【解説】本稿は、レーニン派による1912年1月のいわゆるプラハ協議会のクーデター的招集を厳しく糾弾した論文である。この協議会は、ボリシェヴィキとプレハーノフ派のいわゆるメンシェヴィキ党維持派のみが招集の対象とされ、それ以外のすべての潮流は最初から排除されていた。党内のすべての潮流の協議会の開催をめざして、1年前からウィーン『プラウダ』でキャンペーンを繰り広げていたトロツキーにとって、レーニンによるこの暴挙はとりわけ許しがたいものであった。このプラハ協議会開催によって、党内の前潮流による協議会というトロツキーの展望は不可能になり、トロツキーはボリシェヴィキ以外の潮流をかき集めたウィーン協議会を招集することを余儀なくされる。
Л.Троцкий, Набегь на партию, Правда, No.24, 1912.3.14.
Translated by Trotsky Institute of Japan
今年の1月、一部のロシアの実践家たちとレーニン派の文筆家サークルによる会議が国外で開かれた
[プラハ協議会]。レーニン派の「通報」[プラハ協議会の報告書のこと]の中で、この会議は「全ロシア党協議会」と呼ばれている。「フペリョート」派グループの決議の中では、この会議は「党に対する強襲」と呼ばれている。この会議のあらゆる事実と状況からして、われわれは、後者の呼び方のほうが事柄の本質をはるかに正しく伝えていると認識せざるをえない。党の価値と名誉を落とすような一連の行動(中央機関におけるクーデター、党資金の強奪、等々)の結果として、2、3のレーニン派在外サークルの手先たちから構成された「ロシア組織委員会」なるものが形成された。この委員会は、ボリシェヴィキ派の人々に自らの分派を組織的に再建するよう訴えるレーニン派の回状を広め、それと同時に、次のようなスローガンを伴ったアピールを発した。「統一したロシア社会民主労働党万歳!」。この委員会は、印刷されたアピールの中では、「分派の違いなしに」すべての構成組織を会議に招待するとしているが、組織上の通信の中では、必ず協議会にボリシェヴィキを選ぶよう要求している(前掲の、バクーからの手紙を参照せよ)。
そして、こうした前代未聞のやり口の結果、協議会には――レーニン派の「通報」の中ではこう言われているのだが――、「ロシアの社会民主党の各活動分野において多少なりとも重要で影響力を持っているすべての組織が代表された」。これの意味するところを検討してみよう。
ペテルブルクからは2人の代議員が出ている。選挙を取り仕切ったのは自称「組織委員会」だが、この委員会については選挙まで誰も聞いたことがなかった(前掲の「ペテルブルクからの手紙」を参照)。ペテルブルクの「ロシア社会民主労働党イニシアチブ・グループ」は招待されなかった。このグループの重要さと影響力に関しては右に出るものはいないだろう。「ロシア社会民主労働党の中央労働者グループ」も招待されなかった。このグループは、選挙政綱に関するテーゼや多くの宣伝ビラを出し、総じて広範な活動を遂行し、客観的な検証を受けている――秘密の「組織委員会」とは違ってだ。「合同派」のグループも招待されなかった。このグループの扇動活動については、「協議会」の組織者たちも、『ズヴェズダー(星)』(1)の雑報欄からさえ知ることができたはずである(前掲参照)。しかし、以上のことは、次の事実を記すならば、まったく理解できるものになるだろう。すなわち、「イニシアチブ・グループ」で活動しているのはメンシェヴィキであり、「中央労働者グループ」ではボリシェヴィキ調停派とフペリョート派(2)が多数派であり、「合同派」グループでは非「分派」派が多数であるという事実である。
ニコラーエフからは、1人の代議員が参加しており、「労働者サークルの代表者、無党派労働者の社会民主主義的活動家などが参加している活動家集団によって」選出されたとされている。しかしながら、われわれが現地から得た情報では、この代議員は、まさにこの「活動家集団」の他のメンバーからは秘密にレーニン派のサークルによって派遣された人物だそうである。
チフリスの代議員は、カフカース地方同盟を構成しているチフリス党組織を代表してはおらず、この党組織とは別個に、取るに足りないレーニン派グループの協議会によって特別に協議会に派遣された。
しかし、バクーからの代議員に関しては事態はまったく明白である。「通報」の言うところによれば、彼は、「バクーの200名以上の同志が参加している」地方細胞の全メンバーから選出された。しかしながら、バクーの党組織の声明は次のように述べている。「われわれ、地方組織の合同の指導的中央部のメンバーは、この『代議員』の選挙と代議員派遣について絶対にまったく知らない」。
いったい誰がどのように誰のためにこの「全ロシア協議会」を開いたのかに関して、いかなる疑問の余地も残さないためには、本紙前掲のバクー組織の通報を読むべきだろう!
