コミンテルン執行委員会

第7回拡大総会演説
トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、合同反対派の闘争が激しく展開されていた1926年12月のコミンテルン執行委員会拡大総会で行なわれた演説である。この総会では、トロツキーとジノヴィエフがそれぞれ演説を行ない、主として、スターリンの一国社会主義論を批判した。トロツキーの観点は、とりわけ、ソ連経済の世界市場への依存関係に着目したものであり、世界市場を利用して社会主義建設を進める必要性があること、そして、その世界市場が帝国主義によって支配されているかぎり、一国で社会主義を建設しつづけることには構造的な限界があること、したがって、ソ連における社会主義建設が究極的には世界革命に依存していること、をきわめて説得的に明らかにしている。一国社会主義論に対して抽象的に世界革命論を対置するのではなく、現代経済、とりわけソ連経済の具体的なありようから出発して、一国社会主義論の幻想性を明らかにしている。

 なお、この演説の中で、トロツキーは、主流派との闘争の必要上、かつてレーニンと対立した問題ではすべてレーニンの方が正しかったという趣旨の発言を繰り返しているが、これはもちろん本意ではないし、歴史の事実とも合致していない。レーニンは、晩年、ロシア革命の展望に関してはトロツキーが正しかったことを認め、そのことをはっきりとヨッフェに語っている(ヨッフェが遺書で証言)。

Л.Троцкий, Речи, Пути мировой революци: седемой расширенны пленум исполнительного комитета Коммунистического Интернационала―Стенографический отчёт, М-Л., Мос., 1927.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 同志諸君! まず最初に、私の時間を制限しないよう諸君に求めたい。議事日程にある議題は、まるでいわゆるトロツキズムなるものを中心に回っているかのように見える。若い同志の1人は非常にタイミングよく、この会場でいわゆるトロツキズムに反対意見を述べた演説者のリスト――これはまだ完全なリストではないが――を作成した。ブハーリン、クーシネン、トラン、ペッパー、バーチ、シュテルン、ブラント、レメレであり、そして言うまでもなく3時間の報告をした同志スターリン、である。

 ここで終わりつつある討論はきわめて独特のものであった。今年の1月、わが党中央委員会は兄弟党に書簡を送付した。そこにはこう書いてあった。

「ロシア共産党(ボ)中央委員会は完全に全員一致で、ロシア問題についての討論を共産主義インターナショナルの中に持ち込むことは好ましくないとみなしている」。

 こうして、この国際的討論は公式には行なわれなかった。少なくとも、われわれはそれに参加することはなかった。だが諸君は、ここで、公式には開始されなかったこの討論をトロツキズムに対する告発によって締めくくりたいと思っている。

 トロツキズムの理論なるものは、私の意図や信条や実際の見解に反して人為的に製造されたものである。私は、私のものであるとされているトロツキズムの教義の政治的責任編集長ではないということを諸君に報告するために、私に無制限の時間(最低2時間)を許可するよう諸君に求めたい。

 (同志トロツキーに1時間を許可する)

 同志諸君、私はこの重要問題に関し発言をしたい。今日発行されたわが党の中央機関紙『プラウダ』の社説の中で、同志ジノヴィエフがここで演説を行なったというたったそれだけの事実が分派活動の試みであると解釈されているにもかかわらず、である。この解釈は間違っていると思う。ロシア共産党反対派の代表に発言を許すことについての同志リーゼの提案に沿って作成され採択されたコミンテル拡大執行委員会の決定は、こうした解釈とはまったく別の精神にもとづいていた。同志テールマンと同志エルコリ[トリアッティ]の演説もまったく違ったふうに聞こえた。今日読み上げられたわが中央委員会の手紙は、われわれの演説がわれわれ自身の10月16日の声明(1)を破ることになるなどとは言っていない。その手紙はそのようには言っていない。しかしながら、もし中央委員会がこのような声明をしていたならば、私は議長団に発言を求めなかったであろう。たしかに、中央委員会は、われわれの演説が分派闘争の再開を刺激する可能性があると言っている。しかし、中央委員会はこの点に関してはわれわれ自身に決定を委ねた。中央委員会の声明の中では次のことが指摘されている。すなわち、第5回世界大会の場で、私が、直接発言を依頼されたにもかかわらず、わが党の第13回大会が当時係争中であった問題に関してすでに態度を明確にしていたという理由で演説するのを拒否したという話である。しかしながら同志諸君、このことに関し私は、第5回世界大会が、まさに私が演説をいやがったことを理由に私をその決議の中で非難したという事実を指摘したい。この決議はこう言っている、私はインターナショナルという最高審の前で自己の見地を述べる代わりに、形式的な理由を引き合いに出している、と。

 われわれの演説は上告ではないと同志ジノヴィエフと私が言うのは、これによって次のようなまったく明確な考えを述べたいからにすぎない。つまり、われわれはそもそも、いかなる決議も提案していないし、われわれの意図や行動が問題となっているかぎりでは、われわれによって表明された思想がコミンテルン内にいるわれわれに共感する同志たちを分派闘争の道へと駆り立てるのではなく、逆に分派主義を拒否する気にさせるために、われわれはあらゆることを行なうつもりである、ということだ。われわれの演説それ自体が10月16日の約束に対する違反であると主張する者がいるが、それは偽りである。なぜなら、10月16日の約束とそれに対する中央委員会側の回答は、規約に則った通常の手段によって自らの思想を防衛する完全な可能性をわれわれに残すものであったからである。

