて再建されつつある。この商業資本は、一方では細分化した農民内部での結びつきを再建するとともに、他方では農村と都市との結びつきを再建した。農村の上層を通じて、商人は都市に対する穀物ストライキを組織している。このことは言うまでもなく、何よりも私的商業資本にあてはまるが、それだけでなく、かなりの程度は、協同組合にもあてはまる。なぜなら協同組合は旧来の商業従事者を含み、クラークへの自然な共感を有しているからである。
16、地主・ブルジョアの亡命者の直接的な経済的・政治的意義は、復古の危険性の観点から見れば、それ自体としてはまったく取るに足りない。前述した内的な経済的・政治的過程が反革命的「成熟」に達する場合のみ、亡命者との直接的な「スムイチカ」が――とりわけこの亡命者が外国資本の番頭的代理人になることによって――生じうる※。
※原注
復古の可能性と危険性について分析すること自体が、官僚的愚物にとっては「信念の欠落」「懐疑主義」等々に思えるかもしれない。しかし、官僚的愚物は、革命的分子がこの仕事を正しく評価して時宜を失せずプロレタリアートを反撃に動員するのを妨げることによって、復古勢力の仕事を容易にするために存在しているのである。17、経済的過程が政治的に表現されるにいたるまでにはしばしば数年を要する。当面する数年間はきわめて困難なものになるだろうが、その理由はまさに、復興期の成功がわれわれを世界市場の中に引きいれ、そのことによって――農民の日常的な経済的経験にもとづいて――われわれの工業のはなはだしい後進性が暴露されるからである。この困難な時期を乗り切ることができるのは、プロレタリアートが最も緊密に団結し、その能動性が最大限発揮され、その党がしっかりと巧みに行動することができる場合のみであり、そのためには、独裁が党の手中に無条件に集中されていなければならない。
18、労働者階級は現在、復興期を通過しつつある。プロレタリアートの隊列は復活し拡充した。生活水準は革命の最初の5ヵ年と比べて著しく高まった。
社会の非プロレタリア分子の経済的・政治的役割が増大する恐れのある新しい段階、まだその輪郭を現わしたばかりのこの段階は、今のところほとんどプロレタリア大衆の意識にのぼっていない。
19、党体制に関わる主要な危険性はまさに、党が階級的危険性を無視し、それを隠蔽し、その危険性を指摘するあらゆる試みと闘い、そのことによって、プロレタリアートの警戒心と準備を弱めるている点にある。
20、革命的展望と広範な一般的思考に対するプロレタリアートの感受性が現在、10月革命とその後の数年間の時期よりもはるかに鈍くなっている事実を無視するのは誤りであろう。革命党は、大衆の気分のあらゆる交代に受動的に合わせるわけにいかない。しかし、党はまた、大衆の気分の転換が深い歴史的性質を持った原因によって引きこされているかぎりにおいて、その転換を無視することもできない。
21、10月革命は、他のいかなる革命よりも、人民大衆の、とりわけプロレタリア大衆の最大限の希望と情熱を呼びさました。1917〜21年の途方もない苦闘の後、プロレタリア大衆は自らの状況をかなり改善した。彼らはこの改善に大事にし、それが今後いっそう進展することを希望している。しかしそれと同時に、大衆は、現在ようやく戦前の生活水準に戻ったにすぎないこの改善の過程がきわめて遅々としていることに気づいている。この生活上の経験は、大衆にとって、とりわけその古い世代にとっては、計りしれないほど大きな意味を持っている。大衆はより慎重に、より懐疑的になり、革命的スローガンに対して以前より直接反応しなくなり、広範な一般的思考に対する信頼が弱まった。このような気分こそが――それは内戦の試練と経済的復興の成功ののちに形成されたものであり、階級的力関係の新たな転換によってはまだ解消されていない――、党生活の基本的な政治的背景となっている。官僚は「秩序」と「安寧」の要素としてこの気分に依拠している。反対派は、党の前に新しい諸問題を提起しようとするたびに、こうした気分に出くわす。
22、2つの革命を経験した労働者階級の古い世代は、いや1917年以降の革命を経験したにすぎない世代も、精神的に疲れはて、そのかなりの部分は、戦争・破壊・飢え・疫病等々の可能性をともなったあらゆる激動を恐れている。
けっして出世主義者ではないが、鈍重になり、家族を持つようになった労働者のかなりの部分の、まさにこうした心理をあてにして、永続革命という脅しが持ち出されている。この趣旨で利用された永続革命論は、言うまでもなく、とっくにアルヒーフの中に収められている古い論争とはいかなる関係もないし、ただ新しい激動――英雄的「突撃」、「秩序」の破壊、獲得された復興期に対する脅威、超人的な努力と犠牲の新しい時期――という妖怪を意味しているにすぎない。永続革命という脅しは、基本的に、党員を含む労働者階級の鈍重な部分の小市民的ないし半小市民的な気分につけこんでいるのである。
