【解説】この論文は、1900年代後半から1910年代初頭にかけての、1905年革命の敗北→恐慌→好況→プロレタリア運動の再生、という一連の流れを総括したものである。トロツキーが予想した通り、好況への転換とともにプロレタリアートの労働運動および革命運動の再生が起こった。その徴候をなしていたのは学生運動である。しかし、学生の運動はただちに労働運動へと結びついた。ついで翌年のレナ河金鉱における労働者虐殺事件を契機に、再びロシア全土にストライキや街頭闘争が巻き起こった。しかし、この流れは、1914年に勃発した第1次世界大戦によって中断される。だが、戦争は、新しい高揚の流れを一時的に中断しただけであって、それを阻止することはできなかった。戦争の泥沼化と、経済の崩壊とともに、革命運動は戦争以前よりもはるかに強力に復活し、こうして1917年の2月革命へとつながっていくのである。
Л.Троцкий, Положение в стране и наши задачи, Правда, No.18/19, 29 Январь1911.
Translated by Trotsky Institute of Japan
ストルイピンとその国会の法律よりも何倍も強力な法が存在する。歴史の法がそれだ。
警察的反動はすでに、その目的の達成にほぼ近づいたかのように見えた。いっさいが光を失い、抑えこまれ、ふみにじられ、アレクサンドル3世のいまいましい時代がわが国に復活したかのように思えた。だが、国中をおおう死の静けさに隠れて息づいていた生の営みが――目に見えないところで――復興の仕事を遂行していた。最も重い傷が癒えた。パニックの時期は過ぎ去った。革命の経験は意識の中に沈澱した。新しい世代が台頭し成熟した。そして、荒廃し蹂躙された国の中で、自分にできぬものは何もないと完全に確信した勝利者が、トルストイの名前と思い出をあざわらい、非武装で囚われの身の敵を獄中で拷問にかけ、人民の魂にとって崇高で神聖ないっさいのものに唾を吐きかけていたとき、彼らの頭上には、最初の――まだ遠くて弱々しいが、不安をかきたてる――春の雷鳴がとどろきはじめていた。それはいったい何の前触れなのだろうか。
学生層
現在における新しい気分の最もはっきりとした現われは、議論の余地なく、学生運動である。トルストイを弔う壮大な告別式、囚人の拷問に対する抗議集会、街頭デモ、警察との衝突、これは革命前の数年間を彷彿とさせる。学生層におけるこのような断固たる姿勢はいったいどこからきたのか?
疑いもなく、その源泉は、学生自身のうちに見いだすことはできない。彼らは何といっても、独立した政治的役割を果たすには、あまりにも少数で脆弱な社会集団である。もし彼らの周囲に、以前と同様、受動性と卑屈さとが支配していたならば、学生たちはあえて街頭に繰りだしはしなかっただろう。しかし、学生層というのは、その本質からして、都市の民主主義派における気分の変化をすばやく感じとり、それをただちに表現する能力に最もたけている。学生運動の先頭に先導者・指導者として立っているのは、たいてい社会民主主義派であり、時にはエスエル派であり、両グループは、無党派の「左派」とともに、学生のかなりの部分を包含している※。
※原注 学生の50%以上が答えたペテルブルク高等専門学校[現在の工科大学]でのアンケートは、この点に関し次のような数字を示している。全回答者の25%が社会民主党支持、12%が社会革命党支持、10%が無党派の左派であり、オクチャブリスト支持が2%、右派は1%であった。
しかし、社会民主主義派の学生たちは、その政治的エネルギーを何よりも社会民主主義派の世論から直接受けとっており、この社会民主主義的世論は全体として労働者階級の先進層の気分を反映している。他方、学生の一般大衆部分は(ごく少数の反動的・保守的分子をのぞいて)、再び学生内部の左派に歩調を合わせるようになっているとはいえ、その結びつきや生活様式、そして部分的にはその社会的出自のせいで、インテリゲンツィア的民主主義派――その政治的特徴を一言で言うなら「左寄りのカデット」――の気分を表現している。このインテリゲンツィア左翼は、停滞の時期(下降期)には、無意識のうちにカデットの背後に隠れ、政治的高揚期にはその希望を革命にたくすようになる。注目に値するのは、カデット派の学生でさえ――ペテルブルクからわれわれが書いたように――、カデット中央の指令に背いて、革命運動に活発に参加したことである。モスクワの学生組織の執行委員会が発したアピールは、カデットの穏健派・調停派に軽蔑の烙印を捺し、革命と民主主義の旗に結集するよう学生に呼びかけた。
しかし、以上のようなことは、大学の外にいるインテリゲンツィアの広範な層の意識の中で転換が生じ、カデット的幻想が打ち砕かれ、革命の高波への希望が沸き起こっていたからこそであって、そういうことがなければ不可能であったろう。だが、革命の希望とは――これらのインテリゲンツィアが1905年の経験から学ばないわけにはいかなかったように!――何よりもプロレタリアートへの希望を意味する。したがって、われわれは次のように言うことができるだろう。現在起こっている学生デモの波は、労働者大衆の新しい政治的高揚の反映であり、それ以上に、その前触れなのだ、ということである。労働者大衆の政治的高揚が実際に起こるならば、その時には、民主主義派の学生は、大きな波の一滴としてそこに飲み込まれるだろう。もし高揚が起こらないとしたら、その時には現在の学生デモは一瞬のエピソードにとどまり、長期にわたる意義を持つことはないだろう。
この点に関して、どのような展望を描くことができるだろうか?
