言葉から行動へ

国際主義者の合同問題によせて
トロツキー/訳 志田昇

【解説】この論文は、当時メジライオンツィ派であったトロツキーが、ボリシェヴィキとの合同を進めるために書いたものである。5月にロシアから帰国したトロツキーは、これまでのいきさつ(ボリシェヴィキとの長年来の対立)もあって、基本路線では完全にレーニンのボリシェヴィキと同じであったが、形式的にはボリシェヴィキには属さず、非分派的立場から国際主義者を結集していたペトログラード地区間組織(メジライオンツィ)に属していた。しかし、6月初頭に開かれた第1回全露ソヴィエト大会でのボリシェヴィキの声明をトロツキーが起草するなど、実質的には、トロツキーは完全にボリシェヴィキと共同で行動していた。そこで、この共同歩調を実際の組織合同へと発展させることが、当面の組織的課題となった。トロツキーは、過去のいきさつにもかかわらず、メジライオンツィ派の中でボリシェヴィキとの合同に最も積極的な人間として、他のメンバーを説得することに努力を傾けた。

 反対論として有力だったのは、ボリシェヴィキの過去のセクト主義に対する警戒論、マルトフらのメンシェヴィキ国際主義派とも合同できるまで延期すべきであるという議論であった。トロツキーはそうした反対論の一つ一つに答えているが、その反論は今日から見て非常に興味深い。たとえば、ボリシェヴィキのセクト主義について、トロツキーは次のように述べている。

「協議会ではボリシェヴィキのセクト主義の習慣や手法から出てくる障害が指摘されていた。もちろん、こうした障害は否定できないし、それは現在でもはなはだ魅力的ならざる形態で、ボリシェヴィキの中央委員会の組織政策にも『プラウダ』の紙面にもしばしば現れている。しかし、協議会の場で同志ルナチャルスキーがまったく正しく指摘したように、大衆的な労働者政党の公然たる存在という条件がある場合には、このセクト主義は強力な対抗力にぶつかるのである。いずれにせよ、原則的な意見の相違が存在しない以上、セクト主義の方法に反対して闘うことができるのは、共通の組織の枠内でセクト主義に対して党活動のより健全な、すなわちより民主的な運営方法を対置することによってのみである」(強調追加)。

 このように、トロツキーはボリシェヴィキを無条件に受け入れたのではなく、合同した組織内で「民主的な運営方法を対置する」ことを当然とみなしていた。

 本稿はすでに『トロツキー研究』第5号に掲載済みであるが、今回アップするにあたって、一部訳文を修正するとともに、より詳しい訳注を補っている。

Л.Троцкий, От слов―к делу, Сочинения, Том.3, 1917, Час.1, Мос-Лен., 1924.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 ペトログラードのメジライオンツィの協議会が行われてからすでに1ヵ月半が過ぎた。だが、国際主義者の合同問題は一歩も前進していない。それだけではない。協議会に出席し、その支配的な雰囲気を知っている人なら、現在よりも当時の方が合同が間近に迫っているように見えたと言うだろう。当時は、いずれにせよ、合同が実践的な課題になっていた。今や合同は、あまりにもしばしば、いかなる実務的結論も義務づけない敬虔な空文句と化している。

 協議会では、われわれとボリシェヴィキとのあいだに原則的な意見の相違は存在しないということが確認された。われわれは、戦争、革命、インターナショナルの危機によってわれわれの前に提起されたすべての基本的な問題に関して同一の結論に達した。そして、別々の組織として存在することが正当化されるのは、深刻な綱領上または戦術上の意見の相違がある場合だけである。したがって、そのような意見の相違がない以上、そこから出てくる結論は、完全な組織的合流でなければならない。

 たしかに、協議会ではボリシェヴィキのセクト主義の習慣や手法から出てくる障害が指摘されていた。もちろん、こうした障害は否定できないし、それは現在でもはなはだ魅力的ならざる形態で、ボリシェヴィキの中央委員会の組織政策にも『プラウダ』の紙面にもしばしば現れている。しかし、協議会の場で同志ルナチャルスキー(1)がまったく正しく指摘したように、大衆的な労働者政党の公然たる存在という条件がある場合には、このセクト主義は強力な対抗力にぶつかるのである。いずれにせよ、原則的な意見の相違が存在しない以上、セクト主義の方法に反対して闘うことができるのは、共通の組織の枠内でセクト主義に対して党活動のより健全な、すなわちより民主的な運営方法を対置することによってのみである。

