差し迫った問題

トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、解党派メンシェヴィキの機関誌『ナーシャ・ザリャー(われわれの黎明)』に最初に掲載されたトロツキーの論文である。この論文の中でトロツキーは、当面する政治的大問題をめぐって統一した政治行動をすべての社会民主主義勢力が行なうことによって、党統一への道を切り開くことを訴えた。

 この論文の中でトロツキーは、メンシェヴィキの側の分派主義とボリシェヴィキの側の分派主義をともに厳しく批判しているが、レーニン派に対してより厳しい論調になっていることは否めない。当時、トロツキーとレーニンとのあいだは極めて険悪な状態にあった。この険悪な関係は、翌年の1月にレーニン派が独自の党協議会を招集し、さらには同年中ごろに、トロツキーが編集主幹をしていた新聞『プラウダ』とまったく同名の新聞をロシア国内で発行し始めたことで、頂点に達する。

 また、この論文の中では、当時大論争になっていた請願カンパニアをめぐる問題にも議論を割いている。この論争をめぐるトロツキーの立場は、ウィーン『プラウダ』第21号の付録『団結の自由と請願カンパニア』や同じ『ナーシャ・ザリャー』に掲載されることになる「原則と偏見――団結の自由のための闘争の問題によせて」でより詳しく論じられている。

Л.Троцкий, Неотложные вопросы, Наша Заря, No.11, 1911.

Translated by Trotsky Institute of Japan


※原注 本稿の筆者は、『ナーシャ・ザリャー』誌で仕事をするようにとの同編集部の招待を感謝を持って受け入れたが、しかし、『ナーシャ・ザリャー』によって代表されている方向性と私が支持しているそれとのあいだには深刻な対立があることを、自分自身からも読者からも隠すつもりは、編集部と同様、私にも毛頭ない。しかし、それと同時に、筆者にとってまったく疑問の余地がないのは、党のすべての潮流の戦術的接近の過程が進んでいることであり、これが政治的行動の統一の基盤をつくり出していることである。相互の意見交換――真の意見対立をぼかすことなく、またそれを人為的に誇張することもなく――は、われわれの観点からすれば、もっぱら、すべての社会民主主義勢力の団結の過程を結実させ促進するものになりうる。最初の論文は必然的に序論的なものになる。それは、筆者の観点からして差し迫ったものであるあらゆる問題を『ナーシャ・ザリャー』の読者とともに解明しようとすることである。――N・T

 

  1、政治カンパニアの一事例

 運命の意志によって、「アーケードの下の」イタリアの小都市(1)に、1年前、マルクス主義学校の「聴講生」として15人のロシア人労働者と、数人の知識人講師とが集まった。その中にはすべての傾向が代表されていた。ただし、自分の立場を代表することを欲しない者〔レーニン派のこと〕は除いて。多数派は「フペリョート」派に属していた。党内問題に関する集団討議の際――言うまでもなく、そのさい、国会議員団と「解党派」はすべての討議の中心にあった――、しばしば、共同の政治活動が不可能であると思われるほど意見が対立した。そのとき、講師の一人[トロツキー]が次のように提案した。

 ――「われわれがマルサラ(2)経由ではなく、徒歩でここに来ており、ここにいるのが生徒でも講師でもなく、ペテルブルクの労働者運動のすべての分野における指導的な社会民主主義グループの代表者たちであると想像してほしい。5人は『地区』から、3人は労働組合から、2人は労働者クラブから、1人は国会議員団から、等々。われわれの前にある問題は、ロシア政府と第3国会の反フィンランド政策に対してどのように対処するべきか、である。フィンランドに対する十字軍遠征に対し何らかの形で反撃を加える原則的必要性があるということに関しては、われわれのあいだに疑問の余地はありえない。社会民主党は、先進的労働者が現在進行中の政治的事件に対して組織的な介入を始める地点から始まる。この事件をわれわれは選ぶことはできない。今日、日程にのぼっているのは、フィンランドである。まさにそのことによって、われわれには次の義務が生じる。労働者に、6月3日体制のフィンランド政策の意味と性格を説明すること、それと同時に、この問題に関して、自覚的プロレタリアートの政治的意見に組織的表現を与えること、である。現在の時点において、これが5000人の意見であろうと500人の意見であろうと、それはどうでもよい。いずれにせよ、われわれには沈黙する権利はない。党とは政治的連続性である。先進的労働者がフィンランド問題に対する自分自身の態度を練り上げるための枠組みとなるような組織が存在しなければ、彼らは、カデットの機関紙で展開されているような見解を大なり小なり育んでしまうだろう。民族主義政策に対する社会民主党労働者の態度が――たとえその労働者の数が少なくても、たとえその態度がささやかな形をとっていても――、広範な大衆の目に見える形で公然と明らかにされないとしたら、社会民主党労働者は、今後の活動にとっての行動基盤を拡大する可能性を取り逃がすことになるだろう。地区のサークルの中でフィンランド問題に関する報告を読み上げたり、この問題でのビラを発行するだけでは不十分である。なぜなら、社会民主党は、事件の解釈だけに自己を限定することはできないからである。全面的な煽動活動を展開することによって、ペテルブルクのすべての社会民主主義分子を団結させて、整然とした政治的デモンストレーションに、行動に立ち上がらせなければならない。このようなデモンストレーションがどのような形態をとるかは、その時々の条件によって規定されるだろうが、いずれにせよ最初の段階においては非常にささやかなものであろう。われわれは共同でフィンランド問題に関する宣言を作成し、討議をふまえて、この宣言書に数百、数千の労働者を合流させるだろう。国会議員団は、この宣言書を国会の演壇から読み上げそれを支持する課題を自らに引き受けるだろう。同時に、われわれは、この宣言書をフィンランドの社会民主党と国際社会主義ビューローに送り届け、知らせるだろう。このようなものが、われわれの『フィンランド』カンパニアの最初の章である。このカンパニアをさらに展開することができるか、あるいは、どのような形態で展開されるのか、これは、事件のその後の歩みと大衆の気分に依拠している」。

