統一へ――あらゆる障害を越えて!

トロツキー/訳 西島栄

【解説】1910年1月にパリで開かれた中央委員会総会において、党の統一に向けた重要な諸決議が採択された。この総会には主要な分派の代表者が参加し、全会一致で、党の統一に向けた具体的な措置をとることが決定されたのである。トロツキーはこの決議を大歓迎し、ウィーン『プラウダ』を中心にこの決議に沿って党内の再編成を目指した。しかしながら、事態はトロツキーの思うようには進まなかった。決議の中で、各分派の機関紙を閉鎖することが勧告されたにもかかわらず、メンシェヴィキの分派機関紙『ゴーロス・ソツィアル・デモクラート』は発行しつづけた。ボリシェヴィキはそれを決議違反とみなして、メンシェヴィキを分派主義者として中央機関紙で糾弾し、総会以前よりもむしろ分派闘争は激しくなった。トロツキーは、この事態に困惑し、何とか党の統一に向けた動きを盛り上げようと努力し、その一環としてこの論文を執筆した。しかし、レーニンは、最初に決議違反をしたのがメンシェヴィキであるにもかかわらず、党統一を訴えるトロツキーがこの論文の中でメンシェヴィキを糾弾しないことに怒りをあらわにした。

 トロツキーはまた、この論文の中で、解党主義と召還主義の生じる現実的基盤を詳しく明らかにし、単なる分派闘争や組織的排除によってはこうした2つの偏向を克服できないことを訴えた。これは、分派闘争による偏向克服というレーニン派のやり方に対するアンチテーゼでもあった。

 この論文自体は無署名であるが、ルイス・シンクレアのトロツキー・ビブリオフラフィはこの論文をトロツキーのものであるとしている。われわれもその内容および文体からしてトロツキーの筆によるものと判断した。

――, К единству――черезъ все препятствия!, Правда, No.12, 3(16) апреля 1910г.

Translated by Trotsky Institute of Japan


 長年にわたってあい闘う分派に分裂していたわが党を、一撃のもとに上から下まで統合することは不可能である。それはわかりきったことである。組織上および戦術上の意見の相違は、数々の論争、衝突、闘争をもたらしてきた。分派闘争は、疎外、不信、敵意を生み出してきた。そしてこの相互不信は、戦術上の意見の相違が――少なくとも一時期――瑣末な部分やニュアンスの違い程度にまで縮小し、対立しあう各分派の代表者にとって、党活動の当面する諸問題全般をめぐる戦術決議(1)を全会一致で採択することが可能であるとみなされた後でさえ、なくなることはなかった。

 この決議は、分派間の衝突に限界を課すことはなかったし、その決議の性格そのものからして課しえないものだった。中央委員会の総会が終わるやいなや一連の衝突が発生し、これらの衝突は一見したところ、中央委員会による統一に向けた努力のあらゆる成果を水泡に帰せしめるかのように見えた。まず中央機関紙の改変された編集部内で、一方におけるメンシェヴィキと、他方におけるボリシェヴィキおよびポーランド人代表者とのあいだで先鋭な衝突が起こった。メンシェヴィキは、中央機関紙が――中央委員会の指令に反して――編集部の少数派に自由を十分に与えていないとみなして、自分たちによる分派機関紙『ゴーロス・ソツィアル・デモクラータ(社会民主主義者の声)』(2)を復活させた。そして、『ソツィアール・デモクラート』(3)の第12号には、中央機関紙編集部の少数派を批判したきわめて辛辣な論文が掲載された(4)。この論文は同時に、中央委員会に入ることを拒否したメンシェヴィキの候補者にも攻撃の矛先を向けていた。その論文は、もはやすべての協定がご破算になったのだと説明していた。この数週間におけるこうした事実は、統一を求める中央委員会決議を実現する上で最も深刻な障害をつくりだしている。しかし、それにもかかわらず、これらの事実を前にして降参することは、許しがたい軽率さであろう。すでに大きな一歩前進が行なわれたし、党を後戻りさせることはもはや不可能である。以上の種々の衝突は2つの観点から見ることができる。形式的・組織的観点からと、原則的・政治的観点からである。

