【解説】この論文は、いわゆる7月事件の直後に書かれたものであり、7月事件の本質を明らかにするとともに、事件の責任をボリシェヴィキに着せようとする臨時政府と協調主義者のキャンペーンに反論することを目的としている。この論文をトロツキーは、「試練の時期の後には、上げ潮と勝利の時期がやってくるだろう!」という力強い言葉で結んでいるが、これはその後の事態を正確に予想したものだった。
本稿はすでに『ニューズ・レター』第3号に掲載済みであるが、今回アップするにあたって、訳注を補強しておいた。
Л.Троцкий, Дни испытания, Сочинения, Том.3, 1917, Час.1, Мос-Лен., 1924.
Translated by Trotsky Institute of Japan
ペトログラードの街頭で血が流された。ロシア革命に悲劇的な一章が加えられた。責任は誰にあるのか。「ボリシェヴィキのせいだ」と新聞に指導された俗物は答える。悲劇的事件の全結果はブルジョアジーとそれに奉仕する政治家にとっては「指導者を逮捕し、大衆を武装解除せよ」という言葉に尽きている。こうした行動の目的は「革命的秩序」の確立である。社会革命党とメンシェヴィキは、ボリシェヴィキを逮捕し武装解除することによって、「秩序」を確立しようと決心している。問題はただ「どのような秩序を誰のために」ということだけである。
革命は大衆に大きな希望を抱かせた。革命において指導的役割を果たしたペトログラードの大衆の中では、希望と期待が特別に強烈である。社会民主主義者の課題は、こうした期待と希望を明確な政治スローガンに変え、大衆の革命的な焦燥感を計画的な政治行動の道に方向づけることにあった。革命は国家権力の問題に直面している。われわれは、ボリシェヴィキ組織と同じように、最初から、全権力を労働者・兵士・農民代表ソヴィエトの中央代表機関へ移すことに賛成していた。エスエルやメンシェヴィキを含む上部から、大衆はミリューコフ(1)とグチコフ(2)の政府を支持するよう呼びかけられた。最近まで、すなわち第1次臨時政府のこれらの最も鮮明な帝国主義的人物が辞職する時まで、前述の2つの党は全面的に政府に同調していた。内閣改造後にはじめて、住民大衆は、その同じ新聞から、自分たちにすべての真実が語られていたわけではなく、自分たちがだまされていたのだということを知ったのである。その後、彼らが言われたのは、新しい「連立」政府を信頼する必要があるということであった。革命的社会民主主義者は、新しい政府が本質的に古い政府と異ならず、いかなる革命ももたらすことはなく、再び大衆の期待を裏切るだろうと予言しておいた。このことは証明された。無力な政策と「信頼」を求める訴え、冗長な説教、現実の隠蔽の2ヶ月の後に、真実は暴露された。大衆は、再びしかも前よりずっと深刻な形で、期待が裏切られたことに気づいた。あせりと不信感がペトログラードの労働者・兵士の大衆の中で日々刻々と増大していった。こうした気分は、全参戦国にとって出口のない長期にわたる戦争、経済の解体、ますます差し迫る最重要部門の生産停止によってはぐくまれ、その直接的な政治的表現を「権力をソヴィエトへ」というスローガンの中に見出した。
カデットが内閣から去り、これによって臨時政府の内的破産が決定的に明らかになったことは、自分たちがソヴィエト公式指導部に反対するのは正当なのだという大衆の確信をますます強化した。エス・エルとメンシェヴィキの動揺によって火に油がそそがれていた。六月攻勢の結果、ペトログラード守備隊に対する攻撃――それは今や迫害と化している――も同じ方向に作用した。爆発は避けられぬものとなった。
ボリシェヴィキも含むすべての政党は、大衆に7月3日のデモンストレーションをやめさせるためにあらゆる措置をとった。しかし、大衆はデモを行ない、しかも武器を手にして行進した。7月3日の夜、すべてのアジテーター、すべての地区代表者が、7月4日のデモは――政権の長期にわたる危機のために――まったく避けられず、いかなる呼びかけによっても大衆を抑えることは不可能だと報告してきた。もっぱらこれが原因で、ボリシェヴィキ党ならびにわれわれの組織
[メジライオンツィ]は、「傍観したり、責任を回避したりせず、7月4日の運動を平和的な大衆的デモンストレーションの軌道に乗せるために全力をつくす」と決定したのである。七月四日の呼びかけはこれ以上の意味を持っていなかった。反革命の徒党の側からの攻撃がほとんど避けられない状況では、流血の衝突が発生する可能性があるのは明らかだった。もちろん、大衆から政治的指導者を奪い、いかなる指導も拒否し、大衆の運命を彼ら自身にゆだねることも可能だった。しかし、われわれは、労働者の党として、ピラト(3)の政策を行なうことはできなかったし、そうしたいとは思わなかった。われわれは、大衆の嵐のような運動の中にこうした状況下で達成可能な最大限の組織性を持ち込み、そうすることによって、生じるかもしれない犠牲を最小限にするために、大衆と共にあり続けることを決定したのである。