 同志諸君、すでに述べたように、討論の中心はいわゆるトロツキズムであった。わが尊敬すべき議長は、まるで私が自分が個人的に討論の中心になることを要求しているかのように言ったが、それは誤解である。まったくそうではない。問題は政治的なものであって、けっして個人的なものではない。しかしこの政治的な問題は、私がすでに述べたように、私の意志に反して、まったく不当にも人為的に私の人格と名前に結びつけられたのである。しかも、私によってではなく、われわれの見解を批判している同志たちによって結びつけられているのだ。

 同志スターリンの報告は、少なくともその前半部分は――というのも、残念なことに、私は今日の『プラウダ』に掲載された前半部分しか知ることができなかったからであるが――、いわば、反対派をトロツキズムだとして延々と非難したもの以外のなにものでもない。この非難は、私の数十年に及ぶ政治活動およびジャーナリスト活動から取り出されたさまざまな引用にもとづいており、そして、あらゆる論理的術策を用いて、今日の問題――それは、経済生活と社会生活のまったく新しい段階の上に成長して、われわれと全インターナショナルの前に姿を現わしているのだが――に対する出来合いの回答を、とっくに克服ずみの古い論争過程から取り出そうとしている。そして何度も何度も、この人為的な構成物のいっさいは、私が数十年間にわたるその政治生活、その政治活動においてボリシェヴィキ党の外に立っていたという事実、そしてある時期にはボリシェヴィキ党やレーニンの重要な見解と激しく闘争していたという事実に立脚しているのである。たしかに、誤りは私の側にあった! しかし、私がボリシェヴィキ党に加入したという事実、しかも言うまでもなく無「条件」に――というのも、ボリシェヴィキ党は綱領、戦術、組織、党への所属という分野では条件付きというものを知らないからであるが――加入したという事実、このたった一つの事実は、私をボリシェヴィズムから切り離していたものを私が党の戸外に置いてきたということを証明したはずである。

 (レメレの叫び声:党の戸外に置いてきただなんて、とんでもない! )

 もちろん同志諸君、このことを、同志レメレが理解したがっているような形式的な意味で理解してはならない。私の言っている意味はこうである。不一致点や意見の相違は政治生活の歩みと経験の中で私によって取り除かれたということ、私の活動における非ボリシェヴィキ的要素は、私が党の戸口に入る前に、事実と、そこから出てくる思想的経験によって克服されたということ、である。もちろん、私は、同志レメレが――そしてその他すべての者が――自らをよりよいボリシェヴィキ、より革命的な共産主義者であるとみなす権利を喜んで認めよう。だが、やはり問題はそんなところにあるのではない。私の政治的生涯の責任は私一人で引き受ける。党は、私をただそのメンバーとしてのみ知っているし、私はこの資格でのみ、この演壇から、ある一定の思想の全体を擁護しているのである。

 私がボリシェヴィキ党の外にいた時期の不一致点は、十分に深刻なものであった。基本的な特徴のみを取り上げるならば、この不一致は、ロシア社会内部の階級的諸関係の具体的な評価に、そしてそれとの関連で、きたる革命の展望と、それが民主主義的局面から社会主義的局面への移行する可能性にかかわっていた。これはいわゆる永続革命の問題と結びついていた。他方では、意見の相違は党建設の方法と手段、そしてメンシェヴィズムに対する態度にかかわっていた。この2つの問題において――そして、このことについては、同じような問題が私の身に生じた時に手紙で述べたが――、ここにいる同志諸君がみな、私よりもけっして正しかったわけではない。だが、レーニンは、彼の教義、彼の党は無条件に私よりも正しかった。この点に関し疑いを抱いている同志諸君に答えて、私はこう書いたことがある。

「経験は、われわれのうちの誰かがレーニンと意見を異にした何らかの原則的な問題のすべてにおいて、正しかったのは無条件にウラジーミル・イリイチの側であるということを争う余地なく示したが、われわれはこの事実から出発している」(2)

 さらに、

「プロレタリアートと農民の相互関係という問題において、われわれは、レーニンが1905〜1917年の革命の経験と社会主義建設の経験にもとづいて定式化した理論的・戦術的教え(「スムィチカ」)の立場に全面的に立っている」(3)

 現在、まったく人為的に、そして事業の利害に反して、諸君は永続革命の理論を討論に引きずりこもうとしている。しかし、私は、この理論の限界に気づいていなかった時でさえ、これをすべての革命に妥当する普遍的な学説であるとはみなしていなかった。マルクスがその手紙の一つで使っている表現を用いるならば、超歴史的な理論であるとはみなしてはいなかったのである。当時私は、永続革命の見地をロシアの歴史的発展の一定の段階に結びつけていた。レーニンの理論的立場の再検討という性格をこの理論に与えることによって、この理論から普遍的な学説を作り出そうとしている文献を私はたった一つだけ知っている。そして、それはこの数週間のうちに知ったものである。諸君にこの引用文を読もう。言うまでもないことだが、私はこうした解釈をまったく共有してはいない。

「……1905〜06年革命の一国的制約性という条件から生まれたロシア・ボリシェヴィズムが国際的イデオロギーのすべての市民権を手に入れるためには、一国的独自性のもつ諸特徴からの浄化という儀式を経なければならなかった。一国的ニュアンスからのボリシェヴィズムの浄化というこの仕事を理論的に成し遂げたのは、1905年におけるL・D・トロツキーである。彼は、ヨーロッパにおける永続革命という観念によって、ロシア革命をプロレタリアートの国際運動全体と結びつけようとしたのだ」。

 これは私が書いたものではない。これは1918年にマヌィリスキーという名前の同志が書いたものである。

 (マヌィリスキーの叫び声:私も馬鹿なことを書いたものだ。だが貴君はそれを繰り返すというのか)