モスクワ、エカテリノスラフ、サラトフ、カザンからの代表者についてはいちいち述べないでおこう。しかし、わざわざ説明しなくても、ペテルブルクやバクーに適用されたのと同じ人為的選抜とサークル的情実の方法がモスクワでもエカテリノスラフでもサラトフでもカザンでも維持されていることは明らかである。
形式的な意味で最も非難の余地がないのはキエフ選出の代議員団である。しかし、昨年初めごろ、キエフの組織(下部ではメンシェヴィキが多数であった)が、どのような分派的協議会にも断固としてかつ一致して反対の声を上げ、その後、キエフ委員会(すなわち、キエフ組織の上層部!)がレーニン派の手中に落ちたということを念頭に置くならば、同組織の下部構成員が、分派的会議を全党協議会であると思い違いをしたのだという結論に至るにちがいない。
さらに協議会に出席していたのは、「通報」の言うところでは、「ある非常に重要な合法的社会民主主義グループからの2人の同志」である。だが、「通報」は、遺憾なことに、この2人の同志たちが自分自身以外の何ものも代表していないことをつけ加え忘れている。「非常に重要な合法的社会民主主義グループ」に関して言えば、このグループはレーニン派の協議会への参加を拒否した。
前述したことに加えてさらに、きちんと確立されずっと以前から活動しているオレンブルク、セヴァストーポリ、クラスノヤルスクの党組織、ドネツ河流域の党グループはそもそも代表者を出していない。「スピルカ」は招待されていない。オデッサ、ハリコフ、ツァリーツィン、チェルニゴフの社会民主党分子は参加していない。これらの社会民主党分子は、少なくとも、ヴィルナやドヴィンスクにおけるレーニン派の無名の諸組織と同じ程度には活動を展開しているというのに、である。
最後に、レーニン派の協議会に代表されていない組織として、ブント、ラトビア社会民主党、ポーランド社会民主党、カフカース社会民主党がある。これらの組織は、合計で6〜7000人をけっして下らない数のメンバーを擁している。14人の代議員がみな、「ロシア組織委員会」が要件としている平均30名以上の党組織を本当に代表していると仮定しても、レーニン派の協議会は全体として、せいぜいのところ400人程度の労働者を代表しているにすぎない。このことを念頭に置くならば、「ロシアの社会民主党の各活動分野において多少なりとも重要で影響力を持っているすべての組織」はレーニン派の協議会には出席しなかったということが、議論の余地なく明らかとなるであろう。
以上のことからすれば、この協議会の諸決定にいったいどのような価値があるというのか? レーニン派協議会の決議は、ある者を除名し、第2の者を除名で脅し、第3の者を解任している。しかし、誰も、除名されたとも、解任されたとも感じていない。党の世論はより健全かつ自立的になっている。党に対するサークル的強襲によっては、党を指導することなどできはしない。
さらに。われわれは、レーニン派協議会の決議が、ロシアにおけるレーニン派自身の活動にさえ多少なりとも重要な影響を及ぼすことはできないだろうと確信している。党の真面目な活動家は誰1人として、自分の力をまったく絶望的な分派的事業に費やすことを望まないだろう。
したがって、他の潮流やグループがロシアの各地において、レーニン派協議会の決議に答えて、レーニン派に対し、あたかも他党のメンバーに対するかのごとく態度をとったならば、それは最も重大な誤りであろう。大急ぎで準備されたレーニン派協議会は新党の出発点ではなく、古い分派主義の最後の痙攣である。われわれの党は以前と同様一つである。組織委員会も地方組織も――全党協議会の準備の過程で――、レーニン派の労働者を含むすべての自覚的労働者に対して、次のことを示さなければならない。すべての潮流の前にある課題は、新しい線引きでもなければ、新しい分派的陰謀でも、舞台裏でのサークル的取り引きでもなく、社会民主党の全勢力の誠実かつ公然たる結集にあることを。
ウィーン『プラウダ』第24号
1912年3月14日
『トロツキー研究』第37号より
訳注
(1)『ズヴェズダー』……ボリシェヴィキの合法機関紙。1910年から1912年までペテルブルクで発行。
(2)フペリョート派……ボリシェヴィキの中の極左派で、ボグダーノフ、ルナチャルスキー、アレクシンスキーなどの召還主義者、最後通牒主義者、建神派などを結集していた。
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