 本当に中央機関紙の多数派は少数派の権利を破壊したのか、本当に中央機関紙の政策は『ゴーロス・ソツィアル・デモクラータ』の復活を正当化しているのか、メンシェヴィキの中央委員候補の行動と『ゴーロス・ソツィアル・デモクラータ』の発行継続は、『ソツィアル・デモクラート』第12号への前述の論文の掲載を、本当に、そしてどの程度正当化しているのか――これらの問題について、われわれは現在のところ判断することはできないし、そうするつもりはない。その第1の理由は、われわれが、これらの問題を正しく判断するために必要な事実資料を持ち合わせていないからである。第2の理由は――そしてこれが最も重要なことなのだが――、組織上の紛争には、文筆による介入ではなく、組織上の介入こそが必要だからである。(…判読不能…)、これらの一定の紛争を中心とした(…判読不能…)、中央委員会の編成の仕事を妨げ(…判読不能…)、中央委員会に紛争の組織的な解決形態を(…判読不能…)。だがわれわれは、中央委員会が正常な手段によってこの仕事を遂行するのに成功することをあきらめるつもりはないし、そうすることもできない。

 しかし、現在繰り広げられている衝突の原則的・政治的本質については別問題である。

 党建設の基本的問題に関しては、中央委員会において完全な意見の一致が達成された。そのことは、「党の情勢について」という決議と「全党協議会の招集について」という決議のうちに表現されている。そしてこれらの決議は、党にとって統一の原則的な旗にならなければならないし、そうなるだろう。しかしすでに意見の対立と軋轢は起こっているし、これらの一致して採択された決議を実行に移す段になれば、今後とも起こるだろう。なぜならば、党内用語で――適切か不適切かは別にして――解党主義とか召還主義・最後通牒主義と呼ばれている潮流・気分・思考様式をめぐって、中央でも地方でも、個々の都市でも、党建設の個々の組織活動においても、不可避的に衝突が起こるであろうからである。

 解党主義は、その本質そのものからして、きわめて無定形で境界の曖昧な潮流である。それが包含しているのは、非合法の党組織を完全に拒否する立場、それを半分承認する立場、階級闘争の合法的舞台を拡大しようとする――方向性は間違っているが、本質的に健全な――志向、合法的な労働団体によって党を置きかえようとする無駄な希望、最小抵抗線に沿って進もうとする無邪気な合法主義、党の公然たる存在を口実に革命的スローガンを拒否しようとする日和見主義的姿勢である。あたかも、反動がこんなに間抜けなのだから、プロレタリア的ライオンは平和的子牛[ロシア語で「子牛」は「とんま」「お人よし」という意味もある]のふりをすることができ、巨大なライオンがちっぽけな子牛の皮で身を隠すことができるかのように、である。

 召還主義的・最後通牒主義的潮流は、闘争の合法的な形態や方法――国会の演壇、労働組合、労働者クラブ、種々の合法的大会でのアピール、合法的労働者新聞、等々――を拒否し、無視し、軽視しようとする。あらゆる分野で活動することで労働者運動のあらゆる形態に革命的路線を貫くのではなく、また、実地の授業によって、無党派の組織を党的精神で教育するのではなく、最後通牒主義は安直にも、外部から、あらゆる組織に対し革命的行動を要求し、何らかの局面ごとに最後通牒を突きつける。あたかも、社会民主党の課題が、プロレタリアートを組織することにあるのではなく、プロレタリアートを自分に従属させることにあるかのように。革命的路線の明確さを保持しようとして召還主義は、自発的にあらゆる公然たる陣地を拒否し、あらゆる合法的活動の可能性そのものさえも原則的に否定し、それによって、労働者大衆が党を、階級闘争のあらゆる形態を統一し方向づけるのに必要な機関とみなすことを不可能にしている。