 馬鹿なことだって? 私もまったく貴君と同意見だ(笑い)。だが同志諸君、同志マヌィリスキーが自分の意見を馬鹿なことと呼ばざるをえないことが言うまでもなく不愉快なことだとしても、諸君は彼に関して不安がる必要はいささかもない。しかし、根拠もなしに偉大な英雄的功績を私に帰した同志マヌィリスキーは、すぐさま、同じくらい不当な二、三の誤りを私に帰し、それによって自己の貸借対照表の帳尻を合わせようとしているのである(笑い)。

 同志諸君、私はこの数年間に再び永続革命論に出くわしたことがある。ただし、それは、後になって時おり私のものであるとされているまさにあの戯画的な形態をとっていた。それはコミンテルン第3回大会でのことであった。国際情勢とコミンテルンの任務についての私の報告をめぐって行なわれた討論を思い出していただきたい。その時私は、清算主義的潮流を擁護しているも同然だとして非難された。だが私は、多くの同志たちに反対し、完全にレーニンと意見をともにしつつ、それを擁護したのである。彼らは、戦後資本主義の危機は永続的に(間断なく)発展し先鋭化するだろうと主張していた。それに対して私の意見はこうであった。経済の安定化傾向や景気変動を考慮しなければならない。それは資本主義経済の一時的な好転をもたらしうる。われわれは、このことから戦術的結論を引き出さなければならない、と。こうした意見は当時、これらの極左連中の何人かによって半メンシェヴィキ同然であると糾弾された。真っ先にこうした非難をしたのは同志ペッパーであった。私の記憶によれば、その時がそもそもインターナショナルの舞台に登場する彼の最初の機会であった。

 (ペッパーの叫び声:貴君は、決議に対する私の提案に賛成せざるをえなかったではないか!)

 はたしてそうかな? 私に与えられた時間は制約されているとはいえ、同志ペッパーが議長団席から私の話を中断させるからには、私は同志ペッパーの有名な3つの福音書のことを指摘せざるをえない。第一の福音書は、第3回大会で彼が宣言したものであり、その趣旨は、ロシア革命は西方における永続的な、すなわち中断のない革命的攻勢を必要とする、というものである。ペッパーはこうした考えにもとづいて、3月行動(1921年ドイツ)という誤った戦術を擁護したのだ。

 その後、同志ペッパーはアメリカに渡り、そこからわれわれに2つ目のよい知らせを伝えてきた。曰く、インターナショナルはラフォレットのブルジョア政党を支持しなければならない、なぜなら、アメリカ革命は労働者によって行なわれるのではなく、零落しつつある農場主(ファーマー)によって行なわれるからだ、と。これが彼の第二の福音書である。 

 第三の福音書は、現在われわれが彼から聞いているものである。ロシア革命はもはやアメリカの農場主革命もドイツの3月行動も必要としない、なぜなら、ロシア革命は自力で完全な社会主義を建設することができるからだ、というわけだ。これは要するに、ロシアの社会主義建設に適用された一種のモンロー主義である。これが同志ペッパーの第三の福音書である。私は老いたとはいえ、同志ペッパーからも喜んで学ぶつもりでいる。しかし、2年ごとにこれほど根本的に改めて学び直す能力は私にはない。

 同志諸君、私はそもそもからして、伝記的方法が原則的な諸問題を解決しうるとは思っていない。まったく議論の余地なく明白なことだが、私は多くの問題に関して誤りを犯した。ボリシェヴィズムと闘争していた頃にはとりわけそうであった。しかしながら、このことから、政治的問題はそれ自身の内実にしたがってではなく、伝記[経歴]にもとづいて検討されるべきであると結論すべきではあるまい。そんなことをすれば、すべての代議員の伝記[経歴]を提示することを求めざるをえなくなるだろう…。

 私としては、ある偉大な先例を引き合いに出すことができる。それはドイツで生き、闘った人物であり、名前をフランツ・メーリングという。彼は、社会民主主義(最近までわれわれはみな社会民主主義者と呼ばれていた)に対する長い精力的な闘争の後、すでに十分に円熟した人間として社会民主党に加入した。メーリングは最初ドイツ社会民主党の歴史を敵として書いた。ただし資本の下僕としてではなく、思想的な反対者として、である。その後彼はそれをドイツ社会民主党に関する傑出した著作に書きかえた。すでに誠実な友人として、である。他方では、カウツキーとベルンシュタインはけっして公然とマルクスに反対して闘ったことはないし、両者とも長きにわたってフリードリッヒ・エンゲルスの厳しい指導のもとにあった。そのうえベルンシュタインはエンゲルスの諸著作の遺産相続人として有名であった。それにもかかわらず、フランツ・メーリングがマルクス主義者として、共産主義者として、永眠し葬られたのに対し、残りの2人、すなわちカウツキーとベルンシュタインは今なお改良主義の走狗として生き永らえている。もちろん、伝記的要素は重要である。しかしそれ自身は何事も決定しないのだ。

 われわれのうちの誰一人として、失敗や過ちのない伝記を持ってはいない。レーニンはその生涯において他の誰よりも少ない過ちしか犯さなかった。しかし、彼でさえ過ちを犯した。われわれはと言えば、われわれがレーニンと対立していた時、重大な原則上の問題に関するかぎり誤っていたのは常にわれわれの方であった。