 報告者はさらに続ける。

 ――「現時点で、われわれの前に、はっきりとした明確で差し迫った政治的課題があるかぎり、われわれのなすべきことは、労働者組織のさまざまな形態の相対的重要性についてくどくど説明することではなく、現在存在し活動に参加する意志のある社会民主党組織の諸細胞――地区委員会や労働組合グループ――をスタートラインにつけることである。政治的課題の統一性は、まず手始めに、組織的門地主義の問題を――今回の部分的な場合にかぎってではあれ――取り除く。労働組合グループと地区委員会との分業、煽動的呼びかけとマルクス主義的雑誌の分析との分業、工場集会での演説と国会での演説の分業が、このカンパニアそのものの歩みの中で自然と決定される。諸君は、ある組織形態を他の組織形態よりも重要で死活にかかわるものとみなすことはできる。しかし、各々の組織形態の重要性と意義の程度は大衆の政治的動員の過程においてのみ、議論の余地のない検証に付されうるのだということに諸君は同意している。したがって、私は、党組織のどのタイプが重要かという原理的問題にとりあえずまったく触れることなしに、今回の当面するカンパニアの共通の計画を立て、実践的見地から仕事を分担するよう提案する」。

 短い討論の後、次の提案が承認された。

 ――「われわれはこのカンパニアを次のことから始めるしかない。まず一方では、政府とブルジョア諸政党の『フィンランド』政策の推進力を暴露しなければならない。他方では、フィンランド問題に関するわれわれのスローガンに、明確で、まったく曖昧さのない、いかなる誤解の余地もなく、いかなる興奮もないような形態を与えなければならない。このことによってすでに、この場合の呼びかけの技術的手段があらかじめ決まってくる」。

 ――「さらに、マルクス主義雑誌をこの事業に引き込まなければならない。諸君の大多数は、これらの出版物を『解党主義的』だとして否定的に見ている。私は個人的に、多くのはなはだ重要な諸問題に関して、これらの雑誌と意見が一致していない。しかし、現在問題になっているのは、これらの雑誌に対するわれわれの一般的な態度を決定することではなく、先進的労働者によって読まれている現存の出版物を、われわれの政治的アジテーションをできるだけ拡大深化させるために利用することである。われわれは、フィンランドとロシアの経済的・政治的相互関係やフィンランド内部の政治的編成などを解明した論文を掲載するよう要求する。そしてわれわれは、そうする権利を持っている。なぜならわれわれはそれらの雑誌の読者だからである。われわれは労働組合の機関紙が、フィンランドの労働組合や労働運動全般についての論文や、6月3日体制の立法がこれらに及ぼす可能性のある影響について書いた論文を掲載することによって読者にフィンランドの運命に対する関心を喚起するよう要求する。われわれは、これらすべてのテーマをめぐって、啓蒙的なクラブや地区サークルの中で報告がなされるよう手を打つ。わが党の国会議員団は、しかるべきあらゆる機会をとらえて、国会の演壇からフィンランド問題を提起することを自らの義務として引き受ける。われわれの側としても、あらゆる手段を尽くして、労働者の注意を国会議員団の言動に向けさせるだろう。このような多面的で、同時に、自らの政治的スローガンと合致したアジテーションにおいて、われわれの『フィンランド・カンパニア』は、最大限の政治的結果をもたらすだけでなく(これこそが直接の目的だが)、党組織の再建事業にも多大な貢献をなすだろう。この会合の場に代表されてきている細胞とグループは運動のさまざまな次元で活動しているが、これらの細胞とグループのあいだに密接な結びつきが確立されるだろう。そして、そのさい、この結びつきの組織形態は人為的に打ち立てられるのではなく、一致した政治的行動の要求に直接依拠して形成されていくだろう」。

 事例的なカンパニアに関する以上のような計画は、各自の戦術的見解の完全な――と見える――非和解性にもかかわらず、実質的な異論や修正もなしに受け入れられた。

 

   2、全般的線引きか政治的闘争か?