 解党主義も召還主義も、疑いもなく、社会民主主義勢力を結集する仕事、広大なプロレタリアート的基盤にもとづいて党を再建する仕事を困難にした。そして、問題が、党の一方の端に度しがたい解党主義の一団が存在し、もう一方の端に狂信的な召還派の一団がいるということにすぎないならば、これらの極端派のグループをあっさりと党から切り離し、その後で、やすやすと労働者運動の合法的形態と地下活動的形態とを結合することができるだろう。しかし――幸か不幸か――、状況はそんなに単純なものではけっしてない。解党主義も召還主義も、周囲からはっきりと区別された閉鎖的なグループではなく、社会民主主義の隊列内部における広範な潮流である。政治的沈滞と組織的分散という現在の条件のもとでは、これらの偏向とまったく真摯に闘っている同志たちの頭の中にさえ、解党主義と召還主義の蓄えがたっぷり見つかることもまれではない。まさにそれゆえ、中央委員会の戦術決議が、解党主義と召還主義の切除を要求するのではなく、「プロレタリアートの階級闘争のあらゆる分野において社会民主党の活動を拡大深化させ、この両偏向の危険性を解明することによって、こうした2つの偏向を克服すること」を求めているのは、根拠のあることなのである。この要求の中身を全面的に理解するためには、これらの偏向そのものの政治的本質をはっきりと理解しなければならない。

 これら――解党主義と召還主義――の基礎には、革命の敗北の結果として生じた、大衆の政治的受動性がある。わが党のロンドン大会に出席していた代議員は、15万人の労働者活動家を代表していた。今では、われわれの非合法組織は、全国で一万名の人員を数えるのが関の山である。数万人の労働者活動家は事実上、党との結びつきを「解消[解党]」した。しかし、それにもかかわらず、彼らのうちに原理的な解党派、すなわち非合法政党に対する自覚的な反対者を見出すとしたら、それは馬鹿げたことだろう。これらの人々は単に、労働者階級の中のまだ十分成熟していない分子にすぎない。といっても、残りの膨大な後進的な大衆よりも全体として成熟してはいるのだが。

 党から脱落したこれらの人々のうち最も能動的な部分は、引き続き労働組合、労働者クラブ、各種の啓蒙団体などで活動している。合法主義者の一連の指導部を選び出している労働者やインテリゲンツィアは、自己の大義に非常に忠実で、階級闘争の部分的諸要求に献身的に取り組んでいるが、プロレタリア運動の全般的な革命的目標との結びつきを完全に失ってしまっている。ここでは両者が相互に影響を及ぼしあった。すなわち、大衆の引き潮のせいで、党は衰弱し弱体化した。そして弱体化した党は、合法的活動の活動家たちを自らに引きつけることはできない。しかしながら、公然団体の隊列にいる一般メンバーだけでなく、その指導者の多くの部分をも解党派に数えるならば、それは大きな戦術的誤りであり、「合法」活動と「非合法」活動の結合という原則にもとづいて全党協議会を招集するわれわれの活動をいちじるしく困難にするだろう。彼らの一部は、現在においてすら、よき社会民主主義者にとどまっており、党に参加する用意がある。必要なのは党の側のイニシアチブだけである。他の部分は、社会民主主義者になったことはなく、反革命の状況の中で経験主義的に(実践に教えられながら)活動をしており、プロレタリア政党の課題を理解するところまでほど遠い。しかし彼らが身も心もプロレタリアートの生きた組織と結びついているかぎり、彼らはこの組織といっしょになって、不可避的に合法主義の殻を破らざるをえないだろうし、遅かれ早かれ社会民主党の隊列に参加してくるだろう。これらの人々は、われわれの明日の同志である。わが党の課題は、今日すでにこれらの人々を獲得することであり、彼らとともに、その指導下にある労働者グループを獲得することである。どのようにしてか? われわれはこれらの合法主義の迷信に囚われた人々に、実践を通じて次のことを示さなければならない。すなわち、公然たる労働者団体を維持する最良の方法は、それらの団体と党とを切り離して党を弱めることにあるのではなく、反対に、柔軟な非合法組織と手に手を取って進むことにあること、である。なぜなら、この非合法組織は、合法団体にはできないさまざまな機能を必要に応じて自らに引き受け、さらに重要なことには、大衆の圧力――結局のところ、ただそれだけが、組合やクラブの公然たる存在の可能性を保証するのだ――を自己の周囲に組織するからである。