 同志スターリンはここで他人の誤りについては列挙しながら、自分自身の誤りについては明らかにするのをはばかった。「永続革命論」は、それがレーニンの真の見解と異なっていたかぎりでは誤っていたが、しかしそれでも、その中にはいささかなりとも正しいものがあった。これこそが、私がボリシェヴィズムへと到達することを可能にしたのである。「永続革命論」はとりわけ、ボリシェヴィズムとの闘争――この点では、すでに述べたように私の方が誤っていたのだが――の経験の後、1917年にアメリカで私が、レーニンが党の前に展開したものとその根本において原則的に同じ方針を書くのを妨げはしなかった。同志スターリンは2月革命の後、誤った戦術を(『プラウダ』に書いた彼の論文の中で、また臨時政府を条件つきで支持するという内容の決議の中で)提起し、レーニンはそれをカウツキー主義的偏向と呼んだ。その後も同志スターリンは、民族問題において、外国貿易の独占に関する問題において、党の独裁の問題において、その他の問題において、重大な誤りを犯した。しかし、彼が現在犯している最も重大な誤りは彼の一国社会主義論であると私は思う。

 この問題の歴史については、同志ジノヴィエフが立派に述べた。そして私は次のことを完全に確信している。すなわち、問題を注意深く検討しようと思うすべての同志たちは――もちろん、引用文にだけ頼る形式的な検討ではなく、その引用文を取り出した著作の精神にのっとって検討するならば――、必然的に、マルクス主義とレーニン主義の伝統は完全にわれわれの側にあるという結論に達するだろう。しかし伝統だけでは決定的ではない。次のように言う者もいるだろう。すなわち、われわれはマルクス主義の見地から、一国で社会主義を建設する可能性の有無に関するかつての決定を再検討に付す(修正する)必要に迫られている、と。それもよかろう! しかし私にはそこにいかなる根拠もあるとは思えない。私見によれば、古い決定はその意義を完全に保持している。今後この問題が発展するにつれて――そしてこの問題はインターナショナル全体にとってきわめて重要であり、まさにそれゆえ、私はここで発言することを自らの義務であるとみなしているのだが――、ますますこの新理論の唱導者たちはわが党の教義の基本的な立場との矛盾に陥っていくだけでなく、われわれの事業の政治的利益との矛盾にも陥っていくことであろう。

 同志諸君、この新理論の前提条件は帝国主義的発展の不均等性である。この法則を認識していないか、不十分にしか認識していないとして、スターリンは私を非難している。とんでもない! 不均等発展の法則は帝国主義の法則ではない。この法則は全人類史を貫く法則である。資本主義的発展は、その最初の時期に、各国における経済的および文化的発展水準の格差を著しく拡大した。帝国主義的発展、すなわち資本主義の最新の段階は、各水準におけるこの格差を増大させたのではなく、反対にその均等化をかなりの程度促進した。この均等化がいくらかでも完全なものになることはけっしてありえない。発展テンポの相違は繰り返し均等化を中断させ、このことこそが、帝国主義をある一定の水準で安定させることをまったく不可能にするのである。

 レーニンは不均等性を全体として2つの契機に分けた。第一にテンポ、第二に各国の経済的発展と文化的発展の水準、である。テンポが問題となっているかぎりでは、帝国主義の不均等性は法外な高さにまで達している。ところが、各資本主義国の発展レベルが問題となっているかぎりでは、他ならぬテンポの相違がある一定の均等化傾向を導くのである。このことを看過する者は、この問題全体の根本そのものを看過する者である。

 イギリスとインドを取り上げてみよう。インドのいくつかの地域における資本主義的発展は、イギリスの最初期における資本主義的発展よりもはるかに急速である。しかし、イギリスとインドとの間にある相違、経済的格差は現在、50年前よりも大きくなったであろうか小さくなったであろうか? 小さくなった。一方では、カナダ、南アメリカ、南アフリカを、他方では、イギリスを取り上げよう。最近カナダ、南アメリカ、南アフリカはすさまじいテンポで発展している。イギリスの「発展」は停滞ないしは衰退すらしている。したがって、テンポは歴史上かつてなかったほど不均等であるが、これらの諸国の発展水準は現在、30年前ないしは50年前よりも相互に接近したのである。

 このことから、いかなる結論が引き出せるであろうか? 極めて重要な結論が引き出せる。若干の後進諸国における最近の発展テンポが熱病的なものになり、他方では、若干の古い資本主義諸国の発展が緩慢になり、逆行すらしているという事実がまさに、超帝国主義が順調に組織化されていくというカウツキーの仮説の実現可能性を完全に排除するのである。なぜならば、各国の水準が相互に接近していっている――がけっして均等にはならない――がために、それらの国は同一の要求(販路市場や原料等々に対する)を発展させ、同一の競争を発展させるからである。まさにそれゆえ、戦争の危険性は再び先鋭化し、戦争そのものが巨大な規模とならざるをえないのである。しかし他方では、まさにこのことこそがプロレタリア革命の国際的性格を保証し深化させているのだ。

 同志諸君、世界経済は空虚な概念ではなく、一個の現実であり、その現実は、まさに後進諸国と全諸大陸の発展テンポが加速されたおかげで最近の2、30年間にますます強固となった。これは根本的な事実であり、まさにそれゆえ、それぞれの国を世界経済全体の結びつきと相互関係から切り離して、それらの国の経済的および政治的運命を検討しようとする試みそのものが根本的に誤りなのだ。不均等発展の法則は完全に一国社会主義の理論に対立しているのである。

 帝国主義戦争とは何であったか? それは、所有のブルジョア的形態に対する生産力の反乱であっただけではなく、資本主義国家の枠組み対する生産力の反乱でもあった。帝国主義戦争は、生産力にとって民族国家の限界が耐えがたく窮屈なものとなったという事実を意味した。資本主義が発展させた生産力は資本主義の手に負えなくなり、社会主義だけが、資本主義国家の枠組みをこえて成長した生産力をより高度な経済的全体のうちに組み入れることができる、とわれわれは常に主張してきた。孤立国家に逆戻りする道はもはや存在しないのだ!