23、安定化の問題もまったく同じ意義を持っている。問題になっているのは資本主義的曲線の変化を現実的に評価することではなく、激動の展望によって脅かすことである。今日、永続革命とわれわれによる安定化の「否定」なるものとは同じコインの両面である。そしてどちらの場合においても、問題にされているのは、革命的展望に対立させるために、無定形で小市民的な気分に保守的な輪郭を与えることである。
24、現在台頭してきたばかりの若い世代は、階級闘争の経験を欠いており、革命的訓練を必要としている。この世代は古い世代と違って自ら道を探求するのではなく、党と国家の強力な諸機関、党の伝統・権威・規律等々の状況にただちに直面する。このことは若い世代が独立した役割を果たすのをしばしば困難にしている。党と労働者階級の若い世代が正しい方向設定をする問題は巨大な意義を有している。
25、上で指摘した過程と平行して、党と国家の機構において古参ボリシェヴィキのある特殊なカテゴリーの果たす役割が著しく増大している。この集団は、1905年の時期に党に入ったか、あるいは党内で積極的に活動したが、その後、反動の時期に党から離れ、ブルジョア体制に順応し、その中で多かれ少なかれ高い地位に就き、大戦中にはすべてのブルジョア・インテリゲンツィアとともに祖国防衛主義者となった。そしてこれらのインテリゲンツィアとともに、戦争の初期には夢想だにしなかった2月革命に参加し、ついでレーニンの綱領と10月革命に対する断固たる反対者となり、革命の勝利後、あるいは、勝利が確固たるものになった後に、すなわちブルジョア・インテリゲンツィアがサボタージュをやめたのと同じ時期に、再び党に復帰した。帝政期の6月3日体制(3)を多かれ少なかれ受け入れていたこれらの分子は、本質的に、保守的秩序の構成要素でしかありえない。彼らは何であれ安定化に賛成であり、何であれ反対派に反対である。青年党員の教育は大部分これらの分子の手にゆだねられている。
このような状況の総体こそが、党の発展におけるこの最近の時期、党指導部の再編と党の政策の右転換を決定したのである。
26、一国社会主義論の公的な承認は、この間生じた転換と、マルクス主義的伝統の最初の公然たる破壊を理論的に神聖化したことを意味する。
27、復古の諸要素は以下のことのうちにある。(a)地主を欲してはいないが物質的にまだ社会主義に対する利害関心を持ちえていない農民の状況(このことから貧農との政治的結びつきの重要性が出てくる)、(b)労働者階級のかなりの部分の気分、革命的エネルギーの低下、古い世代の疲弊、保守的分子の比重の増大。
28、復古に対立する傾向としては以下のものがある。(a)地主が資本家とともに去ったのと同じく今度は資本家とともに地主が戻ってくることに対するムジークの恐れ、(b)権力と重要な生産手段が、労働者国家――きわめて重大な歪みを伴っているとはいえ――の手中に実際に維持されていること、(c)国家の指導権が、共産党――階級的力関係の分子的変化と政治的気分の転換の中で弱体化しているとはいえ――の手中に実際に維持されていること、である。
以上述べたことから、テルミドールについて既成事実として語ることが著しく現実を歪めることであるという結論が出てくる。事態は、さらなる党内リハーサルと理論的準備以上には進まなかった。権力の物質的機構はまだ別の階級のものにはなっていない。
1926年11月26日
『日記と手紙』所収
新規
訳注
(1)ミリュコーフ、パーヴェル(1859-1943)……ロシアの自由主義政治家、歴史学者。カデット(立憲民主党)の指導者。第3、第4国会議員。2月革命後、臨時政府の外相。4月18日に、連合諸国に、戦争の継続を約束する「覚書」を出し、それに抗議する労働者・兵士の大規模デモが起こり(4月事件)、外相辞任を余儀なくされる。10月革命後、白衛派の運動に積極的に参加し、ソヴィエト権力打倒を目指す。1920年に亡命。『第2次ロシア革命史』(全3巻)を出版。
(2)レーニン「政論家の覚書」、邦訳『レーニン全集』第33巻、203〜204頁。
(3)6月3日体制……1907年6月3日、当時の首相ストルイピンは、左派議員の多かった第2国会を解散し、選挙法を改悪して、大資本家と大地主と貴族の反動政党であるオクチャブリストを与党とする新しい保守体制を確立した。これを「6月3日体制」(あるいは「6・3体制」)と呼ぶ。
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