 以上に記したささやかな教育的経験には、次のような一般法則が示されている。すなわち、社会民主党は、行動の中で、行動を通じてのみ、潮流・色合い・気質・方法・気分の――本当ないし偽の――多様性を、統一へと導くことができるということである。労働者運動の上に立つ分派的同意見者を人為的に選抜することによって「思想の統一性」を組織しようとする昨今のすべての試みは、不可避的に破産をこうむった。社会民主党の将来の運命について反革命期の党文献からのみ判断するとすれば、まったくもって完全な絶望に至ることになるだろう。この5年間における職業的な「全般的線引き」は、あまりにも頻繁に、あまりに神経質に境界線を動かしたために、普通の人々は目がちらちらするばかりである。ほんの昨日まではプロレタリアートの事業にとってまったく役立たないと非難されていた人物が、今日には最も近しい同盟者となっている。昨日までは最も近しい同意見者であった人が、突如として、文献の中で、党の境界の外へと永遠に放り出される。分裂の技術は現在、恐ろしく安っぽいものになり、線引きの将軍のみならず、臨時の准士官や、はては、右手と左手の区別もままならない札付きの分派的従卒までもが、この技術をもてあそんでいる。もしこれらの文献が…実際に読まれていたとしたら、党の意識のうちに分派的線引きによるマルクス主義の偽造を持ち込んだ思想的いさかいは、まったく取り返しのつかないものになっただろう――ただし、これらの文献が……読まれていたらの話だが。しかし、それは読まれていない。現時点においてわが党がいかに組織的に弱いとしても、それは、社会民主党を政府の最新の思惑にそって裁断し再裁断しようとする試みに対する――まだ不十分とはいえ非常に強力な――思想的抵抗力を、自分自身と労働者の先進層のうちに育んできた。分派的政綱を中心にして同意見者を選抜することによって党を建設することは、ますます不可能になっている。自覚的プロレタリアートを、その個々のグループの分派的伝統や結びつきにかかわりなく、政治活動に動員することだけが、現時点において、党を――古い旗のもとではなく、新しい基盤にもとづいて――再建する真の方法である。プロレタリア前衛を国家の政治生活に引き込む道においてのみ、マルクス主義的社会主義からあらゆる歴史的がらくたを真に払拭することができるだろう。個々の政治的カンパニアは、労働者を階級敵と衝突させることによって、われわれの古いセクト主義に致命的な打撃を与え、旧社会の全勢力とプロレタリアートとのあいだの偉大な「全般的線引き」の事業に奉仕するだろう。

 

   3、組織的後進性と政治的依存性

 この2、3年間、先進的労働者は、いくつかのカンパニアを遂行してきた――主として、各種大会と結びついたカンパニアを。すなわち、工場嘱託医師の大会、反飲酒大会、反売春大会、手工業者の大会などである。主としていわゆる「解党派」の指導のもとに行なわれたこれらのカンパニアは、非常に重要な役割を果たした。このことは、党が政治的行動の組織としてのみ生き発展することができるという一つのことを想起しただけでも明らかである。しかし、これらのカンパニアの顕著な特徴は、その目的も、その形態もわれわれ自身によって選ばれたものでも決定されたものでもないという点にある。先進的労働者は、ブルジョア的グループが社会的な大会を招集することが必要ないし可能であるとみなした諸問題に関して、自らの観点を公然と展開した。だが、それらの大会の枠組みは、かなりの程度、われわれのデモンストレーションの枠組みをも規定していた。それゆえ、先進的労働者は、他の一連の諸問題――しばしば、比較にならないほど重要で、差し迫っていて、尖鋭な問題(予算と税金、軍国主義、選挙権、対外政策、ユダヤ人迫害、フィンランド侵攻、など)について語ることができなかった。国会議員団と社会民主党出版物だけが、彼らの代わりに、そして彼らをさしおいて、その弱々しい声を挙げたのである。

 地区の細胞は、この間、時おり訴えを発し、サークル規模の口頭のアジテーションを行なった。今は、このアジテーションの政治的質の問題は脇に置いておこう。それは、活動全体の手工業的・非系統的性格からしてすでに高い水準にはなりえないものだ。しかし、このこととは無関係に、事件のサークル的な解釈それ自体はまだ党を形成するものではない。党は、事件への組織的な介入から始まるのである。