「経済」と「政治」
約1年半前、われわれは『プラウダ』紙上※で、プロレタリアートの新しい革命的波が可能となるのはわが国における新しい商工業好況の結果としてのみだということを示そうと試みた。問題は、ストルイピンのロシアで経済的好況は可能か、であった。われわれは答えた。可能であり、不可避である、と!
※原注 第7号、1909年11月号掲載の「来るべき産業好況」を参照せよ。
自由主義派の新聞は、わが国経済の暗澹たるさまについて、生産力のたえまない解体について十年一日のごとく繰り返していたが、それには二つの理由があった。まず第1に、彼らは、その職務上、「物事の悪い面」に対するブルジョア社会の不満を表現していたからであり、第2に、その精神に忠実に、全般的な崩壊の展望によって官僚を「怯えさせ」、そうすることで自由主義的譲歩に駆り立てようとしたのである。実際には、彼ら自身、自分の言ったことを信じてはいなかった。
農村共同体の崩壊によって自信を喪失し、わが国の経済発展が自らの偏見を完全に葬ってしまうのではないかと心底怯えていたナロードニキの思想家たちは、今度は、自由主義に追随して、「大真面目」に、国の経済発展に死を宣告しようとした。
社会民主党はこのような観点に立つことはできなかったし、今もできない。その希望のいっさいは、経済的進歩と生産力の発展にもとづいている。1905年革命が敗北をこうむったのは、あれこれの戦術上の「誤り」のせいではなく、革命的力の不足、すなわち何よりも、プロレタリアートの力の不足の結果であった。しかし、プロレタリアートの力は、その数の増大と生産におけるその重要性の高まりとともに、すなわち、わが国における資本主義の発展とともに成長する。こうした条件のもとで、ストルイピンのロシアでの産業好況の可能性を否定することは、現在の階級的力関係を永続的なものと考えることであり、まさに、今後何らかの本格的な革命的成果を獲得する可能性を排除することを意味する。なぜなら、ロシア革命が――このことをしっかりと覚えておいてほしい、労働者諸君!――新しい確固たる前進をとげることができるのは、組織だったますます拡大し深化するプロレタリアートの階級闘争にもとづく場合のみであって、飢えた失業者と農村の貧民による自然発生的激発にもとづくのではないからである。
しかしそれにしても、6月3日体制と11月9日の法律のもとで、生産力の今後の発展の可能性が完全に排除されているという思想はいったい何にもとづいているのだろうか? 自由主義派の皮相さ、ナロードニキの当惑、理論的勘違いにである。
言うまでもなく、革命そのものが、旧体制が生産力を発展させたことから生じた。そして、もし革命が勝利していたなら、農村を寄生地主から解放し、土地を自由な農民と自営農に分配していたとしたら、国庫をむさぼり食うツァーリの官僚制と財政上の放蕩に代わって、政治的民主主義を確立していたとしたら、その時には革命によって拡大された国内市場にもとづいて、経済発展は長足の進歩を遂げ、1億6000万の住民と無尽蔵の天然資源を有しているロシアはごく短期間のうちに西ヨーロッパと北アメリカに追いついただろう。
しかし、現在のロシアの状況では、現在の狭隘な国内市場にもとづいては、このような発展はもちろん不可能である。しかし、だからといって、こうした条件下ではいかなる発展も不可能であり、ロシアはただ経済的腐敗と、したがってまた政治的瓦解を待つばかりであるという結論になるだろうか? もしそのように答える者がいるとすれば、六月三日体制の権力に目を奪われて、別のもっと大きな力を見失っていることを示している。その力とは世界的規模における資本主義の発展である。いかなる反革命といえども、次の事実は変えたくても変えようがない。すなわち、ロシアは世界資本主義という全体の不可分の一部であり、その法則に支配され、それと軌を一にして、恐慌と好況の交替を通じて進行していかざるをえないという事実である。
