【解説】この論文は、トロツキーがオーストリア社会民主党の理論機関誌『カンプ(闘争)』の編集長フリッツ・アドラーの要請で執筆したものである。
スターリニストのみならず、新左翼の論客の中にも、『テロリズムと共産主義』を持ち出して、トロツキーがあたかもテロリズム礼賛論者であるかのような論を展開する者がいるが、そのような見解がまったく誤りであることを、以下の論文は示している。トロツキーはこの他にも、テロリズムに反対する多くの論文を執筆している。詳しくは『トロツキー研究』第17号を参考にしてほしい。
なお今回アップしたのは、『トロツキー研究』第17号の同訳と異なり、『カンプ』に掲載されたドイツ語版から訳出したものである(最初にこのサイトにアップした時は、ロシア語版からの翻訳でした)。後に『トロツキー著作集』第4巻『政治的年代録』に収録されたロシア語版との異同については、『トロツキー研究』第17号を参照のこと。
N.Trotzky, Terrorismus, Der Kampf, Jahrgang 5, 2.Heft, 1. November 1911.
Translated by Trotsky Institute of Japan
われわれの階級敵はわれわれのテロリズムについて嘆くのを常としている。だが、彼らがこの言葉をどのように理解しているかについては、必ずしも明白なわけではない。彼らは本当は、自分たちの利益に反するプロレタリアートのすべての行動にテロリズムという烙印を押したがっているのだ。彼らにとって、ストライキはテロリズムの主要な方法である。ストライキの脅威、ストライキ破りに対するピケットの組織化、経営者に対する経済的ボイコット、裏切り者を自分たちの隊列から精神的にボイコットすること――これらすべての行為や、その他多くの行為は、彼らによってテロリズムという名前で呼ばれている。したがって、敵に恐怖を呼び起こす、もしくは、敵に損害を与える原因となるすべての行動がテロリズムとして理解されるならば、その時には、もちろん、すべての階級闘争はテロリズム以外の何ものでもない。だが、プロレタリアートのテロリズムに道徳的怒りをぶちまける権利などブルジョア政治家にあるのか。なぜなら、ブルジョアジーの全国家機構と彼らの法律、警察、軍隊は、資本主義的テロの機構以外の何ものでもないのだから!
しかしながら、言っておかなければならないが、われわれをテロリズムだと言って非難するとき、彼らはこの言葉に――常に意識されているわけではないにせよ――より狭い直接的な意味を与えようとしている。たとえば、労働者による機械の破壊は、この本来の意味でのテロリズムである。企業家の殺害、工場放火やその所有者殺害の脅し、手にピストルを持っての大臣暗殺――以上はすべて、言葉の真の意味でのテロ行為である。しかしながら、国際社会民主主義の本質を理解している人々なら、社会民主主義が、闘争方法としてのこのようなテロリズムに対して常に最も非和解的に反対してきたことを知っているはずである。
何ゆえか?
ストライキの脅しで「恐怖
(テロ)」させたり実際にストライキを行なうことができるのは、賃労働者だけである。ストライキの社会的意義は、まず第1に、ストライキが広がっている企業ないし工業部門の規模に直接依拠しており、第2に、ストライキに参加している労働者の組織性、規律、戦闘準備に依拠している。このことは経済的ストライキにも、政治的ストライキにもあてはまる。それは常に、現代社会におけるプロレタリアートの生産上の役割から直接生じるところの闘争方法である。
資本主義的秩序は、その発展のためには議会的上部構造を必要とする。そして、現代プロレタリアートを政治的ゲットーに追いやることができないため、資本主義は遅かれ早かれ労働者に議会制度への参加を認めざるをえない。大衆は自ら選挙に参加し、自ら決定を下す。選挙のうちに、プロレタリアートの大衆的広がりと政治的発展水準とが表現される。その特質はまたしてもプロレタリアートの社会的役割によって規定される、それによって特徴づけられる。
ストライキにおいても、選挙においても、闘争の方法、目的、結果は常に階級としてのプロレタリアートの経済的な生産上の役割に依拠している。