 前述したカンパニアは間違いなく、社会生活に政治的に介入する試みである。しかし、またしてもこうした活動の政治的質を脇においておくならば、各種大会におけるデモンストレーションがエピソード的な――すなわち、偶然的ないし半ば偶然的な――性格のものであり、非プロレタリア的な社会集団のイニシアチブと統制に全面的に服していたことに目を閉じるべきではないだろう。

 党は一つの政治的連続性である。社会民主党は、工場の医療制度に関して発言しつつ、全般的な権利について沈黙することはできないし、売春に対する自らの見解を広く表明しつつ、ユダヤ人ポグロムの騒々しく公然たる準備についてあえて沈黙することもできない。

 サークル規模での非体系的で手工業的なアジテーションは、現在の状況においては、まったく不十分である。革命前の、自然発生的に覚醒がどんどん進んでいる雰囲気の中では、この種のアジテーションは、そのサークル的性格を脱することができた。なぜなら、そのスローガンは、それがいかに単純化されたものであったとしても、むさぼるように大衆によって吸収されたからである。しかし現在の緩慢に高揚していく時期においては、プロレタリアートの上層は、内的な結晶化の過程を経過しており、サークル的なアジテーションは革命前のときのような規模を獲得することはできない。それと同時に、運動のその他のすべての形態(国会議員団、労働組合、クラブ、大会、新聞雑誌、等)と最も密接に結びつくことなしには、サークル的活動は、不可避的に、セクト的で閉鎖的な性格を帯びることになる。他方では、こうした地区細胞とは別個に行なわれ、独自の機構を用いない「解党主義的」活動は、われわれがすでに各種大会におけるカンパニアの事例で見たように、政治的デモンストレーションのレベルをとことん制約し、そのスローガンを切り縮めることを余儀なくされる。非プロレタリア的な大会に左派的・労働者的翼として参加することを政治的影響力獲得の主要形態とみなすことは、アイゼナッハ派がまだ国民的(ブルジョア民主主義的)政党の左翼でしかなかったドイツ社会民主党の萌芽的な発展段階にのみ照応しており、それは、ロシア労働者の先進層の真の政治的要求からはなはだしく立ち遅れている。自覚的労働者が売春に対する自らの見解を公然と提示したのは、この問題が突如として彼らにとって差し迫ったものとなって関心を引きつけたからではなく、この種のデモンストレーションにとっての組織的・政治的可能性があったからである。社会民主党労働者が反フィンランド的立法やポグロムの煽動に反応を示していないのは、これらの問題に対する自分の意見を持っていないからでもなければ、積極的にその意見を表明したいという要求がないからでもなく、あるいは少なくともそれを公然と宣言したいと感じていないからでもなく、このような意見表明のための組織的・政治的手段が彼らにはないからである。われわれの現在の組織形態は、労働者の先進層の意識から極端なまでに立ち遅れており、したがってまたこの意識を低める方向に作用している。

※原注 「解党派」とか「解党主義」という言葉は、ここでは、言うまでもなく、一定のグループとその活動を条件的に表示するものとして用いられている。この活動に対する評価は本稿では、基本的に、われわれの検討する諸問題とかかわりがあるかぎりにおいて行われる。――N・T

 

   4、階級組織の代用品

 運命の皮肉は、これまでもしばしばわが党の古い2つの分派の原則的立場に混乱をもたらしてきたのだが、今回は次のようなことを望んでいるようだ。すなわち、党と労働組合との相互関係の問題を中立的観点からアプローチしているはずのメンシェヴィキが、実際には、フラクションとして労働組合の中に立てこもることによって、労働組合を実際には政治組織のある種の代用品にしてしまい、他方、労働組合の党派性という立場に立っているはずのボリシェビキが、解党主義との闘争の旗のもと、労働組合組織と党細胞とのあいだの溝をより深く掘るために、自分たちにできることは何でもしてきたことである。そしてどちらも、合法的な労働者団体が事実上、労働組合でなければないだけ、そして党細胞が実際には政治組織でなければないだけ、そうすることが可能になった。「解党派」は何度となく、地区細胞の閉鎖的でプロパガンダ的な性格を指摘し、それが、大衆の中から個々人をメンバーとして人為的に選抜し、国内情勢によって自然に提起されてくる政治的諸問題の影響圏外にこれらのメンバーを置いていると批判した。ここから、彼らは、この種の組織がまったく生命力を持っていないという結論を引き出している。「解党派」は、しかしながら、同じ評価方法を、3月4日の法律(3)の枠内に存在している労働者団体に適用することには抵抗を示した。