昨年の9月、われわれは世界市場の上昇傾向について特徴づけつつ(参照、『プラウダ』第16号(1)の「好況に向かって」)、次のように書いた。「産業好況は政治的高揚の始まりを告げるものでしかない。われわれは確信を持って、そのどちらをも迎えるだろう!」。われわれは間違っていなかった。1910年が全体として活況に向けての転換の年であったということ、このことは今や誰もが認めている。それとともに、完全な確信を持って言うことができるのは、都市の民主主義派の間で見られる政治的自信の高まりが、経済的活況の間接的な反映であり、それは何よりもストライキの波の高まりに示されている、ということである。
しかし、次のように反論する者もいるかもしれない。すなわち、昨年の生産高や輸出入の数字は、経済的景気の好転を示しているかもしれないが、それと同時に、この景気好転はまだ相対的に取るに足りないものであり、生産のすべての部門をおおい尽くしているとはとうてい言えないものである、と。これはまったくその通りである。しかし、このことからいかなる結論が出てくるか? 西ヨーロッパに目を向けるならば、そこでもまったく同じ現象が見いだせるだろう。ドイツでも、イギリスでも、ベルギーでも、オーストリアでも、1910年は疑いもなく、1907〜1909年における恐慌後における好景気への転換の年であった。しかし、ここでも、工業のすべての部門がマヒ状態から脱出するというにはほど遠い状況にあった。アメリカ合衆国でなおほとんど力が衰えるおとなく猛威をふるっている恐慌は、ヨーロッパにおける貸出金利を引き上げ、イギリス市場をアメリカ商品の氾濫でもっておびやかし、こうしてヨーロッパにおける商工業の投資意欲をマヒさせている。しかし、それでもすでに、ヨーロッパが恐慌の結果を克服することに成功しつつあること、そしてその後をアメリカも追うだろうということ、このことを疑うものは誰もいない。ロシアにとってこのことは、一方では、農産物に対するヨーロッパからの需要が増大し、穀物、植物油、鳥肉、卵の価格が上がることを意味する。すなわち、農業に新しい資金が流入し、その集約化と生産改良が行なわれることを意味する。他方では、ヨーロッパの新しい資本がロシアの工業に流入することを意味する。この2つの過程は現在すでに起きており、工業の活況にとって重要な二つの要因であるが、近い将来においてますます急速なテンポで展開されるだろう。
そして、その過程が広く深くロシアの経済活動をとらえればとらえるほど、それがプロレタリアートにもたらす結果もますます重要なものとなるだろう。
ストライキ闘争と政治的関心
しかし、経済闘争は、労働者大衆の注意と力を政治的な関心や課題から逸らすことになるのではないか、と多くの者は尋ねる。このような仮定は根本的に誤っている。産業好況の影響は、いつでもどこでも同一であるわけではない。もしこの2〜3年間が、政治的な行動と衝突が激しく展開された時期だったなら、経済的繁栄は一時的に政治的能動性を低め、階級的エネルギーを労働組合運動の軌道に逸らすことになっただろう。しかし、実際の状況はそれとは正反対であった。この3年間は、おそるべき失業による打撃と、とどまるところを知らぬ反動の打撃を同時に受けて、深刻な階級的衰退と組織的・思想的解体の時期、プロレタリアートの最も成熟した上層においてさえ政治的関心のはなはだしい後退が生じた時期であった。このような状況のもとでは、経済的好況がむしろ政治的領域においてもその最初の一歩からプラスの影響を与えるにちがいないと確信をもって言うことができる。
現代のロシアにおいて、政治はあまりにも強力かつ否応なく、労働者の置かれている諸条件と結びついている。プロレタリア大衆は、社会が静止状態にあるかぎり、自分たちがストルイピン国家という石牢に閉じこめられていることに気づくことができない。しかし、純粋に経済的な分野であっても、世の中が動きはじめるやいなや、プロレタリア大衆は3月4日の法律(2)や、警察の活動や、国会の立法活動と、つまりは、勝利した反革命のすべての政治と、真っ向から衝突しはじめる。つまり言いかえれば、経済的活況は、それと平行して、プロレタリアートの政治的能動性の高まりをともなうのである。この数ヵ月間の経験は、こうした見方の正しさをこの上なくよく確証している。
「革命前夜」?
