東方問題に関する
中央委員会への手紙

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、トロツキーが1919年8月5日付で中央委員会に宛てた手紙の全訳である。これは、東方革命に対するトロツキーの関心がかなり早い時期からあったことを示す貴重な資料で、ドイッチャーもその『トロツキー3部作』で大いに注目している(邦訳、第1巻、475〜477頁、新評論社)。ところが、この文献が現在では、トロツキーが赤軍騎兵でもってインドに革命を輸出しようとした証拠としてしばしば持ち出されている。たとえば、唐宝林の『中国トロツキスト史』やヴォルコゴーノフの『トロツキー伝』(邦訳、9〜12頁)において。とくにヴォルコゴーノフはわざわざこの書簡を伝記の冒頭に持ってきて、いかにトロツキーが過激なジャコバン主義者であったかを読者に印象づけようとしている。「3〜4万の騎兵隊を組織し、これを『インドに投入せよ』とトロツキーは説く。しかも、ロシア西部および南部が全土で砲火に包まれている最中にである。そんなことはトロツキーも十分わかったうえでのことだ」(前掲書、12頁)。しかし、実際には、「3〜4万の騎兵隊」云々は、王凡西が正しく指摘しているように、トロツキー自身の提案ではなく「ある真面目な軍人」が提案したものである。しかも、トロツキーはこの計画について「物質的にも政治的にも慎重な準備を必要とする」とし、直接行なうべきこととして提案しているのは東方で革命的アジテーションと組織活動を強め、そのために必要な人材を集め育成することであった。したがって、当時の困難な状況下においてインドに軍事力で革命を輸出するという発想とは、まったく無縁であった。

The Trotsky Papers, Vol.1: 1917-1919, London, 1964.

Translated by Trotsky Institute of Japan


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極秘

1919年8月5日

ルブヌィ

  ロシア共産党中央委員会へ

 ハンガリー共和国が崩壊し、ウクライナでがわが軍が苦杯をなめ、黒海沿岸を失いかねない事態にまで至っている。それに対して東部戦線ではわが軍は成果を上げている。これうした状況はかなりの程度われわれの国際的方向設定を転換するものであり、昨日まで2次的であったものを前景に押し出しつつある。

 もちろん、現在は、西方で大事件が近いうちにも突如として起こりうる状況にある。しかし、示威的なゼネラル・ストライキの失敗、ハンガリー共和国の圧殺、ロシアへの侵攻に対する公然たる支援の継続――これらはすべて西方における革命の潜伏期、準備期がはなはだしく延長されたことを示す徴候である。

 つまり、英仏帝国主義がまだ少なからず生命力と力とを保持しており、わが国の赤軍は、世界政治のヨーロッパ地域においては、攻勢にとってだけでなく防衛にとってもきわめてささやかな要素にすぎないということである。こうした状況のもとでは、西部地域におけるミニ白衛諸国はしばらくのあいだ、われわれにとっての「遮蔽物」となるかもしれない。

 だが、東方に目を向けるならば、事態は異なった様相を呈している。たしかに、東部戦線の諜報情報や戦況報告は総じていい加減なものであり、コルチャークを完全に掃蕩したのか、それとも単に打ち負かしたにすぎず、オムスク子午線の向こうにかなりの勢力を引き上げさせる可能性を与えてしまったのか、といったことに関して、これまで十分正確な理解をそこから得ることはできなかった。だが、いずれにせよ、ここではアジアへのかなり広大な門戸が開かれている。ここではより悪い状況さえ予想される(すなわち、コルチャークの粉砕にほど遠い状況にあることも予想される)が、それでも、この地域でわれわれが相手するのは、非常に長く延びた不安定な連絡補給路を持った孤立した小勢力である。