 1〜2%の労働者しか掌握しておらず、大衆にも知られておらず、企業家の目にも権威がなく、したがって経済闘争を指導することができず、失業者を援助することもできない組織を、いったいどうして労働組合と呼ぶことができるのか? これは、ある特定の職種の労働者の戦闘的組合ではけっしてなく、大衆に労働組合の必要性を絶えず思い起こさせるための職業的な啓蒙団体にすぎない。産業恐慌と政治的反動のこの数年間、職業「団体」は、大衆の中に深く食い込んで大衆運動の指導の過程で成長するという可能性を持っておらず、労働組合組織の必要性という思想の周囲に同意見者を選抜するという水準にとどまっていた。労働者団体のこうした狭いプロパガンダ的性格は――その組織者および指導者の意思にかかわりなく――この団体にセクト的・サークル的性格を付与した。たしかに、それは攻撃的ではなく防衛的なものであり、公然たるものではなく中立主義の原則で偽装していたのだが。このような条件においてのみ、わが国の職業団体は、その本来の目的からすればプロレタリアートの経済闘争機関であるはずなのだが、実際には、「解党派」という政治分派の拠点でしかなく、そしてこの「解党派」は――あらゆるセクト主義から自由な、将来における広範な大衆的労働運動の名のもとに――、しばしば、他のあらゆる闘争方法に対し、また社会民主党を建設しようとする試みに対し、純粋にセクト主義的な不寛容性を発揮しているのである。

 言うまでもなく、以上のことから、現在の合法的な労働者団体には生命力がないという結論はまったく出てこない。反対に、それらの団体が蓄積してきた知識、それらが練り上げてきた手法は、経済好況が職業的・政治的プロパガンダ団体を経済闘争組織に変えるやいなや、最も広範に適用されるようになるだろう。しかし、政治分野における階級闘争のこの同じ活性化は、党委員会や地区細胞にも活気ある行動をもたらすだろう。それらは、大衆運動の渦の中に引き込まれ、自分たちにとって必要な拠点を作り出すだろう。そうなると労働組合は、時がたつにつれてますます、政治組織の代用品ではなくなり、それが経済闘争の中で果たす役割はますます複雑で責任重大なものになり、その構成人員はますます多数かつ多様なものになり、その執行部と編集部はますます分派的な色合いを薄めていくだろう。その課題の複雑化から生じるこうした不可避的な組織の専門化過程と並んで、疑いもなく、「解党派」それ自身のあいだでも活動領域の分化が生じるだろう。ある者は、労働組合組織そのものに活動を集中して純粋な労働組合運動家になり、他の者は、政治家となり、プロレタリアートの政治闘争に系統的に働きかけるための独自の組織形態を探すことを余儀なくされるだろう。

 この過程は現在すでに起こりつつある。そしてそれは、もはや解決を一日たりとも先延ばしできないような新しい党内課題を生じせしめた。

 

   5、「解党主義」の進化と「反解党主義」の解体

 社会民主党の活動の活性化とともに、地区細胞と「解党派」サークルとのあいだの相互関係に根本的な転換がもたらされた。

 3年前、解党派は、労働者の公然組織の内部における一連のばらばらのグループであり、彼らはそれらの組織を階級の道に方向づけようとしていた。これらの諸グループを統合していたメンシェヴィズムの共通の思想的伝統とは別に、彼らは純粋に個人的なつながりを自分たちのあいだで保持していた。彼らと気分をともにしていた国会議員団は、彼らにとって、客観的に与えられた、政治的吸引力の中心であった。そしてこれは、彼らが遂行していた活動にとっては十分なものであった。彼らは全国家的な規模での政治的課題を自分の前には立てなかった。それどころか、全党的な組織を再建しようとする試みに対して、きわめて否定的な態度をとり、全党組織のうちまだかろうじて残っていたものすべてに対して背を向けた。彼らはこうして、純粋に受動的なやり方で、分派主義と在外グループのサークル主義の毒素から労働者運動を守ろうとしたのである。「合法性のための闘争」(少なくとも曖昧な定式)はしばしば、この時期、事実上、最大限度の合法主義に収斂した。

 解党主義に対する分派的・サークル的闘争は、当時も政治的不毛さ、組織的無責任さ、道徳的無節操さといった特徴できわだっていたが、しかし、それは、まったく明確で、形式的には正当なスローガンのもとで進められた。すなわち、最大限度の合法主義に抗して中央集権的な非合法党のための闘争がそれである。現在、このような当初の「状況の明確さ」は跡かたもなく消えうせている。