だがもしそうだとすれば、すなわち、経済的好況の時期にわれわれが実際に行動にうって出れるのだとしたら、そして、この好況が大衆の政治的エネルギーを復活させるのだとしたら、その場合には、学生運動の波は、われわれが新しい革命的嵐の前夜にいるということを意味するのであろうか? 今後2〜3年のうちに大衆が再びゼネストや蜂起の道に決起すると期待するべきなのだろうか?
いや、われわれはそうは思わない。革命にとって、産業好況は有利な時期ではない。もちろん、今日明日にでもヨーロッパ戦争が勃発し、それにツァーリズムが巻き込まれるとすれば、あるいは、ドイツでプロレタリア革命が勃発するならば、その時には、ヨーロッパの旋風がその水路を通ってわれわれのところにも押し寄せるだろう。だが、このような国際的展望を分析に取り入れたとしても――そしてヨーロッパ戦争やドイツ革命は、ロシアにおける第2革命に負けず劣らず、現実的な可能性を有している――、ヨーロッパが入りつつある産業好況の時代は、ある程度まで、革命のみならず戦争の可能性をも遠ざけるものである、と言わなければならない。
しかし、この点に関して状況がどうであれ、当面するわれわれの課題を定めるうえで、はるかに大きな重要性を有しているのは、経済好況が国内の政治的諸関係に対してどのような影響を及ぼしうるかを明らかにすることである。そして、この点に関して、ほとんど完全なまでの確信をもって予見することができるのは、一方では、好況が一時的に敵の立場を強化するということ、他方では、多少なりとも長期にわたるだろうが、プロレタリアートにおける政治的能動性がしだいに高まっていくということである。そして、どちらの現象からしても、当面する中間期における革命的決戦はほとんどありえないであろう。
好況と6月3日体制
まず何よりも産業好況は反革命ブロックを強化する。このことに目を閉じてはならない。官僚、地主、資本家は、人民に対する憎悪と反革命的犯罪の点で手を結んでいるが、同時に、その階級的貪欲さからくる闘争ゆえに分裂している。これら3人の仲間たちは同じ穴のむじなであるが、いずれも嫉妬深い目でお互いを見ており、そして、民族の穴蔵の底が見える恐慌時には、どんなわずかな肉片でも手に入れようと互いに牙を突き立てることもいとわない。資本家たちは、貴族の紳士諸君が不実にもわれわれ資本家のスネをかじっていると、自分たちの会議や新聞において執拗に不平を訴えている。たとえば、オクチャブリスト
[大ブルジョアーと大地主の連合政党]は、貴族高官だけで構成されている参議院(3)に、心からの――ただし、低くこもった声で――反対を唱えている。オクチャブリストは――口に出すのも恐ろしいが!――自らの議会代表者を形成することも辞さないと脅しさえしている。しかし、本格的な産業好況がはじまると、6月3日体制の中の軋轢はたちまち弱まりはじめた。ココヴツェフ[当時の蔵相]は立派な予算を手に入れ、地主は高い穀物価格と土地価格を手に入れ、資本家は高い商工業利潤を手に入れる。これらの仲間たちは、「いかなる衝突も騒動もいらない! 対外政策上のいかなる冒険もいらない! 時機を逃すな! たっぷり肥え太ろう!」というスローガンのもと、お互いをしっかりと支えあっているのである。それだけではない。現在、カデットはその機関紙の中で、オクチャブリストの全面的な破産を盛んに言いたて、次の第四国会選挙においてオクチャブリストの議席を全部奪取するつもりだと息巻いている。オクチャブリスト自身も、陰気そうに、自分たちの不人気ぶりを嘆いている。しかり、彼らは言うまでもなく不人気である。オクチャブリスト的「改革」のみじめな試みは、参議院の抵抗によって完全に水泡に帰した。その帝国主義的計画は、かん高い国際的侮蔑を受けとっただけで終わった。グチコフ