事実はよく知られている通りである。血が流された。そして今、ブルジョアジーの「指導的」新聞とブルジョアジーに奉仕する新聞は、事件に対する、すなわち大衆の窮乏と消耗と不満と憤激に対する全責任をわれわれに負わせようとしている。そして、プロレタリア政党に反対する反革命的動員というこの事業を仕上げるために、匿名や半匿名や札付きのろくでなしが登場し、ボリシェヴィキは買収されているという非難を始めた。すなわち、ボリシェヴィキのせいで血が流れ、ボリシェヴィキはドイツ皇帝ヴィルヘルム(4)の指図で動いているという非難を広めている。われわれは今、試練の時期を迎えている。大衆の不屈さ、その忍耐力、その「友」に対する忠実さ、こうしたことすべてが今や試練にさらされている。われわれは、これまでのすべての試練をくぐり抜けたのと同様に、より強くなり、ますます団結して、この試練をくぐり抜けるだろう。実生活はわれわれと共にあり、われわれに味方している。新しい内閣改造は、指導的な諸党の行き詰まりやみじめな中途半端さによって押しつけられたものであり、事態を何ら変えず、何も解決しないだろう。必要なのは体制全体の徹底的な変更である。必要なのは革命政権である。
ツェレテリ(5)とケレンスキー(6)の政策は今、革命の左翼を武装解除し、無力化することに向けられている。こうした方法によって「秩序」を確立するのに成功したとしても、彼らはこの秩序の最初の――もちろん、われわれの後でだが――犠牲者となるであろう。しかし、彼らは秩序を確立することに成功しないだろう。警察的な手段によって処理するには、矛盾はあまりにも深刻すぎるし、課題はあまりにも大きすぎるからである。
試練の時期の後には、上げ潮と勝利の時期がやってくるだろう!
『フペリョート』第6号
1917年7月9日(新暦22日)
ロシア語版『トロツキー著作集』第3巻『1917年』第1部所収
『ニューズ・レター』第3号より
訳注
(1)ミリュコーフ、パーヴェル(1859-1943)……ロシアの自由主義政治家、歴史学者。カデット(立憲民主党)の指導者。第3、第4国会議員。2月革命後、臨時政府の外相。4月18日に、連合諸国に、戦争の継続を約束する「覚書」を出し、それに抗議する労働者・兵士の大規模デモが起こり(4月事件)、外相辞任を余儀なくされる。10月革命後、白衛派の運動に積極的に参加し、ソヴィエト権力打倒を目指す。1920年に亡命。『第2次ロシア革命史』(全3巻)を出版。
(2)グチコフ、アレクサンドル(1862-1936)……ロシアのブルジョア政治家。大資本家と地主の利害を代表する政党オクチャブリスト(10月17日同盟)の指導者。第3国会の議長。ロシア2月革命で臨時政府の陸海相になり、帝国主義戦争を推進するが、4月の反戦デモの圧力で辞職(4月30日)。グチコフの代わりに陸海相になったのがケレンスキー。10月革命後、ボリシェヴィキ政府と激しく敵対。1918年にベルリンに亡命。パリで死去。
(3)ピラト、ポンティウス(生没年不明)……ローマの政治家でユダヤ地方の代官。ユダヤ人の抵抗運動を弾圧し、キリスト処刑の責任者。処刑判決に際し、民衆にその是非を決定させ、自らに責任がないしるしとして手を洗ったことから、「ピラトの政策」とは道徳的責任を回避する政策のことを言う。
(4)ヴィルヘルム2世(1859-1941)……ドイツの皇帝、在位1859-1941。労働者との融和策を打ち出して、ビスマルクと対立し、1890年に彼を辞任させる。最初は労働者保護政策をとったが、すぐには激しい弾圧政策に転向。攻撃的なユンカー帝国主義的拡張政策を推進し、第1次世界大戦を引き起こした。1918年のドイツ革命により退位し、オランダに亡命。
(5)ツェレテリ、イラクリー(1881-1959)……ロシアの革命家、メンシェヴィキの指導者。第2国会の議員。1912年に流刑。1917年2月革命後、流刑地から戻ってきてペトログラード・ソヴィエト議長。5月に、郵便・電信相として第1次臨時政府に入閣。6月、第1回全ロシア・ソヴィエト大会で中央執行委員会議長に。7月事件後、第1次臨時政府の内相に就任。1918年にグルジアのメンシェヴィキ政府の首班。1921年に亡命。
(6)ケレンスキー、アレクサンドル(1881-1970)……ロシアの政治家、弁護士。1912年、第4国会でトルドヴィキ(勤労者党)の指導者。2月革命後、エスエルに。最初の臨時政府に司法大臣として入閣。第1次連立政府で陸海相、7月事件後に首相を兼務。第2次連立政府、第3次連立政府の首相。8月30日、コルニーロフに代わって全ロシア最高総司令官に。10月革命直後に、クラスノフとともにボリシェヴィキ政府に対する武力半短を企てるが、失敗して亡命。アメリカで『回想録』を執筆。
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