ストライキを行なうことは労働者にしかできない。機械の破壊、工場の放火、その所有者の殺害は、大工場によって破産させられた手工業者にも、工場によって川を汚染させられた農民にも、略奪を目的とするルンペン・プロレタリアートにも可能である。
意識的な組織された労働者階級だけが、議会の中に、プロレタリアートの利益を守る立場に立つ強力な代表者を送り込むことができる。しかし、国家官僚を殺すためには、いかなるプロレタリア組織も意識的な大衆も背後にもつ必要性はない。爆発物の製造マニュアルはあらゆる者に入手可能であり、ブローニング銃はどこからでも手に入れられる。
前者の場合は、支配的な社会秩序の本質からその方法・手段が必然的に生じる社会的闘争であり、後者の場合は、純粋に機械的で、中国だろうがフランスだろうがどこでも同一であり、その外的な形態(暗殺、爆破、等々)は非常に華々しいが、社会秩序にとって完全に無害な行動である。
ストライキは、労働者のための社会的結果をもたらす。すなわち、労働者の自信の強化、労働組合の成長、しばしば、生産技術の改良さえ。工場主の暗殺は、自分自身に対する警察的結果
[逮捕のこと]と、人員の交替というどうでもよい結果しかもたらさない。テロリズムの企図が、たとえ「うまくいった」場合でも、支配層に混乱をもたらすか否かは、さまざまな政治的事情に依存している。いずれにせよ、この混乱は一時的なものでしかない。資本主義国家は大臣に依拠しているのではなく、彼らを殺害したからといって滅びるものではない。その国家が奉仕している階級は常に新しい人物を見つけだす。メカニズムは全体として維持され、機能し続ける。
しかし、テロリズム的行動によってはるかに深刻な混乱が引き起こされるのは、労働者大衆自身の隊列の中である。所期の目的を達成するのにピストルで武装すれば十分だとすれば、階級闘争の苦労が何になろう? 敵を窮地に追い込むのに、少量の火薬と鉛のかけらがあれば十分だとすれば、階級組織など何になろう? 閣下の位を持つ人物を爆発の轟音でおびえさせることに意味があるとしたら、党が何になろう? 議会の傍聴席から大臣の席を狙うのがそんなに簡単なことならば、集会や大衆的アジテーションや選挙が何になろう?
テロリズムがわれわれから見て許しがたく直接的に犯罪的なのはまさに、それが大衆を彼ら自身の意識の中で落としめ、自己の無力さに安住させ、そのまなざしと希望を、いつかやって来てその使命を果たしてくれるであろう偉大な復讐者と解放者の側に向けてしまうからである。
行動によるプロパガンダの預言者なら、テロリズムが大衆を高揚させ刺激する効果を与えると好きなだけ論じることもできよう。だが、理論的考慮と政治的経験とは反対のことを物語っている。テロリズム的行動が「効果的」であればあるほど、それが大きな印象を引き起こせば引き起こすほど、大衆の注意をそれに集中させればさせるほど、それだけますます大衆の自己組織化と自己啓発に対する関心を低めることになる。
しかし、爆発の煙が晴れ、パニックがおさまり、殺された大臣の後任者が登場すると、生活は再び旧来の軌道に戻り、資本主義的搾取の車輪が以前と同じように回転し、警察の弾圧だけがより苛酷で下劣なものになる。そして、その結果、燃え上がらされた希望と人為的に掻きたてられた興奮の後に、幻滅と無気力とが始まる。
ストライキや一般に公然たる労働運動を不可能にしようとする反動の努力は、いつでもどこでも失敗に終わってきたし、今後ともそうであろう。資本主義社会は能動的で活発で知的なプロレタリアートを必要とし、それゆえ、彼らの手足をいつまでも縛りつけておくことはできない。他方、無政府的な「行動によるプロパガンダ」のたびごとに明らかとなったのは、物理的破壊と機械的弾圧の手段と源泉にかけては、テロリスト・グループより常に国家の方がはるかに豊富だということである。
だとすれば、革命に関してはどういうことになるのだろうか? 革命は、このことによってけっして否定されたり、不可能だとされたりすることはない。何といっても革命は機械的手段の単純な総合ではけっしてないからだ。革命は階級闘争の先鋭化からしか生じず、プロレタリアートの社会的機能にのみその勝利の保証を見出す。政治的大衆ストライキ、武装蜂起、国家権力の獲得――以上はすべて、生産の発展水準、プロレタリアートの社会的意義、さらには軍隊の社会的構成によって規定される。なぜなら、軍隊は、革命期においては、国家権力の運命を決する一要因だからである。