 このように、活動的な「合法主義者」の多くはわが党の明日の同志である。だが他方では、労働者運動の周囲には、昨日の同志と呼ぶことのできる分子も少なからずうろうろしている。これらの人々は、党から抜けたというだけでなく、あたかもペストに感染した地域を避けるかのように党を見捨てたと呼ぶことのできる連中である。これらの原理的な解党派は、自分の脱走を政治的義務に仕立て上げたいと思っており、言うまでもなく、党にとってこうした連中との闘争は不可避である。その闘争は、労働者運動の公然形態に対する影響力をめぐるものとなるであろう。しかし、この闘争、すなわち有害な解党主義の潮流を理論的に暴露する闘争が肯定的な結果をもたらすことができるのは、それが党の広範な政治的活動にもとづき、大衆を当面するスローガンの周囲に団結させ、すべての公然組織に奉仕し、それによって、解党主義的説教の足元を現実に掘りくずす場合のみである。

 以上、解党主義について語ったことは、ほぼ完全に召還主義にもあてはまる。召還主義もまた反革命の産物であり、同じく大衆の受動性、政治や国会や社会民主党議員団の活動への無関心によって養われている。そして、この召還主義を全体として克服することを可能にするものも同じである。すなわち、社会民主党の国会議員団の活動を全国における系統的なアジテーションと結合することによって、議員団の活動を革命的に深化させることである。

 したがって、わが党の思想における「偏向」と闘う課題をわれわれに課した中央委員会の戦術決議は、その課題の遂行にあたって、党活動の基本的任務からわれわれ自身を逸らせることにならないだけでなく、反対に、この基本的任務のど真ん中にわれわれを引き入れるのである。この決議はわれわれにこう述べている。解党主義の定式や最後通牒主義の定式に党の定式を対置するだけでは不十分であり、それ以上のことをしなければならない。必要なのは、両偏向におかされ労働者層を、革命的アジテーションの軌道に、政治的経験のるつぼに引き入れることであり、大衆の意識から反動的気分の残滓を払拭することであり、そして、正しい階級的戦術の土台としての、揺るぎない党統一の担い手としての、大衆的な社会民主主義活動家を育成すること、である!

ウィーン『プラウダ』第12号

1910年4月3日

『トロツキー研究』第36号より

  訳注

(1)1910年1月に開かれた各派合同の中央委員会総会(パリ総会)で採択された決議のこと。

(2)『ゴーロス・ソツィアル・デモクラータ』……メンシェヴィキ(マルトフ派)の分派機関紙。ジュネーブおよびパリで1908年から1911年まで発行されていた。当時のマルトフは、党維持派(プレハーノフ派)と解党派(ポトレソフ派)との中間に位置していた。

(3)『ソツィアル・デモクラート』……1908年から1917年まで国外で発行されていたロシア社会民主労働党の中央機関誌。当初はボリシェヴィキとメンシェヴィキとの共同編集部であったが、1911年にメンシェヴィキが編集部から離脱したため、事実上、ボリシェヴィキの機関誌となった。

(4)レーニン「党に反対する解党派の『ゴーロス』」(邦訳『レーニン全集』第16巻)を指していると思われる。


  

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