 一方では、「解党派」は、ますます広範な政治的課題に直面するようになり、しっかりと確立された独立の組織の枠内でしか解決できないような課題の解決に向けて活動するようになっている。合法主義者の会議の決議が物語っているように、言葉の本来の意味での解党主義は過去のものとなった。他方では、6月3日体制の「可能性」を利用することの意義は、共通の承認を得るようになり、召還主義はいつのまにか廃れてしまい、第4国会選挙に参加する必要性は誰からも問題視されていない。今や、「解党派」においても「反解党派」においても、活動分野ないし活動方法に関して原則的な違いは存在しない。両陣営はますます同一の基盤へと移行し、ますます頻繁に相互に顔をつき合わせるようになっている。それだけにますます、分派闘争は、行動の食い違いが生じる場合には、激烈な性格を帯びる。「解党主義」との闘争という旗のもと、ボリシェヴィキ指導部は、この1年半、労働組合、国会議員団、合法機関紙の分野で、それぞれに応じた独自の分派組織を再建しようと、死に物狂いの努力をはらってきた。そして、合法的可能性の隙間の中に「反解党主義」を押し込もうとするこうした試みは、まさにちょうど、「解党派」がその合法的可能性の枠から出て、独自の政治的・分派的統一性を再建しはじめたときに行なわれたのである。

 ボリシェヴィキの古い分派の激しい崩壊は、党内におけるその凶暴な「権力のための闘争」の外的現われである。この闘争は、新しい状況下で、独自の原則的に重要な分派的課題がないもとで遂行された――もしそれがあれば、多少なりともこの課題を正当化したかもしれないのだが。ボリシェヴィキ派の保守的部分である「フペリョート」派のグループは、ボリシェヴィキ派に分派として独立した政治的存在を維持することを正当化したあの戦術的原則を忠実に守ろうとした。しかしまさに、ボリシェヴィズムの思想的基盤を守っていたフペリョート派が反対派に放り込まれたがゆえに、彼らはそれ以来、運動の他のすべての分子に対する「主流」派の組織的テロルのシステムに対して断固として反対するようになった。しかしながら、ボリシェヴィキにとって分派存立の客観的条件と戦術的基盤が失われていけばいくほど、その指導部にとって組織的テロルは、一時的であれ自らの陣地を維持する唯一の方法になっている。そしてまさにこうした、いかなる創造的内容も失ったサークル的テロルの方法は、ついにボリシェヴィキ分派自身に向けられるようになり、それを根底から破壊するに到ったのである。

 「解党派との闘争」というスローガンは、ある時期までは、ボリシェヴィキ派を全体として支えていた。すなわち、解党主義的傾向が多少なりとも明瞭ではっきりとしていた――理論的には無定形であったが――時期までは。しかも、この時期には、プレハーノフによって指導されていたメンシェヴィキの一部[メンシェヴィキ党維持派]でさえボリシェヴィキを支持していた。しかし、「解党派」が労働組合的・啓蒙的実践から党的・政治的道へと移行するにつれて、戦闘的「反解党主義」は、その組織的に閉鎖的な非和解性の点で、ますます基盤のない不毛なものとなり、同盟者との一致点および敵対者との分岐点は、あれこれの個人的思惑に応じてますます恣意的なものとなっている。そして、「党のための」闘争という抽象的スローガンは、組織を結びつける力を失い、ついにボリシェヴィキ分派は完全に解体しはじめたのである。

 当初、組織的テロルは「解党派」という敵に向けられていたが、その後、その積極的な共犯者としての「ゴーロス派」[メンシェヴィキ主流派=マルトフ派]に向けられ、ついで、解党主義の隠蔽者としての『プラウダ』に向けられ、今ではとうとう、ボリシェヴィキ調停派に向けられている。この潮流は、はなはだ弱々しくではあるが、他の潮流との共同の仕事を擁護しており、したがってボリシェヴィキ指導部から離れつつある。この指導部は、まったく孤立しており、誰に対しても責任を負わず、ありとあらゆるものに対するその絶望的な闘争において、嫌悪すべきとしか言いようのない手法に頼っている。

 全体としての党を事実上廃止し、その資金、勢力、規律、権威を個々の分派の戦利品にしてしまったわれわれの古い分派闘争がいかに有害であったとしても、この体制は、党の圧倒的多数の世論によって支えられていたし、分派の枠内でも、ときにうまく、ときにまずく、ロシア社会民主党の前進運動が遂行されていた。しかし、現在の一サークル独裁――その独裁は虚構のものであるだけになおさら士気阻喪させるものだ――は百倍有害である。この独裁は、あるときは党の規約に頼り、別の時にはボリシェヴィキ派と党との協定に頼り、また別の時には、規約も協定も踏みにじる公然たる党内クーデターに頼る。専横きわまりないやり方で、党の資金をわがものとし、それをサークル的戦略の主要な武器に変えてしまったことは、とどまるところを知らぬこの分派の政治的・道徳的野蛮さの最新の言葉である。

 このような「体制」――その歴史的起源についてはここでは深入りするつもりはない――は、外科的性格をもった英雄的措置によっては根絶されえない。ましてや、わが党の遺産の全体像に目を閉じるというまったく非英雄的な手段によってはなおさら根絶されえない。

 

   6、では何をなすべきか?