 革命前、戦争前のロシアはどのようなものであったか? それは孤立した資本主義国家であったか? 否、それは資本主義世界経済の構成部分であった。ここに問題の根本がある。このことを無視する者は、あらゆる社会的および政治的計算の基本点を無視する者である。どうしてロシアはその経済的後進性にもかかわらず世界大戦に引き入れられたのか? それは、ロシアが金融資本を通じて、自国の運命をヨーロッパ資本主義の運命と分かちがたく結びつけていたからである。それ以外の道はロシアにはなかった。そこで私は諸君に質問したいのだが、同志諸君、ロシアの労働者階級が権力をとるのを可能にしたのは何であろうか? 言うまでもなく、何よりも土地革命である。土地革命なしには、「農民戦争」なしには――まさにこのことをレーニンは天才的に予見し、あらかじめ理論的に確定していたのであるが――、わが国でプロレタリアートが政治権力を獲得することなど考えられなかったであろう。しかし、別の革命では、農民戦争はプロレタリアートを権力につけたであろうか? いや、ブルジョアジーを権力につけるのが関の山であったろう。

 それではなぜわが国のブルジョアジーは権力を獲得しなかったのだろうか? それは、ロシアのブルジョアジーが世界ブルジョアジーの構成部分であったからであり、それが権力を獲得する以前に、すべての帝国主義ブルジョアジーとともに下降線をたどっていたからである。すなわち、資本主義ロシアが世界帝国主義の構成部分であり、しかもその鎖の最も弱い環であったからである。もし旧ロシア国家が孤立していたとしたら、もしロシアが世界の発展から離れて、帝国主義から離れて、世界プロレタリアートの運動から離れて存在していたとしたら、もしロシアの経済が金融資本の支配を免れていたとしたら、ロシア・プロレタリアートの前衛がマルクス主義の精神的支配を免れていたとしたら、ロシアは「自力で」あれほど急速にプロレタリア革命へと行き着くことはけっしてできなかったろう。それゆえ、労働者階級が権力を獲得した後に、まるでスイッチをひねって電灯を消すかのように、世界経済からロシアを遮断することができると考えるとしたら、それは根本的に間違っている。

 社会主義の前提条件は重工業と機械生産である。これらは社会主義の最も重要なテコである。これについてはおそらく誰もが同意するだろう。では尋ねるが、わが国の工場の技術設備はどういう状態にあるだろうか? 問題に通暁しているヴァルザールの統計的計算によれば、戦前におけるわが国の工業設備の63%は輸入機械から成っていた。設備のうちの3分の1だけが自国で生産したものであった。しかし、この3分の1の設備も最も簡単な機械からなっており、より複雑で重要な機械は外国から手に入れていたのである。したがって、もし諸君がわが国の工場の技術設備を見渡すならば、諸君は自分の目で世界経済に対するロシアの――したがってまたソヴィエト連邦の――依存関係が物質化しているのを見ることであろう。問題のこの側面を看過する者は、その経済的・技術的土台と世界の経済的・政治的諸関係を脇においてこの問題を検討する者は、不可避的に、空虚な抽象と偶然的に取り出された引用文のとりこになるのである。

 この10年間、われわれはわが国工業の固定資本をほとんど更新してこなかった。内戦と戦時共産主義の間、われわれはまったく外国から機械を輸入しなかった。このことはどうやらある者を次のような考えに導いたようである。わが国工業の技術設備がまるでわが国の天然資源の一部であるかのような、この「自然的」基礎にもとづいて孤立的に社会主義をさらに建設し、完成にまで至ることが可能であるかのような考えにである。しかしこれは幻想であった。われわれはいわゆる復興期の終わりにいる。われわれは戦前の水準に近づいた。しかし、復興期の終わりは、同時にわが国と世界経済との物質的結びつきが復興する始まりなのだ。われわれは、現在危機にある固定資本を更新しなければならない。われわれが次の数年間のうちにすでに自国の設備のすべてを、ないしはその大部分を自ら建設することができるなどと考える者がいるとすれば、それは空想家である。第14回党大会は、わが国の工業化を党の最重要課題として設定したが、その課題は、近い将来においても、また十分長期にわたる期間においても、対外世界とのわが国の結びつきを減少させるどころか、反対に増大させることを意味する。したがってまた、世界市場や資本主義やその技術と経済に対するわが国の依存(もちろん相互的な!)が増大することを意味し、世界ブルジョアジーとの闘争が発展することも意味するのである。つまり、わが国の社会主義建設の問題を、その間に資本主義経済に生じるであろう諸問題と切り離すことはできないということである。この2つの問題は不可分に結びついているのだ。

 「しかし親愛なる友よ、君たちは自ら機械を生産することができるではないか」とわれわれに言う者がいるとすれば、私はこう答えよう。もちろん、今すぐ全資本主義世界が崩壊するとすれば、われわれは10年ないしは20年後には今よりもはるかに多くの機械を生産しているであろう、と。しかし、もしわれわれが資本主義世界を「捨象する」つもりならば――それにもかかわらず、それは存在しているのだが――、そして、われわれが近い将来すでに、すべての機械を、ないしは少なくとも最重要な機械を自分自身の手で生産することを自らの課題とするならば、すなわち、わが国が世界経済の分業を無視し、わが国産業の現在の姿をつくり出した過去の経済史を無視するならば、要するに、前述した「社会主義的」モンロー主義の道にわが国が入り込み、自分自身の手であらゆるものをつくり出すとするならば、このことは、不可避的にわが国経済の発展テンポがとてつもなく下落することを意味するだろう。なぜならば、わが国の設備の穴を埋めるのに世界市場を利用しないならば、わが国自身の発展が恐ろしく遅延することになるのはあまりにも当然のことだからである。だが、発展テンポは決定的な要因なのである。というのは、わが国はやはり地球上に存在する唯一の国ではないからである。孤立した社会主義国家というのは、今のところジャーナリストと決議作成者の幻想の中にしか存在したことがない。ところが実際には、わが社会主義国家は常に――直接的にであれ間接的にであれ――世界市場の相対的な支配のもとにあるのだ。ここに問題の根本がある。発展テンポというものは自由に選べるものではない。それは世界の発展全体によってわが国に課せられるものである。なぜならば、究極的には、世界市場はその各構成部分を――たとえこの部分がプロレタリア独裁のもとにあり社会主義経済を建設しつつあるとしても――支配しているからである。