 たしかに、シベリアにいる数万の日本軍の問題がまだ残っている。だが、この数そのものは、シベリアの広大さからすれば取るに足りないものである。しかも、入手した情報によれば、日本軍はイルクーツクから西へは進まなかった。また、アメリカが日本軍のシベリア侵攻にかつてなく反対するだろうと予想するあらゆる根拠がある。コルチャークはアメリカの直接の手先であった。日本がウラジオストクに自国の師団を派遣したのは、コルチャークの侵攻によるシベリアのアメリカ化を防ぐ必要があったからである。だが現在では事態は別の展開を見せている。コルチャックは粉砕され、日本は、わが軍のさらなる東進を予想して、占領部隊をかなり強化するか、さもなくば撤収せざるをえなくなっている。コルチャック軍が崩壊したもとで、日本軍がシベリアで強化されるならば、それはアメリカにとってシベリアの日本化を意味するだろうし、もちろんのこと、それは抵抗なしにはすまない。その場合、たぶんわれわれは、日本軍に対抗するうえでワシントンの直接的な支援さえあてにすることができるだろう。いずれにせよ、われわれがシベリアに前進するうえで、日本とアメリカ合衆国の対立はわれわれにとって実に好都合な状況を作り出すのである。

 世界政治のアジア地域においては、赤軍がヨーロッパ地域でよりもはるかに強力な要素であることに、いかなる疑いもありえない。この点では、われわれの前には、ヨーロッパにおける事態の発展が長期にわたって遅れる可能性だけでなく、アジア地域において積極的な展開が見られる紛れもない可能性が開かれている。現時点において、インドへの道はわれわれにとってソヴィエト・ハンガリーへの道よりも広く短いかもしれない。アジアにおける植民地的従属の不安定な均衡が破壊されるならば、それはアジアにおける被抑圧大衆に反乱の直接のきっかけを与えるだろうし、ヨーロッパ地域では今のところ大きな意義を持っていない軍隊がアジアにおけるこうした反乱の勝利を助けることができるかもしれない。

 言うまでもなく、東方における作戦行動は、ウラルに強力な基地を建設・強化することを前提している。こうした基地は、今後数ヵ月、あるいは、おそらく数ヵ年、われわれがどちら側に目を向けることになるか――すなわち西側か東側か――にかかわりなく、いずれにせよわれわれに必要なものである。労働者の移住や食糧徴発等のためにドン地方に投入した、ないしそうせざるをえなかった人材は、今ではウラル地方に集中する必要がある。わが国の最良の科学技術者、最良のオーガナイザーや行政官をここに派遣する必要がある。昨年春にドイツによる攻撃に影響されてわれわれが抱いた考えを復活させなければならない。すなわち、工業をウラルおよびウラル周辺に集中するという考えである。今や、ウラルやシベリアの敵が一掃された地域におけるソヴィエト政権の仕事をより真剣なものにするために、さまざまな手だてを打つ必要がある。ウクライナ党の党員の中で、「諸般の事情」から現在ソヴィエトの仕事に従事していない最良の分子を、そこに派遣しなければならない(1)。彼らはウクライナを失ったが、シベリアをソヴィエト革命の側に獲得するだろう。ウラル近辺ないしウラル以東の広大な地域が獲得されていくにつれて、大規模に騎兵隊を組織することができるようになるだろう。そのために必要な武器装備はズラトウスト(2)が与えるだろう。現在までのところ、十分な数の騎兵隊は組織されていない。しかし、経験が示しているように、機動戦の様相を呈している内戦においては騎兵隊は巨大な意義を有しており、アジアの作戦行動においてはその役割は議論の余地なく決定的なものとなるだろう。すでに数ヵ月前のことになるが、ある真面目な軍人は、インドに投入する目的で(3〜4万の)騎兵隊を組織するという計画を提案している。

 もちろん、このような計画は慎重な準備を必要とする――物質的にも、政治的にも。われわれはこれまでのところ、アジアでのアジテーションにあまりにも小さな注意しか向けてこなかった。ところが、国際情勢はどうやら、パリとロンドンへの道がアフガニスタンやパンジャブやベンガルを通っていることを示しているようである。ウラルやシベリアにおけるわれわれの軍事的成功は、アジアにおけるすべての被抑圧者の中でソヴィエト革命の権威を著しく高めた。この要素を利用して、ウラルやトルケスタンに革命アカデミーや、アジア革命の政治的・軍事的司令部を集中しなければならない。それは、近い将来において、第3インターナショナル執行委員会よりもはるかに有効なものになるかもしれない。すでに今から、この方向に向けたより真剣な組織活動に取り組み、必要な人材・言語学者・本の翻訳者の結集に着手し、地元の革命家を事業に引き入れなければならない――われわれに利用できるすべての手段と力を使って。