 「解党派」がばらばらなグループであるかぎり、彼らの活動が「手工業的」で、しかも、主としてペテルブルクに限定されているかぎり、彼らは、内的問題を抱えた公式の党を無視しても、直接的で明白な損害をこうむらなくてすむ可能性を有している。彼らによって十分広く利用されているこうした可能性を、彼らは自分たちの活動方法の長所とみなしているのだが、実際にはそれは、彼らの初歩的な手工業的性格の現われにすぎない。

 「解党派」の活動が、労働者の中での活性化と運動課題の発展に影響されて、その当初の原始性を乗り越えるようになり、その意味で解党主義的でなくなるならば、「解党派」にとって、党の他の諸潮流とすべての党内問題に背を向け、入念にそれらから離れて自分の陣地に立てこもる可能性そのものが消失するだろう。「手の届かない」「解党主義的」陣地なるものはもはや存在しない。

 合法的な社会民主党出版物においても、議会での煽動においても(国会議員団!)、ストライキ運動においても、請願カンパニアの部分的機会においても、「解党派」は他の諸潮流と面と向かい合うようになり、その一歩ごとに、彼らの前に、すべての諸潮流との行動の調整、政治的カンパニアの共同計画の作成、政治行動という基盤にもとづいた全党的機関の創設という問題が大きく立ちはだかってくるだろう。

 こうした課題を今後とも認めないとすれば、それは、国会議員団とペテルブルク地区にしたがった同じ請願カンパニアの経験があまりにもはっきりと示したように、自分自身の活動そのもののうちに混乱を持ち込むこと以外の何ものも意味しないだろう。だが何のために認めないのか? 活性化しつつある労働者運動に対するメンシェヴィキ派の排他的なヘゲモニーのためか?

 ボリシェヴィキ陣営における、ヘゲモニーのための闘争は、能動的で攻撃的な、そしてクーデター的で分裂主義的な性格を有している。「解党派」にあってはそれは、より偽装的で、彼ら自身によって完全には意識されておらず、受動的・防衛的性格を帯びている。しかし、これが、相互に結びついた現象であり、相互に培いあい、両者あいまって党の中に不和と混乱を持ち込んでいることを理解しなければならない。われわれの観点からすればまったく疑いのないことだが、在外ボリシェヴィキ・グループは、1910年1月総会における統一の事業を支持することを「解党派」が拒否したことを、党統一に向けた闘争の中で共同の努力によって克服すべき障害とみなすのではなく、党内無政府状態の深刻化から若干の分派的資本を蓄積するために利用すべき絶好の口実とみなした。しかし、他方では、次のこともまったく明らかである。すなわち、ボリシェヴィキ・グループのこうした試みの可能性そのものの、少なくとも半分程度は、解党派が党の他のグループや民族組織と協調して党再建のために活動することを拒否したことによって作り出されたことである。

 これは巨大な政治的誤りであり、自分たちの分派的力に対する過大評価、自分たちの基本的見解のみならず活動の副次的で一時的・条件的方法についても、自らの絶対的正しさをセクト的に盲信していること、同じ目的をめざす他のすべての努力に対する完全な軽視などによって生み出されたものである。

 現時点でこうした誤りを繰り返すことは、破滅的である――何よりも、目の前に迫っているわが党の選挙カンパニアの過程と結果にとって。

 以上のことは、初歩的で議論の余地のないことであるように思われる。同じく、以下のこともそうである。労働者組織の弾圧に対して抗議の請願をすることは、われわれが他の場所で書いたように(4)、深刻な意見対立を引き起こさなかったが、はなはだしい意見の分岐をもたらした。その理由はとりわけ――そしてこれはけっして重要性がいちばん劣る理由ではないが――、今回の抗議カンパニアのイニシアチブをとった側が、党に対して、自分たちの請願カンパニアを既成事実として突きつけたからである。彼らは、他の方法によって――おそらくは他の政治的条件にもとづいて――請願カンパニアを準備し実施する可能性のあった諸組織や諸グループと事前に打ち合わせを行なおうとさえしなかった。請願カンパニアは、再開されなければならない。ただし、その場合には、他の諸組織との調整に真剣に取り組むことが、こうしたカンパニアの再開に必ず先行しなければならない。