 『フペリョート』第3号で、同志ユレーネフ(2)は、合同の歩みを遅らせる論拠の一つとしてメンシェヴィキ国際主義派[マルトフ派]の存在を引き合いに出している。彼は次のように書いている。

統一は、単独の合流――例えば、ボリシェヴィキの同志諸君との合流――という形態ではわれわれには受けいれがたい。革命によって提起された中心的諸問題に関してわれわれがボリシェヴィキと完全に一致しているとはいえ、単一の革命的な社会民主党創設の可能性をすべて汲み尽さないうちに、ただちに合流するのは誤りであろう。ペトログラードの範囲では、これはプラスであろうが、ロシア全体の範囲ではマイナスであろう。われわれは活路をこのような合流のうちに見るのではなく、国際主義的社会民主主義者の全ロシア大会を共同の努力によって準備することのうちに見る」(強調はトロツキー)。

 問題をこのように提起することは、それを根本的に正しくない仕方で提起することを意味している。問題になっているのは、「例えば(?)ボリシェヴィキの同志諸君との」単独合流ではなく、ほかならぬボリシェヴィキとの合同なのである。この方向での合同はすでに、それに先立つ事態の発展全体によってあらかじめ定められている。合同の原則的な基礎はわれわれの諸決議に定式化されている。ペトログラードにおけるわれわれの活動全体がボリシェヴィキとの「単独」協力の形態で行われている。今や課題は、こうした共通の活動を妨げている組織的障壁を取り除くことにある。同志ユレーネフ自身が認めているように、ペトログラードにとって、このような合同はプラスであろう。しかしながら、同志ユレーネフは合同が地方にとってマイナスだと考えている。

 なによりも、メジライオンツィはペトログラードの組織である。したがって、国際主義勢力のこうした合同がペトログラードの運動にもたらす明白で巨大な利益は、ペトログラードにおける合同が地方にもたらすかのように言われている憶測上の損害とはまったく比べものにならない。「ペトログラード」がすべての反革命分子からきわめて猛烈な攻撃にさらされている現在の条件のもとでは、ペトログラードにとっての「プラス」はわれわれにとって決定的な性格をもたないわけにはいかない。

 しかしながら、地方にとっての損害はどんな点にあるのだろうか。同志ユレーネフの考えは、おそらく次のようなものだろう。地方はペトログラードよりも遅れている。政治的なグループ分けは、そこではまだまったく無定形である。祖国防衛主義者から離れつつある地方の国際主義者たちは、おそらく、ボリシェヴィキに加わる決意をしていないだろう。それだけにいっそうすすんで、彼らは統一国際主義派[メジライオンツィ派]に加わるだろう。この議論は、もしわれわれがボリシェヴィキにもメンシェヴィキにも加わっていない「国際主義者」の単なる連合にすぎないのであれば、多少の説得力をもったであろう。しかし、そんなものは存在していない。われわれは、ボリシェヴィキの政綱と異ならない明確な政綱にもとづいて団結した。こうした条件のもとでは、われわれの組織とボリシェヴィキの組織とが別々に存在することは地方を混乱させるだけで、それを「プラス」とみなすことはけっしてできない。それに一般的に言って、すべての問題がさし迫っている今、労働者階級ないしその社会主義的前衛の政治的グループ分けが党内的性格をもった副次的現象によって左右されうると考えるのはあまりにも幼稚であろう。

 同志ユレーネフは次のように書いている。

「しかし、国際主義的社会民主主義者の党は、セクトとしては、すなわち無条件的に同じ思想をもつ者の組織としては考えられない。そして、たとえメンシェヴィキ国際主義派が権力の組織化の問題(?)について異なった態度をとっているとしても、われわれには彼らとの共同の仕事が可能であり、統一が可能だし不可欠である」。