[オクチャブリストの指導者]の「国家防衛委員会」は、祖国を救済するはずが、主計部・砲兵・水兵その他の盗人たちの演じる喜劇団体に成りはた。完全な破綻だ! そして、選挙が1年前に行なわれたとしたら、あるいは今行なわれたとしても、オクチャブリストは手痛い打撃をこうむっただろう。しかし、次の選挙はまだ1年半も先である。そしてこの間に、ブルジョア選挙人たちが脂肪をつけることに成功し、さらに肥え太る期待を持つことになれば、彼らは、「不毛な」反対へのあらゆる関心を失い、政治的にうまく立ち回ろうとするだろう。たとえば、自分たちの議員を通じて、利権や補助金や政府の発注や調達を獲得したり、技師や工場管理者や弁護士のための身入りのいい職を入手することなどがそれである。そしてこの種の恩恵を獲得する能力に関しては、オクチャブリストはカデットよりも一枚も二枚も上手なのである。したがって、ミリュコーフ[カデットの党首]の期待は好況によって大ダメージを受けるだろう。このことは、間違いなく予言することができる。つまり一言で言うと、6月3日ブロックは、もうけの増大という摩訶不思議な力によって一時的に強化されるだけでなく、新しい分子をこのブロックに引き寄せることになるだろう。以上が、好況が有産階級に及ぼす全般的な影響である。
経済好況とプロレタリアート
他方では、われわれがすでに見たように、経済好況が労働者を政治から引き離すというのが根拠のないことだとすれば、好況がただちに労働者を革命の道に引きだすというのも同じく根拠がない。革命的伝統をそなえたプロレタリアートの上層は今や、この10年間における貴重な政治的経験を有している。経験は、方向性を定めるすべを教え、慎重に行動することを教え、中枢部分を強化した。先進的労働者が革命的闘争の道に決起するのは、重厚なプロレタリア予備軍が自分たちの後にしたがうと心底確信を持てる場合のみである。このようなことは一撃で達成することはできない。
1905年以降の5年間というもの、革命の洗礼をほとんど受けていない新しい労働者世代が台頭してきた。より温厚な女性労働者が巨大な規模で採用された。今年の始めにはすでに、中心的な大工業都市一つだけで、女性労働者の数は54万5000人を越えた。繊維工場やたばこ工場、砂糖工場、れんが工場、さらにはセメント工場でさえ、系統的に男性労働は女性労働へと置き代えられている。工場プロレタリアートにおける女性の比率はすでに30%を越えている。数十万、数百万の脱農民化した農民が、革命後に自分の農村から離れていった。経済好況――一時的なものではなく、本格的なそれ――だけが、これらの巨大で種々雑多な人間群を、革命的階級としての自覚を持って行動する同質的な大衆に変える。好況は、失業のいまいましい鞭を弱める。プロレタリア新兵の巨大なカードルは拡大する工業の中にとらえられ、工場の釜の中で煮たてられる。生活必需品の価格はますます高くなるが(巨大な重要性をもった事実だ!)、これは、商工業の活況という状況のもとでは、労働者大衆を激しい経済闘争へと駆りたてる。すでに現在、ストライキの波は最も後進的な労働者をもとらえ、女性労働者もストライキに「精力的に参加」している。以上の諸事実は、労働者階級にとって、結束が固まり、元気が回復し、自信が高まり、連帯が強化する、そういう時代がやってきたことを物語っている。それは、階級的教育と組織建設の時代であり、勢力を結集する時代である。
好況が本格的で長期にわたるものになればなるほど、この壮大な教育活動もますます積極的で根本的なものになるだろう。しかし、それだけますます、公然たる革命的衝突の時期を先に延ばすことになるだろう。
資本主義的繁栄の時期の後に訪れる新しい経済恐慌だけが、新しい革命的状況をつくりだせる。それは、10倍する力で、反革命体制のすべての内部矛盾を明るみにだし、支配階級内部における一時的弱体化した対立を激化させるだろう。そして、好況の数年間に成長し強化されたプロレタリアートが彼らと対決することになるだろう。
第4国会の選挙
建設と勢力結集というこの時期において党がどのような課題に直面しているか、このことついては、「次は何か」というビラ(『プラウダ』第17号の付録)で詳しく述べておいた。この活動の一つのクライマックスとなるのは第4国会の選挙であろうし、そうならなければならない。