 わが国を工業化するためには、われわれは機械を輸入する必要がある。そして農民は穀物やその他の農産物の輸出を必要としている。もしわれわれが輸出しないならば輸入もできないだろう。そして他方では、わが国の国内市場はすべての農業生産物を吸収することはできない。こうして、農民の必要からしても、工業の必要からしても、わが国は再び世界経済に組み込まれたのである。そして、わが国と世界経済との結びつき、したがってまた両者の闘争は、月を追うごとにますます強力になっていくだろう。戦時共産主義期の孤立状態からわが国はますます脱出し、世界の経済的結びつきと相互依存関係のシステムに入り込みつつある。したがって、わが国経済と世界資本主義経済との「協力」と闘争という事実を無視して一国社会主義論をあれこれ論じる者は、空虚な形而上学にふけることになるのだ。

 同志諸君、この問題に関してこれまで行なわれてきた非常に一面的な議論は、それでも次のような好結果をもたらした。つまり、それのおかげで、同志スターリンは自分の思想を少しはより明確かつ正確に定式化するようになり、それによって彼の立場にはまったく根拠のないことが暴露されることになった。同志スターリンの報告の前半から最も重要な箇所を取り上げよう。そこでは、根拠のなさが、いわば白地に黒で書いたようにはっきりと表されている。同志スターリンは言う、

「ソ連邦において社会主義は勝利しうるであろうか? しかし、社会主義を建設するというこの常套句を具体的な階級的言語に翻訳するならば、それはいったい何を意味するだろうか? ソ連邦における社会主義の建設、これは闘争の過程で、ソヴィエト・ブルジョアジーを自力で克服することを意味する……(この考えに注目!、L・T)。それゆえ、ソ連邦において社会主義を建設することが可能かどうかを語る時には、それによってこう言いたいのである。ソ連邦のプロレタリアートは自力でソ連邦のブルジョアジーを克服することができるかどうか、と。わが国における社会主義建設の問題を解決する際には、このように、そしてこのようにのみ問題を立てる必要がある。党はこの問いに対して肯定的に答えるのである」(4)

 このように、ここではすべての問題が、われわれは自国のブルジョアジーに勝利することができるかどうかに帰着している。これで社会主義建設の問題の解決がつきているかのようである。否、そうではない。社会主義の建設は階級の廃絶を前提としている。階級社会に代わって、すべての生産と分配を包含する社会主義組織が登場するのである。問題なのは都市と農村との矛盾を克服することであり、それはそれで、農業自身の工業化が深く進行することを必要とする。そして、これらすべてが今後も資本主義の包囲が続くという条件下で、でだ。この問題を国内のブルジョアジーに対する単なる勝利と同一視することはできないのである。

 「社会主義の勝利」という言葉を、われわれは場合に応じてさまざまに理解する。たとえば、レーニンが西欧について語る中で1915年に「各国のプロレタリアートは権力を獲得し、社会主義的生産を組織し、その後で他国のブルジョアジーと闘争することができる」(5)と語った時、彼は「社会主義的生産の組織」という言葉で何を了解していたのであろうか? それは、この数年来すでにわが国に存在しているものである。すなわち、ブルジョアジーの手から奪い取った工場であり、国民が生活し建設しブルジョア国家から自衛する等々ができるよう、国家の負担で生産することに向けた必要な措置である。これもまた社会主義の勝利であり、社会主義的生産の組織化である。ただし最も初歩的なものにすぎないが。しかし、ここから社会主義社会の建設まではまだ非常に遠い。なぜならば、もう一度繰り返すが、社会主義の真の建設とは階級の廃絶を意味するからであり、そして国家の死滅をも意味するからである。そして、同志スターリンは、われわれがわが国でまさにこの完全な意味での社会主義の建設を国内ブルジョアジーの克服だけで保証することができると語っているのである。しかし、同志諸君、国家と軍隊とはわれわれにとって外敵に抗するのに必要である。つまり、世界ブルジョアジーが残るかぎり、これらの要素はいずれにせよ残るということになる。

 さらに、ヨーロッパでプロレタリアートが権力をとる以前に、わが国の経済的・文化的な内的手段だけで、プロレタリアートと農民を、統一した社会主義計画経済のうちに溶解させることができるなどと考えられるだろうか? そのためには、すでに述べたように、技術を法外な高さにまで向上させることが必要であろうし、それは穀物の輸出を増大させることと、機械の輸入を増大させることを前提としている。ところが機械は世界ブルジョアジーの手中にあり、彼らはわが国の穀物や原料の買い手である。これまでのところ彼らは世界価格を押しつけており、したがってわれわれは世界ブルジョアジーとの一定の依存関係に、彼らとの闘争に入り込んでいるのである。この依存関係を克服するためには、自国のブルジョアジーを克服するだけではまったく不十分である。なぜならば、ここで問題となっているのはブルジョアジーの政治的克服ではなく――政治的にであれば、われわれは自国のブルジョアジーを1917年に打倒した――、問題となっているのは、資本主義の包囲の中で、すなわち世界ブルジョアジーとの(経済的・政治的・軍事的)闘争の中で、孤立した社会主義国家を建設することだからである。これが可能となるのは、この孤立した、そして今のところきわめて後進的な国家の生産力が資本主義の生産力よりも強大になることによってのみである。なぜならば、問題となっているのが1年でもなければ10年でもなく、また20年ですらなく、社会主義社会の完全な建設にとって必要な幾数十年である以上、これを達成することができるのは、ただわが国の生産力が資本主義の生産力を凌駕する場合のみだからである。したがって問題は、一国のプロレタリアートと一国のブルジョアジーとの闘争に帰着するのではなく、孤立した社会主義国と資本主義世界システムとの生死をかけた闘争に帰着するのである。問題はただこのようにのみ立てなければならない。