社会民主党は十分に現実主義的であり、歴史的諸関係から生じる革命を拒否するどころか、反対に、両目をしっかり開いて革命に向かっていく。しかし社会民主党は――アナーキストとは反対に、そしてそれと直接闘争する中で――、社会発展を人為的に促進したり、プロレタリアートの革命的力量の不足を化学薬剤で置きかえる目的をもったすべての方法や手段を拒否する。
※ ※ ※
テロリズムは政治的闘争方法としての価値が認められる以前に、散発的な復讐行為として登場していた。テロリズムの古典的国であるロシアではまさにそうである。政治囚に対するムチ打ち――当時、ありうる最も卑劣な刑罰――は、ヴェーラ・ザスーリチ(1)を駆り立てて、トレポフ将軍(2)暗殺の試みのうちに全般的な憤激のはけ口を与えさせた。背後に大衆のいないインテリゲンツィアのグループはこの実例にならった。当初、無思慮な復讐行為から始まったものが、1879〜1881年に一つのシステムに発展した。無政府的主義なテロリズム行動は西欧においては常に、ストライキ労働者に対する発砲や政治囚に対する死刑の執行といった陰惨な残虐行為の後に燃え上がった。復讐の感情にはけ口を与えようとすることは、常にテロリズムの最も重要な心理的源泉である。
社会民主主義が、あらゆる復讐のテロリズムに反対して人命の「絶対的価値」を振りかざしている御用モラリストといかなる共通点もないことは、縷々説明する必要はない。彼ら御用モラリストは別の場合には、別の絶対的価値の名のもとに、たとえば、民族の栄光や君主の威信の名のもとに、何百万人もの人々を戦争という地獄に駆り立てる用意があるのである。今日、彼らの民族的英雄は、非武装の労働者への発砲を――神聖な所有権の名のもとに――命令する大臣である。そして、絶望した失業者の手がこぶしを固め武器をとる明日には、御用モラリストは、いけしゃあしゃあと、どんな暴力も許されないと熱弁をふるうことだろう――あたかもキリストの精神が骨の髄まで深く染み込んでいるかのごとく。
道徳の宦官やパリサイの徒が何と言おうとも、復讐の感情はそれ自身の正当な権利を有している。労働者階級は、この世で起きていることを鈍い無関心さで見ることはできない。これこそが、労働者階級に最も偉大な道徳的名誉を与えている。プロレタリアートの満たされない復讐の感情を抑えつけるのではなく、反対に、繰り返し繰り返しその感情を掻き立て深化させ、そしてそれを、あらゆる不正や人間的下劣さの真の原因へと向けること――これが社会民主主義の任務である。
われわれがテロリズム的行為に反対するのは、われわれが復讐の権利を否定したいからではなく、その反対に、個人的な復讐がわれわれを満足させないからである。われわれが資本主義的秩序に対して清算しなければならない勘定は、大臣と呼ばれる凡庸な官僚たちに提示するには、あまりにも大きすぎる。人間に対するあらゆる犯罪、人間の身体と人間の精神に対するあらゆる侮辱が、一つの社会システムの現われであることを見抜き、すべての力をこのシステムに対する集団的闘争へと向けなければならない。この道でこそ、復讐の燃えるような渇望はその最高の道徳的満足を得ることができるのである。
『カンプ』1911年11月1日号
『トロツキー研究』第17号より(一部修正)
訳注
(1)ザスーリチ、ヴェーラ(1849-1919)……ロシアの女性革命家。ナロードニキとして革命運動に参加し、1878年にトレポフ知事を狙撃し、スイスに亡命。1883年にプレハーノフらと「労働解放団」を結成。1903年の党分裂後にはメンシェヴィキ。第1次大戦中は祖国防衛派。10月革命に敵対。
(2)トレポフ、ドミートリー(1855-1906)……帝政ロシアの政治家、警察官僚、将軍。1896年以後、モスクワ市警本部長。「血の日曜日」事件以後ペテルブルク総督に就任し、4月以降、内務次官を兼任し、首都の革命運動弾圧にあたり、ポグロムを煽動。
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