われわれにとって、選挙とは何よりも、国のすべての自覚的労働者および、社会民主党を自らの利害と希望の表現者とみなすすべての民主主義分子を、政治的に動員するまたとない機会である。われわれの選挙闘争は、できもしない約束を振りまくことでもなければ、委任状を無原則的にかき集めることでもなく、包括的で全面的な社会主義的扇動を展開し、現存体制を容赦なく暴きたて、社会と日常生活におけるそのあらゆる現われを暴露し、その体制を直接ないし間接的に支えているすべての政党を告発することである。プロレタリアートと民主主義派を前にして、われわれは政府と第3国会の反革命的所業を総括する。第3国会において、有産階級の諸政党は、「立法活動」というエプロンをつけ、そでをまくったその真の姿を、すなわち、祭日用でもなければ、仮面をつけた姿でもないその本当の姿を、すでに十二分に暴露した。われわれの党組織は、地元の都市や県での演説や代議員投票において、その地域の民主主義派の選挙人の前でブルジョア政党の本性を明らかにし暴露しなければならない。そして、勤労大衆の利害が問題となったあらゆる機会において、党が収奪者や抑圧者に反対して、弱い立場の者、無権利状態の者、抑圧された人々の利益を擁護してきたこと、そして、社会民主党の国会議員団がその闘いの先頭に立ち、多くの場合、敵の密集部隊に抗して一致団結してそうしてきたことを、選挙人に対して示さなければならない。
選挙カンパニアを、反革命の死刑執行人・協力者・弁護人に対する政治的裁判に転化しなければならない。可能なところではどこでも、自分たちの党候補者――代表委員、選挙人、代議員のそれぞれの候補者(4)――を前面に押し立て、その候補者の周囲に、「有資格の」選挙人のみならず、無資格の労働者大衆(5)をも、平等・直接・秘密の普通選挙権というスローガンのもとに結集しなければならない。このような道を通じてのみ、われわれは、自らのバックに、しかるべき議員団を確保することができ、そしてその議員団のバックに、プロレタリア大衆の真面目な支持を確保することができるのである。
このような活動は、英雄的な一撃だけで遂行できるものではない。日々その準備をしていなければならない。すなわち、政治的アジテーションの範囲を拡大すること、その内容を深めること、それに統一性を持たせること、党細胞を整備すること、地方組織を建設すること、である。
しかし、選挙は、地方的な事業ではなく、全国的な事業である。全党的な機構の再建に全力を傾けなければならない。それに向けた一つの道は、昨年開かれた、わが党中央委員会の合同会議において指し示された。それは、党協議会を召集することである。真剣に準備された協議会はばらばらの諸部分を統一し、党のさまざまな思想潮流に共通の行動綱領を定式化し、選挙運動のスローガンを作成し、われわれの組織機構を強化するだろう。われわれは第4国会選挙を延期することはできない。それはわれわれにゆっくりと近づいてきて、わが党を本格的な政治的試練にかける。それゆえ、協議会を準備する仕事をずるずる先延ばしにすることはできないのである。ただちに、しかもあらゆる側面からいっせいに、仕事にとりかからなければならない。
ウィーン『プラウダ』第18/19号
1911年1月29日(新暦2月11日)
『トロツキー研究』第29号より
訳注
(1)『プラウダ』のテキストでは第17号になっていたが、『著作集』第4巻『政治的年代録』によって修正。
(2)3月4日の法律……1906年に布告された法律で、労働組合をはじめとする諸団体を警察の監督下に置くことを定めた。
(3)参議院……選挙で選ばれるドゥーマ(国会)と違い、世襲貴族によって構成される。明治政府下の貴族院のようなもの。
(4)当時のロシアの選挙制度は多段階の不平等選挙だった。有権者が直接、議員を選ぶのではなく、まず選挙人を選び、その選挙人が議員を選ぶ仕組みになっていた。
(5)当時のロシアの選挙制度は、厳しい制限選挙だったので、多くの一般労働者は選挙権を持たなかった。
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