 さらにわれわれは今やこう聞かされる。

「もしこれが誤りであるならば――とスターリンは言う――、すなわちソ連邦のプロレタリアートはわが国の技術的な後進性にもかかわらず社会主義社会を建設することができると主張する根拠を党が持っていないとしたら、党はもはや権力にとどまる根拠(根拠?――L・T)を持たないであろう。党は権力を投げ捨て、いずれにせよ野党の立場に移るべきだろう」(6)

 さらに彼はもう一度こう繰り返す。

「なぜならば、2つに一つだからである。すなわち、われわれが自分たち『一国の』ブルジョアジーを克服することによって社会主義を建設することができるし、結局のところ社会主義を建設しきるのか――その場合には、党は権力にとどまり、全世界における社会主義の勝利のためにわが国で社会主義建設を指導する義務がある――、それともわれわれは自力で自国のブルジョアジーを克服することができないのか――その場合には、すぐには(どうして「すぐには」なのか?――L・T)外部からの、すなわち他国で勝利した革命の側からの援助が来ないことを考慮するならば、われわれは誠実かつ公然と権力から退いて、ソ連邦において将来の新しい革命を組織する方針をとらなければならないだろう。党は自己の階級を、この場合には労働者階級を欺く(どうして「欺く」なのか?――L・T)ことができるだろうか? いやできない。そのような党は八つ裂きの刑に処されるべきである。しかし、わが党には労働者階級を欺く権利がないからこそ、党は率直にこう言わなければならないのである。わが国で社会主義を建設する可能性に対する確信の欠如(敗北ではなく、確信の欠如?――L・T)は、わが党が権力から去って政権党の地位から野党の地位へ移るという事態をもたらすことになるのだ、と」(7)

 これらすべては完全に誤っている。同志諸君、こうしたことについてレーニンは何と言っていたか? 

 (議長の同志コラロフは、持ち時間が過ぎたことに演説者の注意を促す)

 しかし、同志ジノヴィエフと同じく1時間しゃべれると貴君は私に言ったではないか。しかも、同志ジノヴィエフの演説時間は1時間35分にまで長引いた(笑い)。私にも同じだけの時間が与えられることを希望する。

 私はようやく話したいことの半分を話したところである。もちろん諸君は、私に最後まで話させないと思えばそうする完全な可能性を持っている。しかし、私は最も焦眉の問題にとりかかろうとしているところなのだ。

 さて同志諸君、われわれは常に次のように主張してきた。わが国の革命はプロレタリア世界革命の構成部分であり、この世界革命はしばらく長引くかもしれないが、しかしその勝利は保証されており、そしてその勝利とともにわれわれの勝利も保証されるのだ、と。社会主義の運命は自分たちの個々の国と結びついていると称して祖国防衛をした愛国主義的日和見主義者をわれわれは常に糾弾してきた。しかも、これらの愛国者たちがまだ革命に媚を売っているのか、それとも彼らの大多数がそうであるように完全に革命と縁を切って改良主義的綱領に立脚するようになったのかにかかわりなく、われわれはそうしたのである。

 他方では、われわれは常に次のようにも主張してきた。状況によってある一国のプロレタリアートが前進し権力を獲得し社会主義建設ないしは軍事的攻勢を、より正確には両者をともに発展させる可能性がある場合には、彼らは他国のプロレタリアートを待っていてはならない、なぜなら、これこそ世界革命が発展する唯一のあり方だからである、と。わが党がプロレタリアートの指導者として権力を獲得したこと、われわれが社会主義を建設しつつあること、それによってわれわれが世界プロレタリアートに偉大な実例を与えていること、われわれが社会主義の道にそってわが国を経済的かつ政治的にますます強化しつつあること――これらすべては、われわれ全員にとって自明のことであり、このことについて何か論争が起っているだろうか?! しかし、まさにそれだからこそ、すなわち、われわれが世界プロレタリアートの、世界革命の一構成部分であり、われわれの[社会主義]建設が世界革命の勝利的発展を担っているからこそ、われわれは、世界革命から独立してわが国で社会主義を建設するという何らかの特別の保証を要求することができないのだ。だが、ここでは次のように言われている。このような保証を要求していた(誰から?)のに、それが手に入らなかったのだから、われわれは辞職して、事態を政府危機にまで持って行き、ソヴィエト国家に対する野党に移らなければならない、と。だが、このような問題設定は根底から間違っているのではなかろうか? 