 党がセクトであってはならないということは、もちろん、まったくそのとおりである。しかし、残念ながら、こんな一般論は、われわれが直面している問題に回答を与えない。仮に、われわれに、ボリシェヴィキおよびメンシェヴィキ国際主義派との合同を選ぶか、それともボリシェヴィキだけとの合同を選ぶかという選択が提案されていて、われわれが後者を選んだとすれば、その場合にはまだセクト主義について語ることが可能だろう。しかし。実際には、誰もわれわれにそのような選択を提案してはいないのである。メンシェヴィキ国際主義派は、われわれと合同する用意があるとどこでも言っていない。反対に、彼らは、革命の根本問題に関するボリシェヴィキとわれわれに共通の立場、すなわち権力の獲得に対して精力的に反対している。彼らは、われわれやボリシェヴィキと合同するためにメンシェヴィキの祖国防衛主義者と急いで絶縁しようとはしていないだけでなく、反対に彼らは、自分たちがわれわれとは違うということを、あらゆる手段で強調することによって、自己の戦術をメンシェヴィキ祖国防衛主義者の組織の枠内に押し込み、自分には独立した政治的発言を許すにすぎないのである。もし、今度はわれわれが合同のための活動をメンシェヴィキ派内部の諸関係の進化に依存させるならば、このことは、われわれと合同する用意をまったく示していない人々を獲得するために、すでにわれわれと同じ思想を持つ人々との合同を事実上拒否することを意味している。そして、いずれにせよ、もし同志マルトフの支持者たちがわれわれやボリシェヴィキと合同することを彼らにとって、すなわちメンシェヴィキにとって可能だとみなすならば――われわれはこれをただ歓迎するのみであるが――、われわれとボリシェヴィキが別々に活動しているか、それとも革命的行動の共通の政綱にもとづいて組織的に合同しているかということは、本質的にはどうでもよいことであろう。

 しかし、われわれにとってはるかに重要なのは、今までメンシェヴィキとエスエルを支持していた労働者のかなり広範な層の問題である。これらのより遅れた大衆は、今や状況の全論理によって、政府の政策の全実験によって――何よりもまず、六月攻勢の実験によって!――革命的社会主義の側に追いやられるだろうとみなす完全な権利がわれわれにはある。まったく同じように、農民や小ブルジョアジーの――したがって、軍隊の――最も抑圧された層は、連立政府の政策に対して日ごとにますます大きな絶望を味わい、活路を革命の道に求めるだろう。これらの大衆は、鮮明でかつ単純な政治的グループ分けを必要としている。保守的な小ブルジョア的祖国防衛主義の陣営に革命的社会主義の団結した陣営を対置しなければならない。したがって、地方のためにも――もし地方の諸サークルではなく、地方の大衆を取り上げるならば――統一国際主義者とボリシェヴィキが別々の党として存在することは、プラスではなくマイナスである。

 今こそ合同問題を言葉から行動へ移すべき時である。国際主義者の共同の大会の準備を共同で進めることと同時に、今すでに口頭と印刷物による扇動のできるだけ完全な統一を、そしてとくに、政治行動の統一を組織的に確保する必要がある。

 同志ユレーネフは、統一が上からではなく下から実現されなければならないと言っている。これは、上から合同を促進するためには下からの圧力が必要だという意味では正しい。そして今こそ、ペトログラードの労働者とボリシェヴィキとメジライオンツィのメンバーが上からも下からも、より精力的に圧力をかけるべき時であると私は思う。

『フペリョート』第5号

1917年6月28日(新暦7月11日)

ロシア語版『トロツキー著作集』第3巻『1917年』第1部

『トロツキー研究』第5号より

  訳注

(1)ルナチャルスキー、アナトーリー(1875-1933)……ロシアの革命家、文芸評論家。1895年からロシア社会民主労働党の党員、古参ボリシェヴィキ。反動期に建神派。第1次大戦中はメジライオンツィ派。10月革命後、教育人民委員に。

(2)ユレーネフ、コンスタンチン(1888-1938)……ロシアの革命家、1905年から社会民主労働党の党員。1913年 にメジライオンツィ派の結成に参加。1917年2月革命でペトログラード・ソヴィエト執行委員。メジライオンツィとともにボリシェヴィキに入党。9月に赤衛軍創設に参加。赤衛軍中央司令部ビューロー議長。1918〜19年に軍事人民委員部で活動。軍事コミッサール全露ビューロー議長。その後、各国駐在大使を歴任。スターリンによる粛清で銃殺。


  

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