 もちろん、われわれは以前からアジア革命を援助する必要性については理解していたし、革命的攻撃戦争を拒否したことはけっしてなかった。しかし、ごく最近までは、すべての注意とすべての思考を西方に向けるそれなりの理由があった。バルト沿岸地域はわが国の手中にあったし、ポーランドでは革命が急テンポで発展しつつあると思われていた。ハンガリーにはソヴィエト権力が存在した。ソヴィエト・ウクライナはルーマニアに宣戦し、ソヴィエト・ハンガリーと協力して西方に進撃する準備をしていた。オデッサの確保は、バルカン革命の中心地だけでなくフランスやイギリスの港にまで至る多少なりとも直接的で安定した連絡路をわれわれに開いた。われわれはこの連絡路を使って大量の共産主義文献をそれらの国々に持ち込んだ。しかし繰り返すが、今や状況は大きく変化した。このことをはっきりと理解しなければならない。バルト沿岸地域はわが国の手中にはない。ドイツでは、暴風雨と猛攻の最初の時期が過ぎた後に、共産主義運動は国内で弾圧され、それはおそらく何ヵ月も続くだろう。ソヴィエト・ハンガリーの敗北は間違いなく、バルカン半島の小国――ブルガリア、ポーランド、ガリツィア、ルーマニア――における労働者革命を押し止める方向に作用するだろう。この時期はどれぐらい続くだろうか? これについては、もちろん、前もって言うことはできない。しかし、それは1年、2年、5年と続くかもしれない。現在の血に飢えた資本主義が何年にもわたって維持されるならば、不可避的に植民地の搾取はいっそう強化されるだろう。だが、他方では、反乱の試みも同じぐらい不可避的に起こるだろう。近い将来における反乱の舞台はアジアである。われわれの課題は、国際分野における方向性の必要不可欠な重心移動を時機を失することなく遂行することである。

 もちろん、現在、南部戦線におけるわれわれの闘争を弱めることはありえない。しかし、来年度中にウクライナ農民の反乱がわれわれによってではなく、デニーキンによって制圧される可能性を排除することはできない。ちょうど、昨年、シベリアの農民反乱と闘争する羽目に陥ったのが、ソヴィエト権力ではなく、コルチャックであったように。

 いずれにせよ、ヨーロッパ革命は退却したかのように見える。そして、すでにまったく疑いがないのは、われわれ自身が西方から東方へと退却したことである。われわれはリガとビリナを失い、オデッサを失う危険性に直面しており、ペトログラードは攻撃を受けている。われわれはペルニ、エカテリンブルク、ズラトウスト、チェリャビンスクを取り戻した。こうした状況の変化から、方向転換の必要性が出てくるのである。当分の間、アジアへの方向転換の「要素」を準備すること、とりわけインド革命に対する支援としてインドに軍事的攻勢をかける準備をすることは、予備的で準備的な性格しか持ちえない。まず何よりも必要なのは、計画を詳細に練り、その具体化について研究し、必要な訓練された人材を結集し、十分に権威ある組織を建設することである。

 本報告の目的は、ここで取り上げた問題に中央委員会の注意を向けさせることである。

1919年8月5日

『トロツキー・ペーパーズ』第1巻所収

『ニューズ・レター』第15号より

  訳注

(1)ウクライナがデニーキンによって占領されたとき、ウクライナ共産党のメンバーはモスクワに逃れ、中央委員会にとっての一種の予備軍を構成した。彼らはしばしば、各地の地方組織を強化するのに投入された。また彼らの中にはシベリアでの活動を希望する者もかなりいた。

(2)ズラトウスト……軍需産業の伝統的な中心都市であり、白衛軍によって占領されていたが、1919年7月13日に赤軍によって奪還された。



  

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