 スターリン自身はおそらく、彼が報告の中で行なったこのような定式の通りに考えているわけではないだろう。もしそう考えているとしたら、彼はとっくの昔に辞職していなければならなかったはずである。ほんの最近まで事情はどうであったか? 同志ジノヴィエフはすでにここで1924年のスターリンの文章を引用した。しかし私はそれを繰り返さなければならない。一国で社会主義を建設する保証があらかじめ与えられていない場合にはわれわれは自発的に権力を手放さなければならないとすれば、私は質問したい、同志スターリンは、1924年に――西暦以前でもなければ、不均等発展法則が知られていなかったとされている帝国主義時代以前でもなく、ほんの2年前の1924年に――、どういう立場にあったのか、と。もう一度指摘するが、同志スターリンは当時こう書いていた。 

「ブルジョアジーを打倒するためには一国の力で十分である。このことは、わが国の革命の歴史が物語っているとおりである。社会主義の完全な勝利のためには、すなわち社会主義的生産を組織するためには、一国の力では、とくにロシアのような農業国一国の力だけではもはや十分ではない。このためには、いくつかの先進国のプロレタリアの力が必要となる」(8)

 だが、それにもかかわらず、1924年にわれわれは権力を手放さなかったし、労働者国家に対する野党の地位に移りもしなかった。この事実についてとくと考えてみたまえ! わが党の伝統がもし、ボリシェヴィズムがもし、レーニン主義がもし、実際に、国際革命なしに一国で、しかも後進的な一国で社会主義を建設しきる可能性に対する確信を常に要求していたし、今でも要求しているのだとするならば、もしこの可能性を認めないものは誰でも「社会民主主義者」であるとするならば、いったい全体、自らの経験によってわが党の思想的伝統に通じていたはずのスターリンがこのような文章を1924年に書くという事態がどうして生じたのか? どうか諸君、私にわかるように説明してくれたまえ!

 だが謎はもう一つある。ここに1冊の小冊子を諸君に示したい。この本にはわがレーニン共産主義青年同盟[コムソモール]の綱領と規約が収められている。必要とあらば、この小冊子を議長団席に持っていってもよい。この綱領は、わが国の青年運動全体の指導と教育のため1921年9月にわが党が承認したものである。さて、このコムソモール綱領の第4段落にはこう書かれてある(この言葉に注意深く耳を傾けるようお願いする。青年インターナショナルから来ている同志諸君はとくに。なぜなら、わがソヴィエト・コムソモールは何といっても青年インターナショナルの一支部なのだから)。

「ソ連邦においてはすでに国家権力は労働者階級の手中にある。世界資本に対する3年間におよぶ英雄的な闘争の間に、労働者階級は自らのソヴィエト権力を防衛し強化してきた。ロシアはいかに巨大な天然資源を有しているとはいえ、それでもやはり、小ブルジョア的住民が圧倒的多数を占める工業後進国である。ロシアはプロレタリア世界革命を通じてのみ社会主義に到達することができる。そして、われわれは世界革命が発展していく時代に入っているのだ」。

 これはいったい何か? ペシミズムか? 不確信か? もしかしたらトロツキズムか? この問いに答えることは恐ろしく困難である。なにしろ、この言葉のすべては、現在200万人以上の労農青年を包含しているわが青年組織の綱領の中の言葉だからである。そして、一国社会主義という新理論を擁護してこう言うとすれば、すなわち「だがそれでも、われわれは青年に展望を示さなければならない」――これが同志スターリンのいつもの論法だ――「そうしないと、この展望なしには、青年はペシミズムないしは不確信に、さらにはトロツキズムにさえ陥る――今さら、とんでもない!――可能性がある」と言うとすれば、私は聞きたい、コムソモールが5年間にもわたってこのような「トロツキスト的」綱領を有していたにもかかわらず、いったいどうしてこれらすべての不幸は生じなかったのか、と。

 (議長が演説者の持ち時間が終了したことを知らせるベルを鳴らす)

 いつも私は、最も興味深い箇所で演説を中断させられる。せめてあと35分与えてくださるよう議長団と総会にお願いする。

 (議長:「君の持ち時間は終わったのだ」)

 はなはだ残念なことであるが、諸君が最後まで討論を聞くことなく、諸君が提案した決議が投票にかけられるという事態に甘んじざるをえないようだ。しかし、私がなんとか話したかった基本的な論拠は、たとえ私が話さなくても、その客観的な力を完全に保持している。というのは、この会議はわがインターナショナルの最後の会議ではないからである。そして、たとえ諸君が決議を全員一致で採択しようとも――これに関してわれわれにはいかなる疑問もない。とくに、事情に完全に通じていながらわれわれを社会民主主義的偏向のかどで非難した同志シメラルの今日の演説の後には――、それにもかかわらず事実は残る。事実はその力を発揮することだろう。そして、その事実の力から、われわれの論拠は新しい力を受け取るだろう。この問題はわがインターナショナルのさまざまな会議の場で持ち上がってくるにちがいない。そして私は次のことを疑わない。私ではなくても他の誰かが、今日諸君が私に話させなかった論拠を、そしてそれにもかかわらずこの最も重要な問題にとってその有効性を完全に保持している論拠を、共産主義インターナショナルの前に展開するであろう。

1926年12月9日

『世界革命への道――コミンテルン執行委員会第7回拡大総会議事録』所収

『社会主義へか資本主義へか』(大村書店)付録より

 

 訳注

(1)分派闘争の中止し、規約の範囲内での意見の表明に限定することを誓約したトロツキーとジノヴィエフの声明。未邦訳。

(2)1926年9月ごろに書かれた「反対派ブロックの擁護」の一節。未邦訳。

(3)同。

(4)邦訳『スターリン全集』第9巻、34〜35頁。

(5)邦訳『レーニン全集』第21巻、352頁。

(6)邦訳『スターリン全集』第9巻、35頁。

(7)同前、35〜36頁。

(8)スターリン著『レーニン主義の基礎』の初版の一節。この部分は第2版以降書きかえられた。


  

トロツキー・インターネット・アルヒーフ 日本語トップページ 1920年代後期
日本語文献の英語ページ
マルキスト・インターネット・アルヒーフの非英語ページ
マルキスト・インターネット・アルヒーフ