 この論文の最初で、われわれは、政治的カンパニアの事例の一般的図式を与えておいた。それは、まず実践的協定によって共通の計画を作成することから開始し、さまざまなグループがさまざまな領域で活動に取り組むが、同一の目的のためにそうするのである。その目的とは、社会民主党のスローガンのもとにプロレタリアートの先進層を政治的に動員することである。もちろん、マルクス主義の学校における実践的授業と真の政治的カンパニアとのあいだには、演習と戦争とのあいだにあるのと同じ開きがある。しかし、演習においても、戦争にとって多少とも有益な結果をもたらすことができる。先に挙げた学校でのわれわれの戦術的集団討議において、われわれは再び次のような観察の正しさを確認することができた。すなわち、分派的な意見の相違は、問題が政治情勢の全般的評価や今後の展望にかかわるときにはまったく非和解的なものであるが、問題が、現時点で、当面する政治的事件に関して何ができ何をする必要があるかということになると、分派的な意見の相違が最小限に縮小することである。

 選挙カンパニアの準備作業はまさに、選挙期間中に党が計画的かつ一丸になって打って出ることを望む各都市のすべての社会民主主義分子によるこうした実践的な政治的協定にもとづいて、立てられなければならない。このような協定に達することは容易ではない。そして、その協定は、常に達成されるともかぎらないし、あらゆる場所で、あらゆる問題に関して達成されるともかぎらない。いずれにせよ、協定が実現されるのは、本格的な軋轢を経て、相互不信を克服した結果としてのみであり、しかも、相互譲歩を代償にしてである。それよりもはるかに安易で、簡単で、そして安上がりにすむのは、独自のサークル的政綱を作成し、自らの分派的候補者を立てることである。

 しかし、これは、物事の本質からして、選挙の準備段階での軋轢を政治的カンパニアの領域そのものに移すことになるだけである。それはそれで、プロレタリア政党とブルジョア社会との闘争を、10分の9まで、2つないしそれ以上の分派的政綱間の競争および2人ないしそれ以上の分派的候補者の競い合いに置きかえることを意味するだろう。一部の職業的線引き屋たちは、もちろんのこと、こうした事態を前にしても立ち止まらないだろう。しかし、彼らのすべての努力は、先進的労働者の良識と政治的感覚にぶつかって粉々に砕け散るだろう。ただし、先進的労働者が組織的にまったく準備なしに選挙に突入した場合にはそのかぎりではないが。社会民主主義プロレタリアートの組織的結びつきをその階級的意識とその当面する政治的課題に合致させること――これこそが現在、最も先鋭で、最も差し迫った課題なのである。

 党が結局のところ外的障害のみならず内的障害をも克服すること、党がセクト主義とサークル主義の最後の痕跡を払拭し、それがそうあらねばならない存在に、すなわちプロレタリアートの組織された意識と組織された意志になること――このことに、われわれの誰も疑問を持ちえない。歴史という書物から何ごとかを学んだすべての者にとって、次のことにも疑問の余地がない。すなわち、当面する時期における社会民主党の発展は、古い分派的枠組みの外で、労働者の政治的自主性の成長を通じて、そしてこの自主性の組織的強化を通じて行なわれるであろう。

 しかし、われわれがこの道に向けて次の数ヵ月のうちに断固とした歩みを進めるのかどうか、分解過程にある6月3日体制に、次の国会選挙においてすでに、本格的な打撃を与えるために今あるすべての力を結集することができるのかどうか――これは、われわれが本稿で指摘した諸問題に対して「解党派」がどのような立場をとるかに大きくかかっているのである。

エヌ・トロツキー

『ナーシャ・ザリャー』第11号

1911年11月

  訳注

(1)イタリアの小都市……ボローニャのこと。1910年の11月から1911年の3月にかけて、ボリシェヴィキの極左派(召還派、最後通牒派、建神派、のちに「フペリョート派」)を中心にした党学校がイタリアのボローニャで開催された。これにはフペリョート派のみならず、各派も若干名を参加させていた。レーニン率いる中央委員会はこれを正規の党学校とは認めず、そこへの参加を反党行為として糾弾した。トロツキーは、すべての潮流の統合という立場から、あえてこのボリシェヴィキ極左派を中心とした党学校に講師として参加した。講師としては他に、ルナチャルスキー、メンジンスキー、ポクロフスキーなどがいた。

(2)マルサラ……イタリアのシシリー島の港町で、1860年にガリバルティが上陸し、イタリア南部占拠の基地とした。

(3)3月4日の法律……1906年にツァーリ政府によって導入された、結社・集会に関する法律で、結社を作ることを形式的に認めていたが、同時に、さまざまな厳しい制限事項を設けるとともに、内務大臣に、その裁量によって、団体や組合を閉鎖したり、新しい結社の登録を拒否する権限を与えた。

(4)『プラウダ』第21号(1911年6月25日)の付録「団結の自由と請願カンパニア」を指している。この付録自体は無署名だが、この記述によって、それがトロツキーの筆によるものであることがわかる。


  

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